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安東氏関連 武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代

 日本の武家の中でも安藤氏・安東氏はダイナミックで魅力があります。でも、人の名前は覚えるのに難しく、ましてや、同じ人物が名前を変えたり、同じ名前で別人だったりします。
 そして、どんな人なのかがわからない内は、頭に入りません。このサイトでは、 安藤季久、南部師行など鎌倉時代から南北朝時代までの25名の武将をまとめています。何をした人だったのか、どんな人だったのか、安東氏関連の人名から、安東氏の五百年の歴史を探ることができます。
 複数の人物の説明に、同じ事柄が出る例がほとんどですが、検索した方は、検索した人物の説明だけを読むでしょうから、書かないわけにはいかず、ただ文章の重複を少なくしたつもりです。このサイトを読んでから、調べ直すことができるだけないように、別ページで「史料解説」をまとめています。

凡例:
1.文章に関連する史料は〈 〉で表しています。〈史料〉の次のある[no.]は、別ページにまとめている「史料解説」の番号を示しています。
2.武将列伝では、参考文献を逐一記載していませんが、「年表」では、事柄を掲載してある参考文献を明示していますので、ぜひ参照してください。
3.特に参考文献を記載しているものには、著者と文献名の次に(no.)を表示しています。この番号は別ページにまとめている「参考文献」の番号を示しています。
4.紹介文の中の人名にリンクが貼られている者は、「武将列伝」で別に紹介文があります。関連させてお読みください。
5.紹介文の最後に「⇒ 関連史料」とある場合は、史料のページにその人物に関連する史料が掲載されています。

各脚注:
1.人物の別称、改姓名
2.系図に関わる「父」、「子」等の情報
3.城主、職、肩書き等
4.生誕年・死没年
5.どの時代に活躍したか人物か(必ずしも生誕、没年とは連動しません)

contents     25人。スマホの方は、右にスライドしてください。
10.長崎高資
11.工藤貞祐
12.宇都宮高貞 と 小田高知
13.北条泰家
14.北畠顕家
15.南部師行
16.南部政長
17.北畠顕信
18.足利尊氏
19.安藤高季(師季)
20.安藤家季
21.曽我貞光(光高)
22.工藤貞行
23.外浜明師
24.安藤祐季
25.安藤四郎
 

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   link ⇒ 「安藤氏の乱」
   link ⇒ 「安藤氏の系図とその系譜意識」
   link ⇒ 「安藤氏の通論と議論」
   link ⇒ 「十三湊史跡」

1 安藤五郎

・・・ 〈保暦間記〉[4]の安藤氏の乱関連で、争いの当事者、安藤五郎(三郎季久)と安藤又太郎(季長)の先祖として記載されている。「げんかう二年(1322)の春、奥州にあんどう五郎、又太郎と云うもの有。かれらが先祖安藤五郎といふは、東夷の堅めに、義時が代官としてつかはし置きたりしそのすゑなり。」とあり、史料で確認できるものとしての最初の蝦夷管領=蝦夷沙汰代官である。北条義時は第二代執権で在職期間は元久二年(1205)~貞応三年(1224)であることから、安藤五郎は13世紀に活躍した人物となる。
 又太郎季長と五郎三郎季久の戦いでは、直系(五郎家)である季久が内末部(うちまんぺ)に城館を構えたことから、安藤五郎の本拠は外浜と推定される。
 ※(内末部=内摩部=内真部。現、青森市奥内を中心とした地域)
 ※外浜(そとがはま・「卒土の浜」 ⇒「日本の国土のつきるところの浜」の意味、現、青森市(旧浪岡町を除く)・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町)  
 一方、建治元年(1275)〈日蓮聖人遺文〉[11]に「安藤五郎は因果の道理をわきまえて堂塔多く造し善人也。いかにして、頸をばゑぞにとられぬるぞ」とある。このことから、文永五年(1268)、津軽蝦夷が蜂起した際(もしくはその近く)に蝦夷に殺されたと見られている。
 安藤五郎は、日蓮が褒めるほどに信仰にあつい人物であったようで、〈地蔵菩薩霊験記〉[12]に蝦夷(アイヌ)に地蔵菩薩の信仰を進める武人として登場する。その中で蝦夷を平定し、毎年、貢ぎ物をもってこさせるようにし、日ノ本将軍と呼ばれた、とある。また、遠藤巌氏は、〈津軽安藤氏と北方世界〉(1)の中で、安藤五郎家は「越後国荒河保地頭の河村氏や得宗御内人の栗飯原氏らと深い婚姻関係を結んでいる。」と紹介していて、当時日本の辺境にありながら中央とも繋がる権勢があったことがわかる。
 内陸部の津軽四郡(平賀・田舎・鼻和・山辺郡)とともに、安藤氏が勢力を有していた海岸部の外浜や津軽西浜は、文治6年(1190)に起こった大河兼任の乱後ほどなく、北条氏所領(職権は地頭職)となり、安藤氏はその代官(地頭代)として登用されたとみられる。
 なお、安藤五郎の五郎は通り名であり、一人の人間を指すものではない。安藤五郎また安藤太郎も複数人存在する。北条義時から代官(蝦夷沙汰代官)に任命された安藤五郎と蝦夷に頸を取られた安藤五郎とでは、60年間程の開きがあり、同家ではあるが同一人ではない。安藤五郎の敗死に伴い、蝦夷沙汰代官は外浜系安藤氏から西浜系安藤氏に移ったことが考えられている。
 ⇒ 関連史料 日蓮聖人遺文t〈04〉、地蔵菩薩霊験記〈05〉、保暦間記〈06〉、諏訪大明神画詞〈07〉
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外浜系安藤氏.内真部館館主?.蝦夷沙汰代官.生?−没(1268頃).〈鎌倉時代〉
 

2 北条義時

・・・ 大河兼任の乱において宇佐美実政が敗死した後に、津軽の惣地頭になったのは北条義時であった。義時(よしとき)は、執権職に就いて安藤五郎を蝦夷沙汰代官としたと〈保暦間記〉[4]にある。
 建保五年(1217)、義時が陸奥守になってから北条氏の奥州支配が強まり、日本海交易の利権を独占するため要所の湊が得宗領(北条氏嫡流家の領地)となっていく。安藤氏も北条家の家臣(御内人)となることを選択した。
 義時の別称(法名)は「得宗」と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。
 ⇒ 関連史料 保暦間記〈06〉
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父は初代執権北条時政.頼朝正室北条政子の弟.北条氏得宗家当主.鎌倉幕府第2代執権(在職:1205−1224).生1163−没1224.〈鎌倉時代〉
 

3 安東太郎貞季

・・・ 系図によく書かれている貞季、〈十三湊新城記〉[13]による新城を造った安倍(安東)貞季とは異なる。十三湊新城記が正しいとすれば、十三湊新城の貞季は正和年間(1312年~1317年)に生きていたことになる。これに対して、この安東太郎貞季は、後鳥羽天皇の頃(1183年~1198年)の人物、平安時代の奥州藤原氏末期と重なる。
 近世に作成された秋田系図や湊氏系図より古い〈下国伊駒安陪姓家之記録〉[3]により「下国安東太郎安倍貞季」、「日下将軍外浜殿」と記して「安日」姓を「安倍」姓に改めた最初の人物と説明が書かれている。※斉藤利男氏〈奥羽から中世をみる〉(7)。
 後鳥羽天皇の時代(下国安東太郎安倍貞季の時代)は、奥州合戦(平泉藤原氏滅亡)の少し前から安藤五郎の蝦夷管領補任の少し前までとなり、蝦夷との交易は、北条義時が元久三年(1206)に任命した安藤五郎の前にも安藤氏が担当していたと考えるのが自然だと思う。遠藤巌氏は〈津軽安藤氏と北方世界〉(1)の年表で、「建久二年(1191)、蝦夷島への国家的流刑が始まる。奥州夷安藤氏が蝦夷沙汰代官に抜擢される。」としている(抜擢したのは蝦夷沙汰の認可を朝廷から取り付けた源頼朝)。おそらく外浜の安藤氏(安藤五郎家)は、奥州藤原時代からの豪族で、藤原氏の家臣となり津軽支配の代官的な地位にあっただろう、と斉藤利男氏はみている。
 また、斉藤利男氏は、下国伊駒安陪姓家之記録によれば、安藤氏発祥の地は津軽藤崎でなく、外ヶ浜だということになると書いている。
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外浜系安藤氏.日下将軍.生?−没?.〈平安−鎌倉時代〉
 

4 安倍季盛

・・・ 安倍は安藤氏の本姓である。現在は弘前市長勝寺にある9代執権北条貞時(在職:1284−1301)が寄進した「嘉元の鐘」に、施銭檀那として安倍季盛の名が刻まれている。鐘は鎌倉後期の嘉元四年(1306)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれ、当時藤崎にあった満蔵寺、さらに以前には護国寺にあったと伝えられている。
 護国寺への鐘の奉納は、北条氏の津軽を治めるための施策とされ、鐘に名前が刻まれているのは有力御内人である。このことから、安藤季盛(すえもり)は、当時の津軽にある安藤氏の中での最有力者ということになり、安藤氏惣領と考えられる。新青森市史通史では後に得宗北条貞時の一字をもらい貞季と改名したと考え、〈十三湊新城記〉[13]に福島城築城者と伝えられる安藤貞季と見ている(執筆担当者は小口雅史氏)。
 この時点では、安藤氏惣領家は西浜・又太郞家であり、斉藤利男氏は「安陪季盛」は安藤季長の父にあたる人物とみられる、としている。 
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安倍季盛=安藤季盛.〈鎌倉時代〉
 

5 安藤季久

・・・ 安藤五郎三郎季久は〈保暦間記〉[4]の安藤氏の乱の一方の当時者、安藤五郎として記載されている。元享二年(1322)春、当時の惣領である安藤又太郎季長と対立する。安藤季久の五郎家は、かつての惣領家であった(北条義時に蝦夷沙汰代官に任ぜられた安藤五郎家)。対立の原因は元応二年(1322)より始まる蝦夷蜂起が関係するとみられ、季長の蝦夷に対する施政が背景にあったものと思われる。蝦夷の蜂起は北条得宗家の施政に対する反感、つまりはそれを実行する安藤惣領=蝦夷沙汰代官職に対する反抗であった。
 ただし、幕府に裁決を訴えた事柄が何かについてはっきりと書いてある本は少ない。諏訪大明神画詞に「嫡庶相論の事ありて」とあるため、惣領職の後継ぎ問題と書いてある本もあるが、当時の惣領は季長であり、かつては五郎家が惣領家だったにしても、惣領職の正統を争うはずはない。※諏訪大明神画詞には「其子孫に安藤五郎三郎季久又太郎季長と云は従父兄弟也。」とある。五郎家と次郎家の所領に関する争いとする本があるが、だとすれば五郎家が支配してきた宇曽利(下北地方)の権限を惣領家である次郎家に寄こせということかと推測できる。※江戸時代成立の「異本伯耆巻」には、「所領に関する相論」と書かれているようだ。
 〈諏訪大明神画詞〉[6]に「両人を関東に召て理非を裁決の処、彼等が留守の士卒数千夷賊を催集え、外浜内末部、西浜折曽関城廓を構て相争ふ。両の城嶮岨によりて洪河を隔て、雌雄互に決しがたし」とある。(※内末部は現、青森市。折曽関は現、深浦町。安藤氏の山城は「内真部城館群」と呼ばれている。)※安藤氏の乱は、「蝦夷大乱」、「津軽大乱」とも呼ばれている。  
 この当時に勃発していた蝦夷蜂起を一時的にも沈静化することに成功したのは、惣領季長ではなく、季久(すえひさ)であった。北条高時が金沢称名寺(現、横浜市)に蝦夷平安の祈祷が効果あったとして、正中二年(1325)、5月に感謝状を出し、その一ヶ月後に蝦夷沙汰代官を、季長から季久に交替させたことからわかる、〈鎌倉年代記裏書〉[5]。この更迭は安藤氏の惣領を季長から季久に替えることも意味する(安藤氏は北条得宗家の御内人であり、得宗家の家来の惣領を交替させることができる。)これにより蝦夷沙汰代官の職は、西浜系安藤氏から外浜の安藤五郎家に戻ったことになる。惣領就任により、季久は安藤氏惣領の通り名である「又太郎」を継承し、名も「安藤宗季」と改称する。※「宗」の字は、北条一族で津軽に関わる「沙弥宗謐」の一字を拝領したものか、とされている。そして、宗季は、蝦夷管領職就任から3ヶ月後の9月11日、今後の不測の事態に備えて、子息犬法師(高季)に、北条氏から安堵された地頭代・蝦夷沙汰代官に伴う所領の譲状を書いた。
 安藤宗季家は外浜から、津軽内陸の「尻引」の地に本拠を移動した。この地は安藤氏の所領と蝦夷沙汰代官として北条得宗家の所領全域に目を配りやすい地である。高季は尻引の楯に本拠があったが、宗季が本拠を移動したと考えるのが、自然と思う。尻引は現、弘前市三世寺、同中崎で、岩木川を挟んで東側が「藤崎」となる。(季長の惣領時代は西浜ではなく、この地に住んでいた可能性がある)。※西浜(にしはま、現、五所川原市・つがる市・中泊町・鯵ヶ沢町・深浦町)
 季長と季久の戦いは、惣領交替後さらに激しさを増し、季長が捕らえられた後も、従兄弟の季兼が戦いを続けた。戦いは現地(青森県津軽地方)の在住蝦夷や地元豪族・悪党も込んでいき、北条得宗家御内の争いから、鎌倉幕府に対する反乱にレベルアップし、関東や地元の武士を投入する戦いとなった。
 幕府の全面支援により季長との戦いを制した宗季は、季長家の本拠・所領である西浜も治めることとなった。2つに大きく分けられていた所領が宗季(外浜五郎家)のものとなり、ある意味安藤家が統一されたことになる。
 建武元年(1334)の持寄城(現、弘前市藤沢)の戦いで、秋田を経て落ちてきた北条氏残党、安達高景、名越時如らが降参し、朝廷方北畠顕家が北奥羽の内戦を一旦は終結させた。その後で南部師行が起案した「津軽降人交名注進状」には、安藤又太郎(宗季)が17人もの降人を預かったとあり、安藤氏の権勢の大きさを示している。
 宗季が譲状により子息高季に譲っていた所領や代官職は、建武二年(1335)、〈北畠顕家御教書〉[17]により実効を伴って高季に家督が引き継がれていく。※ただし、正中二年(1325)の宗季譲状にあった「ゑそのさた(蝦夷の沙汰)」は書かれていない。
 建武元年(1334)の安藤祐季が南部師行にあてた書状に「安藤入道」という記述があり、宗季は息子達に所領を任せ、自分は京都・中央に上り、安藤家の未来のために力を尽くしたのではないかと推測されている。宗季は、熊野信仰にあつく、息子高季らと共に、熊野那智大社参詣を詣でていることが熊野社古文書に書かれている。
 一般に鎌倉時代の方形居館の規模は、守護が二町四方、郡荘地頭が一町四方、村郷地頭が半町四方であった。外浜・安藤五郎家の居館であった「内真部館」は、ほぼ100m四方の規模をもつことから、群荘地頭クラスの居館であったことがわかる(33)。
 ⇒ 関連史料 保暦間記〈06〉、諏訪大明神画詞〈07〉、安藤宗季譲状〈8・9〉、安倍祐季書状〈11〉、奥州下国殿之代々之名法日記〈26〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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安藤季久→安藤宗季.宗季=又太郎.子は安藤高季、安藤家季.安藤家惣領・蝦夷沙汰代官.下国系安藤氏初代当主.内真部館館主(現、青森市).生?−没?.〈鎌倉時代〉
 

6 安藤季長

・・・安藤又太郎季長は 〈保暦間記〉[4]に、安藤氏の乱の一方の当時者、あんどう又太郎として記載されている。又太郎は安藤氏惣領の通り名である。元享二年(1322)、春、当時の安藤氏惣領であった安藤季長が、父方の従兄弟の安藤五郎三郎季久と対立する。両者の対立は蝦夷蜂起に起因し、かつ蝦夷沙汰代官である安藤氏の内紛は、元享二年(1322)春に北条家の知るところとなった。両者の訴えは得宗家公文所の裁定に掛けられることなる。裁くべき立場であった長崎高資は、かねてから賄賂によって評決を変えると評判であり、季長(すえなが)・季久(すえひさ)の双方から賄賂を受け取り、双方に「聞く側にいいような話しをして」いっこうに評決を出し得なかった。そして、評決が出ない内に現地の内紛は拡大していった。このことが北条氏の威信を著しく傷つけることとなっていく。
 北条高時は寺社に元寇の際と同等な祈禱を行わせ、蝦夷降伏を願わせた。一時の静謐を迎えたらしく、それを契機として、正中二年(1325)6月に高時は蝦夷沙汰代官職から季長を更迭して季久に差し替えた。
 季長はもちろん承服できない。自分に変わって代官・惣領と指名された季久に戦いを挑む。自分を訴えた季久も憎いが、賄賂を受け取り、評決を延ばしに延ばし、突如代官交替という裁定を下した北条得宗家も憎かっただろう。蝦夷蜂起に至った原因である蝦夷に対する代官の施政は、蝦夷沙汰職である北条得宗家からの指示があったればこそだったはずである。
 裁定が終わった後の新蝦夷沙汰代官を攻めるということは、主家に弓引くことになる。北条得宗家は有力御内人工藤貞祐を「追討使」として、季長を討ち取らせることとした。正中三年(1326)、季長は捕縛され、鎌倉に送られ刑に処された。
 ※〈諏訪大明神画詞〉[6]に「両人は、外浜内末部と西浜折曽関に城郭を構えて戦った」旨の記述がある。北条氏が軍勢を動員した際の、地元豪族の曽我光称の文書に「にしのはま合戦」とあり、季長の城郭が西浜だったことがわかる。
 季長の戦いは一族の季兼によって引き継がれることになる。
 ⇒ 関連史料 保暦間記〈06〉、諏訪大明神画詞〈07〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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季長=又太郎(安藤氏惣領通り名).初名五郎太郎.西浜系安藤氏.安藤氏惣領・蝦夷沙汰代官.折曾関城郭城主(現、深浦町関).生?−没1326頃.〈鎌倉時代〉
 

7 安藤季兼

・・・ 安藤季長が北条得宗家の軍勢に捕縛された後も、安藤季兼が戦いを継続する。〈関東御教書案〉[16]には、「安藤又太郎季長郎従季兼」と書かれているが、「季」の字を継承する安藤一族で、季兼(すえかね)は季長の従兄弟であった。鎌倉幕府の「蝦夷追討使」宇都宮高貞、小田高知と戦い、負けない戦を展開した。〈諏訪大明神絵詞〉には、紀清両党など、宇都宮一族の武将が敗死したと記されている。
 季長残党の西浜系安藤一族と関東豪族「蝦夷追討使」との戦いは、北奥在来の住人に対して、陸奥国に隣り合う北関東の有力御家人を動員し追討を行うという、東日本をゆるがす大合戦となり、〈鎌倉年代記裏書〉や〈北条九代記〉には「奥州合戦」と書かれている。
 戦いの開始から1年が経過した嘉暦三年(1328)10月、戦いは決着がつかず「和談之儀」となった。和議の条件ははっきりとはしていないものの、季長の子息安藤次郎季綱は小鹿島に移り住んだ。〈安藤系図〉[2]。また、季長の所領は、宗季から子息高季に渡るが、それを安堵した建武二年(1335)の〈北畠顕家袖判御教書〉[17]に「西浜(除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関・阿曽米等村)」とあり、季長の妻(推定)の分の所領は確保されていたことがわかる。
 季兼軍と幕府軍との和議から16年後の康永三年(1344)、小鹿島の北浦の北浦(男鹿市)に建つ日吉神社を「嶋郡地頭安倍兼季」が修造している。森山嘉蔵氏は〈安東氏下国家四百年ものがたり〉(10)で季兼とこの兼季を同一人と見ているようだ。
 ⇒ 関連史料 諏訪大明神画詞〈07〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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西浜系安藤氏.従兄弟は安藤季長.生?−没?.〈鎌倉時代〉
 

8 安藤次郎太郎

・・・元徳二年(1330)の安藤宗季が書いた子息高季への譲状を、建武二年(1335)の〈北畠顕家袖判御教書〉[17]で、公式に認めている。その中に「同西濱(除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関・阿曽米等村、)地頭代職事」という文があり、西浜の所領の内、安藤次郎太郎の後家の取り分を除くとある。※宗季譲状では「つかるにしのはま(せき・あつまゑをのそく)」となっていた。
 このことから、安藤次郎太郎なる者が実在したことがわかる。
 この次郎太郎とはどのような人物なのかを分析した本はほとんどない。大友幸男氏は〈史料解読奥羽南北朝史〉(12)で、「次郎太郎は季長だ」〈註1〉としている。宗季の譲状の時期と内容から見て、安藤氏の乱が終結して、季長の所領は宗季に渡ったことが明白であり、鎌倉幕府(和議の段階では)が後家への所領安堵を認めるほどの重要人物の妻だとすれば、季長しか考えられない〈註2〉
 安藤又太郎季長が次郎太郎だとしたら、外浜には安藤五郎家、西浜には安藤次郎家があり、双方惣領家=蝦夷沙汰御代官職を担える家系だったということになる。また、安藤又太郎季長は、安藤次郎太郎季長であり、惣領に就任した後に惣領の通り名である「又太郎」を襲名したと考えられる。また、宗季が惣領になった後に「又太郎」を通り名にしたが、そもそも「又太郎」が安藤氏惣領の通り名であったのであり、季長に固有な名ではなかったと考えられる。
 安藤次郎太郎が誰なのかを解析できれば、安藤氏の歴史の流れがスムーズになるはずだ。森山嘉蔵氏は〈安東氏下国家四百年ものがたり〉(10)で、〈安藤系図〉[2]に季長の子が「安藤次郎季綱出羽秋田ノ住人トナル」と書かれているとしている。このことも、季長が「次郎家」であったことを指すものと考える。
〈以下、2つの註のように、安藤次郎太郎は季長だという説は容易ではない。系図に書かれるほどの重要人物であった「次郎季綱」は誰の子どもだったのだろうか。〉
  • 註1:志立正知氏は「秋田安藤氏の系譜言説形成とその背景」(36) で、遠藤巌氏の指摘に『嘉元四年(1306)「長勝寺鐘銘」に刻まれた「安倍季盛」の子とみられるのが、初名五郎太郎で惣領となった「安藤又太郎季長」』とあると紹介している。つまり、季長が安藤氏惣領の名前「又太郎」を継承する以前は「安藤五郎太郎」であったということになる。これと『鎌倉年代記裏書』が共に正しければ、安藤五郎は西浜と外浜の両方にあり、安藤五郎太郎(季長)と安藤五郎三郎季久がいたことになる。
  • 註2:鈴木満氏は「津軽安藤氏研究の一視角」(37) で、『嘉暦元年(1326)の安藤季長捕縛で、所領没収がないのは不自然であり「関・阿曽米等村」はそもそも季長の所領から外れていたのではないか。』とみているようだ。しかし、関は西浜安藤氏の本拠の城郭「折曾関」のあった場所である。
 ⇒ 安藤氏の乱
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西浜系安藤氏.〈鎌倉時代〉
 

9 北条高時

・・・ 元応二年(1320)からの「出羽の蝦夷蜂起」頃の執権。安藤又太郎季長と同五郎三郎季久との間での相論の際の得宗北条家の当主。当時、18歳。  正中元年(1324)、高時(たかとき)は、大規模化する蝦夷の蜂起に対して「蝦夷降伏」のため、蒙古合戦(元寇)の際に用いられた修法と同じ「五檀護摩」を執り行った。さらに、鶴岡八幡宮や金沢称名寺(しょうめいじ・現、横浜市)においても降伏祈祷を行わせた。
 ※「出羽の蝦夷蜂起」。その言葉通りに出羽の蝦夷だとの説、津軽の蝦夷を指すとの説、蝦夷島日本海側の蝦夷を指すとの説がある。
 蝦夷蜂起も一端は終息に向かい、高時はそれに功を成した「安藤五郎三郎季久」を蝦夷沙汰代官とし、正中二年(1325)6月に「安藤又太郎季長」を罷免する。これは安藤氏惣領の交替をも意味する。季長はこれを不服として、鎌倉幕府が任命したところの代官(季久)を攻撃し、幕府に向かって弓を引いた。双方の陣営に現地の蝦夷も加担し一端終息しかけた蝦夷蜂起が拡大していくことになる。
 高時の人物像は、「病弱・腑抜け」、「日々酒宴と田楽や闘犬を楽しむ」と記録されている。政治も家臣に任せきりであった。 正慶二年(1333)、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、北条家菩提寺の東勝寺で北条一族や家臣らとともに自刃した。享年29歳。
 ⇒ 安藤氏の乱
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父は第9代執権北条貞時.弟は北条泰家.北条氏得宗家当主.鎌倉幕府第14代執権(在職:1316−1326).生1304−没1333.〈鎌倉時代〉
 

10 長崎高資

・・・ 鎌倉幕府の内管領を務める高官である。武家の訴訟には裁判官の役となる。父高綱(円喜)もそうであったというが、賄賂の高低で裁決を変える人間であったという。安藤家からの訴えでは、高資(たかすけ)は、季長季久の双方から多金をせしめた。その都度、双方によく取れる発言をしたとされている。評定を決することもなく、双方の対立をいたずらに長引かせた。このことは、代官職を解任された季長の不服による反乱やその後の季兼による反乱の主要な理由の一つになったに違いない。蝦夷の蜂起は安藤氏の乱を含め、8年の長きに渡り、北条氏の失政や権威の失態を全国に露わにした。
 安藤氏の乱は、後醍醐天皇勢の倒幕運動と時期が重なることに留意したい。※正中の変(1324年)、幕府軍と季兼軍との和議(1328年)
 内管領長崎氏の一族に長崎思元がいて、その娘婿は南部師行の従兄弟の武行(南部宗実の子息)である。鎌倉末から建武年間にかけて、南部氏一族の武行と時長・師行・政長が本領である甲斐国南部郷以下の所領をめぐっての訴訟をしている。
 ⇒ 関連史料 保暦間記〈06〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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父は長崎円喜(高綱=盛宗).内管領(北条得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭).生?−没1333.〈鎌倉時代〉
 

11 工藤貞祐

・・・工藤貞祐は、北条高時の命を受け、北条得宗家の決定に従わない、安藤季長を成敗するために津軽に遠征する武将。若狭国(福井県)守護代を経験した、北条氏得宗家被官である御内人。彼は津軽鼻和郡目屋郷他を知行していた。貞祐(さだすけ)がこの命を受け、出兵の準備をしている間に高時は政権を投げ出し出家してしまう。
 工藤貞祐が「蝦夷征罰」〈鎌倉年代記裏書(結城古文書写)〉[5]として出兵する時点では、安藤氏の乱は北条家内(被官同士の紛争)の問題であった。
 建武政権側の有力武士として活躍した工藤貞行は、貞祐の一族と見られている。
 この人物を「貞祐」とする本と「祐貞」とする本があり、ほぼ拮抗していて名前が特定されていない。鎌倉年代記裏書には工藤祐貞の名で書かれているが、現在は「工藤貞祐」とされたようだ。〈註1〉
 ※〈尻八館調査報告書〉(15)によれば、工藤貞行への勲功賞である、建武二年(1335)の〈北畠顕家国宣写〉[18]には、「津軽鼻和郡目谷郷(工藤右衛門尉貞祐法師跡)」と書かれている。
  • 註1:「祐貞」とするのは、第一次史料(当時に書かれた資料)である「鎌倉年代記裏書」に、その名で記されているのが根拠。一方「貞祐」とするのが、北条氏有力御内人として出自・経歴等が明らかなことである。青森県史では、「祐貞は貞祐の誤りだ」としている。
 ⇒ 関連史料 諏訪大明神画詞〈07〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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工藤貞祐=工藤祐貞.北条氏得宗家被官である御内人.生?−没?.〈鎌倉時代〉
 

12 宇都宮高貞 と 小田高知

・・・ 安藤季長が北条氏の差し向けた工藤貞祐軍に捕縛された後に、安藤季長の従兄弟である季兼はなおも抵抗を続ける。鎌倉幕府軍と蝦夷や地元豪族という「悪党」との戦いであった。秀長追討の段階では、北条得宗家内の内紛であったが、季兼軍では幕府に対する蜂起となり、幕府は正式な「蝦夷追討使」〈鎌倉年代記裏書〉(結城古文書写)[5]として下野の宇都宮高貞(たかさだ)と常陸の小田高知(たかとも)を差し向けた。
 「安藤又太郎季長郎従季兼以下与力悪党誅伐事」〈関東御教書〉[16]、「津軽山賊誅罰事」〈沙弥謐宗書状案〉といわれた戦いは、拠点とする城に籠もる戦いではなく、山から出没するゲリラ戦となったようで、戦いの決着は容易につかない。〈諏訪大明神画詞〉[6]には、「討手宇都宮、家人紀(益子氏)・清(芳賀氏)両党の輩多人命ヲ堕キ」と書かれている。嘉暦三年(1328)、10月、ようやく「和談之儀」となって幕府は体面を整えることとなった。
 この和議から3年後の元弘元年(1331年)、楠木正成が赤坂城で挙兵し、高貞の兄の宇都宮公綱(きんつな)と戦った。公綱は正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。
※青森県史通史編1(2018)では、宇都宮高貞を「芳賀高貞」と記載している。高貞は、芳賀禅可(ぜんか)の養子となった。(28)

 ⇒ 関連史料 諏訪大明神画詞〈07〉
 ⇒ 安藤氏の乱

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宇都宮高貞:兄は宇都宮公綱.生?−没?.〈鎌倉−南北朝時代〉 小田高知:(高知→治久).生1283−1353.〈鎌倉−南北朝時代〉
 

13 北条泰家

・・・ 北条高時が所労のため出家した後、北条泰家は次の執権を狙っていたが金沢貞顕となり、憤りにより出家してしまう。北条一族が鎌倉で自害した際には、泰家(やすいえ)はそれに加わらず、息子邦時とともに陸奥国へと落ちのびた。「案内人」として頼りにした人物は、南部太郎・伊達六郎の二人であり、泰家は、津軽外浜・糠部の惣地頭職であった。父貞時からの分割相続とされている。北条氏の所領であった外浜・糠部は、建武政権樹立の立役者としての恩賞として、足利氏へと引き継がれる。※糠部(ぬかのぶ、現、青森県東部・岩手県北部)
 元弘三年(1333)、泰家は、鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞軍を迎え撃つ大将として戦ったが大敗し、鎌倉への新田軍侵攻を止めることはできなかった。
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父は9代執権北条貞時.兄は14代執権北条高時.外浜・糠部惣地頭.生?−没1335?.〈鎌倉時代〉
 

14 北畠顕家

・・・ 元弘三年(1333)、公卿で当時16歳の北畠顕家は陸奥守に任じられた。このとき顕家は、すでに従三位の参議で、右近衛中将兼弾正大弼であった。足利尊氏は、鎮守府将軍となり外ヶ浜・糠部の旧北条氏領を手に入れるなど、奥州に勢力を拡大しようとした。顕家(あきいえ)を陸奥守にするのは、東北に尊氏が勢力拡大を進めるのに対応する処置だとされている。
 顕家は京都を出発し、多賀国府(現、宮城県多賀城市)に向かった。父の北畠親房も六歳の義良親王を抱いて一行に加わり、在京していた結城宗広、南部師行らが付き従った。
 元弘三年(1333)の末、津軽の「大光寺楯」に北条一族の安達高景、名越時如らが立て籠もり、陸奧国司北畠顕家勢と戦いが始まる。そして、持寄城の戦いで、翌年の11月に旧北条勢は投降して顕家は津軽を平定した。これらの「戦いの恩賞」に対する扱いが不平等であったことが、曽我氏や安藤氏の建武政権からの離反を招く要因となった。
 建武二年(1335)8月に、足利尊氏が建武政権から鎮守府将軍の職を解かれると、顕家が陸奥守と鎮守府将軍を兼任することとなった。建武二年11月、顕家は天皇に叛旗を翻した足利尊氏勢を討つため、東北の軍勢〈註1〉を率いて多賀国府を発ち、翌年1月、京都の尊氏勢を破り、尊氏は九州に下った。それから、尊氏は勢力を回復した後九州から京都に進軍し、建武三年(1336)六月に京都を再び制圧した。
 都での足利方優位の状況は地方にも波及し、奥州の武士の中にも足利方の軍勢催促に応じるものが日に日に増え、顕家の求心力も大きく低下していった。国府多賀城を持ちこたえることは困難で、ついに建武四年(1337)1月、天然の要害の地である伊達郡霊山(福島県相馬市・伊達市)に本拠を移さざるを得なくなった。
 室町幕府を実質的に樹立した尊氏に、建武四年(1337)北畠顕家は南朝の再三の要請に応え、再度軍勢を引き連れ西上し、翌年、和泉国堺浦・石津(現、大阪府堺市)で戦死する。
  • 註1:この東北の軍勢に、南部師行は従軍しなかったというのがこれまでの通説である。新編八戸市史通史編Ⅰ(2015)では、安藤祐季の書状などの史料から第一次西行への南部師行の従軍は確実であるとしている。
 ⇒ 関連史料 保暦間記−顕家下向〈10〉、北畠顕家御教書〈12〉、北畠顕家国宣〈13〉、北畠顕家国宣〈14〉
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父は北畠親房.弟は北畠顕信.陸奥守.鎮守府将軍.生1318−没1338.〈建武の新政−南北朝時代〉
 

15 南部師行

・・・ 北畠顕家の信任があつかった武将である。南部師行は、元々の本拠が甲州で、南部氏の庶流である波木井南部氏の聟となる〈註1〉。養父の南部長継(母方の伯父)は、安藤氏の乱で関東武者と共に甲斐より出陣している。大友幸男氏の〈史料解読 奥羽南北朝史〉(12)では、養子の師行も共に従軍したと見ている。師行(もろゆき)は八戸南部氏の祖とされているが、北畠顕家の指示を能士として遂行し南朝方として戦にも明け暮れ、八戸根城を開いたのは次の代弟の政長ではなかろうか〈註2〉。好人物だったようで、戦った相手が次に師行の味方となって共に戦うということもあったようだ。師行は甲斐の本領を、北条高時の御内人である長崎思元の聟となった従兄弟の南部武行に押領されており、南部時長・師行・政長兄弟は、その不満からも幕府を見限り鎌倉幕府打倒の戦いに身を投じたといわれている。
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 元弘三年(1333)11月、陸奥守に任ぜられた北畠顕家は、義良親王を奉じて奥州に下向したが、南部師行はその先遺隊としていち早く下向し、「多賀国府見参」を十月二日以前に果たしている。師行は、糠部郡奉行を任されることになる。
 郡奉行の職務内容は、第一に、糠部郡の軍事的制圧と北条氏残党の追討である。そして、北条氏残党の所領は没収され、新政権側についた武士たちに与えられたが、没収された領地は「闕所地」となり、それを調べ、新領主側に引き渡す(打渡)のも重要な任務であった。さらに、牧をめぐる不法行為の捜査など、一般的な治安維持に関わることがらも含まれていた。糠部郡奉行の管轄地域は糠部郡だけではなく、比内・鹿角・久慈・閉伊の諸郡および遠野保(とおのほ)での任務が命じられている。
 安藤家季が外浜の実質的支配の強化をめざして画策する際に、師行は北畠顕家から安藤氏一族の有力者を味方につけ、家季の暴発を防ぐように指示されていて〈北畠顕家御教書〉〈註3〉、その効果あってか、建武元年(1334)の「持寄城の戦い」までは安藤氏を建武政権側に置くことに成功している。
 建武元年(1334)12月、南部師行は、持寄城合戦のときと推定される津軽降人五十三人とその預かり人の交名(きょうみょう・名簿)を国府に提出した。北畠顕家は、糠部郡奉行の一人の中条時長には津軽に行って反乱鎮圧にあたるよう命じたが、師行には糠部の警備も重用であるとの判断から、あえて津軽出陣を命じないことを述べている。この中条時長はその後糠部で活動した痕跡はなく、糠部郡奉行の職務は師行一人が担うことになった。
 建武二年(1335)3月、北畠顕家は、師行と一族に功労賞として内真部の闕所地となっていた「未給付村々」(青森市北部の奥内・後潟地区、蓬田村他)〈註4〉を与える。顕家は「安藤家季に(つまりは足利尊氏に)好きなようにはさせぬ。」と宣言したのも同様な処置である。安藤氏にとっての先祖伝来の地を、他国から入ってきた南部氏に与えるということは、とても納得できることではなかったであろう。顕家は自ら津軽の有力武家を敵側につけた。そして、このことは安藤氏と南部氏の百年以上に及ぶ戦いのきっかけとなったといえる。
 同年同月、北畠顕家は北条氏残党の掃討のため、「津軽中の尋沙汰(たずねさた)」として南部師行に軍勢催促権を与え派遣する。この時期一時的に師行は津軽の合戦奉行を兼任し、弟政長も同行した〈註5〉。南北朝内乱初期の合戦、建武三年(1336)1月、では藤崎・平内(平内町)・船水楯(弘前市)が政長らの拠点となったが、このときの行軍の成果とみられている。
 建武二年(1335)12月、北畠顕家は足利尊氏を倒すべく奥州勢と共に第一西上を敢行するが、師行は顕家の代理として陸奥国にとどまり、政長の子信政が従軍したとされてきた。建武四年(1337)の師行に対する「湊(安東)祐季の書状」には、京都からの帰還をねぎらう文面があり、第一次西行に師行も従軍していた可能性が出るだろう、と青森県史通史編1(2018)に記載されている。※新編八戸市史通史編Ⅰでは確実視している。
 足利尊氏が朝廷から離反した後に、尊氏方となった安藤氏(惣領家)と南部氏は弓矢を交えることとなる。師行は、北畠顕家の第二次西行に従軍し、顕家と共に建武五年(1338)和泉国堺浦・石津(現、大阪府堺市)で戦死する。
  • 註1:青森県史通史編1(2018)には、「遠野南部家が相伝した古文書(一次史料)からは、師行の波木井氏継承を確認することはできない。八戸南部氏を波木井氏の末裔とする主張については、近世盛岡藩の家臣となった遠野南部家を南部氏の庶流として明確に位置づけるために示された理解ではなかったか、という指摘もなされている。」と記載している。加えて、新編八戸市史通史編Ⅰ(2015)では、元弘三年(1333)の南部氏一族の所領をめぐっての訴訟での南部時長(師行兄)・師行・政長の陳状から、師行らが系図で書かれている実長ではなく実光の子孫であり、鎌倉期の南部氏惣領家の人物であった、師行が波木井氏に入嗣した形跡は同時代の史料では皆無だ、としている。
  • 註2:新編八戸市史通史編Ⅰ(2015)では、建武二年(1335)、師行は「津軽中の尋沙汰」として出陣しているが、この段階で根城八戸に進駐した師行が拠点を設けるとしたら、北条氏時代の給主の城郭(工藤氏の楯)を接収したと考えるが自然である、としている。
  • 註3:この北畠顕家御教書の中に「安藤家季は外浜の所領に対して、国府側には足利尊氏から預かっていると言い、足利方には、国府から預かっていると言っている。」と書かれている。また、湊安藤祐季や外浜師匠を国府側につけて、家季から離しておけば、たいしたことはできないだろうとも書かれていた。
  • 註4:北畠顕家国宣にある「師行と一族」に与えられた所領となった地名は「外浜内摩部郷并未給村々、泉田、湖方、中沢、真坂、佐比内、中目等」である。泉田→蓬田「現、蓬田村」、湖方(潮方)→後潟「現、青森市後潟~外ヶ浜町」、中沢「蓬田村中沢」、真坂→前田「青森市奥内地区」、佐比内は中津軽郡・中目は南津軽郡。散在した村々を宛行われた。これらの内、蓬田、後潟、前田には安藤氏一族の城館が存在する。⇒内真部城館群
  • 註5:新編八戸市史通史編Ⅰ(2015)では、北畠顕家は糠部の郡奉行に所領を与える際、軍事的な利便性を考慮したことから、建武二年(1335)3月に「師行とその一族へ、内摩部等」、「政長へ、七戸」の所領を与えたのは、津軽の北条氏残党掃討戦のために便宜を図ったものだと解説している。
 ⇒ 関連史料 保暦間記−顕家下向〈10〉、安倍祐季書状〈11〉、北畠顕家御教書〈12〉、北畠顕家御教書〈13〉
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父は南部政行.養父は南部長継.弟は南部政長.糠部郡代.生?−没1338.〈建武の新政−南北朝時代〉
 

16 南部政長

・・・ 南部師行の弟であり、八戸南部氏の第二代目とされているが、実質的祖といえる。八戸だけでなく、七戸をも支配し、八戸南部の礎を築いた。元弘三年(1333)五月、北条氏を倒した新田義貞軍に南部一族が参陣するが、政長は陸奥国から馳せ参じたという。このことは、南部師行が北畠顕家と多賀国府へ向けて下向する以前に、南部氏が陸奥国内に所領を得ていたことを指すと考えられている〈註1〉
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 建武二年(1335)3月、南部政長(まさなが)は北畠顕家から七戸(結城朝祐の旧領)を与えられ、兄師行と共に津軽での北条氏残党の掃討のため行軍した。七戸、外浜と鎮圧を進め、7月には「山辺合戦」(やんべ・黒石市、青森市浪岡付近)が起こり、政長が大将として活躍して勝利した。
 建武五年(1338)の南部師行死去の後、南部政長は、北畠顕家弟の北畠顕信の頼みとする南朝方有力武将として活躍した。北朝の副将軍足利直義の再三の勧降状にも直ちに応じることはなかった。その勧降状は、暦応二年(1339)に一度、貞和二年(1346)に二度出されている。北朝方の足利幕府にとって政長が南朝方の重用人物であったことがわかる。
 顕信の多賀城国府奪回の戦いでは、南部政長が北から進軍することになっていたが、暦応四年(1341)、足利尊氏方は曽我氏の惣領師助(もろすけ)を派遣し、曽我貞光とともに、政長の本拠地を攻撃させる。伝承では「根城陥落寸前の戦い」であったとされているが、七戸あたりでの小競り合いの繰り返しとされている。しかし、これにより政長は和賀氏と戦うため、和賀郡まで南進していたが帰国の他なく、南北から挟み撃ちにしようとした南朝方の戦略が狂ってしまい、康永元年(1342)、「三迫合戦」(南朝方北畠顕信・伊達氏VS北朝方奥州総奉行石堂義房)の敗北につながることになる。
 暦応四年(1341)、政長は安藤氏を南朝方に取り込むことに成功する。〈北畠顕信教書〉に「津軽安藤一族等、御方に参り目出候」とある〈註2〉
 「三迫合戦」での敗北で北朝方は劣勢に立たされる。貞和二年(1436)の勧降状の結果、「政長が足利方に降参してきたのでよしなに計らうよう」との命が、足利尊氏から奥州管領の吉良貞家・畠山国氏両名に下されるにいたった。
 政長は孫の信光に根城を、政光の母、加伊寿(かいつ)御前に七戸を譲る遺言を残して、正平五年(1350)七戸に死す。政長が没した一年後の観応二年(1351)11月、「観応の擾乱」に乗じて、北畠顕信は子息守親と連携し「広瀬川の戦い」で管領吉良勢を破り、多賀国府に入府する。この際に南部氏は顕信の出陣要請に応じたのではないかと考えられている。足利方の内紛に乗じて勢力挽回を図った顕信に南部氏は味方したのである。政長の北朝への思いを遂げたのであろう。
 南部政長は、兄師行のあとを継いで南北朝動乱の前半を戦いぬくことで、糠部における根城南部氏の勢力基礎を築き上げた。
  • 註1:青森県史通史編1(2018)では、所領は八戸・四戸・三戸辺りの給主職ではなかったか、としている。
  • 註2:北畠顕信御教書の「津軽安藤一族等」は、安藤惣領家(高季=師季、家季)を指すのでなく、安藤一族の一部、例:安藤四郎を指すものと解されている。
 ⇒ 関連史料 足利尊氏御教書〈17〉、南部政長譲状〈18・19〉
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父は南部政行.兄は南部師行.子は南部信政.孫は南部信光、南部政光.実質的八戸南部氏初代.根城城主(現、八戸市根城).七戸城主(現、七戸町).生?−没1350.〈建武の新政−南北朝時代〉
 

17 北畠顕信

・・・ 北畠顕信は、南北朝時代の公卿・武将(南朝方)、兄顕家が戦死した後の鎮守府将軍として北朝方と奮戦した。
 建武五年(1338)5月に、兄北畠顕家が和泉国堺浦・石津(大阪府堺市)で高師直軍と戦って敗れ、討死した後、南朝は暦応元年(1338)閏7月に顕家(あきのぶ)を陸奥介兼鎮守府将軍に任じ、その父親房とともに義良親王を奉じて派遣することを決定した。九月に伊勢を出発した船団は、荒天のため遭難してちりじりになり、顕信は義良親王とともに吉野に帰還し、親房はようやく常陸に上陸して小田氏のもとに身を寄せることとなる。
 翌歴応二年8月には後醍醐の死去などがあり、暦応三年(1340)春に、北畠顕信は奥州に入り、7月には葛西氏の所領にある牡鹿郡日和山城(ひよりやま・石巻市)に入った。
 顕信は、奥州総大将石塔義房の拠る多賀城国府を南北から挟撃することを計画し、南部政長に南下するように命じたが、北朝方の政長領地の攻撃により政長の軍勢は南下することはできなかった。また、頼みにしていた白河の結城氏も顕信からの再三の軍勢催促に動くことはなかった。結局、顕信は葛西氏らを主力軍として、康永元年(1342)9月から三迫(さんのはざま)を中心とする地域で、奥州総奉行石塔義房率いる足利方と激戦を繰り広げたが、最後は諸方からの援軍を得た石塔義房が、10月末に南朝方の津久裳橋(栗原市)を落として勝利した。
 観応二年(1351年)の「観応の擾乱」に乗じて、多賀城奪還〈註1〉には一時成功するが、北朝方に攻められ、落ちのびることを余儀なくされる。その後、出羽国、陸奥国など南朝勢力の強い地域に依り南朝復興活動を継続した。文和二年(1353)には顕信・守親(父子)ともに没落したといわれるが、延文五年(1360)6月には、南部信光、政光兄弟に津軽の所領〈註2〉を安堵するなど、少なくとも南朝方にとっての権威は保たれていた。
 浪岡北畠家は、北畠顕家の子孫が「浪岡御所」、顕信の子孫が「川原御所」と称されたとされている。
  • 註1:この多賀城奪還戦は顕信の子、守親が指揮をとった。根城南部氏に顕信からの状況をしらせる書状や出陣要請の書状が伝えられ、また、南部信光を大炊助に推挙しこの戦の褒賞とみられることから、南部氏の参戦は確実とみられている。
  • 註2:南部兄弟が母加伊寿御前から譲られていた所領、信光=津軽田舎郡黒石郷・鼻和郡目谷郷、政光=外浜野尻郷
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父は北畠親房.兄は北畠顕家.子に守親.鎮守府将軍.生1320?−没1380?.〈建武の新政−南北朝時代〉
 

18 足利尊氏

・・・ 鎌倉幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改めた。
 元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は足利尊氏を鎮守府将軍に補任し、外浜・糠部の惣地頭職を与えた。両地とも北条泰家からの没収地である。建武二年(1335年)尊氏が朝廷に叛旗を翻し、北畠顕家が尊氏勢を討つため、東北の軍勢を率いて11月に多賀国府を発つ。北畠奥州軍は建武三年1月に近江に到着し、足利勢の討伐軍に加わった。尊氏は敗れて1月末に京都を去り、やがて九州に逃れた。
 その年が明けて、建武三年(1336)1月に、安藤家季曽我貞光らの足利方が南部師行政長、成田六郎らの北畠顕家方の城を攻撃し、津軽の南北朝内乱が始まった。当然尊氏方と打ち合わせての行動だったろう。北畠奥州軍が多賀城に帰還するのは5月末になってからである。足利方は、奥州総奉行斯波家長によって安藤家季を検断奉行に抜擢。斯波家長の後任の石堂義房(=石塔義房)によって安藤師季(高季改名)を同奉行に任じた。
 足利尊氏は九州、西国で軍勢を立て直し、建武三年(1336)四月に京都を目指して進軍を開始する。6月には兵庫(神戸市)で新田義貞・楠木正成の軍勢を撃破、7月には京都を占領し、翌月尊氏の要請で光明天皇が即位した。後醍醐は吉野に逃れて12月南朝の政権をうち立てる。建武政権はあえなく崩壊し、南北朝内乱の時代が始まった。
 北畠顕家と足利尊氏の次の戦いは、建武四年(1337)、8月以降の第二次西行となるが、両者は刃をまみえることはなく、顕家は足利家の執事高師直によって討ち取られてしまう。
 ⇒ 関連史料 足利尊氏御教書〈17〉
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足利高氏→足利尊氏.外浜・糠部惣地頭.室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年).生1305−没1358.〈鎌倉時代−南北朝時代〉
 

19 安藤高季

・・・ 安藤季久(後の宗季)の譲状が遠野南部氏(八戸南部氏)の文書として伝わったことにより、安藤高季は、季久の長男で幼名「犬法師」であることが知られる。元服後に安藤五郎太郎高季となった。高季(たかすえ)は宗季から家督を譲られた後、宗季も名乗った惣領の通り名「又太郎」を襲名している。
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 元弘三年(1333)末、北条一族の安達高景、名越時如らが大光寺楯に立て籠もり、「大光寺楯合戦」が起こった。高季は北畠顕家の命により征討軍に加わった。建武元年(1334)、3月、顕家からこの合戦の「勲功賞」として平賀郡柏木郷を宛行われている。父宗季から譲り受けた安藤惣領家としての所領は、建武二年(1335)、閏10月にようやく、〈北畠顕家国宣〉[18]によって安堵された。この国宣の文中に宗季譲状にはあった「蝦夷沙汰」が書かれていなかった。
 これについては様々な見解が出されている。蝦夷沙汰は顕家が直接行うという意思か、当地代官に伴う職なのだろうか。※「蝦夷沙汰」とは、蝦夷との交易、ならびにその支配権を指し示す。
 南部氏には恩賞・権限ともに手厚く、安藤氏には冷淡な顕家(建武政権)を、安藤嫡流家は見限り足利方に軸足を移していくことになる。小口雅史氏は〈浪岡町史第一巻〉(18)の中で、「足利尊氏は高季を現地代官としていた可能性がある」との見方をしている。
 弟の家季が足利方の斯波家長(奥州総奉行)から合戦奉行に抜擢された後に、高季は石堂義房(奥州総奉行、斯波家長後任)から合戦奉行に任命されている。
 暦応二年(1339)六月の尻引楯合戦では、曽我貞光が御奉行とともに安藤四郎と合戦をしている。御奉行(合戦奉行)は安藤師季(高季)とされ、尻引の楯(現、弘前市三世寺)は高季の拠点だったと考えられている。
 高季の「高」は北条高時からの一字拝領であり、師季の「師」は足利尊氏執事、高師直(こうのもろなお)の「師」字を拝領したとされている。高季は改名により足利方であることを明確にした。

 高季の父、季久(宗季)が安藤氏の乱の勝利者となり、安藤氏惣領家と蝦夷沙汰代官を継承した後、安藤五郎家は外浜から津軽内陸部の尻引郷に本拠を移す。そこから安藤氏惣領家の本拠として十三湊へ進出したのは、高季(師季)であった(31)。また、内乱の中で津軽南部の津軽四郡にも勢力を伸ばし、津軽・外浜全域の郡惣領職を獲得し、「津軽郡守護」と呼ばれるようになる。「津軽一統志」。
 十三湊では14世紀中頃、福島城外郭の大土塁が建設され、十三湊地区でも、砂州の中央に東西方向に向かって、大土塁と堀が建設された。これらと平行する道路・大溝・柵がつくられて、大規模な屋敷割りが実施され、本格的な市街地整備が行われたことが発掘調査から明らかにされている。 ⇒ 十三湊史跡
 建武三年(1336)、高季の弟家季が足利方の津軽合戦奉行になっている。なぜ、当主の高季ではなく、家季が奉行になったのかが疑問であったが、高季が十三湊開発を担うために、弟家季を指名したのであったとすれば、つじつまが合う。
 師季(高季)は十三湊に本拠を移したのをきっかけに、「下国(しものくに)」と号した〈註1〉。『下国』は、「蝦夷地の松前より東、道東・千島列島に至る北海道太平洋岸全域を指す呼称」であり、その地を支配する家であることを指し示すものである(31)。
 斉藤利男氏は、師季の家督の時期について、北畠顕家から父宗季から譲られた所領が安堵された建武二年(1335)から、貞治2年(1363)頃までとしている(33)。
  • 註1:安藤氏が「下国」と号していたことは知られているが、誰が最初に名乗ったのかを記載している本は見当らなかった。斉藤利男氏は「十三湊から解き明かす北の中世史」第5回「東北歴史文化講座」〈講演レジュメ〉(31) において、それが高季(師季)からだと明らかにした。
 ⇒ 関連史料 安藤宗季譲状〈8・9〉、北畠顕家国宣〈14〉、曽我貞光申状〈16〉、奥州下国殿之代々之名法日記〈26〉
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幼名は犬法師.高季=五郎太郎・又太郎.安藤高季→安藤師季.父は安藤宗季(季久).子は安藤法季.下国系安藤氏2代当主.尻引楯主(現、弘前市)、十三湊城主.生?−没?.〈建武の新政−南北朝時代〉
 

20 安藤家季

 ・・・ 安藤宗季(前、季久)の譲状に子息高季に対して「弟いぬ二郎丸の面倒を見るように」と書かれていることから、幼名は「犬二郎丸」であることがわかる。兄、高季の「高」は執権北条高時から、家季の「家」は高時の弟、泰家からの一字拝領であった。北条泰家は当時の糠部郡・外浜惣地頭である(「比志島文書」)。
 建武元年(1334)の〈北畠顕家御教書〉[17]には南部師行に安藤氏の動向に注意するように指示されていて、特に安藤家季は「外浜を我が物にしようとしている。北畠方には足利氏より預かっているといい、足利方には北畠方から預かっているという。」と顕家に指摘されている。斉藤利男氏は〈奥羽から中世をみる〉(7)の中で、「宗季は惣領家・代官職としての所領は高季に、外浜は弟家季(いえすえ)に譲ったらしい」との見方をしている。(建武の新政後、外ヶ浜の郡地頭は、鎮守府将軍足利尊氏であり、陸奥守北畠顕家と尊氏は国衙領の収益を折半する慣行になっていた。※津軽秋田安東一族(26))
 両派の間をうまく泳ぎ、自らの権域を固めたかったのであろうが、この行動が北畠顕家の不信を買って、外浜の中央部であり、かつ安藤氏の乱の際に安藤五郎家の居城のあった「内末部」(うちまんぺ、現青森市)を南部師行とその一族に渡してしまうこととなった〈註1〉
 家季は、建武元年(1334)の持寄城合戦での降人一人を預かっていて、この時点では建武(顕家)方であった。建武三年(1336)には足利方となり、曽我貞光らと南部師行政長が守っていた藤崎城を攻撃する。当時、若かった家季は、奥州総奉行斯波家長から足利方の合戦奉行に抜擢された。家季は、斯波家長が発給した合戦奉行への補任を示す「将軍家御教書」を掲げて、周辺の武士を多数募った。
 津軽最大の武家である安藤家ではあるが、惣領ではない者を合戦奉行にするということは、本人の意欲と同時に操りやすいとも見たのではないだろうか。元徳二年(1330)の子息高季への安藤宗季譲状に「又いぬ二郎丸か事、ふち(扶持)をくわへていとをしくあたるへし」とあり、犬二郎丸(家季)への所領配分は書かれていない。しかし、所領もなく動かせる郎党もいない者を他の武将の働きを認定し報告する立場の奉行にすることはありえないだろう。家季は兄高季から独立した立場だったと考えられる。それは降人一人を預かっていることからもわかる。斉藤利男氏は〈奥羽から中世をみる〉(7)の中で、「家季は足利尊氏の地頭代」と書いている。
 家季の本拠がどこかはわからないものの、曽我貞光の「申状(戦の状況報告書)」に、奉行の楯が南朝方より攻撃されたので応戦にいったとするものが残っている。曽我貞光の本拠、大光寺からそれほど遠くない場所に家季の楯があった、つまり、津軽地方の内陸部と推測できる。
 足利方の合戦奉行は家季の後に、高季が就任することになる。青森県立郷土館の〈尻八館調査報告書〉(15)には、高季が合戦奉行となった建武四年(1337)正月の時期から後に家季の名は史料から消える、このことは家季の身体になんらかのことが起きたのではないかと見ている。
  • 註1:建武二年(1335)〈北畠顕家国宣〉[18]、南部師行と一族へ「外浜内摩部郷並びに未給村々の泉田、湖方(潮方)、中沢、真坂、佐比内、中目等の村」。佐比内と中目はどこかは不明。その他は陸奥湾に面する青森市北部~外ヶ浜町あたりにあり、安藤氏一族の城館がある。
 ⇒ 関連史料 安藤宗季譲状〈9〉、北畠顕家御教書〈12〉
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幼名は犬二郎.家季=五郎二郎(五郎次郎).父は安藤宗季(季久).生?−没?(1338年頃没ヵ).〈建武の新政−南北朝時代〉
 

21 曽我貞光

 ・・・ 曽我貞光の名が史料に現れるのは、正中三年(1326)の西浜合戦(安藤季長掃討戦)に際して、父曽我光称(光頼)が子息おとほうまる(乙房丸)に対しての所領の譲状が最初である〈註1〉。元弘三年(1333)、「乙房丸」は幕府滅亡後の鎌倉警番をつとめ、同年の大光寺楯合戦後に元服して「光高」となった。「貞光」に名を変えるのは、足利方としての戦いを始めてからである。
 曽我貞光は、当初は建武方として北畠顕家に従っていたが戦の褒賞等に不備があり〈註2〉、足利尊氏の建武政権からの離反と同時に足利方に転じる。褒賞の不備とは、旧領の安堵を願ったが国司方はそれに応ぜずに他者に給付し、後に返還させて貞光に安堵するという国司方の失態を指す。また、曽我光高の名を貞光と変えたのも、足利方になった頃のようだ。自らの戦の成果を報告する文書が遠野南部家に伝わったことにより、南北朝期の戦いを今に伝えることとなった。
* * *
 曽我氏は鎌倉時代には、北条氏の代官として安藤氏とともに津軽の中世に大きな勢力を持っていた。元弘三年(1333)の「大光寺楯合戦」では、庶流岩楯曽我氏が建武方につき、嫡流大光寺曽我(曽我道性)が武家方(北条氏残党方)として戦っていて、北条氏残党の討伐により大光寺曽我氏が滅び、岩楯曽我氏が惣領家となる。建武二年(1335)、北畠顕家は北条氏残党の掃討のため、「津軽中の尋沙汰(たずねさた)」として南部師行に軍勢催促権を与え津軽に派遣した。五月九日には、曽我貞光が師行の陣営に参上している。
 貞光(さだみつ)は南北朝内乱が始まった建武三年(1336)から10年の間、戦に明け暮れる日々だった。暦応二年(1339)三月には宮方の南部政長越後五郎、成田頼時、工藤貞行、倉光孫三郎らに自らの居城、大光寺外楯を攻められたが、一族惣領家の曽我孫二郎師助らと三ヶ月にわたって防戦して退けた。
 暦応四年(1341)夏~翌年秋には、足利方が使わした曽我師助と共に南部政長を攻め、貞光自身傷を負いながら数十度の合戦に及んだ。この一連の戦いにより南朝方有力武将の南部政長が領地内に留まることを余儀なくし、北畠顕信の国府奪回の戦いを大きく狂わせた。その後、貞和三年(1347)五月の「申状案」を最後に曽我貞光は、史料に見えなくなる。曽我氏がどのように滅んだかは伝わっていない。遠野南部家が所有していた文書の中に曽我氏の文書があるということは、八戸南部氏に攻め滅ぼされたことがわかる。
 暦応四年(1341)とみられる北畠顕信教書に、「津軽安藤一族等、御方に参り目出候」とあり、この時期に安藤氏の一族〈註3〉が北朝方から南朝方に転じ、曽我氏は孤立化したと見られている。
  • 註1:諏訪大明神画詞には「安藤氏の乱」で安藤季久と季長が戦ったが、「外浜内末部・西浜折曾関の城廓を構て相争ふ。」とあり、その拠点がどちらのものなのかが、特定はされていなかった。譲状には「父光称が西浜で戦っている間」とあり、季長は西浜で季久は外浜なことがわかった。
  • 註2:建武元年(1334)の石川楯落城の恩賞で、曽我光高がかねてから安堵を願い出ていた曽賀氏の所領だった平賀郡内の沼館の地が鹿角の安保弥五郎入道に与えられた。光高は激高し「面目を失った」と国府に不当と訴え、後に曽我光高に安堵されている。
  • 註3:「安藤一族等」は、安藤氏嫡流家ではなく、安藤四郎等一族の一部とみられている。 暦応四年(1341)から一年程続いた曽我氏対南部政長の戦い以後は、津軽での目立つ合戦はなくなった。
 ⇒ 関連史料 浅利清連註進状〈15〉、曽我貞光申状〈16〉
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曽我乙房丸→曽我光高→曽我貞光.父は曽我光頼.生?−没?.〈鎌倉時代−南北朝時代〉
 

22 工藤貞行

・・・ 鼻和郡政所職で、黒石工藤氏とされる。津軽内部や得宗領金原保(宮城県丸森町・福島県伊達市)を知行していたが、幕府滅亡に際して得宗から離反し、建武政権へ合流した。工藤貞行は、北条氏残党が立て籠もった「大光寺楯の戦い」の功績により褒賞として北畠顕家から津軽鼻和郡目谷郷・外浜野尻郷を与えられている。工藤貞行は安藤季長を捕縛した工藤貞祐の親族と考えられ、目谷郷と外浜は工藤貞祐の没収地であった。
 貞行(さだゆき)に嫡男がなかったので娘の「加伊寿御前」に所領の譲状を出している。加伊寿御前は根城南部氏に嫁ぎ、夫南部信政の子信光に工藤貞行の所領は相伝され、南部氏の津軽進出の足かがりとなった。これにより、津軽方面、外浜方面、糠部北方の下北方面とで安藤氏所領と八戸系南部氏の領地が接することになり、両氏の勢力争いの遠因となっていく。
 建武元年(1334)の南部師行に「安藤祐季外浜明師の安藤氏有力者が建武方から離れないように工作せよ旨」の〈北畠顕家教書〉[17]が出ているが、師行は工藤貞行を通したのではないかと見られている。
 ⇒ 関連史料 北畠顕家御教書〈12〉、南部政長譲状−後家へ〈19〉
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妻は「(後家になって)尼しれん」.娘は「加伊寿御前」.田舎郡の地頭代.生?−没?.〈鎌倉時代−南北朝時代〉
 

23 外浜明師

・・・ 外浜明師は、南部師行に対する〈北畠顕家御教書〉[17](建武元年1334)に登場する安藤一族の有力者。顕家は、安藤家季宗季二男)の動向に疑念を持ち、師行に注意するように指示している。そして、「外ヶ浜明師」・「湊孫次郎(安藤祐季)」を建武方から離さないように誘導することを求めて、両者が離反しなければ家季だけではさしたることがないと見ていた。つまり、外浜(安藤)明師は外浜に拠点を持ち安藤一族に発言力のある有力者であり、外浜系安藤氏の庶流の家系と見られている。
 明師(めいし)は、顕家に、かつて式部卿宮(亀山天皇皇子恒明親王)と自称する悪党(北条方)に従っていたことを白状している。顕家はその折に、今後は忠節を尽くすことであろうから、今回は穏便な処置とすることにした。
 ⇒ 関連史料 北畠顕家御教書〈12〉
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外浜系安藤氏庶流ヵ.〈建武の新政〉
 

24 安藤祐季

・・・ 湊孫次郎祐季の名でも呼ばれている。外浜明師と同様に南部師行に対する〈北畠顕家御教書〉に登場する安藤一族の有力者。建武元年(1334)二月に、安藤祐季は、南部師行あての書状〈註1〉〈註2〉を書き、鷲羽と鷹の贈り物もしていて親交があったことがわかる。祐季(すけすえ)の拠点である「湊」がどこなのかについては諸説があるが、小鹿島等秋田地域とする説では安藤家季に対して影響力を持ち得るかという疑問が出る。
 安藤祐季について、もっともはっきりとした見解を示しているのは斉藤利男氏で〈奥羽から中世をみる−四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏〉(7)の中で「安藤祐季の湊は、十三湊。祐季は西浜系安藤氏の湊代官であり、安藤氏の乱では中立を保ったのであろう。」とし、安藤又太郎家の一族であったと見ている。建武元年(1334)12月の「津軽降人交名注進状案」では、祐季は「安藤孫二郎」と書かれ五人の降人を預かっていることがわかり、安藤又太郞十七人に次ぐ、津軽地方の有力武士であり、西浜・季長側から宗季側についたことがわかる。
 「外浜明師」と「湊孫次郎祐季」を同一人物とみる本もある。大友幸男氏の〈史料解読 奥羽南北朝史〉(12)には、〈北畠顕家教書〉[17]の文中に「然而湊孫次郎 並(并)明師等」とあるとし、「并」を『あわせ』とするか『ならび』とするかで別人か同一人物かの判断が分かれるようだ。別人が有力か。
  • 註1:新渡戸文書にある「安倍祐季書状」は 、南部師行に宛てたもので、建武元年(1334)のものと推定されている。その内容に「師行が上洛した。」こと、「安東入道が無事下った」ことが書かれている。前項が、第一次西行に師季が顕家の軍勢として従軍したこと、後項は安藤宗季と思われる安東入道が上洛して活動していたのではないかということを指し示すと分析されている。
  • 註2:鈴木満氏は「津軽安藤氏研究の一視角」(37)で師行ではなく政長に宛てたものとしている。当時の二人の動向を分析しての結論のようだ。
 ⇒ 関連史料 安倍祐季書状〈11〉、北畠顕家御教書〈12〉
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安藤祐季=湊孫次郎祐季.〈建武の新政〉
 

25 安藤四郎

・・・北朝方となった安藤惣領家に対して、安藤四郎は南朝方として戦った。足利方の波多野義資の所領である津軽山辺郡亀山郷を押領したと訴えられた際に「不知実名」とあり、実名が伝えられていない(四郎は通り名)。
 暦応二年(1339)六月に安藤惣領、又太郎師季(高季の改名)の拠点「尻引楯」(現、弘前市三世寺、中崎)に南朝勢と共に討ち入ったことが、〈曽我貞光申状写〉[19]により知られている。この戦いでは、合戦奉行安藤師季とともに曽我貞光が奮戦している。
 この申状写の「尻引楯」を「尻八楯」とした誤訳があったため、青森市後潟の山城跡を地元研究家が、「ここが『尻八楯』」だ」と推定しそのまま呼称になったという経緯がある。※地元では尻八館のある山を擂鉢(すりばち)山と呼ぶ。方言ではシリハチとほぼ同じ音となる。
 安藤四郎の拠点は津軽内陸部山辺郡あたりと想定できる。安藤季長の西浜系、安藤季久の外浜系以外の別系統の安藤一族であった可能性が高い。
 この津軽内陸部を拠点とした安藤四郎の外に潮潟(依居する地名)四郎家があるが、潮潟四郎家は惣領宗季の家系に繋がるが、安藤四郎家は繋がらないと見られていて、家の始祖が異なると理解すべきではないか。この両家の関係に直接言及している本を見ていない。
 ⇒ 関連史料 曽我貞光申状〈16〉
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〈南北朝時代〉  
 
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造


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 安藤氏(安東氏)に関する情報は、関連本やインターネットでも、書かれていることはまちまちです。このサイトは関連本の情報を積み上げて、最新の研究(2019)ではどうなっているのかまでがわかります。
 人物伝では、武将の名前を列挙して、その人の生きざまから歴史がわかるようになっています。「年表」では、それぞれの出来事の出典を明らかにしています。
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