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生きているうちに和解を 親族の訪問 (1)

2024年11月1日 22時26分19秒 (Fri)

こんにちは。
猿田彦です。
今回、問い合わせのあった親子修復の件を報告致します。
お問い合わせを頂いた方の許可を頂き掲載させて頂きます。
【経緯】
■件名
韓国より、初めてお便りさせて頂きます  2024/04/19 16:16


■お問い合わせ内容
はじめまして。
この度は、このようなサイトを立ち上げて頂いたことを、心よりありがたく思います。と、言いますのも、現在は韓国に住んでいるのですが、安倍さんの事件以降、日本にいる両親との仲がぎくしゃくしていて、親に対してどうしてあげることが親子の関係を修復することになるのか、よくわからないので、何かアドバイスを頂けたらと思い、ご連絡をさせていただきました。


【岡山県蒜山が実家】
長くなりますが、私の状況を説明させていただきます。出身は岡山県の蒜山という田舎で、そこには現在両親が住んでいます。1995年の36万双の祝福式で、韓国の男性と祝福を受けました。実家には、祝福の相手が決まった時点で、統一教会で結婚するということを電話で話しました。祝福式まで数か月の期間があったので、埼玉にいる母の兄(創価学会員)に統一教会を紹介をしたいと思って連絡を取って、待ち合わせをしていたのですが、会いに来てもらえませんでした。仕方がないので、合同祝福結婚式に参加した後にでも、説明をしようと思っていました。祝福式の1か月後に、母から連絡があり、弟の結婚式があるとのことで、帰省しました。

【監禁された帰省】
その時に、拉致監禁をされました。担当牧師は高山牧師でした。私は拉致監禁の対策教育を受けていなかったので、何をどうすればいいのか分からなくて、とりあえず、素直に大人しくしていました。統一教会の悪い情報を教育されもしましたが、私に話している人の話は真面目に聞くタイプなので、じっと聞いていました。私の意見を求められもしたのですが、私が何か言ったら全部ひっくり返そうとしているのは分かっていたので、言葉控えめに勉強した内容に対しての質問程度にとどめていました。みんなが思っていたよりも私がとても大人しかったので、そのうちに食事を手伝ったり、掃除、洗濯もさせてもらえました。けれども、この生活が延々と続くことは本当に耐えられないとは思っていました。実は、私は大学を卒業して社会人になったときに、自分が自己肯定感がとても低く、教会の活動をしながら、社会人としての二重の生活をしながら暮らすのはきついと思っていました。もともと教会内の人間関係に居心地の良さは感じていなかったので、教会に通わなくなった期間がありました。よって、教会に戻れないことに罪意識は感じませんでしたが、神様を求めて、神様と共に私の人生を送りたいと心から祈った時に、再び真のご父母様のみ言葉に接することが出来、私の意志で祝福結婚を望んだので、祝福を壊すことは私が自分の今後の人生を全部ごまかしながら生きていくことになると感じました。また、1度しか会ってはいないものの、夫となる人や義両親の心に杭を打ち付けるような事は絶対にしたくないと思いました。でも、両親の状態を考えると、私が逃げたら辛いのは分かるので相当迷いつつ、偽装脱会すれば自由の身になれて何とかなるのではないかと淡い期待を抱くようになっていました。

【啓示をうけて監禁から脱出】
ところがある日の夜、眠ろうとした時に、脱走する方法を啓示で受け取りました。そして次の日、反対牧師が、偽装脱会をしてもすぐにはここから出れないという話をしたので、本当に逃げないといけないと思い、その日の夜、啓示通りに行動して無事に逃げ出しました。拉致されてちょうど2週間目でした。逃げた後は東京に行ったのですが、どこかに私を拉致する人がいるのではないかという恐怖心がかなり付きまとっていました。当時、私をケアーしてくださっていた方が、母に連絡をするように勧めてくれました。何日後かに、渋々連絡をしたのですが、案の定喧嘩になりました。でも、ひと月に一度くらいは連絡をしました。

【うそをつかれて再度監禁】
次第に私も落ち着いてきて、一年後に祖父のお墓参りで帰って来いと言われたので、帰省したところ、また拉致監禁されました。この時は、1週間目に脱出しました。その頃には、親は可哀そうだけど、娘の私ではなくヤクザの様な人たちの方を何の疑いもなく信じているという、その状況自体に憤りを感じました。それが1996年の10月の事でした。

【今どきの日本にはこれほど誠実な人青年はあまりいない】
翌年の2月に、私は韓国の嫁ぎ先に行くということで、母を東京に招待して、一日だけ一緒に居ました。わだかまりがスッキリと解けた感じではありませんが、そこで喧嘩をすることはなく、元気でいようねと挨拶をしました。
韓国へ渡ってからは、夫と義両親と一緒に暮らしていました。夫も義両親も、情が深くて、とても温かい方達でした。2000年と2002年に息子を授かり、母は毎月のように、子供たちにお菓子とか本を送ってくれました。そして、2004年ごろには、母が知り合い達と韓国の家に訪問をしてくれました。その時、夫がとても手厚く母たち一行をもてなしてくれたので、母は、”今どきの日本にはこれほど誠実な人青年はあまりいない、いいお婿さんで良かったね”と言ってくれました。

【孝行賞、孝婦賞を地域社会から受賞】
そんな夫は、2005年、農機械の事故で即死してしまいました。親族たちはみんな、子供は置いて、日本で新しく人生を始めるように勧めてくれました。しかし、神様の前に、永遠の愛を中心とした家庭を作ることを心に決めて祝福を受けて授かった家族なのに、この家族を見捨てて新しい人生を始めるなどとあり得ないと思っていましたですから、夫と営んでいた農業をそのまま続けることにして、トラクター、トラクターに連結して使う大型機械、コンバイン、田植え機、耕運機など、すべてを操縦できるようにして、お米作りと肉牛の飼育で生計を立てていました。高齢で少し体の不自由な義両親と幼い息子達と暮らして、一人で生計を立てていたものですから、地域の団体や県に当たる団体など、3か所の団体が、5年間に渡って孝行賞とか孝婦賞などを授与して下さいました。

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↑孝行賞
務安朴·寧海2008-9
 
貴下は日本人で日本の大東文化大学を卒業。
そして1995年にパク◯◯と国際結婚し、2005年に夫の農機事故で亡くしたあと、農作業をすべて習得し、直接農業をしながら 3代が一つの家で半付随の
舅に心から尽くし、2人の息子をよく養育し、周囲の称賛が高く、その孝行を称えられました。ここに宗人の真心を尽くして、この牌と副賞を差し上げます。
 
2008. 05. 05
 
務安の朴氏、寧海(ヨンヘ)派宗親会会長 朴東晩

【8年間に3度帰省 喜ぶ父母】
私が一人で農業を始めて、8年目に義母が無くなりました。その頃は、米も肉牛も値段が落ち、機械も老朽化していくので農業はやめて、医療施設で働くことにしました。この時からが、私が韓国社会に浸かって暮らすことがどういう事なのかを肌で感じ始めた時です。この間も、ひと月に一度は母と通話をしていたり、8年間に3度ほど子供たちを連れて、日本の実家へ帰省もしていました。帰省をすると、父も母もとても良くもてなしてくれて、子供たちもとても喜んでいました。

【安倍事件をきっかけに】
そういう状況だったのに、安倍さんの事件以降のマスコミの騒ぎで、両親の態度がすっかり変わってしまいました。
何を言っても、もう連絡をするなとか、本当にひどいことを言われた時もありました。でも、このまま放置して、親子関係をめちゃくちゃなままにするわけにもいかないので、季節の節目に贈り物をしていました。

【父は、3年は難しいよ】
また、親の恨みを私が受け止め切れていないのをすまなく思ったり、そう思うだけでなくて、子供たちを連れて両親に会いに行こうと一大決心をして、去年(2023)の秋には実家に訪問しました。そうしたところ、父がものすごい剣幕で、帰って来るなと言っただろう!どうして帰って来たんだ!と、子供たちもいる前で怒鳴って部屋に入りました。息子達には事前にうちの事情を話していたのですが、やはり驚いていたようでした。しかし、母とは玄関先で、40分ほど会話をしました。本当はもっと長く話をしても良いかなと思ったのですが、突然、向こうの部屋で父が誰かに連絡をして、ややこしい事になるのではないかという嫌な予感がしたので、そのくらいで話を切り上げました。母には韓国からのお土産とお小遣いを現金で渡しました。母は、お父さんは今は難しいよ、あと3年くらいは待たないといけないかもね、と言っていました。

ちゃんと暮らしているのが伝わってくる
その後、同じ村にいる母の姉妹の家にも行って挨拶をし、お土産を渡しました。
母の姉は食堂を営んでいるので、そこで昼食をとったのですが、うちの事情をまあまあ知っているおじさんたちもいました。叔母が私を紹介するので、その方たちに挨拶をしながら、韓国でどのような暮らしをしているのかをお話ししました。そうしたところ、顔の艶はいいし言葉遣いがとても丁寧で、ちゃんと暮らしているのが伝わってくると褒めて頂けました。また、うちの息子達も片言の日本語を喋るので、喜んで頂けたようです。この食堂の叔母が、夜にご飯を食べに行こうと誘って下さり、母にも連絡を取って下さったのですが、父の手前、出かけられないから娘たちをよろしくと言っていたとの事でした。

【母は父の顔色を伺いながら】
以上の事から、母が一人でいる時には、母と私は結構話が弾みそうなのですが、電話をするといつも父がいるらしく、父の顔色を伺いながら会話をしているのが感じられます。日本を訪問した後にはそう思っていましたが、最近は、家の中でこけてひざを痛めたらしく、数か月、ずっと家にいるようです。近所に親戚もいるのに積極的な交流もなく、テレビを見ながら父と二人で、家でゴロゴロしていると言っていました。安倍さんの事件後から、どうも近所付き合いが出来なくなったような気もします。その年の春に、何十年も続けてきた乳牛の飼育を終わりにしていたので、人との付き合いが減ったというのもあるし、村にある教会に通ってはいたのですが、膝の手術のために出歩いていなかった期間も長かったようです。いろいろなことが重なって、世間から引きこもっている状態のようです。

【全ては統一教会に通っているという理由。。。】
私の兄弟は、弟が2人いたのですが、上の弟は子供が3人いて、親と半2世帯住宅的な環境で十数年間暮らしていましたが、夫婦間の不和により、自害してしまいました。その弟の妻は、子供を連れて実家に帰り、以後は時々は連絡をくれたり、孫が来たりしていたようですが、最近はたぶん何の交流もなくなっているようです。
下の弟は、たぶん愛知に住んでいるのですが、親とトラブルがあって、連絡を何年も取れていない状態です。私もその弟には連絡が取れないでいます。弟たちが自分たちの思うようにならなかったのも、すべて私が統一教会に通っているからだと言っていました。去年、実家に行って胸が痛かったのは、実家の庭にも家の中にも周りも、要らないものが多く放置してあって、そのような環境の中で何の不自由も感じていなさそうな感覚で両親が暮らしている事でした。そのまま、人生の終わりが来るのを待っている感じです。

【お前たちには会いたくない】
私が電話をしても、もうそっと生きていたい、波風を立てたくない、だから電話で話をするのも面倒だし、お前たちには会いたくないと、何度か聞きました。そこへ去年帰省したので、父が烈火のごとく怒ったという感じです。
私は、これから親にどのように対するかをいくら考えてみても、月に何度か電話をし、時には楽天を利用して、両親が好きそうなものを送る事しかできないと思っています。親自身が、もう一度親子の情を戻したいと考えている気配を感じることが出来ないので、こういう努力は無駄になるのだけなのではないかとも弱気になります。私が親を思う気持ちの弱さの反映でもあるとは思うのですが、その辺、どうなのかアドバイスを頂けるとありがたいです。

以上が問い合わせの内容になります。
そして今回、10月26日から30日まで問い合わせの方から日本に帰国すると連絡がありました。
その理由は、高齢の父親がガンの疑いがあるとの事でした。最後の別れになるかもしれないこともあり、八街の会としてのサポートしました。
①準備として、監禁経験のある親と話して頂くことで、実の親の気持ちを理解する為土台ができる。
②現地にて実際親御さんに会って、挨拶をしてご不安などお聞きする。
次回はその様子をお伝え致します。


猿田彦

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