第一章
肺がんで死にかけている団塊元東大全共闘頑固親父を
団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!
「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」
第1章
−収録・2008年7月19.20日、箱根千石原温泉みたけ旅館にて−
<息子 とにかく死ぬ前にしゃべっとけ>
息子 なぜこの対談が始まることになったか?それを最初に言っておくと、親父が肺がんで死にかけているからです。
親父 でまあ、「肺癌で死にかけている団塊・元東大全共闘頑固親父を、団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!」という、題名のまんまの親子対談をやろうということになった。
息子 ほんとは10年後ぐらいに聞けばいいかなと思っていたけど、どうも親父が早いこと死にそうなんで、今急いで聞いとここうというわけ。
そこで、俺が今親父に聞いておきたいことを整理すると、今まあ世界は金融危機で目茶苦茶になっている。世界のトップを走っていたアメリカがサブプライム金融危機でぶっ倒れた。今まで、俺が信じて勉強して実行してきたアメリカ的な企業経営の価値感というものがあったんだよ。例えば、市場価格で洗い替えをする保守的なバランスシートとか、それに基づいた様々な財務指標を活用するような積極的な経営、金融工学やヘッジ等の技術ということなんだけど、それがここにきて思いっきりぶっ倒れましたと。
親父 あっ、ぶっ倒れたという実感はあるわけ?
息子 大いにあるよ。まず、アメリカ経済がサブプライム不動産バブル崩壊を発端とする金融危機でぶっ倒れたという実感があって、それをヘッジするシステムとしてCDS等の金融商品があったわけだけど、AIGとかエンロンのように倒産保険の発行体そのものがこけたら全くヘッジが機能しないということが露呈した。その後はおきまりのように急激な信用収縮、そしてサブプライムローンよりプライムローンの方が破綻件数も金額も大きくなってきて、サブプライム危機という呼び方が怪しくなってきた。その結果として輸出ががた落ちして、日本経済はめちゃくちゃになった。ずっと低金利続けてきた日銀もこの危機の一端を担いだ感はあったけど、めちゃくちゃになったなり方も、アメリカよりもひどい。政治も経済も目茶苦茶な中で、なんでこんなに日本人は大人しいんだろう、なぜ誰も暴動を起こそうとしないのか。そういうことをずっと思っていたんだけど、ちょっと待てよと。1960年代に戻れば、よく暴れた人たちがたくさんいたわけだよね。自分のすぐそばにも、親父という男がいて、こいつもどうやらずいぶん暴れたらしい。だから、その時の話が聞きたいと。
親父 もう少しプライベートに引き寄せて今の話を言うと、親父が癌じゃないかと医者から言われたのが、2008年の5月末で、癌研有明病院に送られたのが6月。その2週間後に肺のCTを撮られて、医者が見せてくれた。で、それを見たときに、あっこれはアウトだろうなと思ったんだよね。本当に黒々とでかい影が写っていて、たぶん直径8センチぐらい。医者の口ぶりでも、肺癌で末期ぎりぎりの際どいところだろうと。3期か4期だという話になって、検査していったところ、7月の10日に、肺癌が頭がい骨に転移していて、もう手術はできないといわれたんだよね。要するに末期癌っていうことで、余命はまあせいぜい1年程度、かつ5年後生存率ほぼゼロっていうような診断で、まあ打ちのめされたわけです。そういう状況のもとで、息子から、「おやじ死ぬんだろう、だったら、その前にしゃべっておけ」という話になって、この親子対談の企画が始まったと。
息子 そう、そういうこと。というわけでこの対談は今年中に日の目を見ないと、親父本人が読めない可能性があるということだね。で、今手元に「安田講堂」って本があるんだけど、この本の著者も、この時のことを語るのは、タブーとされているような感じのことを言っていたけど、もういいんじゃないか、40年も前のことで時効だし、相手は息子なんだし。
親父 60年代後半のこと、三派全学連とか、東大全共闘とか、東大全共闘の中の駒場共闘会議についていえば、まあ親父はその中心に近いところにいたんで、いつかは書き残す必要があるとは思っていたよ。その締め切りが、いきなり人生の締め切りって形で、突然に告げられてしまったわけだよ。で、締め切りに迫られるということになって、息子の質問に答えて、今の時点で覚えていることと考えていることを、精一杯しゃべろうというわけです。ちなみに、肺がん手術の予定は8月半ばです。
現在ただいま2008年7月19日、於ける箱根千石原温泉みたけ旅館ということで、対談を始めますと。
息子 チャイムが鳴って、いいね。ちょうど午後5時だ。
親父 というのが、この親子対談の前書き部分だね。
息子 まあいろんなところに話が広がると思うけど、フォーカスは親父の1960年代実体験に帰るということで始めましょう。
親父 ではまあ、どうぞ質問してください。なんでも答えます。
<親父、裁判に10年以上費やす>
息子 お袋からちらっと聞いたことがあるんだけど、親父が海外に行こうとしてもパスポートが出なくて苦労したんだって。それなんか人権問題じゃないかと思うんだけど、人権を守る立場の警察がそういうことをするなんて、理不尽でしょう。
親父 いやいや、日本の警察っていうのはちゃんと法律に基づいてしか動かないから。理不尽なことをしたわけじゃないよ。まず質問から答えると、親父が最初にアメリカに行こうということになったときが確か1979年だよ。
息子 俺はまだ5歳か。
親父 そうだね。仕事でアメリカへ行くことになったんだけど、窓口で申請してもなぜかパスポートが下りないなんだよ。後から発見したんだけど、下りない理由は簡単で、当時まだ、親父が学生運動やっていた時代に起訴された事件の裁判が続いていたんだよ。裁判をやっているっていうことは、身体は娑婆にはいるんだけど、法律的には保釈状態、刑事被告人状態だということなのね。そういう状況の下で出国することは逃亡の恐れがあるっていうことになるから、素直にパスポートを出すわけにはいかない。裁判所の許可がないとパスポートが下りない。で、その許可を取るために、上申書とかさ、その仕事関係の人の身元保障書とかが必要だったんだよ。あまり詳しくは覚えていないけどね。だから別に警察が恣意的に嫌がらせをしたわけじゃなくて、被告人だったから、パスポートがなかなか下りない。下りたパスポートも、マルチプルの5年じゃなくて、ワンタイムの一時パスポートしか下りなかったんだよね。パスポート取るのにはけっこう苦労したんだ。
まず、東京都の発券窓口に行っても、なぜパスポートが下りないかっていうことをはっきり説明してくれない。「とにかくだめだ」っていうだけなんだよね。押し問答をしているうちに、ああそうか継続中の裁判のせいだってやっと判明したんだよ。
息子 だめっていう理由を教えてくれないの。あなたは係争中ですからとかさ。
親父 最終的にその理由は教えてはくれたんだけど、相手はお役人だからね。「裁判に掛かっているから、刑事裁判の被告だからだめ」ってことは教えてくれるんだけど、じゃあどうすればそこをクリアできるんだっていうことを、教えるほど役人は親切じゃないから。
息子 ああ、お役所だから、だめだからだめって言うだけで。
親父 役所だからね。でまあいろんなところに相談に行ったりして、「ああそうか、そういう手続きを踏まなきゃいけないんだ」っていうことを理解して、上申書などの手続きを踏んで、やっとパスポートが降りたということ。
息子 じゃあ行けることになったんだ、最終的には。
親父 そう。だからその一次パスポートを使って取材したのが、日米自動車問題で。ちょうどクライスラーがほとんど潰れかけて、連邦政府が政府資金で救済したときだった。
息子 そうだったの。アメリカのビッグスリーが没落サイクルに入った最初の出来事だったね。
親父 だから、パスポートについては、警察に恣意的にいじめられたということではなかったね。だけど、何か事件があるたびに家に来ていたよ。1970年代の10年間ぐらいは。たとえば、連合赤軍事件とか、アラブ赤軍のハイジャック事件とか、そういう公安関係の大事件が起きると、警察官がチェックに来るわけだよ。動静観察というのかな、「お前ちゃんと家でおとなしくしているんだろうな」ってことで。
息子 保釈期間中だっていうことで?
親父 保釈期間中っていうことだけじゃなくて、元過激派だったからっていうことで定期的に観察報告をしていたということじゃないかな。なんか警察官が家に訪ねて来て、あんたのお母さんから話を聞いて帰っていったってことが何回かあったようだね。それで、自宅の玄関先ではなんだからといって、近くの公園で話をしたというようなことがあったらしいよ。
息子 あ、そうなんだ。フォローアップなんだ。
親父 そう、フォローアップ。日本の警察機構っていうのは、法律と内規に基づいて、非常にきちっと動いているでしょう、警察としては、極論を言えば死ぬまでリストからはずさないんじゃないの。
息子 でもまあ最近はもう海外旅行はオッケーになっているんだ。もう時効になっていると。
親父 時効じゃなくて、もう裁判終わって被告人じゃなくなったから。で、そこで、何の裁判だったのかを聞いてよ。
<親父、佐世保エンプラ事件で逮捕・起訴される>
息子 ああそれだ。基本的な質問ね。で、何の裁判だったんだっけ。なんか、アメリカの空母の話だったかな。
親父 そう、それだよ。1968年の1月、ベトナム戦争たけなわの時代だよ、アメリカの太平洋艦隊の原子力空母エンタープライズがベトナムへ派遣される途中で佐世保港に初めて寄港するということになったわけだよ。ベトナムへ向かう原子力空母が日本に寄港するということは、日本がベトナム戦争に明白に協力するわけだから、寄港に対する反対運動が盛り上がったわけ。当時エンプラ寄港阻止闘争と称していたね。で、親父は東京から佐世保まで反対デモに行って、それで1月の19日だったかな、寄港反対デモを指揮して、そこで逮捕されたんだよ。
息子 そのデモは東京でやったの?
親父 佐世保。
息子 佐世保まで行ったの。
親父 そう、佐世保まで行ったんだよ。
息子 佐世保というのは、俺の地理感覚が正しければ九州の辺り?
親父 九州、九州の長崎県。東京から九州まで、とにかく鈍行列車を乗り継いで、九州まで行ったんだよ。
息子 すごいね、サッカーのサポーターみたいだね。
親父 サポーターってさぁ。まあいいけど。それで福岡に着いて、一晩泊まったんだ。当時、九州大学は新左翼系学生運動の拠点校だったから、九大の寮か何かに泊まって、そこを拠点に連日佐世保まで通って、反対デモをしたんだよ。で、親父はその第二日目のデモで捕まったわけだね。
息子 何か特別なことをやったの?警官に対して石を投げたとか?ただ単にデモに参加したらって、自動的に全員捕まるわけじゃないでしょう?
親父 デモ指揮という役割があったんだよ。なんていうのかな、当時の警察とデモ隊の間には、一種の黙契みたいなのがあったんだよ。デモの先頭に立って、デモ隊列を指揮する人間をデモ指揮と称していたんだけど。そういう立場の奴は、ほぼ無条件に逮捕されるということになっていたんだね。まあ当時の三派全学連がどのくらいの人数佐世保に行っていたのか、はっきりとは覚えていないけど、多分数千人だったと思うけど、そのデモ隊を指揮したというわけ。
息子 当時、そういうときはデモの届出とか出していたの?
親父 届出は基本的にしていたと思う。無届けデモもあったと思うけど、佐世保の時はしていたと思うよ。
息子 デモ指揮は、どんなことをするわけ?
親父 たとえば10人なら10人でスクラムを横に組んで、それが何十列か縦隊で隊列を組むわけだね。1000人のデモ参加者が居れば、10人×100列になるわけだね。列の1番先頭は、こう竹竿を横に持って10人隊列を組むわけだね。その隊列全体をホィッスルを吹きながら指揮するやつが2人か3人ぐらいいるんだよ。それがデモ指揮者で、まあ逮捕要員なんだよ。
息子 あっそうなの。それは警察との暗黙の了解?
親父 警察と、デモ隊との間の、まあ黙契っていう感じなわけ。
息子 そのデモ指揮者はどうやって選ばれるの?1番こう切られても痛くないやつ?
親父 いやそうじゃなくて、組織の中で、まあ順番に決めるということだね、活動歴だとかに応じて。逮捕されました、「いや怖かったからもう運動やめます」とかいうことになってはまずいから、そういうふうにはならなさそうな奴を選んでいくということかな。
息子 持ち回り制ってことなの?
親父 なんか言い方が違うような気がするけど、まあそういうことだね。佐世保で逮捕される前に俺は2回ぐらい東京のデモで逮捕されていたからね。起訴はされていなかったけど。
息子 ああデモ指揮は何回もできるということなのね、すぐ釈放されるから?
親父 逮捕されても、起訴されないまま釈放されるということが多かったからね。不起訴の場合は2泊3日で釈放されるんだよね。
息子 2泊3日で済むわけね。
親父 佐世保のエンタープライズ寄港のときは、全国的な注目の的になる出来事だったし、デモ自体もかなり激しい衝突を繰り返したり、投石したりしたからね。今度は2泊3日では済まないな、起訴されるなとは思っていたんだけどね。
息子 そういうときの心境って何なのかね。こう団体を背負っていくような感じなのか、なんかヒーロー気取りなのか、まあいやだけどしょうがねえなってことなの?
親父 キミが言った最初の答えが正しいんじゃないか。組織を背負ってっていう感じで、人によるんだろうけど、別にあんまりいやなことでもないしさ。
息子 まあ2泊3日で出てくるんだからね。
親父 いやそれは分からないよ。2泊3日なのか、それがもっと長くなって、23日間止められて起訴されるかっていうのは、基本的には向こう(警察)が決めることなんだから。ただ、まあその辺は境目っていうのは必ずあるんで、今回は俺は起訴されるだろうなあと思いながら、佐世保でデモ指揮をしたというわけ。
息子 それはあまりにも暴動の規模がでかかったから?
親父 というよりも、やっぱり注目度の高さかということかな。そのときの社会的な盛り上がりみたいなことがすごかったから。
息子 すごいんだ。じゃあなんかこう、インターハイの決勝戦に出場したチームのキャプテンみたいな、そんな感じかな?
親父 なんか、サッカーにこだわりすぎだと思うけど。まあ単純な話が、エンプラ寄港問題は1面のトップ記事だったから、当然反対デモも相当のスペースを使って報道されたからね。
息子 あぁ、そういうことか。
親父 もう連日報道されていたからね。
息子 逮捕された全員が実名出るような事件ってこと?
親父 実名は出なかったよ。逮捕されたら黙秘することが原則だったから。そういうことより、全国の目が佐世保に集まっているっていう状況だったから。これはパクられたらまず起訴されるなと思っていたんでね。まあ案の定ずっと留められて起訴された。で、話は飛ぶけど、とにかく、催涙ガスが臭いわけだよ。デモしている最中に催涙ガスを大量に浴びていたから。
息子 それはえーと何だっけ。安田講堂の場合はなんか空からヘリコプターで撒いていたけど、そのときはどうやって?
親父 安田講堂のときはヘリからも撒いたし、地上からも放水した。佐世保でも催涙ガス入りの水をデモ隊に向けて放水した。
息子 おーすごいね。それ浴びるとどんな感じなの。ただ単に涙が出てくるだけ?
親父 まず、勢いが凄いからまともにぶつかると痛い。まともに顔に当たればメガネは確実に吹っ飛ぶよ。その後は、涙が出てとまらない。頭は痛いわ、目が開けられないわと、まあまあそういう状態だよね。だから、留置所に入った最初の夜はろくに寝られなかった。
息子 ガスの効果で?
親父 そう、ガスの効果で。で、当時の地方都市はやっぱり社会が安定していたのかな、留置所がガラガラだったんだよ。諫早署っていう所に連れていかれたんだけど、留置所に俺しかいないんだよ。
息子 ほー。
親父 うん、本当にガラガラなんだよ。警察の留置所に誰もいないっていうことは、やっぱりその地域がよっぽど平和だったんだろうね。今から考えると、学生を入れるために留置人を他の警察に移したのかな。
息子 まあ田舎だからでしょう、たぶん。
親父 そこで2泊3日して、あとはすぐ拘置所に送られたんだよね。
息子 諫早って、街のイメージとしてはどんな感じなの。えーとこの箱根のような田舎の感じなのか
親父 街っていわれても、留置所しか知らないから、街のイメージなんてわからんよ。
息子 外は見えなかったのか。
親父 見えねえ、見えねえ。
息子 あっそうか、催涙ガスが効いてたからね。
親父 いやそういう問題じゃなくて、留置所からは外は見れないからさ。
息子 あっそうか。そうだね。でも1人だったっていうのは貴重だね。
親父 その後拘置所に行って、長崎拘置所佐世保支所っていう所に行ったんだよ。
息子 他の逮捕された人たちも来てたんでしょう?
親父 そうかもしれないけど、独房に入れられているから、誰が来ているかなんて分からないよ。
息子 ああ独房たから、そうだね。
親父 この事件で起訴されたのが、10人ちょっといたんだけどね。留置所でも拘置所でも誰とも会っていないね。
息子 まあ貸し切り状態だったわけね。
<親父、「南回帰線」と苦闘する>
親父 まあ面白い話をすると、とにかく真冬なんだよ。1月の終りから2月にかけてだから。
息子 うん、寒いね。
親父 くそ寒いわけよ。で、拘置所の独房ってのは、3畳ぐらいの部屋で、20センチ四方位の小さな窓が、脱走できないように、とうてい手が届かないような壁の上のほうについているだけなんだよ。その窓にはガラスが入ってないし、もちろん暖房もない。その窓から、雪が降って来たんだよ。
息子 部屋に積もるの。
親父 そう。朝起きると毛布に雪が掛かっているし、衿の回りが白いんだよね。雪が降っていたのと、自分の吐く息が凍っているのと両方だと思うんだけど。なんか冷え込みが激しかった年らしくて、九州なのに目茶苦茶寒いわけだよ、毛布は四、五枚くれるんだけど、何枚毛布を掛けてもやたらに寒い。
息子 ちょっと待って、起訴されたということは、フルの20何日間中にいたっていうこと?
親父 23日いた。最初の3日間が留置所で、最後の20日間は拘置所。
息子 ああそうか。留置所と拘置所との違いも分からんけど。
親父 留置所っていうのは警察に付属している施設。拘置所っていうのは検察が管理しているんだと思うけどね。
息子 でもまあ場所としては似たような感じで。犯罪者を社会に出さないという意味でね。
親父 まあ、代用監獄問題とか話していると長くなるから、やめとこう。面白い話をしておけば、そういう狭い所に、21歳の健全なる男子が長く滞在すればさ、やらなきゃいけないことがあるじゃん。
息子 でも、相手が誰もいないんだからね。
親父 うん、だけどさ、今でいう、ズリネタっていうのがあればいいわけでしょう。
息子 まあ看守が貸してくれるかもしれない。
親父 いや貸さない。貸すわけないよ。そんなことをしたら、彼がくびになる。週刊プレイボーイとかさ、その手の雑誌は絶対に拘置所の中に入ってこないんだよ。で、親父の属していた組織が、そのとき差し入れてくれた本が、ヘンリー・ミラーなんだよ。知ってる?
息子 名前は聞いたことあるけど、読んだことないよ。
親父 ヘンリー・ミラーはノーベル文学賞クラスのアメリカ人の大作家なんだけど、その人が書いた「南回帰線」っていう本なんだよ。10センチ近くあるような膨大な本で、二段組みで活字がやたらに小さいという、読み手に悪魔的な苦痛を迫る本なんだよ。
息子 それでは、抜けなさそうだね。
親父 いやいや、そういうシーンは幾つもあるんだよ。たくさんね。なにしろ、アメリカではエロティックな描写で有名になって、発禁を食らった作家なんだからね。そういうシーンはあるけど、本がやたら長いからさ、まず、その場所を発見するのが大変なんだよ。肝心な場所を。
息子 面白すぎます、それは。
親父 まず、その手のシーンを発見しなきゃいけない。文章は長いわ活字が小さいわで、あせるとなかなか見つからない。で、やっと発見してもさ、基本的にアメリカ人の書いた文章を翻訳したものだから、あまりピンと来ないなんだよ。日本人とエロスの感覚が違うから、日本人が読んでもあまり劣情を刺激しないんだよ。
息子 わかるよ。分かる。まあそうだろうね。
親父 写真とか挿絵なんかついてねえしさ。大体、本が重いんだよ。持っているうちに腕が疲れてくるんだよ。で、寒いだろう。立ちにくいじゃないか。
息子 何もできませんよ。
親父 もう四重苦、五重苦でさ、けっきょく諦めた。
息子 なるほど。
親父 で、なぜヘンリー・ミラーを差し入れたかっていうと、ヘンリー・ミラーの奥さんって日本人なんだよ。
息子 知らなかった。
親父 ホキ徳田さんっていう、まあそうだな、ビートルズのジョン・レノンの奥さんみたいな感じの人。俳優とか音楽やっている女性。
息子 小野洋子
親父 小野洋子さんとか、草間弥生さんとか。要するに、あの時代の芸術家なんだよ。アーティストで、そういうアーティストのコミュニティでヘンリー・ミラーと知り合って結婚したっていう人なんだけど、その人の弟さんっていうのが、親父と同じセクトのメンバーだったの。その関係があって、ヘンリー・ミラーの本を差し入れたんだろうと、俺は想像しているんだけど。
息子 写真1枚もなしか。まあそこまで考えてくんないよな。
親父 佐世保に関しては、それが非常な思い出だね。なんか牢屋に雪が降ってたってことと、やりたかったけどできなかったっていうこと。
息子 なるほど。ところで、飯はどうだったの?やはり、まずそうだけど。
親父 腹は減ってるし、若いしさ、
息子 まあ出たら何でも食うわけ
親父 何だって食っちゃうよね、出ればね。
息子 で。その本完読したの?差し入れられたヘンリー・ミラー。
親父 忘れた。完読したと思うけど。
息子 中身は覚えてないか。
親父 中身何も覚えてない。
息子 まあ訳がひどかったのかもしれないし。
親父 なんかアメリカ人の作家には、延々と長い小説を書くやつがけっこう多いんだよね。フォークナーとかトーマス・ウルフとかスタインベックとかね。ヘンリー・ミラーはその典型みたいな作家で。一冊がとにかく長い。
もう一つ、佐世保の思い出は、第一回公判に行ったとき。裁判が終わった後、佐世保の街の映画館でスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を見たことかな。観客が5人くらいしかいなかった。肝心の裁判のことは何も覚えていないだんけど、映画には興奮した。ということで、次聞いてください。
<当時の大人は分かっていた、ベトナム戦争はアメリカが悪い>
息子 どこまで行ったっけ?さっき、サッカーのサポーターってことを言ったけど、プレイヤーとして、その背中に感じる熱気っていうのはやっぱりすごいものだったの。
親父 結局ね、60年代後半の社会的な熱気の基本は何かっていうと、色々な社会学的分析はできるだろうけど、突き詰めるとベトナム戦争だったんだと思っているんだよ。
息子 その空母には何だっけ、核兵器なんか積まれていたの?
親父 エンタープライズは、戦術核は当然積んでいたと思うけどね。当たり前だけどね。でも、核兵器を積んでいるから反対というより、ベトナム人を殺しにベトナムに戦争に行く空母、それを日本に入れるなという感覚のほうが強かったと思うね。
まあ、当時の熱気ということで話すとね、俺は駒場にいたでしょう。駒場からは歩いてすぐ渋谷に行けるんだよ。で、駒場から、まあ7、8人ぐらいで、渋谷駅までカンパを集めに行くわけ。ハチ公前広場で、ベトナム戦争反対の署名とカンパをお願いしますって。そうしてカンパ活動をすると、1回行って何時間かやっていると、5万円程度は集まったんだよね。
息子 ふーん、当時の5万ってけっこうなお金じゃないの。一人100円にしても500人が出したということだよね。
親父 確かにけっこうな金額だよ。そのお金で活動費を賄っていたんだよ。ビラの紙代とか謄写版のインキ代とか、タテカンに張る紙代とかペンキ代とかね。
息子 そのカンパに行くっていうのは、学生運動用の資金集めということ?
親父 そうだよ、活動費を市民から集めるわけね。街頭に立って。
息子 まあちょっと貨幣価値の計算は今ここではできないんだけど、それだけのお金が集まるっていうことはすごいね。だって今渋谷に行って、なんかのことで募金をしようとしても、それだけの金額が集まるとは思わないから。
親父 まあ非常に難しいだろうね。足長おじさん基金だっけ、あの交通事故の遺児のためとか、そういうのはそれなりに今でも集まると思うけど、でも当時は、そういう政治的キャンペーンを掲げてカンパをして、それでお金が集まったんだよ。
息子 ということは、親父たちのやっていたことが民意を得ていたということなのか?
親父 少なくとも、相当の民意をね。圧倒的マジョリティとは言わないまでも、相当程度の支持を受けていた。どういうことかっていうと、今の時点で当時のことを振り返ると、2つの要素があったと思うんだよね。1つは、やっぱり今眼前で行われている不正なんだよ、ベトナム戦争ってのは、誰が見ても不義不正な戦争だったんだよ。ベトナム人のほとんどが望んでもいないのに、アメリカが大量の兵隊を派遣して戦争をやっている。そういう基本的な認識が共有されていたんだよね。日本だけではなく、ヨーロッパでも。戦争の当事者であるアメリカでも、相当程度にね。
息子 まあイラク戦争、アフガン戦争と同じだね。
親父 そう。そういう認識がまずあったと。そして、そのような不義の戦争が現に行われているということ自体が、当時の大人、つまり60年代後半に大人だった人々の記憶をすごく刺激するものだったのね。それが何かというと、中国に対する日本の戦争なんだよ。
息子 中国に対する戦争?
親父 日中戦争だよ。(戦争をやっていた)当時の呼び方では、支那事変だよ、
息子 あー、はいはい、了解。
親父 支那事変では、中国人はだれも日本軍に来てもらいたいなんて思ってなかった。それにも関わらず、日本軍が中国に行って大義のない戦争をした。このことに対する申し訳なさは、現在の嫌中ムードから想像もできないほど強かったんだよ、当時は。中国との戦争で日本軍は数百万人の中国人を殺しているわけだよね、無論、日本人も何十万人も戦死しているんだけどね。この戦争に対する贖罪意識っていうのが非常に強かった。今では、嫌中感のほうが強くなってしまったけどね。何しろ、当時の大人は戦争に行ったことがある世代だったり、第二次世界大戦(日中、日米英)の真っただ中を生きてきた人たちだったわけだから、中国に対するそういう申し訳なさは共通して持っていたんだよ。兵隊ということだけでいっても、数百万人の日本人が中国大陸で戦争をした経験を持っていたんだから。45年の8月15日時点でも、陸軍の支那派遣軍には100万人を越える兵隊が所属していたんだよ。中国での戦争体験は、戦争が終わって25年後経った60年代後半にも幅広く共有されていたからね。
息子 それが支那事変ね。
親父 うん。たとえばあんたのおじいちゃん、俺の親父なんかは典型的な戦中世代だよ。彼は中国本土で戦争をしたわけじゃないけどね。
息子 満州駐屯だったね。
親父 うん。昭和19年に本土に転属になって命が助かったんだけどね。要するに、日本軍が中国に対してやったと同じことを、今アメリカ軍がベトナムに対してやっている。そして、そういう汚い戦争に日本は加担している。そういう認識を広く共通して当時の日本人が持っていたわけだよ。
息子 そうか、だから大人たちも反戦運動をやっている学生たちに寄付しようっていうことになったっていいたいわけね。
親父 そう、そうだよ。
息子 自分たちは、デモはできないけど、まあ若い人に託そうっていうのがあったってこと?
親父 そう、若い人がベトナム戦争に反対してデモをしたりするのは、非常にもっともなことだっていう、一種の社会的な共通認識があったわけね。だからたとえば渋谷でカンパすれば、もう2、3時間やっただけで5万円集まっちゃうっていう状況になるわけだよ。次々と署名をしてもらって。あんたたち頑張りなさいよっていわれるわけだよ。
息子 その例外は、いつもどおり政府とその回りのお役人たちっていうことか。アメリカに追従するという感じだったわけ?まあ、今もそうだけどさ。
親父 そう、構図は今の昔も同じなんだけどね。あんたが言うとおり、イラクとアフガンでいまアメリカがやっていることは、かつて40年前に、アメリカがベトナムでやったことと本質的に同じことだよね。アフガン戦争は、9.11の報復から始まったんでちょっと意味が違うかもしれないけどね。しかし、支那事変、ベトナム戦争、イラク・アフガン戦争というのは、大国が武力によって小国を意のままにしようとして、小国の国民が大国に反発した戦争だという意味で、同じタイプの戦争だよ。近代国家が成立して以来しばしば起こったタイプの戦争で、ナポレオンのスペイン占領に対するスペイン国民のゲリラ的抵抗が最初のケースだよね。1980年代前半のソ連によるアフガン戦争も、まったく同じタイプの戦争だね。
息子 アメリカがアフガンで戦争していて、自衛隊はアフガンのアメリカ軍のために石油を提供するっていうのは、佐世保港をベトナムに出撃する空母に貸したということと、まあ同じことでしょう?
親父 そうだね。で、日本政府のポジションも全く同じなのね。日本は日米同盟の下でしか国家として生存できない。だから、アメリカの要請に応えて同盟のきずなを強くしておかなければならないし、そのためには、当時なら原子力空母の寄港を認めるし、現在であればイラクに派兵したり、アフガンのアメリカ軍に燃料を供給したりするわけだしね。ただ、何が違うかっていうと、やっぱりそれに対する国民の反対の度合い。
息子 アメリカのほうが、まだイラクとアフガンの戦争に対する反対運動をやっているね。反対運動への圧力は相当に強いようだけど。だって学校の先生がイラク戦争に反対する発言をしたら、免職にされたっていう話があるからね。だからアメリカも異常だよね、中国での言論の自由のなさを批判しているアメリカが、イラク戦争を批判した学校の先生をくびにするんだから、ひどい事態になっているよ。戦前に日本軍が政治を支配していったような感じで、何か不思議な感じがするよ。
<アジア人、ベトナム、冷戦、パワーバランス>
親父 その話は後でゆっくりするとして、40年前の話に戻せば、20歳前後の学生世代とその親の世代の間に、ベトナム戦争に対するある共通の認識があって、それが市民的なサポートになっていたということなんだよね。そのことは、為政者の側も分かっていたわけだよ。
息子 分かっていたとは?
親父 アメリカがベトナムでやっていることはあまり好ましいことではないし、勝利の見通しもない戦争だっていうことは、口には出さないけど、日本の政治指導者たちも分かっていた。と、思うよ。ここでいきなり「アジア人」という概念を持ち出しちゃうけど、19世紀以来欧米の植民地として支配された経験を持っていたり、そうなる危険性の中で生きてきたという意味で「アジア人」という言葉を使うと、まともなアジア人であれば、ベトナム戦争はアメリカに理がないってことは無条件で分かるんだよ。ディエン・ビエン・フーでフランス軍が降伏したり、テト攻勢でアメリカ軍が大打撃を受けたりすると、内心では「やっぱり、そうだよね。頼んでもいないのにベトナムに兵隊出して、最終的にはアメリカが負けるのが当然だよね」っていうのは、ベトナム人だろうと、日本人だろうと、アジア人としては当然の感覚だと思うんだよね。
しかし、そういう感覚を共通して持っている一方で、日本はアメリカの同盟国である、というかあらざるを得ないというシビアな現実があるわけだよね。従って、日本の為政者の側から言えば、アメリカが行っているベトナム戦争をサポートするかどうかということは、国家の選択の問題であって、学生たちや一部の市民たちに情緒的に反対されても、その反対はもっともなことだろうけど、政府はそれには乗れない。
息子 アメリカに逆らったら政権も潰されちゃう。
親父 日本はアメリカの同盟国であるしかなくて、その強大な同盟国の意に反することはできないんだから、ベトナム戦争に協力するしか仕方がない。それがリアリズムでしょうっていうことなわけだよ、為政者にしてみれば。
息子 別に佐世保港を空母が使っちゃだめって言ったからって、また原爆落とすぞとは言わないと思うけどね。
親父 うん、そう。ただベトナム戦争に関していえば、アジアにおけるアメリカの同盟国は日本と同じ立場であって、幾つかの国は派兵までしているからね。韓国、台湾、オーストラリアなどは、ベトナムに派兵しているよ。だから、日本は派兵しないだけましじゃないかということなんだね。当時の政権側の認識はね。
息子 それはまあ日本国憲法、アメリカの作った憲法があったからね。
親父 憲法があったからっていっても、同じ憲法の下で、現在は実際上兵隊出している状態だからね。憲法は解釈次第でなんとでもなるよ。
息子 そう、イラクにはもう出しちゃっているから
親父 で、何を言いたかったかっていうと、
息子 情緒的な反対は分からなくはないが、政府としてはアメリカのやる戦争に反対はできないし、協力せざるをえなかった。で、そのことは、親父が40年後になって分かったこと、それとも当時学生としても分かっていたこと?
親父 難しい質問だね、それは。基本的には40年後の今だから分るってことなんだろうけど、しかし、40年前にも、政府が言っていたことは理解していたんだろうね、ある程度はね。
息子 あっ、そうなんだ。そこは変な理解があったんだ。
親父 政府の立場はそうしかないだろうなという理解はあったね。だから、そういう政府じゃだめなんだ。政府を変えなきゃいないんでしょうっていう話になるわけだね。
息子 あぁ、そういう話になるわけだね。
親父 うん、日本を長年支配してきた自民党というのは、イデオロギーの党じゃないから、まあ日本人総体の利害打算を無理やり総結集したような政党なわけだからね。国際政治という側面から言えば、アメリカの側に付くことという立場しかありえないってことは非常にはっきりしていたわけだよ。冷戦真っ只中の時代に、ソ連の側につくっていう選択はあり得ないわけだから、その枠内でどうするかっていうレベルの問題なわけね。
息子 ソ連の側に付くというのはあり得ないとは言うけど、日本の経済社会のシステムはけっこう、社会主義に近いものがあるじゃない。社会資本主義といっていいみたいで、なんかアメリカ式とソ連式の間をいっているような。
親父 それはまた別の問題だよ。経済システムの問題はね。パワーバランス的には、ソ連の側に付くという選択はあり得ないでしょう。
息子 共産党は嫌だということ?
親父 イデオロギー的な意味じゃなくて、国際政治の力学の場での選択の問題としてということだね。
息子 ソ連が弱いからってことを言いたいわけ。
親父 日本の立地と歴史いう地政学的条件からいって、ソ連の側につくっていうチョイスはあり得ないわけでね。
息子 米ソ関係では、ソ連が圧倒的に弱かったわけでしょう。だから冷戦でソ連は負けたでしょう。
親父 いや、バワーバランスでいえば、ソ連は一方の極だったんだからね。米ソ二極体制だったわけだからね。ソ連がアメリカに比べて弱いという認識は1960年代の後半にはなかったよ。むしろ、ソ連に追い上げられてアメリカが苦しいという認識だった、そのころは。親父がさっきから言ってることは、日本の第二次大戦がああいう形で終わったからには、日本がソ連圏に入るという現実的可能性はあり得なかったっていうことだよ。
息子 まあ、アメリカが援助で金をいっぱいくれたしね。
親父 それもちょっと違う。問題は、戦争の終わり方なんだよ。たとえば、日本のポツダム宣言受諾があと一カ月か二カ月ぐらい遅れていれば、ソ連軍が北海道の一部を占領するっていうことになっていたかもしれない。そういう場合に、ドイツが東西に分断されたように、津軽海峡を境に北海道がソ連占領下に置かれて、北海道が日本民主人民共和国になっていた可能性もあったわけだよね。ドイツの場合は、ドイツが降伏した時の占領線がそのまま東西ドイツの国境になったわけだからね。米英仏の占領地域が西ドイツ、ソ連の占領地域が東ドイツになったんだから。
息子 そうか、日本も2つに分断されたかもしれないってこと。
親父 戦争の終わり方次第では、そうなった可能性もあるってこと。そうはならなくて幸せだったけどね。
息子 でも厳密にいえば、樺太は日本領だったのがソ連に取られたから、まあ北海道じゃなかったにしろ、ソ連もちょっとは頑張ったわけね。ドイツのように真っ二つにして半分取るとはいかなかったけどね。
親父 まあ樺太は千島樺太交換条約で、日本がかつて正式に放棄した地域だからね。日本固有の領土としては、北方四島がソ連に占領されてしまっていまだに返還されていないわけだね。
息子 そこは、アメリカは許したんだ。
親父 それが、1945年8月15日の現状と、その後の国際政治力学の結果なんだよ。40年後の親父の理解としていえばね。
<息子、イラク戦争は武器在庫消費のため>
息子 どこまで言ったっけ。学生運動の話といいながらここまで来てしまった。
親父 あんたが60年代は元気だったというとき、その元気の背景には直接的にはベトナム戦争、間接的にはもう一つ時代をさかのぼった日中戦争の影響が大きかったんだってことを指摘したかったんだよ。
日本ではそんなふうにはならないだろうけど、アメリカの場合は、イラク、アフガンの戦争に対する反対運動が、これからものすごくなっていくと思っているよ、歴史をみるとね。ケネディ政権時代の1961年から1万人を越えるような「軍事顧問団」を送ってベトナムへの介入が始まって、ケネディ暗殺直後に起こったトンキン湾事件をきっかけに、ジョンソン政権が本格的にベトナムに介入してった。それが1964年かな。アメリカ軍の派遣が20万人を超えたのがたぶん66年ごろで、その後の最高時(68年、69年)には50万人ぐらいの兵隊がベトナムに行っているんだよね。
息子 あっ、ケネディのときに戦争が始まったんだ。
親父 ケネディだよ。ケネディが始めてジョンソンが大規模拡大をしたんだから。それで、1970年代前半のニクソン・キシンジャー時代にベトナムから撤退した。だから民主党が始めて共和党が終わらせたんだよ、ベトナム戦争は。イラクとアフガンの戦争は、共和党が初めて民主党が終わらせることになるんだろうけどね。
息子 なんでケネディは暗殺されたんだろう。俺はベトナム戦争を止めようとしたから、反対勢力に殺されたんだと、そう思っていたんだけどね。
親父 違うでしょう。ベトナム戦争とは関係ないでしょう。むしろ、ケネディが積極的にベトナムに介入を始めたんだもの。
息子 歴史を勉強し直さなきゃ。認識がずっこけたよ。
親父 何を言おうとしたんだっけ。だから、アメリカでベトナム戦争反対運動が猛烈に巻き上がってくるのが、66、67年ごろからで、それが本当に最高潮に達するのが、68年、69年ごろ。アメリカの軍事的劣位がはっきりしたという意味で、戦局の転機になったテト攻勢が68年1月。ちょうど親父が佐世保の拘置所で南回帰線と格闘していた頃だよ。そういうわけで、戦争が始まってから、反戦運動が本当に盛り上がるまで、やっぱり7年位は掛かったんだよね、アメリカの場合でも。アフガンの戦争が始まったのは2002年だよね。
息子 うん、9.11ニューヨークテロの直後だからね。
親父 今年で6年目か。
息子 でも2年後に盛り上がるとは思えないもの、だって日本でも。
親父 いや、アメリカの話をしているんだよ。大統領に誰がなったとしても、いずれにしたって二つの戦争をなんなに長くは続けられないよ、中東とアフガンで二つも戦争やるなんて、超大国アメリカにとってすら無理だよ。財政的な制約、反対運動の高揚、この二つを背景にして、政権内部で湧き上がってくる戦争勝利への懐疑。この三つで、結局アジアでの二つの戦争から手を引くことになると思う。ベトナム戦争とまったく同じことだと思うよ。
アフガンでの戦争の動機は、9.11テロへの復讐でしょう。で、イラク戦争の背景的動機は、イラクの占領と「民主化」による中東の安定化ということでしょう。中東、すなわち石油供給地帯の安定化とは、アメリカの中東への影響力の拡大ということなんだよね。石油の安定確保がイラク戦争の根本的動機なわけだとすれば、イラクで戦争をやっていること自体が、石油の安定確保という目的に反している。そのことが、07年の石油価格の急上昇で証明されただろう。むしろ、アメリカの大規模軍事介入が、実は中東の政治的バランスを不安定化させているんだよ。
息子 まあ、中東やアフガンで戦争をすれば、アメリカの軍事産業にとって、武器在庫の消化にはなるでしょう。古い在庫の大量消費。それプラス、最新兵器の実験と宣伝にもなる。
親父 軍人はそう思うかもしれないし、そういう側面はあるかもしれないけど、だけど戦費がいつまでも続かないよ、根本的に。古い武器在庫の消費とか言ったってさ。在庫がなくなりゃ新しい武器を補充しなければならない。そのための予算が必要になる、そのバジェットがいつまで出せるかということでしょう。
息子 軍人は喜ぶけど、その結果税金が上がってアメリカ人は搾取されるということか。 でも、日本人も中東とアフガンの戦争で搾取されているけどね、金出せって言われてさ。
親父 そういうことになるね、日米同盟のコストという理由を掲げてね。しかし、同盟のコストとしては高すぎると思うけどね。
息子 でも、反対運動も何もなくそのままお金が日本からアメリカに流れている。で、戦争のおかげで値上がりした石油を、日本は買わなければならないっていうことなんだね。
<親父の両親、脱走米兵を隠匿す>
親父 話しを戻そう。ベトナム戦争が60年代後半の、一つの基調的テーマだった。当時のそれが絶えず頭の中にあったっと言って過言じゃなかった。しかも、それは若い連中だけじゃなくて、前にも言ったように、その前に日本自身がやった戦争、つまり第二次世界大戦、もう少し限定的に言えば支那事変、日本による中国への侵略戦争を経験した人たちにとっても頭の中にあった。つまり、日本が中国に兵隊を送ってやったことと同じことを、アメリカがベトナムていう認識だね。当時の大人たちによるベトナム反戦運動を象徴しているのが、60年代後半間から70年代前半にかけて、脱走米兵を支援する組織が広く作られて活動したという事実なんだよね。君もその話をおばあちゃんから聞いているとは思うけど、親父の両親、きみのじいちゃんとばあちゃんが、そういう脱走米兵支援組織の一員として一人の脱走米兵を2週間にわたって匿ったということを報告しておかなければならないよね。
当時、アメリカ軍は、日本をレクリエーション基地としても利用していた。ベトナムで戦って生き残ったアメリカの兵隊が、日本で数週間の休暇を過ごして、またベトナムにベトナムに帰っていくわけだね。そのレクリエ―ション期間中に、ベトナムに帰ることを拒否した兵隊が脱走するっていう事件が相次いだ。そうした脱走米兵を匿いヨーロッパに脱走させる。そういう目的で、ベ平連系の人たちを中心にジャテック(JATEC)っていう組織が作られたんだよ。スウェーデンやフィンランドなどのヨーロッパの中立国には、徴兵忌避をしたアメリカの若者や、一度は戦争に参加したけれども、その後脱走した元兵隊が数千人も滞留していたんだよ。日本で脱走した米兵をそこに送り込もうということなんだよね。で、親父の両親が一人の脱走兵を岐阜のあの家で数日間匿ったっていうことがあった。その前から、彼らはベ平連の反戦運動に参加してデモに行ったりしていたんだけどね。
親父 本当にすごくリスキーな選択だったと思うんだよ。きみのおじいちゃんは開業医だったでしょう。当時、親父が50歳、母親が40過ぎぐらい。よくそんなリスキーなことをやったなと思うんだけれども、やっぱりやらざるをえなかった。吉田松陰の大和魂じゃないけど、「義を見てせざるは勇無きなり」だったんだろうと思うけどね。我が親ながら、非常に尊敬に値する行動だった。
そのことがあったのが1969年の7月、これに関しては「隣に脱走兵がいた時代」っていう本が10年くらい前に出て、その中に詳しく書かれている。JATECに参加した数十人の人たちが寄稿しているんだけど、親父のお袋も原稿を書いている。その本を読んでもらえば詳しいことは分かるんだけどね。いいんだけど、たまたまそのとき、両親の自宅に匿われていたときに、アポロ11号が月に着陸したんだよ。その報道をを脱走兵が見ていて、アメリカはすごいことをやったと、誇らしげに見ている一方で、だけど考えてみたら、今の俺は脱走兵なんだっていう、非常に複雑な表情をしてた。それをお袋が書いているんだけどね。当時のアメリカは、ベトナムに50万人もの兵隊を送り込む一方で、月に人間を着陸させるというすごいこともやってのけたわけだね。そういう時代だった。
1969年の7月は、俺はもう退学届けを出したあとなんだよね。何をやっていたかっていうと、今でも忘れもしないんだけど、アポロ11号が月に着陸したときのテレビを、友だち2人と3人でアルバイトしていた出版社で見ていた。男性の友だち1人と女性の友だち1人と俺とで3人で、アポロイレブンのテレビを見ていたんだよ。息子 1人だけフリーターなんだ。
アポロ11号を俺は退学後アルバイトを見ていて、両親はベトナム脱走兵を匿っていたっていうことを言っておかないとね。俺がその話を両親から聞いたのは、ずいぶん後になって、「じつは」って聞いたんだから。
息子 信用できる奴にしか話せないものね。
親父 うん、10年前に「隣に脱走兵がいた時代」に書いたときに、家族以外のものにもその話を初めてオープンしたって言っていたからね。
<親父、米軍病院に突入す>
息子 話を親父にもどそう。けっこうその逮捕されたときは何、バシバシ殴られたりはあるの。それとも暗黙の了解だから、そんなに無茶はしないわけ?
親父 まあ、警棒でぼこぼこ殴られた場合もあるし、なんかいろいろだよ。70年代以降は俺はしらないけど、60年代は大したことではなかったような気がするんだよ。俺は全部でね5回ぱくられてる。佐世保が3回目だったんだ。佐世保の前の2回は、さっき言ったデモ指揮を東京でやって、2泊3日で2回とも出てきた。まあ大したことない。
で、佐世保でぱくられて、その次が佐世保から出てきて、68年の3月に「王子野戦病院」って当時呼んでいた闘争があったのね。王子野戦病院っていうのは、京浜東北線に王子っていう駅があるでしょう。戦前は陸軍の病院があったところなんだけど、それを戦後米軍が接収して病院として使っていた。そこにベトナムで怪我したり、病気になった兵隊を連れてきて治療していたのね。野戦病院っていうのは戦地の病院で、王子の病院は野戦病院というより後方病院なんだけど、とにかく非常に大きな米軍の病院だった。ベトナム戦争に協力するような施設が東京のど真ん中にあること自体がおかしい、というわけで反対運動が起きたわけだよ。俺は佐世保から帰ってきて一月位後だったし、九州で23日間入っていたからちょっとすぐ逮捕はいやだなと内心では思っていたんだけど、もうデモの勢いで米軍病院に突入しちゃったんだよ。塀乗り越えて病院の敷地にね。これで建造物侵入ってことになるんだよね。だからそれだけでももう逮捕理由は十分なわけ。その時、建物に入った連中は全員ぱくられたんだよ。
息子 アメリカ兵は何、重装備して待ってないたんじゃないの?
親父 それはもうデモが来ること分かっているから。もし仮にアメリカ兵がいて、学生を撃っちゃったら大変なことになっちゃうでしょう。
息子 北朝鮮だったら大丈夫だけど、日本だったらちょっと大変なことになっちゃうね
親父 そう。だから、アメリカ兵によって逮捕されたんじゃなくて、アメリカが警備を日本の警察に依頼していたから、やっぱり機動隊によって逮捕された。アメリカの軍の敷地内だけど。
息子 へえ、面白いね。ただの勢いで、こう騎馬戦のちょっと勢いのたまってなんか突っ込んじゃったみたいな
親父 そう、勢いで突っ込んじゃったっていう感じなんだよ。それであのとき何10人って逮捕されて、起訴されたのはやっぱり20人ぐらいかな、10人か20人起訴されて、なんかそこに俺も入っちゃってさ。で、それも判決は執行猶予だったね。
佐世保の判決は、道路交通法と公務執行妨害。懲役1年6カ月、執行猶予3年。王子の判決もたしか、懲役1年、執行猶予3年だったかな。
息子 あっけっこう何回も裁判やって判決があっても、刑務所に行かなくても大丈夫だったんだ。
親父 だって王子事件はわりと判決が早かったんだよ。事件が68年3月で、判決が72年ごろに下りて執行猶予3年でしょう。そうすると、75年頃にはもう執行猶予が切れてるわけね。で、佐世保の判決は1981年頃に下りてるから、その時点で執行猶予期間も終わっているからね。
息子 えっ、そんな長い間佐世保の裁判やってたの。
親父 やっぱり佐世保の事件はインパクトが大きかったから、もう、まあ非常に著名な弁護士がついて、小長井良浩という著名な反戦弁護士が付いたり、地元の弁護士も何人かついて、いわゆるそのベトナム反戦裁判の一種のシンボル的な意味を持ってたから、地裁の判決が下るまで12、3年掛かってる。
息子 ちょっとまって、その佐世保とその何だっけ、王子の間になんか何年かあって?
親父 逮捕された事件そのものは、佐世保と王子の間が1月半くらいしか開いていないよ。
息子 ああ、単にその判決が出るのが後だったからということね。
親父 佐世保は10年以上掛かったものすごい長期裁判だったからね。
息子 なんかよく順番が分かんないけど。
親父 親父は68年の1月と3月に佐世保と王子の事件で続けて逮捕され、起訴されました。そして、72年には王子事件の判決が出ました。その判決が懲役1年、執行猶予3年だから、その執行猶予は75年に切れちゃうわけじゃない。その後に、81年になって佐世保の事件で執行猶予付きの判決が下りたわけだからね。
息子 まあ、ラッキーってことなんだ、同じ期間中に2つ判決が出ちゃったらまずいことになったんじゃないの。
親父 ああ、それは執行猶予取り消される可能性はあったよね。
息子 でもそれおかしくない、考え方が。だって2回連続事件起こして、それでも判決の間が空いていたから、結果として刑務所に行かないで済んだなんてさ。
親父 法律的にはさ、判決が下りるまでは推定無罪ってことなんだから。それでいいんじゃないの。
息子 なんか執行猶予中にもう1回判決が出るのはまずいけど、時間が離れていればいいっていうことだね。おかしな感じだね、法律ってね。
親父 いや、その辺はそんなに深刻に考えたことないけど。
息子 だって時間差で判決が出てさ、同じタイミングで判決が運悪く出ちゃってさ、それで捕まるっていうのも、またおかしな話だよね。
親父 俺は分かんない、それはテクニカルな話だから、俺にはよく分からんけど。
息子 まあ、どうでもいいんだけど。
親父 弁護士にとっては重要な話だろうけどね。
<息子、三派全学連理解に困惑す>
息子 で、機動隊に楯や警棒でやられたっていうのは。
親父 それはしょっちゅうやられたからさ。いつどこでやられたのか、全然分かんない話だからね。
息子 それほど前線に出るってことなのね。
親父 戦争していたわけじゃないから、前線に出るっていうことじゃないけど。デモに行った。そして、当時デモに行くということは、機動隊に殴られに行くっていうことと同じだから。まあ、機動隊の側から言わせれば、警官だってデモ隊に殴られたよとかいう話になるわけでね。特に、俺だけが殴られたとかいう問題ではないんだよ。
息子 死人とかけっこう出るの。
親父 いや死人は出ないよ。死人が出たのは、1967年10月の山崎博昭君。
息子 なんか女性が死んだでしょう。
親父 ああそれは樺さんのときだよね、それは60年安保のときデモで国会前広場で亡くなったの。俺は中学生だった。
息子 ちょっと時代が違うわけね。
親父 そうだよ。山崎君が死んだ事件は大きなポイントだったんだよ。ベトナム反戦運動が一挙に盛り上がった大きなきっかけになった。その事件が起きたのが67年の10月8日。当時の佐藤栄作首相が、
息子 アメリカに飛ぶとか言っても飛ばせませんよという看板を本で見た覚えがある
親父 この日はアメリカじゃなくて、ベトナムに行ったんだよ。それで、佐藤訪越阻止の大デモが起きた。佐藤首相は羽田から、当時まだ成田空港は出来ていないからね、羽田からベトナムに発とうとする。それを阻止しようとする大デモの渦中で学生が1人死んだんだよ。それが山崎博昭君。
息子 死人が出ると盛り上がるんだ、じゃあ。
親父 そういう言い方は非常に不謹慎だけど、事実そうだったね。京都大学の学生だったんだよ、山崎君って。
息子 京都から羽田まで来ていたんだ
親父 もちろん、こういうときは全国から来るからね。羽田に来て、それは俺が東京から佐世保行ったみたいな話だから。山崎君はたまたま中核派系の学生だったんだけど、彼が死んだことで、学生運動、まあ当時でいう三派全学連の動員数が一挙に増えた大きなきっかけだったんだね。
息子 逆に言えば、それまではうまくけが人だけで済ませていたっていうことなの。
親父 そういい言い方をすれば、まあそうだね。
息子 彼の場合はたまたま打ち所が悪かったわけ?
親父 彼は圧死したんだよ。デモ隊と機動隊の警備車との間に挟まれて。
息子 重大な出来事だったわけね。
親父 うん、佐藤首相がベトナムに行くっていうことは、ポリティカルに重大なポイントだったわけだよ。日本政府が明白にベトナム戦争を支持するっていう意思表示として、首相がベトナムを訪れるんだからね。当時の新聞をもう1度読み返さないと確認できないけど、べトナムの大統領とか、アメリカ軍の司令官などに会って、「自由社会のために闘ってくれてありがとう」っていうことを言いに行くわけだよね。日本政府もあなたたちの戦争を支持しますよっていうことだから、非常に明白な政治的メッセージの表明だからね。そのベトナム訪問後、11月の10日だったと思うけど、このベトナム訪問を踏まえて、今度は佐藤首相がアメリカに行った。アメリカへ行って、日本のベトナム戦争支持の意思を、当時のジョンソン大統領に告げに行った。
息子 そんな、明らかに媚びている行為をするんだね。
親父 まあ、そこはセレモニーだよね。ただセレモニーだから重要なんでね、
息子 でも、こっちから行くことないじゃない、金だしているのは日本なんでしょう。佐世保港も貸しているわけじゃない。
親父 当時の日本はそれほどお金を出していないけどね。南ベトナム政府への援助とかはもちろんしていたけどね。思いやり予算なんて形で、アメリカ軍に大金を出すようになったのは、もう少し後からだよ。でも、アメリカから言わせれば、日本は金だけ出してなんで兵隊出さないんだよっていう話になるわけだよね。この関係は今でも40年前と基本的に変わってないけどね。
息子 お前らが作った憲法なんじゃないかって思うんだけどさ。
親父 そういうふうな言い方を日本側はしたがるけど、今はもうその論理じゃあ通らなくなくなって、現実問題としてイラクに兵隊出したわけだよね。
息子 うん、銃を持たせないまま。武器を持たせないまま。
親父 まあ武器は持っていたけどね。話を戻すと、山崎君が死んだ1967年の秋から、佐世保や王子などの事件があった68年にかけて、ベトナム戦争反対運動っていうのは猛烈に盛り上がった。それを主導したのが、当時三派全学連と呼ばれた組織なわけだよね。そこで、三派全学連って何って、聞かなきゃだめだよ。
息子 言おうと思ったら言われちゃったよ。親父も気が短い奴だな。三派全学連といえば、要するに三つの派閥があったみたいな感じなんだけど、当時はそういうグループというか、派閥が無数にあったわけ? なんか、ベ兵連とかっていうグループもあったみたいだしね。
親父 うん、党派ということなんだけど、当時は、セクトって呼んでた。
息子 セクト?
親父 うん、そう呼んでいたんだけど、三派全学連っていうのは、三派っていう言葉が示しているように、幾つかあるセクトの中で、3つのセクトが集まって全学連を作った。そういう意味で3派っていったんだよ、
息子 学校でいうと東大?
親父 いや学校というよりも、党派、セクトの集まりなんだよ
息子 学校とは関係ないの
親父 学校は関係ないんだから、派なんだから。
息子 そうか。よくわからん。
親父 3派っていうのは、中核派と、それから、
息子 中核ってセンターっていうこと。
親父 まあそう。中核派、革共同中核派って言うんだけどね。革共同は革命的共産主義者同盟、それと共産同、共産主義者同盟、それから社青同解放派、社会主義青年同盟解放派っていうの。この3つの党派が連携して結成したのが、3派全学連っていう学生組織なの。
息子 このうちの2つは、っていうか3つ全部が、名前からして赤赤っていうのが丸見えだからまずいんじゃないの。
親父 赤赤って?
息子 社会主義・共産主義っぽいような名前でさ
親父 全然まずくないんじゃない、社会主義とか共産主義じゃないほうがおかしいんだよ、当時は。
息子 あー、まあそういうことか。
親父 うん。だからだから3派全学連以外に、あと2つ全学連があって、一つは、革マル全学連。
息子 カクマル?
親父 うん
息子 角が丸いの?
親父 お前、ふざけてんの? カクは革命的、マルはマルクス主義だよ。で、略して革マルっていうんだけどさ。だから、マルはカタカナだよ、カタカナ。
息子 うん、なんか日本語っぽい略し方だね。まあどっちでもいいんだけど。
親父 革共同っていう組織があって、それが革マル派と中核派に分かれて、1961年くらいにね。そのとき、革マル派が学生組織の全学連を押えていた。それが革マル全学連。もう1つは共産党系の全学連組織があったのね、民青全学連とか、代々木全学連とか言っていたんだけどね。代々木っていうのは、共産党の本部が代々木にあるから日本共産党の代名詞。民青は、民主青年同盟っていう共産党の下部組織。当時の学生運動は、左翼であることは当たり前というか普通のことで、左翼の中のどこかっていうことだけが問題だったという時代だから。
息子 みんな左翼だったと。
親父 そう、基本的にみんな左翼だから、もちろん少数の右翼もいたけれどもね。しかし、ごく少数派だった。学生の間では、右翼っていうよりも民族派っていうふうに呼ばれるべきような人たちが少数いたね。たとえば、三島由紀夫が組織した「盾の会」なんかが、その典型なんだけどね。しかし、それはごく少数派だよ。
息子 ということは、政府だけが右で、一般市民は左だったということ?
親父 ということじゃなくて、投票行動のマジョリティは、やっぱり自民党なんだよ。だって選挙すりゃ自民党のほうが多数派になるんだからね。55年体制って言われているのがまさにそういう体制なんだけど、自民党が議席の5分の3ぐらい、社会党と民社党と共産党を合わせれば、3党で5分の2ぐらい。選挙のたびに多少上下はするけれども。だいたい議席は自民党が60で野党が40。でも、自民党の支持者だって、社会党はいやだけど、ベトナム戦争はアメリカが良くないよねという認識があったわけだね。
息子 自民党と社会党でけっこううまく分れていた?
親父 うんだからその40っていうのがそれなりにあったわけだよね。そこの中で、だから40は基本的に左なわけです。
息子 で、親父はどれだったの。
親父 だから中核派って言ったじゃない。
息子 中核派。それはなんで選んだわけ?好きな女の子がいたとか、そういうこと?
<親父、内ゲバ最初期にテロられる>
親父 それはお前が、統一教会の合宿に行った理由だろう?
セクトの話をするとなると、このことを話しておかなきゃいけないという事件があるんだよ。我々の世代、団塊の世代というか、もっと狭くいうと全共闘世代の責任っていうことを考えるときに、1番の重大な責任は、内ゲバっていうのを運動の中に持ち込んじゃったことだと思うんだよ。キミがいうように若者が元気に暴れていた時代に、じつは内ゲバという陰惨な出来事が始まっていたということね。例えば、革マルと中核の間では70年代から80年代にかけて、100人以上が死ぬような内ゲバをやっている。
息子 警察にあんまり殺されなかったけど、お互いに殺しあってしまったっていうこと?
親父 そうだね。それはまあ70年代以降の話だけどね。俺はそこの時代には関係ないけどね。なぜかっていうと、その前に、68年の5月頃には、もう中核派を辞めちゃっていたから。
息子 あっ、なんか俺がちょこちょこってお袋から聞いた話だと、なんか足をへし折られそうになったって。それはなんか内輪もめだっていうことだって?
親父 そう、いわゆる内ゲバなの。それ話しちゃうと、10月8日に羽田で山崎君が死んだっていう話をしたでしょう。その前の日に、実はその3派全学連のなかで、正確にいえば、中核派と社青同解放派の間で、青解派って呼んでいたんだけど、中核対青解の内ゲバがあったんだよ。その原因は、要するに中核派が全学連の主導権を取ろうとして、社青同に対して暴力的行動に出たんだよ。当時中核派が10月8日デモに向けて、前夜の決起集会を法政大学でやっていた。佐藤ベトナム訪問の前夜だね。
息子 親父は、大学は違うけどそこに参加したの。
親父 まあちょっとゆっくり話すから、あせらないで聞いてよね。その中核派の集会に、社青同の指導者たちが訪ねてきたんだね。全学連の人事その他の問題を話し合おうというのでね。その青解の連中をとっつかまえて、中核派の連中がリンチを加えたわけね、全学連の人事その他の問題を巡って、暴力的事態が発生したわけだよ。俺はそのとき、理由は覚えていないんだけど、なぜか法政には行ってなくて東大駒場にいた。駒場寮だね。駒場では、当時社青同解放派が3派の中では1番勢力が大きかったの。で、次が社学同と中核が似たような勢力かな。他に革マル派もいて、革マルと社青同解放派が同じぐらいの勢力だった。そこで要するに解放派の連中に、俺が捕まったんだよ。
息子 拉致っていうこと
親父 そう、拉致だね。拉致られて、解放派の部屋に連れてかれて、まあリンチをされた。実を言うとだけど、最初に話したように、癌の頭がい骨転移じゃないかと疑われたのは、じつは警棒でやられたときの傷じゃなくて、そのときの傷じゃないかと思っているんだけどね。その時に、相当殴られたんで、頭もね、解放された後に気持ち悪くなったんだよ。脳震盪なんだろうと思うけど、人間は頭を強く何度も殴られると気持悪くなって吐くんだよ。その日1日ゲロゲロ吐いてさ、物理的にもショックだし、精神的にもショックだったし、それで寝込んじゃったんだよね。
息子 監禁されたみたいわけ
親父 そうそう、部室に連れていかれて、中核派の連中も5、6人いたのかな、そのときに。でも解放派の連中のほうが圧倒的に人数多くて、15、6人いて、5、6人含めて連れていかれてね。殴られたのは俺だけなんだけどね。まあ、俺が東大駒場の中核派の指導者だったから。要するに、法政で中核がやったことの仇を東大駒場で取られたんだよ。東大駒場というのは、当時の学生運動言葉でトンシーって言っていたのね、東Cと書いてトンシー読むわけね。Cは教養学部でカルチャー。だからトンシーって言うと東大駒場っていう意味なの。トンシーの中核とか、トンシーの青解とか、まあそういう言い方してたわけよ。だから、親父は1967年10月当時、トンシーの中核派の責任者だったわけね。話を戻せば、そのとき殴られた時の傷が、癌の転移を疑いをかけられた右側頭部の傷じゃないかと思うんだよね。
息子 ちょっと小さい影がある
親父 小さくはないけど、なんか
息子 腫瘍に見えた
親父 腫瘍に見えたのはその時の傷で、ずっと炎症を起こしていて、それで骨シンチグラフィという検査に反応したんじゃないか?そんな風に、思っているんだよね。だからもう1つ追加的に言うと、10月8日の山崎君が殺された、彼は学年的には2つ下だったと思うけど、その時のデモには実は俺は行っていないんだよ。
息子 まあ、始めての暴行被害に会ったと。
親父 うんそうこともあったけど、それ以上にね、なんていうかな、3派全学連が持っていた、あるいは示していたある種の明るさを、打ち砕かれるような事件だった。そして、中核派っていう組織に対する疑問を持たざるを得なかった。そういう出来事だったんで、俺にとっては大変ショックだったんだよね。それでしばらく俺は、要するに中核派の活動を止めたんだよね、その後、しばらくの間。
息子 脅しが効いたっていうこと?
親父 脅しが効いたっていうことよりも、やっぱり
息子 暴力を受けたことがショックで辞めたの
親父 違う、内ゲバという状況がショックだったの、暴力を受けたこと自体、デモに行けば普通のことだから。だって機動隊から暴力受けるなんてしょっちゅうあったんだから。別に暴力自体はどうでもいいわけだけど、
息子 内輪もめに嫌気がさしたってこと?
親父 ちゃんと説明しておくとね、社青同解放派のメンバーであるか、中核派のメンバーであるか、そんなことは、当時の学生の間ではミニマムな差なんだよ。キミの世代でいえば、統一教会に行くか、大川隆法に行くか、麻原尊師に行くか程度の差だね。
息子 それはよく分かる。
親父 そのミニマムな差が小さな暴力となり、その後何年かが経つと、殺し合いにまで至る。そういう意味での1番最初の事件の一つだったんだよね、1967年10月7日の夜に法政大学と東大駒場で起こった事件というのは。
息子 まあ、全学連グループのまとまりとしては、この事件が致命的な傷になったわけだね。
親父 というか、そういう事件を引き起こすような組織のあり方に対する懐疑が心中に生まれたということだね。
<三派全学連崩壊から内ゲバへ>
息子 、一般論で言えば、野党がいつもまとまらないみたいな意味?
親父 そういうことじゃないんだよ。なんか3派全学連っていうのは、要するに革マル全学連でもなく民青全学連でもなく、3派全学連っていうのが1種の、要するに日本の社会運動の未来を担うっていうふうな存在だったんだよ。ここのところは当時を知る者にしか説明できないことなんだけどね。そういう希望に満ちた存在が、けっきょく壊れちまうっていうさ、そこのところだよ。壊れちまったことに行きつく先に、たとえば革マルと中核の殺し合いとか、社青同と革マルの殺し合いとかっていう図を直感させるような出来事だったんだよね。
俺はやっぱり、本質的に田舎育ちのお坊ちゃんなんだよ、元々。比較的豊かな家庭に生まれて、比較的良質な教育を受けて、中学時代ころから色々な本も読んで育ってきた。そういう根っからの中産階級育ちの人間にとっては、暴力で仲間内の問題を解決しようという発想が組織のなかに存在していたことがショックだったんだよね。美化していえば、暴力を受けたことより、こっちが、最初に暴力を振るう側になったことがむしろショックだったんだよね。
息子 それに反発したってことを言いたいの?ごめん、ことの起こった順番がよく分からん。
親父 順番をちゃんと説明するとだね、まず、法政で中核派が社青同の幹部をボコボコにしたわけだよ。その報復がトンシーに来たわけだね。電話で連絡が入るから。その報復のやり玉に挙げられたのが俺なわけだよ。そういう順番だったんだけどね。それより何より、なぜ、我々中核派と社青同解放派が暴力によって対決しなきゃならないのかっていうこと。それが俺にはもう理解不能だったんだよ。
息子 親父はどの程度の幹部だったわけ?まあ、駒場のトップだったんだろうけど。
親父 中核派全体の幹部ではないからね。
息子 ああ、だからそこのコントロールができなかったってことね。
親父 もちろん、そんな立場ではなかった。中核派の中でね。
息子 じゃあ、その法政の中核派のやつが突っ走っちゃったわけだ。
親父 法政のじゃなくて、中核派のトップが突っ走った。法政のじゃないんだよ。
息子 ああそう、たまたまその場所で起きたわけだね。
親父 うん、法政大学は事件の起きた場所にすぎないんだ。そうそう。中核派のトップがそういう方向にいっちゃったことがすごくショックだったの。
息子 暴力的に衝突するんだったら、警察かもっと違う所をやってということだね。
親父 その通り。単純に言えばよ、俺の気持のなかでは、デモに行って間違って警察に殺されるのは全然かまわないわけよ、堀江流に言えば想定内だよ。山崎君ではないけど、デモの中で殺されるってことは、はっきり言えば覚悟のうちだったわけだよ。だけど、同じその運動をやっている人間、セクトは違っても、同じ運動をやっている人間に、ぶん殴られる、あるいは殺される危険もあったわけだからね、打ち所が悪けりゃ死んでいるわけだから、それは俺には想定外だったし、納得できなかったのよ。やられるほうであろうと、やるほうであろうと。
息子 じゃあ逆に1個、もう1個、その事件の前に戻るけど、その中核派が革マル派を取り込むっていうこと自体は、別にマイナーな違いでしかないんだから、取り込むっていう必要はなかったんじゃないの?
親父 この場合は、革マル派ではなくて社青同解放派。
息子 解放派、その何、一応取り込もうとしたから向こうは反発したわけじゃないの。
親父 取り込もうとしたというわけではなくて、三派全学連内部の主導権争いだよ。取り込むなんて出来ないよ。
息子 主導権なんてどっちが取ったってあんまり関係ないからいいじゃん。
親父 と、俺も思っていた。だいたい、中核派は、三派全学連を構成していた3つのセクトの中で1番人数的に大きかった。
息子 頭数っていうこと?
親父 うん、頭数っていう意味でね。で、その勢力を背景に全学連の委員長を取りに行ったんだね。当時、三派全学連の委員長は共産同系だったのね。書記長が社青同だったの。副委員長が中核派だったの。加藤登紀子っていう歌手がいるでしょう。
息子 えっ知らん。
親父 東大出たシャンソン歌手だよ。
息子 知らない。
親父 加藤登紀子知らないのかよ。
息子 世代が違うんで。
(この部分以下の13行については、親父の事実認識の間違いがあります。間違いの詳細とその訂正については、本サイト掲示板の小熊宏一氏の指摘をご参照下さい。この間違いは単行本においても訂正されていません。ファクトチェックの不足を謝罪いたします。単行本が再版されることがあれば、この部分を訂正いたしますが、このサイトでは対談のオリジナルを残すため、訂正はせず、この注意書きだけを加えることとします。親父)
親父 世代じゃなくて、国籍が違うやつと話しているような気がしてきた。加藤登紀子の死んだ旦那さんが藤本敏夫っていうんだけど、藤本敏夫は同志社の共産同だったやつで、そいつが三派全学連の委員長だったんだよ。それでもって、副委員長っていう1番目立たないポストを中核派が取って、社学同と社青同に華を持たせたっていうことをやってきた。ところが、67年の夏位からベトナム反戦運動がぐいぐい盛り上がる中で、中核派のトップがこの運動のイニシアティブを俺たちが全部取ってやろうと決意した。これが親父が巻き込まれた内ゲバの背景なんだよね。
息子 まあ勢いに乗ってやり過ぎたってことか、別に華を持たせたままいきゃよかったのに。
親父 そう、そんなことしなくたって、運動はそれ自体で盛り上がるわけだからね。
息子 やっていることは、変わらないんだから
親父 イニシアティブを取るなんてことをしなくたって、中核派はもう事実上最大勢力だったんだよ。全国的に見ればね。それを全学連委員長というポストにこだわって、抵抗する他セクトと暴力的対決に出てしまったわけだよ。くだらないっちゃくだらない話なのよ。
息子 せっかく盛り上がってきたのに、変なことになっちゃって。
親父 そうなんだけどね。しかし、運動それ自体は各セクトの思惑とは関係なくドンドン盛り上がるわけだよ。だって、ベトナム戦争は熾烈極まり方向に進んでいっているし、反戦運動は、アメリカ、ヨーロッパを含めて世界的に展開されるわけだよね。全学連の主導権争いなんてのは、上のほうの幹部だけの、言ってみればコップの中の嵐に過ぎなかったからね、その時点では。3派全学連のデモには万単位の学生が集まるし、3派全学連のデモが過激だからやだって言って、民青全学連のデモとか、べ平連のデモに行く奴もたくさんいたよ。3派全学連の過激なデモではなく、平和的なデモにね。
息子 平和的な?
親父 3派のデモが一番過激で逮捕者も多かったんだよ。10月8日のデモでも、羽田空港に突入しようとしたしね。他に、共産党系は共産党系のデモ、革マル派全学連も独自のデモをしていた。党派色はないけど、反戦の意思表示をしておきたいという学生たちが、ベ平連のデモに行った。
息子 まあ、いろいろなスタイルがあったわけね
親父 そうそう
息子 警察に狙われるような暴力的デモを、親父たちはしていたわけだね。
親父 狙われるのはべ平連だって狙われたと思うよ。要するに、行動のレベルが過激かどうかっていうことで幾つかのグループになったわけだよね。まあ1番過激だったのは3派全学連であったことは間違いないわけだけどね。
息子 でも話を聞いている限り、どちらかっていうと平和的なデモだったのかなっていう、そんな死者も出ていないしさ。
親父 60年代後半の状況を、70年代生まれの息子に説明して理解してもらうのが、こんなに難しいとは思わなかったよ。まだまだ、続くということで、食事休憩だ。
プロフィール
- 親父
- 1946年 岐阜県生まれ 1965年 県立岐阜高校卒業 1965年 東京大学教養学部文科3類入学 1669年 同大学中退 その後主として文筆関連業に従事して今日に至る。
- 息子
- 1974年 東京都生まれ 1993年 東京都立国立高校卒業 1994年 米国ウェストバージニア州立大学入学 1998年 米国ニューヨーク州立大学卒業 1998年 日系企業に現地採用で入社、米国CPA資格を取得 2003年 帰国、米国系IT関連企業に就職 2005年 フランス系化学関連企業に転職 2007年 米国系ヘッジファンドに転職 2009年 日系企業の欧州法人に勤務 現在ドイツ滞在中
- 手術結果
- 親父、2008年8月 肺がん手術 右肺上葉を切除。腫瘍の大きさは長径68ミリと大きかったが、浸潤・転移なし。2010年8月現在転移・再発せず。生存中。
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