楽天市場
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

安藤氏の通説と議論

 安藤氏の時代については、十三湊から南部氏によって駆逐されたこと、安藤氏嫡流家が文安二年(1445)、南部氏との戦いの中で義季が大浦郷狼倉舘で討死したことなどにより、安藤氏嫡流家が所持していただろう史料や他家を含めての当時の文書である第一次史料がほとんど伝えられていない。
 そのために、安藤氏に関する伝承もこれまで研究対象とされてきたことから、研究が進むにつれて、通説の中には覆されたものもある。そして、A本にはこう書いているが、B本ではまったく違うことが書かれているということがままある。安藤氏に関して現在でもなお、議論が定まらない主な論議についてまとめてみたい。

contents 
1.上国と下国はどこか?
2.十三湊安藤氏を蝦夷地に追いやったのは誰? 三戸南部氏か八戸南部氏か
3.安東政季の「政」は誰から由来するものか? 師季と政季、どっちが先か

凡例:
1.文章末尾に〈註no.〉があるものは、その章の最後に註釈で解説しています。
2.文章末尾に(no.)があるものは、特に引用・参考文献を明らかにしています。⇒ 参考文献はこちら
3.リンクが貼ってある氏名は、武将列伝のページに掲載されています。
4.リンクが貼ってある関連史料は、関連史料のページに原文等と解説が掲載されています。
 

1.上国と下国はどこか?


 安藤氏・安東(檜山)氏が「下国・しものくに」と呼ばれたことはご存知のとおりである。しかし、下国の意味とそれに対するであろう「上国・かみのくに」については、現在も様々な説が存在する。

1.下国が十三湊安藤氏であり、上国が藤崎安藤氏だという説
 これは、現在の安東氏関連本ではあまりみることができないが、インターネット情報では存在する。根拠は系図や江戸時代の伝承によるもののようだ。伝承やそれに素材を求めた本では、「藤崎系と十三湊系は3年交代で安藤氏惣領を務めた。それが履行されなかったために、一族の争いが起こった。」などというものもある。

2.下国が十三湊安藤氏であり、上国が秋田の安藤氏で、鎌倉時代末期の頃とする説
 これは、安藤氏の乱を経て、秋田に渡った安藤氏の一族を「上国」と呼び、十三湊安藤氏(もしくは惣領家)を下国と呼んだという説である。
 安藤氏の乱では、安藤季長 が北条氏の派遣した軍勢に捕縛された後、季長一族の季兼が、再度反旗を翻し戦いを継続する。季兼軍は幕府の派遣した宇都宮高貞と小田高知軍に敗れることなく、嘉暦三年(1328)、10月、ようやく「和談之儀」となって幕府は体面を整えることとなった。『安藤系図』によると、「季長遺児季綱は、「出羽秋田ノ住人トナル」」としている。この場合、上国のキーパーソンは季兼・季綱で、そして下国のキーパーソンは安藤宗季となる。嘉吉元年(1441)の『奥州下国殿之代々之名法日記〈註1〉 「安藤又太郎宗季、其御子息師季、其子ニ法季、其子二盛季、其子ニ泰季と申、今の下国殿也。永享十二年(1440)ノ頃。嘉吉元年」と書き、宗季から下国家が始まるようにもみえる。

3.下国が十三湊安藤氏であり、上国が秋田の湊安藤氏で、室町時代の頃とする説
 これは、秋田湊家と十三湊安藤家が室町幕府の中で鼎立し、双方とも「屋形」と呼ばれた地位となることから、秋田湊家が「上国」で十三湊安藤氏を下国と呼んだという説である。
 『秋田家系図』では、十三湊安藤盛季の弟鹿季が秋田湊家の祖としている。「湊鹿季、応永ノ初メ甲兵百余騎ヲ率ヒテ、秋田之湊ヲ伐ツ。コレ湊家ノ元祖也」と書かれ、これは応永(元年は1394年)の初めの頃、鹿季が秋田に進軍し秋田城介顕任を斃した軍功を認められたことにより、幕府は鹿季に湊家を立てることを許したことを指しているとされている。この場合、上国のキーパーソンは鹿季、そして下国のキーパーソンは盛季となる。

 これら3説とも、下国より中央に近い方を上国としたこと、そしてそのエリアは、本拠ならびに領地を指すことを確認しておきたい。もう一つ、重要な点は、佐々木慶市氏が「中世東北の武士団」(9)で指摘している「秋田安東氏が上国とよばれた確証はまだ得られない。」という指摘である。十三湊で繁栄を築いた一族が「安藤一族はわが一族だけではないので区別するために、十三湊の方を「下国」とする。」と自称する必要がはたしてあったのだろうか。

 もう一つの説が、「上国」と「下国」のエリアは、双方とも蝦夷地にある。そして、下国を号したわけは、そのエリアを支配する豪族であるからだという説である。

 この説は、遠藤巌氏と斉藤利男氏が提唱している。蝦夷地の日本海側から太平洋側にかけて、松前から日本海側を「上国」、松前から太平洋側を「下国」と呼んだというのである。上国という地名は現状では北海道の上ノ国町があり、松前町の北、江差町の南の日本海に面している。
 上ノ町の名前の由来について上ノ町HPでは「15世紀ころ、北海道(夷島)南部の日本海側は、上ノ国(かみのくに)、太平洋側は下の国(しものくに)と称されていた。勝山館 〈註2〉を擁し、日本海・北方交易の拠点として栄えたこの地に上ノ国(かみのくに)の名前が残ったことに由来します。」と紹介している。
 下国(安藤)氏とは、蝦夷地の下国を支配する豪族を意味し、本拠が下国にあるということではない。「下国」北海道太平洋沿岸では、北海道厚真町のオニキシベ2遺跡(アイヌの墓所)で「北条氏との関連」遺物(スタンプ施文の漆器)が出土していて、この地の豪族と北条氏に関連する者との交易が行われていただろうことがわかっている。
 では、誰が“下国”を号したのかについては、斉藤利男氏は「中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~」(33)で、十三湊に本拠を移し、津軽郡守護と称された「師季(高季)」であろうと指摘している。下国氏の初見は、貞和五年(1349)の『陸奥国持津先達旦那注進状案』〈註3〉で、「安藤又大郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也、今安藤殿師季と申候也、」とあり、師季が下国氏と号していたことを裏付ける。
  • 註1:熊野郡那智神社の先達(那智神社参詣のための案内人)が安藤氏の嫡流の系図メモを作成し、御師の実法院に提出したもの。
  • 註2:北海道檜山郡上ノ国町にある、後の松前氏の祖である武田信広が本拠としていた山城。『新羅之記録』には、渡島半島にあった和人領主層の館が十二箇所記されていて「道南十二館」と呼ばれている。
  • 註3:「註1」と同様に、熊野郡那智神社の先達が作成した安藤氏の嫡流のメモ。
 

2.十三湊安藤氏を蝦夷地に追いやったのは誰? 三戸南部氏か八戸南部氏か


 十三湊安藤氏は南部氏に負けて、蝦夷地に追い払われたことは、ご存知のことでしょう。
 そして、南部氏の当主は「南部義政」というのがこれまでの理解で、その根拠は『新羅之記録』に書かれているからである。「三戸南部だろうが八戸南部だろうが、同じ南部でたいしたことではない。」と思われるだろうが、実は遠祖の出身地は甲斐の国で同じだが、まったく異なる家なのである。
 新羅之記録が成立した江戸時代初期の正保三年(1646)〈註1〉、盛岡藩(南部藩)は三戸南部氏が宗家となっていた。しかし、鎌倉時代末期の南部氏は、糠部の地になにがしかの基盤はあったのかもしれないが、鎌倉幕府が滅んでからの南北朝時代(建武の新政の頃)北畠顕家に従って八戸に入部し、糠部郡奉行を務めた「南部師行」が祖となった。これが根城南部氏(=八戸南部氏。以下、三戸南部氏との関係をわかりやすくするため、主に八戸南部と説明する)であり、一方の三戸南部氏が糠部三戸地方に定着し出したのが、いつなのか、また誰なのかは、はっきりとわかっていない 〈註2〉

 まず、命題を確認する。安藤氏を打ち負かした軍勢は次の4つが考えられる。
1.三戸南部氏単独
2.三戸南部氏の一族や与する武家の連合軍
3.八戸南部氏単独
4.八戸南部氏と与する武家の連合軍

 南部氏の惣領家は鎌倉時代から南北朝時代にかけては、八戸南部氏が惣領家であったことは問題がない。また、戦国時代には惣領家は三戸南部氏(例えば南部晴政、24代)になっていた。惣領家、つまり一族や南部氏に与する豪族に命令する、または方向性を決する立場、の交代がいつの時期だったのかは、諸説あり定説には至っていない。

**********

〈 なぜ、三戸南部氏が安藤氏を駆逐したとされているのか 〉
 南部氏の誰が十三湊安藤氏と戦ったのか、について分析する本はほとんど見当たらない。そして、多くの本はその前提とすべき利害関係を考察していない。『新羅之記録』では、「南部義政は糠部に入部し永享十二年(1440)に、十三湊の盛季朝臣の息女を妻として迎えた。〈註3〉」そして後に「義政が糠部より十三湊に行き、舅の盛季と対面して帰る途中で「津軽という所は聞きしに勝るよい所である。」と度々いったという。』と書かれている。この後に義政の家臣・同朋の蓮阿弥が「津軽を望むのであれば謀り事をめぐらすべきでしょう。」といった、と続く。これが『新羅之記録』でいう「三戸南部氏が十三湊を攻める動機」だというのである。
 戦うに当たっては、家臣が納得できる戦をする理由が必要であろう。領地が接しているわけでもない、三戸南部氏が安藤氏を葬る理由としては、いささか荒唐無稽な感がある。

〈 安藤氏と南部氏の利害関係 〉
 重要な利害関係として、津軽に領地を持っていたのは、三戸南部氏ではなく、八戸南部氏であった、ことがあげられる。
工藤貞行(鼻和郡政所職、鎌倉幕府滅亡の後、北畠顕家につく)は、北条氏残党が立て籠もった「大光寺楯の戦い」の功績により褒賞として北畠顕家から津軽鼻和郡目谷郷・外浜野尻郷を与えられている。※建武二年(1335)正月二六日の「北畠顕家国宣写」。貞行には嫡男がなかったので娘の「加伊寿御前」に所領を譲り、加伊寿御前は八戸南部氏に嫁ぎ、その所領は八戸南部氏に相伝されていく。また、糠部と津軽の境に位置する七戸南部氏は、八戸南部政長(根城南部家第2代)が祖である。
 そして、北畠顕家は、建武二年(1335)年三月に北畠顕家国宣によって「外浜内摩部郷並びに未給村々の泉田、湖方(潮潟)、中沢、真坂、佐比内、中目等の村」を南部師行とその一族等に宛行っている。
一方の三戸南部氏をみると、応永十八年(1411)南部守行は、湊安東鹿季と出羽国仙北刈和野(現大仙市)で戦っている。三戸南部氏の勢力拡大の方角は、西の秋田方面であり主要なライバルは津軽安藤氏ではなく、秋田湊安東氏等秋田に本拠を持つ豪族である。
 つまり、所領から考えると十三湊安藤氏に対するベクトル(勢力を傾ける方向軸)は、三戸南部氏ではなく八戸南部氏の方にあった。

〈 安藤氏と戦ったのは八戸南部氏 〉
 安藤氏の惣領家相伝文書は、遠野南部家(八戸南部氏)に伝えられている。また、津軽の曽我氏の軍功注進状等の古文書も遠野南部家が所持していた〈註4〉。家の重要文書が収められていた場所に、八戸南部氏が入り込み戦の戦利品として持ち去っただろうことが想定される。この段階で「1.三戸南部氏単独」はあり得ない。
 次は、安藤氏追討戦の首謀者は、三戸南部氏なのか八戸南部氏なのかという課題になる。現代の我々からすれば、「三戸南部氏が八戸南部氏に命令して戦わせたのだろう」と考えることもできる。例えば、前述した応永十八年(1411)出羽国仙北刈和での戦で、湊安東鹿季軍と戦ったのは、八戸南部光経であり、この戦いは南部家家紋を「二羽鶴」に改めた経緯となった合戦であった。ただし、この戦いは三戸南部氏が八戸南部氏に要請してのものであった 〈註5〉
 三戸南部氏の史料は天文八年(1539)に、その頃本拠としていた聖寿寺館〈註6〉が焼失したこともあってか、室町時代の史料はなく、戦国時代からのものになる。その史料から、大浦(津軽)為信が独立に向けて策動した時期(天正十三年(1585)、油川城攻め)にも、一族・一門の合議制で意思決定をするため、九戸氏やそれに与する一族・一門の同意が得られずに的確な動きがとれなかったことがわかっている。つまり、それ以前の津軽安藤との抗争の時期に、三戸南部氏からの命令により八戸南部氏が安藤氏との戦いに出陣することは考えづらい。

 また、安藤氏の2度目の渡海、嘉吉三年(1443)から14年後の康正三年(1457)の田名部合戦(蠣崎蔵人の乱)において、八戸南部氏(政経、第13代当主)は、三戸南部氏の軍勢を借りずに、単独で交戦し宇曾利の地(現、下北地方)を八戸南部氏の元に平定している。
 これらのことから、津軽安藤氏との戦いは「八戸南部氏単独か、八戸南部氏に与する軍勢との連合軍である」と考えられる。
 傍証としてあげられるのは、「永享四年(1432)、同年十月十四日付で根城南部長安(ながやす)、守清をそれぞれ遠江守、刑部丞、さらに新田清正(長安次男)を刑部丞、に任じた『後花園天皇口宣案』」〈註7〉が残されており、将軍足利義教の安藤氏と南部氏への和睦命令〈註8〉と合わせれば、幕府の和睦命令に従わない彼らを懐柔しようとした形跡とも考えられている。
 もう一つは、享徳二年(1453)頃、根城南部政経(八戸南部第13代)に宛てた、幕府管領斯波氏の執事二宮氏の一族、前信濃守孝安なる人物からの書状〈註8〉に、「奥州時儀属無為、殊御本望之由物語候、誠目出候」(奥州の情勢があなたの思い通りになったのはめでたいことです)と記されている(30)。これは、安藤南部戦争が八戸南部氏の勝利でほぼ決着がついたと中央でも認識していることを指し示すものと思われる。

〈 三戸南部氏が八戸南部氏に命ずることはできなかった 〉
 南部氏の惣領家がどの時代に、八戸南部氏から三戸南部氏に入れ替わったのかについては、三戸南部氏から八戸南部氏への命令が成立するかどうかにおいて、重要な要因となるので確認しておきたい。これまでの大方の理解では、「南朝方であった八戸南部氏は、南北朝時代に北朝の優位が確立していく中で勢力が落ち、早くに北朝方となっていた三戸南部氏が勢力を拡大して、惣領家の交代が起きた。」というものであった。この話は、三戸南部氏が宗家となってからの史料によるもので、三戸南部氏を高めることが前提として書かれているものである。
 南部氏惣領家の交替時期については、様々な説があり、定説を得るまでには至っていない。2018年に刊行された「青森県史通史編1」(28)では、その分析に紙面を割いている。これによれば、八戸南部氏11代長安かその子守清代かとしている〈註9〉。この時代は、ちょうど安藤・南部合戦の時期にあたる。また、安藤氏の一度目の敗戦から4年後の永享八年(1436)の稗貫氏をめぐる合戦では、根城南部長安が奥州探題および志波御所の直接の指揮のもとで参戦している(30)。三戸南部氏に命じて、八戸南部氏を出陣させたのではない。だとすれば、長安の段階では、惣領家は八戸南部氏だったということも考えられる。
 時代が下って、享徳元年(1452)に根城南部政経は、奥州探題から段銭(たんせん)の催促状を宛てられているが、この種の命令は一族の惣領に宛てられるのが普通である(30)。幕府は三戸南部氏を京都御扶持衆とし、糠部の盟主と認定したが、同時に根城南部氏も幕府や探題に直結する立場を認めていた。その背景には、三戸南部氏に対する根城南部氏の強い独立性があったと「新編八戸市史 通史編Ⅰ」(30)に書かれてある。よって、八戸南部長安の時代に三戸南部義政が八戸南部氏に命令して安藤氏と交戦させたという説は成り立たない。

 最後に、なぜ『新羅之記録』では、安藤氏を駆逐したのが「南部義政」〈註10〉としたのであろうか。新羅之記録を作った松前景廣には、安藤氏を渡海させたのが南部氏であるということは伝わっていても、首謀者が誰かを知っていたわけではなく、その時期から南部氏宗家(三戸南部氏)の系図によって確認したのだろう。付け加えると盛岡藩の歴史書では、義政の事蹟のなかに津軽占領のことを伝えてはいない(30)。

〈 八戸南部氏が安藤氏を排除したかった理由 〉
 安藤氏との利害関係は、三戸南部氏ではなく八戸南部氏にあったということについて、領地が隣接していることは前述した。それだけでは十分なはずがなく、もっと南部氏にとっての大きなメリットがあるだろう。それについては、学識者は「蝦夷地との交易を安藤氏から奪う」ことをあげている。しかし、そう単純ではないと考える。
 一つには、十三湊から安藤氏を追放した後に「南部氏は十三湊が飛び砂に埋もれるのに任せ、手をかけなかった。」ことが発掘調査からわかっている。海からの飛び砂が積もって港の機能が急激に低下する時代にあたってしまったことが南部氏にとっての災いだったとしても、南部氏には港湾管理や通商のノウハウはなかったのであろう。ましてや蝦夷地松前付近の交易拠点は従前通り安藤氏の勢力下にある。日本海での船舶航海技法が発達し、北前船は十三湊に寄港しなくとも北上できるようになっていただろうこともあるかもしれない。

 南部氏は津軽の地から安藤氏惣領家(安藤氏の一族は南部氏の支配下の元で津軽に定着し続けている。)の影響力を排除したかったはずである。八戸南部氏にはどうしても我が物にしたい土地があった。それが宇曾利郷(現、下北地方)である。宇曾利は安藤宗季の譲状に書かれるように、北条氏の所領ではあるが、鎌倉御家人に統治させず、現地豪族の安藤氏に治めさせた土地であり、七戸南部氏の所領と接している。八戸南部氏は下北の木材資源・鉱物資源を求めたのである。宇曾利の地は、元和三年(1617)の田名部借上で南部利直に取られるまでは、八戸南部氏の所領であった。

 八戸南部氏の宇曾利への執着については、宇曾利から安藤氏の勢力を一掃した田名部合戦では八戸南部氏単独軍で戦っていることの他にも、安藤氏との戦いで捕縛した安東政季(師季)に田名部を知行させたこと、政季は一時八戸に居住したこと(『下国伊駒安陪姓之家譜』には政季の項に、「糠部八戸改名」とある)があげられる。
 宇曾利の地を八戸南部氏のものとすることには、もう一つの大きな理由が考えられる。それは、津軽海峡と陸奥湾の制海権である。安土桃山時代ではあるが、南部信直は手船を建造し、秋田(仙北で不要となった米)から田名部、そして陸奥湾を通じて、内陸部へ向けての物資積上港である野辺地湊へ廻漕するという、田名部を拠点とした米の移入ルートを積極的に整備しようとしていた(30)。野辺地港を八戸南部氏が活用するためには、陸奥湾の入口である津軽半島と下北半島に挟まれた平舘海峡の制海権を安藤氏に握られている状況を打破したかったに違いない。安藤氏を駆逐すれば、宇曾利の持つ資源だけではなく、田名部港と野辺地港を使っての流通は思い通りに進めることができ、その利益は八戸南部氏にとって大きなものとなったはずである。

〈 安藤・南部戦争の当事者は誰か 〉
 これらから、安藤氏と戦ったのは、八戸南部氏か、もしくは援軍として七戸南部氏が加わったのかもしれないことが導かれる。新編八戸市史通史編Ⅰ(30)では「永享四年(1432)には、南部氏はついに盛季を襲い、盛季は北海道の所領に逃れざるを得なくなる。『源氏南部八戸家系』に従えば、これは根城南部11代長安の時代にあたる。」と記載している。

 安藤・南部戦争の当事者は、誰だったのかを確認したい。南部氏の方は、南部師行を始祖とする根城南部第11代長安である。そして、安藤氏の方は盛季と康季である。
 『新羅之記録』では「盛季」としているために、多くの本では安藤・南部戦争の当事者を盛季とする。盛季の死亡年は諸説(応永二十一年(1414)・文安元年(1444)等)あるが、永享四年(1432)の第一次戦争で安藤氏が渡海から十三湊へ復帰した後の永享七年(1435)年から、後花園天皇の命により焼失した敦賀羽賀寺(勅願寺)再建に着手したのは康季であった。安藤惣領家当主の交代時期は、第一次戦争の後の可能性はあるものの、実質的には安藤康季VS八戸南部長安の戦いであったのである。
  • 註1:新羅之記録を作成したのは、初代藩主松前慶広の六男である松前景廣。完成した正保三年(1646)は江戸に幕府を樹立してから43年後。徳川将軍は三代家光の時代である。
  • 註2:三戸南部氏始祖は南部光行であり、文治五年(1189)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部五郡を与えられた、いうのがこれまでの通説であったが、現在の研究では光行の糠部下向も根拠なし、吾妻鏡には、光行に目立った功績があったとは書かれていないことから、糠部五郡を与えられたというのも、津軽為信独立に際して、対抗するための後世創作伝説であるの可能性も示唆されている。    
  • 註3:南部義政の生年は1374年。没年は永享12年(1440)に64歳で死去。永享四年(1432)の幕府からも和解勧告の時点で58歳。新羅之記録の「永享十二年に安藤氏の息女を妻とした年」はまったくあてにはならない。南部氏と安藤氏との調停を確固のものとするため、幕府からの和解勧告の後に政略結婚があったという説は、義政では年を取り過ぎている。
  • 註4:曽我氏滅亡の時期は定かではないが、南北朝時代末期の元中年間(1380から92年)とされている。八戸(遠野)南部家文書として曽我氏が所有していた所領や軍中関係の古文書が伝えられていることから、八戸南部氏が曽我氏を滅ぼしたとみられている。この論法と同様に安藤氏を追討したのは、八戸南部氏であるとするのが至極自然である。
  • 註5:「八戸家伝記」によれば、応永十七年(1410)に三戸南部守行は三戸に根城長継と光経を招き、秋田に出陣するため留守を長継に託し、光継の参陣を依頼した。兄弟はこれに応じるだけではなく、光継が先陣となることを望んだという(30)。
  • 註6:聖寿寺館(しょうじゅじだて)青森県南部町にある。築城年代は十五世紀前半とされている。聖寿寺館は、1539年に家臣の放火により炎上し、三戸南部氏は三戸城に移ったとされている。文献上の廃城と考古学的な検出状況が一致している。
  • 註7:永享四年(1432)10月、南部長安(根城南部)が遠江守に、南部守清(長安嫡男、後の根城南部12代)・新田清政(長安二男、長安の実家新田氏に入嗣)が刑部丞に就任(30)。
  • 註8:永享四年(1432)11月15日の満済准后日記には、「幕府が南部氏に安藤氏との和睦を命じる将軍義教の御内書を出すことが決まったものの、もし、南部氏が承知しなかった場合は御内書の権威が落ちるとの意見」が出て、再度検討した結果、「御内書を出すことに何ら問題はない」という意見を、畠山満家も山名時熙も出したので、満済はその旨を将軍義教に返答したことが記されている。。
  • 註9:朝廷・幕府・陸奥守など上位者から八戸南部氏当主に宛てられた文書において、宛名がどのように書かれているかを分析している。10代光経までは「南部」。13代政経については「八戸河内守殿」と南部ではなく八戸を冠した呼称。よって、南部氏惣領家の交代は、11代長安か12代守清とする。長安は光経の婿養子(新田経安の子)、守清は長安嫡男、政経は新田氏からの養子(守清の甥)である。嫡男による継承が途絶えた時期でもある。  
  • 註10:鈴木満氏の、『伝承と史実のあいだに ―津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合―』(38)、によれば、「吉井功兒氏が指摘するように、義政の実在を確認できる史料は見いだすことができない。」と指摘している。このことは第一次史料(当時の文書)では、南部義政なる人物が見あたらないことを指すものと推察する。
 

3.安東政季の「政」は誰から由来するものか? 師季と政季、どっちが先か


 〈 現在の多数説は将軍義政からの一字拝領 〉
 八戸南部氏は永享四年(1432)10月に十三湊から下国安藤氏を蝦夷地に追いやり、翌年に幕府の調停で十三湊に戻った下国安藤氏を、嘉吉元年(1441)6月の赤松満祐の「嘉吉の乱」によって、6代将軍足利義教が殺害されたことを契機に、嘉吉二年(1442)に下国氏を十三湊から津軽半島突端の「小泊」にまで駆逐した。翌年、下国氏は蝦夷地に再度渡ることを余儀なくされる。

 潮潟政季の幼名は不詳である。八戸南部氏が潮潟氏(重季)を討伐したのは、宝徳2年(1450年)で、下国康季が岩木山麓引根城で病死した文安二年(1445)、12月の5年後となる。潮潟重季を討ったのは通説では、三戸南部の「南部政盛(義政の弟で、義政の後嗣)」とされているが、これも安藤南部戦争の当時者が「三戸南部氏」であることを前提として、導かれた答えであろう。八戸南部氏の当主は「八戸政経(まさつね)」である。重季の妻子は八戸に連行されている。重季の妻は、新羅之記録によると、三戸南部義政の娘とされているが、これも八戸南部氏の血筋であったのに違いない。子はまだ年若く、殺すよりも生かした方が、利用価値があると考えられたのだろう。むしろ、この子を捕縛するのが戦の目的であったのかもしれない。
 潮潟政季は八戸で安東太と改名し、八戸南部氏の後ろ盾のもと「安東家の惣領」とまつりあげられた〈註1〉。改名は元服を執り行ったその機会とするのが、至極自然である。八戸南部氏は安東政季に田名部を知行し政季を通して、宇曽利郷(現、下北地方)の豪族を意のままに動かそうとしたのである。
 仮に、政季の年齢と事柄を推定してみよう。八戸南部氏が将軍義教の和睦調停を受け入れて、下国安藤氏が十三湊に帰還したのが、永享五年(1433)年、幕府の斡旋により、潮潟重季と八戸南部氏の女が結婚したのは、永享六年(1434)年、政季が誕生したのが、永享七年(1435)とすれば、政季が捕らえられた宝徳二年(1450)には15歳、蝦夷に渡海した享徳三年(1454)には、19歳になっている。

 さて、政季は「応仁二年(1468)に、将軍義政に謁見し、下国家後継者と認められ義政から一字拝領して政季と改名した。それ以前は「師季」であった。」というのが、現在の多数説である。
 その根拠とされているのが、長禄四年(1460)の鹿角郡大日堂(現、秋田県鹿角市)に奉納した洪鐘に「大檀那安倍師季」と刻まれていること。応仁二年(1468)に熊野那智神社に「津軽外浜宇楚里鶴子偏地」回復の願文〈註2〉を奉げた安東師季なる人物がいることによる。しかし、これらのことは、八戸で(安東太)政季と名乗った後に、蝦夷地に渡り、湊安東氏からの依頼に呼応し、出羽秋田に進出した後に「師季」と改名したとしても問題がない。つまり、新羅之記録で「伊駒政季朝臣」として記録されているのは、最終的に政季となったのではなく、蝦夷地にいた時期には政季だったということになる。
 ということは、政季の「政」は、元服に際して八戸政経から一字拝領しての「政季」であり、名乗りの中に八戸南部氏との深い関わり(従属性)を内外に宣言したということになる。秋田の大館近辺の一豪族に過ぎなかった政季が将軍義教に本当に拝謁できたのか、拝謁できたとしても一字拝領とまで進んだのかどうかという疑問に比べれば、烏帽子親からの一字拝領の方が実に流れがよくわかりやすい。
  • 註1:新羅之記録「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安藤四郎道貞の息男潮潟四郎重季の嫡男なり、十三之湊破滅の節、若冠にて生虜られ、糠部八戸にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行し家督を継ぐ」(原漢文、「新北海道史第7巻、史料1による)
  • 註2:奉籠 熊野那智山願書之事
右意趣者、奥州下国弓矢仁達本意、如本津軽・外濱・宇楚利鶴子遍地、悉安堵仕候者、重而寄進可申処実也。怨敵退散、武運長久、息災延命、子孫繁昌、殿中安穏、心中所願皆令満足。奉祈申所之願書之状如件。応仁弐年つちのへね二月廿八日 安東下野守師季(花押)
 
※本ページでの「参考文献」⇒「史料解説・参考文献」
  link ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
  link ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸朝時代」
  link ⇒ 「安東氏関連年表」
  link ⇒ 「安藤氏の乱」
  link ⇒ 「安東氏系図とその系譜意識」
  link ⇒ 「十三湊史跡」
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表- 十三湊
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造

プロフィール

このサイトは
 安藤氏(安東氏)に関する情報は、関連本やインターネットでも、書かれていることはまちまちです。このサイトは関連本の情報を積み上げて、最新の研究(2019)ではどうなっているのかまでがわかります。
 人物伝では、武将の名前を列挙して、その人の生きざまから歴史がわかるようになっています。「年表」では、それぞれの出来事の出典を明らかにしています。
QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数