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安東氏関連 史料解説・史料・参考文献

 「安東氏関連 武将列伝」で記載している史料解説や安東氏に関連する史料を掲載しています。 このサイトを読んでから、また調べ直すことができるだけないように、「史料解説」や「関連史料」をまとめています。

史料解説 contents   20件。スマホの方は、右にスライドしてください。
11.日蓮聖人遺文
12.地蔵菩薩霊験記
13.十三湊新城記
14.十三往来
15.廻船式目・三津七湊
16.太平記
17.関東御教書案
18.北畠顕家袖判御教書
19.北畠顕家国宣
20.曽我貞光申状写

関連史料 contents   44件。
1.曾我物語 【「曾我物語」に記載されている安日王が外ノ浜に流される一節】
2.都玉記 【「都玉記」に記載されている京都強盗に対する処刑】
3.沙汰未練書 【「沙汰未練書」に記載されている東夷成敗】
4.日蓮聖人遺文 【建治元年(1275)、種種御振舞御書、三三蔵祈雨事】
5.地蔵菩薩霊験記、安藤五郎 【「地蔵菩薩霊験記」に記載されている日の本将軍安藤太郎】
6.保暦間記 【元亨二年(1322)、安藤氏の乱勃発】
7.諏訪大明神画詞 【東夷蜂起して奥州騒乱、安藤氏の乱の様子】
8.安藤宗季譲状 【正中二年(1325)九月、安藤宗季、諸職を子犬法師らに譲渡】
9.安藤宗季譲状 【元徳二年(1330)六月、安藤宗季、西浜を子息高季に譲渡】
10.保暦間記−顕家下向 【元弘三年(1333)八月、北畠顕家、陸奥守に任じられ多賀国府へ】
11.安倍祐季書状 【建武元年(1334)と推定、安藤祐季から南部師行への手紙】
12.北畠顕家袖判下文 【建武元年(1334)三月、安藤高季に勲功の賞として新思地給与を行う】
13.北畠顕家御教書 【建武元年(1334)六月、北畠顕家、津軽安藤氏等の動向について南部師行に指示】
14.北畠顕家国宣 【建武二年(1335)三月、南部師行に、内摩部郷等所領を宛行う】
15.北畠顕家国宣 【建武二年(1335)閏十月、安藤高季に、所領を安堵】
16.浅利清連注進状 【建武五年(1338)五月、浅利清連、鹿角郡での戦いと曽我貞光の軍功注進】
17.曽我貞光申状 【暦応二年(1339)十一月、曾我貞光、尻引楯・尾崎合戦での軍忠を注申】
18.足利尊氏御教書 【貞和二年(1346)十二月、足利尊氏、南部政長降参と対応指示】
19.南部政長譲状−信光へ 【正平五年・観応元年(1350)八月、南部政長、八戸を嫡孫信光に譲渡】
20.南部政長譲状−後家へ 【正平五年・観応元年(1350)八月、南部政長、七戸を嫡子信政の妻・後家(加伊寿御前)に譲渡】
21.安東太、出羽国小鹿嶋の沙汰付【延文二年(1357)六月、安東太、安藤孫五郎入道押領地の打渡を命じられる】
22.後村上天皇綸旨 【正平十六年・康安元年(1361)十一月、後村上天皇、南部信光の軍忠を賞す】
23.十三往来−十三湊の繁栄 【「十三往来」に記載されている十三湊の様子】
24.秋田湊氏文書−永享夷狄蜂起 【「湊金左衛門許季覚書」に記載されている安藤鹿季の奮闘】
25.北海夷狄大動乱の史料3件 【「秋田風土記」、「奧南落穂集」、「秋田湊文書」】
26.安藤陸奥守の将軍義量への献納物 【応永三十年(1423)四月、将軍足利義量、安藤陸奥守の献納物を賞す】
27.満済准后日記 【永享四年(1432)十月、安藤氏、南部氏に敗れ、蝦夷島に渡海】
28.奥州下国殿之代々之名法日記 【嘉吉元年(1441)、熊野郡那智神社の先達、安藤氏の系図メモを実法院に提出】
29.羽賀寺本堂上葺勧進帳 【永正11年(1514)、羽賀寺本堂上葺の勧誘文、青蓮院入道尊鎮法親王】
30.新羅之記録−政季渡海【安東政季の成り立ち、大畑から蝦夷島へ渡海】
31.松前記 【「松前記」に記載されているコシャマインの戦いでの武田信広奮闘】
32.安東師季(政季)願文 【応仁二年(1468)二月、安東師季、熊野那智大社に旧領回復の願文】
33.李朝実録−夷千島王遐叉の書状【文明十四年(1482)四月九日、夷千島王遐叉から朝鮮国王への手紙】
34.新羅之記録−松前守護職承認【安東尋季、蠣崎義広に松前守護職を承認す】
35.信長、愛季へ鷹所望の書状 【天正三年(1575)二月、信長、愛季に鷹を所望し鷹匠を派遣する】
36.三条西実枝書状【天正五年(1577)、安東愛季の官位に関わる三条西実枝の信長宛ての書状】
37.湊・檜山両家合戦覚書【天正十年(1582)二月、安東愛季と大宝寺義氏との由利口での合戦】
38.秋田愛季に綸旨 【天正十二年(1584)六月、秋田愛季に、羽賀寺再興の綸旨】
39.安東実季書簡【天正十七年(1589)五月二十三日、安東実季の援軍依頼書簡】
40.安東実季宛「最上義光書状」【天正十八年(1590)のものと推定されている実季宛「最上義光書状」】
41.蠣崎慶広宛「秀吉朱印状」【文禄二年(1593)正月五日、「蝦夷地での交易権の承認」】
42.松前慶広宛「家康黒印状」【慶長九年(1604)正月二十七日、「蝦夷地支配承認」】
43.青蓮院尊朝法親王書状【文禄四年(1595)五月二十一日、青蓮院尊朝法親王からの羽賀寺再興依頼の書状】
44.十三往来【南北朝時代(1336年~1392年)、著者未詳】
45.下国家譜政季事績【「下国伊駒安倍姓之家譜」に記載されている政季の業績】

 ⇒ 参考文献へジャンプ

   link ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
   link ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸時代」
   link ⇒ 「安東氏関連年表」
   link ⇒ 「安藤氏の乱」
   link ⇒ 「安藤氏の系図とその系譜意識」
   link ⇒ 「安藤氏の通論と議論」
   link ⇒ 「十三湊史跡」

関連史料

1 曾我物語 【「曾我物語」に記載されている安日王が外ノ浜に流される一節】

「ソレ日域秋津嶋ト申スハ国常立ノ尊ヨリ以来、天神七代地神五代都合十二代(略)。ソノ後神代七千年ノ間絶エテ、安日トイフ鬼王世ニ出デテ、本朝ヲ治ムルコト七千年ナリ。ソノ後鵜羽葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)ノ第四代ノ御孫神武天王世ニ出デテ、安日ト代ヲ諍イシ時、天ヨリ霊剣三腰フリ下ッテ安日ガ悪逆ヲ鎮メシカバ、天王勲成ッテ安日ガ部類ヲバ東国外ノ浜ニ追下サル。今ノ醜蛮ト申スハ是ナリ」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○ 「秋田家系図」では安東氏の遠祖が”安日”となっている。安日王伝説は、鎌倉末期に生み出されたもので、初出は、妙本寺本の「曾我物語」である。その安日鬼王が神武天皇(日本神話に登場する初代天皇)に国争いで敗れて外ノ浜に追放され、蝦夷の祖先となった(醜蛮)となったと曾我物語に書かれている。
 

2 都玉記 【「都玉記」に記載されている京都強盗に対する処刑】

「・・・・今日、京中強盗。前将軍(源頼朝)に遺わせるところなり。六条河原において官人武士に渡す。死罪においては停止。年末、官人下部等容隠するの時、強盗といえどもすこぶる寛宥赦免を加え、原免本のごとし。又これを犯せば、すなわち関東に遣わし、夷島に遣わすべし。永く帰京すべからず。これまた死罪にあらず。将軍奉請云々。人もって甘心す。・・・・」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○建久二年(1191)検非違使・日野資実の日記「都玉記」に書き記された文。検非違使の捕らえた強盗が鎌倉幕府に引き渡され、さらに夷島に流刑にされる、という内容である。
 

3 沙汰未練書 【「沙汰未練書」に記載されている東夷成敗】

一、六波羅トハ、洛中警固並ビニ西国成敗ノ御事ナリ
一、鎮西九国成敗ノ事、管領、頭人、奉行、六波羅ノ如ク此ニ在リ
一、東夷成敗ノ事、関東ニ於テ其ノ沙汰有リ、東夷トハ蝦子(エゾ)ノ事也
以上、此等ノ如キ御成敗、武家ノ沙汰ト云。
※参考文献:津軽秋田安東一族

○ 鎌倉末期の幕府の法律書「沙汰未練書」に「東夷成敗」について書かれていて、東夷とは蝦夷のことだと明記してある。東夷の成敗(処理)は、京都六波羅探題の西国成敗、鎮西探題の九州成敗と並ぶ鎌倉幕府の三大政務の一つであった。
 

4 日蓮聖人遺文 【建治元年(1275)、種種御振舞御書、三三蔵祈雨事】

「種種御振舞御書(佐渡御勘気御抄)」
武家は其事知ラずして調伏も行はざればかち(勝)ぬ。今又かくの如クなるべし。ゑぞ(蝦夷)は死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁ヘ堂塔多く造りし善人也。いかにして頸をばゑぞにとられぬるぞ。是をもて思フに、此御房たちだに御祈リあらば入道殿事にあひ給ぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。さいはざりけるとおほせ候なと、したゝかに申シ付ケ候ぬ。

「三三蔵祈雨事」
而に 去文永五年の此、東に浮(俘)囚をこり、西には蒙古よりせめつか(責使)ひつきぬ。日蓮案シテ曰く、仏法ヲ不信なり。定て調伏をこわれんずらん。調伏は又真言宗にてぞあらんずらん。かく法華経はめでたく、真言はをろそかに候に、日本のほろぶべきにや、一向真言にてあるなり(中略)真言をもって蒙古とえそ(蝦夷)とをてうふく(調伏)せは、日本国やまけ(負)すらんとすひせ候ゆへに、此事いのち(命)をすててい(言)ゐてみんとをもひ(思)しなり。
※参考文献:主に新青森市史通史第一巻原始・古代・中世

○種種御振舞御書では、蝦夷沙汰代官である安藤五郎が信仰にあつい人間だったこと、蝦夷に首を取られた(敗死した)ことが書かれている。三三蔵祈雨事では文永五年(1268)、元が日本に通交を迫ったこと、蝦夷の蜂起が国難であるという日蓮の認識が書かれている。
 

5 地蔵菩薩霊験記、安藤五郎 【「地蔵菩薩霊験記」に記載されている日の本将軍安藤太郎】

「往日鎌倉ニ安藤五郎トテ武芸ニ名ヲ得タル人アリケリ。公命ニヨリ夷島ニ発向シ、容易夷敵ヲ亡、其責ヲソナヘサセケレバ、日ノ本将軍トゾ申ケル、サレバ夷ドモ年毎ニ貢ヲゾ奉リヌ」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○ 南北朝後期の〈地蔵地蔵霊験記−建長寺地蔵夷嶋遊化事〉には夷狄を成敗した日の本将軍、安藤五郎が描かれている。物語は、鎌倉建長寺本尊の地蔵が姿を変え、北海道方面にまではるばる布教のためにやってきたという内容である。
〈あらずし〉
 その昔、鎌倉に安藤五郎という武者がいた。公命を受けて夷嶋に発向。容易に「夷敵」を滅ぼして、その貢ぎ物を供えさせることに成功して、日の本将軍と呼ばれるようになり、夷(アイヌ民族)は毎年、貢ぎ物をもって海峡を渡ってくるようになった。
 ある年、安藤五郎のところに、アイヌたちが貢物を持ってやってきた。五郎はアイヌたちに日々頃拝んでいる地蔵菩薩を見せたところ、こういう姿の人なら我が国にもいる。「カシラハケノ小天道」といって頭に毛のない小坊主で、ちょこちょこ走り回っては悪戯をする、という。
 ぜひとも捕まえて参れと五郎は命令した。次の年、アイヌが小天道を捕まえて連れてきた。篠竹で編まれた籠を開くと、小天道の姿形もなく一本の錫杖だけが残されていた。
 鎌倉にある建長寺の地蔵の錫杖が盗まれて捜していたが、安藤五郎が建長寺に持っていった小天道の錫杖はその地蔵のものだった。このことを見聞した人々は、建長寺本尊の地蔵尊が小坊主に化けて、北方の夷どもに布教するために赴いたのに違いないと語りあったという。
 

6 保暦間記 【元亨二年(1322)、安藤氏の乱勃発】

元亨二年の春奥州に安藤五郎三郎・同又太郎と云者あり。彼らが先祖安藤五郎といふは、東夷の堅めに、義時が代官としてつかはし置きたりしそのすゑなり。此両人相論する事あり。高資数々賄賂を両方より取りて、両方へ下知をなす。彼等か方人の夷等合戦をす。是に依て、関東より打手を度々下す。多の軍勢亡ひけれとも、年を累て事行す。承久三年より以来、関東の下知する事、少も背事なか(リカ)き。賤者まても御教書なとを帯することを軽しむる事、□しに高資政道不動に行くにより、武威も軽く成、世も乱れそめて人も背き始し基なりけり。
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○惣領相続をめぐる相論(両家の支配地)から、安藤氏の内紛が勃発した(西浜を根拠地とする惣領又太郎季長と外浜を根拠地とする五郎三郎季久の争い)。幕府の実権を握る長崎高資は、双方から賄賂を取り、それぞれに耳ざわりのいい下知をして、一向に裁決をしないため、争いを鎮めることができなかったという。
 

7 諏訪大明神画詞 【東夷蜂起して奥州騒乱、安藤氏の乱の様子】

当社の威神力は末代也と云へとも、掲焉なる事多き中に元亨・正中の此より嘉暦年中に至るまて、東夷蜂起して奥州騒乱する事ありき。
蝦夷ヵ千島と云へるは、我国の東北に当て大海の中央にあり。日のもと・唐子・渡党、此三種各三百三十三の島に群居せりと。一島は渡党に混す。其内に宇曾利鶴子別と前堂宇満伊犬と云小嶋ともあり。此種類は多く奥州津軽外浜に往来交易す。
夷一把と云は六千人也。相聚る時は百千把に及へり。日の本・唐子の二種は、其地外国に連て、形躰夜叉の如く変化無窮なり。人倫・禽獣・魚肉を食として、五穀の農耕を知す。九訳を重ぬとも語話を通し堅し。渡党は和国の人に相類せり。但鬢髪多して遍身に毛を生せり。言語俚野也と云とも大半は相通す。(中略)
根本は酋長もなかりしを、武家其の濫吹を鎮護せんために、安藤太と云物を蝦夷の管領とす。此は上古安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。其子孫に安藤五郎三郎季久又太郎季長と云は従父兄弟也。嫡庶相論の事ありて、合戦数年に及ふ間、両人を関東に召て理非を裁決之処、彼等か留主の士卒数千夷賊を催集之。外浜内末部・西浜折曾関の城廓を構て相争ふ。両の城嶮岨によりて洪河を隔て雌雄互に決しかたし。因茲武将大軍を遣て征伐すと云へとも、凶徒弥盛して、討手宇都宮の家人紀・清両党の輩多以命を堕き。漸深雪の比に及ぬ。貞任追討の昔の如く年序をや累んと、衆人怖畏を致所に、(中略−大明神が龍となり現れた−)爰に季長か従人忽に城郭を破却して甲をぬぎ、弓の弦をはつして官軍の陣に降りぬ。三軍万歳を称して則関東に帰けり。(後略)
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○軍神として名高い諏訪大社の縁起には、北方の動乱に際して神威をふるった例として、安藤氏の乱のことが記録された。また、当時の蝦夷についての認識が書かれている。外浜内末部の城は、現青森市奥内地区にある内真部館・同山城等を指すと推定されている。宇都宮氏家人の紀清両党は、益子氏・芳賀氏。津軽蝦夷蜂起・安藤氏の乱についての記事は、縁起三巻下巻にあり、諏訪大明神の「本朝擁護ノ神特」、異夷降伏ノ霊験」が示された近年の事件として、神功皇后の三韓征伐や坂上田村麻呂の蝦夷征伐と並んで記されている。
 

8 安藤宗季譲状 【正中二年(1325)九月、安藤宗季、諸職を子犬法師らに譲渡】

安藤宗季譲状(新渡戸文書)
ゆつりわたす、つかるはなハのこほり(津軽鼻和郡)けんかしましりひきのかう(絹家島尻引郷)・かたのへんのかう(片野辺郷)、ならひにゑそのさた(蝦夷の沙汰)、ぬかのふうそりのかう(糠部宇曾利郷)、なかはまのミまき(中浜御牧)、みなと(湊)いけ(以下)のちとう(地頭)御たいくわんしき(代官職)の事
みきのところハ 宗季せんれいにまかせて、さた(沙汰)をいたすへきよし、御くたしふミ(下文)を給ハるものなり。
しかるを、しそくいぬほうし(犬法師)一したるによて、御くたしふミをあいそゑて、ゑいたいこれをゆつりあたうるところなり、宗季いかなる事もあらんときハ、このゆつりしやうにまかせてちきやう(知行)すへきなり。たゝしうそりのかうのうち、たや(田屋)・たなふ(田名部)・あんとのうら(安渡浦)をハ、によし(女子)とらこせん(虎御前)いちこ(一期)ゆつりしやうをあたうるところなり。よてゆつりしやうくたんのことし。
正中二年九月十一日 宗季(花押)
※参考文献:本文は、主に浪岡町史第一巻史料。解説は「四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏」斉藤利男氏。

○安藤宗季の譲状。当時の安藤氏の拠点となる地域を知りうる点で貴重。譲状の筆頭にあげられている「尻引郷」は、同地区に奥州藤原氏に関連すると考えられている「中崎館遺跡」があり、北条氏直轄地である藤崎(平川対岸)に隣接することから、「蝦夷管領」の政庁の地と推定される。「宇曽利=下北地方」が安藤氏の支配下にあり、娘に中心地を一代譲渡していることが注目される。「湊」は蝦夷地との交易で重要かつ「みなと」だけで通じる著名な「十三湊」。「中浜御牧」は西浜と外浜の間にあり、津軽海峡に面している中浜(現今別町~旧三厩町一帯)。安藤宗季の所領はこの他に本拠であった外浜がある。
 宗季(季久)は、執権北条高時から蝦夷沙汰代官と安藤氏惣領家に伴う所領を安堵されてから三月後に、子息高季に譲状を書き不測の事態に備えた。翌年、安藤季長との戦いが再燃する。また、この時点で安藤高季(犬法師)は元服前であったことがわかる。
 

9 安藤宗季譲状 【元徳二年(1330)六月、安藤宗季、西浜を子息高季に譲渡】

安藤宗季譲状(新渡戸文書)
ゆつりわたす五郎太郎たかすゑ(高季)ニ、みちのくに(陸奥国)つかるにしのはま(津軽西浜)〈せき・あつまゑをのそく〉事
右、くたんのところハ、むねすゑ(宗季)はいりやう(拝領)のあいた、かの御くたしふミをあいそへて、しそくたかすゑニ、ゆつりあたふるところ也、たのさまたけなくちきやうすへし。又いぬ二郎丸か事、ふち(扶持)をくわへていとをしくあたるへし。ゆめゆめ(原文くりかえし~)このしやうをそむく事あるへからす。よてゆつりしやうくたんのことし。
元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)
※参考文献:主に浪岡町史第一巻史料

○安藤氏の所領のうち、現在の西海岸地方についての譲状。安藤季長が支配していた地域も宗季に安堵されたことがわかる。また、この時点で安藤高季は元服し、弟家季(犬二郎丸)は元服前であったことがわかる。
 

10 保暦間記−顕家下向 【元弘三年(1333)八月、北畠顕家、陸奥守に任じられ多賀国府へ】

「・・・・東国の武士、多く出羽みちのくなどを領して、その勢いもかつ強ければ、これを取放さんと議して当今(天皇)の宮と一所に下し奉すべしとて、国司にはかの親王(護良)にしたしきちなみありける、土御門入道大納言親房の息男顕家の卿をなして、父子とも下さる。まことに関東の侍も多くつきてぞ下りける。かの両国は日本の半ばにも及びなんずるようにいひければ、かくの如くはからひ給ひけるもいはれあり」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○後醍醐天皇は鎮守府将軍足利尊氏の対抗策として、北畠顕家を陸奥守に任じ、義良親王を奉じて多賀国府へと下向させた。安藤氏関連本によく載る「かの両国(出羽・陸奥国)は日本の半ばにも及びなん」のフレーズのある文章である。南部師行も顕家に従い下向した。
 

11 安倍祐季書状 【建武元年(1334)と推定、安藤祐季から南部師行への手紙】

安倍祐季書状」 (新渡戸文書)
御上洛之後 久不承候之間 無御心本相存候之處 先日安東入道便 宜にこそ御下之由承候へ 無為に御下向候へは 一身之悦と存候 尤入御見参に諸事可承候處 兼令申候治部左衛門太夫にあたされ候て 一両年合戦に候 干今無隙候之間 乍思無其儀候篠 背本望候 世間静謐候者懸御目候て 此間事等承又可令申候」 一雖主少候 筯黒一尻 同保呂一鳥令進候 尚々少事之至不少其憚候 恐々謹言
二月廿日 安倍祐季(花押) 謹上 南部殿
※参考文献:尻八館調査報告書

「後上洛の後、久しく御様子がわからなく、心もとなく思っておりましたが、先日、安東入道からの便りで、無事お下りの由うけたまわりましたので、この上ないことと喜んでおります。いろいろとお話しもお聞きしたいのですが、かねて申し上げておりますとおり、治部左衛門大夫に攻められて一両年合戦中で、今も閑がありませんので、なかなか思うようになりません。世間が静かになれば、お目にかかって、いろいろお話しをうかがったり、申し上げたいと思っております。少々ですが、鷲の羽と鷹をお送り致します。
 二月二十日 安倍祐季(湊安藤祐季)謹上南部(師行)殿」(意訳)
※参考文献:津軽秋田安東一族

○安藤祐季が南部師行に鷲羽と鷹を贈っていて、旧知の間柄だったことがわかる。この書状は、建武元年六月の「入道跡注文」の裏書のある紙に書かれている。文中の「安東入道」は安藤宗季であると遠藤巌氏は見ている。だとすれば、宗季は高季に惣領の座をゆずり、自らは中央で活動していたのではないか、という説の根拠となっている。鈴木満氏は「津軽安藤氏研究の一視角」(37)で師行ではなく政長に宛てたものとしている。当時の二人の動向を分析しての結論のようだ。
 

12 北畠顕家袖判下文 【建武元年(1334)三月、安藤高季に勲功の賞として新思地給与を行う】

北畠顕家 花押)
下 津軽平賀郡
可令早安藤五郎太郎高季領知、當郡上柏木郷事
右、為勲功賞所被宛行也、任先例可致其沙汰之状、所仰
如件、
建武元年三月十二日

※参考文献:奥羽から中世をみる、斉藤氏「四通の十三湊安藤氏相伝文書と八戸南部氏」

○安藤高季が建武政権下で陸奥守北畠顕家から「勲功賞」(元弘三~四年(1333-4)の津軽大光寺合戦の恩賞)として与えられた津軽平賀郡柏木郷の証拠文書で、新思地給与を受けている。
 

13 北畠顕家御教書 【建武元年(1334)六月、北畠顕家、津軽安藤氏等の動向について師行に指示】

北畠顕家御教書(南部家文書)
「師行 六月十二日国司返書」
(花押)北畠顕家

(第六項目)
一、 外浜明師状入見参畢。重々述懐申歟。式部卿宮と自称候し悪党人、最前相憑之由、載白状間、雖不能御抽賞、如今令申者到忠節之所存候歟。然者争無別御沙汰哉。且云当時云向後、可致忠之由、内々猶可被加教訓候。去春は偏被任御使注進之間、実又参差御沙汰も候つらん。然而地下事、いかにとして委細は被知食候はんそ。一往先被任御使注進て、有懇申之輩者可被改。此上御使私曲露顕者、可被罪科にて候。惣御沙汰之法也、更非公方之御私曲、可被察申歟。所詮向後殊存忠節者、尤以神妙候歟。

一、安藤五郎二郎事、所存之趣、旁以非無疑貽候。所詮外浜を押領之志候歟。足利方へは自国方預由を申候、国方へは自足利方預之由称候歟。彼密事、一箇条も旁不審無極候。京都へは具被申畢。忠重問事、先度被仰畢。相称被失候はて可被進候也。且自京都も被召事も候歟。猶々必可被進候也。就之五郎二郎も別心候はて、存報国之忠者、外浜等事も公家へも足利方へも被申談はなと、一方をも無御計之道候哉。而如当時いかさまにも有異心歟、然而湊孫次郎并明師等不同心合力者、家季一身無指事歟。内々得此意、可被廻方便歟と思食候也。多田は彼堺事不知案内歟。平賀は多田にも不和。結句又安藤五郎二郎とも不和事出来歟之由、其聞候之間、被召返候也。所詮当時安藤一族強無異心之色歟。而家季一身造意非無疑。国之御大事に候へは、能々可被廻思案候。如何さまにも明師・祐季を能々可被誘仰歟之由、思食候也。(後略)
六月十二日 大蔵権少輔清高
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○ 一、外浜明師が「式部卿宮」と称する者を当初は利用価値があるものと思い寄せていたが、騙されとわかり、陸奥守北畠顕家にことの始終を白状してきたので、今回は不問に期すことを南部師行に知らせている。
 二、顕家は、津軽方面、とくに安藤氏の動向には細心の注意を払っていた。顕家は、安藤五郎二郎(家季)を、外浜を横領する志があると疑いの目で見ている。その五郎二郎の行動は「所領について、足利方へは国司方(顕家)より預かっているといい、国司方へは足利方より預かっている」という具合で、みずからの外浜に対する権利を、対立する二つの上位権力に二股をかけて巧妙に主張している。
 顕家は、南部師行に、安藤家季に注意し、家季に影響を与えることができる湊孫次郎祐季と外浜明師を国司方から離さないように指示した。
 

14 北畠顕家国宣 【建武二年(1335)三月、南部師行に、内摩部郷等所領を宛行う】

北畠顕家国宣 (遠野南部文書)
(花押)
外浜内摩部郷并未給村々泉田湖方中沢真坂佐比内中目等村
被宛行南部又次郎師行同一族等候 可沙汰付之由被仰政所畢
然而莅彼所 無事之煩 可令沙汰付者 依仰執達如件
  建武二年三月十日 大蔵権少輔清高奉
   尾張弾正左衞門尉殿
※参考文献:青森県埋蔵文化財調査報告書第158集 内真部(4)遺蹟

○外浜の内真部(内摩部)郷の地名は、泉田が蓬田「現、蓬田村」、湖方(潮方)が後潟「現、青森市後潟~外ヶ浜町」、中沢「蓬田村中沢」、真坂が前田「青森市奥内地区」 〈註1〉 である。そして、給主のいない村々として、佐比内は中津軽郡・中目は南津軽郡〈註2〉にある。このように散在した村々を宛行われたことになる。内真部には安藤氏一族の城館が存在する。蓬田に蓬田城・後潟に尻八館があり、潮潟安藤氏の城館。そして、内真部に内真部館跡湯ノ沢館跡、前田に前田蝦夷館跡があり、安藤氏の城館である。
 新編八戸市史通史編Ⅰ(2015)では、北畠顕家が師行と一族にこれら所領を宛行ったのは、この年の「津軽中の尋沙汰」として、北条氏残党を征圧するための行軍に便宜をはかるためだったと分析している。とはいっても、自分の生まれた地を南部にくれてやった顕家を安藤高季や家季がどのように思うかは歴然としている。
 沙汰付を尾張弾正左衞門尉が行っているが、外浜は足利尊氏が惣地頭であり尊氏の現地代官として外浜にいた。尾張氏は奥州惣奉行斯波家長の一族で、足利氏の血族である。尾張弾正は大光寺合戦の「合戦奉行」であり、持寄城合戦の際の降人2名を預かっている。
  • 註1:「角川 日本地名大辞典2 青森県 S60.12.8」では、青森市前田の[中世]の項に、『真坂』南北朝期に見える地名として、北畠顕家国宣を合わせて記載している。
  • 註2:佐比内は現弘前市小比内か?中目は南津軽郡藤崎町中野目という資料がある。

15 北畠顕家国宣 【建武二年(1335)閏十月、安藤高季に、所領を安堵】

陸奥国宣 (新渡戸文書)
(北畠顕家花押)
陸奥国津軽鼻和郡絹家島・尻引郷・片野辺郷、糠部宇曽利郷、中浜御牧、湊郷以下、同西浜(除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関・阿曽米等村、)地頭代職事
右、安藤五郎太郎高季守先例、可令領掌之状、所仰如件、
建武二年閏十月廿九日
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○安藤氏の活躍に対して、北畠顕家はその旧領(高季が父宗季から譲り受けた地)を安堵した。ただし、この安堵状には蝦夷沙汰代官職については書かれていない。
 

16 浅利清連注進状 【建武五年(1338)五月、浅利清連、鹿角郡での戦いと曽我貞光の軍功注進】

浅利六郎四郎清連注進の事
去る建武三年正月十三日、清連国司方凶徒等を退治せしめんがため、津軽中に馳せ越すのところ、曽我太郎貞光、最前御方に馳せ参じ、津軽中の国代等の楯々において軍忠をぬきんず。ついで比内郡凶徒新田彦次郎正持等、ならびに鹿角郡国代成田小次郎左衛門尉頼時、同じく南部又次郎師行代官等小笠原四郎・鳴海三郎二郎以下の凶徒等、誅伐せしむるより以来、度々忠節にぬきんずるの間、恐々注進を致さしむるものなり。この旨をもって御披露有るべく候。恐惶謹言。
 建武五年五月十一日  源清連 (裏花押)
 進上 御奉行所
※参考文献:新編八戸市史通史編Ⅰ (表記を一部改変)

○浅利清連は比内郡の豪族。足利方の合戦奉行として、津軽での戦いにも参陣していた。建武三年正月の合戦は、南北朝内乱の皮切りとなったもので、安藤家季らが南部師行政長らと戦っている。次は建武四年七月の鹿角郡での南朝方成田頼時らとの合戦が報告され、これら一連の合戦で曽我貞光が抜群の勲功を立てたと、奥州総大将石堂義房に報告している書状である。また、「比内郡凶徒」とされている新田正持は南部政長の子、他に鹿角国代南部師行代官の名が文面にあり、根城南部氏が比内・鹿角に進出している様子がわかる。
 

17 曽我貞光申状 【暦応二年(1339)十一月、曾我貞光、尻引楯・尾崎合戦での軍忠を注申】

曾我貞光申状 (南部家文書)
目安
曾我太郎貞光軍忠次第事
一、去六月安藤四郎以下御敵等、尻八(引)楯打入、依令至合戦。御奉行発向之時、同心致軍忠之間、若党中間等、或打死、或手負。分取不及注文御披見候了。
同九月廿三日、又御敵等貞光楯寄来之時、若党矢木弥次郎・同太郎・中野弥八・野呂彦八・恵藤三郎・中間二郎太郎打死仕候了。同十月、尾崎合戦之時、分取五人仕候了。其外毎度合戦於軍忠者、不可勝計。仍賜御判形、為備後証。粗目安言上如件。
暦応二年十一月一日
「承候了(花押)」
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○安藤氏には安藤四郎のように、足利氏方となった嫡流家とは違い国司方(北畠顕家方)となった者もいた。この申状の「御敵等、尻引楯打入」を「尻八楯」と誤訳されたことが、青森市後潟にある山城を「尻八館」と呼んだ経緯の一つとなった。この貞光申状にある御奉行(合戦奉行)は安藤高季である。安藤四郎が高季の楯に攻め入り、曽我貞光が救援に行ったことが書かれている。
 

18 足利尊氏御教書 【貞和二年(1346)十二月、足利尊氏、南部政長降参と対応指示】

南部遠江守(政長)降参の事、注進の状につき御教書をなすところなり。この上の儀は、よろしく計い沙汰有るべきの状くだんのごとし。
 貞和二年十二月廿一日 御判 (足利尊氏)
  右京大夫(吉良貞家)殿
  右馬権頭(畠山国氏)殿
※参考文献:新編八戸市史通史編Ⅰ (表記を一部改変)

南部政長は、貞和二年(1346)二度にわたって足利直義からの軍勢催促状を受け取った。その内容は足利方についたら本領を安堵し、あるいは本領は政長の申請どおりといったもので、事実上の降伏勧告である。かつて南朝方だった有力武士もすでに北朝方に転じてしまっている。ついに政長は足利方に帰降し、将軍足利尊氏の御教書が奥羽管領の吉良・畠山両氏に下されることになった。
 

19 南部政長譲状−信光へ 【正平五年・観応元年(1350)八月、南部政長、八戸を嫡孫信光に譲渡】

譲渡す
  陸奥国糠部郡内
八戸
右、かの所は、勲功の賞たる間、政長知行せしむるを、信光に譲あたふる物なり。かの譲状を守りて、拝領すべし。
 正平五年八月十五日
  前遠江守源政長(花押)
※参考文献:新編八戸市史通史編Ⅰ (表記を一部改変)

南部政長は死去する年に、所領八戸を自身の嫡孫信光に譲っている。信光の父信政は、政長に先立って没していた。譲状からは、八戸全域が政信の所領であること、政信の勲功の賞として獲得し南朝も認めているものだという主張がうかがわれる。本譲状は北朝元号である「観応」ではなく、南朝元号である「正平」で記されていて、政長の思いが伝わる。
 

20 南部政長譲状−後家へ 【正平五年・観応元年(1350)八月、南部政長、七戸を嫡子信政の妻・後家(加伊寿御前)に譲渡】

譲渡す
  陸奥国糠部郡内
七戸
右、かの所は、勲功の賞たるによりて、政長知行せしむる間、後家に譲るところなり。ただし政光成人せは、半分は給ふべし。いま半分をは、一期の後二人の子供のなかに、心さしあらんに給ふべし。
 正平五年八月十五日
  前遠江守源政長(花押)
※参考文献:新編八戸市史通史編Ⅰ (表記を一部改変)

南部政長は死去する年に、所領七戸を自身の嫡子信政の妻に譲っている。信政は、政長に先立って没していることから「後家」へという文言になっている。この後家は「加伊寿御前」と称され、津軽黒石近辺の地頭代だった工藤貞行の娘である。文面は後家へ七戸を譲り、政光(信光弟・信政の子)が成人した際に、七戸の半分を政光に譲るように書かれている。そして、後家の一生を終える際に後家の持つ七戸の半分の所領を信光・政光のいずれかに与えよ、としている。後家は七戸を政光に譲ったと推定されている。
 

21 安東太、出羽国小鹿嶋の沙汰付 【延文二年(1357)六月、安東太、安藤孫五郎入道押領地の打渡を命じられる】

曽我上野介時助申出羽国小鹿嶋事、訴状具書如此、安藤孫五郎入道立還遵行之地押領云々、
尤招罪科欺、所詮安東太相共莅彼所、沙汰付下地於時助代、可被執進請取、
使節緩怠者、可有其咎之状、依仰執達如件、
 延文二年六月八日 沙弥(花押)
   曽我周防守殿
※参考文献:津軽安藤氏研究の一視角、解説:津軽秋田安東一族

○奥州管領石橋和義文書。当時、曽我上野介時助の所領となっていた、出羽国・小鹿島に安藤孫五郎入道が立ち還り、その地を押領したので、曽我時助は訴えでた。石橋和義は、曽我周防守と安東太の二人に現地にのぞみ、押領地を時助代官に返却させるよう命じた。曽我周防守は津軽南部の有力者。孫五郎沙汰付は、出羽国の所領であるが、国内にしかるべき国人がいなかったようで、訴人時助と同族である津軽南部の有力者曽我周防守と、津軽合戦奉行の経歴を持つ安藤太郎師季に命じたようだ。
 

22 後村上天皇綸旨 【正平十六年・康安元年(1361)十一月、後村上天皇、南部信光の軍忠を賞す】

今度の合戦に忠節を致すの由、聞こし食されおわんぬ。もっとももって神妙、御感少なからずてへれば、天気かくのごとし。これをつくせ。もって状す。
 正平十六年十一月九日 左中将 (花押)
 南部薩摩守(信光)館
※参考文献:新編八戸市史通史編Ⅰ (表記を一部改変)

○文中の「今度の合戦」は、正平十六年・康安元年(1361)冬に「奥州管領が糠部出陣のため軍勢を集めた」ことから、その戦を指すものと考えられている。戦闘の模様は不明とのこと。南部政長が貞和二年(1346)十二月に足利方に降りた、と足利政権から見られていたが、政長の孫の代(信光)まで南朝方としての活動が続いていたことになる。関連して、観応二年(1351)十月に南朝方は多賀国府を奪回しているが、この合戦にも根城南部氏が参陣していることは確かと見られている。出陣命令とされる北畠顕信書状が遠野南部氏に残されていることと、文和四年(1355)三月に信光が北畠顕信によって大炊助に推挙されていて、国府をめぐる合戦の恩賞と推定されている。
 

23 十三往来−十三湊の繁栄 【「十三往来」に記載されている十三湊の様子】

「・・・・十三湊ニハ館ヲ構へ御目代ノ居館有リ千軒ノ町モ有リ。東山ノ野沢ハ渺々(びょうびょう)タル牧也。数千匹ノ馬ドモ麋鹿(びろく)ヲ交テ思々ノ勇ヲナス。・・・・滄海漫々トシテ夷船、京船(唐船)群集シテ艫先(へさき)ヲ並ベ調舳(ちょうじく)湊ニ市ヲ成ス。又浜ノ大明神ノ社宝ヲ拝シ奉レバ、甍ヲ並ル、玉ノ籬(まがき)立チ囲ム神殿ノ床十四丈ニ厳遠鳥居ヲ立テ其間ニ切石ヲ畳テ瑠璃之扆(ついたて)ニ異ラス・・・・」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○「夷船、京船(唐船)群集シテ艫先ヲ並ベ調舳湊ニ市ヲ成ス」。この下りは、このころの十三湊のにぎやかな港の風景を伝えている。
 

24 秋田湊氏文書−永享夷狄蜂起 【「湊金左衛門許季覚書」に記載されている安藤鹿季の奮闘】

「応永、永享のころ、夷狄蜂起する時、上方、関東にも兵乱打続き、騒動によりて誰人も命を承りてこれを防ぐ人ござなく、いよいよ蜂起致すにつき、安倍康季、同鹿季討って出、下知し候へば、夷狄恐れて逃散候事度々なり。夷狄攻め上るの由、京都に隠れなく、北国の国々まで仰せつけられ候とや。しかれども康季、鹿季に恐なしの旨、聞しめされ、重ねて仰せを蒙り、ことごとく退治つかまつり、奧筋相鎮まり候由、その後、康季上京参内の刻、忠節を致すの旨御感あり、日下将軍を賜わり、いよいよ夷狄を随へ申すべしと勅諚の旨、申し伝え候」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○文中の安倍康季・鹿季は安藤盛季・鹿季兄弟のことが誤って伝えられたもので、同様に〈蒼竜寺文書〉には「時に康季、及びその弟庶季(もろすえ)兵を率いて夷賊を誅ちて大功あり。」と書かれている。本文書でも康季となっているものの、二人は兄弟であることがわかる。
 

25 北海夷狄大動乱の史料3件【「秋田風土記」、「奧南落穂集」、「秋田湊文書」】

その1 「秋田風土記」秋田郡土崎湊 蒼龍寺
今天徳寺秋田実季実季菩提処なり、応永年中四朔日、関東の諸国兵乱、於是北海夷狄大ニ動乱を起し止む時なし、康季及ひ弟鹿季、兵を帥ひ夷狄を誅し大功あり、重て将軍康季・鹿季へ賜ふ、両将とも夷狄征伐の事を司る、

その2 「奧南落穂集」秋田城介ノ事
二男ノ安東次郎庶季(鹿季)、足利義満公に謁し、応永元年出羽ニ兵ヲ出シ、秋田城介顕任ヲ討亡シ、秋田ニ移住ス、秋田城介ト称シ、

その3 「秋田湊文書」秋田家先祖覚書(元禄期に八戸藩南部家中湊季明から秋田藩佐竹家中湊許季にあてた覚書)
一、安倍氏中興と申ハ、安倍康季・同鹿季兄弟也、応永之末より北海(今日松前)夷狄大起、此時関東之諸国とうらんやます、于時康季及其弟鹿季、自帥兵、誅夷狄大有功、康季奥州十三湊日下将軍ヲ賜リ、十三湊居住、号下国殿、是秋田太郎実季先祖是也、湊鹿季を号九郎、武勇力量太勝強弓精兵所申伝也、伴誅賊大ニ有功、其勧賞ニ秋田物任湊城住、
※参考文献:中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~

○「秋田風土記」と「秋田湊文書」で「康季及び弟鹿季」とあるが、鹿季は盛季の弟であり、年代的にみても盛季・鹿季兄弟とするのが正しい。室町幕府将軍(足利義満)に命じられての蝦夷鎮圧であったこと、康季 盛季は「奥州十三湊日下将軍」と呼ばれたこと、鹿季も秋田城介を継承し、秋田氏の祖となることがわかる。
 

26 安藤陸奥守の将軍義量への献納物 【応永三十年(1423)四月、将軍足利義量、安藤陸奥守の献納物を賞す】

後鑑 巻之百三十六
四月大
七日 丁巳 賜御内書於安藤陸奥守某。
御内書案載
馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼(ががん)二万疋(一疋=10文)、海虎(らっこ)皮三十枚、昆布五百把到了。神妙候。太刀一腰、鎧五領、香合、盆、金襴一端遺之候也。
卯月七日
安藤陸奥守殿
※参考文献:主に浪岡町史第一巻史料

○安藤陸奥守は、安藤康季だとされている。鵞眼は銭のことで、献納物の中の銭だけで2,000万円相当になる。安藤氏は北方の産物を将軍義量に贈呈している。
 

27 満済准后日記 【永享四年(1432)十月、安藤氏、南部氏に敗れ、蝦夷島に渡海】

永享四年十月
廿一日、(中略)今日於小松谷被仰条々事、
一、奧の下国与南部弓矢事に付て、下国弓矢に取負、エソカ島へ没落云々。仍和睦事連々申間、先度被仰遺候処、南部不承引申也。重可被仰遺条可為何様哉。各意見可申入旨、畠山・山名・赤松に可相尋云々。仍三人に相尋処、畠山重可申入云々。山名・赤松は重可被仰遺条尤宜存云々。
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○幕府は南部氏に安藤氏との和睦を勧めていたが、南部氏はそれに同意せず、武力によって安藤氏を十三湊から北海道へ追いやった。満済准后・畠山満家・山名時熙・赤松満祐の幕閣が再度和睦を勧めるかどうかを協議した結果、和睦を勧めることとした。この後の将軍義教臨席の会議で、義教の意向も和睦を再度勧めることであったという。
 文中の「南部不承知」の南部が、三戸南部氏か八戸南部氏について、分析している本は見当たらなかったが、青森県史通史編1(2018)では、この後に幕府は八戸長安、守清(長安の子)に官位を与えた、これは幕府の懐柔策ではないかとしている。とすれば、幕府が安藤氏との和解を勧めた相手は、三戸南部氏ではなく、八戸南部氏ということになろう。

******************

永享四年十一月
十五日、次南部方へ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引申者、御内書等不可有其曲與事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事與、仍御内書可被成遺条、更不可有苦云々、以上畠山意見ニ、山名申事、南部方ヘ御内書事ハ畠山同前也、
※参考文献:中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~

○11月15日条には(10月21日の意見集約の結果を受けて)、一旦、南部氏に安藤氏との和睦を命じる将軍義教の御内書を出すことが決まったものの、もし、南部氏が承知しなかった場合は御内書の権威が落ちるとの意見が出て、11月10日、再度満済に検討を求められたが、「遠国の問題については、昔からそうしたことはしょっちゅう起こっているので、御内書を出すことに何ら問題はない」という意見を、畠山満家も山名時熙も出したので、満済はその旨を将軍義教に返答したことが記されている。
 

28 奥州下国殿之代々之名法日記【嘉吉元年(1441)、熊野郡那智神社の先達、安藤氏の系図メモを実法院に提出】

安藤又太郎宗季、其御子息師季、其子ニ法季、其子二盛季、其子ニ泰季と申、今の下国殿也。永享十二年(1440)ノ頃。嘉吉元年
※参考文献:安東氏下国家四百年ものがたり他

○米良文書(和歌山県熊野那智大社所蔵)の「奥州下国殿之代々之名法日記」によれば、嘉吉元年(1441)、紀伊国熊野郡那智神社の先達(尻引三世寺別当)が檀那・安藤氏の嫡流の系図メモを作成し、御師の実法院に提出している。熊野那智社の檀那となった氏族は一代に一度は那智社に参詣し、宝前に願文と系図を奉納するのが慣例であった。この系図は、当主の署名・花押に先達の署判を加えた正文が宝前に捧げられ、その写しが御師のもとに残されたものである(「日記)はメモ・記録の意味)。師季(高季)の父と書かれている宗季が譲状と合わせて、季久であること、高季の子・盛季の父が法季であることがわかる。

 安藤又大郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也、今安藤殿師季と申候也、

 この史料は、貞和五年(1349)一二月二九日「陸奥国持津先達旦那注進状案」、熊野那智大社文書である。師季が下国と号し、当主は又太郎と名乗っていたことがわかる。
※参考文献:伝承と史実のあいだに他
 

29 羽賀寺本堂上葺勧進帳 【永正11年(1514)、羽賀寺本堂上葺の勧誘文、青蓮院入道尊鎮法親王】

又經卅八年永享七年三月失火、衆徒等焦胸墔肝者領土、唯以本尊無恙、雖為懐餘哀未休タ、聞説、奥州十三湊日之本将軍、作壇契、寄巨多之棒、闋功匠成風之功然、然文安四季霜月十八日本尊遷座以来六十余年、于此今般欲致上葺勧誘、挙唱旧貫之旨、

また三十八年を経て、永享七年三月に失火あり、衆徒等胸を焦し肝を墔きたることは両度なり、唯だ以て本尊は恙無し、おもいをなすと雖も余哀は未だ休むことなかりき、説を聞き、奥州十三湊日之本将軍、壇契と作り、巨多の棒を寄す、功匠成風の功をおこること然り、然るに文安四季霜月十八日本尊遷座して以来六十余年、ここに今般上葺の勧誘を致さんと欲して、旧貫の旨を挙唱す
※参考文献:中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~

○羽賀寺本堂上葺勧進帳は、現存最古の羽賀寺縁起、原本は永正11年(1514)作、現存のものは大永4年(1524)頃、青蓮院入道尊鎮法親王の清書本とみられる。羽賀寺が永享七年(1435)三月に焼失したこと、奥州十三湊日之本将軍が、多額の経費をかけて羽賀寺を再建したことがわかる。それを指揮した安藤康季は日之本将軍と呼ばれていた。
 

30 新羅之記録 【安東政季の成り立ち、大畑から蝦夷島へ渡海】

伊駒政季朝臣者、十三之湊盛季之舎弟安藤四郎道貞之息子潮方四郎重季之嫡男也。 十三破滅之節若冠而被生虜糠部之八戸而改名号安藤太政季 知行田名部継家督 而蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉越智政通、以計略享徳三年(1454)八月二十八日 従大畑出船渡狄之嶋也
※参考文献:尻八館調査報告書

○安東政季が潮方重季の子であり、惣領家の血筋を引いていること。捕らえられてから八戸で元服し田名部を与えられ、その後蝦夷地に脱出することが書かれている。政季を渡嶋させた武田信広は松前氏の元祖となった。
 

31 松前記 【「松前記」に記載されているコシャマインの戦いでの武田信広奮闘】

「・・・・六月廿日大イニ七重浜ニ戦フ、衆寡敵セズ、我軍ココニ敗レントス。信広偽リ走ッテ朽木ノ中ニカクル、コシャマイン父子追従躡(ついじょう)ス。信広巨箭(きょせん)一発父子ヲオドシ、直チニ木中ヨリ跳リ出シ、大刀ヲ揮ッテ稗酋数人ヲ斬ル、我共ニ奮戦シ、大ニコレニ克ツ。余衆潰散、諸部震懼(しんく)ス」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○松前家記には、康正三年(1457)六月二十日、武田信広がコシャマインを倒した様子を書き記してある。総大将を討たれたアイヌ勢は占拠していた箱館を捨てて逃げ去った。
 

32 安藤師季(政季)願文 【応仁二年(1468)二月、安東師季、熊野那智大社に旧領回復の願文】

安藤師季(政季)願文 (熊野那智大社文書)
「熊野那智山願書 安東下野守師季」
奉籠
熊野那智山願書之事
右意趣者、奥州下国弓矢仁達本意、如本津軽・外濱・宇楚利鶴子遍地、悉安堵仕候者、重而寄進可申処実也。怨敵退散、武運長久、息災延命、子孫繁昌、殿中安穏、心中所願皆令満足。奉祈申所之願書之状如件。
 応仁弐年つちのへね二月廿八日 安東下野守師季(花押)
※参考文献:浪岡町史第一巻史料他

○熊野信仰の篤かった安藤氏は、旧領回復を願って熊野那智大社に願文を捧げた。願主師季は、安東氏の系図類に見える政季と同一人物とされる。通説では、「宇楚利鶴子遍地」を一つの地名とみて、「函館」としているが、現下北地方を指すという有力な異説がある。
 

33 李朝実録−夷千島王遐叉の書状【文明十四年(1482)四月九日、夷千島王遐叉から朝鮮国王への手紙】

「南閻浮(えんぶ)州東海路夷千島遐叉、朝鮮国王殿下に書を呈します」
「遐叉の国にはもともと仏法がなく、扶桑(日本)と通交してから仏法を知って三百年になる。扶桑の仏像・経巻はことごとく求めて所蔵している。しかし、扶桑には大蔵経はなく、従ってわが国にもない。久しい間、貴国から求めたいと願っていたが、海上はるかに遠く、今に至った。仏法は貴国から扶桑に伝わり、さらにわが国に伝わってきた。そこでぜひ大蔵経を賜わりたい。
 また、わが国は粗野ですが、西端は貴国に接しており、野老浦といっている。その地は貴国の恩計を蒙っているにもかかわらず、ともすれば反乱を起こす。貴国の命があれば、そこを征伐も致しましょう。
 貴国とは言葉が通じないので、わが国に住んでいる扶桑人(宮内卿)を使者とした。貴国を慕う気持ちは尽くせないが、まず第一船を派遣し、馬角一丁、錦一匹、練貫一匹、紅桃色綾一匹、紺布一匹、海草昆布二百斤を送ります」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○文明十四年(1482)、日本国王(足利義政)の遣使栄弘首座、また夷千島王遐叉の遣使宮内卿らが来朝して、献上品を棒呈した。この「夷千島王遐叉」なる人物が誰なのかが判っていないが、安東政季だとする説が有力であったが、近年の研究では「対馬島民の有力者」とみなされている。
 

34 新羅之記録 【安東尋季、蠣崎義広に松前守護職を承認す】

「(紺備後)、河北郡檜山ニ上リ、著シキ才覚ヲ廻ラシ、書札ヲ屋形ノ者ニ上レバ、政季朝臣ノ嫡孫ノ安東太尋季朝臣書状ヲ披見シ、使者の口上ヲ聞キ、狄ノ嶋ヲ義広(蠣崎光広嫡男)ニ預ケ賜ヒ、宜シク国内ヲ守護スベキノ由判形ヲ賜ヒ畢ンヌ。紺備後持チ還ル」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○永正十一年(1514)、蠣崎光広は、上の国から松前に居城を移した。檜山安東尋季に松前守護職を認めてもらう必要があった。光広は、紺備後という才覚者の牢人を起用して檜山に派遣し、紺備後は巧みに尋季に近づき、蠣崎光広松前守護職の承認を得た。ただし、願いを出した当の光広にではなく、その子義広からとしている。
 

35 信長、愛季へ鷹所望の書状【天正三年(1575)二月、信長、愛季に鷹を所望し鷹匠を派遣する】

雖未申通候、以書之次令啓候、仍為鷹所望、鷹師両人差下候、
往還諸役所・路次番并餌之事、無異儀被仰付候者可為歓悦候、
珍鷹・同易物出来候者御馳走所仰候上、御相応之儀承候者珍重候、
猶南部宮内少輔可申候、恐々謹言、
  二月廿日            信長(朱印)
        謹上 下国殿
※参考文献:伝承と史実のあいだに、解説:津軽秋田安東一族

○信長が愛季へ送った最初の書状で、鷹買いの鷹師派遣のための挨拶状。愛季は信長に下国殿と呼ばれている。
 「いまだお目にかかっておりませんが、まず書面でご挨拶します。鷹所望のため、鷹師二人を差し下します。往還の諸役所、路次番や餌のことなど異議なく仰せつけ下さい。珍しい鷹があればありがたいことです。詳しいことは南部宮内少輔が申し上げます。」 天正四年(1576)、贈られた鷹の返礼に、信長は紀新太夫作の太刀を愛季に与えている。名刀紀新太夫を贈られた愛季は、すぐ信長に返事を書き、改めて虎皮十枚を送り届けている。
 

36 三条西実枝書状【天正五年(1577)、安東愛季の官位に関わる三条西実枝の信長宛ての書状】

安倍愛季御執奉ノ趣キニツイテ、宿老中談合ヲ加エ披露致シ候処、彼先祖勅勘ノ証不分明ニ候条トイエドモ、所詮叙爵ノ儀宣下セラルベキノ由仰セ出ラレ、口宣案此ノ如ク候。彼ノ主面目ノ段ハ申スニ及バズ定メシ御大慶トナスベク候カ・・・・」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○天正五年(1577)、七月、信長は朝廷に働きかけて安東愛季に従五位下を贈らせた。この際に、愛季先祖の長髄彦は「日本書記」の逆賊であり、その子孫に叙爵することが公卿の間で問題になったことが、三条西実枝の信長宛ての書状によりわかる。
 

37 湊・檜山両家合戦覚書【天正十年(1582)二月、安東愛季と大宝寺義氏との由利口での合戦】

「・・・・大宝寺ト云ハ羽黒山ノ別当也、大宝寺ノ屋形ト云テ家高也、コトニ義氏ハ名将ト云々。一、愛季公ト義氏トノ合戦ノモトハ、由利十二頭ト云テ赤尾津一ツノ頭也。仁賀保、滝沢、岩屋、内越、潟保、鮎川、貝岡、玉米、下村、矢島、小石コレラ也。此トキ義氏ガ由利ヲ随フベシト云レタレバ、由利衆悉ク同心シタゾ。ソコデ愛季公、由利ガ義氏ノ領ニナレバ必ズ我国モ危ウカラント思テ、由利ヘ押寄セ、貝岡ムシナドヲバ、ハリ付ニカケ、仁賀保、内越、岩屋等ヲバ、ロウシヤトセラレ、サテ義氏ト愛季公ト由利ノイトヲケ山、虫掛、権現堂ナド云所ガ合戦ノチマタゾ。数度ニ及ンデ終ニ愛季公利ヲ失ハズ云々」
※参考文献:津軽秋田安東一族

○大宝寺義氏との由利合戦は、「湊・檜山両家合戦覚書」に合戦の大要が書き残されている。由利郡は、庄内の大宝寺氏と秋田安東氏との間にある。愛季は、大宝寺義氏の北進に手をこまねいているわけにはいかなかった。
 

38 秋田愛季に綸旨 【天正十二年(1584)六月、秋田愛季に、羽賀寺再興の綸旨】

門主傳二十四 (華頂要略十三所収)
龍池院二品法親王 諱尊朝 (十一年)九月十二日、若狭國羽賀寺之事、被遺御書於渡邊宮内少輔。十月廿三日、羽賀寺之事相整。珍重々々。十二月七日、羽賀寺之八木今日参著云々。(十二年正月)同廿九日、若洲羽賀寺為年禮両種二荷進上。六月十日、若洲羽賀寺之事、賜綸旨。
若洲羽賀寺之事、霊亀巳来勅願無雙之精舎歴然候哉。然處近國依錯乱、本堂以下破壊顛倒之由、被聞召候。尤被歎思食候訖。然則叡慮之趣、早被任其由緒、十三湊(秋田愛季)被告申。一寺之再造、以権勢之助成、可致其勵之旨、被加下知者可為神妙候。併為國祈、且御門葉之潤色可有此時之旨、天氣所候也。此由可令洩申青蓮院宮給候也。仍執達如件。
天正十二年六月十日 左中将判(中山慶親)
内大臣僧正御房
内大臣僧正御房 左中将慶親
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○秋田愛季に対して「十三湊」と呼びかけていることは注目される。愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季の子実季により成し遂げられた。
 

39 安東実季書簡【天正十七年(1589)五月二十三日、安東実季の援軍依頼書簡】

「一翰啓シ候、小介川殿取リサバキニ及バレ候トイエドモ落着ナク候、庄中調エ仰セラレ早速出張頼ミ入リ候由、赤尾津ヘ申シ越シ候、即チ兵庫頭殿(仁賀保)ヘモ書ニ及ビ申シ候、伯州ヘ御相談以テ一勢御助成候ニ取成任セ入リ候、ナオ彼ノ者申スベク候条略筆セシメ候」
※参考文献:津軽秋田安東一族

安東実季安東(豊島)通季・湊旧臣・戸沢勢に攻められ、檜山城に籠城した。その際の宛名知らずの援軍依頼、実季の必死の説得工作の書簡である。実季は、小介治部少輔に仲裁を頼んだがものにならない。なんとか由利十二頭で話し合って応援してもらいたい、という趣旨。
 

40 安東実季宛「最上義光書状」【天正十八年(1590)のものと推定されている実季宛「最上義光書状」】

「その郡殿下の御蔵所に成し置かれ候様にあらあら申し来たり候あいだ、一段心許なく存じ候ところに、貴前(安東実季)において聊かもこの儀ご存知なきの旨、石田治部少輔殿ご内通につきて、そこもと安堵の儀識察せしめ候」
(あなたの所領が秀吉様の蔵入地になるという情報が耳に入り心配していましたが、あなたはそのことを少しもご存じないということで、それを石田殿が秀吉様に内々に話して下さったおかげで、あなたへの安堵がはっきりしました)
※参考文献: 青森県史通史編1 原始・古代・中世

○天正十七年八月に、南部信直と上杉景勝に「秋田表に奉行を派遣して秀吉の蔵入地として、年貢収納にあたらせなさい」という秀吉の命令が、前田利家から南部信直に伝えられた。最上義光の書状は、これに関する豊臣政権の事情と安堵に至ったいきさつを実季に伝えたものである。これまでは、奉行派遣の命は、安東実季と豊嶋通季らとの湊合戦を「惣無事違反」として秀吉が怒ったためとの解釈がされていた。
 青森県通史1では、秀吉には実季の領知を没収する意図はなく、現地の情報を把握する前に、南部信直の上洛許可の書状内容を鵜呑みにして、秋田での混乱に対する対応策を信直に指示したものであると記載している。
 

41 蠣崎慶広宛「秀吉朱印状」【文禄二年(1593)正月五日、「蝦夷地での交易権の承認」】

松前に於いて、諸方より来る船頭・商人等は、夷人に対して地下人に同じく非分の儀、申し懸ける可からず。
並びに船役の事、前々より有り来たる如く、これを取る可し。
自然この旨に相背く族の者有らば、急度言上致す可し。
すみやかに御誅罰を加えなさる可きものなり。

文禄二年正月五日 (朱印)
 蠣崎志摩守とのへ
※参考文献: 新羅之記録【現代語訳】

○肥前名護屋で秀吉に謁見した蠣崎慶広は、秀吉から近江国に三千石を下賜されるが、それを断り国政の朱印状を願いでた。この朱印状の交付によって慶広は、事実上の蝦夷地支配者となり、大名に比肩される地位を獲得したことになる。その内容は、一、蠣崎氏の蝦夷地における交易権を認め、商船や商人は蠣崎氏に許可を得た者でなければ、交易を認められない。二、蠣崎氏には、これまで通りの徴収権をそのまま認める。また、蝦夷人に対しても、和人同様の待遇とするように。三、諸法度に背くものがあれば、秀吉がその処分を蠣崎氏に委任する。というものであった。
 

42 松前慶広宛「家康黒印状」【慶長九年(1604)正月二十七日、「蝦夷地支配承認」】

 定
一、諸国より松前へ出入りの者共、志摩守に相断らずして、夷仁と直に商売仕候儀、曲事と為さる可き事。
一、志摩守ニ断無くして渡海致し、売買仕候儀は、急度言上致す可き事。付、夷仁の儀は、何方へ往来候共、夷次第に致す可き事。
一、夷仁に対し、非文申懸は堅く停止の事。
右の条々若し違背の輩に於いては、厳科に処す可き者也。
仍って件の如し。
慶長九年正月廿七日 (黒印)
松前志摩守とのへ
※参考文献: 新羅之記録【現代語訳】

○この黒印状は、秀吉から交付された朱印状と内容的に大差はないが、以後代々将軍が交替する度に松前家が制書を受けることとなり、他の大名と同じ格付けをされるという慣例を作ったことになる。黒印状では、松前氏の交易独占権と徴収権を認め、さらに諸国が蝦夷と直接商売することを禁止して、蝦夷地の支配権を認めるという、また蝦夷人の支配権までは認めていない、という内容になっている。
 

43 青蓮院尊朝法親王書状【文禄四年(1595)五月二十一日、青蓮院尊朝法親王からの羽賀寺再興依頼の書状】

「先度使者ヲ以テ申シ候、若州羽賀寺ノ儀別シテ由緒ノ由ニ候。彼寺大破ニ及ビ候条此刻修理ノ儀下知ヲ加エラル者武運長久ノ祈念コレニ過グルベカラズ候。近日下向ノ由尤モ珍重ニ候、モシ逗留ノ事ニ候ハバ再会希フ所ニ候」
※参考文献:津軽秋田安東一族

安藤康季が再興した若狭国・羽賀寺が荒れ果て、文禄四年(1595)五月、秋田実季は、青蓮院尊朝法親王から羽賀寺の再建を依頼された。由緒とは羽賀寺は安藤康季が再興した寺であることを指す。同年六月二日付の法親王書状によれば、法親王は直接、実季に面談して羽賀寺修復を依頼している。

44 十三往来【南北朝時代(1336年~1392年)、著者未詳】

〈原漢文〉
 夫れ天竺には王舎城、震旦には長安城、我朝には平安城是三国相応の都なり。
 茲に親近、奥州津軽十三の湊は、新城に於いては肩を並ぶる城郭は坂より東に有るべからず。此の城郭は方八十町、柵の木を築廻し、内に面々要害を構ふるを莫大なり。外より見て明白なり。樊噲・養由の勇を成すも輙く弓を引き打ち、物取つて向ひ難し。
 其外景物の多き事は、八景に過ぎて、十景とも謂ふべし。
 東山の野澤は渺々たる牧なり。数千匹の馬共麟鹿を交へ、思ひ思ひの勇をなし、心々に遊び行く風情を見れば、誠に希代の景物なり。
 南は湖水濃々として、月は水底の暗を照らし、青波は静かにして魚捕りの便あり。遥かに岩木嶽を見れば、花は残雪を交えて遠眼に興じ、谷を出づる鶯舌は聞くに依つて近し、雲霞麓にたなびき、山の峰高くして大空に顯れ、誠に富士山を諍ふ程の名山なり。
 西は蒼海漫々として異船京船群集し、艫先を並ベ、舳を調べ、湊は市を成す。亦濱の大明神の社頭を拝し奉れば、甍を並べ、玉籬立囲みて、厳かに神殿の床は十餘丈、遠く鳥居を立て、厥の間切石を疊みて瑠り殿に異ならず。此の明神の本地を尋ね奉れば、東土淨瑠り世界の教主醫王の善聖跡を垂れ給ふ事歳久しく、十二大願の網を法界の海に張り、無縁の群衆を救はん為に、瓦礫塵砂に身を交へ、風波海邊に擔ひて、跡をたれ給ふこと寔に悲願頼敷靈社なり。
 北は深山に連なり、堂塔僧坊透無く、円宗修学禅林寺過現末堂三千仏の光明赫々として霊山浄土共に覚ゆらん。晩に亦龍興寺の為体を見れば、後ろには青山峨々として峰の清風梢を鳴らし、前は滝の水漲り落ちて、座禅の眼を驚かし、阿吽寺の鐘聲は諸行無常の告を成し、後夜晨朝の勤聲は寂滅為楽の雲を穿つ。是亦殊勝の景物なり。
 新町は棟を並べ、軒を接し、数千萬の家造り、商人賣買心に任せ、民の竈は煙賑ひ、相内川の水清ふして許由耳を洗ひ、巣父の牛を牽いて帰る穎泉の流れに異ならず。遥かにゑ瑠麿明神の社堂を拝し奉れば、前は海邊に臨み、岩窟峰に聳えたち、松風颯々として琴を調べ、麓は白浪花を疊むこと千片たり。爰に熊野権現跡をたれ給ふこと年久しく霊験少しも本社に劣らざる名山なり。又館の内に羽黒権現を崇め奉る祈念御神楽怠轉無かる可し。桝橙の鼓の聲は五衰の雲を消し、感応の月は円くして大なり。堯々たる鈴の聲は、捨乱の霞を振ひ、偏に利生の華鮮なり。頼母敷哉、是を禮し、彼を拝すれば心肝を催さざるは無し。
 惣じて此福島城郭は左に青龍、右に白虎、前は朱雀、後は玄武、四神相応の靈地なり。
※参考文献:「十三湊・山王坊遺跡フォーラム」山王坊遺跡の調査結果と十三千坊の世界

○十三往来は、菅江真澄の「外浜奇勝」に「わらはべのもてあそぶ『十二往来』という冊子・・・」と書かれていて、菅江真澄 が十三地方を廻遊した江戸時代後期の寛政八年(1796)の頃に、当地方の児童達が所持していた「冊子」であったことがわかる。江戸時代の津軽地方にあって広く知れわたっていた本ということで、美しく情景が目に浮かぶような文章である。
 南北朝時代の頃の作といわれ、著者は未詳だが、十三湊の北岸にある山王坊の僧、弘智(1363年没)が書いたとも、山王坊に住持した人だろうとも言われている。太字で表しているのは、城館・神社・仏閣である。
 本文での「西は蒼海漫々として異船京船群集し、艫先を並ベ、舳を調べ、湊は市を成す。」の文章では、本文では「異船」となっているが、それを『夷船』(蝦夷の船)としている本がある。

45 下国家譜政季事績【「下国伊駒安倍姓之家譜」に記載されている政季の業績】

「政季〈潮潟重季之嫡男〉
十三湊破滅節弱冠而被生虜、於糠部八戸改名安藤太、知行田名部、其後下国義季生害惣領家断絶、蠣崎武田若狭守信広〈新羅姓〉・相原周防守政胤・河野加賀右衛門尉政通〈越智姓〉(人王百三代甲戌一国徳政後花園院二十六代丙子)等相議、享徳三年八月廿八日、従大畑出船押渡狄之島而住焉、奥秋田城介湊安倍堯季、康正二年呼越下国政季於小鹿島、廻謀略攻葛西羽守、取河北郡知行焉、土御門院庚寅、
文明二年正月廿九日、政季打入津軽攻藤崎之舘引退、而後長木大和守起謀反、長戊申享二年三月十日河北糠野城而政季生害、森山飛騨守奉討御頚也、号泰巌宗公大禅定門、」

※参考文献:秋田安藤氏の系譜言説形成とその背景 秋田大学 志立正知

○「下国伊駒安陪姓之家譜」は湊安東家の一族である道季が戦いに敗れて、南部氏のもとに逃れ、後に仕官した八戸湊家によって元禄時代に成立した。三春藩の「秋田家系図」や松前藩の「新羅之記録」を参照してまとめた系図であり、安藤貞季以降の世系は「秋田家系図」に近いが、事跡についての記述はかなり異なる。とくに南部氏との抗争について、この家譜にしかみられない記述があることが重視されていた。
 

史料解説

1 秋田家系図

 秋田家系図は、秋田実季によって万治元年(1658)に成立した。秋田家系図は「秋田系図」とも呼ばれて、三春秋田氏の嫡系に伝えられた。安藤氏に関する系図は多数あるが、内容から整理して、「藤崎系図」(続群書類従所収)、「安藤系図」(続群書類従所収)、「秋田家系図」、「下国伊駒安陪姓之家譜(しものくにいこまあべせいのかふ)」(湊文書)を代表とする四系列のものが知られている。藤崎系図と秋田家系図は、遠祖に関わる記載が似通っていて、どちらかが模倣したのではないかとされ、また、これまで「藤崎系図」の方が古いものと扱われてきたが、現在の研究では藤崎系図の始祖伝承は秋田家系図をまねた可能性が強いとされている。
 ⇒安東氏系図はこちらに詳しくまとめています。
 

2 安藤系図

 安藤系図は、伝来過程、作成年代は不明。阿倍比羅夫を祖とし、その子孫安陪貞任の子白鳥太郎則任(貞任の弟白鳥八郎行任の養子)の孫、安藤太郎季任を初代とする。安藤の乱の立役者安藤又太郎季長の名が惣領名として記され、季長の没落後その子孫は秋田に移住し「秋田安藤次郎季道(始宮方後属尊氏)」で、この系図は終わっている。
 ⇒安東氏系図はこちら
 

3 下国伊駒安倍姓家之記録

 下国伊駒安倍姓家之記録は、近世に作成された秋田(家)系図や湊氏系図より古く、また特異な伝承を多く含む安藤氏系図である。秋田(家)系図や湊氏系図では、津軽安藤氏発祥の地を藤崎とするが、下国伊駒安倍姓家之記録は津軽に入った安藤氏初代の貞季(後鳥羽院時代の人物)について、「下国安東太郎安陪貞季、日下将軍外浜殿也」としているので、安藤氏の発祥は外浜とされている。後鳥羽院は第82代天皇(在位:寿永2年(1183)~建久9年(1198))、奥州藤原氏末期と重なる。また、「下国伊駒安倍姓家之記録」では、「秋田家系図」と違って安藤氏を安倍貞任の子孫とせずに、奧六郡の安倍氏は、称徳天皇時代の安陪仲丸(仲麻呂)の子廣庭の子孫で、廣庭が奥州に下り、下国安藤氏の「同姓一族」と称したもので、その子孫安倍頼時のとき安東太長国が頼時と「同心」して朝廷と戦ったとしていた。安藤氏を安倍貞任の遺児高星丸とする系譜伝承が、必ずしも古いものではないことを示す。(函館市中央図書館所蔵)
 ⇒安東氏系図はこちら
 

4 保暦間記

 保暦間記(ほうりゃくかんき)は日本の中世、南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料である。成立は14世紀半ば、延文元年(1356年)以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている。「保元(元年)から暦応(二年)まで」の歴史が書かれていることが書名の由来となっている。
 

5 鎌倉年代記裏書

 鎌倉年代記(かまくらねんだいき)は、鎌倉時代の歴史書であり年表風の年代記。年賦は寿永二年(1183)から元弘元年(1331)まである。編者は不明だが鎌倉幕府の吏員と考えられる。後に写本や活字本にされたものは『北条九代記』と題され、同書の異本。鎌倉時代後期の鎌倉幕府の動向を知る貴重な資料である。
 

6 諏訪大明神画詞

 諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば・諏訪大明神絵詞)は諏訪大社の縁起を絵と詞書(ことばがき)で華麗に表現したもので、この神社の大祝(おおはふり)の一族である諏訪大進房円忠(小坂円忠・室町幕府の公事奉行人)が著者。当時一流の能吏で知識人である。貞和元年(1345)ごろ、諏訪大社上宮神宮寺執行職を兼帯していたときにこの画詞を書いた。各巻の奥書は足利尊氏で、延文元年(1356)成立。絵は失われ、詞書の部分の写本のみを現在に伝えている。
 

7 満済准后日記

 満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)は、室町時代前期の醍醐寺座主であった満済の日記。満済は将軍足利義持・義教の護持僧として近侍し、幕政の枢密にも携わるようになり、将軍と管領以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていた。日記には、幕府内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富で格好の史料である。
 

8 陸奥国下国殿代々名法日記

 米良文書の、陸奥国下国殿代々名法日記(なのりにっき)は、嘉吉元年(1441)、紀伊国熊野郡那智神社の先達(尻引三世寺別当、現弘前市)が檀那・安藤氏の嫡流の系図メモを作成し、御師の実法院に提出したもの。(「米良文書」は、熊野那智大社に伝わる、南北朝時代の両朝からの文書や室町から江戸にかけての将軍家、武家の書状をはじめ、引檀那、先達、御師関係の多数の文書から成り、中世熊野の信仰、組織、勢力などを示す重要史料。)
 

9 湊文書

 湊文書(湊家文書)は、津軽安藤(安東)氏の末裔である湊氏の一族道季(安東通季)が、この文書を携えて三戸南部氏に仕官したもので、子孫に伝わっていた。その内容は、戦国末期から織豊時代にかけて、東北各地の豪族たちから津軽安藤氏の末裔である下国殿・湊殿・檜山殿などにあてた書状であり、北奥中世史解明の貴重な史料となっている。
 

10 新羅之記録

 新羅之記録(しんらのきろく)は、松前景廣(かげひろ、松前藩初代藩主・松前慶広の六男)が作成した松前家の史書。江戸時代の正保三年(1646)に完成した。江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録。新羅之記録とは同書奥書に「此巻は、新羅大明神の氏子武田の末孫たる狄の嶋松前の家譜なり」とあるところから由来している。
 寛永二十年(1643)、松前藩は将軍家光の命で第三代松前藩主氏広の家系図を作成し提出した。景廣は、その系図には年譜などに偽りのことが多かったとして、父慶広(初代藩主)が記しておいた文書や景広が記憶していた代々の名誉奇特の事柄をまとめたもの。松前藩の始祖とされる武田信広から八世の松前氏広に至る蠣崎氏代々の事績を、年代記的手法を使い豊かな物語性をもつ松前家の家史となっている。
 編者の松前景廣は、正保三年(1646)九月に新羅明神のある近江の園城寺(おんじょうじ・大津市、通称三井寺とも)まで持参し、新羅明神にそなえて供養した。

 松前景廣は、父である松前慶広の命によって3歳(数え年)のとき、名門・河野氏の名跡を存続させるために、母方の祖父である河野季通の名跡を継ぎ、「河野加賀右衛門(時広)」と称していたが、元和2年(1616)に父・慶広が死去した後に松前姓へと復姓し、「松前景廣」に戻った。本家(宗家)の若い藩主(2代公広・3代氏広)を支えるために、藩の最高幹部である「執政(家老)」として復帰する必要があったためと考えられている。初代の息子という高い血統(一門)でありながら、初期の松前藩の政治・行政を実質的に主導した、実務能力にも長けた重臣として藩政の安定に尽くした人物である。
 

11 日蓮聖人遺文

 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の仏教の僧。日蓮宗(法華宗)の宗祖。日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管した。「安藤五郎」に関した記事は、「種種御振舞御書」、「三三蔵祈雨事」に書かれてある。
 

12 地蔵菩薩霊験記

 地蔵菩薩霊験記(じぞうぼさつれいげんき)は中世の説話集。その中の「建長寺地蔵夷嶋遊化事」に、鎌倉建長寺本尊の地蔵が姿を変え夷嶋(北海道方面)にまではるばる布教のためにやってきたという物語がある。平安時代から鎌倉初期にかけて成立したもので、それぞれの時代における地蔵信仰の実態を伝える。
 

13 十三湊新城記

 十三湊新城記は喜田貞吉博士(第二次世界大戦前の日本の歴史学者、京都帝国大学教授他)が、安藤氏の子孫である元子爵の秋田家から発見したもので、一名を「十三湊記」と言われている。著者は不明。その中に「十三湊新城は・・・正和年中安倍貞季公所築之城郭也」と書かれている。
 下の「十三湊新城記」は能代通史に写真で掲載されている福島県三春町龍穏院所蔵「安倍家系図」に収録されているものの冒頭部分と日付箇所。なぜか「貞季」ではなく「政秀」となっている。十三湊新城記には「十三往来」を手本にして作った偽書という説がある。鈴木満氏は、文保元年(1317)成立なら、花園天皇は在位しているので、「花園帝」は「今上帝」または「当今」と記すはずで、日付をつけて文保成立のように装っているので、龍穏院所蔵本は偽書としている。

   十三湊新城記
  大日本国奥州十三湊新城者、
  花園帝御宇正和年中ニ安倍政秀公所築之城郭也、(中略)、
  文保改元丁巳冬十一月吉辰日
 

14 十三往来

 十三往来(とさおうらい)は、南北朝の頃の作といわれ、十三湖周辺の情景が神社仏閣とともに描かれて中世十三湊の繁栄ぶりを伝えている。著者は未詳だが、十三湊の北岸にある山王坊の僧、弘智(1363年没)が書いたとも、山王坊に住持した人だろうとも言われている。また、福島城跡の名称は「十三往来」に記された「福島之城郭」に由来するが、中世にどのように呼ばれていたのかはわからない。
 「・・・・十三湊ニハ館ヲ構へ御目代ノ居館有リ千軒ノ町モ有リ。東山ノ野沢ハ渺々(びょうびょう)タル牧也。数千匹ノ馬ドモ麋鹿(びろく)ヲ交テ思々ノ勇ヲナス。・・・・滄海漫々トシテ夷船、京船(唐船)群集シテ艫先(へさき)ヲ並ベ調舳(ちょうじく)湊ニ市ヲ成ス。又浜ノ大明神ノ社宝ヲ拝シ奉レバ、甍ヲ並ル、玉ノ籬(まがき)立チ囲ム神殿ノ床十余丈、遠ク鳥居ヲ立テ其間ニ切石ヲ畳テ瑠璃之扆(ついたて)ニ異ラス・・・・」
 文中、「夷船、京船(唐船)群集シテ艫先ヲ並ベ調舳湊ニ市ヲ成ス」。この下りは、このころの十三湊のにぎやかな港の風景を、あざやかに伝えている。
 

15 廻船式目

 廻船式目 (かいせんしきもく)は、 古くには『船法』『船法度 (ふねはっと) 』『船作法書』ともいわれた。室町時代末に成立した日本最古の海商法規である。15~16世紀、瀬戸内海の海運業者の慣習法を成文化したもの。内容は、難破船の救助、海損保障、船の貸借規定など多岐にわたる。
 その中に、三津七湊(さんしんしちそう)として、日本の十大港湾として記されている港湾都市の一つに十三湊がある。
  • 三津とは、博多津(福岡県博多)、泉州堺津(大阪府堺市)、伊勢安濃津(三重県津市)
  • 七湊は越前三国(福井県旧三国町、九頭竜川河口)、加賀本吉(石川県旧美川町、手取川河口)、能登輪島、越中岩瀬(富山市西岩瀬、神通川河口)、越後今町(新潟県上越市直江津)、出羽秋田(秋田氏土崎港、雄物川河口)、奥州津軽十三湊。
 

16 太平記

 太平記は南北朝の軍記物語。応安年間(1368~1375)の成立とされる。鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を描く。小島法師作と伝えられるが未詳。「平家物語」に次ぐ軍記物語の代表作。
 

17 関東御教書案

 関東御教書(かんとうみぎょうしょ)は、鎌倉幕府が一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式(主人の意思を受けて作成する、という形式)の文書。御教書は、公卿である主人の命令を家臣がうけたまわって、家臣の名で発する文書。
 

18 北畠顕家袖判御教書

 北畠顕家袖判御教書は、建武政権での陸奧国司である北畠顕家が出した公文書。奉書形式で、顕家の意思を受けて作成したという形式を取っている文書。袖判(そでばん)とは、文書の袖(右側)に花押を書くことで、顕家の花押が書かれている。
 

19 北畠顕家国宣

 北畠顕家国宣は、建武政権での陸奧国司である北畠顕家の命令を奉書の形式で交付した御教書。
 

20 曽我貞光申状写

 申状(もうしじょう)とは、下位の者から上位の者に向かって差し出される上申のための文書様式。曽我貞光申状は、自分の戦績(戦いでの活躍)を奥州探題・石堂義房に宛てたもの。
 

参考文献

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(1) 津軽安藤氏と北方世界 小口雅史編 河出書房新社 1995
(2) 北の環日本海世界 村井章介他編 山川出版社 2002
(3) 中世糠部の世界と南部氏 七戸町教育委員会編 高志書院 2003
(4) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(5) 鎌倉幕府と東北 七海雅人編 吉川弘文館 2015
(6) 前九年・後三年合戦と兵の時代 樋口知志編 吉川弘文館 2016
(7) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(8) 中世北方の政治と社会 大石直正著 校倉書房 2010
(9) 中世東北の武士団 佐々木慶市著 名著出版 1989
(10) 安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著 無明舎出版 2006
(11) 秋田「安東氏」研究ノート 渋谷鉄五郎著 無明舎出版 1988
(12) 史料解読 奥羽南北朝史 大友幸男著 三一書房 1996
(13) 秋田安東氏物語 川原衛門 秋田市 1990
(14) 十和田湖が語る古代北奥の謎 義江彰夫、入間田宣夫、斉藤利男編著 校倉書房 2006
(15) 尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981
(16) 南部と津軽の争乱 実像と虚像 名久井貞美著 伊吉書院 2000
(17) 新青森市史通史第一巻 原始・古代・中世 青森市史編集委員会 2011
(18) 浪岡町史第一巻・第二巻 浪岡町 2000・2004
(19) 中世の地域と宗教 羽下徳彦編 吉川弘文館 2005
(20) エミシ・エゾからアイヌへ 児島恭子著 吉川弘文館 2009
(21) みちのく太平記 ~あらえびす征京始末 七宮涬三著 津軽書房 1980
(22) 北畠太平記 入内島一崇著 新人物往来社 2000
(23) 青森県埋蔵文化財調査報告書 第548集 明神沼遺蹟・福島城跡5 青森県教育委員会 2014
(24) 青森県埋蔵文化財調査報告書第158集 内真部(4)遺蹟 青森県教育委員会 1993
(25) 新青森市史資料編2 古代・中世 青森市史編集委員会 2004
(26) 新津軽秋田安東一族 七宮涬三著 新人物往来社 1989
(27) 古代国家と北方世界 小口雅史編 同成社 2017
(28) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(29) 新羅之記録【現代語訳】 木村裕俊著 無明舎出版 2013
(30) 新編八戸市史通史編Ⅰ 原始・古代・中世 八戸市 2015
(31) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈東京・斉藤利男講演レジュメ〉
(32) 十三湊を制覇した安藤氏の時代、中濱御牧と外の浜は? 2019.5.17〈今別町・斉藤利男講演レジュメ〉
(33) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(34) 「下国屋形」十三湊安藤氏の誕生と発展~最新の文献史学研究から 2017〈斉藤利男・「十三湊山王坊遺跡フォーラム」レジュメ〉
(35) 音喜多勝氏所蔵八戸湊文書覚書 遠藤巌 弘前大学國史研究107 1999
(36) 秋田安藤氏の系譜言説形成とその背景 志立正知 日本文学 59 2010
(37) 津軽安藤氏研究の一視角 鈴木満 秋田史学62、2016
(38) 伝承と史実のあいだに ―津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合― 鈴木満 秋田県公文書館研究紀要第23号 2017
(39) 外ヶ浜安藤氏と内真部城館群 鈴木満 2020〈斉藤利男・「青森市北部地区農村環境改善センター地域力アップ講座」レジュメ〉
 

安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造


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 安藤氏(安東氏)に関する情報は、関連本やインターネットでも、書かれていることはまちまちです。このサイトは関連本の情報を積み上げて、最新の研究(2019)ではどうなっているのかまでがわかります。
 人物伝では、武将の名前を列挙して、その人の生きざまから歴史がわかるようになっています。「年表」では、それぞれの出来事の出典を明らかにしています。
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