地域密着型エリア広告配信リクルートの地域密着型広告ドコイク?アドネットワーク Ads by ドコイク?[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

ジェンダー素描(1997〜2008)

性教協について (2003/07/11)

 online magazine Sexual Science】というサイトに、対談「ジェンダーフリー」バッシングを考えるという記事がある。現在の「ジェンダーフリー」の主張と、その裏に潜む本音を知るのに格好の材料なので、今回はこれを読み解いて検討してみたいと思う。

 この記事は、“人間と性”教育研究協議会(以下、性教協という)から、村瀬幸浩(同会代表幹事)、丹藤弘子(同幹事)を招いてのインタビュー記事で、全体としては、ジェンダーフリーや、それに基づく性教育に対する批判を再批判する内容になっている。ただし最初のうちは、ジェンダーフリーは性差を否定するものではないという、おとなし目な(?)主張がなされている。それは、たとえば村瀬の、

「男らしくなければいけない」「女らしくなければいけない」という言い方は問題があるとは思います。ただ,もし逆に「男らしくあってはいけない」とか「女らしくあってはいけない」ということになれば,逆の意味での縛りになります。

という発言に見て取ることができる。ところがその少し後の方で、男女混合名簿の話からの流れで、「特性教育」という言葉が出てくる。これは、男女別学の他に、共学校であっても授業を男女で分ける場合をも含む言葉らしい。そこで、こんなことが述べられている。

丹藤 女子校,男子校というだけでなく,共学であっても科目によっては男女に分けて授業を行うことです。こうしたスタイルは,社会的にも否定されてきていますね。

 つまり、男女別学を含む「特性教育」否定すべきものであり、そういうコンセンサスが現実に社会の中で得られているといいたいのだろう。しかし、これは全くのウソなのである。

 たとえば近年、公立の男子校・女子校を共学化しようという動きが、東日本、特に北関東から東北地方にかけて目立っている。しかし、この共学化を推進しようとしているのは一握りのジェンダーフリー論者に過ぎず、生徒やPTAの大部分がこれに抵抗しているのが実情なのだ。現に埼玉県では、そのために公立別学校の共学化が白紙撤回されている。

 また、つい先日には次のような報道があった。先月26日、宮城県教委が宮城三女高を2010年度に男女共学化すると発表したのである。ところが、これも共学化に反対する生徒やPTAの意見を全く無視した決定だということが、すぐに明らかになった。PTAの西城修副会長によれば、今春、生徒総会で共学化に関する全校投票を実施した結果は、投票総数913票中、反対が905票、つまり99%以上の生徒が反対しているのである河北新報2003年06月27日)。 

丹藤 94年から男女共習が始まったわけですから,そのあたりからですね,教科書の内容が変わってきたのは。

村瀬 その背景には,国連の「男女差別撤廃条約」の批准(85年)があります。関係法規や政策を整備する義務を政府が負った。

丹藤 それで学校教育も変わらざるをえなかった。「家庭科」の変化も,そうした大きな流れの中の1つですね。

村瀬 ですから,日本政府が自主的に進んでやったのではない。むしろ外国からのプレッシャーです。新しい家庭科は,男女平等を進めることが初めからテーゼとなっている。それは雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法にもつながっている。

 ここで言及されている「男女差別撤廃条約」(以下「CEDAW」と略記)についても、ジェンダーフリーに都合のよいように言葉巧みに語られている。そもそも CEDAW は男女別学を禁止するものではない。教育上の平等に関する記述は教育設備や教科書、及びその他の教材が女子にも男子にも平等に与えられることの必要性を指すものであり、別学であろうと共学であろうとかまわないのである。おそらく、ここで彼らが根拠として考えているのはCEDAW の、第10条C項だろう。

(c) The elimination of any stereotyped concept of the roles of men and women at all levels and in all forms of education by encouraging coeducation and other types of education which will help to achieve this aim and, in particular, by the revision of textbooks and school programmes and the adaptation of teaching methods;

 「すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃を、この目的の達成を助長する男女共学その他の種類の教育を奨励することにより、また、特に、教材用図書及び指導計画を改訂すること並びに指導方法を調整することにより行うこと。」となる。

 一見「男女共学その他の種類の教育を奨励」という部分に目を奪われるが、この第10条C項の目的は、全ての児童の質の高い教育への平等なアクセスを奨励することにある。つまり、タリバン支配当時のアフガニスタンのように女性から教育を受ける権利を奪うことを認めず、「男女における教育の機会均等」を目指すものである。言うまでもなく、これは日本では既に達成されている。そうである以上、改めてこの条項の目的達成のための処置を取らなくてはならない理由が、日本には存在しない。

 また、オーストラリアはCEDAWを批准し、男女差別に関する法にこれを取り入れた最初の国の一つであるが、2000年までに、国連監視委員会とこれと陣営を共にする非政府団体によるオーストラリアの国内法への過干渉が反感を呼び、遂には国連査察団の訪問を制限し、国連委員会の総点検を要求し、一層感傷的なCEDAW選択的議定書の批准を拒絶するまでに至っている。オーストラリアは正式に国連による民主主義国への批判に対して抗議し、また、国連がイラクなどのような締約国で続行されている凄まじい人権侵害に対して見て見ぬ振りをしていることを指摘した。なお、CEDAW の批准国は、国連加盟国191ヶ国の4分の1に満たない、47ヶ国である

 したがって、特性教育が「社会的にも否定されてきて」いるという丹藤の主張は、国内においても、また国際的にも、事実無根であると言わざるを得ない。村瀬のいう「外国からのプレッシャー」は、ジェンダーフリー論者と、国内の一部のマスコミが作り上げた幻想に過ぎない。

 また、男女混合名簿についても、批判には根拠がないというばかりで、男女混合名簿を強行するに足る合理的な理由が示されているわけではない。逆に私は、現役の教師から「不便だ」という声を随分と聞いている。例えば身体検査は男女別に行われる上、最近では性別のわかりにくい名前も増えているために、現場で混乱するというのである。しかたがないので、女子の名前の前に印を付けているという話だった。何のための混合名簿かわからない。こうした教育現場の不満は、調べればいくらでも出てくるだろう。ずっと後の方で、インタビュアーである「編集部」が、

現在のバッシングは,ウルトラ保守派の悪あがきですよ。性教協にも噛みつくけれど,勝負はついてる。流れは変えられませんから。

といっているが、本気でそう思っているのだとしたら現実を知らない能天気な発言だし、上に挙げたような現実を知っているのだとしたら、ジェンダーフリーにとって都合の悪いことを隠しているということになる。もし後者なら【online magazine Sexual Science】はジャーナリズムではなく、ジェンダーフリーのプロパガンダにいそしんでいるメディアに過ぎない、ということだ。

 この記事を読んでいて気が付くのは、編集部が冒頭・中ほど・最後と3度にわたって繰り返し、ジェンダーフリーバッシングの記事の「トイレや更衣室まで男女共用にしようとしている」という表現にこだわっているということだ。もちろんこれは、性教協としても否定するにやぶさかではないだろう。しかし、だからといってジェンダーフリーが性差否定ではないということはできない。

丹藤 ジェンダーというのは,生物学的な性差ではなく,「男らしさ」「女らしさ」といった,社会的文化的に作り上げられた性差のことで,そこには役割や規範,イメージが伴います。
 そしてそれは女性や男性の自由な生き方を枠付けして圧迫するものです。そうした「らしさ」の縛りにとらわれることなく,自分らしさにこだわって生きていこうと……簡単にいえば,こうした考え方がジェンダーフリーです。

 この丹藤の説明はジェンダーの否定そのものなのである。まずここでは、ジェンダーが「自由な生き方を枠付けして圧迫するもの」として、ネガティブな意味付けをされていることに注意する必要がある。この時点で、ジェンダーは否定すべきものだという主張が、だれの目にも透けて見えるだろう。

 そして、あらためて指摘するのも馬鹿々々しいが、ジェンダーは「モノ」ではなく「コト」である。ジェンダーは、男女がそれに沿って生きている限りにおいて、初めて「ある」といえるような「コト」なのだ。したがって、人間から切り離されたジェンダーがどこかにゴロンと転がっているという事態を、私達は現実のものとして想像することができない。ジェンダーも「男らしさ」「女らしさ」も、人間から切り離された「それ自体」のようなものは、実体的には存在しない。したがって、ジェンダーを人間から切り離すような事態は、ジェンダーの消滅にほかならないのである。性教協は「性差否定ではない」と言いながら、別の言い回しで性差否定を主張しているのだ

 ただし、これは性教協に限った話ではない。ジェンダーフリー論者の多くが、昨年かせいぜい一昨年あたりから、このような主張を始めている。いきなり「ジェンダーの否定」「性差の否定」というのでは、ほとんどの人達に受け入れられずそっぽを向かれる。それがわかってきたので、まずジェンダーというものがいかに悪いものか、ジェンダーフリーがいかに素晴らしいものかを、人々に刷り込むところから始めるイメージ戦略への転換である。

 ジェンダーは、「規範」「枠付け」「圧迫」「縛り」といった言葉で語られ、そこからの解放、自由がジェンダーフリーなのです、素晴らしいでしょう、というわけだ。こういう言い方をされると、簡単には反論できない気分にさせられる。

 しかし、そもそもジェンダーはネガティブな意味しか持たないようなものなのだろうか。具体的な中身は違っても、ジェンダーが存在するということそれ自体は人類に普遍的である。なぜ、人類は時代や文化の違いを越えて、そんなものを作り維持してきたのだ、という話になる。

 答えは簡単で、ジェンダーにはそれなりの合理性があり、ポジティブな価値をも持つからである。正確にいえば、それは時代の変化に伴って、ポジティブな価値を維持できるように、編み変えられつつ、現在にいたっている。だから今後もジェンダーの内容を固定的に考えるのではなく(もちろん否定するのでもなく)、その時々の必要に応じて編み変えて行けばよいのである。

 以上に示した通り、ジェンダーフリーの前提には3つの誤りがある。

  1. ジェンダーをネガティブな意味しか持たないものと決めつけていること。
  2. ジェンダーを実体的に「モノ」化してとらえていること。
  3. ジェンダーを「固定化される」か「否定・消滅させる」かという両極端な二者択一でしか考えず、ジェンダーの編み変えという発想が欠如していること。

 この3つの誤った前提が、ジェンダーフリーのイメージ戦略の根幹に置かれている。いいかえれば、ジェンダーフリーはその前提から間違っているのである。


 さて、一度ここで性教協から離れて、他の場面ではジェンダーフリーがどのようなものとして考えられているか、またどのように推進されているのかを見てみよう。

 まず、男女共同参画基本法。『ラディカルに語れば』(平凡社)という上野千鶴子の対談集の中に、その制定にあたって中心的な役割を果たしたとも言える大澤真理との対談が収められている。そこには次のような意味のことが書かれている。この法律に先立って、平成8年7月30日の男女共同参画審議会の答申「男女共同参画ビジョン」というのがあった。この「ビジョン」において大澤は、男女共同参画審議会で「ジェンダーそのものの解消をめざす」こと(P21)、「ジェンダーフリーをめざす」こと(P26)が合意事項だったと証言している。

 これを知って、「ジェンダーフリー」が「ジェンダーそのものの解消をめざす」ことと同義だとわからなければ、どうかしている。政府が昨年から今年にかけて、男女共同参画基本法は結果の平等を目指すものではない、性差否定を狙ったものではない、ジェンダーフリーは公用語ではない等、繰り返し確認しているのも、今更ながらこれに気が付いたからである。

 次に、昨年話題になった、「千葉県男女共同参画の推進に関する条例」(廃案)。これを強引に推し進めようとしたのは、堂本暁子知事である。この堂本知事、元は与党(さきがけ)の国会議員であり、男女共同参画基本法の制定の原動力となった一人である。そんな人物が、知事就任後に「日本一の条例」と銘打って力み返ったのだから、とんでもないことになった。

 県の入札でもジェンダーフリーの達成度の低い企業にハンディをつけるとか、ジェンダーフリーにそぐわない「情報」を規制する(これには一般刊行物やさまざまな表現も対象になる)などが、条例案に盛り込まれていた。当然、県議会での反発も大きかった。条例案に繰り返し登場する、「性別にかかわりなく」という表現が性差の否定ではないかという意見に対して、またとんでもない発言をしている。

「この『性別にかかわりなく』は基本法(男女共同参画基本法)の根幹とも言えるもので、社会の慣習や制度、人々の意識の中にある男女の役割に対する固定的な見方をなくしていこうというものです」
(02年10月1日、定例県議会)

 県民の「意識の中」にまで手をつけようというのだから、これは明らかに憲法違反であり、それ以前に近代原理からの逸脱である。個人の内面に対する束縛は、中世キリスト教社会や社会主義国ならともかく、現在の日本で許されることではない。しかもこれは言葉のあやではなく、前述のように情報規制等の手段を伴うものとして構想されていたのである。

 有事立法を批判する報道は目立ったが、その陰ではジェンダーフリー論者が思想統制を企てていたのだ。もちろん、このような検閲・思想統制の発想はとっくの昔からフェミニストが持っていたものだが、現在はそれが行政の中に入り込むことによって、現実のものになろうとしている。

 さて、これらについての性教協の意見は、どのようなものになるのだろうか。「性差の解消」を志向するという合意が盛り込まれた「男女共同参画ビジョン」に対して、はっきりノーといえるのだろうか。また、千葉県の条例案はどうか。ジェンダーに束縛されない生き方を実現するために、情報規制を許し、県民の「意識の中身」に手をつけることを許して、それで丹藤のいう「自分らしさにこだわって生きて」ゆくことが可能だろうか。フェミニズム/ジェンダーフリーのこのような構想こそ、自己実現どころか人権蹂躙である。そういえば編集部が、三橋順子さんに対するインタビューの中で、

 もちろん「なんで自民党なんだ」といういぶかりの声は大きかった。マイノリティ問題,人権問題に一番縁遠い党が自民党ですから当然の疑問です。

と発言していた。しかし、千葉県の人権蹂躙条例を廃案に追い込んだのが自民党の県議であったことは、否定のしようのない事実なのだ。このことは記憶に留めておくべきであろう

 もちろん、教育もまた生徒・児童の意識改革として利用できることは、いうまでもない。これについて性教協はどう考えているのか。男女別学校の共学化については事実に反することをいい、ジェンダーフリーに都合の悪い事実には口を拭い、それによってどのような社会の実現を目論んでいるというのか。

 口では何と言おうと、ジェンダーフリー教育は、事実上「特定の価値感を刷り込む洗脳」以外の何物でもない。ここに挙げて指摘したことどもが、そのことを如実に示しているだろう。

83/120

管理人日記

123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930

カテゴリー

アクセス数
ページビュー数