十三湊史跡観光と遺跡紹介
十三湊遺跡は、平成17年(2005)に国の史跡に指定されています。鎌倉時代から室町時代の安藤氏が支配した国際貿易港として繁栄していました。福島城跡、唐川城跡、山王坊遺蹟などの史跡観光スポットや国や県、村(市)、大学の発掘調査からその全容がほぼ解明された遺蹟の内容を紹介します。十三湊観光の下調べにお役立てください。より詳しく遺跡を知りたい方は「文献資料情報」や「十三湊の誕生から衰退まで」をごらん下さい。
グーグルマップの地図で場所がわかるようにしています。
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※十三湊歴史観光MAP ←五所川原市作成。これをダウンロードしてから十三湊へ出かけましょう。
「浜の明神(湊明神宮)」は鰺ヶ沢町から市浦に至る広域農道「メロンロード」に面しています。十三湖側ではなく、日本海側の道です。この神社は、十三往来に登場する「浜之大明神」と伝えられ、境内入口に「浜の明神遺蹟」の説明板があります。標高20mの丘に鎮座し、中世当時は神宮前の水域が十三湖まで続き、そこを航行する船の目印であり、守り神でした。湊明神宮の祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命。別名「水戸神(みなとのかみ)」港の神、河口の神で、湊神社は「出船入船の明神」として、十三漁業関係者の信仰を集めています。本殿は、伊勢神宮等の著名な社を模しているらしく、なかなか見ない造りになっています。拝殿からは「明神沼」が望めます。
湊神明宮では、元治元年(1864)に本田水戸口(前潟の南端、セトバ沼の北)を開削した際に、神社の境内を拡張したところ、多数の神仏古像が発見されています。
神社から南へ約100mの海側に中世当時の水戸口へ続く道があります。そこから約500mに駐車場があり、砂丘を上がって日本海です。中世のころの水戸口は「古水戸口」と呼ばれています。
浜の明神は、十三湖から約4km南にあるので、十三湊遺蹟探訪の最初にまわってください。
※市浦地区には、「湊明神宮」、「十三明神宮」、「明神宮」と似ている名前の神社が3つあります。
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この一帯は、これまでに数々の宗教遺物(中世陶磁器・五輪塔・金銅製のかけ仏・茶臼など)が出土していて、寺院跡として裏付けられていました。そこに十三藤原氏に関する伝承が結びつき、「隠居跡」や「檀林寺跡」といった名称が付されてきたのですが、中世の安藤氏の時代に何と呼ばれた寺院なのかは全く分かっていません。
檀林寺地区は十三湊が南部氏との戦いで焼き払らわれた後に、新たに開発され、寺院・領主居館・家臣団屋敷などが造られました。室町時代、15世紀半ばの十三湊はここらあたりまであったのだ、とご確認ください。
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グランド前の道すじに当時の土塁と堀跡があります。土塁の高さは1~1.5m程です。「中世十三湊の土塁」の説明板が設置されています。重要な史跡ポイントです。ぜひ、訪れてください。
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湊迎寺の創建については、建保3年(1215)浄土宗の開祖 法然上人の直弟子金光上人が檀林寺付近に庵を建て、後に現在地に移転されたという伝承と、元和6年(1620)、寛永2年(1625)開創説があります。寺宝は十王曼陀羅。
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祭神は天照大神。拝殿の横の造りが伊勢神宮を模しています。江戸時代初期の創建が推定されています。拝殿の祭壇から奥宮の入口が見えるという変わった造りになっています。境内に「金刀比羅神社」もありました。
十三湖の水戸口開削工事の成就祈願のために、十三町奉行所本多軍蔵が浜明神(湊神社)に寄進したと伝えられる大弓が残されています。
見どころは、中国元代末期の外洋船(新安沈没船)の復元模型、十三湊に来港する姿を想像できます。その他、市浦地区の遺蹟の位置がわかる地形模型図。山王坊遺蹟から出土した五輪塔。十三湊から出土した陶磁器片では国内・中国から運ばれてきた様子がわかります。
古文書では、浄福寺「大般若経(複製)」。十三湊という地名が確認できる現存最古の史料です。広島県安芸津町浄福寺におさめられていた「大般若経」の奥書に、十三湊「快融」という僧侶が書写したと書かれています。他に安藤康季が再興した福井県小浜市にある「羽賀寺縁起(複製)」があります。
4月から11月まで「無休」。
※「中の島ブリッジパーク」から、福島城方面へ曲がる交差点までは、車で約4分・2.8kmです。
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唐川城跡の一角にある展望台で、標高は約120m。十三湖周辺を見渡すだけでなく、日本海と十三湖に浮かぶような岩木山を見ることもできる、絶景スポットです。十三湖を訪れたならば、ぜひとも立ち寄りたい場所です。
安藤氏の山城と言われていた唐川城跡は、調査の結果、平安時代の「高地性環濠集落」であったことがわかりました。また、十三湊安藤氏の時代の遺物も発見されていて、中世に再利用されていたことも判明しています。
展望台から登ってきた道を降りると前述した「春日内観音堂」へ至る標識があります。ぜひ、セットでお訪ねください。
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春日内観音堂(はるひないかんのんどう)は、唐川城跡の南東の麓にあります。津軽三十三観音の第17番札所で、本尊は聖観音像です。寛政8年(1796)に菅江真澄が当地を訪れています。降雨や融雪期に堂の後ろは約5mの滝となって、堂の横を流れ落ちる様子は、「十三往来」に記録される龍興寺跡と考えられてきました。
「山王」とは、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)の別称。日吉は「ヒエ」とも言い、「日枝」とも書きます。また、①安藤氏に関する日吉神社の地であった、②「十三往来」に記載される阿吽寺跡の地、③南部氏による焼き討ちにあった地であった、といった伝承が語られてきました。
山王坊は、谷の奥につくられた中世の宗教施設、十三千坊の中心とされ、杉の大木に覆われ、昼でも薄暗く荘厳さを感じさせる。一帯は古来より霊地として大切に守られてきて、境内には発掘調査で検出された礎石跡が見学できます。平成29年2月に国史跡指定。
現在の日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明。
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大正12年、県道の切り下げ工事中に貝塚が発見され、亀ヶ岡式土器につながる円筒式土器が多数出土し、これによって、「円筒土器」が命名されました。貝塚は縄文時代前期~中期のヤマトシジミを中心としたもの。同年6月に村人有志による調査で、貝塚から完全な人骨が発見されました。「オセドウ貝塚発掘調査概報(市浦村)」によると、発掘された人骨は、壮年の男性。自然遺物としてはマイルカ、鯨の一種の骨も出土し、オセドウ貝塚人は、漁猟を中心とした生活で、湖では、シジミのような貝類を、海では、鯨類を捕獲することが得意であったようだ、と書かれています。
神明宮(しんめいぐう)の創建年は不詳で、祭神は天照大神。神明宮は、伊勢神宮内宮を総本社とすめ神社で、通称として「お伊勢さん」と呼ばれていることが多く、この神明宮も神社のある丘の名前が「伊勢堂」と呼ばれていて、オセドウ貝塚の「オセドウ」は「伊勢堂」が訛ったものです。
櫓を正面に見て、左手方向に「福島城跡・内郭」説明板があります。この道をもう少し左手に進むと堀と土塁を渡り、内郭に入れる箇所があります。土塁の高さは膝下程度、堀の幅は1.5m程度です。福島城内郭の広さは一辺が約200mの四角形で、中に入るとただ広い原野。その面積は東京ドームとほぼ同じです。せめて、発掘調査で見つかった、安藤氏の居館跡がどこなのかの標識がほしいところです。
内郭から県道に出て東に数百mの地点に「福島城外堀跡」があり、こちらは立派な大土塁と広い堀があります。内郭だけでなく、外堀もぜひご覧ください。
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ここからすぐの内郭よりの道路に「福島城跡駐車場」があり、そこに福島城跡説明板があって「福島城跡の地形測量図と遺構配置」図が掲載されています。他には見られない資料ですので、ぜひご覧になってください。
十三湊が位置するのは、青森県岩木川の河口部に形成された巨大な潟湖、十三湖(じゅうさんこ)と日本海の間に形成された砂州の上である。現在は、日本海から湖の西側に直接入る水戸口(十三湖大橋あたり)があるが、中世の時代は、前潟・セトバ沼・明神沼がつながっていて、つがる市富萢町清水にある「浜の明神(湊神社)」近くで日本海とつながっていた。船はその水路を約5km遡って十三湖に入ることになる。港湾施設は、現在の市街地のある砂州地の西側、水路に面した所にあった。港湾施設は時代によって移動しているが、概ね、現在の「前潟」の終端あたりとなる。
南北朝時代の作といわれる「十三往来(とさおうらい)」には、十三湖周辺の情景が神社仏閣とともに描かれて中世十三湊の繁栄ぶりを伝えている。『滄海漫々トシテ夷船、京船(唐船)群集シテ艫先ヲ並ベ調舳湊ニ市ヲ成ス。』
浜の明神は、『十三往来』に登場する「浜之大明神」と伝えられ、十三湊領域の南限に位置し、中世の水路をみおろす標高20mの砂丘上に鎮座する。十三湊に入る水路の守り神であり、湊に出入りする船舶を監視する重要な施設でもあった。
幕末の元治元年(1864)に神社の境内を拡張したところ、境内から懸仏などの神仏古像119体が発見された。うち1体が「湊迎寺」に伝えられている。それら古像は14~15世紀の十三湊全盛期のものである。
現在の湊神社は江戸時代の延宝4年(1676)に創建され、浜の明神跡に建てられた。
檀林寺地区は、国史跡「十三湊」の南端にあたる。遺跡の中心部は現在、製材所と民家の敷地となっていて、遺跡確認は困難である。昭和15年、開墾中に礎石跡が発見されて遺跡が周知された。
檀林寺が建立されたのは、15世紀中葉の室町時代に安藤氏が南部氏に蝦夷島に追われて、幕府の調停により十三湊に帰還した後と考えられている。安藤氏は、砂州地中央の大土塁南1kmの「檀林寺地区」に寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地の整備を進めた。15世紀中葉に相当する中世陶磁器、茶臼、石造物など多数出土している。平成 17 年に「十三湊遺跡・檀林寺跡地区」 として国史跡指定を受けている。
この地では、安藤氏の十三湊最盛期に造られた「大土塁と堀跡」を見ることができる。小学校グランドに接する道があり、その道に沿って南側(グランドの反対方向)に土塁と堀跡がある。ものの本には「大土塁」と書かれているので、実際に見たら少々困惑するかもしれない。ただ、中世の地面は今よりも低く当時はまさに大土塁であったのだろう。中島にある市浦歴史民俗資料館に飾られている発掘写真では、人がすっぽり入ってしまう高さがあった。(隣接する堀の底に立っていると思われる。)学校校舎は東西に平行に建設されていることから、土塁も東西に伸びていたことがわかる。資料館に掲示している当時の十三湊復元図では、土塁と堀は前潟から十三湖まで砂州を横切り造られていたことがわかる。
発掘調査によって、土塁は14世紀後半から15世紀前葉(100年の1/3)に造られ、そして、土塁は「福島城の外郭」の大土塁と同じ構造で、同じ時期に造られたとされている。十三湊の最盛期、この土塁の北側が安藤氏の居館、武士屋敷などがある領域であり、土塁と堀は十三湊都市域の南限を区切る領地の境界、防御施設であった。
旧十三小学校グランド(校舎南側)の発掘調査で、南北の一辺が約40mになる四角形の範囲で周囲を区間溝で囲まれた方形居館が発見された。区画溝の規模は、幅1m、深さ50cm。屋敷地の大きさから安藤氏の惣領家ではなく、港を支配した安藤一族の屋敷とみられ、建設時期は13世紀初め~14世紀と想定されている。(この方形居館は最盛期には埋め戻されている。安藤氏惣領家の入部により安藤氏代官の港支配が必要なくなったことが考えられる。また、斉藤利男氏(1)はこの居館の主を、安藤祐季=湊孫次郎祐季と推定している。)
土塁の北側(旧十三小学校とその裏・北側に広がる畑)には、掘と塀と溝に囲まれた、東西130m、南北100mの方形区画が確認された。この内部には、細部化された屋敷空間が広がっていて、出土遺物では青磁酒会壺や瀬戸仏花瓶など、身分の高い人々の居住域であることを示す奢侈品の陶磁器(威信財として使用)が多く出土している。
また、井戸跡からは、大量の白木の箸に伴って、京都のカワラケ文化をまねた宴会儀礼で使用された「手づくねかわらけ」がまとまって出土した。年代は15世紀前葉で、青森県でこの時代の手づくねかわらけが出土しているのは、今のところ十三湊以外にない。これらの事実から、この方形区画が十三湊最盛期の中心区画であり、領主安藤氏の屋敷か、それに準ずる何らかの施設があった場所であった可能性が高く、安藤氏惣領家の大規模な屋敷建物はこの区域にあっただろうと想定されている。
土塁の北側地区では、火事場整理跡が発見されている。大量の焼けた角礫、炭化材、被熱した土器・陶磁器を破棄した集石遺構、破棄された井戸跡などが多数検出された。そして、集石遺構から出土する陶磁器の時代から火災は15世紀の前葉と推定され、この火災は第1次安藤・南部氏戦争によるものである。また、その後の時期の遺物が激減すること、かつて屋敷だったところに墓域が形成させるなど、火災後急速に北側地区が衰退していった状況も判明した。
一方、土塁の南側地区の遺物は15世紀後半のものが多いこと、被熱した陶磁器がほとんど見られないことから、火災後に新たに都市建設された町屋地区だろうと考えられている。
また、中世の遺物は道路面から2.3m下の黒色の腐食土層から出土し、上層の近世面と中世の生活面との間に、約1.2~1.4mの黄褐色の飛砂層が堆積していた。このことから、中世の十三湊が廃絶してから、近世の十三湊が始まる16世紀末までの間に飛砂が堆積し、南の前潟沿いの地域に砂丘が形成されるなど、地形が変わってしまうほどの自然環境の変化があったことが判明した。
「浜の明神」から、元治元年(1864)に発見された古仏像1体が「湊迎寺」に伝えられている。
唐川城跡は他の環濠集落を圧倒する大規模なもので、南北700m、東西200m。山頂の平坦面には土塁と堀によって、大きく3つの郭(北郭、中央郭・南郭)が設けられ、その東側には帯郭状の堀を巡らしている。北郭と南郭には現在でも大きな井戸跡が残り、南郭の井戸跡周辺には竪穴住居と考えられる窪地が多数確認されている。
南郭の竪穴住居跡では床面が焼土で覆われ、金床石(鉄を打ち付ける台)や鍛冶関連遺物が検出され、精錬炉跡ではフイゴ羽口(風を送る道具)や多数の流動滓(鉄くず)が発見された。このことから、唐川城内で鉄製品を作る集団がいたことが判明した。また、竪穴住居跡内からは平安時代後期にあたる土師器の坏・甕、五所川原産須恵器の長頸壺・甕、土錘(漁業用網のおもり)のほか、北海道を起源とする擦文土器が出土した。
一方、標高160mと最も高い中央郭では、頂部の平坦地から南東部にある、連続した二つの平坦面は切り盛りによる盛土整地が行われた屋敷地であったことが明らかとなった。安藤氏時代(15世紀前半)の小規模な掘立柱建物の柱跡や陶磁器が見つかっていて、中世にも砦のような施設が設けられたとみられている。
「十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイド」から 図をクリックすると拡大し、説明が読みやすくなります。
発掘調査の結果、礎石建物跡が極めて良好な形で残っており、神社跡や寺院跡の建物配置を示す神仏習合の様子が明らかとなった。また、出土遺物の年代から十三湊最盛期である南北朝~室町時代前期(14世紀中頃~15世紀中頃)にあたることも判明している。中世の宗教施設である山王坊遺蹟の発掘調査では、方形配石墓を特徴とする奥院、拝殿・渡廊・舞台・本殿が一直線に並ぶ社殿跡として復元可能な礎石建物跡、仏堂と推定される礎石建物跡が確認されている。
五所川原市の十三湊ガイドブック(1)では、山王坊遺蹟の遺蹟領域をA~Gに分けて示し、その内3つを主要なエリアとして扱っている。そのうち、C地区【仏堂跡】は、駐車場を降りての境内入口近くの西側平坦土地(駐車場から参道に向かって地点の左手方面)で、3棟の礎石建物跡が発見されている。最大の建物は入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物であると推定され、流水を跨いで建築されていることから、その先には庭園の存在が想定される。よって、通常の仏堂建築ではなく、平安時代以降に建てられるようになった住宅風仏堂と考えられている。また、他の礎石建物跡は、仏堂に伴う庫裏や参籠所などの付属舎と考えられている。
次に、B地区【社殿列跡】は、境内を進んでの山王坊川西岸の開けた平坦地(拝殿までの参道のほぼ中央)にあり、社殿列跡(神社跡)が発見された。建物配置を復原すると、南から拝殿、渡廊、舞台・中門・瑞垣・本殿が一直線に並んでいて、拝殿の西側には付属舎を伴っている。拝殿は、本来は仏堂(旧仏堂と呼称)であったと考えられ、『十三往来』にみられる阿吽寺(真言宗)であり、奥院とともに山王坊初期の遺構である可能性が高いとみられている。そして、安藤氏が南部氏に敗れて夷地に渡り、再度十三湊に戻った際に、日吉大社を新たに勧請して拝殿として生まれ変わったのではないかと推測されている。
A地区【奥院】は、平坦地を過ぎての山側斜面にあり、場所は参道から拝殿を見ての右手方向、拝殿入口の向かい側となる。A地区の2つの造成平坦面の高い平坦面から、一辺6mの方形配石墓をもつ奥院が発見された。建物配置を復原すると、北から奥院、鳥居、下段の平坦面には幣(へい)・拝殿と付属舎、その下方の緩斜面には石組階段が一直線上に並んで配置されていることが明らかとなった。ここからは僧侶の墓石の一部などが出土し、山王坊に関係する僧侶の墓か、あるいは山王坊を庇護する安藤氏一族の墓である可能性が高いとみられている。
山王坊遺蹟では火事の痕跡を示す二次被熱を受けた陶磁器が出土している。永享五年(1433)の十三湊陥落の際、十三の砂州上にある安藤氏の屋敷や湊町には火が放たれ壊滅したが、山王坊やその他の寺社群までが焼き払われて灰燼と化したことが、発掘調査の結果から明らかになっている。
山王坊域で出土した五輪塔、宝きょう印塔、板碑塔の石造物の一部は市浦歴史民俗資料館に展示されている。
⇒ 山王坊遺跡の紹介HPはこちら
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かつて、10~11世紀の施設とみなされたこともある福島城跡は、その後の外郭土塁や内郭の発掘調査によって、外郭土塁は14世紀半ば、内郭は15世紀の半ばの構築になる中世の施設であることが確実になった。「十三新城記」によると、正中年間(1312~1317)に安倍(安藤)貞季が「新城」(福島城に比定する説が有力)を造ったとされているが、福島城跡には当該期の遺物はみられない。
「内郭」の位置は逆三角形の外郭の中心から少し北西部に位置している。発掘調査の結果、内郭は15世紀前半に整備され、その南東部に板塀で区画された武家屋敷と考えられる遺構が出土し、その中に大型の掘立柱建物跡や池跡などが検出されている。時代は十三湊遺蹟第三期(安藤・南部氏戦争で十三湊が焼き落ちた後)とされ、安藤氏の居館跡と考えられている。また、「内郭」は、15世紀前半の安藤・南部戦争の後、安藤氏が十三湊に復帰して都市の再建が行われる時期までは、存在しなかったことも明らかになった。
「外郭」では東辺と北西辺に土塁・堀跡が存在し、南辺と北辺は自然地形を利用した要害となっている。外郭東辺には、台地を南北に切断するように、基底部幅8.9~10.5m、高さ3~4mの土塁、上幅約12mを測る堀跡が存在する。東辺土塁・堀跡の東側は南北にのびる自然の沢で区切られている。14世紀半ばに、「外郭」東土塁と東門が、十三湊都市域の東側を守る防御施設、および十三湊都市域に入る東の関門として設けられた。東門は、5.5m幅の土塁開口部に外側が開いたコの字型の柵列がつくられ、柵列の奧に幅3mの開口部が設けられて、門柱2本と控柱2本からなる門が設置されていた。東門より約200m南の外郭内に、土塁と溝を巡らし内部に井戸跡をもつ方形区画があり、東門の内側一帯の場所では、出入り口に伴う何らかの施設があったことを示している。
「外郭」東辺土塁は、中里方面から十三湊に入る陸上交通路「下之切通・しものきりみち」を意識した防御施設であり、城内への入城を制限する施設である。かつては、土塁に突き当たる空堀に沿って門跡(関所)を通過し、内郭に向かった。福島城の外郭東辺土塁は、十三湊の都市領域の境界線にあたる。発掘調査の結果、土塁の構築方法が基底部付近は黒褐色土と黄褐色土を交互に積み重ねて構築している版築技法で、十三湊の大土塁と類似している。「外郭」東土塁は東門以北の場所では立派につくられているが、東門より南方の、通行者からはみえない場所では、土を積み重ねただけの雑なつくりで、南に行くにつれて小規模になってしまう。
「外郭」北西辺には、台地を切断するように、北東から南西にかけて延びる土塁・堀跡が存在し、その規模は土塁が高さ3m、延長約70m、堀跡が上端幅11m、深さ1mで断面逆台形となっている。土塁の構造は東辺土塁と同様で、ほぼ同時期に北辺部でも土塁が構築された可能性が高い。「内郭」が福島城の台地北西部に立地することを考慮すれば、北西辺の土塁・堀跡は重要な防御施設の一つであったと推定される。
14世紀半ばから15世紀前半までの時期、福島城の全体がどのような形であったのか、現時点では、よくわかっていない。「福島城」の内部が何らかの形で使われていたことは間違いないが、福島城跡の全域が、「城館」といえるような施設には、なっていなかっただろうことが考えられている。
「十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイド」から わかりやすくするために、説明等簡略化しています。
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14世紀後半、安藤氏惣領家が十三湊に進出すると、十三湊の街に大土塁が築かれたが、その段階での港湾施設は土塁の北側となり、初期の港湾よりも少し北側に移動したと推定されている。
安藤氏と南部氏との戦争で、十三湊は焼き払われた後の15世紀中葉のころの港湾施設は、さらに北側に移動した。この時期のものと考えられる港湾施設が、前潟沿い北西部で確認され、集落側から前潟側に向かう緩斜面上に南北約200mにわたり、礫を敷き詰めて足場を固めた荷上場跡と推定される遺構が出土している。そして、礫層が途切れる汀線に沿って土留め用の丸太材、かつて水中だった場所からは木杭列(もやい杭跡)が検出され、中には、木杭には麻縄が巻きついているものまであった。木杭列は桟橋跡で、麻縄は船の繋留用だったと考えられる。(発掘場所は十三神明宮から約100mほど北の前潟よりの場所)
十三湊の誕生から滅亡に至る230年余りの歴史は、3つの区分でまとめられている。ここでは、中世十三湊の衰退を加えて説明する。十三湊はそれぞれの時期で、都市の性格や構造も全く異なっていたことが、発掘調査によって明らかにされている。
※前半・後半は100年を半分に分けたもので、前葉・中葉・後葉は100年を1/3にした区分。図をクリックすると拡大し、説明が読みやすくなります。
・歴史上のできごと ⇒ 元久三年(1206)、幕府執権職に就いた北条義時が、安藤五郎を蝦夷沙汰代官職に任命する。
13世紀初め、前潟に面した、現在の湊迎寺門付近の海岸に港湾施設が造られ十三湊が誕生した。集落や船着場(前浜跡)が確認されている。14世紀に入ると集落の規模は拡大し、集落の背後(砂州の内陸部)に安藤氏一族の居館として、約40m四方の方形居館が営まれる。十三湊を支配した領主権力の居館と推定され、規模からして代官クラスの居館と考えられる。
第一期に、領主居館を背後にもった港町が形作られたわけだが、この時期の十三湊は、港湾施設のある前潟に沿って集落が長く延びる、近世の十三湊集落とほぼ同じ形で、全国の一般の港町と変わらない景観をしていた。
・歴史上のできごと ⇒ 延文四年(1359)、安倍師季(安藤師季)、深砂大権現や猿賀神社を再営。※安藤高季改名「師季」、津軽郡守護と呼ばれる。
14世紀中頃、十三湊地区では、砂州の中央に東西方向に向かって、十三湊の南の境界となる大土塁(基底部幅10m、高さ現状1.6m、土塁の構築方法は黒褐色土と黄褐色土を交互に積み重ねて構築している版築技法による)と堀(幅10m)が建設された。
これと合わせて、土塁の北側に、土塁と堀に平行する道路・大溝・柵がつくられて、新たに大規模な屋敷割りが実施され、掘立柱建物・堅穴遺構・井戸からなる屋敷が展開する。そこには、安藤氏と家臣たちの屋敷群、交易に携わる住民の家屋、港湾施設、宗教施設が密集していたと推定される。
この時期に第一期の方形居館が埋め立てられている(代官所としての必要性がなくなった)。また、土塁以南にあった第一期の港町は消滅し、集落は土塁以北に集約された。
安藤氏惣領家が十三湊に入部したのはこの第二期であり、安藤氏によって本格的な市街地整備が行われた。安藤氏惣領家の居館は、十三湊発掘調査室整理事務所(旧十三小学校)の北側にあったと推定されている。
また,十三湊「都市域」の東境界として、福島城外郭の東辺・北西辺に大土塁(基底部幅10m、高さ現状1.5m、版築技法による)と堀が建設され、「外郭」が成立する。また、十三湖北岸の宗教施設である山王坊遺蹟が建設された。
十三湊最盛期には、十三湖西岸に日本海交易に関わる港湾機能・流通機能を集中させ、十三湖北岸に宗教施設や城館を配置し、十三湖周辺の各種遺蹟が一体となった、広義の「十三湊」が形成・展開する。室町時代末に成立した「廻船式目」に、日本の十大港湾、三津・七湊の一つとしてあげられた「奥州津軽十三湊」の姿は、この頃の賑わいを伝えたものと推定される。
安藤氏が十三湊に進出したのは、安藤師季(初名、高季)と斉藤利男氏(7)はみている。津軽での北朝・足利尊氏方と南朝・後醍醐天皇方との戦いが北朝優勢と固まり、師季が「津軽郡守護」と呼ばれ津軽での足固めができた時期に、藤崎町向かいの「尻引」の地から、十三湊に拠点を移したと考えられる。
・歴史上のできごと ⇒ 永享四年(1432)10月、安藤氏が南部氏との合戦に敗れて蝦夷島に渡り、幕府がその調停に乗り出す。翌年、十三湊へ復帰。
15世紀中葉以降、十三湊は大きく変貌する。まず、大土塁北側地区の衰退が顕著となる。火災を受けた痕跡、あるいは屋敷割が破壊されたような遺構がみられ、火災後広範囲にわたって火事場整理が行われたことを示す、大量の焼けた角礫、炭化材、被熱した土器・陶磁器を破棄した集石遺構、破棄された井戸跡などが多数検出された。かつての屋敷が墓域となった例もある。火災の原因は永享4年(1432)の安藤・南部氏戦争によるもので、山王坊遺蹟もその際に焼き払われたと考えられている。
一方、砂州中央の土塁北側に代わって土塁南側地区が繁栄し、居住域の移転が行われた。土塁南側地区では中軸街路に沿って掘立柱建物・井戸からなる屋敷割が展開し、十三湊南端に壇林寺が整備される。壇林寺では、土塁や一辺約55~65m四方の区画溝、墓域が確認され、茶臼や瀬戸花瓶・青磁盤などの奢侈品や宗教用具が出土している。「檀林寺地区」には、寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地が形成された。また、前潟沿い北西部に港湾施設が建設された。荷揚げ場とみられる礫敷きの区域や舫い綱(船をつなぐ綱)とおぼしき麻縄が巻かれた状態の木杭を含め、桟橋状の港湾施設跡が発見されている。
南部氏に追われた蝦夷島から十三湊復帰を遂げた安藤康季は、炎上した十三湊の土塁以北の市街復興は、港湾施設の再整備と、焼け跡の火事場整理のみで断念し、土塁の南側に、南北道路に沿った町場を建設したほか、土塁南1kmの「檀林寺地区」に寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地の整備を進めた。
福島城跡では一辺約200mの「内郭」が整備される。その南東隅には板堀で囲郭された屋敷が形成され、主殿・御殿(常御所)・会所などの建物と庭園をもつ邸宅を営んだ。室町時代の建築様式の影響を受けて整備された、安藤氏の政治拠点と推定され、十三湊から福島城へ拠点が移動したことを示している。
第三期は、都市機能が北部の港湾施設、土塁南側、さらに南の壇林寺地区と分散し、都市全体としては弱体化した。十三湊の火災による崩壊から安藤氏が蝦夷島に再度撤退するまでの期間は、10年ほどであった。
・歴史上のできごと ⇒ 文安二年(1445)12月、安藤盛季の子康季が蝦夷島より津軽奪回のため攻め入ったが、引根城(現、弘前市高舘山)で病死。
15世紀中葉頃、安藤氏が南部氏に再び敗れ、蝦夷島に亡命した後に十三湊は衰退・廃絶する。十三湊遺蹟では砂州西側を中心に厚さ約1~2mに及ぶ飛砂が堆積したことが判明している。また、明神沼遺蹟が立地する屏風山北端でも同じ頃に砂丘形成が進んだことが調査から判明している。かつて、十三湊は津浪で滅びたと考えられてきたが、南部氏との抗争や砂丘形成といった自然環境の変化により衰退したのが実態である。
15世紀後半、南部氏が十三湖一帯を領有したとみられるが、十三湊遺蹟では当該期の遺物がほとんど出土しないことから、南部氏は十三湊を積極的に利用することはなかったとみられている。十三湊の人口も急激に減少したものと推察され、ふたたび人口増加が認められるのは16世紀後半(戦国時代末期)以降である。江戸時代に入ると、十三湊は弘前藩領内の四浦の一つとして、青森・鰺ヶ沢・深浦とともに重要な湊津として整備され、近世十三湊が幕を開ける。
※十三湊遺蹟の変遷模式図は、十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイドブックから
こちらのページもどうぞ!
安部龍太郎氏の「十三の海鳴り」を読まれた方へ 外浜内真部の城跡については ⇒ 「内真部城館群」
安東氏に関連する武将・人物 ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
安東氏に関連する武将・人物 ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸朝時代」
安東氏に関連する ⇒ 「史料解説・史料・参考文献」
安東氏に関連する歴史 ⇒ 「安東氏関連年表」
詳しく解説 ⇒ 「安藤氏の乱」
詳しく解説 ⇒ 「安藤氏の系図とその系譜意識」
///////////////////////// 参考文献 /////////////////////////
(1) 十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイドブック 2012〈五所川原市教育委員会〉
(2) オセドウ貝塚発掘調査概報 市浦村埋蔵文化財発掘調査報告書 1992〈市浦村教育委員会〉
(3) 五所川原市遺蹟詳細分布調査報告書 五所川原市埋蔵文化財調査報告書第29集 2008〈五所川原市教育委員会〉
(4) 十三湊遺蹟 五所川原市埋蔵文化財調査報告書第30集 2008〈五所川原市教育委員会〉
(5) 青森県埋蔵文化財調査報告書 第548集 明神沼遺蹟・福島城跡5 青森県教育委員会 2014
(6) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(7) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈東京・斉藤利男講演レジュメ〉
(8) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(9) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(10) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(11) 総合研究 津軽十三湖−津軽十三津波伝承の成立とその性格 長谷川成一 北方新社 1988
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
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史跡観光スポット
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●浜の明神・中世の水戸口跡
「浜の明神(湊明神宮)」は鰺ヶ沢町から市浦に至る広域農道「メロンロード」に面しています。十三湖側ではなく、日本海側の道です。この神社は、十三往来に登場する「浜之大明神」と伝えられ、境内入口に「浜の明神遺蹟」の説明板があります。標高20mの丘に鎮座し、中世当時は神宮前の水域が十三湖まで続き、そこを航行する船の目印であり、守り神でした。湊明神宮の祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命。別名「水戸神(みなとのかみ)」港の神、河口の神で、湊神社は「出船入船の明神」として、十三漁業関係者の信仰を集めています。本殿は、伊勢神宮等の著名な社を模しているらしく、なかなか見ない造りになっています。拝殿からは「明神沼」が望めます。湊神明宮では、元治元年(1864)に本田水戸口(前潟の南端、セトバ沼の北)を開削した際に、神社の境内を拡張したところ、多数の神仏古像が発見されています。
神社から南へ約100mの海側に中世当時の水戸口へ続く道があります。そこから約500mに駐車場があり、砂丘を上がって日本海です。中世のころの水戸口は「古水戸口」と呼ばれています。
浜の明神は、十三湖から約4km南にあるので、十三湊遺蹟探訪の最初にまわってください。
※市浦地区には、「湊明神宮」、「十三明神宮」、「明神宮」と似ている名前の神社が3つあります。
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写真−浜の明神 左:湊明神宮と浜の明神跡説明板 中央:湊明神宮 右:拝殿から見える明神沼
●檀林寺跡
県道12号線、鰺ヶ沢蟹田線を北上し、十三湖が右手に見えてから、車で約3分にある「十三湊やすらぎの駐車帯(公衆トイレ)」のあたりです。この一帯は、これまでに数々の宗教遺物(中世陶磁器・五輪塔・金銅製のかけ仏・茶臼など)が出土していて、寺院跡として裏付けられていました。そこに十三藤原氏に関する伝承が結びつき、「隠居跡」や「檀林寺跡」といった名称が付されてきたのですが、中世の安藤氏の時代に何と呼ばれた寺院なのかは全く分かっていません。
檀林寺地区は十三湊が南部氏との戦いで焼き払らわれた後に、新たに開発され、寺院・領主居館・家臣団屋敷などが造られました。室町時代、15世紀半ばの十三湊はここらあたりまであったのだ、とご確認ください。
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●十三湊発掘調査室整理事務所(旧十三小学校)
県道12号線を北へ進み、市街地の加納旅館を過ぎて、右手にある十三コミュニティーセンター(旧十三公民館)を右折します。十三湊発掘調査室整理事務所の建物はかつての「十三小学校」。グランド(校庭)の発掘調査で、旧十三小学校グランドの西端部から一辺が約40mの方形居館跡が発見されています。この一帯が、安藤氏が南部氏に蝦夷島に追いやられる以前の十三湊における最盛期の中心区画でした。グランド前の道すじに当時の土塁と堀跡があります。土塁の高さは1~1.5m程です。「中世十三湊の土塁」の説明板が設置されています。重要な史跡ポイントです。ぜひ、訪れてください。
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写真−整理事務所(旧十三小) 左:元十三小校舎と校庭 中央:校庭脇の土塁 右:土塁説明板
●湊迎寺
メロンロードと県道12号線の交差点から北へ進み、車で2分・500m。道の右手に「浄土宗、十三山湊迎寺」の看板があります。十三湊の発掘調査で、湊迎寺の門前付近で集落や船着場(前浜跡)が確認されています。十三湊は13世紀前半、この一帯から始まりました。本堂に向かって、右側に石碑・石塔が置かれているそうです。その中にあった「十三山湊迎寺の五輪塔」は、現在、市浦歴史民俗資料館で展示されています。湊迎寺の創建については、建保3年(1215)浄土宗の開祖 法然上人の直弟子金光上人が檀林寺付近に庵を建て、後に現在地に移転されたという伝承と、元和6年(1620)、寛永2年(1625)開創説があります。寺宝は十王曼陀羅。
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写真−湊迎寺 左:門柱と湊迎寺 中央:湊迎寺正面
●十三神明宮
県道12号線を十三湖へ向かって北上します。湊迎寺からは車で2分。右手に鳥居が見えます。祭神は天照大神。拝殿の横の造りが伊勢神宮を模しています。江戸時代初期の創建が推定されています。拝殿の祭壇から奥宮の入口が見えるという変わった造りになっています。境内に「金刀比羅神社」もありました。
十三湖の水戸口開削工事の成就祈願のために、十三町奉行所本多軍蔵が浜明神(湊神社)に寄進したと伝えられる大弓が残されています。
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写真−十三神明宮 左:鳥居と拝殿 中央:拝殿 右:拝殿内部
●市浦歴史民俗資料館
十三湖の中島にあります。道路標識では「中の島ブリッジパーク」を目指します。建物の看板は「市浦地域活性化センター」となっていて、その後に隠れて「市浦歴史民俗資料館」とありました。安藤氏・十三湊遺跡に関する展示が充実しています。展示室は3つあり、発掘調査の成果がわかりやすく解説されています。見どころは、中国元代末期の外洋船(新安沈没船)の復元模型、十三湊に来港する姿を想像できます。その他、市浦地区の遺蹟の位置がわかる地形模型図。山王坊遺蹟から出土した五輪塔。十三湊から出土した陶磁器片では国内・中国から運ばれてきた様子がわかります。
古文書では、浄福寺「大般若経(複製)」。十三湊という地名が確認できる現存最古の史料です。広島県安芸津町浄福寺におさめられていた「大般若経」の奥書に、十三湊「快融」という僧侶が書写したと書かれています。他に安藤康季が再興した福井県小浜市にある「羽賀寺縁起(複製)」があります。
4月から11月まで「無休」。
※「中の島ブリッジパーク」から、福島城方面へ曲がる交差点までは、車で約4分・2.8kmです。
⇒市浦歴史民俗資料館の紹介HPはこちら
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写真−資料館 左:建物正面 中央:資料館前エントラス 右:資料館入口
●唐川城跡展望台
県道12号線、鰺ヶ沢蟹田線を北上し、正面が小泊へ、右手が海から山側に入る国道339号線の交差点(以下、県道・国道交差点)から「道の駅十三湖高原」方面に東に進み、車で1分・1kmにある「トライアングロード市浦SS」のガソリンスタンドを越えて約300mで北の方向の山側に進みます。進んで6分・1.5kmで、途中に「唐川城跡」と「春日内観音堂」の標識が道の左手にあります。唐川城跡展望台は、左側の道です。唐川城跡の一角にある展望台で、標高は約120m。十三湖周辺を見渡すだけでなく、日本海と十三湖に浮かぶような岩木山を見ることもできる、絶景スポットです。十三湖を訪れたならば、ぜひとも立ち寄りたい場所です。
安藤氏の山城と言われていた唐川城跡は、調査の結果、平安時代の「高地性環濠集落」であったことがわかりました。また、十三湊安藤氏の時代の遺物も発見されていて、中世に再利用されていたことも判明しています。
展望台から登ってきた道を降りると前述した「春日内観音堂」へ至る標識があります。ぜひ、セットでお訪ねください。
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写真−唐川城跡展望台 左:展望台 中央:安倍安藤氏顕彰碑 右:展望台内部の唐川城跡説明板
●春日内観音堂・龍興寺跡
場所は前項「唐川城跡展望台」を参照して、展望台と「春日内観音堂」との標識が立っている所から、「春日内観音堂」方向へ車で3分・650mで、観音堂石標が立っています。春日内観音堂(はるひないかんのんどう)は、唐川城跡の南東の麓にあります。津軽三十三観音の第17番札所で、本尊は聖観音像です。寛政8年(1796)に菅江真澄が当地を訪れています。降雨や融雪期に堂の後ろは約5mの滝となって、堂の横を流れ落ちる様子は、「十三往来」に記録される龍興寺跡と考えられてきました。
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写真−春日内観音堂 左:拝殿と滝 中央:拝殿 右:拝殿奥の鳥居と滝
●山王坊遺跡・日吉神社
海沿いの県道・国道交差点から東に進み、車で3分・3.4kmの水田が見える開けたあたりの北側に「山王坊日吉神社(さんのうぼうひえじんじゃ)の大鳥居が見え、手前に道路標識で「左折、山王坊遺蹟・日吉神社」と示されています。合掌形の破風を鳥居の上に付けた、山王造りの二重鳥居は近隣にはみられない珍しいもの。そこから山王坊遺蹟(日吉神社駐車場)までは、車で5分・1.5km。「山王」とは、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)の別称。日吉は「ヒエ」とも言い、「日枝」とも書きます。また、①安藤氏に関する日吉神社の地であった、②「十三往来」に記載される阿吽寺跡の地、③南部氏による焼き討ちにあった地であった、といった伝承が語られてきました。
山王坊は、谷の奥につくられた中世の宗教施設、十三千坊の中心とされ、杉の大木に覆われ、昼でも薄暗く荘厳さを感じさせる。一帯は古来より霊地として大切に守られてきて、境内には発掘調査で検出された礎石跡が見学できます。平成29年2月に国史跡指定。
現在の日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明。
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写真−山王坊日吉神社 左:参道鳥居 中央:宗教施設跡 右:拝殿
●オセドウ遺蹟・神明宮
海沿いの県道・国道交差点から東に進み、車で5分・4.1kmに小高い丘があり、そこが「神明宮」=「オセドウ遺蹟」です。現在は神明宮の社地で、オセドウ遺跡公園となっています。大正12年、県道の切り下げ工事中に貝塚が発見され、亀ヶ岡式土器につながる円筒式土器が多数出土し、これによって、「円筒土器」が命名されました。貝塚は縄文時代前期~中期のヤマトシジミを中心としたもの。同年6月に村人有志による調査で、貝塚から完全な人骨が発見されました。「オセドウ貝塚発掘調査概報(市浦村)」によると、発掘された人骨は、壮年の男性。自然遺物としてはマイルカ、鯨の一種の骨も出土し、オセドウ貝塚人は、漁猟を中心とした生活で、湖では、シジミのような貝類を、海では、鯨類を捕獲することが得意であったようだ、と書かれています。
神明宮(しんめいぐう)の創建年は不詳で、祭神は天照大神。神明宮は、伊勢神宮内宮を総本社とすめ神社で、通称として「お伊勢さん」と呼ばれていることが多く、この神明宮も神社のある丘の名前が「伊勢堂」と呼ばれていて、オセドウ貝塚の「オセドウ」は「伊勢堂」が訛ったものです。
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●福島城・内郭
海沿いの県道・国道交差点から東に進み、車で5分・4.5kmで、右手に「福島城跡」の標識が立っています。細めのジャリ道を進むと、復元された櫓が建っています。櫓には本丸と書かれていますが、ここが内郭です。櫓とその前にある堀を渡る橋は、崩れる危険性があるということで、通行できません。内郭の門跡復元は昭和63年に行われていて、朽ちるにまかせられています。櫓を正面に見て、左手方向に「福島城跡・内郭」説明板があります。この道をもう少し左手に進むと堀と土塁を渡り、内郭に入れる箇所があります。土塁の高さは膝下程度、堀の幅は1.5m程度です。福島城内郭の広さは一辺が約200mの四角形で、中に入るとただ広い原野。その面積は東京ドームとほぼ同じです。せめて、発掘調査で見つかった、安藤氏の居館跡がどこなのかの標識がほしいところです。
内郭から県道に出て東に数百mの地点に「福島城外堀跡」があり、こちらは立派な大土塁と広い堀があります。内郭だけでなく、外堀もぜひご覧ください。
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写真−福島城内郭 左:復元された櫓 中央:内郭の土塁と堀 右:内郭の内部
●福島城・外堀跡
福島城内郭から、国道339号線・県道12号線に戻ってから、東へ約700m右手(十三湖方向)に位置します。駐車スペースあり。堀と土塁がセットになっていて、堀に立っての土塁の高さは約4m。圧巻です。福島城の内郭を見て満足して、ここに寄らないのは大きな損!外郭は一辺が約1kmの正三角形を十三湖方向(南)に向けた形をしています。ここからすぐの内郭よりの道路に「福島城跡駐車場」があり、そこに福島城跡説明板があって「福島城跡の地形測量図と遺構配置」図が掲載されています。他には見られない資料ですので、ぜひご覧になってください。
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写真−福島城外堀跡 左:外堀跡入口 中央:外郭の大土塁と堀跡 右:外堀跡手前の駐車場にある説明板
主な遺跡の文献資料情報
1.十三湊遺跡概要
十三湊(とさみなと)には、日ノ下将軍と称された安藤氏が支配した、繁栄した港湾都市があった。それは中世の日本を代表する「三津七湊(さんしん・しちそう)」と言われた十大港湾都市の一つであり、蝦夷島に行く船や都へ向かう船が集結し、中国の貿易船や高麗の船も入るといわれた、東北アジアの国際貿易港であった。特に蝦夷地のアイヌ民族との北方産品を交易する拠点港として栄えた。十三湊が位置するのは、青森県岩木川の河口部に形成された巨大な潟湖、十三湖(じゅうさんこ)と日本海の間に形成された砂州の上である。現在は、日本海から湖の西側に直接入る水戸口(十三湖大橋あたり)があるが、中世の時代は、前潟・セトバ沼・明神沼がつながっていて、つがる市富萢町清水にある「浜の明神(湊神社)」近くで日本海とつながっていた。船はその水路を約5km遡って十三湖に入ることになる。港湾施設は、現在の市街地のある砂州地の西側、水路に面した所にあった。港湾施設は時代によって移動しているが、概ね、現在の「前潟」の終端あたりとなる。
南北朝時代の作といわれる「十三往来(とさおうらい)」には、十三湖周辺の情景が神社仏閣とともに描かれて中世十三湊の繁栄ぶりを伝えている。『滄海漫々トシテ夷船、京船(唐船)群集シテ艫先ヲ並ベ調舳湊ニ市ヲ成ス。』
2.浜の明神・中世の水戸口跡
「浜の明神」と呼ばれる湊明神宮は、十三湖の日本海からの水戸口(十三湖大橋)から車で5分、約4km南にある。神社を背にして向かいに明神沼と防風林がある丘陵があり、その先が日本海。神社から西南方向の浜に「古水戸口(ふるみとぐち)」があった。浜の明神は、『十三往来』に登場する「浜之大明神」と伝えられ、十三湊領域の南限に位置し、中世の水路をみおろす標高20mの砂丘上に鎮座する。十三湊に入る水路の守り神であり、湊に出入りする船舶を監視する重要な施設でもあった。
幕末の元治元年(1864)に神社の境内を拡張したところ、境内から懸仏などの神仏古像119体が発見された。うち1体が「湊迎寺」に伝えられている。それら古像は14~15世紀の十三湊全盛期のものである。
現在の湊神社は江戸時代の延宝4年(1676)に創建され、浜の明神跡に建てられた。
3.檀林寺跡
県道12号線、鰺ヶ沢蟹田線を市浦に向かって北上し、「十三湊やすらぎの駐車帯(公衆トイレ)」から北へ車で1分、300m先に道路の左手に「中島製材所」の看板がある。檀林寺跡 〈註1〉 はそこから西へ入った地域である。檀林寺地区は、国史跡「十三湊」の南端にあたる。遺跡の中心部は現在、製材所と民家の敷地となっていて、遺跡確認は困難である。昭和15年、開墾中に礎石跡が発見されて遺跡が周知された。
檀林寺が建立されたのは、15世紀中葉の室町時代に安藤氏が南部氏に蝦夷島に追われて、幕府の調停により十三湊に帰還した後と考えられている。安藤氏は、砂州地中央の大土塁南1kmの「檀林寺地区」に寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地の整備を進めた。15世紀中葉に相当する中世陶磁器、茶臼、石造物など多数出土している。平成 17 年に「十三湊遺跡・檀林寺跡地区」 として国史跡指定を受けている。
- 註1:檀林寺という名称は「十三往来」に書かれる中世にあった寺院、ということではなく、十三藤原氏の伝承に関連するもの。この一帯は古くから「隠居跡」と呼ばれていた。十三藤原氏が安藤氏が十三湊を支配する以前に十三を拠点とする豪族とする伝承や十三藤原秀栄が檀林寺に隠居したとする伝承があった。
檀林寺の名称は、「前代歴府」に「興国元年に台風があり、多くの死者が出て、『檀林寺』栄蓮禅定門の木像が流失した」として登場している。前代歴府は、江戸時代初期にその元本がまとめられている。十三藤原氏自体、歴史の裏付けが見当たらない。
4.十三湊発掘調査室整理事務所(旧十三小学校)、大土塁と堀跡
前潟のほぼ中央にある「湊迎寺」の北東、車で約4分・600mの位置にある。砂州地の中央から東よりにあり、旧十三小学校校舎が現在の「十三湊発掘調査室整理事務所」になっている。建物敷地からは十三湖がかいま見える。この地では、安藤氏の十三湊最盛期に造られた「大土塁と堀跡」を見ることができる。小学校グランドに接する道があり、その道に沿って南側(グランドの反対方向)に土塁と堀跡がある。ものの本には「大土塁」と書かれているので、実際に見たら少々困惑するかもしれない。ただ、中世の地面は今よりも低く当時はまさに大土塁であったのだろう。中島にある市浦歴史民俗資料館に飾られている発掘写真では、人がすっぽり入ってしまう高さがあった。(隣接する堀の底に立っていると思われる。)学校校舎は東西に平行に建設されていることから、土塁も東西に伸びていたことがわかる。資料館に掲示している当時の十三湊復元図では、土塁と堀は前潟から十三湖まで砂州を横切り造られていたことがわかる。
発掘調査によって、土塁は14世紀後半から15世紀前葉(100年の1/3)に造られ、そして、土塁は「福島城の外郭」の大土塁と同じ構造で、同じ時期に造られたとされている。十三湊の最盛期、この土塁の北側が安藤氏の居館、武士屋敷などがある領域であり、土塁と堀は十三湊都市域の南限を区切る領地の境界、防御施設であった。
旧十三小学校グランド(校舎南側)の発掘調査で、南北の一辺が約40mになる四角形の範囲で周囲を区間溝で囲まれた方形居館が発見された。区画溝の規模は、幅1m、深さ50cm。屋敷地の大きさから安藤氏の惣領家ではなく、港を支配した安藤一族の屋敷とみられ、建設時期は13世紀初め~14世紀と想定されている。(この方形居館は最盛期には埋め戻されている。安藤氏惣領家の入部により安藤氏代官の港支配が必要なくなったことが考えられる。また、斉藤利男氏(1)はこの居館の主を、安藤祐季=湊孫次郎祐季と推定している。)
土塁の北側(旧十三小学校とその裏・北側に広がる畑)には、掘と塀と溝に囲まれた、東西130m、南北100mの方形区画が確認された。この内部には、細部化された屋敷空間が広がっていて、出土遺物では青磁酒会壺や瀬戸仏花瓶など、身分の高い人々の居住域であることを示す奢侈品の陶磁器(威信財として使用)が多く出土している。
また、井戸跡からは、大量の白木の箸に伴って、京都のカワラケ文化をまねた宴会儀礼で使用された「手づくねかわらけ」がまとまって出土した。年代は15世紀前葉で、青森県でこの時代の手づくねかわらけが出土しているのは、今のところ十三湊以外にない。これらの事実から、この方形区画が十三湊最盛期の中心区画であり、領主安藤氏の屋敷か、それに準ずる何らかの施設があった場所であった可能性が高く、安藤氏惣領家の大規模な屋敷建物はこの区域にあっただろうと想定されている。
土塁の北側地区では、火事場整理跡が発見されている。大量の焼けた角礫、炭化材、被熱した土器・陶磁器を破棄した集石遺構、破棄された井戸跡などが多数検出された。そして、集石遺構から出土する陶磁器の時代から火災は15世紀の前葉と推定され、この火災は第1次安藤・南部氏戦争によるものである。また、その後の時期の遺物が激減すること、かつて屋敷だったところに墓域が形成させるなど、火災後急速に北側地区が衰退していった状況も判明した。
一方、土塁の南側地区の遺物は15世紀後半のものが多いこと、被熱した陶磁器がほとんど見られないことから、火災後に新たに都市建設された町屋地区だろうと考えられている。
5.湊迎寺
湊迎寺門前の発掘調査から、集落や船着場(前浜跡)が確認され、前潟に面するこの地区が十三湊遺蹟初期(13世紀前半~14世紀代)の港湾集落であることが判明した。中国産の青磁杯、瀬戸焼(古瀬戸)の梅瓶(めいびん)や四耳壺(しじこ)、能登半島産の珠洲焼の壺・甕・擂鉢、越前焼・常滑焼の壺・甕などが出土した。この場所からは、14世紀後半~15世紀前葉の遺物が全く出土しなかったことで、十三湊の最盛期には土地利用がされず、港湾施設の中心部は前潟の大土塁の北側に当たる地区に移行していったことも明らかになった。また、中世の遺物は道路面から2.3m下の黒色の腐食土層から出土し、上層の近世面と中世の生活面との間に、約1.2~1.4mの黄褐色の飛砂層が堆積していた。このことから、中世の十三湊が廃絶してから、近世の十三湊が始まる16世紀末までの間に飛砂が堆積し、南の前潟沿いの地域に砂丘が形成されるなど、地形が変わってしまうほどの自然環境の変化があったことが判明した。
「浜の明神」から、元治元年(1864)に発見された古仏像1体が「湊迎寺」に伝えられている。
6.唐川城跡
唐川城跡は、十三湖北岸の標高140~160mの独立した丘陵上にある。城跡は、中腹にある展望台の裏の高い平場にあり、土塁と堀跡などが現在も良く残されている。城には、南部氏に攻められた安藤氏が居館であった福島城跡を捨て、最後に立てこもった詰めの城で、落ち延びる際に今も残る井戸跡に宝物を隠して、蝦夷島へ渡っていったという伝承が伝わっている。平成11~13年度に富山大学が発掘調査を行った結果、安藤氏時代よりも古い平安時代後期(10世紀後半~11世紀代)に築城された「高地性環濠集落」であり、その後、安藤氏時代(15世紀)に一部が再利用されていることが判明した。唐川城跡は他の環濠集落を圧倒する大規模なもので、南北700m、東西200m。山頂の平坦面には土塁と堀によって、大きく3つの郭(北郭、中央郭・南郭)が設けられ、その東側には帯郭状の堀を巡らしている。北郭と南郭には現在でも大きな井戸跡が残り、南郭の井戸跡周辺には竪穴住居と考えられる窪地が多数確認されている。
南郭の竪穴住居跡では床面が焼土で覆われ、金床石(鉄を打ち付ける台)や鍛冶関連遺物が検出され、精錬炉跡ではフイゴ羽口(風を送る道具)や多数の流動滓(鉄くず)が発見された。このことから、唐川城内で鉄製品を作る集団がいたことが判明した。また、竪穴住居跡内からは平安時代後期にあたる土師器の坏・甕、五所川原産須恵器の長頸壺・甕、土錘(漁業用網のおもり)のほか、北海道を起源とする擦文土器が出土した。
一方、標高160mと最も高い中央郭では、頂部の平坦地から南東部にある、連続した二つの平坦面は切り盛りによる盛土整地が行われた屋敷地であったことが明らかとなった。安藤氏時代(15世紀前半)の小規模な掘立柱建物の柱跡や陶磁器が見つかっていて、中世にも砦のような施設が設けられたとみられている。
唐川城跡の遺構図
「十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイド」から 図をクリックすると拡大し、説明が読みやすくなります。
7.山王坊遺跡・日吉神社
山王坊遺跡は十三湖北岸の相内川支流の山王坊川の谷間にあり、山林に囲まれた日吉(ひえ)神社の境内地となっている。山王坊は、十三湊から見て北東方向の鬼門の位置に当り、伝承では「十三往来」に記された阿吽寺(後に松前に移る)の跡と伝わっている。発掘調査の結果、礎石建物跡が極めて良好な形で残っており、神社跡や寺院跡の建物配置を示す神仏習合の様子が明らかとなった。また、出土遺物の年代から十三湊最盛期である南北朝~室町時代前期(14世紀中頃~15世紀中頃)にあたることも判明している。中世の宗教施設である山王坊遺蹟の発掘調査では、方形配石墓を特徴とする奥院、拝殿・渡廊・舞台・本殿が一直線に並ぶ社殿跡として復元可能な礎石建物跡、仏堂と推定される礎石建物跡が確認されている。
五所川原市の十三湊ガイドブック(1)では、山王坊遺蹟の遺蹟領域をA~Gに分けて示し、その内3つを主要なエリアとして扱っている。そのうち、C地区【仏堂跡】は、駐車場を降りての境内入口近くの西側平坦土地(駐車場から参道に向かって地点の左手方面)で、3棟の礎石建物跡が発見されている。最大の建物は入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物であると推定され、流水を跨いで建築されていることから、その先には庭園の存在が想定される。よって、通常の仏堂建築ではなく、平安時代以降に建てられるようになった住宅風仏堂と考えられている。また、他の礎石建物跡は、仏堂に伴う庫裏や参籠所などの付属舎と考えられている。
次に、B地区【社殿列跡】は、境内を進んでの山王坊川西岸の開けた平坦地(拝殿までの参道のほぼ中央)にあり、社殿列跡(神社跡)が発見された。建物配置を復原すると、南から拝殿、渡廊、舞台・中門・瑞垣・本殿が一直線に並んでいて、拝殿の西側には付属舎を伴っている。拝殿は、本来は仏堂(旧仏堂と呼称)であったと考えられ、『十三往来』にみられる阿吽寺(真言宗)であり、奥院とともに山王坊初期の遺構である可能性が高いとみられている。そして、安藤氏が南部氏に敗れて夷地に渡り、再度十三湊に戻った際に、日吉大社を新たに勧請して拝殿として生まれ変わったのではないかと推測されている。
A地区【奥院】は、平坦地を過ぎての山側斜面にあり、場所は参道から拝殿を見ての右手方向、拝殿入口の向かい側となる。A地区の2つの造成平坦面の高い平坦面から、一辺6mの方形配石墓をもつ奥院が発見された。建物配置を復原すると、北から奥院、鳥居、下段の平坦面には幣(へい)・拝殿と付属舎、その下方の緩斜面には石組階段が一直線上に並んで配置されていることが明らかとなった。ここからは僧侶の墓石の一部などが出土し、山王坊に関係する僧侶の墓か、あるいは山王坊を庇護する安藤氏一族の墓である可能性が高いとみられている。
山王坊遺蹟では火事の痕跡を示す二次被熱を受けた陶磁器が出土している。永享五年(1433)の十三湊陥落の際、十三の砂州上にある安藤氏の屋敷や湊町には火が放たれ壊滅したが、山王坊やその他の寺社群までが焼き払われて灰燼と化したことが、発掘調査の結果から明らかになっている。
山王坊域で出土した五輪塔、宝きょう印塔、板碑塔の石造物の一部は市浦歴史民俗資料館に展示されている。
⇒ 山王坊遺跡の紹介HPはこちら
////// 用語メモ //////////////////////
- 拝殿(はいでん) → 神社で、拝むために本殿の前に建てた建物。
- 幣殿(へいでん) → 神社で、参詣者が幣帛 (へいはく) をささげる社殿。拝殿と本殿との中間にある。
- 瑞垣(みずがき) → 神社・神域の周囲にめぐらされる垣。
- 庫裏(くり)→仏教寺院における伽藍のひとつ。寺院の僧侶の居住する場所。
- 参籠所(さんろうじょ)→参籠所とは、一定の期間籠って神仏にお祈りする施設。
8.福島城跡
福島城跡は十三湖の北岸、標高20~40mの台地に立地する城館である。南に十三湖を望み、その北側に宗教施設である山王坊遺蹟、西側に後背湿地・河川を伴い、東辺土塁・堀跡の東側は南北にのびる自然の沢で区切られている。遺跡は面積約62.5万㎡(62ha)で、「内郭」と「外郭」から構成され、従来から、安藤氏の居館が置かれた場所と推定されていた。福島城の名称は「十三往来」に記載された「福島之城郭」 〈註1〉 が初見となっている。内郭は一辺が約200m四方の四角形で、堀とその内側に土塁を伴う。一方、外郭は自然の沢を利用しながら、大規模な土塁や堀を築き、一辺が約1㎞の逆三角形の形態である。かつて、10~11世紀の施設とみなされたこともある福島城跡は、その後の外郭土塁や内郭の発掘調査によって、外郭土塁は14世紀半ば、内郭は15世紀の半ばの構築になる中世の施設であることが確実になった。「十三新城記」によると、正中年間(1312~1317)に安倍(安藤)貞季が「新城」(福島城に比定する説が有力)を造ったとされているが、福島城跡には当該期の遺物はみられない。
「内郭」の位置は逆三角形の外郭の中心から少し北西部に位置している。発掘調査の結果、内郭は15世紀前半に整備され、その南東部に板塀で区画された武家屋敷と考えられる遺構が出土し、その中に大型の掘立柱建物跡や池跡などが検出されている。時代は十三湊遺蹟第三期(安藤・南部氏戦争で十三湊が焼き落ちた後)とされ、安藤氏の居館跡と考えられている。また、「内郭」は、15世紀前半の安藤・南部戦争の後、安藤氏が十三湊に復帰して都市の再建が行われる時期までは、存在しなかったことも明らかになった。
「外郭」では東辺と北西辺に土塁・堀跡が存在し、南辺と北辺は自然地形を利用した要害となっている。外郭東辺には、台地を南北に切断するように、基底部幅8.9~10.5m、高さ3~4mの土塁、上幅約12mを測る堀跡が存在する。東辺土塁・堀跡の東側は南北にのびる自然の沢で区切られている。14世紀半ばに、「外郭」東土塁と東門が、十三湊都市域の東側を守る防御施設、および十三湊都市域に入る東の関門として設けられた。東門は、5.5m幅の土塁開口部に外側が開いたコの字型の柵列がつくられ、柵列の奧に幅3mの開口部が設けられて、門柱2本と控柱2本からなる門が設置されていた。東門より約200m南の外郭内に、土塁と溝を巡らし内部に井戸跡をもつ方形区画があり、東門の内側一帯の場所では、出入り口に伴う何らかの施設があったことを示している。
「外郭」東辺土塁は、中里方面から十三湊に入る陸上交通路「下之切通・しものきりみち」を意識した防御施設であり、城内への入城を制限する施設である。かつては、土塁に突き当たる空堀に沿って門跡(関所)を通過し、内郭に向かった。福島城の外郭東辺土塁は、十三湊の都市領域の境界線にあたる。発掘調査の結果、土塁の構築方法が基底部付近は黒褐色土と黄褐色土を交互に積み重ねて構築している版築技法で、十三湊の大土塁と類似している。「外郭」東土塁は東門以北の場所では立派につくられているが、東門より南方の、通行者からはみえない場所では、土を積み重ねただけの雑なつくりで、南に行くにつれて小規模になってしまう。
「外郭」北西辺には、台地を切断するように、北東から南西にかけて延びる土塁・堀跡が存在し、その規模は土塁が高さ3m、延長約70m、堀跡が上端幅11m、深さ1mで断面逆台形となっている。土塁の構造は東辺土塁と同様で、ほぼ同時期に北辺部でも土塁が構築された可能性が高い。「内郭」が福島城の台地北西部に立地することを考慮すれば、北西辺の土塁・堀跡は重要な防御施設の一つであったと推定される。
14世紀半ばから15世紀前半までの時期、福島城の全体がどのような形であったのか、現時点では、よくわかっていない。「福島城」の内部が何らかの形で使われていたことは間違いないが、福島城跡の全域が、「城館」といえるような施設には、なっていなかっただろうことが考えられている。
- 註1:福島城の「福島」は地名。山王坊を含め、この一帯は昔福島と呼ばれていた。
福島城跡の遺構配置図
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9.十三湊の港湾施設
十三湊の始動は鎌倉時代の初め(13世紀初め)である。青森県史(6)では「北条義時による安藤五郎が蝦夷沙汰代官職に抜擢された時期にうまく符合する。」と指摘している。初期の港湾施設は、前潟のほぼ中央部の十三湖にのびた砂州の西側、当時の水路に面していた。現在の湊迎寺門付近の海岸に港湾施設が造られた。そして、背後に港の支配者の屋敷を持つ港湾集落が形成されていた。14世紀後半、安藤氏惣領家が十三湊に進出すると、十三湊の街に大土塁が築かれたが、その段階での港湾施設は土塁の北側となり、初期の港湾よりも少し北側に移動したと推定されている。
安藤氏と南部氏との戦争で、十三湊は焼き払われた後の15世紀中葉のころの港湾施設は、さらに北側に移動した。この時期のものと考えられる港湾施設が、前潟沿い北西部で確認され、集落側から前潟側に向かう緩斜面上に南北約200mにわたり、礫を敷き詰めて足場を固めた荷上場跡と推定される遺構が出土している。そして、礫層が途切れる汀線に沿って土留め用の丸太材、かつて水中だった場所からは木杭列(もやい杭跡)が検出され、中には、木杭には麻縄が巻きついているものまであった。木杭列は桟橋跡で、麻縄は船の繋留用だったと考えられる。(発掘場所は十三神明宮から約100mほど北の前潟よりの場所)
十三湊の誕生から衰退まで
十三湊の誕生から滅亡に至る230年余りの歴史は、3つの区分でまとめられている。ここでは、中世十三湊の衰退を加えて説明する。十三湊はそれぞれの時期で、都市の性格や構造も全く異なっていたことが、発掘調査によって明らかにされている。
※前半・後半は100年を半分に分けたもので、前葉・中葉・後葉は100年を1/3にした区分。図をクリックすると拡大し、説明が読みやすくなります。
Ⅰ.成立と発展(13世紀初め~14世紀前半)※第一期
・時代は、鎌倉時代のはじめ~終わり・歴史上のできごと ⇒ 元久三年(1206)、幕府執権職に就いた北条義時が、安藤五郎を蝦夷沙汰代官職に任命する。
| 十三湊遺蹟の変遷模式図Ⅰ期 〈 前潟に面した場所に集落 〉 ・背後に領主館 |
13世紀初め、前潟に面した、現在の湊迎寺門付近の海岸に港湾施設が造られ十三湊が誕生した。集落や船着場(前浜跡)が確認されている。14世紀に入ると集落の規模は拡大し、集落の背後(砂州の内陸部)に安藤氏一族の居館として、約40m四方の方形居館が営まれる。十三湊を支配した領主権力の居館と推定され、規模からして代官クラスの居館と考えられる。
第一期に、領主居館を背後にもった港町が形作られたわけだが、この時期の十三湊は、港湾施設のある前潟に沿って集落が長く延びる、近世の十三湊集落とほぼ同じ形で、全国の一般の港町と変わらない景観をしていた。
Ⅱ.最盛期(14世紀中頃~15世紀前葉)※第二期
・時代は、南北朝~室町時代前期・歴史上のできごと ⇒ 延文四年(1359)、安倍師季(安藤師季)、深砂大権現や猿賀神社を再営。※安藤高季改名「師季」、津軽郡守護と呼ばれる。
| 十三湊遺蹟の変遷模式図Ⅱ期 〈 大規模整備、土塁北側に集中 〉 ・A地区:堀、板塀の区画 掘立柱建物+井戸 ・B地区:堀+板塀の方形区画(居館?) 掘っ立て柱+井戸+大型竪穴建物 ・C地区:柵囲い道路、板塀区画、 掘立柱建物+井戸 |
14世紀中頃、十三湊地区では、砂州の中央に東西方向に向かって、十三湊の南の境界となる大土塁(基底部幅10m、高さ現状1.6m、土塁の構築方法は黒褐色土と黄褐色土を交互に積み重ねて構築している版築技法による)と堀(幅10m)が建設された。
これと合わせて、土塁の北側に、土塁と堀に平行する道路・大溝・柵がつくられて、新たに大規模な屋敷割りが実施され、掘立柱建物・堅穴遺構・井戸からなる屋敷が展開する。そこには、安藤氏と家臣たちの屋敷群、交易に携わる住民の家屋、港湾施設、宗教施設が密集していたと推定される。
この時期に第一期の方形居館が埋め立てられている(代官所としての必要性がなくなった)。また、土塁以南にあった第一期の港町は消滅し、集落は土塁以北に集約された。
安藤氏惣領家が十三湊に入部したのはこの第二期であり、安藤氏によって本格的な市街地整備が行われた。安藤氏惣領家の居館は、十三湊発掘調査室整理事務所(旧十三小学校)の北側にあったと推定されている。
また,十三湊「都市域」の東境界として、福島城外郭の東辺・北西辺に大土塁(基底部幅10m、高さ現状1.5m、版築技法による)と堀が建設され、「外郭」が成立する。また、十三湖北岸の宗教施設である山王坊遺蹟が建設された。
十三湊最盛期には、十三湖西岸に日本海交易に関わる港湾機能・流通機能を集中させ、十三湖北岸に宗教施設や城館を配置し、十三湖周辺の各種遺蹟が一体となった、広義の「十三湊」が形成・展開する。室町時代末に成立した「廻船式目」に、日本の十大港湾、三津・七湊の一つとしてあげられた「奥州津軽十三湊」の姿は、この頃の賑わいを伝えたものと推定される。
安藤氏が十三湊に進出したのは、安藤師季(初名、高季)と斉藤利男氏(7)はみている。津軽での北朝・足利尊氏方と南朝・後醍醐天皇方との戦いが北朝優勢と固まり、師季が「津軽郡守護」と呼ばれ津軽での足固めができた時期に、藤崎町向かいの「尻引」の地から、十三湊に拠点を移したと考えられる。
Ⅲ.衰退期(15世紀中葉~)※第三期
・時代は室町時代の後半・歴史上のできごと ⇒ 永享四年(1432)10月、安藤氏が南部氏との合戦に敗れて蝦夷島に渡り、幕府がその調停に乗り出す。翌年、十三湊へ復帰。
⇒ 嘉吉三年(1443)12月、安藤氏は南部氏に再度敗れ、小泊から蝦夷島(松前)に逃れた。
| 十三湊遺蹟の変遷模式図Ⅲ期 〈 再整備、機能分散 〉 ・港湾地区:南北約200m、礫敷港湾施設 ・小型竪穴建物+墓域地区:鉄、 銅関連遺構、遺物(生産) ・D地区:側溝を伴う道路、 掘っ立て柱建物+井戸(一般、商人?) ・檀林寺地区:溝による方形区画、 土塁による区画、 板塀と柵による屋敷割り(領主と家臣?) 隣接して溝域 |
15世紀中葉以降、十三湊は大きく変貌する。まず、大土塁北側地区の衰退が顕著となる。火災を受けた痕跡、あるいは屋敷割が破壊されたような遺構がみられ、火災後広範囲にわたって火事場整理が行われたことを示す、大量の焼けた角礫、炭化材、被熱した土器・陶磁器を破棄した集石遺構、破棄された井戸跡などが多数検出された。かつての屋敷が墓域となった例もある。火災の原因は永享4年(1432)の安藤・南部氏戦争によるもので、山王坊遺蹟もその際に焼き払われたと考えられている。
一方、砂州中央の土塁北側に代わって土塁南側地区が繁栄し、居住域の移転が行われた。土塁南側地区では中軸街路に沿って掘立柱建物・井戸からなる屋敷割が展開し、十三湊南端に壇林寺が整備される。壇林寺では、土塁や一辺約55~65m四方の区画溝、墓域が確認され、茶臼や瀬戸花瓶・青磁盤などの奢侈品や宗教用具が出土している。「檀林寺地区」には、寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地が形成された。また、前潟沿い北西部に港湾施設が建設された。荷揚げ場とみられる礫敷きの区域や舫い綱(船をつなぐ綱)とおぼしき麻縄が巻かれた状態の木杭を含め、桟橋状の港湾施設跡が発見されている。
南部氏に追われた蝦夷島から十三湊復帰を遂げた安藤康季は、炎上した十三湊の土塁以北の市街復興は、港湾施設の再整備と、焼け跡の火事場整理のみで断念し、土塁の南側に、南北道路に沿った町場を建設したほか、土塁南1kmの「檀林寺地区」に寺院・領主居館・家臣団屋敷からなる新市街地の整備を進めた。
福島城跡では一辺約200mの「内郭」が整備される。その南東隅には板堀で囲郭された屋敷が形成され、主殿・御殿(常御所)・会所などの建物と庭園をもつ邸宅を営んだ。室町時代の建築様式の影響を受けて整備された、安藤氏の政治拠点と推定され、十三湊から福島城へ拠点が移動したことを示している。
第三期は、都市機能が北部の港湾施設、土塁南側、さらに南の壇林寺地区と分散し、都市全体としては弱体化した。十三湊の火災による崩壊から安藤氏が蝦夷島に再度撤退するまでの期間は、10年ほどであった。
Ⅲ.空白期(15世紀後半~16世紀)※近世に十三湊が復活するまで
・時代は室町時代の後半・歴史上のできごと ⇒ 文安二年(1445)12月、安藤盛季の子康季が蝦夷島より津軽奪回のため攻め入ったが、引根城(現、弘前市高舘山)で病死。
⇒ 享徳二年(1453)、津軽に侵攻した安藤義季(康季嫡子)は、南部氏に攻められて鼻和郡大浦郷狼倉舘で討死し、下国惣領家はここに滅亡した。
15世紀中葉頃、安藤氏が南部氏に再び敗れ、蝦夷島に亡命した後に十三湊は衰退・廃絶する。十三湊遺蹟では砂州西側を中心に厚さ約1~2mに及ぶ飛砂が堆積したことが判明している。また、明神沼遺蹟が立地する屏風山北端でも同じ頃に砂丘形成が進んだことが調査から判明している。かつて、十三湊は津浪で滅びたと考えられてきたが、南部氏との抗争や砂丘形成といった自然環境の変化により衰退したのが実態である。
15世紀後半、南部氏が十三湖一帯を領有したとみられるが、十三湊遺蹟では当該期の遺物がほとんど出土しないことから、南部氏は十三湊を積極的に利用することはなかったとみられている。十三湊の人口も急激に減少したものと推察され、ふたたび人口増加が認められるのは16世紀後半(戦国時代末期)以降である。江戸時代に入ると、十三湊は弘前藩領内の四浦の一つとして、青森・鰺ヶ沢・深浦とともに重要な湊津として整備され、近世十三湊が幕を開ける。
※十三湊遺蹟の変遷模式図は、十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイドブックから
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安部龍太郎氏の「十三の海鳴り」を読まれた方へ 外浜内真部の城跡については ⇒ 「内真部城館群」
安東氏に関連する武将・人物 ⇒ 「武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代」
安東氏に関連する武将・人物 ⇒ 「武将列伝 室町時代~江戸朝時代」
安東氏に関連する ⇒ 「史料解説・史料・参考文献」
安東氏に関連する歴史 ⇒ 「安東氏関連年表」
詳しく解説 ⇒ 「安藤氏の乱」
詳しく解説 ⇒ 「安藤氏の系図とその系譜意識」
///////////////////////// 参考文献 /////////////////////////
(1) 十三千坊の世界と十三湊~十三湊ガイドブック 2012〈五所川原市教育委員会〉
(2) オセドウ貝塚発掘調査概報 市浦村埋蔵文化財発掘調査報告書 1992〈市浦村教育委員会〉
(3) 五所川原市遺蹟詳細分布調査報告書 五所川原市埋蔵文化財調査報告書第29集 2008〈五所川原市教育委員会〉
(4) 十三湊遺蹟 五所川原市埋蔵文化財調査報告書第30集 2008〈五所川原市教育委員会〉
(5) 青森県埋蔵文化財調査報告書 第548集 明神沼遺蹟・福島城跡5 青森県教育委員会 2014
(6) 青森県史通史編1 原始 古代 中世 青森県 2018
(7) 十三湊から解き明かす北の中世史 第5回「東北歴史文化講座」2019.7.6〈東京・斉藤利男講演レジュメ〉
(8) 中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~ 2019〈斉藤利男・NHK文化センター青森教室講座レジュメ〉
(9) 室町幕府と東北の国人 白根靖大編 吉川弘文館 2015
(10) 奥羽から中世をみる 藤木久志・伊藤喜良編 吉川弘文館 2009
(11) 総合研究 津軽十三湖−津軽十三津波伝承の成立とその性格 長谷川成一 北方新社 1988
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 湯ノ沢館跡 - 前田蝦夷館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
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- 安東氏関連 武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代
- 安東氏関連 武将列伝 室町時代~江戸時代
- 安東氏関連 史料解説・史料・参考文献
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- 十三湊史跡観光と遺跡紹介
- アルバム:十三湊史跡観光
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- 安藤氏(安東氏)に関する情報は、関連本やインターネットでも、書かれていることはまちまちです。このサイトは関連本の情報を積み上げて、最新の研究(2019)ではどうなっているのかまでがわかります。
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