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安東氏系図とその系譜意識

 武家の系図には、姓名や続柄だけでなく、その人の事績なども記載されているため、安東氏研究にとっては重要な史料でした。安東氏、安藤氏の系図に関しては、多くの安東氏関連本で扱っていますが、様々な系図の内容と、その違いについて、そして系図編纂に込められた思いについて、掲載されている事柄をまとめています。
 安藤氏と安東氏との使い分けについては、各本様々ではありますが、本サイトでは、十三湊安藤氏直系の安藤義季までを「安藤氏」、庶子系で宗家を継いだ政季からを「安東氏」としています。

 contents 
1.安藤氏の系図
2.秋田家系図
3.藤崎系図
4.安藤系図
5.下国伊駒安陪姓之家譜
6.下国伊駒安倍姓家之記録
7.安東氏の系譜意識
8.エピソード
9.安藤氏と安東氏
10.安東氏の歴史

 ⇒ 参考文献はこちら

凡例:
1.文章末尾に〈註no.〉があるものは、その章の最後に註釈で解説しています。
2.文章末尾に(no.)があるものは、特に引用・参考文献を明らかにしています。
3.リンクが貼ってある氏名は、武将列伝のページも御覧ください。
4.リンクが貼ってある関連史料は、関連史料のページに原文等と解説が掲載されています。

安藤氏の系図

 安藤氏に関する系図は多数あるが、その内容から整理して、「藤崎系図」(続群書類従所収)、「安藤系図」(続群書類従所収)、「秋田家系図(秋田系図)」、「下国伊駒安陪姓之家譜(しものくにいこまあべせいのかふ)」(湊文書)を代表とする四系列のものが知られている(1)。また、安藤氏の本姓は、安倍となっている。例えば、護国寺に奉納された「嘉元の鐘」には安倍季盛の名が刻まれている 〈註1〉
 安藤氏は、室町時代に南部氏に攻められ、嘉吉三年(1443)、二度目の蝦夷地に逃れた際に、惣領家の家伝文書を南部氏に奪われたこと、また、安藤康季と嫡子義季が先祖の地を奪還しようとする戦いの中で、共に津軽の地で亡くなり、庶子系の政季がその跡を継いだことによって、宗家となった秋田氏には「家伝としての系図」が存在せず、江戸時代初期の段階で秋田実季が先祖について改めて調べるような状態であった。つまり、系図の内容の信憑性は高いとはいえないところがある。近年、政季の系統ではなく、十三湊安藤氏の時代に、蝦夷地に居住し北方交易を担っていた「下国家 〈註2〉直系の分家」に伝わる系図が、秋田系図や藤崎系図よりも古い形態であるとして、注目されてきている。
 安藤氏に関しては、歴史史料、特に第一次史料(その出来事の当時に書かれていた文書)がほとんどないことから、初期には系図を元とした研究が進められた。系図は後世に編纂されることが常であり、そのため記載されている人物が実在したとは限らない面がある。ただし、その当時の伝承や認識、そして編纂するに当たっての主張が伝わってくる。
 安藤氏関連本に書かれている、安藤氏の系図についてまとめてみたい。
  • 註1:「嘉元の鐘」は、藤崎にあった護国寺に奉納された鐘。嘉元四年(1306)八月、得宗北条貞時を大檀那、安倍季盛ら津軽の地頭層を施銭檀那として鋳造し奉納された。青森郷土館にレプリカが展示されている。安倍(安藤)季盛は、その当時の安藤氏惣領とみられ、後に北条貞時の一字をもらい貞季と改名した(17)。季盛は、安藤の乱の一方の当事者、又太郎季長の父とみられている(33)。
  • 註2:下国家(しものくにけ):下国とは松前より東、「日ノ本」と呼ばれていた道東・千島に至る北海道太平洋岸全域の呼称(31)。よって、その地の支配者たる家柄であることを示す。永享四年(1432)十月の満済准后日記には、「奧の下国与南部弓矢事に付て、下国弓矢に取負、エソカ島へ没落云々。」と書かれていて、十三湊安藤氏は「下国」と呼ばれていた。また、天正五年(1577)、織田信長は安東愛季の鷹献上に対して太刀一腰を送ったが、信長書状の宛所は「下国殿」とあり(9)、檜山安東氏が下国を号したことがわかる。  

秋田家系図

 秋田系図とも呼ばれている。この系図は、江戸時代の初め、幕府から伊勢朝熊に蟄居させられた秋田実季が編纂した系図である。子の二代藩主俊季が寛永18~20年(1641~43)に幕府の「寛永諸家系図伝」編纂に提出した系図が、湊鹿季を祖とする湊系図であったことに実季が怒り(33) 〈註1〉、自ら系図編纂に取り組み 〈註2〉、死の前年の万治元年(1657)に完成させた。実季の手紙には、自分の祖父、曾祖父についてすら誤解していたという旨が書かれていて(1)、安藤氏の歴史は宗家であっても伝えられず途切れてしまっていたことがわかる。よって、秋田家系図には、安藤盛季はあるが、安藤宗季師季など安藤氏の繁栄をもたらした人物の名が出てこない。
 秋田家系図と藤崎系図の内容が、長髄彦の兄安日から貞任の孫、堯恒(たかつね)までの部分 〈註3〉が、藤崎系図と同じ世系である。秋田家系図よりも藤崎系図の方が古い成立とされていたため、秋田系図は藤崎系図をまねたのではないかと疑問を持たれていたが、近年では、藤崎系図の方が秋田系図を模倣したとされている。

 両系図では、長髄彦の兄・安日王は、弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に河内の日下で抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の祖となっている。
 秋田家系図では、安藤氏は弟の長髄彦とともに神武天皇の東征に抵抗し、外の浜に追放された「安日王」(その後は醜蛮と号した)の子孫で「蝦夷」系譜をひく氏族であるという、特異な始祖伝承をもっている。またこの安日王の末裔から奥六郡を支配した安倍頼良・貞任父子があらわれ、貞任の遺児高星(たかあき) 〈註4〉が安藤氏の始祖となったと主張している。
 この系図では、近世初頭作成のものながら、蝦夷系豪族という安藤氏の性格と安倍氏の子孫というのが安藤氏の属性であり、鎌倉御家人の子孫であった他の北奥羽の大名・領主と違って、安藤氏が「蝦夷」と呼ばれた現地系豪族であり、「蝦夷の子孫」として扱われていたこと、そして安藤氏としての自己主張を物語るものとして注目されてきた。

〈話題〉
・安藤鹿季:秋田家系図には「湊鹿季、応永ノ初メ甲兵百余騎ヲ率ヒテ、秋田之湊ヲ伐ツ。コレ湊家ノ元祖也」と書き、この鹿季を十三湊・下国安東太郎康季の叔父(盛季の弟)、西関安東二郎とする。
・応永期の安藤盛季の項に「母は奥州国司北畠中納言顕家卿ノ女」とある(26)。
・高丸:秋田家系図には「高丸(モデルは蝦夷の酋長、阿弖流為)」が登場する。宝亀年間(770~80)頃、出羽鎮狄将軍に任じられた実在の人物安倍家麻呂のこととし、一条朝(986~1010)の国東(くにはる・安倍頼良の祖父とする)と天平宝字年間(757~64)の長国の間に入れている(33)。
  • 註1: 秋田実季の父は、安東愛季。檜山安東氏と湊安東氏を統合した人物である。檜山安東氏の祖先は十三湊安藤氏となり、十三湊安藤盛季の弟、鹿季が創設した湊安東氏よりも当然古い。
  • 註2: 実季は、系図編纂にあたっての原史料として、家伝や聞き書き、古事記・日本書紀、さらに「諏訪大明神画詞」(延文元年(1351)成立)や「真字本(まなほん)曾我物語」(鎌倉末成立)なども参照したことが推測され、戦国末の檜山安藤家の伝承に、秋田実季による系譜研究の成果が加わった産物であった(33)。
  • 註3: 藤崎系図では、安倍貞任の孫、堯恒の次の高任の代に、藤崎を離れ常陸国白鳥郷に移住している。
  • 註4: 高星:奥六郡を支配した安倍一族と「安藤氏」を結びつける役割を担っている。しかもそれは、安倍氏が滅んだ時の惣領安倍貞任の流れであることが望ましかった。秋田実季の時代には、安藤氏は安倍氏の流れであり、祖先の地は「藤崎」であるという認識を持っていたことが、秋田実季の手紙には書かれている(33)。秋田家系図・藤崎系図よりも古い形態を持つ「下国伊駒安倍姓家之記録」には、高星は登場しない。また、元禄年間の八戸南部藩家中湊季明から秋田の湊許季へあてた「秋田家先祖覚書」では、安倍貞任の子孫とはするが、高星の話も藤崎を発祥の地とする伝承もみえない(33)。
 

藤崎系図

 藤崎系図は、12世紀に津軽藤崎から常陸国白鳥郷に移住したという藤崎氏が書き残したものである。常陸鹿島郡札村住人藤崎家が所持していた系図を水戸藩の彰考館が採録した。「続群書類従」 〈註1〉によれば、藤崎系図は永正三年(1506)に作成(永承三年の書写奥書をもつ)されたのち、天文五年(1536)頃に追筆がなされたことになっている(1)。このことから、これまでは最古の安藤氏系図だといわれてきた。安倍貞任の遺児高星(たかあき)の子、堯恒の次の代となる高任が士卒とともに大挙して藤崎を離れ、常陸国(ひたちのくに)に移住したとある。
 藤崎系図では、秋田家系図と同様に神武天皇東征の時に滅ぼされた長髄彦の兄安日(あび)をその起点とし、崇神天皇の時代、安陪河内命が蝦夷を征した時、安日の子孫安東(やすはる)が先鋒をつとめて安陪姓を賜ったという(16)。その後に高丸を入れ、高丸の子孫国東(くにはる)そして安陪忠良、頼良(頼時)、貞任と奥州安倍氏をその末裔に位置づけている。
 安倍貞任が前九年の役で敗死した後、当時三歳の遺児高星(たかあき)が乳母に抱かれて津軽藤崎に逃れ、後に藤崎城主となり、さらにその子堯恒が安東太郎、後に藤崎太郎を号したという。ここにはじめて安東姓がみえ、高星が津軽安藤氏の祖であるという説の根拠となっている。

 「藤崎系図」は、奥書にある永正3年(1506)に藤崎右京亮の求めに応じて「旧記」を筆写したものを藤崎家が所持していた(33)ということから、戦国期以前の成立で、秋田実季がこの系図を有力な資料として秋田家系図を作成したとされてきたが、現在の研究では両者の関係は逆で、秋田系図をもとに藤崎系図の始祖伝承の部分がつくられた可能性が強いとされている。

〈話題〉
・高丸:この高丸のモデルは、実在の蝦夷の酋長阿弖流為(アテルイ)である。「諏訪大明神画詞」が成立した延文元年(1356)、室町時代初期には、奥州安倍一族の祖先が高丸であり、安藤氏は安倍氏の子孫という認識があった。この高丸伝説の原形は、平安時代末期には確認できる「悪路王・赤頭」伝説で、東国社会に広まっていたものであった(33)。それが鎌倉末期頃から「あくじの高丸(義経記)」として武家風の名前に変わっていき(33)、天台系の聖によって各地に語り広められた(1)という。
  • 註1:『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国学・国史を主とする一大叢書である。塙 保己一(はなわ ほきいち)は、 江戸時代後期の国学者。古書の散逸を危惧し、江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て古書の収集をし、これを編纂した。「続群書類従」は、群書類従に続いて塙保己一が計画し、没後は弟子たちが引き継いだ。
 

安藤系図

 「安藤系図」は、水戸藩彰考館の嵬集、丸山可澄編纂の「庶家系図纂」が底本の「続群書類従」に収録されている。その伝来過程、作成年代が明らかではない。
 この系図では、祖は第八代孝元天皇に始まり、四道将軍の一人大彦命に続いている。次いで孝元天皇の子孫阿倍比羅夫の系統となる。藤崎系図でも阿倍氏との関わりはみられるが、これほど明確ではない。その子孫が安倍忠良(安倍貞任の父である頼良の父)となり、奥六郡を支配した安倍一族とつながる。
 前九年合戦で討死した安倍貞任の弟、行任(白鳥八郎)の子が白鳥太郎則任(実は貞任の子とする。平泉藤原清衡の子、惟衡(これひら)の養子とある)、その子が白鳥小太郎和任で、四歳の時に父滅亡し、家人と山中に隠れた 〈註1〉 。平泉藤原惟衡に男子なく、祖母(貞任の妹)の縁により、数年後その子を迎えて養子として家督をつがせたという。惟衡は則任とその子和任を共に養子としたことになる。
 和任の子、季任が成人の後、本姓の安倍と養父の藤原の姓を合わせて安藤を号し、奥羽安藤氏の元祖となり「安藤太郎」を称したとされている(9)。
 そして、その子安藤小太郎季俊(すえとし)のとき、文治五年(1189)奥州合戦で源頼朝の幕下に属し、その子安藤太季信(すえのぶ)のとき「津軽守護人」に抜擢された(1)、とある。
 この系図には、秋田家系図や藤崎系図にある「高星」は登場しない。

〈話題〉
・この系図にのみ、阿津賀志山(あつかしやま)合戦の功労者安藤次(季信、津軽守護人)や鎌倉末期の有名な安藤の乱の立役者、安藤又太郎季長の名が惣領名としてみえる。
・安藤季長の没落後その子季綱は秋田に移住し「秋田安藤次郎季道(始宮方後属尊氏)」で、この系図は終わっている。
・安藤系図は鎌倉時代の津軽安藤氏惣領の世系をある程度正しく伝え、また南北朝初期の秋田安藤氏にもふれている点で、安藤氏研究上重要な参考史料であるとの指摘(9)もあるが、「吾妻鏡」など比較的入手しやすい史料にみえる記述であるから、慎重になる必要があるとの指摘(1)もある。
・阿倍比羅夫をはじめとする阿倍氏の系譜がとりこまれている点が、「下国伊駒安陪姓之家譜」との関連で注目される(1)。
  • 註1: 本によっては、四歳で山中に逃れた子が則任とするものもある。本説明文は、インターネットで検索できた「続群書類従−安藤系図」により確認した。和任の子、季貞が本姓の安倍と養父の藤原の姓を合わせて安藤を号したのは各本一致する。
 

下国伊駒安陪姓之家譜

 「下国伊駒安陪姓之家譜」〈註1〉 は、十三湊安藤盛季の弟、鹿季が祖となる湊家の系統である八戸湊家が三春藩の「秋田家系図」や松前藩の「新羅之記録」を参照してまとめた系図であり〈註2〉、元禄時代に成立した。八戸湊家が秋田家や松前家中下国家と同族で、中世後期の日の本将軍下国家に連なる家系であると主張するために作成され伝領された系図である(35)。
 明治三十七年(1904)に帝国大学修史局(東京大学史料編纂所)によって陸奥国三戸郡八戸町湊季通氏蔵本〈註3〉として影写本に採集された(35)。
 「下国伊駒安陪姓之家譜」は、安藤貞季以降の世系は「秋田家系図」に近いが、事跡についての記述はかなり異なる。とくに南部氏との抗争について、この家譜にしかみられない記述があることが重視されていた(1)。
 この家譜では、冒頭の安日長髄を欲界第六天主、他化自在天の内臣天魔の次男とする。これによれば、安日長髄は一人の人物で、安日が姓、長髄が名のように読める。この後に安日長髄が神武天皇と戦って敗れ、醜蛮と改名してツガルに流された、と書き続けている。その後で、中世に流布した阿倍仲麻呂鬼伝説 〈註4〉とその子孫とされる奥州安倍氏の記事を経て、安藤貞季〈註5〉につながる。
 南部氏との抗争に関しては、嘉吉三年(1443)12月、十三湊の盛季が婿の南部義政のために十三湊を攻め破られ、津軽を乗っ取られて松前に逃げたとし、ついで盛季の子康季が文安二年(1445)、蝦夷島より再び津軽に来たが、引根城で病死し、南部氏の代官が葬って般若寺を建設した。
 その後、康季の子、義季は享徳二年(1453)、津軽鼻和郡大浦郷狼倉館にたてこもったが、南部氏に攻められて自害し、下国惣領家はここで滅亡したという。
 さらに家譜は、潮潟四郎道貞の系譜を引く師季(政季)は、十三湊落城のとき捕らえられて糠部八戸にいたらしいが、嫡流家滅亡を知ると、享徳三年(1454)、武田信広らのはからいで下北の大畑より蝦夷島に脱出し、やがて秋田湊家によって、津軽と接する出羽国河北(秋田県山本郡)に本拠を置くこととなった。蝦夷島には一族下国氏や蠣崎季繁(すえしげ)、武田信広らを配したという。 

 秋田家系図および藤崎系図と、下国伊駒安陪姓之家譜を比較した結果、次の点から、家譜の方が前者よりも古い形態を示しているという。1.遠祖である「安日・長髄」の記事が、下国家譜の方が『曽我物語』に近いこと。2.秋田家系図では安倍貞任と安藤氏は直接の子孫であるが、下国家譜では、家譜では「安日」の子孫長国が貞任と同盟したとあり、家譜の方が原初的であること。さらに、下国家譜での安藤盛季以後とそれ以前では、記事内容に史実と伝承のような質的相違があることが指摘されている(36)。また、下国家譜においても、秋田家系図および藤崎系図と同様に、盛季の父である師季(高季)、祖父である宗季(季久)の名前が出てこない。このことは、本系図の原形は、安藤氏の十三湊時代以後に作られたことを示すものであろう。

〈話題〉
・下国伊駒安陪姓之家譜の名称は、本によっては「安陪」を「安倍」とするものがある。
・「下国伊駒安陪姓之家譜」と「下国伊駒安倍姓家之記録」は、双方とも「安日長髄を欲界第六天主の内臣天魔の次男」としている。
・長髄彦が神武東征軍に討たれる話は、「日本書記」巻の第三に出てくる。しかし、安日王は出てこない。安日王伝説は、鎌倉末期に生み出されたもので、初出は、妙本寺本の「曽我物語」である(26)。
・家譜には、盛季を「長髄百代之後胤」と注記している。足利義満時代に流行した百王思想の投影が見られる。遠祖伝承が十五世紀前半の盛季の代に形成された可能性がある(36)。
・家譜には安藤盛季に「安藤太郎、津軽十三湊安大納言」と注記する(1)。
・家譜には、盛季の死を応永二十一年(1414)とする記事がある(1)。とすれば、盛季は渡海の時には、すでに死亡していることになる 〈註6〉
  • 註1:「伊駒」は安東氏の祖先とされる安日・長髄彦が支配していたとされる、河内国の生駒山地にちなむ名称であり、秋田実季は徳川幕府から常陸宍戸(現、茨城県笠間市平町)に転封された後、一時「秋田」から『伊駒』に改姓している。
  • 註2:「下国伊駒安陪姓之家譜」は安藤氏庶子系の子孫である松前下国氏に伝えられた伝承にもとづき成立したものと推測されている(1)。
  • 註3:下国伊駒安陪姓之家譜は、湊文書の一つである。湊文書と称するものには、「八戸」・「秋田」と別にある。八戸の湊文書は、秋田実季に敗れた湊安東通季が南部に逃れ、後に八戸藩に仕えた氏族から伝わった。現在では、八戸湊文書と呼ぶべきとされている。
  • 註4:遣唐使となった阿倍仲麻呂が唐の重臣に幽閉され、自ら断食をして死を選び異国の地で鬼となった。そして、仲麻呂の代わりに来唐した遣唐使に協力し、本懐を遂げたという伝説。
  • 註5:「秋田家系図」では、貞季を盛季の父としているが、「下国家譜」では、貞季は盛季から150年余り遡った後鳥羽院時代の人物で、建久三年(1192)に姓を安日から安倍へと改め、「日下将軍外浜殿」と呼ばれた人物としている。
  • 註6:安永9年(1780)、松前藩家老松前広長が脱稿した史料集成「福山秘府」では、安藤盛季の死亡年は、文安元年(1444)である(33)。この場合は、二度目の蝦夷地亡命の翌年に死亡したことになる。
 

下国伊駒安倍姓家之記録

 「下国伊駒安倍姓家之記録」は、松前藩主松前家の家臣として存続した下国氏の系譜である(4)。函館中央図書館所蔵。この系図は、内容の吟味から、安藤氏における家伝の古い形態が取り込まれていると判断され、中世の安藤氏系図の古態を伝えたものである(28)と考えられている。
 始まりを「欲界の六天」(この世のすべて)の最高位に住む第六天魔王 〈註1〉の次男安日長髄 〈註2〉とし、神武天皇と大和の支配をめぐって戦うが敗れて生虜となり、「醜蠻(しゅうばん)」と名付けられて津軽外浜に遠流となり、蝦夷の祖となった。また、「安日」が姓となり、それが「安倍」姓に改められ、安東浦(あんどのうら)を拠点とした「醜蛮」の子孫は、代々「安東太」を名乗ったという。
 系図の中には、父「安陪仲丸」(モデルは阿倍仲麻呂)の敵討ちを許されなかったことから、天皇を恨み東北地方に走った「安陪広庭」、その子孫で朝敵となった「安陪頼時」と「貞任」・「宗任」父子(モデルは前九年合戦を戦った安倍氏一族)のエピソードも配置されている(28)。
 この系図では、「秋田家系図」と違って安藤氏を安倍貞任の子孫としていない。奧六郡の安倍氏は、称徳天皇時代の安陪仲丸(仲麻呂)の子廣庭の子孫で、廣庭が奥州に下り、下国安藤氏の「同姓一族」と称したもので、その子孫安倍頼時のとき安東太長国が頼時と「同心」して朝廷と戦ったとする。このことは、安藤氏を安倍貞任の遺児高星丸とする系譜伝承が、必ずしも古いものではないことを示す(33)。
 また、津軽に入った安藤氏初代の安東太貞季〈註3〉について、藤崎についてはいっさいふれずに「下国安東太郎安陪貞季、日下将軍外浜殿也」としているので、安藤氏の発祥は外浜とされていることになる(17)。

〈話題〉
・秋田家系図にある人物名が「下国伊駒安倍姓家之記録」にはないものは次のとおり。貞秀(安東太郎)−安藤五郎堯秀(たかひで、義時が任命した初代の蝦夷管領)−愛秀(初めて十三湊住)−堯勢(たかなり、安東太郎、元弘の乱で新田義貞に同心し奥州で挙兵)(33)。つまり、秋田実季が調査・考察して系図に記載した人物名となるであろう。
・下国伊駒安倍姓家之記録の名称は、本によっては「安倍」を「安陪」とするものがある。本名称は所蔵する函館中央図書館に準じた。
  • 註1:第六天魔王とは仏教思想で「欲界の六天」の最高位にあたる「他化自在天」に住む魔王で、仏法の流布を妨げ、天皇の統治を妨げる魔王として、平安時代以来の中世の人々の間に広く認識されていたものであった。安倍姓家之記録は「真字本曾我物語」にみえる「安日」をこの第六天魔王につなげて、その「内臣二男」としたものである。
  • 註2:「安日長髄」とは、「安日という鬼王」と「長髄彦」とが合体した名称といえる(28)。安日は「妙本寺本曾我物語」にみえる神武天皇に敗れて外浜に逐われ、「醜蛮」(蝦夷・えぞ)の祖となった。長髄彦は記紀神話に書かれていて、神武天皇と大和を争った。秋田家系図・藤崎系図では、始祖は安日王となっている。
  • 註3:この系図での「安東太貞季」は、後鳥羽院時代の人物とされている。後鳥羽院は、第82代天皇(在位:1183年~1198年)。つまり、貞季は奥州藤原氏末期の人物となる。
 

安東氏の系譜意識

 安東氏の系図においては、自らの出自を「蝦夷」とする。これは、多くの武家が遠祖を「源氏・平氏・藤原氏・橘氏」におき、血筋の正当性を主張したのに対して、数ある有力な中世豪族のなかで明らかに異質なものであった。このことは、安藤氏蝦夷地支配の正当性を主張することに他ならない。「下国家」と号した安東氏にとって、蝦夷地との交易によってもたらされる富は、自らの力の源泉であった。
 安東氏の蝦夷地支配のきっかけは、元久三年(1206)、北条義時による安藤五郎の「蝦夷沙汰代官」への任命 〈註1〉である。鎌倉幕府の執権である北条氏は政敵を葬り自らの基盤を強化する中で、領地を拡大していき、その領地は得宗領と呼ばれた。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の領地に、次々と鎌倉御家人を送り込む中で、安藤氏は現地豪族として生き残り、津軽の外浜・西浜を拠点としていた。北条氏はその安藤氏に目をつけ、蝦夷地とそれを経由する北方交易に、それまでも従事してきた安藤氏を使ったわけである。(後に安藤氏は北条氏の被官となった。)
 これは、「蝦夷(えみし)のことは、蝦夷にさせる。」という考えによる(4)。安藤氏に、中央にかつていた武家の血が混ざっていようが、いまいが、古代(平安時代)から、えみしの地 〈註2〉に住み蝦夷との交流のある安藤氏に、蝦夷との交易と支配を任せることは理にかなったことであった 〈註3〉
 支配者にとって、系図は「支配」の根拠と正当性を他者に主張する道具として使われた。安藤氏は中央の人間が持つ「安藤氏と奥州安倍氏は同族」という認識を活用し、北奥の支配者として知られる安倍一族の子孫という位置を系図に取り込んだ。
 安藤氏の系図が、その形をなしてきた時期は、十三湊に本拠をかまえていた安藤盛季の頃だとみられている(4)。津軽の地においても南部氏の圧力が高まりだした(抗争が始まりだした時期)〈註4〉 となる(28)。また、「日ノ本将軍」との呼称を積極的に使い、津軽の地と蝦夷地を支配する正当性を内外に主張した 〈註5〉。南部氏との戦いに敗れ、故郷津軽の地を追われた安藤氏であったが、戦国時代にあっても蝦夷地支配 〈註6〉を事実上継続していき、豊臣秀吉が蠣崎氏に蝦夷地での交易権・支配権を認めるまで続いている。
 安藤氏の系譜認識は、日本国と「日の本」世界の両属性を持つ境界権力として抜擢され、その支配を体現した存在だからこそ持ち得たもので、そして安藤氏の持つ蝦夷に連なる「異端」でありながら、中央政権に忠勤を励む「正統」に従順でもあるという二面性のどちらも主張する必要性から生み出されたものだった(4)。
 北奥の支配者としての正当性(異端性)としては、「安日・長髄」、悪事の高丸(蝦夷の酋長阿弖流為)、安倍貞任があげられる。これらは中央に対する抵抗者であり、北奥の人々にとってのアイデンティティにつながる。
 中央政権からみての正当に従順な面では、第八代孝元天皇の子孫阿倍比羅夫を祖(安藤系図)、安国・国東は内裏に参内する存在(下国伊駒安倍姓家之記録)、安陪河内命が蝦夷を征した時、安日の子孫安東が先鋒をつとめて安陪姓を賜った(安藤系図)、奥州合戦で安藤小太郎季俊が源頼朝の幕下に属し、その子季信が「津軽守護人」に抜擢された(安藤系図)、などがあげられる。
 また、直接的には、安藤氏を津軽の地から蝦夷地に追いやった南部氏に対抗して、遠祖を神武天皇の東征に抵抗し、外の浜に追放された「安日」として、津軽領地支配の歴史的正統性を打ち出したという面も指摘されている。

 安藤氏の系譜の内容自体は、日本世神話や「曽我物語」、「源平盛衰記」、「神道集」などの諸書の影響が大きく、民衆に流布した説話・語り物・縁起なども系譜の土壌にあったことが指摘されている(4)。そして、このような祖先伝承は、十五世紀前半、津軽安藤氏の最盛期にあった十三湊安藤盛季のころに整えられたと考えられている。
 使われている中世の語り物としては、鬼王安日に関わる伝説(真名本「曾我物語」)、坂の上の田村麿を迎え撃った「悪事の高丸」の伝説(御伽草子の「田村草子」)、日の本将軍の伝説(説経「さんせう大夫」)、源賴義と戦った安倍頼良・貞任の後裔(高星)に関わる伝説(東北地方の土着性の濃い語り物)である(8)。これらは箱根権現に属する御前(ごぜ)や天台系の聖(ひじり)など、宗教を生業として全国を歩いた者や日本海交易に従事する者たちによって広められていった。
  • 註1:安藤氏と「蝦夷沙汰」との関わりについては、史料に明確に書かれているのは、北条義時による「蝦夷沙汰代官」への任命であるが、それ以前の鎌倉時代における「罪人の蝦夷地流刑」を現地で執行した奥州夷は安藤氏だとみられている。また、奥州藤原氏の「北海交易」は、藤原氏が直接行ったものではなく、現地で執行したのは安藤氏であることが想定される。
  • 註2:外浜(そとのはま)とは、「卒土の浜」からきたもので、その意味は「日本の国土のつきるところの浜」である。つまり、中世日本の境界の地であった。
  • 註3:これは夷島が「国外(異国)と国内の両方の性格を持つ地域」とされていたことを意味する。その支配にあたる者は日本人でも異民族(蝦夷)こそがふさわしいと考えられ、その適任者が安藤氏だった。安藤氏の系譜が実際に蝦夷につながるかどうかではなく、系譜上、蝦夷の末裔だと認められる程度の存在であればよいという、中央政権側の政策があったと考えられている(4)。
  • 註4: 応永二十七年(1420)、南部守行・義政父子、安藤氏領地に侵攻し、藤崎城・大光寺城を落城させる(10)。この前後に、南部氏(1418年)と安藤氏(1423年)は上洛し室町幕府将軍にそれぞれ莫大な進物を贈答している。
  • 註5: 若狭国小浜の羽賀寺文書には、「永享七年(1435)三月廿七日堂舎火 八季四月諸建本堂、然奥州十三湊日之本将軍為檀越、棒加酋大之賃銭」(15)という記事があり、安藤氏が「日の本将軍」と呼ばれていたことがわかる。
  • 註6: 蠣崎氏(後に松前氏)は、檜山安藤家の代官という位置づけだった。宗家である安藤家に蝦夷交易の利益を納めると共に、軍役も伴っていた。
 

安東氏の系図 エピソード

 昭和3年8月15日大阪朝日新聞に、大正期の歴史学者で蝦夷研究家でもあった喜田貞吉が伝える話として掲載された、安藤氏系図に関するエピードがある(26)。

 明治17年7月、参議、伊藤博文は憲法制定に先立って華族令を制定し、宮内庁は具体的な手続きのため、旧大名たちにそれぞれの系図の提出を求めた。
 各大名たちの系図は、「寛永諸家系図」や「寛政重修諸家譜」などで確認されていたが、ほとんどが江戸初期の編纂で、その先祖を天皇から分かれた形の「源平藤橘」の諸姓につながっている。
 この時、三春藩主秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図に宮内省が困惑した。同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。長髄彦は日本史上初めての皇室への反逆者である。皇室の藩屛になる華族の先祖が逆賊では困る。宮内省は、その取り扱いに苦慮し、(長髄彦のない)別の系図の提出を求めた。
 それに対して、秋田家の主張は「当家は神武天皇御東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りとしている。天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と当家のみである。」こう答えて、自家系図の改訂を断った、という。

 喜田貞吉は、秋田家の気概をたいそう褒めていた。また、このようなことがあったということは、公式的には秋田家は否定したという。

安藤氏と安東氏  ~安藤なのか安東なのか、その呼び名の違い

 「あんどう」氏に興味を持つと、「その姓はどうなのか」というのは、少なからぬ興味のある問題だろう。実は、あんどう氏関連本において、この件を明瞭に分析しているものはほとんどない。
 佐々木慶市氏は、「安藤の名字は奥州の俘囚長安倍と藤原の血脈を合わせて号したものである。(09)」とする。安藤系図において、「季任が成人の後、本姓の安倍と養父の藤原の姓を合わせて安藤を号し、奥羽安藤氏の元祖となり「安藤太郎」を称した」とされている。
 安倍貞任と血縁があろうがなかろうが、安藤氏の本姓は「安倍」あり、さらに奥州藤原氏の「藤」を貰い受け『安藤』として、地域支配者として名聞を作ったのだろう。佐々木慶市氏は、中世津軽安藤氏に関する根本史料にはすべて「安藤」と記され、「安東」は一例もない、と指摘している。
 一方、遠藤巌氏は、安藤・安東の混用もあって状況的に無視できない証拠もあると指摘している。例えば、延文二年、秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生したが、その処理を行ったのが「安東太」と書かれている。これは「安藤師季(高季改名)」を指す。建武元年(1334)、安倍祐季南部師行に宛てた書状にある「安東入道」は安藤宗季が高季に家督を譲った後の呼称とされている。これは同族であっても、「藤」か「東」にさほどのこだわりがないことを示しているのではないだろうか。書状が書かれている年代かつ同族であってもこのようなわけだから、史料であっても他者がどのように呼んだかという程度のものなのかもしれない。
 本題に戻り、宗家でたどると享徳二年(1453)、義季が南部氏に攻められて津軽大浦郷狼倉舘で討死し、下国惣領家が断絶するまでは、『安藤』氏であった。※斉藤利男氏は講演の中で、「十三湊に本拠を構えてからは『下国』氏である」と話されていたことを付け加えておきたい。
 では、『安東』氏はどこからか。安藤盛季の弟、鹿季が秋田に進軍し軍功をたてたことにより、応永二年(1395)、将軍義満が鹿季に湊家を創設させた、その際に「安東」を名乗ったのではないか。湊家は一貫として「安東」氏と呼ばれているようだ。
 秋田安東氏のもう一家、檜山安東氏についてはどうか。義季を斃した南部氏は捕らえていた安藤宗家の庶子系師季(安藤盛季の弟、道貞の孫。後の政季)に『安藤太』を名乗らせ、下国安藤氏の後継とさせた。津軽、下北に残された安藤氏に関わりの深い豪族を押さえる策である。その師季が蝦夷ヶ島に脱出し、湊安東堯季に招かれて秋田に本拠を移し、檜山安東氏の祖となった。祖先の地津軽奪還を目指した師季が、すぐさま「安藤」を捨てて『安東』とするメリットはないであろう。
 師季は、長禄四年(1460)、鹿角郡総鎮守大日堂に梵鐘を寄進しているが、その際は「大旦那安倍師季」とし本姓の安倍で、また、応仁二年(1468)、熊野那智神社に願文を奉納した際には、「安東下野守師季」としている。どの時点で「安東」としたからはわからないものの、秋田に本拠を移しこの地に根を下ろそうとして呼び名をかえたのであろう。
 大筋では、鎌倉時代は安藤氏。室町時代に津軽が安藤氏(下国家)、秋田が安東氏となり、安藤氏が南部氏に滅ぼされた以後は安東氏と理解してかまわない。

安東氏の歴史  ~平安時代から幕末まで

 安藤氏(安倍氏)は、秋田男鹿半島から宮城松島湾まで、沿岸部に広く居住していた氏族であった(8)。この中から、奥六郡を支配した安倍氏が台頭する。安倍氏は前九年の役で、源頼義と清原氏に滅ぼされたが、女系とはいえ安倍氏につながる奥州藤原氏に血脈はつながれた。
 奥州藤原氏は「東夷の遠酋」と自らを呼び、朝廷儀式に欠かせない北方産物(鷲鷹の羽、毛皮等)を都に供給したが、その蝦夷ヶ島との交易に携わったのが、津軽外浜を拠点としていた安藤氏であった。奥州藤原氏の流通を支えた「奥大道」の津軽終端は、外浜大浜(現、青森市油川)とされている。そして、安藤五郎家の居館「内真部館」(現、青森市奥内地区)に隣接する内真部(4)遺蹟からは、平安時代の住居跡と奥州藤原系統の「手づくねかわらけ」が出土していて、安藤氏と奥州藤原氏のつながりが推定できる(25)。
 外浜安藤氏が蝦夷地との交易に従事するようになったのは、地理的な必然があった。蝦夷地に住むアイヌ系の人々は鉄を造ることはできず、米、木綿や漆器なども本州から交易によって入手する必要があった。そして、津軽海流が西から東に流れることから、蝦夷ヶ島から下北半島へ渡りその後で陸奥湾沿いに進んだのであろう。また、本州津軽半島の沿岸部である外浜には、当時同胞であるアイヌ系の人々が居住していたことも好都合であった。
 鎌倉時代の「夷島流刑」では、京都での罪人を蝦夷地に追放したのだが、史料では建保四年(1216)「西国の流刑人を奥州夷に引き渡す」とあり、その刑を執行するのが、蝦夷地にもっとも近い「安藤氏」であったことが想定されている。

 奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされた後、安藤氏が担う「蝦夷交易」の顧客・依頼主は、藤原氏から鎌倉幕府に変わった。そして、執権北条義時から安藤五郎が「蝦夷沙汰代官」に任じられる。北条氏が自らの所領(得宗領)を拡大し、特に沿岸部の良港を支配していく中で、日本海交易や北方との交易が盛んとなり、安藤氏の役割と力は相対的に高まっていった。
 文永五年(1268)の蝦夷蜂起によって、外浜安藤五郎家当主(安藤五郎)が「頸を取られる」ことにより、外浜安藤氏から西浜安藤氏に惣領の地位が移動する。斉藤利男氏は、日本海交易が盛んになることにより、北方交易の拠点が外浜から西浜・十三湊に移っていったことも惣領家交代の要因の一つとなったとしている(34)。当時の安藤氏には、外浜系安藤氏と西浜系安藤氏の二大勢力があり、外浜安藤氏の拠点は内末部(現、青森市)、西浜安藤氏の拠点は折曾関(現、深浦町)であった。
 安藤五郎の敗死から約50年後の元応二年(1320)、再び蝦夷の蜂起が起き、それをきっかけにその当時の安藤氏惣領西浜系安藤又太郎季長と、外浜系安藤五郎三郎季久が激突する「安藤氏の乱」が勃発する。執権北条高時は蝦夷の蜂起を一時沈静化させた功績を認め、季長を更迭して季久を新たな代官に任命した。安藤氏惣領の地位は幕府の代官職と直結し、当時北条家の御内人であった安藤氏にとって惣領交代をも意味していた。季長はそれを不服として、北条氏に刃向かい季久に戦いを挑んだ。北条氏そして鎌倉幕府は関東からと津軽の豪族を合わせて、二度の軍勢を出陣させ、ようやく嘉暦三年(1328)「和談之儀」が成立したとして、戦いは終結した。幕府軍は西浜安藤氏の反乱を追討できなかったことになる。この戦いは、鎌倉幕府の無力さを全国に知らしめた。当時の史料である「鎌倉年代記」では、この蝦夷の蜂起を正中・元弘の変と同格に扱っているし、「保暦間記」にいたっては、反幕府蜂起事件としてこの蝦夷蜂起しか取りあげていない。幕府滅亡の主要原因をこの津軽大乱に求めているのである(1)。

 一度目の戦いで季長が北条軍に捕縛された後で、季久は宗季と改名し、旧領外浜に加えて、北条氏得宗領の宇曾利(下北地方)、中浜(津軽半島海峡岸)、津軽中央部尻引(弘前市中崎)を支配することになり、拠点を尻引の地に移した(31)。二度目の戦い終結の後、季長の旧領である西浜をさらに加えることとなる。この所領の移動は、安藤宗季の子息高季(後に師季)への譲状によって伝わっている。

 鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が派遣した北畠顕家が東北地方を束ねることになる。津軽の地は、中央の政局の前衛地帯となり、後醍醐天皇派と足利尊氏派に分かれて抗争が激化する。始めは北畠顕家に従っていた安藤氏は、北条氏領地が足利尊氏に継承されたこともあり、尊氏派に鞍替えした。この内戦を終え、安藤氏は沿岸地帯のみならず、津軽南方平野部を支配する「津軽守護」の地位をつかみ、室町幕府から郡守護である「屋形」号を得て、「下国屋形」と呼ばれるようにまで勢力を拡大する。安藤師季(高季)が十三湊に拠点を移した(31)後、十三湊が最盛期を迎えるのもこの頃であった。

 糠部の地(青森県東部と岩手北部)では、南部氏が一族の力を結集させ、南部氏惣領家として三戸南部氏が台頭してきた。現青森県を二分する勢力である両家が衝突するのは、歴史の必然であったのかもしれない。応永二十五年(1418)の南部氏上洛の後に、南部氏は室町幕府将軍直属の「京都御扶持衆」と認められ、安藤氏の「陸奥守」よりは下回るもののほぼ同等の地位を獲得している。
 南部氏は永享四年(1432)と嘉吉三年(1443)に安藤氏との戦を制し、安藤氏を蝦夷地(松前)に追放することになる。安藤氏は永享四年の蝦夷地逃亡の後、幕府に南部氏との調停を依頼し、将軍義教から和睦を勧告してもらい、翌年に十三湊に帰還して、焼け落ちた十三湊の復興に取り組み、自らの居城は福島城内郭に移転した。さらに、永享七年(1435)には、敦賀羽賀寺(勅願寺)の再建を後花園天皇に命じられ、中央の安藤氏に対する心証を良くためにも、これを受諾した。この2つの財政支出は、安藤氏一族に大きな負担となり、一族の乖離を生んだに違いない。嘉吉の乱により、足利義教が殺害されたことは、南部氏の重しを取り除き、安藤氏と南部氏の再戦のきっかけとなった。南部氏との一度目の十三湊攻防戦では、十三湊が壊滅する程の大戦であったが、二度目の戦いでは安藤家相伝文書(所領譲状等)を城から持ち出す間もない程の急襲であった。安藤家相伝文書は根城南部氏の手に渡り、現代に伝わっている。

 安藤康季(安藤盛季嫡子)とその子義季は、故郷の地津軽奪還の戦いを南部氏に挑んだが、二人とも戦いの中で死亡してしまい、安藤氏宗家の血筋は断絶した。この跡を継いだのは、南部氏に捕らわれ、南部氏に安東家惣領に擁立されて下北の地で安東太を名乗った安東政季(安藤盛季弟、道貞の孫)であった。政季は下北大畑湊から蝦夷地に脱出し、南部氏の手から逃れ、その後、秋田湊安東家(始祖、十三湊安藤盛季弟の鹿季)に「共に南部氏に対抗しよう。津軽奪回の道も開ける。」として、秋田の小鹿嶋の地に呼ばれた。後に、河北郡(現在の秋田県側の青森県境地域)に拠点を構える。政季の嫡子、忠季の代に河北郡を征圧し、檜山城を構えた忠季が檜山安東氏の初代とされている。

 十三湊安藤氏につながる檜山安東家と湊安東家であったが、当初は湊安東氏の補完勢力の檜山安東氏が力をつけるにつれて、両家の確執も生じ始めた。両家は婚姻によって提携関係を維持したが、湊安東堯季が死亡した際に、その跡継ぎに安東愛季の弟茂季(堯季の孫)を擁立した。このことが湊安東家臣団の分裂を招いた。茂季排除の戦いが勃発し、それを安東愛季が茂季を助けて鎮圧したが、茂季死亡の後、湊城には愛季の嫡男業季を置いた。このことは事実上の「檜山安東家による安東家統合」に他ならない。
 愛季が没し、次男実季が跡を継ぎ湊城に入った(兄業季死亡)。その機を逃さず、茂季の子通季が湊家再興を旗印に挙兵したが、実季は苦心の末、この戦いを制して窮地を脱した。時代は豊臣政権による全国統一の時代に入っていた。秋田での内乱「湊騒動」が「惣無事令」への違反を問われた実季であったが、太閤領を取られ減じられたものの秀吉から所領安堵を受けた。
 しかし、東北大名の豊臣政権への編入のさなか、檜山安東家代官身分であった蝦夷地の蠣崎氏が秀吉の直接の臣下となり、蝦夷地の支配権と交易権を認められた。これにより、「下国家」による蝦夷地支配は名実ともに終わりを告げることになった。
 関ヶ原の戦いでは、徳川方についた実季であったが、積極的な行動を取らず最上義光から「当時の戦行動に疑義あり」と訴えられた。この際には明確なとがめは受けなかったものの、佐竹氏(常総)を江戸から遠く転封するために、徳川幕府に秋田の地から常陸宍戸(現、茨城県笠間市平町)に国替えを命じられた。その後、正保二年(1645)実季嫡子、俊季の代に陸奥三春(現、福島県三春町)に転封され、幕末を迎えることになる。

////// 参考文献 ////////////////////
(1) 津軽安藤氏と北方世界 小口雅史編 河出書房新社 1995
(4) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(7) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(8) 中世北方の政治と社会 大石直正著 校倉書房 2010
(9) 中世東北の武士団 佐々木慶市著 名著出版 1989
(10) 安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著 無明舎出版 2006
(11) 秋田「安東氏」研究ノート 渋谷鉄五郎著 無明舎出版 1988
(15) 尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981
(16) 南部と津軽の争乱 実像と虚像 名久井貞美著 伊吉書院 2000
(17) 新青森市史通史第一巻 原始・古代・中世 青森市史編集委員会 2011
(18) 浪岡町史第一巻・第二巻 浪岡町 2000・2004
(25) 新青森市史資料編2 古代・中世 青森市史編集委員会 2004
(26) 新津軽秋田安東一族 七宮涬三著 新人物往来社 1989
(28) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(29) 新羅之記録【現代語訳】 木村裕俊著 無明舎出版 2013
(31) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈東京・斉藤利男講演レジュメ〉
(33) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(34) 「下国屋形」十三湊安藤氏の誕生と発展~最新の文献史学研究から 2017〈斉藤利男・「十三湊山王坊遺跡フォーラム」レジュメ〉
(35) 音喜多勝氏所蔵八戸湊文書覚書 遠藤巌 弘前大学國史研究107 1999
(36) 秋田安藤氏の系譜言説形成とその背景 志立正知 日本文学 59 2010
 
  link ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
  link ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸朝時代」
  link ⇒ 「安東氏関連年表」
  link ⇒ 「安藤氏の乱」
  link ⇒ 「安藤氏の通説と議論」
  link ⇒ 「十三湊史跡」
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表- 十三湊
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造

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