「竜の口の法難」の意義づけが身延派と同一

2026年7月11日

 日蓮大聖人を釈尊の使いとする『創価学会教学要綱』の教義が多くの点で身延派の教義と一致していることは既に多くの人が指摘しているが、とりわけ酷いのは「竜の口の法難」の意義づけである。
 これまで創価学会では「竜の口の法難」において日蓮大聖人が「内証に永遠の妙法と一体となった自在の御境地である久遠元初の『自受用報身如来』の本地を顕されました」(池田大作「『開目抄』講義」『池田大作全集』第34巻21頁)と説明してきた。しかし『教学要綱』は「上行菩薩の使命の自覚」という見出しを立てた上で、「竜の口の法難」によって大聖人が「上行菩薩としての役割を果たす立場」に立ったと説明し(同書43頁)、「上行菩薩の働きを行う者であるという自覚を表明された」(同書45頁)とする。しかし、これでは大聖人が竜の口の法難以前は上行菩薩であるとの自覚もないのに南無妙法蓮華経を弘通してきたことになってしまう。
 この『教学要綱』の説明は、実は身延派日蓮宗の説明と同一である。身延派の正式な教義書である『宗義大綱読本』(日蓮宗勧学院監修)では「遠流と刀杖等の諸難の連続を体験された聖人は、法華経に予言された地涌上行の自覚を確立された」(同書8頁)と述べている。
 このような身延派と同一の教義を信じていたならば、どのように唱題に励んでも功徳はない。日蓮大聖人は「生死一大事血脈抄」に「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」(新版御書1777頁)と言われている。「信心の血脈」とは日蓮・日興に伝わる正しい教義である。法主信仰を奉持する日蓮正宗や釈迦を本仏とする身延派のように、信ずる教義が誤っていたならば、たとえ本尊は正しくても功徳が生ずることはないとの御指南である。
「御本尊と題目があれば教義はどうでもよい」などという暴論を吐く人がいる。とんでもない誤りである。信ずる教義が狂っていたならば「日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし」(「種々御振舞御書」新版1239頁)と仰せのように、功徳どころか大罰を被ることになる。教義の正邪を厳しく峻別しなければならない。

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