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ジェンダー素描(旧HPより)

「母性」について (2002/08/16)

 先日、他のあるサイトで「母性」ということが話題(の一つ)になった。フェミニストが「母性神話」をキーワードに主張する母性の否定にはいかなる欺瞞があるか、という話である。そこでも私の意見を披露させて頂いたが、他のHPの掲示板には字数制限があるために、どうしても切り詰めた表現になってしまう。そこで改めてここに取り上げることにした。

 フェミニストの用語で、ジェンダーレベルの性差をセックスに還元できるとする考え方を「本質主義」という。ここでいう「セックス」というのは、身体レベルの性差のことで、具体的には論者によって大脳の構造的だったり差異遺伝子だったりを指す。それに対して、ジェンダーをすべて「文化的・社会的に作られたもの」と考えるのが「構築主義」で、ほとんどのフェミニストは「構築主義」の立場をとる。

 養老孟司氏(解剖学)の表現をお借りすれば、セックスは遺伝子の問題であり、ジェンダーは脳の問題である。両者の間には、自然科学的な意味での因果関係はない(証明できない)。しかし認識論的な因果関係ならば、ある。これも養老氏の表現をお借りするならば、ジェンダーとはセックスが「脳化」されたもの、ということになろうか。言いかえれば、自然の身体における性差を社会(文化)の中に組み込む、その仕方である。

 
セックスレベルにおいて男女を明確に二分できないことは、インターセックスの例からも明らかである。一方、ジェンダーは概念によって切り分けられる。もちろん、この「切り分け」は概念や言葉それ自体の性質ではなく、人間の要請(必要)によるものであり、さらにそれを支えるのは人間の欲望である(詳細は62.ジェンダーと言語参照)。

 身体レベルの性差が明確に二分できないのだから、ジェンダーも男女二分制を取るべきではない、という主張がある。それは、「ジェンダーとセックスを明確な対応関係に置け」という主張になるから、フェミニズムの主張と矛盾する。私は、このような主張には組しない。もちろん私はフェミニストではないから、この主張がどんなにフェミニズムの唱えるところと矛盾しても、知ったことではない。

 しかし「ジェンダーとセックスを明確な対応関係に置け」というなら、これは の否定である。ジェンダーを、身体的性差のどの層と対応させろというのか。もしそれが遺伝子レベルの話ならば、あらゆる T's の否定である。外見レベルの話ならば、性転換手術を完了していない T's すべての否定である。どんな根拠があって T's を否定できると考えているのか知らないが、そんな意見に私は正当性を感じない。

 ジェンダーが身体に対する認識から生じていることは疑い得ない。セックスとジェンダーとの間には認識論的な因果関係がある。しかし、セックスとジェンダーとの間には自然科学的な意味での因果関係はない。だから T's が存在する。ジェンダーの時代的・文化的な多様性も、性二分制の普遍性も、すべてこれで説明がつく。この二種類の因果関係を混同してはならない。

 さて、フェミニストが「母性神話」を主張するモチーフとは、要するに「母性の否定」である。ジェンダーはそもそも「社会的・文化的性別」がその定義であるから、これは「社会的・文化的に作られたものだ」といえる。フェミニストは、そういう言い方でジェンダーを相対化できるつもりになっているのだ。この場合、フェミニストにとっての問題は、セックス(身体レベルの性差)はこの方法では相対化できない、ということである。

 フェミニストは「母性は本能」という「本質主義」に対して、「母性は文化的・社会的に作られたもの」という主張を置く。母性には身体という物質的根拠はない、という理由でこれを相対化し、それによって「育児は女性がするものだ」という社会的な概念をも相対化するのが目的だろう。

 しかし「母性」を重視する主張は「本質主義」だけではない。私が現象学的に考えても、「母性」や「父性」が「作られる」ことには、それなりの必然性がある。私は、すべての女性が「母性」を持っているとは思わないが、ただ一般的には、やはり親としての姿勢に男女の違いが現れるということは言えると考えている。例えば、女性だけが「好きな人の子供を生む」、「自分のこの身体で生む」という経験を有することが出来る。この経験の有無は、子供への思い入れに対しても重要な影響を与えるものとなり得るだろう。

 「母性」や「父性」というのは、そういった男女の経験の差から生じた認識の違いに根ざしていると考えるべきで、遺伝子が脳に「母性」や「父性」を発生させるわけではない(少なくともそういう発生の仕組みが解明されているとはいえない)。そして、おおまかには男女差があるけれども、さらに細かく見れば「母性」の中身にも多かれ少なかれ、女性同士の間でも違いがある。でも大雑把に、女性に多く見られる特徴を「母性」という概念で括ろうということであって、「母性」が何か実体としては存在するわけではない。いわば「母性」はカテゴリー概念なのである(だから「母性」を実体と考えて、それを「ある」とか「ない」と言い争っていると、一種の「神学論争」の様相を呈してくる)。

 そして、母親のある行動や考え方を「母性」というカテゴリーで認識することには、それなりの理由がある。それは私達が人間を「男/女」に分けて見るのと同じように、最終的には身体(に対する認識)に根ざしているから、けっしてこの世からなくならない。「母性」や「父性」は、「物質的身体」から発生学的・生理学的に生じるのではなく、私達の生活の中で身体をも認識に繰り込んだところから生じる、あるいは身体的性差による経験の男女差から生じる、男女の傾向的な違いなのである。

 「母性神話」の主張では、「母性は作られたもの」といい、母性が作られる要因を「社会的・文化的」という事柄だけに限定する。しかしフェミニストは、この「限定」の正当性を証明しているわけではない。実際には、人間は自他の身体を認識する能力を持っており、それを抜きにして世界観や価値観を「構築」することは不可能である。「母性は作られたもの」という主張を認めたとしても、そこには認識上の、あるいは経験上の男女の身体的な性差が必ず入り込んでいるはずなのだ。したがって、「母性神話」の主張は、「身体への眼差し」に欠けた机上の空論に過ぎない

 一方、この「身体への眼差し」を踏まえた論陣を張っているのが、心理学者の林道義氏である。林氏はその著書の中で、父性や母性について「本能」とか「遺伝子」といった表現を頻繁に使うので、やはりフェミニストからは「本質主義」とみなされて批判されている。しかし林氏に対しては、これはまったく的外れな批判である。私の見るところでは、林氏は「本能」や「遺伝子」といった表現を多用するために、無用の誤解を自ら招き寄せているようなところがある。林氏の主張は、「本能」や「遺伝子」等の言葉を用いずとも表現が可能なはずなのだ。

 私の解釈では、林氏のいう「本能」とは「人間の関係能力」を指していて、それが生得的なものと考えざるを得ないということなのだ。他者を「他者」として認知する能力、例えば母親が微笑みかけると微笑み返したりするのは、学習に先立って赤ん坊が生得的に持っている能力と考えざるを得ない。「母性」や「父性」はそれ自体が生物学的な「本能」ではないが、本能と考えざるを得ないような「関係能力」の上に築かれているものだ、という話だろう。

 人間の行動(「母性」も含めて)の基本となるのは、単純素朴な生理的欲求と、様々な価値観である。この価値観は、突き詰めていえば各人の経験によって構成されると考えられる。だから、その意味では「母性」が社会的・文化的に作られたというのは、間違いではない。ただし、「社会的・文化的な要因によってのみ」作られたというなら間違いである。人間の経験は、その身体を無視しては成立しないからだ。

 もし、「母性」があらかじめ女性の遺伝子に組みこまれていて女性なら誰でも必ず「母性」を持つはずだというのなら、そういう「本質主義」には勝ち目はない。遺伝子はあくまでも、物質的身体が構成されるための起因物質に過ぎない。どんなに遺伝子を調べても「真・善・美」の本質が解明できないのと同様、女性の遺伝子を調べたところで「母性」が解明できるわけがない。だから「母性」について考えるためには、「本質主義」の立場を捨て、フェミニスト以上に徹底した、本当の意味での「構築主義」の立場に立つことが必要なのである。

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