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安藤氏の乱

 蝦夷地を支配した「安藤氏・安東氏」にとって、『安藤氏の乱』は特に重要な出来事でした。そして時代を変えるターニングポイントでした。ともすれば安藤氏の乱は「安藤氏一族の内紛に鎌倉幕府が関わった戦い」の部分だけにスポットが当たりますが、およそ8年の長きに渡った「安藤氏の乱の」真相と要点をわかりやすくまとめました。

 contents 
1.はじめに
2.第1幕 蝦夷の蜂起
3.第2幕 鎌倉公文所の裁定
4.第3幕 蝦夷沙汰代官の交替
5.第4幕 安藤季長の反乱と蝦夷征伐
6.第5幕 「蝦夷追討使」という名の奥州合戦
7.中央政局と安藤氏の乱
8.エピローグ

凡例:
1.文章末尾に〈註no.〉があるものは、その章の最後に註釈で解説しています。
2.文章末尾に(no.)があるものは、特に引用・参考文献を明らかにしています。この番号は別ページにまとめている「参考文献」の番号を示しています。
3.リンクが貼ってある氏名は、武将列伝のページも御覧ください。
4.リンクが貼ってある関連史料は、関連史料のページに原文等と解説が掲載されています。
 

はじめに 安藤氏の乱とは何だったのか

 「安藤氏の乱」は「蝦夷の乱」、「津軽大乱」、「津軽騒動」とも呼ばれて、およそ8年の長きに渡っている。
 安藤氏の乱は、どうしても、「安藤氏一族の内紛に鎌倉幕府が関わった戦い」の部分だけにスポットが当たる。対して「蝦夷の乱」では、アイヌ人が相手の戦い、また蝦夷地で起こった戦いのニュアンスが感じられる。「津軽大乱」となれば、津軽で巻き起こった中央も関わった大きな戦と感じられるだろう。
 本郷和人著「乱と変の日本史」祥伝社(2019)では、〈乱と変の違い〉を次のように解説している。
『国全体を揺るがすような大きな戦いを「乱」、影響が限定的で規模の小さな戦いを「変」、非常に大きな歴史変動を引き起こす事案が「乱」であり、それほどでもないのが「変」。また、単発的な戦いではなく、数ヶ月から数年かけて起きたひと続きの戦いであれば「乱」』。
 つまり、安藤氏の乱が、蝦夷の乱・津軽大乱と呼ばれることに、ことの本質がある〈註1〉

 「安藤氏の乱」とは、安藤一族内での争いだけを指すのではなく、蝦夷の蜂起に端を発し、それを取り締まるべき「蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)」〈註2〉である安藤一族の惣領家とかつての惣領家が争い、ついに幕府との戦いとなり、幕府の勝利ではなく「和談」となって終わったという一連の戦いを指していて、その戦いは幕府滅亡の主要原因の一つとなった。
 よく説明されている惣領の跡継ぎ問題による内紛とすれば誤ってとらえてしまう。

 まず、安藤氏の乱が一般的にどのようにまとめられているかをみてみよう。インターネット検索でまとまりのあるものを引用する。
鎌倉末期におこった奥州の豪族安藤氏の反乱。1325年(正中2)6月,蝦夷(えぞ)反乱鎮圧のため,幕府は蝦夷管領職を安藤又太郎から同五郎三郎にかえた。しかし,かえって安藤氏の内紛をよびおこし,内管領長崎高資(たかすけ)が双方から賄賂をとるなどしたため,津軽地方でおこった内乱はいっそう拡大した。幕府は,26年(嘉暦元)工藤祐貞〈註3〉を,翌年宇都宮高貞・小田高知を追討使として派遣し,28年和議によって収拾した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
http://www.historist.jp/word_j_a/entry/038686/

 次に、安藤氏の乱は段階を追って事の性質や意義が変わっていくので、まず本題に入る前に、流れをみてみよう。

第1幕 (蝦夷の蜂起という国難)
 1.出羽蝦夷の蜂起。1320~1322年〈元応二年~元亨二年〉
 2.蝦夷沙汰代官である安藤氏は蝦夷蜂起の鎮圧ができなかった。
 3.この蜂起に関わり、安藤氏に内紛が起きた。

第2幕 (公文所での相論裁判)
 4.惣領家西浜安藤季長と外浜安藤季久が鎌倉公文所に裁定を求めた。1322年〈元亨二年〉
 5.裁判官長崎高資は、双方に聞きやすい下知をして、明確な裁定を下さなかった。
 6.裁判が長引く中、現地の津軽では蝦夷(アイヌ)も巻き込んだ戦いとなり内紛は拡大した。

第3幕 (北条氏の蝦夷沙汰代官交替)
 7.蝦夷の蜂起がいったん沈静化する。1325年〈正中二年〉
 8.北条得宗家当主(執権)北条高時は、蝦夷を沈静化させた功績を認め、安藤季久を蝦夷沙汰代官に任命し、季長を罷免した。これは北条氏被官である安藤家の惣領家交替をも意味する。1325年〈正中二年〉

第4幕 (北条氏の被官懲罰)
 9.季長はこの決定を不服とし、新代官の季久に討ちかかった。1326年〈正中三年〉
 10.北条高時は、北条家内の内紛を収拾するため、北条氏御内人の工藤貞祐の軍勢を関東から派遣し、津軽の北条得宗領の武将をも動員して、季長を成敗する。「蝦夷征罰」1326年〈正中三年〉
 11.工藤貞祐は季長を捕縛して鎌倉に凱旋し、季長は処罰された。

第5幕 (幕府の蝦夷追討と失敗)
 12.西浜の季長一族の安藤季兼は、現地の武士や蝦夷も動員して戦いを継続する。1326年〈正中三年〉
 13.執権北条高時はこれを鎌倉幕府に対する反乱として、関東から宇都宮高貞と小田高知を「蝦夷追討使」として派遣する。1327年〈嘉暦二年〉
 14.戦いは長期戦になり、明確な勝敗がつかないまま和議となり、宇都宮高貞と小田高知は鎌倉に帰還する。1328年〈嘉暦三年〉

それでは、事前にポイントを確認しておきたい。
(1)この乱は「蝦夷の乱」と呼ばれる。蒙古襲来の際と同じ規模の祈祷が「蝦夷降伏」として行われ、中央にとっては異民族との戦争であった。
(2)蝦夷沙汰の権限を持つのは北条氏である。安藤氏は北条氏の代官として現地で「蝦夷沙汰」の任を担っていた。
(3)安藤氏は北奥羽一円の海岸部・山域などを拠点とした広域に存在する氏族であり、その中でもっとも大きな勢力を持つ家が、津軽の西浜と外浜にあった。
(4)北条氏から最初に「蝦夷沙汰代官」の任を受けたのは、外浜の安藤氏(五郎家)であった。安藤氏の乱時点では、西浜安藤季長である。代官の地位は外浜から西浜に代わっていた。
(5)安藤氏は代官に任じられた後に北条氏の被官となっていた。「蝦夷沙汰代官」を持つのが惣領家とされ、代官が安藤一族の別の家に代わるということは、惣領家も代わる。権力・財力も移動する。
(6)安藤の乱は鎌倉幕府倒幕と時期が重なっている。
・正中元年(1324)9月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、失敗に終わる(正中の変)。
・元徳三年(1331)5月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚する。8月、後醍醐、山城国笠置山に逃れる。9月、楠木正成、河内国で挙兵する。笠置山に立てこもる後醍醐天皇が捕らえられ、神器が光厳天皇へ渡される。畿内へ出撃した幕府勢により後醍醐は逮捕され隠岐に流される。(元弘の乱)
  • 註1:〈鎌倉年代記裏書〉では、この蝦夷蜂起を「蒙古襲来」の正中・元弘の変と同格に扱っている。〈保暦間記〉にいたっては、反幕府蜂起事件として、この蝦夷蜂起しか取りあげていない。幕府滅亡の主要原因をこの津軽大乱に求めている(1)
  • 註2:安藤氏を「蝦夷管領」と書くのは〈諏訪大明神画詞〉に『根本は酋長もなかりしを、武家其の濫吹を鎮護せんために、安藤太と云物を蝦夷の管領とす。』とあるからである。蝦夷管領は後世の呼び名で、当時の安藤氏は「蝦夷沙汰代官」とするのが正しいとされている(2)。「蝦夷沙汰」の職務は「東夷成敗」権に基づく、軍事権・警察権(幕府による蝦夷支配、犯罪人の夷島流刑の執行)・北方交易の管理統制であり、安藤氏はその現地執行者であった。
  • 註3:〈鎌倉年代記裏書〉には工藤祐貞の名で書かれているが、それは書き違いで現在の研究では「工藤貞祐」とされている(17)(28)

 ここから、本題に入り段階ごとに話しを進めていこう。

第1幕 蝦夷の蜂起

 ことの発端は元応二年(1320)に起こった 「出羽の蝦夷蜂起」から始まる。元応二年~元亨二年(1320~1322)、「蝦夷の蜂起」が起こったことが〈鎌倉年代記裏書〉に『今年、元亨二年、出羽蝦夷蜂起、度々合戦ニ及ブ。去ル元応二年ヨリ蜂起云々』と書かれている。元亨二年に書かれているということは、蜂起・合戦が拡大していったことを示す。この蝦夷の蜂起を現地の蝦夷沙汰代官である安藤又太郎季長が鎮圧することができなかった。
 「出羽」蝦夷については、明確な解説がある本は少ない。逆にいうと「出羽」と書かれたことが不思議なわけである。概ねこのようなことではないか。秋田・青森西津軽地方(例えば小鹿島(現男鹿半島)から深浦)で蝦夷が蜂起した。戦国時代まで青森県深浦地方は津軽ではなく出羽の範疇であり、安藤氏の支配地は、出羽・津軽・蝦夷に及んでいた。この「蝦夷の蜂起」が2年間も続いたということから、出羽だけ、本州内だけの蜂起ではなく、それが津軽や蝦夷地に飛び火して行き、簡単には鎮圧することができなかったのだろう〈註4〉
 また、蜂起の出火点は蝦夷管領(= 蝦夷沙汰代官)たる安藤季長の本拠地であることから、安藤氏惣領・地頭代としての力量も問われただろうし、本来の蝦夷管領たる北条氏も力なしと見られたことだろう。
 そもそも蝦夷蜂起の原因はなんだったのか。蝦夷地に住むアイヌ人は自給自足よりも和人との交易によって利益を生む方向に特化していった民族とされている。例えば蝦夷地ではできない鉄や衣類を手に入れるためには、北海道産品を和人の地に持ち込み交換しなくてはならない。この交換レートが以前より低くなることは死活問題であった。
 アイヌ人の蜂起については、文永五年(1268)に蝦夷の蜂起が置き、蝦夷沙汰代官である安藤五郎が蝦夷に首をとられたという事件が起きている。この頃、サハリン(樺太)に進出したアイヌ人が現地のギリヤークとの奮闘になり、元が大規模なアイヌの掃討戦を展開したことが指摘されているが、その時期と「出羽蝦夷の蜂起」とは50年程経過している。むしろ、出羽蝦夷蜂起の原因・背景は、14世紀末から15世紀にかけて本州方面から夷島への和人の進出が本格化したことで、軋轢を生じていたことが考えられるのではないだろうか(28)。また、北条氏の蝦夷地からの収奪強化が蝦夷蜂起の原因かもしれない(1)

 蝦夷沙汰代官の職域は、軍事権・警察権もあるが、重要な任務は交易を所轄することであった。とすれば、蝦夷(アイヌ)の人々の不満は、直接的に安藤氏に向かうわけである。ここで、アイヌの人々への扱いは代官である安藤季長がかってに決めているわけではなく、北条得宗家の方針によるものであろうことを確認しておきたい。
 西浜安藤氏惣領季長と外浜安藤氏五郎三郎季久との内紛も、きっかけはこの蝦夷蜂起に関わるものであった。斉藤利男氏は「北の環日本海世界 村井章介他編」(2)で、この対立には『責任問題』もあったろうとしている。季長と季久は従兄弟であった。季長は現惣領、季久はかつての惣領家「安藤五郎家」の当主である〈註5〉。例えば、蝦夷が蜂起したのはお前が悪い、蝦夷を鎮圧ではないのはお前のせいだ、など。双方の一族や関係者のいさかいが武力衝突に発展していったのではないだろうか。〈諏訪大明神画詞〉 元享年間(1321~24)に、当時藤崎にあった津軽護国寺が津軽大乱で焼失したと伝えられている(1)。その頃は、安藤季長が藤崎の対岸、尻引郷に居住していたと考えられるため、安藤季久の軍勢が外浜から討ち入ったのであろう。

 当時の人々にとって「蝦夷の蜂起」とは、どのようなことと認識されたのであろうか。時代は遡るが、文永五年(1268)に蝦夷の蜂起が起こっていて、この関連で当時の蝦夷沙汰代官であった外浜の安藤五郎が蝦夷に首を取られている〈註6〉。このことを日蓮はこのように記している。
 「ゑぞ(蝦夷)は死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁ヘ堂塔多く造りし善人也。いかにして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」〈種種御振舞御書
 「而に 去文永五年の此、東に浮(俘)囚をこり、西には蒙古よりせめつか(責使)ひつきぬ。」〈三三蔵祈雨事
 日蓮は、文永五年(1268)に蒙古から国司がやってきたことと蝦夷の蜂起を同等の国難だといっているわけである。

 話しを戻そう、それでは、鎌倉幕府は蝦夷の蜂起に対して、どのような対処をしたのであろうか。執権北条高時は正中元年(1324)、5月に自らの邸宅において、鶴岡八幡宮社務職顕弁を中心に「蝦夷降伏」のための「五檀護摩」の修法を正中元年五月十九日から七日間、執り行わった。この祈禱は弘安四年(1281・弘安の役)の「蒙古退散」と同じ大修法だった。さらに正中二年(1325)閏1月、には鶴岡八幡宮の社頭や金沢称名寺(現、横浜市)で蝦夷降伏の祈祷が行われた〈鶴岡社務記録〉〈註7〉。幕府にとってはまさに『夷狄』との戦いであった。
 当時の国政の最高責任者として、戦いの勝利のために神仏の力を得ることは重要な責務であろうが、津軽・蝦夷方面に鎮圧軍を派遣するなどのことはしていない。そして、元応二年(1320)の蝦夷蜂起から4年が経過していても、いっこうに治まる気配がなかったことがわかる。実は戦いの相手がアイヌ対和人という単純なものから、(西浜安藤+アイヌ)対(外浜安藤+アイヌ)も加わって、より複雑になっていたのである。
  • 註4:「出羽蝦夷の蜂起」については、斉藤利男氏は「奥羽から中世をみる−「四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏」」(7)で、本州の出羽国内の蝦夷の蜂起ではなく、蝦夷ヶ島の人々の蜂起、それも出羽国秋田城の管轄下とみなされた日本海側の蝦夷の人々の蜂起であったとみるのが適切、と書いている。
  • 註5:安藤氏の蝦夷管領=蝦夷沙汰代官として、史料にみえるのは、〈保暦間記〉の「かれら(安藤五郎三郎季久・安藤又太郎季長)が先祖安藤五郎といふは、とういのかために、よし時が代官としてつかはし置たりしそのすゑなり」(第二代執権北条義時が安藤五郎を蝦夷沙汰代官とした)というものが最初である。北条義時が安藤五郎を「東夷の堅めの代官=蝦夷沙汰代官」としたのは、執権となってからの元久三年(1206)と見られている。つまり、安藤五郎三郎季久の家が当時の惣領家であった。
  • 註6:文永五年(1268)から日蓮が「種種御振舞御書」で書いた建治元年(1275)年の間に、安藤五郎が蝦夷に殺された。蝦夷に討たれた安藤五郎と執権義時が任命した安藤五郎では、およそ60年の開きがあり、二・三代後の人物である。そして、蝦夷に討たれた安藤氏の嫡男が年若などの理由で、安藤氏の惣領家は外浜の安藤五郎家から、西浜の安藤季長の祖家に交替したとみられている(17)(28)
  • 註7:「鶴岡社務記録」が五檀護摩の実施を記すのは、この蝦夷蜂起と弘安の役のときだけで、当時北の蝦夷蜂起が蒙古襲来と並ぶ大事件とみられていた(7)

第2幕 鎌倉公文所の裁定

 話を出羽蝦夷の蜂起の頃に戻す。蝦夷の蜂起に伴い、安藤氏内部では、西浜を本拠とする惣領の又太郞季長と外浜を本拠とする五郎三郎季久との間でもめ事が起きていた。両族の間での衝突も起きていたようだ。そして、北条得宗家は安藤氏の内紛と蝦夷蜂起を治めるべく、元亨二年(1322)春に、二人を召喚し、安藤季長と季久は鎌倉公文所で理非を争うことになった。〈諏訪大明神画詞〉
 当時の鎌倉公文所は、北条氏内管領の長崎高資がその任にあたっていた。父高綱(円喜)もそうであったというが、賄賂の高低で裁決を変える人間であったという。安藤家からの訴えでは、高資は、季長と季久の双方から多金をせしめ、その都度、双方によく取れる発言をしたとされている。〈保暦間記〉には「元享二年の春、安藤又太郎季長と同五郎三郎の争ひの時、高資種々わいろを両方より取りて、へつらいたる下知を両方へいひつかはす」と書いてある。
 季長も季久も自らの権益を守るため、蝦夷交易で蓄積した財力を惜しげも無くつぎ込んだだろうし、高資としては白黒を付けない状況の方が、賄賂が積まれて好都合であったろう。よって、この評定を決することもなく、双方の対立をいたずらに長引かせることになる。
 季長、季久の両者が鎌倉にいる間、現地の津軽では双方の陣営が蝦夷も巻き込んでの武力衝突が起き、蝦夷の乱(幕府からみるところの)は混迷を極めて拡大していく。蝦夷の中に二つの派閥があり、その主導権争いがあっただろうことがうかがえる。
 〈諏訪大明神画詞〉にこのように書かれている。『彼等か留主の士卒数千夷賊を催集之。外浜内末部・西浜折曾関の城廓を構て相争ふ〈註8〉。両の城嶮岨によりて洪河を隔て雌雄互に決しかたし。』両軍は外浜の内末部と西浜の折曾関に城郭を構え、相対した。五郎三郎季久・又太郎季長の両派が、それぞれ「数千の夷賊」を率いて、季久は外浜の内末部(現、青森市)、季長は西浜の折曾関(現、深浦町)を本拠に争う。※安藤季久の城館は内真部城館群と呼ばれている。
 諏訪大明神画詞の記述の中には、イナウなど、アイヌ特有の風俗が描かれていて、双方の軍勢に蝦夷とみられる人々が加わっていた。双方とも味方を強大にするために、本拠に近いアイヌの人々を「こちらが勝てば、利益が高まる。」として勧誘したのだろう。

 さて、季長と季久の「相論」とは、裁判で争った事は、いったい何だったのだろうか?多くの本では、惣領相続をめぐる相論としていて、これは「諏訪大明神画詞」にこのように書かれていることを根拠にしている。
『安藤五郎三郎季久・又太郎季長と云は従父兄弟也。嫡庶相論の事ありて、合戦数年に及ふ間、両人を関東に召て理非を裁決之処、(以下略)』
 まず鎌倉の公文所は、コトバンク「精選版 日本国語大辞典の解説」によると、「③ 鎌倉幕府の執権北条氏の家政処理機関。」とある。そこに、「安藤季長と季久のどちらが惣領か」と訴えたのだろうか。まず、季長の通り名である「又太郞」は、安藤氏惣領である人物の持つ通り名であり、季長が惣領だということは内外に明らかであった。さらに、外浜から西浜へ安藤氏の惣領家が移動したのは、文永五年(1268)蝦夷の蜂起による安藤五郎戦死がきっかけとして考えられている。つまり、季長の先代も先々代も惣領だった。
 また、安藤一族は北条氏被官であり、北条氏が認めない「惣領」はありえない。それに対して北条氏の裁判で「惣領の正当性」を争うことは考えられない。

 公文所で裁決してほしいのは、主に所領(支配地)の関係だろう〈註9〉。そして、これが蝦夷蜂起の責任問題にも絡むことではなかったか。
 (以下は私見です。)安藤氏の所領の内、西浜は季長家が本拠として代々支配し、外浜は季久家が本拠として代々支配してきた。宇曽利(下北地方)の支配権は外浜に近い五郎家・季久家の管轄であった〈註10〉。蝦夷との交易も西浜の湊は季長、外浜の湊は季久となっていた。この方が安藤氏として、蝦夷沙汰代官の任務を果たしやすかったと考える。蝦夷蜂起に絡み、季長は支配地の惣領家への一元化を目論んだのではなかろうか。つまり、公文所の裁定次第では、双方の従来からの権益が大きく変わる可能性があった。
 ありていに言えば、季長は「蝦夷を鎮圧できないのは、季久が惣領の命令に背くからだ。私に全権を与えてくれれば鎮圧できる」といい、季久は「蝦夷を鎮圧できないのは、季長の策が誤っているからだ。季長は惣領=代官としての力量に欠ける。」などを公文所に訴えたのではないだろうか。
  • 註8:諏訪大明神画詞に書かれているところの「嶮岨な外浜内末部の城廓」とは、新青森市史時点では「内真部館とその背後の山城」とみていたが、外浜安藤氏関連山城群の現地確認の拡大を経て、その周囲に構築された「城塞群」全体をさしていることが判明した(39)
  • 註9:江戸時代成立の〈異本伯耆巻〉では『嘉暦二年夏頃、陸奥国津軽の住人である安東又太郎秀長(および郎従の秀兼)と安藤又三郎の間で、所領に関する相論が起こった』とある(27)
  • 註10:斉藤利男氏は「奥羽から中世をみる−「四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏」」(7)で、正中二年九月安藤宗季譲状に書かれている『尻引、宇曽利、中浜、湊(十三湊)は、「蝦夷沙汰代官職に伴う惣領相伝所領』である、としている。私見では、季長・季久が内紛の状況からみて同等の勢力を持つことから、安藤五郎家は外浜に加えて宇曽利の実質的支配を、外浜安藤家から西浜安藤家に惣領が交替した後も持っていたのではないかと考えた。宗季が娘「虎御前」に宇曽利の中心を一代限りとは言え譲ったことも、外浜安藤家と宇曽利が近い関係にあったことを裏づけるのではないだろうか。

第3幕 蝦夷沙汰代官の交替

 蝦夷降伏の祈禱に務めていた執権北条高時にとって、ようやくその効果が現れ、「蝦夷の蜂起が落ち着いた」と思える時がきた。正中二年(1325)5月、高時は、金沢称名寺長老(剣阿)に対し蝦夷静謐の法験に対する感状を送っている。『当寺祈祷ノ事、蝦夷スデニ静謐ノ間、法験ノ至リ殊ニ感悦ニ候』〈註11〉
 当然祈禱だけで、蝦夷蜂起が沈静化したわけではない。元亨二年(1322)の鎌倉公文所への召喚から3年が経っている。季長、季久ともに津軽に戻り、少なくとも一族郎党の内紛を沈静化させたことだろう。この段階では北条氏は蝦夷の鎮圧を、蝦夷沙汰代官の安藤家に任せきりである。公文所から明確な裁定がない以上は、季長と季久の実力勝負となったと考えられる。そして蝦夷をいったん鎮めたのは、安藤季久の方であったと、北条氏は認定した。このことは、季長一族・蝦夷連合軍対季久一族・蝦夷連合軍との戦いは、季久派が優勢の内に一次終息したことになる。
 正中二年(1325)6月、北条高時は、蝦夷蜂起鎮定の功として、地頭代官職〈註12〉や蝦夷沙汰職を又太郎季長から五郎三郎季久に改替した。〈鎌倉年代記裏書〉に『正中二年六月六日、依蝦夷蜂起事、被改安藤又太郎、以五郎三郎被補代官職訖』とある。蝦夷沙汰代官安藤季長には、蝦夷蜂起を鎮圧できなかった責任をとらせ更迭し、蝦夷鎮圧に勲功のあった季久が新たな地頭代職と蝦夷沙汰代官となった。安藤氏の所領のオーナー(惣地頭)は北条得宗家一族である。代官の交替は権益の交替となり、安藤惣領家が西浜安藤氏から外浜安藤氏に戻ったことになる。
 これを機に安藤季久は安藤一族惣領の通り名「又太郎」を名乗り、名も「宗季」〈註13〉、と改名した。これまで名前の先頭にあった「季の字」を後ろに回し、安藤氏にとっての新たな時代を宣言したのであろう。そして、9月に今後の不測の事態に備え、代官として支配する「所領」と「蝦夷沙汰」を子息犬法師への譲状として書きしるした。〈安藤宗季譲状−犬法師へ
  • 註11:本書状の年号には、文保二年(1318)と正中二年(1325)という二つの説がある。従来は本文書が文保二年とされていて、このことから蝦夷鎮圧ができない又太郎季長に業を煮やした北条高時が蝦夷代官職から更迭した、と説明する本もあった。しかし、年号が正中二年と比定され、蝦夷鎮圧に成功したのが五郎三郎季久だったからこそ、蝦夷沙汰代官職を改替させた、と斉藤利男氏は「奥羽から中世をみる−「四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏」」(7)で書いている。
  • 註12:季久が地頭代になったことにより、外浜に加えて、尻引(津軽中央藤崎町あたり)、宇曽利、中浜(津軽半島先端)、十三湊を支配することになった(7)。安藤氏の乱終結後にはさらに西浜も加わることになる。
  • 註13:宗季の「宗」の字は、北条一族で津軽に関わる「沙弥宗謐」の一字を拝領したもの、とされている。沙弥宗謐は、嘉暦二年(1327)の合戦(兼季対幕府軍)の状況について、宇都宮公綱に益子左衛門尉・芳賀弾正左衛門以下数人が討ち死にしたことを伝え、謝意を表している(7)。またこの書状で沙弥宗謐は、安藤方を「津軽山賊」と書いている(26)

第4幕 安藤季長の反乱と蝦夷征伐

 蝦夷沙汰代官と安藤氏惣領の地位を剥奪された季長は、正中三年(1326)2月に、自分に従う一族のものや蝦夷の軍勢で、新代官安藤宗季(季久)を攻撃した。宗季に討ち掛かるということは、北条高時に歯向かうことを意味する。蝦夷蜂起の際は現地に任せきりだった北条高時は被官の反乱を許さず、「蝦夷征伐」と称して北条氏有力御内人の工藤貞祐の軍勢を3月に関東から派遣し、津軽の北条得宗領の地頭代等の武将をも動員して、季長を攻めたてた。安藤季長らは「蝦夷」とさげすまれ、討ち取るべき対象となったのである。
 この際に曽我光高の父光称が所領の譲状を発して「にしはま合戦の間」と記して、季長の居城が西浜にあることがわかる。そして、宗季も当然出陣し功績をあげたのであろう。そうでなければ、高時が季長のかつての支配地西浜を宗季に安堵することはありえない。
 この段階では、攻撃される側もする側も北条得宗家内部の紛争である。にしはま合戦は7月に季長が降参し北条軍勝利で終結し、工藤貞祐は季長を捕縛して鎌倉に帰還した。安藤季長がどのように処刑されたのかは伝えられていないようだ。しかし、これで幕引きとはならなかった。

第5幕 「蝦夷追討使」という名の奥州合戦

 西浜季長一族の安藤季兼(季長の従兄弟)は、現地の武士(悪党)や蝦夷も動員して季長なき後も戦いを継続した〈嘉暦二年六月十四日関東御教書、結城古文書写〉。ことここに及んで、鎌倉幕府は翌嘉暦二年(1327)関東の御家人、下野の宇都宮高貞と常陸の小田高知らを「蝦夷追討使」として派遣する〈註14〉。北奥在来の住人に対して、陸奥国に隣り合う北関東の有力御家人を動員し、追討を行うという、もう一つの「奥州合戦」が現出したのである(5)。事実、「鎌倉年代記裏書」や「北条九代記」もこの戦いを「奥州合戦」と書いている(26)。また、宇都宮家は社家から武家となった家であり、宇都宮二荒山神社は、東北地方在来の勢力に対する追討祈願の伝統を持ち、その霊験もまた、頼みとされた。
 幕府軍は季兼軍を討伐することはできなかった。〈諏訪大明神画詞〉に『因茲武将大軍を遣て征伐すと云へとも、凶徒弥盛して、討手宇都宮の家人紀・清両党の輩多以命を堕き。』とあり、幕府軍は大きな犠牲を払ったことが書かれている〈註15〉
 幕府の追討命令に「安藤又太郎季長郎従季兼以下与力悪党誅伐事」「津軽山賊誅罰事」(8)などとあることから、季兼の軍勢は城に立て籠もるなどせず、山中でのゲリラ戦を挑んだのであろう。元徳三年(1331)、楠正成の「赤坂城の戦い」の5年前にすでに「悪党の戦い、ゲリラ戦」が津軽で展開されていたことになる。
 戦いは、二度目の冬が近づいた頃の嘉暦三年(1328)10月、ようやく和議となり、宇都宮高貞と小田高知は鎌倉に戻った。〈北条九代記〉に『嘉暦三年、今年十月奥州合戦ノ事、和談ノ儀ヲ以テ高貞・高知等帰参』とある。8年の長きに渡った安藤氏の乱は終結した。

 和議の条件はなんだったのか。元徳二年(1330)の安藤宗季の子息高季(犬法師)への譲状に、「関・阿曽米等村をのぞく津軽西浜の譲渡」とあり、関、阿曽米は「安藤次郎太郎後家賢戒知行分」として安藤季長一族に残されたことがわかる。
 この「安藤次郎太郎」は誰なのかを分析している本は、ほとんどなく「史料解読 奥羽南北朝史 大友幸男著」(12)で次郎太郎は季長であるとしている。後家の知行地として残すほどであるから、西浜の支配者だった安藤季長と考えるのが自然であると考える。
 「安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著」(10)では、「安藤系図」に季長の子の安藤次郎季綱が「出羽秋田ノ住人トナル」と記述されていることから、季長一族は小鹿島あたりに移り住んだのではないかと記している。また、小鹿島の北浦(男鹿市)に建つ日吉神社の棟札(康永三年・1344)に、「嶋郡地頭安倍兼季」の名が書かれている(10)。森山氏は安藤季兼と安倍兼季を同一人物とみているようだ。
  • 註14:幕府からの実際の軍勢催促は、高貞の兄、宇都宮公綱と高知の父にあたる小田貞宗に対してなされた(28)
  • 註15:紀・清党とは宇都宮氏家人の紀党(益子氏)清党(芳賀氏)のことであり、宇都宮氏幕下の二大武士団 紀清両党として知られていた。嘉暦二年(1327)十月、関東勢の益子左衛門尉や芳賀弾正左衛門尉など、高名の武者たちが安藤方に討ち取られた(7)

中央政局と安藤氏の乱

 〈保暦間記〉において、反幕府蜂起事件として幕府滅亡の主要原因とした「津軽大乱」(17)の時期は、元応二年(1320)から嘉暦三年(1328)までであり、鎌倉幕府転覆の時代と実によく重なっている。
 北条高時が第14代執権に就いたのは正和5年(1316年)、12歳であった。出羽蝦夷の蜂起の4年前である。新田義貞らの軍勢に鎌倉を攻められ自刃したのは、正慶二年(1333)で、季兼と関東軍の「和談之儀」から5年後のこととなる。
 後醍醐が即位したのは文保2年(1318)、出羽蝦夷の蜂起の2年前。後醍醐天皇の倒幕の動きが表面化した「正中の変」は正中元年(1324)、高時が「蝦夷降伏」のため、五檀護摩の祈禱を行った年である。この情報を早馬で得た結城宗広は、事件を「当今(後醍醐天皇)御謀反」と表現し、陸奥国白河荘南方にいた子息親朝に対して「蝦夷といい、京都といい、このような不吉なことがあろうか」と伝えている〈藤島神社所蔵文書〉「鎌倉幕府と東北 七海雅人編」(5)。蝦夷の蜂起と後醍醐天皇の倒幕計画が同列に扱われているのである。
 そして、後醍醐が幕府倒幕計画発覚により吉野に逃れたのが、元徳三年(1331)、楠木正成が挙兵した年で、和談から3年後である。

 蝦夷の蜂起という国難を、「蝦夷沙汰」として軍事・警察権を持つ北条得宗家は治めることができず、あまつさえ蝦夷沙汰代官の任を持つ安藤一族が二派に別れ、それぞれアイヌを味方に付け紛争を始めた。その原因は鎌倉公文所に持ち込まれた「理非の判断」を北条氏の内管領が賄賂を受け、いたずらに裁決を延ばしたことが大きい。執権北条高時は蝦夷沙汰代官季長を罷免したが、それを不服として高時が任命した新代官宗季(季久)を討伐しようとする。北条得宗家の面目は丸潰れである。
 安藤季長を征伐できたのは北条氏としてはよかったであろうが、一族の安藤季兼により戦いが継続された。季兼は戦いの理由に「北条氏の理不尽さ」を掲げていたことだろう。蝦夷への対応は蝦夷沙汰たる北条氏の指示・方針に添って執行してきただろうし、公文所では季長の意向に添った下知がなされていたからである。それを(季長にとって)一方的に罷免したとあっては、不服として蜂起するのもうなずける。北条高時は、安藤季兼との戦いに対しては、「北条氏に対する戦いから、鎌倉幕府に対する反乱」に格上げをして軍勢を送り込んだが、征伐することはできなかった。
 中央では、鎌倉幕府の力が弱まっている。統治能力も低下していると感じたことだろう。〈保暦間記〉には「(長崎)高資政道不動に行くにより、武威も軽く成、世も乱れそめて人も背き始し基なりけり。」と書かれている。長崎高資の収賄に象徴されるような、この津軽大乱の処理をめぐるあまりの不手際は、季兼らを誅伐できなかったこととあわせて、後醍醐天皇ら反幕府方に、幕府の無力を強く印象づけたに違いない(1)
 後醍醐天皇の倒幕計画が緻密なものであったとは思えないが、相手を倒すことができると踏んだのは、「鎌倉幕府が安藤氏の乱を治めることができなかった。」ことが大きな判断材料になったといえるだろう。
 安藤兼季と幕府軍の和議から5年後の元弘三年(1333)、5月、北条高時は新田義貞や足利尊氏の嫡男千寿王らに攻められて鎌倉で自刃し、鎌倉幕府は終焉を迎えた。

エピローグ

 元徳2年(1330)6月、安藤宗季は、安藤季長旧領の津軽西浜(関・阿曾米(前)を除く)を嫡子五郎太郎高季に譲る。安藤家惣領となった宗季は、外浜は次男「五郎二郎家季」に継承させたとみられている。外浜安藤氏は安藤家惣領家として、拠点を外浜から津軽内陸の尻引の地(弘前・藤崎付近)に移した。
 鎌倉幕府転覆にもっとも戦功があったと認められた足利尊氏は北条泰家の跡、外浜・糠部の惣地頭となった。当初は建武政権・北畠顕家側についていた安藤氏は、南部師行等国司方有力武将との扱いの不平等もあり、足利方に転向し、津軽は南北朝動乱の発火点となる。
 南北朝時代、北朝の優勢が定まり津軽の戦果が治まった頃(推定)、安藤氏は津軽の中央の地から、さらに十三湊に拠点を移していった。そして、十三湊を全国有数の交易湊とした安藤氏は「下国」家と称するに至った〈註16〉
  • 註16:下国の意味下国の意味は、斉藤利男氏今別町講演(2019.05.17)によると『下国とは蝦夷地の松前から太平洋岸を指し、それに対する「上国」は、蝦夷地の松前から日本海側を指す。』つまり、安藤氏は「下国」と名乗り、蝦夷地の太平洋側一帯(松前から千島まで)を支配している氏族であることを示したことになる。安藤氏が下国を名乗った時期をいつからだとを書いている本は見当たらないが、永享四年(1432)満済准后日記では「下国」と書かれていることから、安藤盛季・康季の時代には対外的な名称として認知されていることがわかる。
 
※本ページでの「参考文献」⇒「史料解説・参考文献」
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安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表- 十三湊
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 安藤氏(安東氏)に関する情報は、関連本やインターネットでも、書かれていることはまちまちです。このサイトは関連本の情報を積み上げて、最新の研究(2019)ではどうなっているのかまでがわかります。
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