「神格化・神秘化」というレッテル貼りの印象操作
2026年8月21日
第一回の男子部教学室論考(創価新報2024年11月号、現在はネット上では閲覧不能)をはじめとして『教学要綱』擁護派がしばしば言う主張として、「人法一箇」「久遠元初自受用身」の用語は「大聖人を神格化・神秘化する用語」であるとするものがある。しかし、それ自体が大きな誤りである。
まず、神格化・神秘化とは何を意味しているのか、何も明らかにされていない。またこれらの言葉が何故に「大聖人を神格化・神秘化する用語」となるのか、その理由、論拠も何も示されていない。ただ「神格化・神秘化だ」と言っているだけで、単なる印象操作に終わっている。
男子部教学室のいう神格化・神秘化の内容が日蓮大聖人を超人的な唯一特別の存在と捉えるという意味ならば、その前提自体が誤っている。日蓮大聖人はあくまでも現実の人間(凡夫)であり、凡夫の生命の上に根源仏(久遠元初自受用身)の境涯を現す「凡夫即極」の手本を示されたのである。日寛上人が「観心本尊抄文段」で「久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり」(『日寛上人文段集488頁)と明言されている通り、久遠元初自受用身は大聖人だけではない。妙法を行ずる万人が久遠元初自受用身となりうるのである。
「人法一箇」も日蓮大聖人だけを指す言葉ではない。法華経法師品が「経巻が住するところには如来の全身がおられる」(法華経363頁)と述べているように、人法一箇は仏教全体を貫く思想である。哲学においても、これまで非生物とされてきた物質にも自発性、すなわち意思があるとする見解が承認されつつある。いわば人間を含めて万物が意思(人)と行為の方向性(法)を具えた人法一箇の存在なのである。
「人法一箇」や「久遠元初自受用身」は仏教用語で、一般的に使われる言葉ではないが、人間が理解できない神秘語ではない。その概念には「総別の二義」など法華経を含めた仏教史を基盤にした重層的な意義がある。その含蓄深い言葉を何の根拠も示さず、単に神格化・神秘化というレッテルを貼って安易に排除することは重大な誤りである。印象操作に過ぎない浅薄なレッテル張りは、法華経から創価学会の三代会長まで歴史的に刻まれてきた仏教の豊かな思想内容を捨て去ることになるからだ。
まず、神格化・神秘化とは何を意味しているのか、何も明らかにされていない。またこれらの言葉が何故に「大聖人を神格化・神秘化する用語」となるのか、その理由、論拠も何も示されていない。ただ「神格化・神秘化だ」と言っているだけで、単なる印象操作に終わっている。
男子部教学室のいう神格化・神秘化の内容が日蓮大聖人を超人的な唯一特別の存在と捉えるという意味ならば、その前提自体が誤っている。日蓮大聖人はあくまでも現実の人間(凡夫)であり、凡夫の生命の上に根源仏(久遠元初自受用身)の境涯を現す「凡夫即極」の手本を示されたのである。日寛上人が「観心本尊抄文段」で「久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり」(『日寛上人文段集488頁)と明言されている通り、久遠元初自受用身は大聖人だけではない。妙法を行ずる万人が久遠元初自受用身となりうるのである。
「人法一箇」も日蓮大聖人だけを指す言葉ではない。法華経法師品が「経巻が住するところには如来の全身がおられる」(法華経363頁)と述べているように、人法一箇は仏教全体を貫く思想である。哲学においても、これまで非生物とされてきた物質にも自発性、すなわち意思があるとする見解が承認されつつある。いわば人間を含めて万物が意思(人)と行為の方向性(法)を具えた人法一箇の存在なのである。
「人法一箇」や「久遠元初自受用身」は仏教用語で、一般的に使われる言葉ではないが、人間が理解できない神秘語ではない。その概念には「総別の二義」など法華経を含めた仏教史を基盤にした重層的な意義がある。その含蓄深い言葉を何の根拠も示さず、単に神格化・神秘化というレッテルを貼って安易に排除することは重大な誤りである。印象操作に過ぎない浅薄なレッテル張りは、法華経から創価学会の三代会長まで歴史的に刻まれてきた仏教の豊かな思想内容を捨て去ることになるからだ。
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