小説
第9話 「雨音」
雨は勢いを増していた。
帰って行く彼の足音は、雨音に消されて聞こえない。
ここにいたことも私を愛したことも、すべて流されて、消えてしまう。
◇
彼が指揮する楽団で、私はチェロを弾いている。
壮大なオーケストラに君臨し、激しく空を切る彼のタクト。
華麗に、情熱的に、そして、時に官能的に。
挑戦的な視線、迸る汗。
その動きに合わせて私の弦も踊り、彼と一つになる。
私たちがつきあっていることは、オーケトスラの中では秘密だった。
指揮者と一人の団員が親密であることで、楽団の統率が乱れてはいけないという、彼の信念によるものだった。
だから二人きりで会うのは、遠く離れた場所か、私の部屋に限られていた。
公演の夜はいつも、私はワインを用意して彼を待っている。
その夜も、彼は私の部屋を訪れた。
けれども、いつになく厳しい彼の瞳。
「どうしたの?」
「かおり、君……今日は演奏しながら他の事を考えていたね」
その言葉に思わず手元が狂い、ワインオープナーで指を傷つけてしまった。
彼は黙って近づいてきて、私の傷口に唇を押し当てた。
「大丈夫かい?」
「……あなたには何でもわかってしまうのね」
「僕の耳はごまかせないよ。指揮しながらでも、全員の音をもれなく拾っているんだから」
そういう言い方は悲しいわ。
あなたにとって私が、ただの「団員の一人」であることを思い知らされるから。
けれども、私はそんな言葉を押し殺す。そして、
「公演の前に、噂を耳にしたの」
「噂?」
「あなたが……婚約したって……」
相手は、皆がよく知っている女性。
楽団のスポンサーである大手楽器会社の社長令嬢。最近は公演の度に楽屋を訪れ、彼と親しげに接しているのを幾度も目にした。
彼は答えなかった。
私の傷を手当てしながら、やがてぽつりとつぶやいた。
「雨の音だ。雨が降り出したようだね」
「そう? 気づかなかった」
窓辺に近づいてみると、小さな粒がガラスを濡らしていた。
背中を向けたまま、
「それで? 今日は私にお別れを言いに来たの?」
彼は足音もたてず近づいてきて、後ろからそっと私を抱いた。
「どうして? 僕は、君と別れるつもりはないよ」
唇をかみしめる。
いつもそうだ。いつもはぐらかされる。
彼の本心は、霧雨の中にあるようにぼんやりと見えない。
先のことなんて、何も見えない。確かなことなど、何一つない。
彼は唇を近づけてきたが、私は体をそらせ、そっと離れた。
「ごめんなさい。今日は、帰って」
「すねてるのかい?」
彼は笑いながら、肩をすくめて見せた。
「もう……疲れたわ」
彼はため息をつき、何も言わずにドアを出て行った。
「かおりさん、最近元気がないね、どうかした?」
練習前、チェロの手入れをしている私に声をかけてきたのは、第1バイオリンの和樹だった。
「ううん、別に何も……」
「それならいいけど……俺のせいじゃないかって、心配になって」
「違うのよ」
私は慌てて首を振った。
「あの話は、まだ結論は出てないけど……前向きに考えてみるつもりよ」
「本当?」
和樹は目を輝かせて、頬を上気させた。
3日前、和樹からロンドンのオーケストラに一緒に行かないかと誘いを受けていた。
「どうして私を誘うの?」と問うと、
「鈍感だなぁ。君のことが好きだからに決まってるでしょう」
と言い、いつもは明るく軽い調子の和樹が、
「できれば、奥さんとして連れて行きたいくらいに、想ってるのに」
そう真顔でつぶやいた。
和樹と話していると、いつも気持ちが安らいだ。
楽団が誇る天才バイオリニスト。それでいて気取りはなく、男女問わずたくさんの人たちから好かれていた。
迷わず和樹の胸に飛び込めたなら、きっと幸せになれるだろう。
ロンドンに行ってしまえば、彼のことも忘れられるかもしれない。
柔らかな夢のように、静かな感情が胸を覆っていく。
けれども……
いざ練習が始まり、颯爽と指揮台に立つ彼の姿が飛び込んでくると、私の淡い夢は切り裂かれ、ちぎれ飛ぶ。
そして、思い知らされるのだ。
苦しい。苦しくてたまらない、それでもどうしようもなく……私は彼が好きなのだと。
彼自身の口から婚約のことは発表されなかったが、団員たちの間では様々な憶測が飛び交っていた。
「式の日取りまで決まった」
「相手の楽器会社を継ぐらしい」
「楽団の指揮者には別の人が選出されるだろう」
雨は一週間も降り続いていた。
あの夜以来姿を現さなかった彼が、突然私に会いにやってきた。
今度こそ、別れの時が来たのだ。私は覚悟した。
いつものように彼を招きいれ、いつものようにクーラーからワインを取り出した。
「和樹から聞いたよ」
彼は私の目を見ずに言った。
「ロンドンに行くのか?」
彼はいきなり立ち上がり、私に覆いかぶさるように抱きついてきた。
「行くな……ロンドンになんか、行くなよ」
これまでの私だったら、強く彼の背中を握り返し、喜びに涙しただろう。
だが、私は呼吸を整え、静かに言った。
「どうして? 私の勝手だわ」
彼の力が、ふっと緩んだ。
「結婚して楽団をやめていくあなたに、関係のないことだわ」
彼は眉間にしわを寄せ、低い声で
「誰がそんなことを言った?」
「みんな知っているわ。私、騙されない」
「バカな……」
彼は椅子にかけ直し、グラスのワインを一気に飲み干した。
「僕は結婚なんてしない。君と別れる気はない。前にも言った。どうして信じられない?」
「前にも? そうね、聞いたわ。別れないって……でも、」
涙があふれ、声が揺れた。
「でも、別れないと愛しているは、違うわ。あなたは、私を愛してなんか……」
「もういい」
そう言って私をさえぎると、彼は再び立ち上がり、くるりと背中を向けた。
表情は見えなかった。
そうして彼は、「さよなら」も言わずに出て行った。
私は翌日、退団届けを出した。
ロンドン行きの話も断った。
和樹は驚き、落胆していたが、
「かおりさんの好きなように生きたらいいよ。幸せを祈ってる」
と、笑って送り出してくれた。
富山の実家に帰り、父の経営する喫茶店を手伝う決心をしていた。
クラシックと読書が好きな父の喫茶店は、蓄音機でレコードを流し、たくさんの古書を図書館のように並べていた。
まるで大正時代のカフェのようだと、地元では評判の店だった。
あの静かな空間で、彼のことも楽団のことも忘れて、一からやり直そう。
しばらくは、つらい日々が続くだろうけれど。
雨のロータリーで、夜行バスを待っていた。
大きなチェロのケースはかさばったが、これだけはどうしても業者に頼む気にはなれなかった。
バスが到着した。列の最後尾に並び、静かに進む。
そのとき。
「かおり」
振り返ると、彼が立っていた。
「……どうして?」
駆け寄ってきた。息を切らしている。
「走ってきたの?」
「ああ」
バスの運転手が、
「乗らないんですか?」
と叫ぶと、それに答えようとした私より先に、彼が声を上げた。
「ええ、この人は乗りません」
バスはプシューと扉を閉め、出発した。
彼は「間に合ってよかった」と、笑った。
その表情は、これまでに見たことないほど生き生きとしていた。
いつも綺麗に整えてある髪は無造作に乱れ、コットンシャツのボタンは全部はずれている。
「いったいなんなの? どうしたの?」
「愛してるよ、かおり」
耳を疑った。
「……」
「愛してる。愛してる。愛してる」
彼は空に向って、声を張り上げた。
「今まで言わなかった分、全部言ってやる。愛してるぞー かおり!」
彼の胸に飛び込んだ。
「僕も楽団を辞めた。首になったんだ」
「どうして?」
「令嬢からのプロポーズを断ったからさ」
「そんな……」
「心配しなくていい。最初からそのつもりだった」
ごめんなさい……つぶやいたつもりだが、声にならなかった。
やっと絞り出した。
「私も……愛してる」
いつのまにか長雨はあがっていた。
小さな雲間で星が瞬いた。
第9話 終
9/1
プロフィール
- Name
- 小宮山蘭子
- Birth day
- 9月2日(おとめ座)
- Blood type
- A
- Address
- 長崎
- ☆☆☆
- 小説投稿サイト「小説家になろう」を中心に作品を発表★『華神』にて公式企画「夏のホラー2009」人気投票1位★『嘘つきカレン』にて企画「犯罪が出てこないミステリー」大賞(2009)★『月を産む』長崎新聞掲載(2000)

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