猿田彦物語
天の八衢の会設立までの歩み 猿田彦物語 その1
■統一原理との出会い
1992年3月、大学1年の時、友人の誘いで統一原理を学ぶ機会がありました。今まで聖書を読んだことも無く、宗教も信仰も知らない私でしたが、その聞いた内容は、私の心の中にあった人生についての疑問に明確な答えを与える内容でした。学んだ内容は、全て親にその日に伝えていました。高校の友人から紹介されたこともあった為、親もよく聞いてくれました。3か月後、6月25日にテレビで元オリンピックの新体操選手の山崎浩子さんが合同結婚式の参加を表明する報道がありました。
報道の内容は、肯定的な内容でなく両親を深く不安に陥れる結果となりました。明らかに偏向報道といえる内容で、教会で学んだ真理の内容は一切なく、両親を不安にさせるには、十分でした。
■自宅でなされた「一回目」の拉致と監禁
日本キリスト教団 東京愛隣教会牧師 須賀誠二牧師の指導
その年1992年の6月の山崎さんの報道後、教会の学びから帰宅すると、「統一教会で学んでいるんでしょ。」と確認されたので、両親に「そうです。」と答えました。両親は、脱会させる為に隠れながら聖書の解釈書、反対する書籍を何冊もよんでいるようでした。
そして1992年11月30日、伝道活動から帰宅し、寝室で休むと直ぐに、親と親戚が一緒に寝室に入ってきて、「話し合いだ。」と目隠しをされて窓にはスモークフィルムを貼ったワゴン車に押し込まれて、どこか分からないマンションの一室へ閉じこめられました。私は、「これが監禁か」と思い、必死に助けを求めました。犯罪行為に対して断固として戦いました。両親に「これは神様の教育方法と違う」と訴え、あらん限りの声で「監禁されています。」「助けてくれ!」と何をされようが、叫びました。それしかできなかったからです。
■警察がきてくれたが、、、
叫ぶだけでは、出られないとおもい、窓を思いっきり蹴とばしました。ガラスが地上に堕ちました。その数分後に、インターホンがなりました。現れたのは、刑事部長と名のる男性でした。私はこれで出られると確信したのですが、「さわがせるな。これは親子の話し合いだ」と一蹴され、頭をたたかれました。そして、刑事部長はその場を去り、監禁が継続されました。静寂が一瞬もどり、父が暴れる私に涙を浮かべながら、「これでもでも食べて、落ち着いて」ときんつば(あんこの和菓子)何度も差し出しました。当時はそのお菓子を食べることはできなかったです。わたしは、涙をのんで断わり、叫ぶことを継続しました 。監禁から脱出して30年たってはじめて、今度はこちらから勧めて、父と一緒に食べました。そのきんつばの味を忘れる事が出来ません。犯罪とわかっていながら監禁せざるを得ない心が、痛いほど分かるからです。
そのあと叫ぶなかで、管理人から連絡があり、「営業妨害だからでていってほしい」とのことで、解放されました。そのような経緯の中で、自宅に帰ることになりました。母が「武勇伝を教会で話したの?」というので、「話したよ。」と答えました。このときは、まだ、懲りないというか、親を信じているというか、両親はまた監禁をするとは思っていませんでした。
■親が子を騙すようになってしまった 「二回目」の拉致監禁
日本基督教団新松戸教会(当時) 吉田好里牧師の指導
一回目は急に襲われるということで監禁されました。それでも、親を信じていた為、自宅から教会に通い、伝道と礼拝に参加する生活をしていまいしたが、大学の卒業という節目を迎えました。
私は、親族に教会のことを知ってもらい、統一原理を伝えるため、いろいろと努力しました。世界平和女性連合創設大会(東京ドーム)に、両親を誘い、来てくれました。機会があれば、両親に教会のVTRを見せていました。そのような中で、1995年3月、卒業祝いをしてくれるという事で、自宅に親戚が集まってくれる場がありました。当然私は希望に感じて、教会のVTRを見せました。そしてお祝い金を親戚からもらい、外で食事、ボーリングをして良い雰囲気の中で帰宅することになりました。
ところが、帰宅するはずの車は、自宅に向かわず、高速道路を走っていました。私は、騙されたと気づいて車のなかで暴れました。そして落着きをとりもどすという事で、利根川の河川敷に行き、私は車から出ることができました。時刻は午前4時を過ぎていました。そこには、遠い親戚の車も合流して、私は車から出ることが出来て、話し合いから、もみ合いになりました。一瞬のスキをついて頭づきを親戚にくらわし、親戚と親がもめた時、走って土手をあがり、朝日がのぼる中で畑を横切り、追いかけてくる親戚と、息があがった胸を抑えながら追いかけてくる父親をふりきり、民家に逃げ込み、倉庫と家の間の隙間に入り込んで、むしろ(竹・蒲(がま)などの植物を編んでつくった敷物)を被って息をひそめました。車のエンジン音や私をさがす音や声がなくなるまでじっとしていました。
この時はじめて、もう実家には帰れないと思いました。両親は子供に嘘をつくようになってしまったからです。このことはいつか解決しないといけないし、もともと信頼関係が強かった両親が私を信ぜず、私をだますようになってしまったのは何故なのか、真実を聴きださないといけないと思いました。親が何故子供をだますようになってしまったのか?こちらはだましていないのに。
この時から、親を取り戻さないといけないと思うようになりました。目を覚まさせないといけないと。嘘をつく親を救わないといけない。嘘をつくように指導した日本基督教団の牧師の信仰とはどんな信仰なのか?どうして噓をつかせるのか?監禁が教えにあるのか?疑問と怒りに燃え、より熱心に信仰するようになり、親をだました牧師の真実を明らかにしないといけないと思うようになりました。
■名前をかえて生きる人生
両親に嘘をつかれ、監禁の為の強制護送されたことから、もう実家には戻れなくなりました。名前も変えて両親に居場所も教えることが出来なくなりました。信仰を守ることの大切さを考えるようになりました。
毎日の生活の中では考えない大きな問題と向き合うようになったのです。両親が子供である私に嘘をつくように指導する日本基督教団の牧師。
注1:牧師は、脱会した信者の家族の会(「被害者家族の会」)を指導。「被害者家族の会」からは、「礼拝の献金が少ない、多く入れなさい」など、指導があったことを、後になって、母から聞きました。
監禁を親子の話し合いだとして、その行為に目をつぶる警察。教会の姿を公正にではなく偏向して報道するマスコミ。私の知らない教会の問題点。確信した真理のすばらしさと世の中の価値観との違い。監禁の経験を通じて信仰の大切さと自由ということを考えるようになっていきました。
そんな中、二度目の拉致の1年後、1996年の誕生日(12月)に急に教会のFAXに父親から誕生日のメッセージが届きました。見た瞬間に気持ち悪いイメージが入って来ました。それは、ケーキが描いてあるものでしたが、また監禁を企てていると直感しました。できることは、逃げやすい靴を履いていつも背後を気にして生きることしかできませんでした。監禁が1997年4月だったので、直前に安心させようとして送ったFAXであったと今(2025年)は分かります。
■3度目の峠を超えれば私たちの時は来ると決意をした「三回目」の路上拉致
1997年4月11日に、いつものように仕事に出かける時、私の名前を呼ぶ父の声が聞こえました。それを合図に、親戚と父親が私を羽交い締めにし、私はワゴン車に押し込まれました。「助けてくれ。」と叫ぶ以外に方法はなかったので、私はとにかく、大きな声で力いっぱい叫びました。ワゴン車の窓はスモークフィルムが貼られており、客席の窓は開かないように固定されていました。
このワゴン車には両親と妹の他、見知らぬ男性(私が知る脱会者の親、注1)が1人乗っていました。親族以外の第三者までが関与していたことから、私に対する拉致監禁が組織的に行われているのだということを知り、怒りが強く湧いてきました。車は千住駅前を経由して千住新橋を渡り、高速道路の入り口に向かって走りました。 するとパトカーが追いかけてきて止められました。 パトカーはマイクでワゴン車を誘導し、千住警察まで行きました。 私は外に出たいと思いましたが、親族から掴まれていたため身動きができませんでした。誘導されたワゴン車は警察署の駐車場に入り、ワゴン車の扉を警察官が開けました。 すると父が「こいつは統一教会で狂わされているんです。親子の問題なんです」と言いましたが、警官はこれを聞かず、「どうしたんですか?」と私に尋ねてきました。 私が「拉致されたんです。基本的な人権があるんだからここから出して下さい」と言いました。 すると警官は「本人がこう言っているし、本人の意思もあるんだから、降ろしたらいいんじゃないんですか」と言いました。 すると私の拉致を手伝っていた見知らぬ男女7、8名がその警官を取り囲み、「こいつはマインドコントロールされているんだ」と一斉に叫びました。 その警官はこれに圧倒されて、遂に「行っていいです」と言いました。警官は、「マインドコントロール」という言葉を聞いた時に、態度がかわりました。今から考えると、科学的でないと否定されている「マインドコントロール理論」が、「正しい」と認識していた−そのような教育を受けていたのではないか、それより、「拉致監禁」を止めず、結果的には、「拉致監禁」に協力するようになったのだろうと思います。 私は、『3度の峠を超えれば私たちの時は来る』と心に誓いこの試練を越える決意を固めました。力では、解決しない。愛で勝利しないかぎり解決しないのだと悟りました。車は前回と同じ高速道路を使用して2回目の拉致の際に連れて行かれたサンライズ太田の駐車場まで行きました。 他にもワゴン車2台に両親等と共にいた男女が分乗してついて来ていました。 親族は私に降りるようにしきりに言いましたが、私は拒みました。 この時、囲んでいた見知らぬ人たちに悔しさから、「いつかみていろ」と伝えました。にやにやと笑うその人々の顔は、いまも忘れられません。そして、親族と見知らぬ男性たち(後でわかったが、被害者家族の会のメンバー)に担がれて、群馬県太田市東別所サンライズ太田209号室に監禁されました。
注2:「この男性」とは「被害者家族の会」(脱会した親や信者で構成される会)のメンバーで、監禁などの協力があるとき動員された人。自分の妻と協力して、娘を拉致監禁、棄教脱会させた人物。その娘は棄教したが、「拉致監禁が犯罪であること」を知った母親とともに拉致監禁をなくすべく、「拉致監禁をなくす会」を2009年11月に発足させた。その母親から聞いたところによると「私を路上拉致の運転手の男性」が、脱会した姉妹の父親であることを知る事となった。
■統一教会の路上拉致について AIの回答
旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者に対する路上での拉致は、過去に多数発生した
脱会を目的とした強制的な監禁事件を指します。これは、教団の信者であることを知った家族や脱会を促す業者らが、信者を無理やり連れ去り、教団から離脱するよう説得・強要したものです。
路上拉致・監禁事件の経緯
発生時期: 1970年代から1980年代にかけて、多くの信者が脱会を目的に拉致・監禁されました。
手口: 路上で待ち伏せて無理やり車に乗せるなど、本人に拒否権のない状態で連れ去るという強硬な手段が用いられました。
目的: 監禁された場所(アパートの一室など)で、家族や脱会説得業者から長期間にわたり脱会を強要されました。
裁判: 長期にわたる監禁被害を受けた信者が、拉致・監禁に関わった牧師らを相手取って提訴し、被害者側の勝訴判決が出た事例もあります。
とあります。このような犯罪を親にさせるようにするには、親が完全に教育されないと難しいです。
以下母の証言を聞いて頂くとどのように牧師に教育されて監禁をしたかが分かります。
参照:ベアの見る統一教会
【猿田彦大神が見る統一運動】猿田彦お母さん初出演!
拉致監禁の経緯と心境 ゲスト:猿田彦大神お母さん
https://www.youtube.com/watch?v=Y6cLfzEZeCc&list=PLvuHrSHNIxlN-VKjjiUCakA2ki88AWQrH&index=4
天の八衢の会設立までの歩み 猿田彦物語 その2
■監禁された部屋の様子
入り口のドアは南京錠、ダイヤル式の鍵及びチェーンによって三重の鍵(図3)がしてありました。 部屋の間取りは4LDKで、4つの部屋のうち2つは入り口の横の部屋で外の廊下に面しており、残りの2つの部屋はベランダに面していました。ベランダに面した一方の部屋の窓は、厚さ1センチ5ミリほどのベニヤ板(図1)によって塞がれ、残りの1つの部屋の窓は厚さ1センチほどのセルロイドの特殊の板(図2)がはめ込まれていました。 ベニヤ板は長さ5センチぐらいのビスが約10センチおきに打ち込まれて窓枠に固定されており、しかも窓自体の鍵も固定されていて、開かないようになっていました。
さらに、新たに玄関との間に頑丈な施錠できる扉を設置(図4)して、牧師が来たときにゆっくり話せる空間をつくった。

また、バス・トイレのドアは鍵がかからないようになっていました。さらに、廊下に電話器がありましたが、木の箱で覆われており、その蓋は南京錠で施錠してありました。 私は何とか脱出しようとして暴れましたが、その度に親族から、取り押さえられ、最後は手足を縛られました。 手は後ろ手に回され包帯とガムテープで縛られ、その上から建築用のパイプを固定するための結束バンドで縛られました。 両足も同じ用に包帯、ガムテープ、結束バンドで縛られました。手を後ろ手に縛られたため、肩は脱臼しそうになり、激痛が走りました。 また、手足を縛った結束バンドは動けば動くほどきつく閉まり、そのうち結束バンドが皮膚に直接喰い込んできました。 私がどんなに泣いて頼んでも、この日は結束バンドをはずして貰えず、両手は翌日まで、両足は3日間縛られ続けました。 縛られて2日目に体中に痒みが走ったため、風呂に入れてくれるよう頼みました。 すると、父は両手両足を縛ったまま私を風呂に入れ、私の体を洗いました。 この間、食事をするときも手足が使えなかったので、口だけで食事をしました。 このことはとても屈辱で耐え難い事実でした。

因みにこのサンライズ太田の改造監禁部屋には、宿谷麻子さんご家族も私の両親から借りて監禁部屋として使用されていたことが、母の証言により明らかになりました。
Aの場所は監禁された事、そして用意周到にアパートが改造された事に対する怒りを自制できずに、私が拳で穴をあけた壁です。

サンライズ太田
https://realestate.yahoo.co.jp/catalog/detail/a52c6884fcbd92a1902372f36c3dfa8fb16a7902/
■賃貸アパートを監禁の為に改造することは違法か AIの回答
賃貸アパートを監禁のために改造することは、複数の点で違法であり、犯罪行為に該当します。具体的には、監禁罪と賃貸借契約違反が問題となります。
監禁罪
監禁のためにアパートを改造することは、刑法上の「監禁罪」にあたります。
刑法第220条(監禁罪):「人を逮捕し、又は監禁した者は、3月以上7年以下の懲役に処する」。
監禁の定義:
監禁とは、人を一定の場所から脱出できないように拘束することです。
監禁のための改造は、この監禁行為の準備にあたります。
貸借契約違反
賃貸物件の入居者は、大家さんの許可なく建物の構造を変更することはできません。監禁目的の改造は、賃貸借契約の重大な違反行為です。
無断での増改築:賃借人は賃貸人の所有物を無断で増改築・構造変更することはできません。これは他人の財産権を侵害する行為です。
善管注意義務違反:賃借人は、善良な管理者の注意をもって賃貸物件を使用する義務(善管注意義務)があります。
物件を監禁のために改造することは、この義務に違反します。
原状回復義務:賃借人は、契約終了時に物件を元の状態に戻す義務(原状回復義務)があります。監禁目的の改造を行った場合、原状回復にかかる費用を全額負担しなければなりません。
まとめ
犯罪行為:人を監禁することは、監禁罪として刑事罰の対象になります。
民事責任:大家さんとの賃貸借契約違反として、契約解除、損害賠償請求、原状回復費用負担といった民事上の責任を問われます。
したがって、賃貸アパートを監禁のために改造する行為は、刑事と民事の両面で厳しく罰せられる違法行為です。
とあります。
監禁の為にアパートを改造したと母から聞きました。
いまからでも自分を監禁したアパートの管理者に聞いてみる必要があると思います。
私が数年後自分の監禁された部屋を訪問して、自身の拳であけた大きな穴がありましたが、当時のまま穴があいたままでした。皆さんも自分の監禁アパートをたずねてみては如何でしょうか?
■数日がすぎ清水与志雄牧師があらわれる
数日後に、清水与志雄牧師が、来ました。
私が「来て欲しいなんて言っていない」と言うと、意外な様子でした。
注3: 今年2025年、「2008年に監禁偽装脱会した拉致監禁被害者」から、「裁判対策の為に必ず、牧師の話を聞く事を了承する書類に署名させられる」ことになっているとの話を聞きました。日本基督教団立川教会愛沢牧師の事例)
この日以降、清水牧師は週2回、月曜日と金曜日に監禁場所に来ましたが、私が相手にしなかったために、一方的に1時間ぐらい統一教会の批判をして帰りました。 5月からは清水牧師の元で脱会した女性信者数名が週2回、清水牧師と一緒に来るようになりました。(この中には今利理恵さんもいました)
私は夜、両親等が寝ていた時に、何か脱出するために役に立つものはないかと思い、台所の下の物入れなどを探しました。この時、台所の下に包帯、ガムテープ、縄といった私を縛るための道具が隠されていたのを発見しました。 一つ一つ出られないように工夫されて改造されている部屋をみては、怒りがおさまらず、壁を何度も殴りました。

穴をあけた部屋 ここで毎日敬拝を2000拝捧げた
数年後、教会員と壁の穴があるか調べに行きました。なんと、住人の方に聞いて見ると壁には穴があるとの事でした。「ここに監禁されていた」事を伝え、確認させて頂きまして、風呂の換気口に隠した伝道した人の名簿があるのを確認し、もって帰りました。これらのことに、住人の方はびっくりしていました。2004年頃のことだった思います。
とにかく監禁で一番難しかったのが、怒りを抑える事でした。
■おまえを愛している。わたしの願いをかなえておくれ
拉致監禁当初から、両親から原理講義をしてほしいといわれていたので、原理講論4冊、聖歌4冊、16万名の女性修練会、男性修練会のみ言と、韓国語の原理講論を買ってきてもらい、原理講論を最初から最後まで講義しました。そのような中で、「拉致されたと考えるのではなく、私が両親を修練会に招待したのだ」と考えるようになりました。
そうする中で、ある日、いつも聞いているラジオから、「100万本のバラの花」という歌がながれてきました。その瞬間、温かい声の塊が胸の中で響き渡り、「おまえを愛している。私の願いをかなえておくれ」という思いが胸にせまってきました。
そんな体験もあり、「神様の願いは何か」を心に留めて生きるようになりました。また自身の信仰を守る為に絶えず祈祷していました。また苦しい環境にいる親も精神的に追い詰められないように、自分を10回もだました叔父のラバンに対しても、真心をつくしたヤコブのように、両親に尽くす生活をしました。楽しくしないとお互い精神病になってしまうのでいろいろと工夫しながら生活しました。両親とトランプや花札などをしたり、私が焼き鳥をつくって親に食べさせたり、健康にこの監禁を乗り越えていくように、心がけました。
「親の罪をなくす為、私が親を修練会に招待したので、両親をゆるして下さい」と祈りました。
■100万本のバラの花という歌について
多くの方が「百万本のバラ」の歌詞、貧しい絵描きの失恋の歌に、どうして涙が出るのが、長年不思議に思うと聞きます。
実は、この「百万本のバラ」の原曲は、「マーラが与えた人生」という曲で、1968年に作曲されたラトビアの子守唄です。
そして1982年「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわりました。
ラトビアについて書かれたブログMerry Morrow ブログから引用します。
https://ameblo.jp/merrymorrow/entry-12365695938.html
1918年11月に独立を宣言したものの1920年まで内戦状態が続き、
1940年には独ソ密約により旧ソ連の領土となりました。そして、1941年から1945年までナチス・ドイツの占領を経て、再びソ連領となりました。その間、1940年から1949年にかけて約8万にも及ぶラトビア人がシベリアに流刑され、また多くの国民が難民として国外に亡命しました。この結果、1939年にはおよそ73%いたラトビア民族は、1989年には52%にまで減少しました。この詩は大国の犠牲となった悲しみの象徴です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
エストニアでは、ナチの占領期間に1万というユダヤ人が殺され、ラトビアでは約8万5千のユダヤ人が殺されています。
バルトの神話、女神マーラは、ユダヤ人には生も幸も授けず、迫害と死を与えた・・・
1982年「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわりました。
放浪の画家ピロスマニが女優マルガリータのホテルの前を花で埋め尽くしたという伝説をもとに詩を創作しました。
原曲の詩のまま、ロシアで訳すわけにはいかなかったのですね・・・原曲の詩で、改めてこの曲を聴くと、涙が出るわけが納得です。
マーラが与えた人生
訳 楓
幼い頃のこと 悲しみが襲うと
私は母の胸で 抱きしめてもらう
母はやさしく笑みを浮かべ 私の耳元で囁く
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
時が過ぎて母は この世にもういない
いまは一人きり 一人で生きていく
寂しさに襲われると 母の囁きをつぶやく
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
忘却の彼方に 置き去りにしたものが
突然よみがえり 私は身がすくむ
私の娘が笑みを浮かべ あの囁きを口ずさむ
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
※マーラはバルト三国の女神
https://www.youtube.com/watch?v=CTzlsEKRowY&t=73s
この原曲を持つ「100万本のバラ」がラジオから流れてきた時に、啓示は「おまえを愛している」「私の願いを叶えておくれ」でしたが、愛したいのに愛を与えられない神様の事情を感じました。私達は、「愛したいのに愛せなかった」「助けたいのに沈黙せざるを得ない神様」を囹圄の神様として統一原理を通じて知りました。つまり、親からは子には言えない事情ある事を学びました。統一原理は神様の言うには言えない親の事情を解き明かす内容です。この歌詞のサビ、マーラは忘れた 娘に幸を 忘れて 忘れて 忘れさられたままに という歌詞ですが。
母は監禁中に私の原理講義を聞いて言いました。「統一原理はなにわの神様だね」と。
■暴れたら縛ったっていいんだよ
「親の罪をなくす為、私が親を修練会に招待したので、両親をゆるして下さい」と祈りましたが、セルフコントロールは簡単ではありませんでした。監禁から3か月後、7月のある日の朝10時頃、私は長期の監禁に抗議したい思いを押さえきれなくなり、窓を覆っていたセルロイド板を右足で思いっきり蹴りました。 するとセルロイド板がたわんで窓ガラスに当たり、直径40センチくらいに亘って円状にひびが入りました。 この窓は、金属製の網が貼りめぐらされた強化ガラスだったので、穴は開きませんでした。 しかしこれを見ていた両親は激しく憤り、「割ったな。先生を呼んでやるからな!」と言って父親が清水牧師を呼びに電話をかけに行きました。 私は牧師を呼ばれたら監禁がさらに長引くと思い、絶望感から床に入って横になりました。 1時間ぐらいすると清水牧師がやってきて、土足のまま私が寝ていた部屋に入り込み、「コラ起きろ。何で寝てやがるんだ」と怒鳴って布団を引き剥がしました。 この時、清水牧師は体育館用運動靴を履いていました。私が暴れた場合に、私と格闘して取り押さえるためにこのような備えをしたのだと思います。 この後、清水牧師は私に対して「暴れるな」などと言って20分ほどに亘って説教し、私の両親に対しては、「暴れたら何やってもいいですから。躊躇したら舐められますので」「暴れたら縛ったっていいんだよ」等とけしかけました。
■発病しても許可が下りない
監禁から4か月後、8月に私は血の混じった尿が出るようになり、しかも尿道に痛みを感じました。 そこで私はトイレに溜まった血尿を親に見せ、病院に行かせて欲しいと両親に頼みました。 私は体のどこが悪いのか不安だったので、早く病院に行きたいと思い、泣きながら訴えました。 ところが、両親は「ちょっと待ってくれ」と言うばかりでした。
2日後に清水牧師が監禁場所に来た時、私を病院に連れて行くかどうかの話し合いが両親との間でなされました。 この時、清水牧師は「親戚の人数は揃っているのか?」「車は手配できたのか?」「病院は近くにあるのか?」「できれば親戚などのつながりのある病院で監視ができるところがいい」などと、私を逃がさないようにする方法のことばかり話し、私の健康状態に関する話は全くしませんでした。
清水牧師が帰った後、父は「お前の健康のことは思っているが(清水牧師から)許可が下りないんだ。また言ってみるから我慢しろ」と言いました。 清水牧師は、私を病院に連れていった場合、私が逃げ出すことを心配していましたが、私はこの頃には長期間の監禁(4か月経過)で体力が落ちていたので、自力で走って逃げることはまず不可能でした。 翌日、両親と妹、清水牧師の監視付でようやく病院に行かせてもらうことができました。 私自身は泌尿器科に行きたかったのですが、親戚関係に泌尿器科の医療関係者がいなかったため、泌尿器科には行かせてもらえませんでした。 病院では、清水牧師が診察室にまで入ってきて私を監視しました。 医師は「腎臓結石で尿管が切れたのだろう」と言いましたが、薬をくれただけで、傷口への直接の治療はしてもらえませんでした。
ある日の夜、母親と話していた時、母は「清水牧師はちょっとやり方がひどいので、人格的には余り好きになれない」と言っていました。
現在の清水牧師は
日本基督教団 岐阜地区で三つの教会に責任を持っています。
https://tohno3church.blogspot.com/


■清水与志雄牧師の背景
こちらが、監禁時に清水牧師から聞いていた清水安三先生の自叙伝になります。
安三先生の中国宣教の証しを聞き、感銘を受けましたが気になっていた事が、この本を読んでさらに深く理解できました。
是非皆さんもご一読いただけますとめぐみが多いと思います。
因みに安三先生を伝道したのは、ウィリアム‧メレル‧ヴォーリズ(William Merrell Vories)で、明治33年(1900)、将来は建築家になるとこを決意して、19歳と11ヵ月のヴォーリズはコロラド大学に入学しました。しかし、明治35年(1902)カナダのトロントで開かれた学生宣教義勇軍の大会に出席し、ここでテイラー女史の講演に感銘を受け、外国伝道への献身を決意しました。そのため進路を変更し、ヴォーリズは明治37年(1904)哲学科で大学を卒業しています。彼はこのとき神学校を出て宣教をするのではなく、民衆の中で働きながら伝道する道を強く意識したと言われています。滋賀県県立商業学校の英語教師を務めたいた時の教え子が清水安三先生でした。またヴォーリズは建築家として、あるいは実業家として活躍しながら伝道活動を続け、着実に成果をあげていきました。事業を通じて社会奉仕をしていくという経営⽅針のもと、医薬品‧医薬部外品‧化粧品の製造販売メーカーの株式会社近江兄弟社を設立しました。

ヴォーリズのサイン「近江八幡は世界の中心」
https://www.omi8.com/stories/vories サイト:近江八幡より
大きな志をもったヴォーリズ先生から伝道された安三先生は、戦争からかえってきて、これから何をしようか考えている時に、賀川豊彦先生に出会い桜美林大学を創設するに至りました。また安三先生は希望の日の晩餐会を日本武道館での挨拶もされたと聞きました。
希望の日の晩餐会の文鮮明先生の「為に生きる」
1974年5月7日、真の父母様をお迎えし、東京・帝国ホテルで 「希望の日」晩餐会が開催されました。 現職大臣2人を含む1800人の各界各士の参加者を前に、 真のお父様は1時間にわたって日本語で「為に生きる」と題する講演をされました。 この時、福田赳夫大蔵大臣(当時)が「アジアに偉大な指導者現る。 その名は文鮮明である」と語りました。(61分) https://www.youtube.com/watch?v=oF4ji34RNWk

「アジアに偉大な指導者現る。 その名は文鮮明である」

天の八衢の会設立までの歩み 猿田彦物語 その3
■躊躇した脱出、これが監禁効果なのか
監禁される時に切手を持っていました。その切手を使い「元信者の勉強会『若枝の会』に行く時に逃げることを計画し、教会の人に知らせることに成功しました。実行する日に教会の人が来ている事を窓から確認。5か月を過ぎた、1997年9月18日、私は両親の監視付で元信者の勉強会に連れて行かれようとした時、監禁場所から駐車場に行く途中で逃げ出そうとしました。
しかし、なぜか足が動かなかったのです。両親のことが思われるのです。これが、監禁の力だと確認しました。真理において脱会させる事ができないので、親の情を利用して脱会させてきた犯罪なのだと理解しました。

逃げようとしたが立ち止まってしまった
「助けに来たバイクに二人乗りして逃げる」計画でしたが、一瞬の迷いから行動が遅れ、またがったバイクが、母に倒されてしまいました。バイクの人が教会の人だとわかるのを防ぐ為、また、次の逃げる機会につなげるために、あえて逃げきれないふりをして、わざと座りこみました。
父は通りがかりのブラジル人男性に助けを求め、2人で私を取り押さえました。 そこに母がやってくると、父は母に「牧師を呼んでくれ」と言いました。 そこに通行人から通報を受けたのかパトカーが来ました。 中から男性の警官2人と婦人警官1人が出てきたので、拉致監禁され逃げようとしていたことを伝えました。その最中に、清水牧師夫妻と既に脱会した姉妹がワゴン車で来ました。
警官は清水牧師とも話し始めました。警官は話をする中で、「統一教会員とその親との問題が太田でも頻繁に起こっているので、警察でも対策のため教理の本を読んでいる」と言いました。私は自分の人権が侵害されていることを警官に対して懸命に訴えましたが、警官は「お前の言うことは分かるが、親に迷惑をかけるな」と言って、私を監禁場所に戻そうとしました。 私はそれまでの経験で警察が助けてくれないことを十分わかっていたのと、次のことも考え、警察官と普通に話しながら素直に監禁場所(サンライズ太田)に戻りました。

人権が侵害されていることを警官に対して懸命に訴える
そして、警官に尋ねてみました。「この窓開かないんですけど、こっれって監禁ですよね。」警官は答えました。「いいや、親子の話し合いだ。」また私は、警官に尋ねました。「こちらもベニヤ板が張られて出られませんよ。これも監禁ですよね。」警官は「いいや。親子の話し合いだ。」またしても警察は、監禁を親子の話し合いといいました。「そうですか。わかりました。」と伝えて、次の脱出計画に向けた準備を決意致しました。
この国には信じる自由がない国と改めて実感した瞬間でした。
そして扉は施錠された。静寂の中に決意を固めた瞬間でした。

■警察が監禁を手伝うことは AIの回答
警察が民間人による違法な監禁を手伝うことは、決してありません。
そのような行為は警察官自身が犯罪行為を助ける「幇助(ほうじょ)犯」となり、厳しく罰せられます。
むしろ、警察は違法な監禁事件が発生した場合、以下のような対処をします。
監禁からの救出: 違法に監禁された被害者を保護し、安全を確保します。
犯人の逮捕: 犯人に対して逮捕・監禁罪(刑法220条)を適用し、逮捕します。
職権濫用による処罰: もし警察官がその職権を濫用して違法な監禁を行った場合、「特別公務員職権濫用罪」などの罪でより重い刑罰が科せられます。 万が一、監禁の被害に遭ったり、監禁に加担するよう強要されたりした場合は、最寄りの警察署や警察相談専用電話「#9110」に相談してください。
とありますが、私の場合は、警察が民間人による違法な監禁を手伝ってました。
これって違法?ですよね。「幇助(ほうじょ)犯」
■親が子を監禁したら罪ですか AIの回答
親が子を監禁した場合、
逮捕・監禁罪が成立する可能性があります。さらに、子どもの年齢や状況によっては、未成年者略取・誘拐罪や保護責任者遺棄罪などの罪に問われることもあります。
適用される可能性のある罪
1. 逮捕・監禁罪
定義: 不法に人を逮捕・監禁して行動の自由を奪う犯罪です。親が子どもを監禁する行為もこれに該当します。
法定刑: 3カ月以上7年以下の懲役。
重罰化: 監禁の結果、子どもが死傷した場合は「逮捕・監禁致死傷罪」となり、より重い刑罰が科されます。
2. 未成年者略取・誘拐罪
定義: 暴行・脅迫などを用いて未成年者を連れ去る「略取」、
または欺罔(ぎもう)や誘惑によって連れ去る「誘拐」は、未成年者略取・誘拐罪となります。
親権者による行為: 親権者であっても、
他方の親権者のもとから子どもを連れ去る行為がこの罪に問われることがあります。
法定刑: 3カ月以上7年以下の拘禁刑。 3. 保護責任者遺棄罪定義: 子どもの保護責任があるにもかかわらず、
危険な場所に放置する、必要な保護を与えないといった行為に適用されます。
監禁の結果、子どもに十分な衣食や医療を与えなかった場合などが該当します。 罪の成立を判断するポイント
正当な行為か:
親が子どもを指導・しつけする目的で一時的に行動を制限することは、正当な親権の範囲内とみなされることがあります。 しかし、監禁が長期間にわたる、虐待目的があるなど、社会通念上許容される範囲を超える場合は犯罪となります。
違法性の阻却: 行為が犯罪の構成要件に該当しても、親権者がしつけのために行ったなど、
特別な事情があれば、違法性が阻却(刑罰の対象とならない)されるかどうかが検討されます。
ただし、その判断は厳格に行われます。
状況が当てはまる場合の相談先
児童相談所: 児童虐待の通告先として、子どもの保護を迅速に行ってくれます。
警察: 犯罪の疑いがあるため、警察に相談・通報することも可能です。
弁護士: 刑事事件に詳しい弁護士に相談することで、法的なアドバイスを得られます。
ただこのように親の場合は、
親が子どもを指導・しつけする目的で一時的に行動を制限することは、
正当な親権の範囲内とみなされることがあります。しかし、監禁が長期間にわたる、虐待目的があるなど、
社会通念上許容される範囲を超える場合は犯罪となります。
■力でなく愛の勝利が願われていた
私の作戦は、語られた内容を持ち帰るため、話しは聞くが感想は言わない。語る内容がなくなれば、監禁する意味がなくなる、それを待つようにしました。
7か月経った、11月10日頃、清水牧師は統一教会に関する批判話も尽きたらしく、「もうそろそろどうなんだ」と訊いてきました。また「聖書を読み、自身の信仰を見直したい」との言葉もありました。説得材料もなくなったし、続けたくないのだろうなと、私には感じられました。私は、偽装脱会のイメージがつかめずいたのですが、自然と「辞めようと思っています」と静かに答えました。
11月14日午後10時頃、清水牧師が男性の脱会者と共に監禁場所に来ました。 この時、清水牧師は拉致監禁活動に関して「本当はやりたくないんだ」と本音を話しました。 この日の深夜、清水牧師は元信者の男性と共に監禁場所から帰り、スーパー銭湯にいくという事でした。
いつもであれば、牧師が帰った後はすぐに父親が鎖と南京錠などで玄関ドアを施錠していましたが、この時は私が既に脱会表明をした後だったからか、父親はすぐには玄関ドアの施錠をしませんでした。
私は母に、1回目の私の監禁の時に相談をした牧師が誰なのか訊きました。 すると母は「須賀」という牧師だと答えました。これは、統一教会に対する反対運動を行っている日本基督教団の須賀誠二牧師でした。
注4:親子関係修復が進めば、真実が明らかになる
玄関ドアの鍵は相変わらず開いたままでした。 そこで、私は親が見ていない隙に、逃げやすい靴があったので、履き替えて監禁アパートを静かに出ました。暗い道の中とにかく車に乗って逃げないと逃げきれないので、運動不足ですぐに心臓はバクバクしてきたが、近くの信号のある交差点にきました。

当時流行ったプロキッツの靴で逃げてきた
一回目(92年)、二回目(95年3月)のような「力によって勝利する」のではなく、4月11日の路上拉致された時に感じたように、まさに、「愛によって勝利すること、自然と相手から解放を勝ち取るという勝利」を願われていたのだと感じました。
しかし、時間が午前0時10分。この場所から逃げるには、車が迎えに来ない限りむずかしいと思っていたところ、こんな時間に来るはずのない白い車が私の前の赤信号で止まりました。その車は、車高が低く重低音を鳴らしながら青い光を発している車(マークⅡ )でした。
●迎えにきた車は80年代のナンパではかかせないエアロボディスタイルだった。
●こっそり出てきた非常口 ●信号が赤になり止まった
●サンライズ太田からの脱出経路

その瞬間、私は「神様が、迎えに来てくれた」と思い、その車の後部座席のドアを開けていました。なぜかロックがかかってなく、そのまま後部座席に座りました。乗っていた人は何の疑いもなく、「どうしたの。友達が事故ったの?」と言って、近くの駅(館林駅)に送ってくれました。駅からタクシーを乗り継いで、東京に帰って来ることができました。 それは、1997年 4月11日に監禁されてから7か月後(220日)の11月15日に解放されました。
この日の前日である11月14日は私が、”脱会宣言”した日でした。まさか川崎経子牧師の誕生日で、毎年バラの花束を贈ることになろうとはだれも知りませんでした。

館林駅から乗ったタクシーの領収書 バラの花束を贈りました
※矢島タクシーは、1954年(昭和29年)5月18日 (創業1934年)に設立。群馬県太田市東本町に本部を置き、岩瀬川町に本社を置くタクシー・バス会社。当時の運転手をさがせたらと思っています。
以上が、私の経験した三回の拉致監禁と解放された経過です。
経緯をまとめると以下になります。
●これまで三回の拉致監禁の経緯のまとめ
1992年11月:第一回拉致監禁と解放:日本基督教団東京愛隣教会、須賀誠二牧師
1995年3月:第二回拉致と、監禁未遂:日本基督教団新松戸教会、吉田好里牧師
1997年4月拉致監禁:日本基督教団太田八幡教会、清水与志雄牧師
1997年11月15日に監禁からの脱出し解放される
①猿田彦から父母への依頼:猿田彦が原理講義をするまで、清水牧師の話を聞かないでほしい、両親がその約束を守る
②親子関係を破壊されない努力:猿田彦は両親も、精神的におかしくなってしまうと心配し、親に真心を尽くす生活をする:(トランプ、花札、両親のために焼き鳥を作るなど)
③完全な勝利:「力によって勝利する」(力では無理な環境だった)ではなく、「愛によって勝利すること、自然と相手からの解放を勝ち取るという勝利」であると思ってきました。
これらの経験の後、私がしようとしてきたことを続 猿田彦物語にて紹介します。
■統一原理との出会い
1992年3月、大学1年の時、友人の誘いで統一原理を学ぶ機会がありました。今まで聖書を読んだことも無く、宗教も信仰も知らない私でしたが、その聞いた内容は、私の心の中にあった人生についての疑問に明確な答えを与える内容でした。学んだ内容は、全て親にその日に伝えていました。高校の友人から紹介されたこともあった為、親もよく聞いてくれました。3か月後、6月25日にテレビで元オリンピックの新体操選手の山崎浩子さんが合同結婚式の参加を表明する報道がありました。
報道の内容は、肯定的な内容でなく両親を深く不安に陥れる結果となりました。明らかに偏向報道といえる内容で、教会で学んだ真理の内容は一切なく、両親を不安にさせるには、十分でした。
■自宅でなされた「一回目」の拉致と監禁
日本キリスト教団 東京愛隣教会牧師 須賀誠二牧師の指導
その年1992年の6月の山崎さんの報道後、教会の学びから帰宅すると、「統一教会で学んでいるんでしょ。」と確認されたので、両親に「そうです。」と答えました。両親は、脱会させる為に隠れながら聖書の解釈書、反対する書籍を何冊もよんでいるようでした。
そして1992年11月30日、伝道活動から帰宅し、寝室で休むと直ぐに、親と親戚が一緒に寝室に入ってきて、「話し合いだ。」と目隠しをされて窓にはスモークフィルムを貼ったワゴン車に押し込まれて、どこか分からないマンションの一室へ閉じこめられました。私は、「これが監禁か」と思い、必死に助けを求めました。犯罪行為に対して断固として戦いました。両親に「これは神様の教育方法と違う」と訴え、あらん限りの声で「監禁されています。」「助けてくれ!」と何をされようが、叫びました。それしかできなかったからです。
■警察がきてくれたが、、、
叫ぶだけでは、出られないとおもい、窓を思いっきり蹴とばしました。ガラスが地上に堕ちました。その数分後に、インターホンがなりました。現れたのは、刑事部長と名のる男性でした。私はこれで出られると確信したのですが、「さわがせるな。これは親子の話し合いだ」と一蹴され、頭をたたかれました。そして、刑事部長はその場を去り、監禁が継続されました。静寂が一瞬もどり、父が暴れる私に涙を浮かべながら、「これでもでも食べて、落ち着いて」ときんつば(あんこの和菓子)何度も差し出しました。当時はそのお菓子を食べることはできなかったです。わたしは、涙をのんで断わり、叫ぶことを継続しました 。監禁から脱出して30年たってはじめて、今度はこちらから勧めて、父と一緒に食べました。そのきんつばの味を忘れる事が出来ません。犯罪とわかっていながら監禁せざるを得ない心が、痛いほど分かるからです。
そのあと叫ぶなかで、管理人から連絡があり、「営業妨害だからでていってほしい」とのことで、解放されました。そのような経緯の中で、自宅に帰ることになりました。母が「武勇伝を教会で話したの?」というので、「話したよ。」と答えました。このときは、まだ、懲りないというか、親を信じているというか、両親はまた監禁をするとは思っていませんでした。
■親が子を騙すようになってしまった 「二回目」の拉致監禁
日本基督教団新松戸教会(当時) 吉田好里牧師の指導
一回目は急に襲われるということで監禁されました。それでも、親を信じていた為、自宅から教会に通い、伝道と礼拝に参加する生活をしていまいしたが、大学の卒業という節目を迎えました。
私は、親族に教会のことを知ってもらい、統一原理を伝えるため、いろいろと努力しました。世界平和女性連合創設大会(東京ドーム)に、両親を誘い、来てくれました。機会があれば、両親に教会のVTRを見せていました。そのような中で、1995年3月、卒業祝いをしてくれるという事で、自宅に親戚が集まってくれる場がありました。当然私は希望に感じて、教会のVTRを見せました。そしてお祝い金を親戚からもらい、外で食事、ボーリングをして良い雰囲気の中で帰宅することになりました。
ところが、帰宅するはずの車は、自宅に向かわず、高速道路を走っていました。私は、騙されたと気づいて車のなかで暴れました。そして落着きをとりもどすという事で、利根川の河川敷に行き、私は車から出ることができました。時刻は午前4時を過ぎていました。そこには、遠い親戚の車も合流して、私は車から出ることが出来て、話し合いから、もみ合いになりました。一瞬のスキをついて頭づきを親戚にくらわし、親戚と親がもめた時、走って土手をあがり、朝日がのぼる中で畑を横切り、追いかけてくる親戚と、息があがった胸を抑えながら追いかけてくる父親をふりきり、民家に逃げ込み、倉庫と家の間の隙間に入り込んで、むしろ(竹・蒲(がま)などの植物を編んでつくった敷物)を被って息をひそめました。車のエンジン音や私をさがす音や声がなくなるまでじっとしていました。
この時はじめて、もう実家には帰れないと思いました。両親は子供に嘘をつくようになってしまったからです。このことはいつか解決しないといけないし、もともと信頼関係が強かった両親が私を信ぜず、私をだますようになってしまったのは何故なのか、真実を聴きださないといけないと思いました。親が何故子供をだますようになってしまったのか?こちらはだましていないのに。
この時から、親を取り戻さないといけないと思うようになりました。目を覚まさせないといけないと。嘘をつく親を救わないといけない。嘘をつくように指導した日本基督教団の牧師の信仰とはどんな信仰なのか?どうして噓をつかせるのか?監禁が教えにあるのか?疑問と怒りに燃え、より熱心に信仰するようになり、親をだました牧師の真実を明らかにしないといけないと思うようになりました。
■名前をかえて生きる人生
両親に嘘をつかれ、監禁の為の強制護送されたことから、もう実家には戻れなくなりました。名前も変えて両親に居場所も教えることが出来なくなりました。信仰を守ることの大切さを考えるようになりました。
毎日の生活の中では考えない大きな問題と向き合うようになったのです。両親が子供である私に嘘をつくように指導する日本基督教団の牧師。
注1:牧師は、脱会した信者の家族の会(「被害者家族の会」)を指導。「被害者家族の会」からは、「礼拝の献金が少ない、多く入れなさい」など、指導があったことを、後になって、母から聞きました。
監禁を親子の話し合いだとして、その行為に目をつぶる警察。教会の姿を公正にではなく偏向して報道するマスコミ。私の知らない教会の問題点。確信した真理のすばらしさと世の中の価値観との違い。監禁の経験を通じて信仰の大切さと自由ということを考えるようになっていきました。
そんな中、二度目の拉致の1年後、1996年の誕生日(12月)に急に教会のFAXに父親から誕生日のメッセージが届きました。見た瞬間に気持ち悪いイメージが入って来ました。それは、ケーキが描いてあるものでしたが、また監禁を企てていると直感しました。できることは、逃げやすい靴を履いていつも背後を気にして生きることしかできませんでした。監禁が1997年4月だったので、直前に安心させようとして送ったFAXであったと今(2025年)は分かります。
■3度目の峠を超えれば私たちの時は来ると決意をした「三回目」の路上拉致
1997年4月11日に、いつものように仕事に出かける時、私の名前を呼ぶ父の声が聞こえました。それを合図に、親戚と父親が私を羽交い締めにし、私はワゴン車に押し込まれました。「助けてくれ。」と叫ぶ以外に方法はなかったので、私はとにかく、大きな声で力いっぱい叫びました。ワゴン車の窓はスモークフィルムが貼られており、客席の窓は開かないように固定されていました。
このワゴン車には両親と妹の他、見知らぬ男性(私が知る脱会者の親、注1)が1人乗っていました。親族以外の第三者までが関与していたことから、私に対する拉致監禁が組織的に行われているのだということを知り、怒りが強く湧いてきました。車は千住駅前を経由して千住新橋を渡り、高速道路の入り口に向かって走りました。 するとパトカーが追いかけてきて止められました。 パトカーはマイクでワゴン車を誘導し、千住警察まで行きました。 私は外に出たいと思いましたが、親族から掴まれていたため身動きができませんでした。誘導されたワゴン車は警察署の駐車場に入り、ワゴン車の扉を警察官が開けました。 すると父が「こいつは統一教会で狂わされているんです。親子の問題なんです」と言いましたが、警官はこれを聞かず、「どうしたんですか?」と私に尋ねてきました。 私が「拉致されたんです。基本的な人権があるんだからここから出して下さい」と言いました。 すると警官は「本人がこう言っているし、本人の意思もあるんだから、降ろしたらいいんじゃないんですか」と言いました。 すると私の拉致を手伝っていた見知らぬ男女7、8名がその警官を取り囲み、「こいつはマインドコントロールされているんだ」と一斉に叫びました。 その警官はこれに圧倒されて、遂に「行っていいです」と言いました。警官は、「マインドコントロール」という言葉を聞いた時に、態度がかわりました。今から考えると、科学的でないと否定されている「マインドコントロール理論」が、「正しい」と認識していた−そのような教育を受けていたのではないか、それより、「拉致監禁」を止めず、結果的には、「拉致監禁」に協力するようになったのだろうと思います。 私は、『3度の峠を超えれば私たちの時は来る』と心に誓いこの試練を越える決意を固めました。力では、解決しない。愛で勝利しないかぎり解決しないのだと悟りました。車は前回と同じ高速道路を使用して2回目の拉致の際に連れて行かれたサンライズ太田の駐車場まで行きました。 他にもワゴン車2台に両親等と共にいた男女が分乗してついて来ていました。 親族は私に降りるようにしきりに言いましたが、私は拒みました。 この時、囲んでいた見知らぬ人たちに悔しさから、「いつかみていろ」と伝えました。にやにやと笑うその人々の顔は、いまも忘れられません。そして、親族と見知らぬ男性たち(後でわかったが、被害者家族の会のメンバー)に担がれて、群馬県太田市東別所サンライズ太田209号室に監禁されました。
注2:「この男性」とは「被害者家族の会」(脱会した親や信者で構成される会)のメンバーで、監禁などの協力があるとき動員された人。自分の妻と協力して、娘を拉致監禁、棄教脱会させた人物。その娘は棄教したが、「拉致監禁が犯罪であること」を知った母親とともに拉致監禁をなくすべく、「拉致監禁をなくす会」を2009年11月に発足させた。その母親から聞いたところによると「私を路上拉致の運転手の男性」が、脱会した姉妹の父親であることを知る事となった。
■統一教会の路上拉致について AIの回答
旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者に対する路上での拉致は、過去に多数発生した
脱会を目的とした強制的な監禁事件を指します。これは、教団の信者であることを知った家族や脱会を促す業者らが、信者を無理やり連れ去り、教団から離脱するよう説得・強要したものです。
路上拉致・監禁事件の経緯
発生時期: 1970年代から1980年代にかけて、多くの信者が脱会を目的に拉致・監禁されました。
手口: 路上で待ち伏せて無理やり車に乗せるなど、本人に拒否権のない状態で連れ去るという強硬な手段が用いられました。
目的: 監禁された場所(アパートの一室など)で、家族や脱会説得業者から長期間にわたり脱会を強要されました。
裁判: 長期にわたる監禁被害を受けた信者が、拉致・監禁に関わった牧師らを相手取って提訴し、被害者側の勝訴判決が出た事例もあります。
とあります。このような犯罪を親にさせるようにするには、親が完全に教育されないと難しいです。
以下母の証言を聞いて頂くとどのように牧師に教育されて監禁をしたかが分かります。
参照:ベアの見る統一教会
【猿田彦大神が見る統一運動】猿田彦お母さん初出演!
拉致監禁の経緯と心境 ゲスト:猿田彦大神お母さん
https://www.youtube.com/watch?v=Y6cLfzEZeCc&list=PLvuHrSHNIxlN-VKjjiUCakA2ki88AWQrH&index=4
天の八衢の会設立までの歩み 猿田彦物語 その2
■監禁された部屋の様子
入り口のドアは南京錠、ダイヤル式の鍵及びチェーンによって三重の鍵(図3)がしてありました。 部屋の間取りは4LDKで、4つの部屋のうち2つは入り口の横の部屋で外の廊下に面しており、残りの2つの部屋はベランダに面していました。ベランダに面した一方の部屋の窓は、厚さ1センチ5ミリほどのベニヤ板(図1)によって塞がれ、残りの1つの部屋の窓は厚さ1センチほどのセルロイドの特殊の板(図2)がはめ込まれていました。 ベニヤ板は長さ5センチぐらいのビスが約10センチおきに打ち込まれて窓枠に固定されており、しかも窓自体の鍵も固定されていて、開かないようになっていました。
さらに、新たに玄関との間に頑丈な施錠できる扉を設置(図4)して、牧師が来たときにゆっくり話せる空間をつくった。

また、バス・トイレのドアは鍵がかからないようになっていました。さらに、廊下に電話器がありましたが、木の箱で覆われており、その蓋は南京錠で施錠してありました。 私は何とか脱出しようとして暴れましたが、その度に親族から、取り押さえられ、最後は手足を縛られました。 手は後ろ手に回され包帯とガムテープで縛られ、その上から建築用のパイプを固定するための結束バンドで縛られました。 両足も同じ用に包帯、ガムテープ、結束バンドで縛られました。手を後ろ手に縛られたため、肩は脱臼しそうになり、激痛が走りました。 また、手足を縛った結束バンドは動けば動くほどきつく閉まり、そのうち結束バンドが皮膚に直接喰い込んできました。 私がどんなに泣いて頼んでも、この日は結束バンドをはずして貰えず、両手は翌日まで、両足は3日間縛られ続けました。 縛られて2日目に体中に痒みが走ったため、風呂に入れてくれるよう頼みました。 すると、父は両手両足を縛ったまま私を風呂に入れ、私の体を洗いました。 この間、食事をするときも手足が使えなかったので、口だけで食事をしました。 このことはとても屈辱で耐え難い事実でした。

因みにこのサンライズ太田の改造監禁部屋には、宿谷麻子さんご家族も私の両親から借りて監禁部屋として使用されていたことが、母の証言により明らかになりました。
Aの場所は監禁された事、そして用意周到にアパートが改造された事に対する怒りを自制できずに、私が拳で穴をあけた壁です。

サンライズ太田
https://realestate.yahoo.co.jp/catalog/detail/a52c6884fcbd92a1902372f36c3dfa8fb16a7902/
■賃貸アパートを監禁の為に改造することは違法か AIの回答
賃貸アパートを監禁のために改造することは、複数の点で違法であり、犯罪行為に該当します。具体的には、監禁罪と賃貸借契約違反が問題となります。
監禁罪
監禁のためにアパートを改造することは、刑法上の「監禁罪」にあたります。
刑法第220条(監禁罪):「人を逮捕し、又は監禁した者は、3月以上7年以下の懲役に処する」。
監禁の定義:
監禁とは、人を一定の場所から脱出できないように拘束することです。
監禁のための改造は、この監禁行為の準備にあたります。
貸借契約違反
賃貸物件の入居者は、大家さんの許可なく建物の構造を変更することはできません。監禁目的の改造は、賃貸借契約の重大な違反行為です。
無断での増改築:賃借人は賃貸人の所有物を無断で増改築・構造変更することはできません。これは他人の財産権を侵害する行為です。
善管注意義務違反:賃借人は、善良な管理者の注意をもって賃貸物件を使用する義務(善管注意義務)があります。
物件を監禁のために改造することは、この義務に違反します。
原状回復義務:賃借人は、契約終了時に物件を元の状態に戻す義務(原状回復義務)があります。監禁目的の改造を行った場合、原状回復にかかる費用を全額負担しなければなりません。
まとめ
犯罪行為:人を監禁することは、監禁罪として刑事罰の対象になります。
民事責任:大家さんとの賃貸借契約違反として、契約解除、損害賠償請求、原状回復費用負担といった民事上の責任を問われます。
したがって、賃貸アパートを監禁のために改造する行為は、刑事と民事の両面で厳しく罰せられる違法行為です。
とあります。
監禁の為にアパートを改造したと母から聞きました。
いまからでも自分を監禁したアパートの管理者に聞いてみる必要があると思います。
私が数年後自分の監禁された部屋を訪問して、自身の拳であけた大きな穴がありましたが、当時のまま穴があいたままでした。皆さんも自分の監禁アパートをたずねてみては如何でしょうか?
■数日がすぎ清水与志雄牧師があらわれる
数日後に、清水与志雄牧師が、来ました。
私が「来て欲しいなんて言っていない」と言うと、意外な様子でした。
注3: 今年2025年、「2008年に監禁偽装脱会した拉致監禁被害者」から、「裁判対策の為に必ず、牧師の話を聞く事を了承する書類に署名させられる」ことになっているとの話を聞きました。日本基督教団立川教会愛沢牧師の事例)
この日以降、清水牧師は週2回、月曜日と金曜日に監禁場所に来ましたが、私が相手にしなかったために、一方的に1時間ぐらい統一教会の批判をして帰りました。 5月からは清水牧師の元で脱会した女性信者数名が週2回、清水牧師と一緒に来るようになりました。(この中には今利理恵さんもいました)
私は夜、両親等が寝ていた時に、何か脱出するために役に立つものはないかと思い、台所の下の物入れなどを探しました。この時、台所の下に包帯、ガムテープ、縄といった私を縛るための道具が隠されていたのを発見しました。 一つ一つ出られないように工夫されて改造されている部屋をみては、怒りがおさまらず、壁を何度も殴りました。

穴をあけた部屋 ここで毎日敬拝を2000拝捧げた
数年後、教会員と壁の穴があるか調べに行きました。なんと、住人の方に聞いて見ると壁には穴があるとの事でした。「ここに監禁されていた」事を伝え、確認させて頂きまして、風呂の換気口に隠した伝道した人の名簿があるのを確認し、もって帰りました。これらのことに、住人の方はびっくりしていました。2004年頃のことだった思います。
とにかく監禁で一番難しかったのが、怒りを抑える事でした。
■おまえを愛している。わたしの願いをかなえておくれ
拉致監禁当初から、両親から原理講義をしてほしいといわれていたので、原理講論4冊、聖歌4冊、16万名の女性修練会、男性修練会のみ言と、韓国語の原理講論を買ってきてもらい、原理講論を最初から最後まで講義しました。そのような中で、「拉致されたと考えるのではなく、私が両親を修練会に招待したのだ」と考えるようになりました。
そうする中で、ある日、いつも聞いているラジオから、「100万本のバラの花」という歌がながれてきました。その瞬間、温かい声の塊が胸の中で響き渡り、「おまえを愛している。私の願いをかなえておくれ」という思いが胸にせまってきました。
そんな体験もあり、「神様の願いは何か」を心に留めて生きるようになりました。また自身の信仰を守る為に絶えず祈祷していました。また苦しい環境にいる親も精神的に追い詰められないように、自分を10回もだました叔父のラバンに対しても、真心をつくしたヤコブのように、両親に尽くす生活をしました。楽しくしないとお互い精神病になってしまうのでいろいろと工夫しながら生活しました。両親とトランプや花札などをしたり、私が焼き鳥をつくって親に食べさせたり、健康にこの監禁を乗り越えていくように、心がけました。
「親の罪をなくす為、私が親を修練会に招待したので、両親をゆるして下さい」と祈りました。
■100万本のバラの花という歌について
多くの方が「百万本のバラ」の歌詞、貧しい絵描きの失恋の歌に、どうして涙が出るのが、長年不思議に思うと聞きます。
実は、この「百万本のバラ」の原曲は、「マーラが与えた人生」という曲で、1968年に作曲されたラトビアの子守唄です。
そして1982年「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわりました。
ラトビアについて書かれたブログMerry Morrow ブログから引用します。
https://ameblo.jp/merrymorrow/entry-12365695938.html
1918年11月に独立を宣言したものの1920年まで内戦状態が続き、
1940年には独ソ密約により旧ソ連の領土となりました。そして、1941年から1945年までナチス・ドイツの占領を経て、再びソ連領となりました。その間、1940年から1949年にかけて約8万にも及ぶラトビア人がシベリアに流刑され、また多くの国民が難民として国外に亡命しました。この結果、1939年にはおよそ73%いたラトビア民族は、1989年には52%にまで減少しました。この詩は大国の犠牲となった悲しみの象徴です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
エストニアでは、ナチの占領期間に1万というユダヤ人が殺され、ラトビアでは約8万5千のユダヤ人が殺されています。
バルトの神話、女神マーラは、ユダヤ人には生も幸も授けず、迫害と死を与えた・・・
1982年「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわりました。
放浪の画家ピロスマニが女優マルガリータのホテルの前を花で埋め尽くしたという伝説をもとに詩を創作しました。
原曲の詩のまま、ロシアで訳すわけにはいかなかったのですね・・・原曲の詩で、改めてこの曲を聴くと、涙が出るわけが納得です。
マーラが与えた人生
訳 楓
幼い頃のこと 悲しみが襲うと
私は母の胸で 抱きしめてもらう
母はやさしく笑みを浮かべ 私の耳元で囁く
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
時が過ぎて母は この世にもういない
いまは一人きり 一人で生きていく
寂しさに襲われると 母の囁きをつぶやく
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
忘却の彼方に 置き去りにしたものが
突然よみがえり 私は身がすくむ
私の娘が笑みを浮かべ あの囁きを口ずさむ
マーラは与えた 娘に命を
与えて、与えて、与えてくれた
マーラは忘れた 娘に幸を
忘れて、忘れて、忘れさられたままに
※マーラはバルト三国の女神
https://www.youtube.com/watch?v=CTzlsEKRowY&t=73s
この原曲を持つ「100万本のバラ」がラジオから流れてきた時に、啓示は「おまえを愛している」「私の願いを叶えておくれ」でしたが、愛したいのに愛を与えられない神様の事情を感じました。私達は、「愛したいのに愛せなかった」「助けたいのに沈黙せざるを得ない神様」を囹圄の神様として統一原理を通じて知りました。つまり、親からは子には言えない事情ある事を学びました。統一原理は神様の言うには言えない親の事情を解き明かす内容です。この歌詞のサビ、マーラは忘れた 娘に幸を 忘れて 忘れて 忘れさられたままに という歌詞ですが。
母は監禁中に私の原理講義を聞いて言いました。「統一原理はなにわの神様だね」と。
■暴れたら縛ったっていいんだよ
「親の罪をなくす為、私が親を修練会に招待したので、両親をゆるして下さい」と祈りましたが、セルフコントロールは簡単ではありませんでした。監禁から3か月後、7月のある日の朝10時頃、私は長期の監禁に抗議したい思いを押さえきれなくなり、窓を覆っていたセルロイド板を右足で思いっきり蹴りました。 するとセルロイド板がたわんで窓ガラスに当たり、直径40センチくらいに亘って円状にひびが入りました。 この窓は、金属製の網が貼りめぐらされた強化ガラスだったので、穴は開きませんでした。 しかしこれを見ていた両親は激しく憤り、「割ったな。先生を呼んでやるからな!」と言って父親が清水牧師を呼びに電話をかけに行きました。 私は牧師を呼ばれたら監禁がさらに長引くと思い、絶望感から床に入って横になりました。 1時間ぐらいすると清水牧師がやってきて、土足のまま私が寝ていた部屋に入り込み、「コラ起きろ。何で寝てやがるんだ」と怒鳴って布団を引き剥がしました。 この時、清水牧師は体育館用運動靴を履いていました。私が暴れた場合に、私と格闘して取り押さえるためにこのような備えをしたのだと思います。 この後、清水牧師は私に対して「暴れるな」などと言って20分ほどに亘って説教し、私の両親に対しては、「暴れたら何やってもいいですから。躊躇したら舐められますので」「暴れたら縛ったっていいんだよ」等とけしかけました。
■発病しても許可が下りない
監禁から4か月後、8月に私は血の混じった尿が出るようになり、しかも尿道に痛みを感じました。 そこで私はトイレに溜まった血尿を親に見せ、病院に行かせて欲しいと両親に頼みました。 私は体のどこが悪いのか不安だったので、早く病院に行きたいと思い、泣きながら訴えました。 ところが、両親は「ちょっと待ってくれ」と言うばかりでした。
2日後に清水牧師が監禁場所に来た時、私を病院に連れて行くかどうかの話し合いが両親との間でなされました。 この時、清水牧師は「親戚の人数は揃っているのか?」「車は手配できたのか?」「病院は近くにあるのか?」「できれば親戚などのつながりのある病院で監視ができるところがいい」などと、私を逃がさないようにする方法のことばかり話し、私の健康状態に関する話は全くしませんでした。
清水牧師が帰った後、父は「お前の健康のことは思っているが(清水牧師から)許可が下りないんだ。また言ってみるから我慢しろ」と言いました。 清水牧師は、私を病院に連れていった場合、私が逃げ出すことを心配していましたが、私はこの頃には長期間の監禁(4か月経過)で体力が落ちていたので、自力で走って逃げることはまず不可能でした。 翌日、両親と妹、清水牧師の監視付でようやく病院に行かせてもらうことができました。 私自身は泌尿器科に行きたかったのですが、親戚関係に泌尿器科の医療関係者がいなかったため、泌尿器科には行かせてもらえませんでした。 病院では、清水牧師が診察室にまで入ってきて私を監視しました。 医師は「腎臓結石で尿管が切れたのだろう」と言いましたが、薬をくれただけで、傷口への直接の治療はしてもらえませんでした。
ある日の夜、母親と話していた時、母は「清水牧師はちょっとやり方がひどいので、人格的には余り好きになれない」と言っていました。
現在の清水牧師は
日本基督教団 岐阜地区で三つの教会に責任を持っています。
https://tohno3church.blogspot.com/


■清水与志雄牧師の背景
こちらが、監禁時に清水牧師から聞いていた清水安三先生の自叙伝になります。
安三先生の中国宣教の証しを聞き、感銘を受けましたが気になっていた事が、この本を読んでさらに深く理解できました。
是非皆さんもご一読いただけますとめぐみが多いと思います。
因みに安三先生を伝道したのは、ウィリアム‧メレル‧ヴォーリズ(William Merrell Vories)で、明治33年(1900)、将来は建築家になるとこを決意して、19歳と11ヵ月のヴォーリズはコロラド大学に入学しました。しかし、明治35年(1902)カナダのトロントで開かれた学生宣教義勇軍の大会に出席し、ここでテイラー女史の講演に感銘を受け、外国伝道への献身を決意しました。そのため進路を変更し、ヴォーリズは明治37年(1904)哲学科で大学を卒業しています。彼はこのとき神学校を出て宣教をするのではなく、民衆の中で働きながら伝道する道を強く意識したと言われています。滋賀県県立商業学校の英語教師を務めたいた時の教え子が清水安三先生でした。またヴォーリズは建築家として、あるいは実業家として活躍しながら伝道活動を続け、着実に成果をあげていきました。事業を通じて社会奉仕をしていくという経営⽅針のもと、医薬品‧医薬部外品‧化粧品の製造販売メーカーの株式会社近江兄弟社を設立しました。

ヴォーリズのサイン「近江八幡は世界の中心」
https://www.omi8.com/stories/vories サイト:近江八幡より
大きな志をもったヴォーリズ先生から伝道された安三先生は、戦争からかえってきて、これから何をしようか考えている時に、賀川豊彦先生に出会い桜美林大学を創設するに至りました。また安三先生は希望の日の晩餐会を日本武道館での挨拶もされたと聞きました。
希望の日の晩餐会の文鮮明先生の「為に生きる」
1974年5月7日、真の父母様をお迎えし、東京・帝国ホテルで 「希望の日」晩餐会が開催されました。 現職大臣2人を含む1800人の各界各士の参加者を前に、 真のお父様は1時間にわたって日本語で「為に生きる」と題する講演をされました。 この時、福田赳夫大蔵大臣(当時)が「アジアに偉大な指導者現る。 その名は文鮮明である」と語りました。(61分) https://www.youtube.com/watch?v=oF4ji34RNWk

「アジアに偉大な指導者現る。 その名は文鮮明である」

天の八衢の会設立までの歩み 猿田彦物語 その3
■躊躇した脱出、これが監禁効果なのか
監禁される時に切手を持っていました。その切手を使い「元信者の勉強会『若枝の会』に行く時に逃げることを計画し、教会の人に知らせることに成功しました。実行する日に教会の人が来ている事を窓から確認。5か月を過ぎた、1997年9月18日、私は両親の監視付で元信者の勉強会に連れて行かれようとした時、監禁場所から駐車場に行く途中で逃げ出そうとしました。
しかし、なぜか足が動かなかったのです。両親のことが思われるのです。これが、監禁の力だと確認しました。真理において脱会させる事ができないので、親の情を利用して脱会させてきた犯罪なのだと理解しました。

逃げようとしたが立ち止まってしまった
「助けに来たバイクに二人乗りして逃げる」計画でしたが、一瞬の迷いから行動が遅れ、またがったバイクが、母に倒されてしまいました。バイクの人が教会の人だとわかるのを防ぐ為、また、次の逃げる機会につなげるために、あえて逃げきれないふりをして、わざと座りこみました。
父は通りがかりのブラジル人男性に助けを求め、2人で私を取り押さえました。 そこに母がやってくると、父は母に「牧師を呼んでくれ」と言いました。 そこに通行人から通報を受けたのかパトカーが来ました。 中から男性の警官2人と婦人警官1人が出てきたので、拉致監禁され逃げようとしていたことを伝えました。その最中に、清水牧師夫妻と既に脱会した姉妹がワゴン車で来ました。
警官は清水牧師とも話し始めました。警官は話をする中で、「統一教会員とその親との問題が太田でも頻繁に起こっているので、警察でも対策のため教理の本を読んでいる」と言いました。私は自分の人権が侵害されていることを警官に対して懸命に訴えましたが、警官は「お前の言うことは分かるが、親に迷惑をかけるな」と言って、私を監禁場所に戻そうとしました。 私はそれまでの経験で警察が助けてくれないことを十分わかっていたのと、次のことも考え、警察官と普通に話しながら素直に監禁場所(サンライズ太田)に戻りました。

人権が侵害されていることを警官に対して懸命に訴える
そして、警官に尋ねてみました。「この窓開かないんですけど、こっれって監禁ですよね。」警官は答えました。「いいや、親子の話し合いだ。」また私は、警官に尋ねました。「こちらもベニヤ板が張られて出られませんよ。これも監禁ですよね。」警官は「いいや。親子の話し合いだ。」またしても警察は、監禁を親子の話し合いといいました。「そうですか。わかりました。」と伝えて、次の脱出計画に向けた準備を決意致しました。
この国には信じる自由がない国と改めて実感した瞬間でした。
そして扉は施錠された。静寂の中に決意を固めた瞬間でした。

■警察が監禁を手伝うことは AIの回答
警察が民間人による違法な監禁を手伝うことは、決してありません。
そのような行為は警察官自身が犯罪行為を助ける「幇助(ほうじょ)犯」となり、厳しく罰せられます。
むしろ、警察は違法な監禁事件が発生した場合、以下のような対処をします。
監禁からの救出: 違法に監禁された被害者を保護し、安全を確保します。
犯人の逮捕: 犯人に対して逮捕・監禁罪(刑法220条)を適用し、逮捕します。
職権濫用による処罰: もし警察官がその職権を濫用して違法な監禁を行った場合、「特別公務員職権濫用罪」などの罪でより重い刑罰が科せられます。 万が一、監禁の被害に遭ったり、監禁に加担するよう強要されたりした場合は、最寄りの警察署や警察相談専用電話「#9110」に相談してください。
とありますが、私の場合は、警察が民間人による違法な監禁を手伝ってました。
これって違法?ですよね。「幇助(ほうじょ)犯」
■親が子を監禁したら罪ですか AIの回答
親が子を監禁した場合、
逮捕・監禁罪が成立する可能性があります。さらに、子どもの年齢や状況によっては、未成年者略取・誘拐罪や保護責任者遺棄罪などの罪に問われることもあります。
適用される可能性のある罪
1. 逮捕・監禁罪
定義: 不法に人を逮捕・監禁して行動の自由を奪う犯罪です。親が子どもを監禁する行為もこれに該当します。
法定刑: 3カ月以上7年以下の懲役。
重罰化: 監禁の結果、子どもが死傷した場合は「逮捕・監禁致死傷罪」となり、より重い刑罰が科されます。
2. 未成年者略取・誘拐罪
定義: 暴行・脅迫などを用いて未成年者を連れ去る「略取」、
または欺罔(ぎもう)や誘惑によって連れ去る「誘拐」は、未成年者略取・誘拐罪となります。
親権者による行為: 親権者であっても、
他方の親権者のもとから子どもを連れ去る行為がこの罪に問われることがあります。
法定刑: 3カ月以上7年以下の拘禁刑。 3. 保護責任者遺棄罪定義: 子どもの保護責任があるにもかかわらず、
危険な場所に放置する、必要な保護を与えないといった行為に適用されます。
監禁の結果、子どもに十分な衣食や医療を与えなかった場合などが該当します。 罪の成立を判断するポイント
正当な行為か:
親が子どもを指導・しつけする目的で一時的に行動を制限することは、正当な親権の範囲内とみなされることがあります。 しかし、監禁が長期間にわたる、虐待目的があるなど、社会通念上許容される範囲を超える場合は犯罪となります。
違法性の阻却: 行為が犯罪の構成要件に該当しても、親権者がしつけのために行ったなど、
特別な事情があれば、違法性が阻却(刑罰の対象とならない)されるかどうかが検討されます。
ただし、その判断は厳格に行われます。
状況が当てはまる場合の相談先
児童相談所: 児童虐待の通告先として、子どもの保護を迅速に行ってくれます。
警察: 犯罪の疑いがあるため、警察に相談・通報することも可能です。
弁護士: 刑事事件に詳しい弁護士に相談することで、法的なアドバイスを得られます。
ただこのように親の場合は、
親が子どもを指導・しつけする目的で一時的に行動を制限することは、
正当な親権の範囲内とみなされることがあります。しかし、監禁が長期間にわたる、虐待目的があるなど、
社会通念上許容される範囲を超える場合は犯罪となります。
■力でなく愛の勝利が願われていた
私の作戦は、語られた内容を持ち帰るため、話しは聞くが感想は言わない。語る内容がなくなれば、監禁する意味がなくなる、それを待つようにしました。
7か月経った、11月10日頃、清水牧師は統一教会に関する批判話も尽きたらしく、「もうそろそろどうなんだ」と訊いてきました。また「聖書を読み、自身の信仰を見直したい」との言葉もありました。説得材料もなくなったし、続けたくないのだろうなと、私には感じられました。私は、偽装脱会のイメージがつかめずいたのですが、自然と「辞めようと思っています」と静かに答えました。
11月14日午後10時頃、清水牧師が男性の脱会者と共に監禁場所に来ました。 この時、清水牧師は拉致監禁活動に関して「本当はやりたくないんだ」と本音を話しました。 この日の深夜、清水牧師は元信者の男性と共に監禁場所から帰り、スーパー銭湯にいくという事でした。
いつもであれば、牧師が帰った後はすぐに父親が鎖と南京錠などで玄関ドアを施錠していましたが、この時は私が既に脱会表明をした後だったからか、父親はすぐには玄関ドアの施錠をしませんでした。
私は母に、1回目の私の監禁の時に相談をした牧師が誰なのか訊きました。 すると母は「須賀」という牧師だと答えました。これは、統一教会に対する反対運動を行っている日本基督教団の須賀誠二牧師でした。
注4:親子関係修復が進めば、真実が明らかになる
玄関ドアの鍵は相変わらず開いたままでした。 そこで、私は親が見ていない隙に、逃げやすい靴があったので、履き替えて監禁アパートを静かに出ました。暗い道の中とにかく車に乗って逃げないと逃げきれないので、運動不足ですぐに心臓はバクバクしてきたが、近くの信号のある交差点にきました。

当時流行ったプロキッツの靴で逃げてきた
一回目(92年)、二回目(95年3月)のような「力によって勝利する」のではなく、4月11日の路上拉致された時に感じたように、まさに、「愛によって勝利すること、自然と相手から解放を勝ち取るという勝利」を願われていたのだと感じました。
しかし、時間が午前0時10分。この場所から逃げるには、車が迎えに来ない限りむずかしいと思っていたところ、こんな時間に来るはずのない白い車が私の前の赤信号で止まりました。その車は、車高が低く重低音を鳴らしながら青い光を発している車(マークⅡ )でした。
●迎えにきた車は80年代のナンパではかかせないエアロボディスタイルだった。
●こっそり出てきた非常口 ●信号が赤になり止まった
●サンライズ太田からの脱出経路

その瞬間、私は「神様が、迎えに来てくれた」と思い、その車の後部座席のドアを開けていました。なぜかロックがかかってなく、そのまま後部座席に座りました。乗っていた人は何の疑いもなく、「どうしたの。友達が事故ったの?」と言って、近くの駅(館林駅)に送ってくれました。駅からタクシーを乗り継いで、東京に帰って来ることができました。 それは、1997年 4月11日に監禁されてから7か月後(220日)の11月15日に解放されました。
この日の前日である11月14日は私が、”脱会宣言”した日でした。まさか川崎経子牧師の誕生日で、毎年バラの花束を贈ることになろうとはだれも知りませんでした。

館林駅から乗ったタクシーの領収書 バラの花束を贈りました
※矢島タクシーは、1954年(昭和29年)5月18日 (創業1934年)に設立。群馬県太田市東本町に本部を置き、岩瀬川町に本社を置くタクシー・バス会社。当時の運転手をさがせたらと思っています。
以上が、私の経験した三回の拉致監禁と解放された経過です。
経緯をまとめると以下になります。
●これまで三回の拉致監禁の経緯のまとめ
1992年11月:第一回拉致監禁と解放:日本基督教団東京愛隣教会、須賀誠二牧師
1995年3月:第二回拉致と、監禁未遂:日本基督教団新松戸教会、吉田好里牧師
1997年4月拉致監禁:日本基督教団太田八幡教会、清水与志雄牧師
1997年11月15日に監禁からの脱出し解放される
①猿田彦から父母への依頼:猿田彦が原理講義をするまで、清水牧師の話を聞かないでほしい、両親がその約束を守る
②親子関係を破壊されない努力:猿田彦は両親も、精神的におかしくなってしまうと心配し、親に真心を尽くす生活をする:(トランプ、花札、両親のために焼き鳥を作るなど)
③完全な勝利:「力によって勝利する」(力では無理な環境だった)ではなく、「愛によって勝利すること、自然と相手からの解放を勝ち取るという勝利」であると思ってきました。
これらの経験の後、私がしようとしてきたことを続 猿田彦物語にて紹介します。
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