高橋弘造コラム
2015年5月13日 18時28分21秒 (Wed)
・信愛(親愛)母のD&T(4)
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思いいずる故郷
こころざしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷
「楽曲ふるさと」から
母、2015年5月10日 15時53分
身内に囲まれて 「永眠」 享年90歳(数え歳)
妹5人、弟1人、子供3人(1人他界)、孫7人(1人他界)、曾孫7人+まもなく8人目
生来の明るくパワフルでくよくよしない性格そのままのデスマスク。
葬儀は本人の生前の希望通りの会館で家族葬としました。
本当に近しい血縁、親族。
5人の妹(叔母さん)と家族、弟(叔父さん)と家族、子供2人と家族、孫たちひ孫たちの賑やかで明るい、しかし、しっとりと思い出話が尽きない、心温まるいい葬儀でした。
家族葬といっても30名以上の親族たちが通夜や葬儀に最後まで出てくれました。
来てほしい人たちが全員集まり、私もいとこ達に久しぶりに会えたし、昔話に花が咲き、母も近くで聞いていたと思います。
苦しんだ人生、苦労した人生、けど精一杯努力して頑張ってきた人生、大正15年生まれの、社会や高橋家の生き字引
ありがとう、長い間よく頑張ったね、
あの世でも笑いながら私たちの事を見守って下さい。
今までお世話頂いた全ての方に、心より感謝申し上げます。
私の母ながら、まさしくD&Tを実践させてくれた母
私の全てを生み出し、今あるのも母のおかげです。
「おかちゃん、ありがとう・・・・」
つづく
後記・回想・・。
2015年5月13日 18時11分24秒 (Wed)
・信愛なる母のD&T(3)
5月7日、明日に故郷の病院に搬送する手配を掛けた日の夜、豊中の施設の居室で母と夜を共にしました。
一晩中、喋り続けていました、
辞世のように聞こえて仕方なかったです。
何度も口にしたのは
「人生全うしました、ありがとうございました」
母らしく、しっかり意思を表したのと礼儀を尽くしてこの世に挨拶してる風に。。。
いろいろに聞けて泣けて涙が止まりません。
結局二人とも一睡もせずに、いざ宇陀市立病院へ、
叔父夫婦や私の家族も駆けつけました。
高速を使っても多分2時間の移動、ストレッチャー式ワゴン(酸素や心電図機能あり)で看護師さんに
同乗してもらっての万全の態勢で2台に分けて搬送。
待ち構えてくれていた地元の宇陀市立病院の医師や看護師、早速、検査と診察で、看取りの方針を固め
て入院。
道中は苦しがったり喉が渇くのでお茶を欲しがったり、呼吸が苦しくなり心電図が乱れたり。。。
「あーす・けあ」の丸山看護師でなければ違う事もあったかもしれません。
故郷に戻ったのが5月8日、それから一進一退でしたが、
5月10日、急激に数値が下がり、15時53分、大往生しました。
2015年5月13日 17時20分02秒 (Wed)
・信愛なる母のD&T(2)
4月23日、それまで往診医として一連の様子を診てくれていた主治医の森先生に相談し、一度検査をする目的で、済生会千里病院に連れていきました。私の自宅近くにある病院で私自身や子供たちも何回か世話になっている病院です。紹介状に診療情報を付けて診察を受けました。呼吸がしんどい症状だったので、まずは呼吸器内科、案の定肺のレントゲンは約30%は白濁。ただ血液データや心電図に大きな問題はなさげ。
うーん。その呼吸器内科医師の勧めで、視点を変えてみて消化器内科の医師の診察を改めて受けることに。病院に到着して既に5時間が経過しており母はぐったり、の状態。
待つ事更に2時間、消化器内科医師の診察で、更に腹部エコーとCT検査をしましょう、ひょっとすれば「GIST(ジスト)」かも、と。
GISTとは消化器間粘膜腫瘍の略。臓器ではないその境目に竦む腫瘍。
果たして、エコーでもCTでも異物が発覚。まさしく大きな腫瘍の塊が。大きさは何と15cm大。
がはっきり画面に写されているではありませんか?
空室の手配がされてすぐ入院に。本人はその意味が解らず「ここはどこ?」「何でここにいるのか」「はよ帰りたい、どこに帰るのかわからんけど(笑)」の連発で。
担当医の説明を受けて、「延命のための手術はしない、苦しみを和らげる処置と水分・栄養補給は行う」方針が定められました。
姉とも相談しその方向で、しかし病院は急性期なので治療行為がなされない場合は、「退院」を促してきます。
おもゆしか口にしない母、さぞ空腹かと思いきや「おなかすかない」と。
結局、二泊三日で退院、豊中の施設に戻りました。
往診主治医のもと、終末看取りの体制を模索しました。
6人の妹や弟にも状況を連絡し早めに会いに来れるようにしました。
今までの人生でオムツが不要だった母、どうしても自分でトイレに行こうとします。
しかしふらつき転倒もするし失禁もするので見ていられません。
ベッドで便汚染する回数が増えてきました、しかし食は進まず栄誉補給剤のエンシュアも「甘すぎ!」と言って呑みません。唯一欲しがるお茶を「美味しい」と口にするだけです。
最後に口にしたのは「キウイ」。これも「酸っぱい!」と怒ります。
在宅酸素の補給とリンデロンの処方(呼吸を楽にするステロイド剤)、
そして苦しくなればモルヒネで緩和、という方針にしました。
施設に戻ったのが4月26日、GWに妹たち(私の叔母さん3名)が来てくれました。
母は皆の顔を見て正しく名前を言えました。
ポツリ、「これが会うの最後やなあ」と。
息子の直感として「近づいてきたかな」と感じた私は、散々悩みました。
これでいいのだろうか?この看取りで母は幸せだろうか?
長く頑張ってきた人生をここで終えていいんだろうか?
何かすべき事、してやれることは無いのか?と。
随分と世話になっている姉(夫婦)に
「地元に戻してやる選択肢も捨てきれんのや」と思いを打ち明けて相談。
主治医はそのリスクを覚悟するならそれもありだと思います、の言葉に背中を押されて、
結果、実家のある「室生」の隣町、姉の住まう榛原町にある「宇陀市立病院」に移す決断をしました。
人間、生まれた故郷の空気を吸って最後過ごす、
本能に従い母を民間救急車(看護師添乗)で2時間かけて搬送しました。
過去に兄を若くして看取った時、同じく本人の希望で高槻市の病院から地元に戻った事を思い出しました。
同様に病院や医師から猛反対されましたが無理をお願いして強引に搬送。
その時と同じ空気が漂いました。兄は地元に戻って翌日逝去。
母も例え道中か地元に着いてすぐ・・、となっても悔いはないという決断です、姉も親戚も賛同してくれました。
5月8日の事です。お世話になった豊中の施設を出ました。入浴介助や話し相手他いろいろ手助けしてくれたスタッフ達に見送られて出発。
つづく
2015年5月10日 9時37分44秒 (Sun)
・信愛なる母のD&T(1)
絶対的存在である我が母の人生現在満88歳、7月で89歳
農家の7人姉妹弟の長女、6人の姉御として実家の父母を支えた人生。
嫁いで64年、4代目の嫁として一生懸命「生きて」きた。
僕を出産するときに子宮に重大なダメージが発覚、「母体を取るか子供を取るか」の難局があった。
その時の奇跡的運命と共に母子は助かったそうです。僕の今の命は、母と共に授かった生命です。
しかしそれ以降は全く、病院や薬と全く縁のなかった「健康優良児」だった母。
認知症が出始めたのが、2年前。
熱湯の入ったポットを自宅キッチンでひっくり返し両足に重度の火傷を負って以降。
以来、介護施設に入居し、それなりの平穏な生活を楽しんでいました。服薬は「アリセプト」のみ。
最近までは、息子の事業として運営している施設での生活、
「毎日あんたに会えて幸せ」といつも笑顔の絶えない元気な母。
今春、居室の窓から、満開の桜並木も楽しみました。
その前の3月は、彼岸参りで一緒に実家の墓参り。
久しぶりに我が家に帰ってご機嫌な時間。
ただ今思えば、
墓に行く小さな坂を上がるだけで息を切らして「はあはあ」言ってたのは、ステルスシグナルだったのか、と。
そんな母が急に食事を摂らなくなったのが先月4月12日。
その前には、僕の次男が久方に会いに来て、一緒に近所を散策した矢先。
その時の写真を見れば、やはり「しんどそう」
あれ?
なんで?
お袋、どうしたん?何が起こってるの?
定期的に受けている「往診医」に相談、心不全の疑い(断定できず)による呼吸障害が起こり始めています、と。
胸水が溜まり始めて雑音が認められる、と。
・・・つづく
