安東氏関連年表~北奥羽の鎌倉時代から江戸時代
安藤氏・安東氏に関連する歴史、鎌倉時代から江戸時代までを出典を明らかにしながら、安東氏に関わる歴史のできごとをまとめました。
本を読んでも章の都合で、どうしても話が前後して、理解するのが大変です。特に安藤氏の動きは、建武の新政から南北朝時代は複雑です。年表があれば、因果関係が少しはわかりやすくなります。合わせて、青森県・秋田県・岩手県・北海道の鎌倉時代から江戸時代までの歴史がわかります。
年表説明:
1.事柄が記載されている参考文献は、文章の最後に (no.)で示しています。この番号は頁末にまとめている「参考文献」の番号です。
2.事柄は西暦でまとめてあります。元号については、南北朝時代は北朝での元号を記載し、事柄欄に南朝での元号を記載しました。
3.リンクが貼ってある氏名は、人物伝のページも御覧ください。同一人物でも名前や姓が変わる場合があり、カーソルを当てると誰かがわかります。
4.リンクが貼ってある関連史料は、関連史料のページに原文等と解説が掲載されています。
5.表形式ですので、スマホの方は画面を横にして御覧ください。
contents 下表の年代をクリックすると、その時代にジャンプします。
⇒ 関係年表の巻末、参考文献へジャンプ
link ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
link ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸時代」
link ⇒ 「史料解説・参考文献」
link ⇒ 「安藤氏の乱」
link ⇒ 「安藤氏の系図とその系譜意識」
link ⇒ 「安藤氏の通説と議論」
link ⇒ 「十三湊史跡」
(1) 津軽安藤氏と北方世界 小口雅史編 河出書房新社 1995
(2) 北の環日本海世界 村井章介他編 山川出版社 2002
(3) 中世糠部の世界と南部氏 七戸町教育委員会編 高志書院 2003
(4) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(5) 鎌倉幕府と東北 七海雅人編 吉川弘文館 2015
(6) 前九年・後三年合戦と兵の時代 樋口知志編 吉川弘文館 2016
(7) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(8) 中世北方の政治と社会 大石直正著 校倉書房 2010
(9) 中世東北の武士団 佐々木慶市著 名著出版 1989
(10) 安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著 無明舎出版 2006
(11) 秋田「安東氏」研究ノート 渋谷鉄五郎著 無明舎出版 1988
(12) 史料解読 奥羽南北朝史 大友幸男著 三一書房 1996
(13) 秋田安東氏物語 川原衛門 秋田市 1990
(14) 十和田湖が語る古代北奥の謎 義江彰夫、入間田宣夫、斉藤利男編著 校倉書房 2006
(15) 尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981
(16) 南部と津軽の争乱 実像と虚像 名久井貞美著 伊吉書院 2000
(17) 新青森市史通史第一巻 原始・古代・中世 青森市史編集委員会 2011
(26) 新津軽秋田安東一族 七宮涬三著 新人物往来社 1989
(27) 古代国家と北方世界 小口雅史編 同成社 2017
(28) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(29) 新羅之記録【現代語訳】 木村裕俊著 無明舎出版 2013
(30) 新編八戸市史通史編Ⅰ 原始・古代・中世 八戸市 2015
(31) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈斉藤利男講演レジュメ〉
(32) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(33) 北の内海世界 入間宣夫・小林真人・斉藤利男 編 山川出版社 1999
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
本を読んでも章の都合で、どうしても話が前後して、理解するのが大変です。特に安藤氏の動きは、建武の新政から南北朝時代は複雑です。年表があれば、因果関係が少しはわかりやすくなります。合わせて、青森県・秋田県・岩手県・北海道の鎌倉時代から江戸時代までの歴史がわかります。
年表説明:
1.事柄が記載されている参考文献は、文章の最後に (no.)で示しています。この番号は頁末にまとめている「参考文献」の番号です。
2.事柄は西暦でまとめてあります。元号については、南北朝時代は北朝での元号を記載し、事柄欄に南朝での元号を記載しました。
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| 年 代 | 主な事柄 |
| 1.鎌倉時代 | 安藤五郎が蝦夷管領代官職に補任される。安藤又太郎季長と五郎三郎季久が対立し蝦夷を巻き込んだ戦となる。 |
| 2.建武の新政 | 「大光寺楯合戦」~「持寄城合戦」、北畠顕家勢が津軽平定をする。足利方と建武政権方との攻防、津軽の南北朝内乱が始まる。 |
| 3.南北朝時代 | 北畠顕家が戦死し、弟北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に補任される。 |
| 4.室町時代 | 安藤鹿季が秋田湊を攻略し、湊秋田家の元祖になる。安藤氏が南部氏との津軽合戦に敗れて蝦夷島に渡る。安東政季が蝦夷島へ脱出した後、秋田河北郡に本拠を移す。 |
| 5.戦国時代 | 檜山城主下国舜季の「東公の嶋渡り」、蠣崎季広がアイヌとの和睦協定をまとめることに尽力する。安東愛季が湊安東家旧臣らの反乱を治め、湊安東家の実権を掌握する。 |
| 6.安土桃山時代 | 前湊城主茂季の子豊島通季が安東実季撃滅の兵を挙げ、湊合戦勃発。秋田実季が常陸国(茨城県)宍戸に国替となる。 |
| 7.江戸時代 | 秋田実季宍戸没収、藩主罷免、勢州朝熊へ蟄居となる。宍戸藩主秋田俊季、常陸国宍戸から陸奥三春五万石に転封となる。 |
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鎌倉時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1189 | 文治五年、8月 | 奥州合戦。源頼朝、平泉藤原氏を滅ぼす。安藤次や三沢安藤四郎ら、源頼朝に協力する。(1) |
| 1190 | 建久元年、3月 | 大河兼任、乱をおこして幕府軍に鎮圧される。乱後に北条義時が津軽一帯の郡地頭職に補任される。源頼朝、上洛して後白河法皇と会談し、蝦夷沙汰の認可を受ける。(1) |
| 1191 | 建久二年 | 奥州夷安藤氏が蝦夷沙汰代官に抜擢される。(1)_※北条義時の執権就任よりも早い時期 |
| 1191 | 建久二年、11月 | 蝦夷島への国家的流刑が始まる。京中強盗ら、源頼朝を介して蝦夷島へ流刑となる。〈都玉記〉(5) |
| 1193 | 建久四年、7月 | 源頼朝、淡路国に現れた九本足の異馬について、津軽外浜へ放つよう陸奥守留守職伊沢将監家景へ命じる。(5) |
| 1194 | 建久五年、6月 | 獄囚数輩を伊沢将監に命じて奥州に流刑。(26) |
| 1202 | 建仁二年、3月 | 京の舞姫微妙、将軍頼家に父右衛門尉為成(奥州流刑)の冤罪を訴える。 (26) |
| 1206 | 元久三年 | 幕府執権職に就いた北条義時が、安藤五郎を蝦夷管領代官職に任命する。(10) |
| 1216 | 建保四年、6月 | 西国の流刑人を奥州夷に引き渡す。(26) |
| 1217 | 建保五年 | 北条義時が陸奥守になる。(安藤氏が北条氏の被官となるのはこれ以降か。)(1) |
| 1218 | 建保六年 | 将軍実朝、安達景盛を秋田城介に任命し、北条氏の奥州独占阻止を企てる。 (26) |
| 1219 | 承久元年、1月 | 頼朝の創始した源氏の鎌倉幕府は三代にして亡び、その後は北条執権の幕府となった。これを契機に北条氏は、従来の幕府直轄領を得宗領(北条氏嫡流の所領)となし、支配を強化した。(11) |
| 1219 | 承久元年 | 曽我一族津軽の地に入る。 (26) |
| 1235 | 文暦二年 | 西国の流刑人を奥州夷に引き渡す。 (26) |
| 1247 | 宝治元年 | 陸奥国五戸得宗領代官三浦盛時、津軽の海辺に海魚流れ着き四海が赤く染まったと報告、暗に三浦泰村の裏切りを通牒する。 (26) _宝治合戦(執権北条時頼が三浦氏一族を滅ぼした合戦)。北条時頼が糠部地頭職も兼帯する。(1) |
| 1251 | 建長三年 | 讃岐国海賊の蝦夷島流刑という特例措置を講ずる。(1) |
| 1260 | 文応元年、7月 | 日蓮「立正安国論」を北条時頼に進上し、他国の侵攻を警告する。 (26) |
| 1264 | 文永元年 | フビライ汗、ヌルガン(アムール河下流、アムグン川の合流点)、ギリヤークにアイヌ討伐のため出兵する「元史地理志」。(26) |
| 1265 | 文永二年 | アイヌ国人、ギリヤークを攻撃。フビライ汗、ギリヤークに官粟、弓、甲を送り、征東元帥府を置いて防備する。フビライ汗軍、間宮海峡を渡り北カラフト攻撃を企てる。(26) |
| 1268 | 文永五年、1月 | 元の国書が太宰府にいたる。元が日本に通交を迫り、北条時宗がその使者を退けた。 (5) |
| 1268 | 文永五年 | 津軽蝦夷が蜂起する。津軽蝦夷の反乱との関連で安藤五郎の首が取られる。(1) |
| 1273 | 文永十年 | フビライ汗、大規模なアイヌ国討伐を決意。9月、征東招討使塔匣刺にアイヌ出兵を命じたが、強風浪に遭い渡峡を断念。(26) |
| 1274 | 文永十一年、10月 | 元・高麗の連合軍が北九州を襲撃する(文永の役)。(1) |
| 1275 | 建治元年 | 〈日蓮聖人遺文〉。「安藤五郎は因果の道理をわきまえて堂塔多く造し善人也。いかにして、頸をばゑぞにとられぬるぞ」(1) |
| 1281 | 弘安四年、5月 | 元・高麗の連合軍がふたたび北九州を襲撃する(弘安の役)。(1) |
| 1284 | 弘安七年、7月 | 幕府、奥羽両国を除いて東国の牧を廃止する。(30) |
| 1285 | 弘安八年、10月 | 元の楊兀魯帯と塔塔児帯の二将軍の兵一万、骨嵬を侵攻する。 (26) |
| 1286 | 弘安九年 | 元国が船1,000艘・兵10,000人で骨嵬(アイヌ)を攻撃する。(1) |
| 1297 | 永仁五年 | 骨嵬の王不廉古らが果夥より黒龍江中流域の拂里河まで攻め入り、元軍と衝突する。(1) |
| 1301 | 正安三年 | 陸奥国糠部郡の安東きぬ女、地頭北条氏に類族交名を提出する。(1) |
| 1303 | 嘉元元年 | 秋田城介復活し、安達加賀左衛門尉時顕が任命される。(26) |
| 1305 | 嘉元三年 | 骨嵬人らが黒龍江下流部の南木合などを荒らす。(1) |
| 1306 | 嘉元四年、9月 | 鮭などを積んだ越中国大袋荘東放生津の船主、沙弥本阿の「関東御免津軽船二十艘之内随一」といわれる船が、越前国坪江郷の佐幾良泊に着き、漂倒船と見なされて船と積み荷を押し取られる、という事件が起こる。(8) |
| 1306 | 嘉元四年 | 津軽藤崎護国寺に大檀那北条貞時・施銭檀那安倍季盛らが洪鐘を奉納する。(1) |
| 1308 | 徳治三年 | 骨嵬は元に降参して、元朝に毎年、毛皮を貢納するという朝貢関係が成立する。(8) |
| 1313 | 正和二年 | 安藤貞季がこの頃、十三湊に新城を築くという。 (1) |
| 1318 | 文保二年 | 蝦夷反乱が激しくなり、北条高時が対策に乗出す。(1) _鎌倉の社寺に祈禱を行わせた。「金沢文庫文書」。(2)_※金沢文庫文書による高時の感状(金沢称名寺長老に対し蝦夷静謐の法験を感謝する)は、現在、正中二年(1325)説が有力。1318年だとすると、「鎌倉年代記」による蝦夷蜂起よりも前に蝦夷蜂起があったことになる。 |
| 1320~ 1322 |
元応二年~元亨二年 | 出羽の蝦夷蜂起「今年、元亨二年、出羽蝦夷蜂起、度々合戦ニ及ブ。去ル元応二年ヨリ蜂起云々」〈鎌倉年代記〉。(1) |
| 1322 | 元亨二年、春 | 惣領安藤又太郎季長とその従兄弟五郎三郎季久が対立する。長崎高資、安藤季久と季長の相論に際し、双方から賄賂を取る。双方に味方する蝦夷が合戦。〈保暦間記〉(5) 元亨年間(1321~24)に藤崎にあった護国寺が火災にあったと伝えられる(安藤氏の内紛によるものと推定)。(1) |
| 1324 | 正中元年、5月 | 北条高時の邸宅において、鶴岡八幡宮社務職顕弁を中心に蝦夷降伏のための五檀法が修される。(5) _祈祷は、正中元年五月十九日から七日間、執り行われた。(27) |
| 1324 | 正中元年、9月 | 後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、失敗に終わる(正中の変)。(5)_京都北野祭に乗じて六波羅探題を攻撃する計画が発覚し、後醍醐の近臣日野資朝・同俊基らが捕らえられた。(28) |
| 1325 | 正中二年、閏1月 | 鶴岡八幡宮の社頭においても蝦夷降伏が祈られた(鶴岡社務記録)。同様に金沢称名寺(しょうめいじ・現、横浜市)でも降伏祈祷が行われた。(5) |
| 1325 | 正中二年、5月 | 北条高時、金沢称名寺長老(剣阿)に対し蝦夷静謐の法験を感謝する。(5) _「当寺祈祷ノ事、蝦夷スデニ静謐ノ間、法験ノ至リ殊ニ感悦ニ候」(26) ※本書状の年号には、文保二年(1318)と正中二年(1325)という二つの説がある。 |
| 1325 | 正中二年、6月 | 北条高時は、蝦夷蜂起鎮定の功として、地頭代官職や蝦夷沙汰職を季長から季久に改替した。これにより津軽大乱もいっそう拡大する。季久は代官補任を契機に、以後「宗季」と名乗る。同時に安藤惣領の通り名「又太郎」をも名乗る。(1) |
| 1325 | 正中二年、9月 | 安藤宗季(五郎三郎季久)が子息の犬法師(高季)に与えた譲状には、津軽鼻和郡絹家島・尻引郷・片野辺郷と糠部宇曾利郷・中浜御牧・湊、以下の地頭代職がみえる。「新渡戸文書」(1)〈安藤宗季譲状犬法師宛〉 |
| 1326 | 正中三年 | 2月、安藤季長、宗季を攻める。(26) _3月、幕府、蝦夷蜂起鎮圧のため、有力得宗御内人工藤貞祐を派遣する。5月、津軽西浜において合戦。津軽の曽我光頼らも参陣した。7月、貞祐は、安藤季長を捕虜として鎌倉に帰還する。(5)_※曽我光頼は平賀郡の郷村地頭代。_この年、季長の郎従・安藤季兼、残党を率いて挙兵する。 (26) |
| 1327 | 嘉暦二年、6月 | 安藤季長郎従季兼が「悪党」を集めて抵抗を続けたため、幕府は「蝦夷追討使」として、下野の宇都宮高貞・常陸の小田高知を派遣する。(5) _ 季兼は季長の従兄弟。(7) |
| 1328 | 嘉暦三年、10月 | 安藤季兼の反乱、蝦夷の蜂起について「和談之儀」が成立し、宇都宮高貞・小田高知が帰還する。8年に及ぶ戦乱が終わった。(7) _ 宇都宮高貞らの出兵を鎌倉年代記裏書では「奥州合戦」と記載する。(27)〈諏訪大明神画詞〉 |
| 1330 | 元徳二年、6月 | 安藤宗季(五郎三郎季久)が子息の高季に与えた譲状。関・阿曽米等村をのぞく津軽西浜の譲渡。〈安藤宗季譲状高季宛〉(1) _※関・阿曽米等村は、安藤次郎太郎後家賢戒知行分。(7) |
| 1331 | 元徳三年 | 5月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚する。8月、後醍醐、山城国笠置山に逃れる。(30)_朝廷では光厳天皇が即位する。 |
| 1331 | 元徳三年、9月 | 楠木正成、河内国で挙兵する。笠置山に立てこもる後醍醐天皇が捕らえられ、神器が光厳天皇へ渡される。後醍醐は隠岐に流される。「元弘の乱」(5) |
| 1331 | 元徳三年 | 安藤高季が、男鹿の赤神神社多宝塔を建立した。菅江真澄の「男鹿の秋風」。(8) |
| 1333 | 元弘三年、5月 | 新田義貞・足利千寿王、鎌倉を攻め北条高時以下一門が自害する(鎌倉幕府の滅亡)。(5) |
建武の新政
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1333 | 元弘三年、8月 | 陸奥守に北畠顕家が任命された。11月、北畠顕家、義良親王を奉じて奥州に下向、南部師行も共に下向する。(12)〈保暦間記−顕家下向〉 |
| 1333 | 元弘三年 | 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇(建武政府)は北畠顕家を陸奥守、葉室光顕を出羽守兼秋田城介に補任。また、足利尊氏を鎮守府将軍に補任し、外浜・糠部の地頭職を宛行う。(1)_尊氏は一門の尾張弾正左衛門尉を外ヶ浜に派し、安藤一族に庶務の引き渡しを求める。(26) |
| 1333 | 元弘三年 | 曽我光高(貞光)、幕府滅亡後の鎌倉警番をつとめ、惣領家から独立。(26) _曾我光頼子息の乙房丸(おとほうまる)が、鎌倉の二階堂三辻役所の警固に従事していることが認められる(28)※乙房丸は光高の元服前の名前。 |
| 1333 | 元弘三年、〈末~翌年初〉 | 「大光寺楯合戦」。北条一族の安達高景、名越時如らが大光寺楯に身を寄せたが、陸奧国司北畠顕家勢に攻められる。(7)_北畠顕家は、南部師行を派遣し、合戦奉行早河禅門、尾張弾正左衛門尉、それに工藤貞行や曽我光高の一族、ならびに安藤高季も加わり大光寺城を攻撃した。(16) ※青森県史通史編1(2018)では、安達高景、名越時如の北条氏残党との合流は3月から4月のころで、合流地は持寄城であるとしている。(28) |
| 1334 | 建武元年、1月 | 国府軍、大光寺楯を陥す。曽我道性ら逃れて津軽平野南端の石川楯にこもる。(26) ※青森県史通史編1(2018)では、石川館合戦は、曽我光高と叔父経光の所領争いが武力衝突に発展したものとしている。(28) |
| 1334 | 建武元年、2月 | 南部師行、三戸の早稲田の土地を毘沙門堂に寄進する(上洛無事下向の奉賽の意味か)。(12) |
| 1334 | 建武元年、2月 | 曽我光高、重代相伝の所領平賀郡岩館、大平賀沼楯村の安堵を願い出るが、陸奥国府から退けられる。「タトエ本主ト称シ、関東(鎌倉)下知以下ノ証状ヲ捧ゲ支ヘ申ストイヘドモ、綸旨国宣ヲ帯ビズバ許容スベカラズ」〈北畠顕家国宣〉(26) |
| 1334 | 建武元年、3月 | このころ「南部殿(師行)」あてに「安倍祐季」らの書状(返書)が届く(安倍祐季は師季に鷲羽と鷹を贈って「無事下向」を祝う)。_(12) 書状に安東入道が畿内より津軽に下ってくると書かれている。(15)〈安倍祐季書状〉 |
| 1334 | 建武元年、3月 | 惣領安藤宗季の嫡子五郎太郎高季は北畠顕家から「勲功賞」として平賀郡柏木郷を宛行われている。(9) |
| 1334 | 建武元年、3月~5月 | 「石川楯合戦」。安達高景、名越時如が石川楯に逃げ合戦が起こる。(12) _北条方は石川楯に立て籠もって抵抗を続けたが、曾我光高らの奮戦で、建武元年(1334)五月には落ちた。(17) ※青森県史通史編1では、石川楯合戦は曽我光高と叔父経光との戦いであり、安達・名越氏は石川楯ではなく津軽持寄城の北条氏残党と合流したとしている。 |
| 1334 | 建武元年、6月 | 南部師行、北畠顕家よりの教書で諸般の指示を受け、特に安藤一族(家季関連)の動向につき警戒するよう命じられる。(12)〈北畠顕家御教書〉 |
| 1334 | 建武元年、8月~11月 | 津軽の持寄(もちよせ)城に旧北条勢、北条時如・安達高景ら軍勢が籠る。(1) _北畠顕家は各地の有力武士を次々と津軽へ派遣し合戦となり、旧北条勢は11月に投降。(17)「十一月、津軽凶徒時如、高景以下手ヲ束ネテ降ヲ乞フ」〈関城書裏書〉(26) |
| 1334 | 建武元年、12月 | 南部師行、持寄城合戦のときと推定される津軽降人五十三人とその預かり人の交名(きょうみょう・名簿)を国府に提出する。(12) _この降人の半数以上を安藤一族が預かった。(10) |
| 1335 | 建武二年、1月 | 工藤貞行、恩賞として外ヶ浜野尻郷、津軽鼻和郡目谷郷を与えられる。3月、曽我光高(貞光)、本領沼館村を返還安堵される。(26)※沼館村は安保弥五郎入道に与えられていた。 |
| 1335 | 建武二年、3月 | 北畠顕家から、津軽外浜の内摩部、並びに未給付の村々泉田・湖方・中沢・真坂・佐比内・中目などを、南部師行とその一族に宛行われる。(12) _顕家は七戸(結城朝祐の旧領)を南部師行の弟政長へ勲功賞として与えた。(28) |
| 1335 | 建武二年、3月 | 北畠顕家は「津軽中の尋沙汰(たずねさた)」のため南部師行を派遣する。※北条氏残党の掃討作戦。師行は七戸のうち野辺地を伊達宗政代官に打渡した。※所領の引き渡し(30) |
| 1335 | 建武二年 | 5月、曽我貞光が師行の陣営に参陣。7月、津軽に「山辺(やんべ)合戦」が起こり、南部政長が大将として活躍して勝利する。(30) |
| 1335 | 建武二年、10月 | 天皇親政をスローガンとする建武政府に対する武士の不満を結集して、足利尊氏が反旗をひるがえし、南北朝の内乱に突入する。(18) |
| 1335 | 建武二年、閏10月 | 北畠顕家国宣によって津軽の安藤高季に所領を安堵している(宗季から譲られた絹家嶋他の所領と西浜、地頭代職)。(12)〈北畠顕家国宣〉 |
| 1335 | 建武二年、12月 | 新田義貞勢、箱根・竹之下の戦いで足利尊氏勢に敗退。北畠顕家、尊氏勢を討つため、東北の軍勢を率いて多賀国府を発つ(北畠顕家第一次西上)。(4)_南部師行、信牧、これに従う。(30)※これまで南部師行は第一次西上には従軍していないとされてきていた。 |
| 1336 | 建武三年、1月 | 結城・伊達・葛西・南部・工藤等の諸氏が参じた北畠顕家勢、京都の足利尊氏勢を破る。(4)_北畠顕家・新田義貞ら京に入る。足利尊氏敗走。斯波家長、奥州に下向。(30) |
| 1336 | 建武三年、1月 | 安藤家季(足利方の津軽合戦奉行人)、曽我貞光らと南部師行・政長、成田六郎、成田奉次らの藤崎城・平内城などを攻撃し、津軽の南北朝内乱が始まる。(1) _兵乱は比内、鹿角にも波及する。(12) |
| 1336 | 建武三年 | 1月、鼻和郡船水楯。南朝方の小笠原孫四郎家信が守城。曽我貞光・浅利清連ら足利方に攻撃された。 (15) (16) |
| 1336 | 建武三年、3月 | 北畠顕家、鎮守大将軍の称号を得て、陸奥・出羽・常陸・下野の軍事指揮権を掌握し、奥州へ戻る。(4) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、5月 | 津軽足利方、小栗山城(倉光孫三郎)を攻撃。曽我貞光参戦。(28) |
| 1336 | 建武三年、5月 | 足利尊氏、湊川の戦いに勝利。(4) _※足利尊氏・直義兄弟VS新田義貞・楠木正成_[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、5月 | 南朝方が「御奉行(安藤家季ヵ)御楯」を攻めたので、曽我貞光勢は南朝方倉光弥三郎の小栗山楯(現、弘前市)を攻撃。(15) (16) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、6月 | 田舎楯(現、田舎館村)合戦。南朝方工藤貞行が守備していた田舎楯を曽我貞光が攻撃。(15) (16) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、7月 | 足利方が新里(現、弘前市)、堀越(現、弘前市)に楯を築く時、倉光孫三郎が出張して来たので防戦。曽我貞光参戦。(15) (16) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、8月 | 曽我貞光、浅利清運勢、鹿角の藤次館、夜明島沿いの大豆田館、大里楯(成田頼時)を急襲。北奥の動乱の中で出羽守兼秋田城介の葉室光顕(国府方)討死する。 (26) _[延元元年] |
南北朝時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1336 | 建武三年、8月 | 7月、足利尊氏、京都を占領。8月、尊氏の要請で光明天皇即位。(30)_尊氏、北朝を擁立。斯波家長、奥羽総大将に任じられる。(4) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、11月 | 足利尊氏、「建武式目」を制定し幕府樹立を宣言。(4) _[延元元年] |
| 1336 | 建武三年、12月 | 後醍醐天皇、吉野へ逃れ南朝を立てる。(4) _[延元元年] |
| 1337 | 建武四年、1月 | 北畠顕家は、国府多賀城から要害の地である伊達郡霊山(りょうざん、福島県相馬市・伊達市)に本拠を移した。(30) _[延元二年] |
| 1337 | 建武四年、1月 | 田舎楯合戦。曽我貞光参戦。(15) 安藤家季の名が合戦奉行から見ることができなくなる。(15) _[延元二年] |
| 1337 | 建武四年、2月 | 足利方、奥州総大将石塔義房、多賀国府に入府。 (26) _[延元二年] |
| 1337 | 建武四年、7月 | 鹿角郡二藤次楯、当楯、大豆田楯。大里楯などで南朝方成田頼時と足利方曽我貞光・浅利清連らが合戦。(15) _[延元二年] |
| 1337 | 建武四年、8月 | 北畠顕家二次西上へ出発し、つき従ったのは南部・結城・伊達氏らで、その数6000騎、白河の関を越える頃には3万騎となったという。根城南部師行は、この時もまた顕家に従った。(30)_※南朝が足利勢から京都を奪還するため_[延元二年] |
| 1337 | 建武四年、12月 | 奥州総奉行斯波家長は鎌倉で北畠顕家勢と戦い敗死した。(28) |
| 1338 | 建武五年、5月 | 北畠顕家が和泉国堺浦・石津(大阪府堺市)で高師直軍と戦って敗れ、顕家は討死する。根城南部師行も顕家と運命をともにした。(30) _[延元三年] |
| 1338 | 建武五年、閏七月 | 南朝は北畠顕家の弟顕信を陸奥介兼鎮守府将軍に任じ、その父親房とともに義良親王を奉じて派遣することを決定した。 |
| 1339 | 暦応元年 | 8月、足利尊氏、征夷大将軍に就任。9月、北畠顕信ら、陸奥をめざして海路伊勢を出発するが、遭難して顕信は吉野に戻り、親房は常陸に漂着する。(30) _[延元三年] |
| 1339 | 暦応二年 | 足利方の奥州総大将石塔義房、安藤師季(高季)を津軽合戦奉行に抜擢する。(1) _[延元四年] |
| 1339 | 暦応二年 | 足利直義から南部政長に対して味方(北朝方)になるよう求める文書が出された。(28) |
| 1339 | 暦応二年、3月 | 北朝方の曽我貞光は、「先代越後五郎殿」(北条氏一族)を推戴した、南朝方の南部六郎、成田頼時、工藤貞行、南部政長らに大光寺外楯を攻められた。一族曽我孫二郎師助らと三ヶ月にわたって防戦し、6月に相退きとなる。(15) (28)_[延元四年] |
| 1339 | 暦応二年、6月 | 南朝方の安藤四郎(実名未詳)が尻引楯に打ち入る。足利方の津軽合戦奉行の安藤太師季(高季)や曽我貞光と戦った。(1) (15)〈曽我貞光申状〉_[延元四年] |
| 1339 | 暦応二年、9月 | 貞光楯(現、つがる市ヵ)合戦。(15) _安藤四郎勢、沼館・岩崎楯の曽我勢と戦う。(26)[延元四年] |
| 1339 | 暦応二年、10月 | 尾崎(現、つがる市)合戦。(15) _[延元四年] |
| 1340 | 暦応三年、2月 | 南朝方鎮守府将軍北畠顕信、陸奥に下向する。6月、顕信、葛西清貞の日和山城に入り、多賀城の南北からの挟撃を企て、南部政長に南下を命じる。同じ頃、足利直義、南部政長に勧降状を送る。 (26) _[興国元年] |
| 1340 | 暦応三年、10月 | 南部政長・信政ら、鹿角合戦のあと、岩手郡西根に南下して占拠し、要害を築く。(12) _[興国元年] |
| 1340 | 暦応三年 | 興国元年に「大津波」があって、十三湊が壊滅し、安藤氏の衰退につながった、という伝承があった。これは「十三湊遺跡発掘調査」により、十三湊の地層に津波の跡はない、と完全否定されている。史実から見ても、その後の盛季・康季時代の十三湊繁栄の歴史と食い違う。_[興国元年] |
| 1341 | 暦応四年、2月 | 南部騎馬軍南下し、和賀郡岩崎城を攻撃。これに呼応して主力北畠顕信信勢も出撃。 (26) _[興国二年] |
| 1341 | 暦応四年、6月 | 北朝方逆襲に転じ、曽我師助・貞光を津軽に急派し、糠部の南部氏の拠点をおびやかし、郡境付近で一年余にわたる合戦が続く。(南部政長は和賀郡まで南進していたが、帰国の他なく南朝方の作戦が狂う原因となる。)(12) _瀧瀬彦次郎入道以下の防戦により翌年にいたるまで10度合戦。 (28)_[興国二年] |
| 1341 | 暦応四年、12月 | 津軽安藤一族が北畠顕信の勧誘によって国司方に帰順した。「津軽安藤一族等、参御方候之篠目出候」(南部文書、興国二年12月20日、北畠顕信御教書)(12) _[興国二年]※安藤一族の一部、南朝方として戦った安藤四郎を指すものとみられている。 |
| 1342 | 康永元年、10月 | 奥州総奉行石堂義房、「三迫の戦い」で北畠顕信勢を破る。(4) _[興国三年] |
| 1343 | 康永二年 | 8月、南朝方の結城親朝、足利氏に帰降。のちに伊達・葛西氏らも帰降する。11月、北畠親房、常陸より吉野に逃れる。(30) _[興国四年] |
| 1344 | 康永三年、2月 | 津軽鼻和郡の工藤貞行未亡人尼しれん嫡孫力寿丸(南部信光の幼名)に黒石郷と同政所職を譲る。(尼しれんは信光の母加伊寿御前の母)(12) _[興国五年] |
| 1344 | 康永三年 | 小鹿島の北浦の北浦(男鹿市)に建つ日吉神社を安倍兼季が修造する。棟札に「嶋郡地頭安倍兼季」の名がある。(10) _[興国五年] |
| 1345 | 貞和元年 | 石堂氏、奥州総奉行を解任される。吉良貞家・畠山国氏の両名が奥羽管領に任命される。(4) _[興国六年] |
| 1345 | 貞和元年、3月 | 北畠顕信、南部一族と津軽の南朝方の武士を論功する。(南朝方が津軽方面で攻勢に出たことを示す。)(12) _[興国六年] |
| 1346 | 貞和二年 | 足利直義からの文書が四月と十二月の二度にわたり南部政長の下に届き、足利方についたならば本領を安堵する、あるいは所領は政長の申請に沿うようにするという旨が伝えられた。(28) |
| 1347 | 貞和三年、7月 | 奥州管領、南朝方の最後の拠点の伊達郡霊山、田村荘宇津峰を落とす。(30) _[正平二年] |
| 1349 | 貞和五年、12月 | 「奥州持渡津先達檀那系図事」米良文書により、「安藤太郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也。今安藤師季と申候也」とある。安藤氏は持渡先達の檀那だった。(9) _[正平四年] |
| 1350 | 観応元年、8月 | 南部政長、加伊寿御前、信光、政光に所領を譲り死去。(12)_[正平五年] |
| 1351 | 観応二年、2月 | 直義派の吉良貞家、尊氏派の畠山国氏を宮城郡岩切城に攻めて殺害。10月、尊氏、直義追討のため南朝に帰降。(30)_[正平六年] |
| 1351 | 観応二年、11月 | 北畠顕信の子守親は、滴石・浅利・和賀・南部を結集し、広瀬川合戦で管領吉良勢を破り、多賀国府に入府する。 (26)(30)_[正平六年] |
| 1352 | 文和元年、3月 | 奥州管領吉良貞家勢、多賀国府を奪還し、北畠顕信再び宇津峰城に逃れる。(26)_南部信濃守ら北畠顕信に従う。(30)_[正平七年] |
| 1353 | 文和二年 | 1月、吉良貞家、北畠守親の宮城郡山村城を落とす。5月、北畠顕信の拠点宇津峰城陥落。(30) _[正平八年] |
| 1356 | 延文元年 | 「諏訪大明神画詞」成立。「武家其(蝦夷)濫吹を鎮護せんために、安藤太と云ふ者を蝦夷管領とす。此は上古に安倍氏悪事の高丸と云う勇士の後胤なり」(1) _[正平十一年] |
| 1357 | 延文二年 | 秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生。秋田の蝦夷沙汰のため、足利直義(ただよし・尊氏弟)が孫五郎を抜擢したのが原因。尊氏は安藤師季らをその処理にあたらせた。(1) _[正平十二年] |
| 1359 | 延文四年 | 安倍師季、深砂大権現や猿賀神社を再営したとされる。「津軽一統記」※師季を「津軽郡守護」と記載 (1) _[正平十四年] |
| 1360 | 延文五年、6月 | 北畠顕信、南部信光、政光兄弟に津軽の所領を安堵する。(南部兄弟が母加伊寿御前から譲られていた所領、信光=津軽田舎郡黒石郷・鼻和郡目谷郷、政光=外浜野尻郷、の安堵。)(3) _この頃すでに曽我一族は没落。 (26) _[正平十五年] |
| 1361 | 康安元年、11月 | 根城南部氏の「今度合戦」での忠節を賞した、後村上天皇(南朝)の感状が、根城南部信光・新田政持(信光叔父)・中館信助(信光叔父)に発せられた。(30)_[正平十六年] |
| 1386 | 至徳三年 | 鎮守府将軍北畠顕信の子、北畠親経が南党勢に支えられ、津軽波岡に依拠するという。(1) _[元中三年] |
| 1392 | 明徳三年 | 1月、幕府、奥羽両国を鎌倉府の管轄とする。閏10月、南北朝の統一。(30)_[元中九年] |
室町時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1394 | 応永元年頃、 | 十三湊の盛季の弟鹿季(西関住人)が二百余騎を率いて秋田湊を攻略し、湊秋田家の元祖になった。「湊鹿季、応永ノ初メ甲兵百余騎ヲ率ヒテ、秋田之湊ヲ伐ツ。コレ湊家ノ元祖也」〈秋田系図〉 (9) |
| 1395 | 応永二年 | 足利義満、下国安東盛季らに命じて、北海夷狄を平定し、安藤盛季の弟鹿季を秋田湊城主にするという。(1)_応永元年から起こった「北海夷狄動乱」の鎮圧に、盛季・鹿季兄弟が活躍し、下国家当主盛季は改めてエゾ支配を安堵される。北海は松前を指す。(31) |
| 1395 | 応永二年、四月 | 秋田市土崎「蒼竜寺文書・願文」に、「関東諸国兵乱、ここにおいて北海の夷狄起動やまず。時に康季及びその弟庶季兵を率いて夷賊を誅ちて大功あり。康季・庶季両将兵、夷狄征伐の事により、将軍を賜る」とある。(10)〈本書で康季・庶季は誤りで、盛季・鹿季のこととしている。〉〈秋田湊氏文書−永享夷狄蜂起〉 |
| 1399 | 応永六年、春 | 鎌倉公方足利満兼、弟満直・満貞を派遣して陸奥出羽の鎮定にあたらせる。(26) |
| 1409 | 応永十六年、9月 | 鎌倉公方に足利持氏が新任される。南部守行、新公方を支持し、陸奥国司に任じられた、という所伝がある。〈南部守行所伝〉 (26) |
| 1410 | 応永十七年 | 南部守行、津軽・秋田方面に出兵。(26) |
| 1411 | 応永十八年 | 1月、南部光経、三戸南部守行の要請で秋田に出陣。(30)_南部守行が湊安東鹿季と出羽国仙北刈和野(現大仙市)で戦った。八戸家伝記(南部家文書所収)(9) _※南部家家紋を「二羽鶴」に改めた経緯となった合戦。 |
| 1412 | 応永十九年 | 安藤氏、「時宗過去帳」に、奥州山外・奥土佐湊・合浦・秋田湊・松前などの諸氏を記載し結縁する。(1) |
| 1413 | 応永二十年、8月 | 幕府、鎌倉府に陸奥・出羽二国の管轄を命じる。(26) |
| 1414 | 応永二十一年 | 安藤盛季死去。「羽賀寺過去帳」に「日本将軍安倍盛季、卒八十四歳。高山賢機(康季)の父」。(10) ※「福山秘府」によれば盛季の没年は、文安元年(1444)となる。(33) |
| 1416 | 応永二十三年 | 南部光経(八戸)、湊安東氏と境界刈和野で激突。(26) |
| 1416 | 応永二十三年、9月 | 上杉禅秀、鎌倉公方足利持氏に反す。南部氏、篠川御所足利満直の命に応じ禅秀方で参戦。(30) |
| 1418 | 応永二十五年、8月 | 南部守行、嫡男の義政に献上品を持たせて上洛させる。将軍は、「義」の一字を与え、三戸南部氏を京都御扶持衆とした。「看聞御記」に「関東大名南部上洛。馬百匹・金千両、室町殿(将軍家)ヘコレヲ献ズ」と記述。(10) ※青森県史通史編1(2018)では、上洛した「関東大名南部」は八戸なのか、三戸なのかも確定できず、惣領家だとしたら八戸南部氏であろうか、としている。つまり、三戸南部守行が息子義政を上洛させたとは特定できない。(28) |
| 1420 | 応永二十七年、8月 | 南部守行・義政父子、安藤氏領地に侵攻し、藤崎城・大光寺城を落城させる。(10) |
| 1423 | 応永三十年、4月 | 安藤氏、将軍代替わり(足利義量・5代)に進物を贈り褒賞される。「馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼・ががん(中国からの輸入銭)二万匹(貫)、海虎・らっこ皮三十枚、昆布五百把」を献上。〈後鏡、安藤陸奥守の将軍義量への献納物〉(4)_将軍、安藤康季に御内書と太刀一腰、鎧五領、香合、盆、金襴一端添え、陸奥守を与える。これにより北奥は鎌倉方陸奥国司南部氏と幕府方陸奥守安藤氏の二様を呈することになる。(26) |
| 1432 | 永享四年、10月 | 下国安藤氏が糠部南部氏との津軽合戦に敗れて蝦夷島に渡り、幕府がその調停に乗り出す。満済准后日記の内容は、「奥ノ下国ト南部弓矢ノ事ニツイテ下国弓矢ニ取負け。エゾガ島へ没落、ヨツテ和睦ノ事連々申ス間、先度仰セ遣サレ候処、南部不承引申ス也」(12)〈満済准后日記〉_翌年、幕府の調停で安藤氏十三湊に復帰。(31) |
| 1432 | 永享四年、10月 | 南部長安(根城南部)が遠江守に、南部守清(長安嫡男)・新田清政(長安二男)が刑部丞に就任。(30) |
| 1432 | 永享四年、11月 | 将軍義教、御内書をもって南部、安藤の和睦を命じる。(26) |
| 1433 | 永享五年 | 幕府の調停によって、安藤氏は十三湊に復帰する。永享4年(1432)の第一次安藤・南部戦争で、十三湊の安藤氏居館が廃墟となったため、新たな居館として、十三湖北岸の福島城地区に守護居館並みの方形居館(内郭)を造る。(31) |
| 1435 | 永享七年、3月 | 敦賀羽賀寺(勅願寺、僧行基建立)堂塔焼失し、後花園天皇、奥州十三湊日の本将軍安倍康季に再建を命じる。(26) _※勅願寺とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。 |
| 1436 | 永享八年 | 安藤康季、後花園院の勅を受けて、檀越(だんおつ)として莫大な財貨を投じて、若狭羽賀寺(現、小浜市)の再建に着手した。(1)_「若狭国羽賀寺縁起」に「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」が羽賀寺を修造したと書かれている。(8) |
| 1441 | 嘉吉元年 | 米良文書の「陸奥国下国殿代々名法日記(なのりにっき)」によれば、津軽安藤氏は下国殿とよばれ、安藤又太郎(初名、五郎三郎季久)宗季を初代として、二代師季(初名、高季)、三代法季(のりすえ)、四代盛季、五代泰季(康季・やすすえ)と続いたことが知られる。(9) |
| 1441 | 嘉吉元年、6月 | 赤松満祐、室町幕府第6代将軍足利義教を殺害(嘉吉の乱)。(30) ※南部氏にとって、安藤氏と再戦のきっかけとなる。 |
| 1442 | 嘉吉二年 | 津軽下国安藤氏、糠部南部氏に敗れて、十三湊から撤退し一旦小泊に逃れた。「新羅之記録」(30) |
| 1442 | 嘉吉二年 | 十三湊安藤氏の没落後、その武士団の有力な構成員であった蠣崎季繁は、南部氏の覇権を嫌って夷が島方面に渡海する。(3) |
| 1443 | 嘉吉三年 | 12月、安藤氏は小泊から蝦夷島(松前)に逃れた。(30)(31) |
| 1444 | 文安元年 | 「福山秘譜」によると、安藤盛季死亡。(33) |
| 1444 | 文安元年 | 南部勢の戸沢寿盛(鹿角)小野寺実道(平鹿)ら、小鹿島の男鹿川をはさみ湊安東勢と対戦。(26) |
| 1445 | 文安二年、12月 | 安藤盛季の子康季が蝦夷島より津軽奪回のため攻め入ったが、引根城で病死し、南部氏の代官富士山城守が葬った。(9) |
| 1447 | 文安四年 | 若狭羽賀寺が再建完成し、本尊を移し建立供養が挙行される。(1)_安藤康季は羽賀寺の新伽藍を見ることなく没している。(13) |
| 1450 | 宝徳二年、1月 | 三戸・南部政盛(義政の弟で、義政の後嗣)が外ヶ浜潮潟を攻め、潮潟重季は戦死した。妻女(政盛の叔母)と嫡子の政季は捕らえられた。(10)_この後に、政季は糠部八戸にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行し家督を継ぐ。(7)_ ※潮潟を攻めたのが、三戸南部氏の「政盛」であるというのは、捕らえられた政季が八戸へ連行されるのでは辻褄が合わない。潮潟重季を討ったのは、八戸政経である。政季を「安東太」として、安藤氏の惣領継承者にまつりあげ、宇曽利郷の掌握手段としたのであろう。 |
| 1451 | 宝徳三年 | この年、安藤康季の子義季が蝦夷島より津軽に入り、津軽奪回のため、糠部松館の人数を催して鼻和郡大浦郷狼倉舘に籠城。(30) |
| 1451 | 宝徳三年 | 「松前年代記」によるところの、安東政季(師季)大畑から蝦夷ヶ島へ渡海 |
| 1452 | 宝徳四年 | 室町幕府によって賦課された造内裏段銭の催促のために、奥州探題のルートを通じて、八戸南部氏(河内守政経)のもとにまで、使節が派遣されてきた。「南部家文書」(33) |
| 1453 | 享徳二年 | 根城南部政経に宛てた、幕府管領斯波氏の執事二宮氏の一族、前信濃守孝安なる人物からの書状に、「奥州時儀属無為、殊御本望之由物語候、誠目出候」(奥州の情勢があなたの思い通りになったのはめでたいことです)と記されている。(30) |
| 1453 | 享徳二年 | 義季は、南部氏に攻められて大浦郷狼倉舘で討死し、下国惣領家はここに滅亡した。(1) |
| 1454 | 享徳三年、8月 | 潮潟四郎の系譜を引く安藤政季(師季)は、嫡流家滅亡を知ると、武田信広らのはからいで下北の大畑より蝦夷島に脱出した。(1)〈新羅之記録〉 _南部氏から下北宇曽利の田名部に知行を与えられ、潮潟氏から安藤氏に改名させられていた。(10) ※「松前年代記」によれば政季の渡海は、宝徳3年(1451)。 |
| 1456 | 康正二年、春 | 蝦夷島の志濃里で(注文者アイヌ)乙孫と鍛冶の間でマキリの出来の善し悪しで口論となり、鍛冶が乙孫を突き刺した。(29)※コシャマインの大乱の発端 |
| 1456 | 康正二年、夏 | 湊安東尭季(惟季)から安東政季(師季)に誘いがあり、出羽国小鹿島に迎えられ、河北郡に依拠し、安東家再興を画策しはじめる。(1)(30)_「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季とその子安東忠季が滅ぼして、檜山城の築城を完成させた。 |
| 1456 | 康正二年、8月 | 南部光政(義政の子)、葛西一族の支援を得て、湊安東勢と雄物川沿いで対戦。葛西信政(当主持信弟)討死。(26) |
| 1456 | 康正二年 | 波岡当主北畠忠具、従四位に叙任される。 (26) |
| 1457 | 康正三年、2月 | 田名部合戦が終息する。安藤氏勢力下に在る蠣崎信純の敗北。(10)_(蠣崎蔵人の乱)宇曽利郷田名部の領主蠣崎蔵人が南部氏の差し向けた八戸氏の水軍によって滅ぼされた。(3)_八戸政経の軍勢が海路、田名部領主の蠣崎蔵人の居城を攻め、天神や仏の加護を得て勝利した。※青森県史通史編1(2018)では、田名部合戦(蠣崎蔵人の乱)は、特定の戦いを指すものではなく、安東氏に荷担する下北の武将の反南部氏の争いをまとめて表したもの、としている。(28) |
| 1457 | 康正三年、5月 | 奥州探題大崎氏、南部家臣宛てに官途推薦状を発する。「越前守所望ノ事、挙ゲ申ス所也。其ノ旨存知セラルベキ挙状、件ノ如シ 佐衛門佐 花押」 (26) |
| 1457 | 康正三年、6月 | 蝦夷島で、コシャマインの大乱がおこる。勝ち戦の後に花沢館主蠣崎季重は娘を武田信広に娶せて継嗣子とし、武田信広が蠣崎家当主となる。(10)〈松前記〉 |
| 1459 | 長禄三年 | 安東堯季は上洛し、将軍義政に拝謁して左衛門督に任じられた、という。「下国伊駒安倍姓之家譜」(36) |
| 1460 | 長禄四年 | 安東師季(政季改名後)、鹿角郡大日堂に洪鐘を奉納する。(若佐国遠敷・おにゅう郡(現、小浜市)で鋳造させた洪鐘。鐘名に「大檀那安倍師季」と名を刻んでいる。)「大日堂由来記」・「大日堂故実伝記」(2) 長禄四年大檀那安倍師季、別当沙弥藤原浄通、冶工若州遠敷郡小南金屋鋳、 |
| 1467 | 応仁元年、1月 | 応仁の乱始まる。(4) _※将軍継嗣問題や室町幕府管領家の畠山・斯波両家の家督争いに有力守護大名細川勝元と山名宗全の対立が絡んで争われた内乱。 |
| 1468 | 応仁二年 | 安東師季、熊野那智神社に「津軽外浜宇楚里鶴子偏地」回復の願文を奉げる。(1)〈安藤師季(政季)願文〉_その後、将軍義政に謁見、下国家後継者と認められ政季と改名。(31) ※政季の「政」は、将軍義政からの一字拝領というのが、多数説であるが、南部氏当主からのものということも考えられる。 |
| 1470 | 文明二年、1月 | 安東師季(政季)が出羽国河北郡(秋田県山本郡)から津軽に打ち入り、藤崎の館を攻撃した。「下国伊駒安倍姓之家譜」(1)_※『秋田家系図』には、「文明2年正月29日、下国安東政季が、津軽の藤崎館に攻め入った。当時その地を統治していた安東一族の抵抗や浪岡北畠氏らの反撃に遭い奪還は失敗に終った。」旨が記載されている。 |
| 1482 | 文明十四年 | 足利義政が日本国王として朝鮮国に使節を送ったとき、その船に使者を同乗させて、義政と同様に大蔵経の賜与を求めた「夷千島王遐叉」なる者がいた(安東政季ヵ)。〈李朝実録−夷千島王遐叉の書状〉。(1)_朝鮮国王成宗に貢物を献上(馬角一丁、錦一匹、練貫一匹、紅桃金綾一匹、紺布一匹、海草昆布二百斥)。成宗、答礼品を贈り、大蔵経を渡さず。(26) ※青森県史通史編1(2018)では、近年の研究では「夷千島遐叉」は政季ではなく、対馬島民の有力者とされている、としている。(28) |
| 1488 | 長享二年 | 安東師季(政季)、家来の長木大和守に攻められ河北郡糠野館で自刃した。(11) |
| 1491 | 延徳三年 | 南部久慈光信が種里に入った(津軽藩作成「前代略譜」)。(3) |
戦国時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1495 | 明応四年 | 安東忠季、河北郡の葛西秀清を討ち取り、河北千町を所領とし(10)、檜山城を完成させた。 |
| 1496 | 明応五年、11月 | 上の国守護職蠣崎光広(信広嫡子)はじめ渡党の各領主ら、松前守護職下国山城守恒季の悪政を檜山安東忠季に訴える。(26) _安東忠季、蝦夷島からの注進をうけて、下国山城守恒季を討つ。(10)_※追い詰められた恒季は自害。 |
| 1502 | 文亀二年 | 三戸南部氏が大光寺城と藤崎城を攻め、城主の安陪(安東)教季と藤崎伊代守を没落させた。(28) |
| 1503 | 文亀三年 | 阿部師季の子孫である教季が大光寺城主として居住していたが、南部勢が押し寄せ、教季は合戦に負けて退去したという。「津軽史」(2) ※前行と同じで年代が異なるものと思われる。 |
| 1512 | 永正九年、四月 | 蝦夷の酋長ショヤ・コウジ兄弟が突然蜂起して、蝦夷の宇須岸(箱館)、志濃里、與倉前の三館を攻め落とした。 (29) |
| 1513 | 永正十年 | 蝦夷松前大館が蝦夷から攻撃されるという。この後、蝦夷の和人城館攻撃が続く。(1)_松前大館落城により蝦夷地の三守護体制は、崩壊した。 (29) |
| 1514 | 永正十一年、三月 | 蠣崎光広・義広父子が小船百八十艘で松前入部を果たし、大館を整備して「徳山館」とし、事実上の蝦夷地の守護職となった。(29) |
| 1514 | 永正十一年 | 蠣崎光広、紺備後を使者として檜山に送り、以後、渡島の交易関税の過半を檜山に納入する条件で、蠣崎義広(光広嫡男)の狄ノ嶋預かり(守護職)を安東尋季に認めさせる。〈新羅之記録−松前守護職承認〉_檜山安東尋季(忠季嫡男)、「日の本将軍」「東海将軍」の称号を用い蝦夷支配権を内外に顕示する。 (26) |
| 1515 | 永正十二年、六月 | 蠣崎光広、再び攻めこんできた蝦夷のショヤ・コウジ兄弟酋長に和睦を求め、酒食でもてなして「だまし打ち」をした。(29) |
| 1533 | 天文二年 | 安東堯季、湊安東を嗣ぎ、民部大輔に任じられ、伊達、大宝寺、芦名、小野寺、南部、葛西の奥羽諸将とともに謹上書衆に遇される。(26) |
| 1533 | 天文二年 | 三戸南部安信が木庭袋葛西頼清の居城大光寺を攻め滅ぼした。(28) |
| 1539 | 天文八年、七月 | 「奥州南部彦三郎」が室町幕府十二代将軍足利義晴へ使者と馬を送り偏諱を受けた。南部彦三郎は実名安政で、義晴の「晴」字を受け晴政と改名した。(28)_この年、聖寿寺館(本三戸城)火災。(30) |
| 1544 | 天文十三年 | 湊安東友季(檜山舜季長子)没、16歳。 (26) ※隠居していた湊安東定季(7代)が、堯季と名を改め9代当主となる。 |
| 1546 | 天文十五年、春 | 河北郡深浦森山の城主、森山飛騨守季定が謀反。安東舜季の命令をうけて、松前大館の蠣崎季広も兵を率いて小泊に上陸し、搦め手の大将として季定謀反征討に参陣した。(10)_檜山安東茂季と蠣崎義広六女と婚約成る。(26) |
| 1546 | 天文十五年 | 浪岡御所北畠氏のもとで「津軽郡中名字」が編纂される。(30) |
| 1550 | 天文十九年、6月 | 松前城主蠣崎季広が領主権者である檜山城主下国舜季に蝦夷島への渡海を請願し、アイヌとの和睦協定「夷狄之商舶往還之法度」をまとめ施行する。(10)_「天文十九年六月二十三日、河北郡檜山ノ屋形尋季ノ嫡男安東太舜季朝臣国ヲ見ント欲シ渡来シ給フ。コレヲ東公ノ嶋渡リト謂フナリ」〈新羅之記録〉(26) |
| 1554 | 天文二十三年、八月 | 檜山安東舜季没し、15歳の愛季、檜山安東四代を嗣ぐ。 (28) |
| 1556 | 弘治二年 | 安東愛季は家臣の清水治郎兵衛を諸材木惣町支配に任じ、能代の湊づくり・町づくりを命じて整備した。(10) |
| 1558 | 永禄元年 | 安東愛季、比内郡浅利則祐に鹿角の反南部地侍の勢力の結集を命じる。(26)_愛季は、鹿角の大湯・小平・柴内・花輪・大里各氏を従属させた。(28) |
| 1560 | 永禄三年 | 蠣崎慶広が津軽に渡海し、浪岡御所・北畠顕慶(具運)に拝謁した。その際に、慶広から潮潟に面した野田玉川村を賜って、松前から外が浜に渡海する拠点とすることになった。「新羅之記録」(3) |
| 1562 | 永禄五年 | 安東愛季、正室の父砂越入道也足軒(庄内大宝寺屋形武藤一族)を通じ越後上杉謙信と結び、日本海の海路を確保する。 |
| 1562 | 永禄五年 | 愛季、浅利則祐・勝頼兄弟の反目を利用し扇田長岡城を攻撃し、当主則祐を自害させ、比内に勢力を伸ばす。愛季、鹿角の大湯・小平・柴内・花輪・大里らの地侍を扇田城に集め、反南部の同盟を結ぶ。 (26) |
| 1562 | 永禄五年 | 北畠当主具運とその叔父川原御所具信が所領で争い、ともに慚死する。(26) |
| 1566 | 永禄九年、8月 | 安東愛季は、比内の浅利勢・阿仁地方の嘉成勢とともに、南部鹿角郡に進撃した。愛季は石鳥谷城、長嶺城を落とした。(10) |
| 1567 | 永禄十年、10月 | 安東愛季は長牛城を攻め、前年から三度目の攻撃で長牛城を遂に陥落させた。(10) |
| 1568 | 永禄十一年、3月 | 南部晴政は、継嗣の田子信直、その父の石川高信、九戸政実を副将とし、軍勢を整えて鹿角を攻略し、一年で取りもどした。(10) |
| 1569 | 永禄十二年 | 安東愛季は、津軽波岡御所の公卿部将北畠顕村の正室に娘を嫁がせた。(10) |
| 1570 | 永禄十三年 | 湊安東茂季への家臣畠山重村らの謀反。安東愛季は、反乱を鎮圧した後、弟である茂季を豊島城に移し、自らが湊城に入って湊安東家の実権を掌握した。(10) |
| 1571 | 元亀二年 | 5月、大浦為信、津軽石川城を攻撃し石川高信を殺害。8月、根城南部氏、津軽救援のために出陣するが、九戸氏が根城を攻撃するという情報が入ったために引き返す。(30)_為信、南の檜山安藤氏牽制のため出羽の大宝寺義氏と接触する。 (26) |
安土桃山時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1573 | 天正元年、7月 | 三戸南部晴政と九戸政実対立、根城南部政栄和議をとりもつ。(30) |
| 1575 | 天正三年、12月 | 大浦為信、津軽大光寺を落とす。(30) |
| 1577 | 天正五年、6月 | 秋田桧山城主安東太郎愛季が織田信長に鷹を献じたのに対して、信長は愛季に太刀一腰を送った。信長書状の宛所は「下国殿」とあり、桧山安藤氏が下国を号したことが知られる。(9) |
| 1577 | 天正五年、7月 | 安東愛季、信長の斡旋により従五位下に叙せられる。(信長宛て三条西実枝書状、逆賊長髄彦の末孫の叙爵と記す)。(26)〈三条西実枝書状〉 |
| 1578 | 天正六年、7月 | 大浦為信が北畠氏の波岡城を襲撃する。北畠顕村と正室(安東愛季の長女)は檜山に逃れた。(10)_※通説では顕村は捕虜となり、秋田に送ってほしいと願ったが自刀させられた。 |
| 1578 | 天正六年、10月 | 安東愛季は北畠氏の浪岡城を大浦為信から奪還しようと出陣したが、十月には帰陣した。翌年正月には愛季は再び浪岡へ出兵したらしく、松前の蠣崎季広は息子慶広を遣わし、自らも浪岡へ向かおうとした。(28) |
| 1579 | 天正七年、夏 | 六羽川合戦。安東愛季は比内勢を動員して波岡城奪還のため津軽に侵攻。茶臼館を攻略、さらに沖館城を攻める。大浦為信は打ち損じた。(10) ※乳井茶臼館(弘前市)、六羽川・沖館城(平川市)。愛季は出陣せず。 |
| 1579 | 天正七年 | 安東愛季の弟、前湊城主・豊島城主茂季が病没。茂季の嫡男通季ではなく、愛季の嫡男業季を湊城主に据え、檜山城には次男実季を城主とし自らは男鹿の脇本城に入った。檜山家と湊家の統合。(10) |
| 1580 | 天正八年 | 下国愛季が、織田信長の推薦をうけて従五位上・侍従となる。(1) |
| 1580 | 天正八年 | 安東愛季は大光寺光愛、浅利義政、三浦九郎等と同盟し鹿角に出陣し、大浦為信と戦い大勝した。(11) |
| 1581 | 天正九年、春 | 下国愛季による鹿角進攻。蠣崎季広、九男中広を愛季救援に派遣する。 (29) |
| 1581 | 天正九年 | 比内の浅利勝頼叛乱し、郡内の十二所・中野・山田・茂屋で愛季勢と転戦し、遂に勝賴大館城を明け渡して降る。愛季、大館城に直臣五十目兵庫秀兼を置く。 (26) |
| 1581 | 天正九年、5月 | 大宝寺義氏、由利郡小介川図書(矢島満安重臣)討伐の兵を起こし、内越を攻略する。これに反発した安東方赤尾津勢、岩屋口に押し寄せて村郷に放火。大宝寺義氏、大浦為信に支援を要請する。 (26) |
| 1581 | 天正九年、夏 | 南部信直、三戸南部氏の家督を継ぐ。天正九年(1581)一月、南部晴政死去。次代南部晴継、同年夏に死去による。(30) |
| 1582 | 天正十年、2月 | 安東・大宝寺両軍、新沢館(小介川図書頭)で激しい攻防を展開。安東勢一部式部少輔の働きで館を守り抜く。 (26)〈湊・檜山両家合戦覚書〉 |
| 1582 | 天正十年、5月 | 湊城の安東業季(愛季長男)没、16歳。安東愛季、檜山の次男実季を湊城に据える。(26) |
| 1582 | 天正十年 | 大浦為信は、津軽郡代南部政信(信直弟)補佐役の大光寺光愛を策謀により出羽国比内郡に逐って執事職を独占した。(30) |
| 1583 | 天正十一年、正月 | 大宝寺勢、由利郡岩屋口を攻撃。小介川図書これを撃退。春、愛季の主力、由利郡へ攻撃。大宝寺家中で側近前森蔵人が造反し、大宝寺義氏、尾浦城で自害。愛季、庄内領酒田まで攻めこみ、義氏の死を確認して本城檜山城に引き揚げる。(26) |
| 1583 | 天正十一年、3月 | 安東愛季は天正九年に愛季に背いた比内の浅利勝頼を檜山城に招いて酒宴を催し、松前守護職の嫡男蠣崎慶広が勝頼を切った。(10) _勝頼の嗣子頼平、難を逃れ津軽に走る。愛季、比内を秋田郡に組み入れ、所領とする。 (26) |
| 1584 | 天正十二年、5月 | 浅利頼平、大浦為信の支援を得て比内を攻めたが、撃退される。この頃、安東愛季 “斗星の北天に在るにも似たり”と恐れられる。(26) |
| 1584 | 天正十二年、6月 | 正親町天皇が青蓮院尊朝法親王へ綸旨を下し、若狭国羽賀寺の再興について、安東愛季に頼むように命じた。「その由緒に任せて、十三湊(安東愛季)に告げ申され」(華頂要略)とある。〈秋田愛季に綸旨〉(18) |
| 1585 | 天正十三年、3月 | 外が浜の油川城が大浦為信に焼き討ちにされ、南部氏の守将奥瀬氏が田名部湊に撤退した。「津軽一統志」(3)_為信が田舎館城をも落城させる。 (28) |
| 1585 | 天正十三年、4月 | 三戸南部氏の家臣名久井氏、津軽浅瀬石を攻めるが敗退。この年、根城南部政栄、南部信直の要請により三戸城下に屋敷を構える。(30) |
| 1585 | 天正十三年 | 南部氏は、秋田実季の弟実泰と養女にした北信愛の娘と結婚させ、秋田との交誼を温めた。(16) |
| 1586 | 天正十四年 | 下国愛季、仙北高寺の陣。蠣崎季広の四男正広も従軍する。(29) |
| 1586 | 天正十四年、夏 | 8月、これ以前、南部信直、羽柴秀吉に鷹を進上。秀吉・前田利家、南部信直に書状を送る。(30)_信直は、前田利家に北信愛を遣わして、豊臣秀吉への通交を企図した。(28)_10月、信直、岩手郡滴石を攻略。(30) |
| 1586 | 天正十四年、12月 | 秀吉、太政大臣となり豊臣姓を与えられる。秀吉は「関東・奧両国惣無事」を家康に命じたこと、惣無事に従わない場合は成敗する旨を、関東・奥羽で抗争中の領主に対し伝達した。(30) |
| 1587 | 天正十五年、6月 | 前田利家、南部信直に起請文をおくり、秀吉へのとりなしを約す。(30) |
| 1587 | 天正十五年、8月 | 「唐松野の合戦」。仙北郡角館城主戸沢盛安の動きに抑圧を加えるため安東愛季は刈和野に出陣し、陣中で発病し脇本城で没した。(10)_9月、安東愛季没、49歳。夜陰ひそかに遺体を城麓法蔵寺に葬る。家督を実季が嗣ぐ。 (26) |
| 1587 | 天正十五年、12月 | 秀吉、関東・奥州惣無事令を発する。「関東・奧両国マデ総無事之儀、今度家康ニ仰セ付ルノ条」(伊達、多賀文書)(26) |
| 1588 | 天正十六年、3月 | 津軽浪岡城主南部政信(信直の弟)死去。(30) |
| 1588 | 天正十六年、4月 | 南部氏(九戸九郎・北信愛ら)は比内郡に侵攻し、浄法寺・大湯・毛馬内・田頭の南部勢五百、安東方の大館を攻略し、制圧することに成功した。(26)(30) |
| 1588 | 天正十六年、閏5月 | 戸沢盛安、横手小野寺義道の支援を受け、再び刈和野に出撃。安東勢、唐松野峰ノ山で再び対戦。(26) |
| 1588 | 天正十六年、7月 | 7月、南部信直、志波御所斯波氏を滅ぼし、岩手・志波郡を掌握。(30) |
| 1589 | 天正十七年、2月 | 湊合戦勃発。前湊城主茂季の子豊島通季が檜山系に不平をいだく湊の旧臣らと戸沢、小野寺氏等の応援を得て、安東実季撃滅の兵を挙げた。安東実季、湊城を安東通季勢に奪われ、脇本城を重臣大鷹相模に任せ、本城檜山城に籠城する。〈安東実季書簡〉「通季ト云ハ愛季公ノ舎弟、豊島ノ城主茂季ノ子ナリ。実季伯父ノ子也。各郡主ヲ催シ戸沢ヲ頼ンデ謀反ヲオコシ、スデニ湊ニ働キニ及ブ」〈湊・檜山両家合戦覚書〉(26) |
| 1589 | 天正十七年、4月 | 蠣崎氏の居館である徳山館・内館より出火し、重要な文書など、ことごとく焼失した。(29) |
| 1589 | 天正十七年、4月 | 大浦為信は実季と和睦し、加勢。比内郡の浅利与市を討つため挙兵し、これを討つことに成功した。(28) |
| 1589 | 天正十七年 | 5月、実季、由利十二頭や庄内大宝寺義勝に援軍を求める「実季書簡」。由利十二頭勢がそれに応じて、安東通季の背後をつく。主勢の戸沢盛安も角館に兵を引く。9月、少勢となった湊通季、仙北を経て糠部の南部信直のもとに逃れる。 (26) |
| 1589 | 天正十七年 | 蠣崎慶広から南部信直に対して表敬の挨拶があり、「巣子之御鷹一連」が届けられた。(3) ※慶広の安東氏からの独立のための動き。 |
| 1589 | 天正十七年、8月 | 南部信直に対して、秀吉からの「秀吉朱印状」が届き、「同名親類等並び檜山の城主以下同心せしめ、上洛すべく候由」を秀吉が聞いたので、その路次の安全保障を上杉景勝に命じた、ことを伝えている。(28) |
| 1589 | 天正十七年、8月 | 「関東・奥州惣無事令」に違反したという秀吉の詰問に対して、安東実季は、南部宮内少輔と湊右近(北畠慶好)を大坂城へ派し、上杉景勝の仲介により石田三成に陳情する (26) |
| 1589 | 天正十七年、11月 | 秀吉、諸大名に北条氏討伐の動員令を発す。12月、この頃、大浦為信、豊臣秀吉に鷹を進上。(30) |
| 1590 | 天正十八年、2月 | 安東実季、秀吉から本領安堵の朱印状を受領。(26) ※奥州惣無事令違反は不問となった。_出羽の探題職である最上義光から実季に書状が届き、本領安堵には石田三成の力添えがあったことを知らせた。(28)〈安東実季宛「最上義光書状」〉 |
| 1590 | 天正十八年、3月 | 大浦為信が秋田の湊安東実季から250人の援軍を得て浪岡城を攻略し、その後外浜一円も領地化することによって、ようやく津軽統一を実現させたという。(17)_為信は二月に浪岡城を攻めるため挙兵し、三月には同城を陥れた。 (28) |
| 1590 | 天正十八年、3月 | 南部信直は、大浦為信の挙兵に対して七戸まで出馬し、一家の軍勢を待ったが九戸勢の参陣はなく帰陣した。八戸政栄は先陣として為信と交戦したが敗れ、信直からの帰陣命令に従った。(30) |
| 1590 | 天正十八年、3月 | 安東実季は、大浦為信の浪岡城攻略に乗じて、北信愛の守る比内大館へ出兵し、比内郡を奪回した。(30) |
| 1590 | 天正十八年 | 4月、秀吉、小田原城を包囲。豊臣秀吉、出羽・奥州・日之本の果までの仕置を明言する。4月、南部信直、八戸直栄を伴って小田原に向けて出発。7月、北条氏直、秀吉に降伏。 (30) |
| 1590 | 天正十八年 | 7月、秀吉、小田原城に入る。湊安東通季、南部信直に従い参陣したが、秀吉の謁見許されず、復権はならなかった。秀吉、陸奥征伐のため小田原を発す。安東実季、宇都宮で秀吉に謁見。(26) |
| 1590 | 天正十八年 | 豊臣秀吉、「奥州ひのもと仕置き」を断行する。(1) _8月、秀吉、会津に入り奥羽での検地・刀狩を命じる。10月、葛西・大崎氏旧領で一揆起こり、和賀・稗貫氏旧領に波及。(30) |
| 1590 | 天正十八年 | この頃、浅利頼平、津軽為信の仲裁により比内に戻り、実季の旗下に入る。(26) |
| 1590 | 天正十八年、10月 | 蠣崎慶広、安東実季とともに海路京都に向かう。12月、慶広、秀吉に謁見し狄ヶ島の情勢を報告。(26) |
| 1591 | 天正十九年、1月 | 安東実季、秀吉から本領安堵の朱印状を受ける。(26) ※奥州検地後の本領安堵。旧領から太閤蔵入地を外しての確定。 |
| 1591 | 天正十九年 | 2月、九戸政実ら、反豊臣の一揆を起こす。6月、秀吉、奥州再仕置の動令を発す。9月、九戸一揆鎮圧される。(30) _※安東実季、南部信直、蠣崎慶広、津軽為信が出陣。 |
| 1591 | 天正十九年 | 豊臣秀吉は、愛児鶴松が死去した八月、甥豊臣秀次への関白委譲と、翌文禄元年三月を期しての「唐入」を宣言し、九月、大名らに朝鮮出兵を命じた。(30) |
| 1592 | 天正二十年、3月 | 秀吉、肥前国名護屋に向かう。ついで南部信直ら奥羽大名、徳川家康に属して名護屋に在陣。_秋田実季、従兵百五十余とともに肥前名護屋に出陣、浅利頼平に拠出金を課す。 (26)_ |
| 1592 | 天正二十年、4月 | 豊臣軍、朝鮮への侵攻を開始。第一次朝鮮出兵(文禄の役)が始まった。関東・奥羽の領主は、名護屋を守護する「名護屋在陣衆」に編成された。(30) |
| 1592 | 天正二十年、8月 | 津軽為信が船で上洛しようとした時に、暴風に遭い蝦夷地・松前沖に漂着した。蠣崎慶広は為信を接待しようとしたが為信はそれを断った。(29) |
| 1593 | 文禄二年、1月 | 安東氏の被官身分で松前守護職に任じている蠣崎慶広に、天下人豊臣秀吉が蝦夷ヶ島主を認めるという朱印状を授与した。(10) 〈蠣崎慶広宛「秀吉朱印状」〉_これにより、実季のエゾ支配権が没収される。実季安東氏を改め、秋田氏を名乗る。(26) |
| 1593 | 文禄二年 | 4月、小西行長、明将沈惟敬の和議により休戦。7月、秀吉、名護屋在陣衆を定める。南部利直、軍勢200人を率いて名護屋に在陣。8月、秀吉は秀頼が産まれたため大坂城に帰る。東国衆・北国衆もこの後名護屋を発ち帰国した。(30) |
| 1594 | 文禄三年、秋 | 秋田実季、再三にわたる浅利頼平の上納蔵入物不足に頼平方十部落を放火、なで切りの制裁を加える。暮れ、秋田実季に上洛の命が下り、上洛する。 (26) |
| 1595 | 文禄四年、春 | 大坂城滞在中、前田利家の仲介により、秋田実季弟忠次郎英季と南部信直娘の婚約成る。(26) |
| 1595 | 文禄四年、8月 | 秋田実季が上洛した間隙をつき、浅利頼平は津軽為信の援護を得て一揆を起こした。秋田方は浅利領に再び侵攻して放火・撫切を行った。(30) |
| 1595 | 文禄四年 | この年、南部氏領と津軽氏領との境界が定められる。(30) |
| 1595 | 文禄四年 | 5月、青蓮院尊朝法親王から若狭小浜・羽賀寺再興の依頼があり、秋田実季は安藤康季にならって羽賀寺修造資金を調達。文禄五年(1596)施行し、慶長六年(1601)完成。(10)〈青蓮院尊朝法親王書状〉 |
| 1596 | 文禄五年 | 秀吉の命により名門細川昭元の娘を正室に迎え、安東実季は、秀吉縁者の一人に組み込まれた。(10) |
| 1596 | 文禄五年、8月 | 安東英季(実季弟)と南部信直の娘秀子(後の檜山御前)との婚儀。(30)_実季は弟英季に比内を仕置きさせる。 (26) |
| 1597 | 慶長二年、夏 | 浅野頼平が上洛し有利な裁定を求めて行動する。(30)_実季は石田三成・長束正家・佐々淡路守ら官僚派に、頼平は前田利家・浅野長政ら武断派に支持される。 (26) |
| 1597 | 慶長三年、1月 | 浅野頼平、訴訟中に大坂邸内で急死。2月、算用奉行長束正家、秋田実季と浅利頼平の対決を裁定、浅利氏没落。 (26) |
| 1599 | 慶長四年、11月 | 蠣崎慶広が大坂城の西の丸の家康に呼び出され、狄の嶋の絵図や北高麗の様子、蠣崎家の系図についてなど尋ねられた。この時に、蠣崎家の称号を「松前」と改めた。(29) |
| 1600 | 慶長五年、7月 | 家康、奥州大名に上杉討伐動員令を発する。大坂城からは上杉支援の要請あるも、安東実季は、最上義光(家康方)支援を決断。 9月、家康、美濃国関ヶ原で大勝利をおさめる。戦後、実季は最上義光に上杉方に通謀していたとして、訴えられる。(26) |
| 1600 | 慶長五年 | 松前氏、松前大館の「徳山館」から、新しい城を築き「福山」と名付けて移り住む。(29) |
| 1602 | 慶長七年 | 徳川幕府の政策による諸侯の配置替えによって、安東実季は常陸国(茨城県)宍戸に国替となった。(11)_実季、秋田姓を伊駒姓に改める。(26) |
江戸時代
| 西暦 | 元号 | 事 柄 |
| 1603 | 慶長八年 | 2月、徳川家康、征夷大将軍に就任、江戸幕府が成立。(30) |
| 1603 | 慶長八年 | 秋田に転封になった佐竹義宣と津軽為信が、深浦南方の地と比内地方の領地交換をし、領域を確定した。(11) |
| 1604 | 慶長九年、1月 | 徳川家康は松前慶広へ蝦夷地の支配権を認めるという黒印状を発した。(29)〈松前慶広宛「家康黒印状」〉 |
| 1610 | 慶長十五年、3月 | 花山院忠長(従四位上左近衛権少将)が、後陽成天皇が寵愛する女官たちとの密通が発覚し、蝦夷地に流刑となる。松前慶広は、御在所を松前の満福寺として厚遇した。 |
| 1614 | 慶長十九年、10月 | 家康、大坂征伐の令を発す。実季、大坂冬の陣に参陣。(26)_南部利直、八戸氏らの家臣を率いて出立。(30) |
| 1615 | 慶長二十年、4月 | 家康、大坂再征伐の令を発す。実季、大坂夏の陣に参陣。5月、大坂城落城し、豊臣氏滅亡。(26)_5月、松前慶広、大坂に陣を立てて、割菱の紋の幕を張った。(29) |
| 1616 | 元和二年 | 幕閣、秋田俊季(実季嫡男)を「崇源院殿御由緒」として譜代大名格で待遇する。(26) |
| 1626 | 寛永二年、8月 | 秋田俊季、将軍家光上洛御供をつとめる。実季、俊季の後継者に実季側室荒木氏の子季次を内定し、父子関係が破綻。(26) |
| 1630 | 寛永七年、暮れ | 秋田俊季、常陸国宍戸五万石(現在の茨城県笠間市)の知行を申し渡される。翌年1月、秋田実季宍戸没収、藩主罷免。勢州朝熊へ蟄居となった。(13)_実季、朝熊石松寺の草庵に入り「秋田氏系図」作成に心血をそそぐ。(26) |
| 1637 | 寛永十四年 | 三月二十八日の夜、福山城(松前城)が焼失する。蠣崎信広の時代より伝わった鎧、義広(蠣崎家第三世)弓、系図などことごとく焼失した。(29) |
| 1640 | 寛永十七年 | 六月十三日、内浦の嶽(駒ヶ岳)が噴火し、その勢いに津浪が起り、百余艘の昆布採りの舟の人たちは津浪に引かれて溺れた。(29) |
| 1645 | 正保二年、7月 | 秋田実季子、宍戸藩主秋田俊季、常陸国宍戸から陸奥三春五万石に転封となった。(13) _以後、三春秋田家維新まで続く。(26) |
| 1646 | 正保三年 | 松前藩第三代藩主氏広「新羅之記録」を刊行。松前景広が編纂。九月三日に新羅大明神の神殿に詣で、僧衆八人で八壇の護摩を焚いてこれを修めた。(29) |
| 1647 | 寛永四年、3月 | 南部利直、八戸直義に12,500石を与え、八戸から遠野へ移封する(遠野村替)。中世以来続いてきた根城南部氏による支配は終焉を迎えた。(30) |
| 1653 | 承応二年 | 安東愛季と秋田実季の木像(羽賀寺に現存)が作られた。 (28) |
| 1659 | 万治二年 | 秋田実季、朝熊で没、84歳。死の前年、孫の盛季に「秋田系図」一巻を与えた。(26) |
| 1669 | 寛文九年 | シャクシャインの蜂起、松前藩は幕府に支援を求め、幕府の討伐軍の大将に松前泰広(第三代藩主氏広の弟・旗本)が任じられ、これを鎮圧した。 |
| 1884 | 明治十七年、7月 | 政府、華族令を定める。三春旧藩主秋田映季、遠祖に安日が記載されている「秋田氏系図」を提出。(26) |
関係年表の参考文献
※年表文章の末尾の(番号)は、下記文献に記載されていることを表している。(1) 津軽安藤氏と北方世界 小口雅史編 河出書房新社 1995
(2) 北の環日本海世界 村井章介他編 山川出版社 2002
(3) 中世糠部の世界と南部氏 七戸町教育委員会編 高志書院 2003
(4) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(5) 鎌倉幕府と東北 七海雅人編 吉川弘文館 2015
(6) 前九年・後三年合戦と兵の時代 樋口知志編 吉川弘文館 2016
(7) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(8) 中世北方の政治と社会 大石直正著 校倉書房 2010
(9) 中世東北の武士団 佐々木慶市著 名著出版 1989
(10) 安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著 無明舎出版 2006
(11) 秋田「安東氏」研究ノート 渋谷鉄五郎著 無明舎出版 1988
(12) 史料解読 奥羽南北朝史 大友幸男著 三一書房 1996
(13) 秋田安東氏物語 川原衛門 秋田市 1990
(14) 十和田湖が語る古代北奥の謎 義江彰夫、入間田宣夫、斉藤利男編著 校倉書房 2006
(15) 尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981
(16) 南部と津軽の争乱 実像と虚像 名久井貞美著 伊吉書院 2000
(17) 新青森市史通史第一巻 原始・古代・中世 青森市史編集委員会 2011
(26) 新津軽秋田安東一族 七宮涬三著 新人物往来社 1989
(27) 古代国家と北方世界 小口雅史編 同成社 2017
(28) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(29) 新羅之記録【現代語訳】 木村裕俊著 無明舎出版 2013
(30) 新編八戸市史通史編Ⅰ 原始・古代・中世 八戸市 2015
(31) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈斉藤利男講演レジュメ〉
(32) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(33) 北の内海世界 入間宣夫・小林真人・斉藤利男 編 山川出版社 1999
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