ブログ
2026年8月21日
「神格化・神秘化」というレッテル貼りの印象操作
第一回の男子部教学室論考(創価新報2024年11月号、現在はネット上では閲覧不能)をはじめとして『教学要綱』擁護派がしばしば言う主張として、「人法一箇」「久遠元初自受用身」の用語は「大聖人を神格化・神秘化する用語」であるとするものがある。しかし、それ自体が大きな誤りである。
まず、神格化・神秘化とは何を意味しているのか、何も明らかにされていない。またこれらの言葉が何故に「大聖人を神格化・神秘化する用語」となるのか、その理由、論拠も何も示されていない。ただ「神格化・神秘化だ」と言っているだけで、単なる印象操作に終わっている。
男子部教学室のいう神格化・神秘化の内容が日蓮大聖人を超人的な唯一特別の存在と捉えるという意味ならば、その前提自体が誤っている。日蓮大聖人はあくまでも現実の人間(凡夫)であり、凡夫の生命の上に根源仏(久遠元初自受用身)の境涯を現す「凡夫即極」の手本を示されたのである。日寛上人が「観心本尊抄文段」で「久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり」(『日寛上人文段集488頁)と明言されている通り、久遠元初自受用身は大聖人だけではない。妙法を行ずる万人が久遠元初自受用身となりうるのである。
「人法一箇」も日蓮大聖人だけを指す言葉ではない。法華経法師品が「経巻が住するところには如来の全身がおられる」(法華経363頁)と述べているように、人法一箇は仏教全体を貫く思想である。哲学においても、これまで非生物とされてきた物質にも自発性、すなわち意思があるとする見解が承認されつつある。いわば人間を含めて万物が意思(人)と行為の方向性(法)を具えた人法一箇の存在なのである。
「人法一箇」や「久遠元初自受用身」は仏教用語で、一般的に使われる言葉ではないが、人間が理解できない神秘語ではない。その概念には「総別の二義」など法華経を含めた仏教史を基盤にした重層的な意義がある。その含蓄深い言葉を何の根拠も示さず、単に神格化・神秘化というレッテルを貼って安易に排除することは重大な誤りである。印象操作に過ぎない浅薄なレッテル張りは、法華経から創価学会の三代会長まで歴史的に刻まれてきた仏教の豊かな思想内容を捨て去ることになるからだ。
まず、神格化・神秘化とは何を意味しているのか、何も明らかにされていない。またこれらの言葉が何故に「大聖人を神格化・神秘化する用語」となるのか、その理由、論拠も何も示されていない。ただ「神格化・神秘化だ」と言っているだけで、単なる印象操作に終わっている。
男子部教学室のいう神格化・神秘化の内容が日蓮大聖人を超人的な唯一特別の存在と捉えるという意味ならば、その前提自体が誤っている。日蓮大聖人はあくまでも現実の人間(凡夫)であり、凡夫の生命の上に根源仏(久遠元初自受用身)の境涯を現す「凡夫即極」の手本を示されたのである。日寛上人が「観心本尊抄文段」で「久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり」(『日寛上人文段集488頁)と明言されている通り、久遠元初自受用身は大聖人だけではない。妙法を行ずる万人が久遠元初自受用身となりうるのである。
「人法一箇」も日蓮大聖人だけを指す言葉ではない。法華経法師品が「経巻が住するところには如来の全身がおられる」(法華経363頁)と述べているように、人法一箇は仏教全体を貫く思想である。哲学においても、これまで非生物とされてきた物質にも自発性、すなわち意思があるとする見解が承認されつつある。いわば人間を含めて万物が意思(人)と行為の方向性(法)を具えた人法一箇の存在なのである。
「人法一箇」や「久遠元初自受用身」は仏教用語で、一般的に使われる言葉ではないが、人間が理解できない神秘語ではない。その概念には「総別の二義」など法華経を含めた仏教史を基盤にした重層的な意義がある。その含蓄深い言葉を何の根拠も示さず、単に神格化・神秘化というレッテルを貼って安易に排除することは重大な誤りである。印象操作に過ぎない浅薄なレッテル張りは、法華経から創価学会の三代会長まで歴史的に刻まれてきた仏教の豊かな思想内容を捨て去ることになるからだ。
2026年8月9日
池田名誉会長を貶める男子部教学室の歪曲
二年前、私が『創価学会教学要綱』を批判した小著を出版した際、男子部教学室から反論文書が二回発表された。一回目は全く反論になっておらず、私に対する悪口罵詈に終始する名誉毀損まがいの代物だったので、公表は不都合と考えたのか、今は閲覧不能になっている。二回目のものは支離滅裂さがひどいので今まで放置しておいたが、池田名誉会長を貶める内容が見られるため、改めて破折することとする。
その一つは「諫暁八幡抄」の解釈の問題である。一回目の教学室論考に対して私は「『諫暁八幡抄』では日蓮が釈迦仏に勝る存在であることが示されている。(中略)日蓮勝・釈迦劣の思想は日蓮自身の御書にうかがうことができる」(「『創価学会教学要綱』と日蓮本仏論の考察」126頁)と記した。
「諫暁八幡抄」には「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらん。月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世はただ八年なり。日は光明、月に勝れり。五の五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給わず。在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり」(新版747頁、旧版588頁)と述べられている。
この御文は、西から東に伝わった釈迦仏法を月に譬え、東から西へと伝わる日蓮仏法を太陽に譬えて、釈迦仏法と日蓮仏法の勝劣を明確に示し、法華経誹謗の者を救済できない釈迦仏に対して正法誹謗の者をも救済する日蓮大聖人の卓越性を宣言した、学会員ならば誰もが知る有名な御文である。
その御文について第二回の男子部論考は、池田名誉会長の名で発表された以下の文をもって異説を唱えている。
いわく――「ここでは『仏が在世に法華経を説かれたのはただ8年である』として、月の光に譬えられています。一方、末法の『長き闇』を照らす太陽もまた法華経です。日月は共に法華経の譬喩であり、込められた願いも娑婆世界の一切衆生の救済で、その心は同じです」(「大白蓮華」2015年5月号「世界を照らす太陽の仏法」)
この文章は「諫暁八幡抄」が譬えた月も太陽も同じ法華経であるとするが、池田名誉会長がこのような解釈をされたことはそれまで聞いたことはない。かつて名誉会長はこの御文を解釈して、「月は、出る位置をみると、日を追うにしたがって西の空から東へと移っていく。これは月氏(インド)の釈尊の仏法(月の仏法)が、東へ向かって弘まっていく相である。太陽は東から出て、西に入る。これは日本の大聖人の仏法(太陽の仏法)が月氏へとかえっていく瑞相である。(中略)月と太陽の光の強弱によせて、釈尊の仏法と大聖人の仏法との勝劣を述べられた一節である」(『池田大作全集』第69巻)と明快に述べている。この御文に関して、釈迦仏法と日蓮仏法の勝劣を示したものであるとする名誉会長の解釈は一貫しており、いささかも揺らいでいない。また、この解釈は戸田第二代会長が示されたものでもあった。
しかし、池田名誉会長が公の場に出られなくなった2010年以降、名誉会長の名のもとに多くの教学書が発刊されたが、そこには従来の主張とは大きく異なる内容が示されたり、大幅な削除が見られるようになった。この「世界を照らす太陽の仏法」の文もその一例である。そもそも名誉会長が最晩年に至って突然、戸田第二代会長時代から堅持してきた従来の解釈を覆し、百八十度異なる新説を発表されたとは信じ難い。これでは自身が長年にわたって会員に指導してきた内容が誤りであったことになってしまうからである。要するにこれは、釈迦仏法と日蓮仏法の相違を曖昧にするために名誉会長の名前を使ってなされた捏造である可能性が高いと判断される。そうであるならば、これは会員を欺く悪質な騙しであり、名誉会長の信用を貶める行為となろう。もしそうではなく、この文が紛れもなく名誉会長自身の執筆によるものだと主張するのであれば、それを裏づける客観的な根拠を示すべきである。
今や2010年以降に発刊された教学書の多くに重大な削除や改変がなされていることが明らかにされつつある。誰もが情報の真偽を検証できるようになった今日、ウソは必ず暴露される時代になっていることを知るべきである。
その一つは「諫暁八幡抄」の解釈の問題である。一回目の教学室論考に対して私は「『諫暁八幡抄』では日蓮が釈迦仏に勝る存在であることが示されている。(中略)日蓮勝・釈迦劣の思想は日蓮自身の御書にうかがうことができる」(「『創価学会教学要綱』と日蓮本仏論の考察」126頁)と記した。
「諫暁八幡抄」には「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらん。月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世はただ八年なり。日は光明、月に勝れり。五の五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給わず。在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり」(新版747頁、旧版588頁)と述べられている。
この御文は、西から東に伝わった釈迦仏法を月に譬え、東から西へと伝わる日蓮仏法を太陽に譬えて、釈迦仏法と日蓮仏法の勝劣を明確に示し、法華経誹謗の者を救済できない釈迦仏に対して正法誹謗の者をも救済する日蓮大聖人の卓越性を宣言した、学会員ならば誰もが知る有名な御文である。
その御文について第二回の男子部論考は、池田名誉会長の名で発表された以下の文をもって異説を唱えている。
いわく――「ここでは『仏が在世に法華経を説かれたのはただ8年である』として、月の光に譬えられています。一方、末法の『長き闇』を照らす太陽もまた法華経です。日月は共に法華経の譬喩であり、込められた願いも娑婆世界の一切衆生の救済で、その心は同じです」(「大白蓮華」2015年5月号「世界を照らす太陽の仏法」)
この文章は「諫暁八幡抄」が譬えた月も太陽も同じ法華経であるとするが、池田名誉会長がこのような解釈をされたことはそれまで聞いたことはない。かつて名誉会長はこの御文を解釈して、「月は、出る位置をみると、日を追うにしたがって西の空から東へと移っていく。これは月氏(インド)の釈尊の仏法(月の仏法)が、東へ向かって弘まっていく相である。太陽は東から出て、西に入る。これは日本の大聖人の仏法(太陽の仏法)が月氏へとかえっていく瑞相である。(中略)月と太陽の光の強弱によせて、釈尊の仏法と大聖人の仏法との勝劣を述べられた一節である」(『池田大作全集』第69巻)と明快に述べている。この御文に関して、釈迦仏法と日蓮仏法の勝劣を示したものであるとする名誉会長の解釈は一貫しており、いささかも揺らいでいない。また、この解釈は戸田第二代会長が示されたものでもあった。
しかし、池田名誉会長が公の場に出られなくなった2010年以降、名誉会長の名のもとに多くの教学書が発刊されたが、そこには従来の主張とは大きく異なる内容が示されたり、大幅な削除が見られるようになった。この「世界を照らす太陽の仏法」の文もその一例である。そもそも名誉会長が最晩年に至って突然、戸田第二代会長時代から堅持してきた従来の解釈を覆し、百八十度異なる新説を発表されたとは信じ難い。これでは自身が長年にわたって会員に指導してきた内容が誤りであったことになってしまうからである。要するにこれは、釈迦仏法と日蓮仏法の相違を曖昧にするために名誉会長の名前を使ってなされた捏造である可能性が高いと判断される。そうであるならば、これは会員を欺く悪質な騙しであり、名誉会長の信用を貶める行為となろう。もしそうではなく、この文が紛れもなく名誉会長自身の執筆によるものだと主張するのであれば、それを裏づける客観的な根拠を示すべきである。
今や2010年以降に発刊された教学書の多くに重大な削除や改変がなされていることが明らかにされつつある。誰もが情報の真偽を検証できるようになった今日、ウソは必ず暴露される時代になっていることを知るべきである。
2026年7月26日
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」
日蓮大聖人の六十一年にわたる御生涯を拝する時、そこに何ものをも恐れない偉大な勇猛心が貫かれていることを拝察することができる。三十二歳にして比叡山延暦寺等での遊学から故郷に帰られた時、大聖人は既に「阿闍梨」の資格を持つ高僧であった。そのまま故郷で過ごされたならば、人々から最高水準の学問をおさめた存在として尊敬され、安穏無事の人生が約束されたであろう。しかし、大聖人はその人生を選ばず、諸宗の謗法を破折して三大秘法の大法を弘通するという未聞の道を選ばれたのである。はたして立宗のその日から地頭の迫害を被り、清澄寺から退出せざるを得ない苦難が起きた。
また大聖人が「立正安国論」をもって時の最高権力者・北条時頼を諫暁されたことは、日本仏教史において前代未聞の出来事であった。言論の自由などという観念が存在しない当時、後継の天皇をも実質的に決定できるほどの権力を握る時頼を正面から諫暁することは、場合によっては命の危険にも直結する。実際に安国論提出後まもなく、松葉ヶ谷の法難によって念仏者から命を狙われ、翌年には伊豆流罪という国家権力による迫害が生じたことは周知の通りである。
その後、大聖人は小松原の法難から竜の口の法難、佐渡流罪という大難の連続の御生涯を歩まれたが、何故に大聖人はこれほどの大難を忍ばれたのか。それについて日寛上人は「外に大難を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり」(「開目抄愚記上」『日寛上人文段集』124頁)と述べられている。日蓮大聖人が命にも及ぶ多くの大難を忍ばれたのは末法万年の人類を救おうとされる大慈悲の故であると言われているのである。
そして大聖人はご自身と同様の、難を恐れない勇気を門下にも求められた。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書、新版1675頁)、「各々我が弟子となのらん人々は、一人もおくしおもわるべからず。おやをおもい、めこをおもい、所領をかえりみることなかれ(中略)仏の御使いとなのりながらおくせんは、無下の人々なりと申しふくめぬ」(種々御振舞御書、新版1227頁)。大聖人ご在世当時、門下が退転していったのも悪口罵詈や権力からの迫害を恐れる臆病心の故であった。
日蓮大聖人のようなお振る舞いは御本仏であるからなし得たことであって、我々などが到底できるものではない、と考えたのでは「師匠は師匠、弟子は弟子」となってしまい、師弟不二にならない。かつて池田先生は「信心とは言い換えれば勇気である」と繰り返し指導された。「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(諸法実相抄、新版1791頁)と仰せのように、大聖人の万分の一であっても、大聖人と同じ「師子王のごとくなる心」(佐渡御書、新版1286頁)をもって前進していきたい。
また大聖人が「立正安国論」をもって時の最高権力者・北条時頼を諫暁されたことは、日本仏教史において前代未聞の出来事であった。言論の自由などという観念が存在しない当時、後継の天皇をも実質的に決定できるほどの権力を握る時頼を正面から諫暁することは、場合によっては命の危険にも直結する。実際に安国論提出後まもなく、松葉ヶ谷の法難によって念仏者から命を狙われ、翌年には伊豆流罪という国家権力による迫害が生じたことは周知の通りである。
その後、大聖人は小松原の法難から竜の口の法難、佐渡流罪という大難の連続の御生涯を歩まれたが、何故に大聖人はこれほどの大難を忍ばれたのか。それについて日寛上人は「外に大難を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり」(「開目抄愚記上」『日寛上人文段集』124頁)と述べられている。日蓮大聖人が命にも及ぶ多くの大難を忍ばれたのは末法万年の人類を救おうとされる大慈悲の故であると言われているのである。
そして大聖人はご自身と同様の、難を恐れない勇気を門下にも求められた。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書、新版1675頁)、「各々我が弟子となのらん人々は、一人もおくしおもわるべからず。おやをおもい、めこをおもい、所領をかえりみることなかれ(中略)仏の御使いとなのりながらおくせんは、無下の人々なりと申しふくめぬ」(種々御振舞御書、新版1227頁)。大聖人ご在世当時、門下が退転していったのも悪口罵詈や権力からの迫害を恐れる臆病心の故であった。
日蓮大聖人のようなお振る舞いは御本仏であるからなし得たことであって、我々などが到底できるものではない、と考えたのでは「師匠は師匠、弟子は弟子」となってしまい、師弟不二にならない。かつて池田先生は「信心とは言い換えれば勇気である」と繰り返し指導された。「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(諸法実相抄、新版1791頁)と仰せのように、大聖人の万分の一であっても、大聖人と同じ「師子王のごとくなる心」(佐渡御書、新版1286頁)をもって前進していきたい。
2026年7月11日
「竜の口の法難」の意義づけが身延派と同一
日蓮大聖人を釈尊の使いとする『創価学会教学要綱』の教義が多くの点で身延派の教義と一致していることは既に多くの人が指摘しているが、とりわけ酷いのは「竜の口の法難」の意義づけである。
これまで創価学会では「竜の口の法難」において日蓮大聖人が「内証に永遠の妙法と一体となった自在の御境地である久遠元初の『自受用報身如来』の本地を顕されました」(池田大作「『開目抄』講義」『池田大作全集』第34巻21頁)と説明してきた。しかし『教学要綱』は「上行菩薩の使命の自覚」という見出しを立てた上で、「竜の口の法難」によって大聖人が「上行菩薩としての役割を果たす立場」に立ったと説明し(同書43頁)、「上行菩薩の働きを行う者であるという自覚を表明された」(同書45頁)とする。しかし、これでは大聖人が竜の口の法難以前は上行菩薩であるとの自覚もないのに南無妙法蓮華経を弘通してきたことになってしまう。
この『教学要綱』の説明は、実は身延派日蓮宗の説明と同一である。身延派の正式な教義書である『宗義大綱読本』(日蓮宗勧学院監修)では「遠流と刀杖等の諸難の連続を体験された聖人は、法華経に予言された地涌上行の自覚を確立された」(同書8頁)と述べている。
このような身延派と同一の教義を信じていたならば、どのように唱題に励んでも功徳はない。日蓮大聖人は「生死一大事血脈抄」に「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」(新版御書1777頁)と言われている。「信心の血脈」とは日蓮・日興に伝わる正しい教義である。法主信仰を奉持する日蓮正宗や釈迦を本仏とする身延派のように、信ずる教義が誤っていたならば、たとえ本尊は正しくても功徳が生ずることはないとの御指南である。
「御本尊と題目があれば教義はどうでもよい」などという暴論を吐く人がいる。とんでもない誤りである。信ずる教義が狂っていたならば「日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし」(「種々御振舞御書」新版1239頁)と仰せのように、功徳どころか大罰を被ることになる。教義の正邪を厳しく峻別しなければならない。
これまで創価学会では「竜の口の法難」において日蓮大聖人が「内証に永遠の妙法と一体となった自在の御境地である久遠元初の『自受用報身如来』の本地を顕されました」(池田大作「『開目抄』講義」『池田大作全集』第34巻21頁)と説明してきた。しかし『教学要綱』は「上行菩薩の使命の自覚」という見出しを立てた上で、「竜の口の法難」によって大聖人が「上行菩薩としての役割を果たす立場」に立ったと説明し(同書43頁)、「上行菩薩の働きを行う者であるという自覚を表明された」(同書45頁)とする。しかし、これでは大聖人が竜の口の法難以前は上行菩薩であるとの自覚もないのに南無妙法蓮華経を弘通してきたことになってしまう。
この『教学要綱』の説明は、実は身延派日蓮宗の説明と同一である。身延派の正式な教義書である『宗義大綱読本』(日蓮宗勧学院監修)では「遠流と刀杖等の諸難の連続を体験された聖人は、法華経に予言された地涌上行の自覚を確立された」(同書8頁)と述べている。
このような身延派と同一の教義を信じていたならば、どのように唱題に励んでも功徳はない。日蓮大聖人は「生死一大事血脈抄」に「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」(新版御書1777頁)と言われている。「信心の血脈」とは日蓮・日興に伝わる正しい教義である。法主信仰を奉持する日蓮正宗や釈迦を本仏とする身延派のように、信ずる教義が誤っていたならば、たとえ本尊は正しくても功徳が生ずることはないとの御指南である。
「御本尊と題目があれば教義はどうでもよい」などという暴論を吐く人がいる。とんでもない誤りである。信ずる教義が狂っていたならば「日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし」(「種々御振舞御書」新版1239頁)と仰せのように、功徳どころか大罰を被ることになる。教義の正邪を厳しく峻別しなければならない。
2026年7月8日
「認識せずして評価するなかれ」の名言
「認識せずして評価するなかれ」とは牧口常三郎先生が繰り返し強調された名言である。先生はどのような権威にも盲従せず、風評に左右されず、自らの目で対象をきちんと認識し、自身の体験と思索によって画期的な『人生地理学』『創価教育学体系』等を生み出された。
牧口先生といえば、仏教学の泰斗・中村元博士も先生を極めて高く評価されていた。私は博士の講演を直接聴いたことがある。その時、中村博士は、明治以降の日本の学者が概して欧米の学問の紹介・祖述に終始していた中で、牧口先生が西欧の学説を鵜呑みにせず、それを正しく認識し評価した上で自分自身の学説を確立したことを絶賛されていた。要するに権威になびかず、あくまでも自分の頭で考えぬいたところに牧口先生の偉大さがあるというのである。
何事も自分の目で確認し、認識した上で評価を下していく自立した態度が大切であることを牧口先生は教えられたわけだが、ともすると自分で確かめてもいないのに、先入観やイメージだけで安易に判断してしまいがちである。
自分のことで恐縮だが、『創価学会教学要綱』の問題点について2025年1月に「『創価学会教学要綱』と日蓮本仏論の考察」という小著を上梓した。ここで取り上げているのは日蓮仏法の根本教義の問題なので、是非とも『教学要綱』と拙著がそれぞれどのようなことを述べているのか、自分の目でしっかりと確認し、自分の頭で認識した上で評価の判断を下してほしい。内容を認識せずに、ただ「本部が出したものを批判するのはよくない」と簡単に決めつける態度は牧口先生の教えに違背していると思う。
牧口先生といえば、仏教学の泰斗・中村元博士も先生を極めて高く評価されていた。私は博士の講演を直接聴いたことがある。その時、中村博士は、明治以降の日本の学者が概して欧米の学問の紹介・祖述に終始していた中で、牧口先生が西欧の学説を鵜呑みにせず、それを正しく認識し評価した上で自分自身の学説を確立したことを絶賛されていた。要するに権威になびかず、あくまでも自分の頭で考えぬいたところに牧口先生の偉大さがあるというのである。
何事も自分の目で確認し、認識した上で評価を下していく自立した態度が大切であることを牧口先生は教えられたわけだが、ともすると自分で確かめてもいないのに、先入観やイメージだけで安易に判断してしまいがちである。
自分のことで恐縮だが、『創価学会教学要綱』の問題点について2025年1月に「『創価学会教学要綱』と日蓮本仏論の考察」という小著を上梓した。ここで取り上げているのは日蓮仏法の根本教義の問題なので、是非とも『教学要綱』と拙著がそれぞれどのようなことを述べているのか、自分の目でしっかりと確認し、自分の頭で認識した上で評価の判断を下してほしい。内容を認識せずに、ただ「本部が出したものを批判するのはよくない」と簡単に決めつける態度は牧口先生の教えに違背していると思う。
- 著書とプロフィル
- 日蓮本仏論の考察
- 『日興門流と創価学会』要旨
- 講演要旨(法華経の智慧について)
- 生命変革の哲学・第1章途中まで
- Mythos and Wisdomの序文
- 『教学要綱』に関する会長宛て書簡
- 男子部教学室「論考」への応答
- 『教学要綱』の考察・要約版
- ブログ
- フリーページ
最近の記事一覧
カテゴリー
携帯用QRコード