尻八館跡(後潟城)

 西田沢・奥内・後潟地区にはさまざまな遺跡があります。青森市後潟には、「尻八館(しりはちだて)」=伝尻八舘と呼ばれる安藤氏(安東氏)に関連する山城跡の遺跡があり、地元の研究者の中国製青磁香炉採集から、青森県郷土館の調査が行われたという経緯があります。遺蹟の整備には、地元の方々が大きく貢献されました。
 なお、青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。尻八館跡は令和4年8月と令和6年5月に調査が実施されています。⇒「山城分布調査

contents
  1. 尻八館跡 東曲輪と西曲輪
  2. 西曲輪下壕道と摺鉢山    
  3. 大手道沿いにある遺構
  4. 西路にある壕道    
  5. ため池にある製鉄遺跡
  6. 尻八城跡の構造・ルートと主な遺構
  7. 尻八城跡の建物遺構
  8. 尻八城跡からの出土品    
  9. 外浜の安藤氏伝承 心のこり沢
  10. 尻八館調査に至る経緯と後方羊蹄郷土史研究会
  11. 二の丸にある説明板文面
  12. 尻八館城跡のポイント
  13. 尻八館城跡関連 知見    
  14. 尻八館とはどんな城だったのか
  15. 尻八館の成立と破却
  16. 山城ビデオ 1.尻八館城址探訪 2.尻八館西路壕道群 
  17. 写真アルバム
※本ページは、青森市北部にある安藤氏の山城に関わっての初期に作成し始めたものです。そのため、知見が後から積み上がっていって、構成の統一感に欠けていることをご容赦ください。

尻八館跡 東曲輪と西曲輪

青森市後潟字後潟山
 尻八館跡へは、「山城公園」に駐車して登ってください。登山口から「二の丸跡」まで約40分。二の丸から「本丸跡」まで約15分。帰りは本丸跡から約40分で戻れます。標高は184m。地図には名称のない山ですが、「摺(すり)鉢山」と呼ばれているとのことです。急な斜面にはロープが張ってあります。手袋持参してください。
 尻八館は、安藤氏に関係のある山城跡です。尻八館跡の曲輪は、東と西の二つの頂部にあり、Ⅰ郭(西)・Ⅱ郭(東)とする本もありますが、ここでは新青森市史に沿って「東曲輪」、「西曲輪」として説明します。
写真をクリックすると、大きな写真にリンク!


尻八館城跡 東曲輪
尻八城跡「東曲輪」 表示は二の丸跡となっている 山を登り詰めた1つ目のピークにある

立地
尻八館跡は、青森市中心市街地の北西、JR津軽線後潟駅から北西へ約3.2km。海岸からは約3.3km内陸に入った地点にある。山域は南北に約2.2km、東西に約1.0kmある。標高は184.2m。所在地は青森市後潟字後潟山、六枚橋字六枚橋。
(※山域の西端と標高は、遺構が確認されているエリアと連動する。)
 
見どころ
陣場に立つ貢献者標柱、壕道(壕のように掘り込んだ道)、大手虎口、展望所付近のテラス(人工的に段状の広場にしている)、東曲輪(二の丸跡)、堀、西曲輪(本丸跡)、西曲輪南下からため池への西路上の壕道
 

YAMAP コース軌跡と写真
「ヤマップ」を使って、移動したコ−スの記録や軌跡に写真を合わせて、遺構などの位置がわかるようになっている『活動日記』を公開しています。「活動日記」に掲載している写真にカーソルを当てると説明が表示されます。写真をクリックすると、拡大写真になり説明文も読めます。
 

アプローチ
山城公園mapへリンク国道280号バイパスを北上して、蓬田村方面に向かって「六枚橋川」を渡って進むと佐藤農機「クボタ」が右手に見える。佐藤農機の向かいの舗装道路を山側に左折する。新幹線高架橋をくぐり、山際の橋を渡り右折して道なりに進む。舗装路が途切れ、少し先で左にカーブして坂を登ったところの左側に山城公園駐車場がある。
→ Google map へ リンク。駐車場があり、登山コースの山城公園

《 登山路ルート 》
 東曲輪までのルートは、山城公園駐車場から尻八館案内板を右手にして、「登山道」の標識の指す方向に進む。道はまっすぐと左側に階段がある方向に分かれるので、階段を上がると陣場跡の広場に出る。山城公園の石碑を左手にして登っていく。東曲輪までは、50分ほど。
 登山道を上ると「尻八城址まで440m」と書かれた標識があり、そこを右折すると大手道方面となる。

《 搦手道ルート 》
 東曲輪を西曲輪方面に降りる。正面の道が西曲輪へ。左に入ると東曲輪下の遺構に行く。右に回り込み、右手に東曲輪の切岸を見ながら進み、竪壕を越える。正面が広くなる場所に北方面に下る道がある。下ると尾根筋があり、ここが搦手道。最終地点は後潟川に出る。川には橋がないので、長靴が必要。駐車場がある。

大手道ルート 》
・ 登山路~駐車場:東曲輪への登山道を上がると高圧送電線が頭上を通る箇所があり、左手に鉄塔保安路がある。少し進むと右手に保安路がありその角に「尻八城址まで440m」と書かれた標識があるので、右折して進む。進むと「82番鉄塔」が見えてくる。その手前に右に折れる道があり、そこが大手道に平行して進む山道。下ると「大手口」を過ぎて、鉄塔保安路に出る。右折して約100m進むと「山城公園駐車場」に出る。
・ 大手道~堀底道~東曲輪:大手道に平行して進む山道に曲がる箇所(82番鉄塔の手前)の反対の山側に入って西へ100mほどに「堀底道」の入口がある。82番鉄塔の山側から入った方が進みやすい。堀底道を登って進むと登山道の横にある壕道につながる。終点は東曲輪虎口下の斜面に出る。

西路へのルート 》
・ 山城公園駐車場の右側前方に尻八館跡への登山道がある。尻八館へは池の脇を歩いて「陣場へ」の標識で曲がり階段を上がって、陣場を過ぎて「二の丸跡」へ進むが、標識で曲がらずに、そのまま、ため池脇の道を進む。道は「81番鉄塔」にたどり着く。そこから左手方向の鉄塔保安路を進む。
 次にある「80番鉄塔」の立っている広場へと下がる道のすぐ手前から、尻八館跡方向(西曲輪)に切り込んで曲がる。たどって進むと尾根筋にぶつかると伐採地に出る。伐採地手前の尾根筋は笹が繁茂しているため、伐採地の縁を使って登っていく。進むと容易に右側の尾根筋に入れる箇所があり、そのまま尾根筋を登ると「本丸跡」の南下にある堀にたどり着く。
帰りも同ルートで戻るとしたら、伐採地から尾根筋に入った箇所で、右側に谷を見ながら進むことがコツ。
・ 池脇山へは、「81番鉄塔」のある広場の池脇山の麓に立木がある。そこを登れば池脇山の尾根に出て、右手方向が山頂である。
 

登山道を通って東曲輪、西曲輪へ

尻八城跡案内板
尻八城趾案内板  駐車場近くにあります

尻八城跡案内図拡大
尻八城趾案内図拡大  「超古代遺跡志利幌館」のサブタイトルはご愛嬌

最初の登山道標識
最初の登山道標識 顕徳記念碑を右手にして前方に登山道がある

陣場に上がる道
陣場に上がる道  階段を上がると「山城公園」の石碑がある

陣場と城跡整備に貢献した方の木柱碑
陣場と城跡整備に貢献した方の木柱碑 「後方羊蹄郷土史研究会」に関係の深い方々なのでしょう。

山城公園創立記念石碑
山城公園創立記念石碑 木柱碑に向かって背中側にあります。昭和6年建立。ここにも整備に協力した方々の名前が刻まれています。
 
経路案内標識
経路案内標識 案内標識はこまめに建てられています。
 
「東曲輪」へ向かう道 尻八館城跡
「東曲輪」へ向かう道 当時のルート「大手道」はこの尾根筋の北側にあります。
 
経路案内標識 尻八館城跡
経路案内標識(狭間) どこが「狭間」なのかがよくわかりませんでした

尻八城跡へ向かう道
尻八城趾へ向かう道 まだ楽に歩けます

経路案内標識 尻八城跡
経路案内標識 二の丸まで320m この先に急な坂道があります。

経路案内標識尻八館跡
経路案内標識 展望台へ28m、尻八城跡へ180m。この地点あたりの山に向かって右手に壕道がみえる。

大手道へと続く壕道
大手道へと続く壕道 写真だと深い印象が薄れますが、かなり掘ってあります。壕道を降りると「大手道」近くの、JR新今別線82番鉄塔 のすぐ近くまで進みます。

壕道
壕道 えぐってあるのがわかりますか?
 
経路案内標識尻八城跡
経路案内標識 前に進まず左へ登る。このあたりは登山道と「大手道」がつながってすぐのあたり。城への道がジクザクに設定されている。
 
大手虎口に至る道 尻八城跡
大手虎口に至る道 道がジグザグに曲がっているのがわかりますね。写真左が東曲輪下の切岸です。

大手虎口
大手虎口 右側にロープが張ってあるほどの急な斜面。ここを登るとテラスになる。

人為的に造成した広場 尻八城跡
1段目テラスを2段目テラスから見る 前方右側が標識での「展望所」のようです。葉っぱが少ない時期には見晴らしがきくでしょう。
 
人為的に造成した広場 尻八城跡
2段目テラス ここの箇所がもっとも広い

3段目テラスへの上がり口
3段目テラスへの上がり口 テラスとテラスとの高さの違いがわかりますか。
 
尻八城跡碑 「二の丸跡」
尻八城址碑  「二の丸跡」と表示されている。 ヒノキに囲まれてうす暗い
 東曲輪(2段目テラスの南側)から中国龍泉窯で作られたと鑑定された「青磁浮牡丹文香炉」が出土している。他に茶臼や埋蔵銭がまとまって99枚、永楽通宝を最新銭とする194枚が出土している。

青磁浮牡丹文香炉 青森県立郷土館蔵
青磁浮牡丹文香炉 青森県立郷土館蔵
 これが出土した香炉。青森県立郷土館の「歴史コーナー」に展示してあります。想像していたよりも大きくて驚きました。掲載許可をいただきました。※写真をクリックすると拡大写真を表示。
 
尻八城跡石碑
尻八城址石碑 昭和49年5月5日 「後方羊蹄(しりべし)郷土史研究会」建之 書は竹内俊吉知事

「尻八館の由来」説明板
「尻八館の由来」説明板 文面は後段に記載しています。説明文はこちら
 
「搦手道」へ降りる前の平場
「搦手道」へ降りる前の平場 正面はかなり急です。右手方向に下がるとその先に「搦手道」に続く道があります
 
搦手道手前にある竪壕
搦手道手前にある竪壕 東曲輪から降りて、「本丸」へ続く道に向かって、右に回り込むと「搦手道」方面です。搦手道入口の手前に「竪壕(たてぼり)」があります。

「東曲輪」を下がり「西曲輪」進む道
「東曲輪」を下がり「西曲輪」へ進む道
 東曲輪から見下ろすとこうです。前方が西曲輪(本丸跡)への道。十字路状になっいて、右側の道が搦手道へつながる。
 
「西曲輪」への降り口近くから見える堀跡
「西曲輪」への降り口近くから見える堀跡 「西曲輪」への道に降りてからよりも、堀跡がわかりやすい。この堀跡を写真左手方向に進むと「切岸・堀・腰曲輪」などの遺構を見ることができます。
 
「西曲輪」への降り口を下がってから振り返る
「西曲輪」への降り口を下がってから振り返る 帰りは右手に張られているロープをつかんで登ります。

堀跡 尻八城跡
堀跡 降りてすぐに堀の標識がある

堀跡
東曲輪南側の遺構、堀と切岸 尾根筋を掘り下げて「切り通し」状にし、堀をめぐらしている

堀跡
東曲輪南側の遺構、堀 斜面下に腰曲輪や堀がある

堀跡
東曲輪南側の遺構、腰曲輪状の堀 登山道への戻りの景観

「西曲輪」へ向かう道
「西曲輪」へ向かう道 表示による「本丸」へは稜線をたどって行くのでトコトコ歩けます(この写真は戻りに撮影しているため若干の下り)
 
稜線からの景色
稜線から見える景色 新幹線高架橋と後潟の海が見えます

西曲輪 尻八館城跡
「本丸跡」西曲輪  表示での「本丸跡」までの距離数がわかる標識は立てられていません。もう戻ろうかと思ったあたりに出現しました。ここを「本丸跡」としたのは、地元の研究者の見立てなのでしょう。
 
  県立郷土館の発掘調査では「本丸」=Ⅰ郭、「二の丸」=Ⅱ郭と表していたが、Ⅰ郭が中心部という印象を与えることから新青森市史資料編2古代・中世では、「本丸」=Ⅰ郭→《西曲輪》、「二の丸」=Ⅱ郭→《東曲輪》と表しています。 この本丸跡は「西曲輪」の西端に位置します。

二の丸からふもとへの道 尻八城跡
東曲輪からふもとへの道 ロープが張られているとおり勾配がきつい。登山路脇に壕道が現れる箇所のすぐ下あたり。
 
山城公園に戻る道 尻八館城跡
ふもとへの道 ここらまでくると楽になりました。この先に高圧電線鉄塔の保安路と登山道が交錯する箇所があります。そこから北(下に向かって左手)に曲がると大手道方向です。
 
陣場近くの赤松
陣場近くの赤松 ご苦労さんと赤松が出迎えてくれた感じです
 

西曲輪下壕道と摺鉢山

西曲輪 尻八館城跡
 本丸跡の広場 
  1. 写真正面の広場の縁まで進むと、下に堀があります。その堀を越えると、ため池脇(駐車場)から鉄塔保安路を通って「西曲輪・本丸跡」につながる「西路(呼称)」です。西路には、壕道が数多く設定されています。
  2. 堀に降りると、東曲輪から西曲輪への道の下に「堀道」があります。途中「切り通し」(尾根筋を掘り下げて、歩くことができるようにした箇所)があり、西曲輪入口にあたる横堀に出ます。
  3. この本丸跡へ進んできた道を坂下(写真の右方向)に下ります。降りた箇所に「土門」標識があります。そこから、尾根沿いに前(西)に進むと「摺鉢山」の頂上に至ります。

●摺鉢山は、頂部を平場(人為的に掘削して平らにする)にはしていなく、自然地形のままです。尻八館の東曲輪、西曲輪と落とされた場合には、この摺鉢山で攻防したことでしょう。
Web東奥「あおもり110山」摺鉢山  ← クリックするとリンクします。
この記事には『営林署が1910(明治43)年、林道や防火線を造ったとき、かなりの量の刀剣類が出土、伝説を増幅した。』と書かれているものの、残念なことに出土した場所は書かれていない。記事では、尻八館全体を含めて「摺鉢山」と扱っているようだ。

摺鉢山の頂部
摺鉢山の頂部 人為的に削平していない自然地形

摺鉢山からの景観
摺鉢山からの景観 後潟の海、陸奥湾がよく見えます  
 

大手道沿いの遺構

 尻八館の遺構は、登山道から東曲輪、西曲輪のライン上だけではなく、山麓に広がっています。その中で、たどりやすい遺構を紹介します。現在の登山道は、県(郷土館)の調査時点では「大手道」と想定されていましたが、新青森市史編纂のための調査で大手道は別なことがわかっています。

 大手道沿いの遺構は、登山道から右折し保安路を進むと渡る沢。沢を人為的に拡げてあります。大手道に平行して進む山道の下にある沢筋が「大手道」。沢を人為的に拡張して道としていました。大手道を下ると沢を横切るように土塁が設置されています。このような土塁は2ヶ所あり、山頂に近い方が大きくなっています。土塁と土塁との間隔は約50mです。

大手道方面への分岐点
大手道方面への分岐点 「あと440m」 右手が高圧電線鉄塔の保安路。右折して遺構のある沢へ至る。写真正面が山方向。
 
遺構 尻八館城跡 自然の沢を人為的に広げたところ
遺構 自然の沢を人為的に広げたところ  登山道からもっとも近い沢。このような、人が手をかけた場所が大手道方向に見つかっています。
 
遺構 尻八館城跡 自然の沢を人為的に広げたところ
遺構 自然の沢を人為的に広げたところ  登山道からもっとも近い沢。
 
JR新今別線82番鉄塔
JR新今別線82番鉄塔 大手道へは、この鉄塔手前の道を右折します。
  東曲輪虎口へ至る壕道は写真左手の林から入ると壕道入口がある。
 
堤状土塁 尻八館城跡 沢をまたぐ土塁
堤状土塁 自然の沢を人為的に広げ、沢をまたぐように土塁がある  送電線鉄塔近くの沢、大手道の脇
 
 
遺構 尻八館城跡 沢をまたぐ土塁の上部
遺構 土塁の上部  土塁の幅は1.2m程
 
遺構 尻八館城跡 土塁排水ヶ所
 
遺構 土塁の正面左側 土塁を切り、水が下に流れるようにしてある。ここから、約50m下ると鉄塔保安路に出る。保安路を右手方向に進むと山城公園駐車場。
 

西路にある壕道

 これから紹介する西路(呼称)は、新青森市史編纂での尻八館跡に関する調査でも未調査だったエリアです。
 このルートに着目した理由は、尻八館から北側に降りるルートは東曲輪からの「搦手道」がありますが、南側に降りるルートはどうだったのかという疑問でした。地形図では、西曲輪の西端にある「本丸跡」から北に降りて、一方は南の六枚橋川にたどるルート〈註〉があります。そして、このルートは尾根から現在の山城公園駐車場に向かうルートに分かれます。
 また、本丸跡の広場の南側に堀があり、その堀を渡っての尾根斜面を降りると立派な壕道があり、麓から登るルートを探して連結する必要が出てきました。
  • 註:昭和28年地形図には、西曲輪からため池までの「西路」は記載されていますが、西路から分岐して、六枚橋川方面への尾根道は記載されていませんでした。このルートは六枚橋川にたどり着いてからどう渡るかが課題です。
西路へ続く道
西路へ続く道 登山道へは右に上がるが、西路へはそのまま直進する。道なりに進むと81番鉄塔に着く。
 
80番鉄塔
80番鉄塔 81番鉄塔から保安路を西へ進むと80番鉄塔に着く。写真左の木の脇から西脇山に上がる。尻八館西曲輪「本丸跡」へは、鉄塔下の広場入口手前を山に入る。
 
《 池脇山の遺構 》
 山城公園駐車場の正面に、ため池がありその左手方向に小高い丘があります。地形図にも、この池脇山に登る道が記載されています。そして、それを降りると「本丸跡」からため池方面に降りるルートと交わります。この池脇山(呼称)にも遺構があるのではないかと考えました。地形図を見ると山の頂部は平坦になっていて、山城の曲輪がよくある地形に合っていました。
 調査した結果、頂部の平坦地の周りに切岸を構築していることがわかりました。合わせて、頂部から80番鉄塔に降りる方向に壕道が設定されています。敵が西路を進んだとして、池脇山の砦の伏兵に気づかなかった場合に、敵を前後に挟撃できます。※この遺構の形状は、瀬戸子館の東尾根にある「環濠集落跡」に似ています。よって、環濠集落跡を後に防御施設として、使用したのだろうと考えます。その根拠はここから西麓までの「壕道」が設定されているからです。この壕道を辿って麓に降り、向かいに進んで「西路壕道」から尻八館の西曲輪に進むことができます。
 
池脇山頂部の段築の切岸
池脇山頂部の段築の切岸 頂部の周りをコの字のように切岸が囲んでいる。

《 西路の壕道 》
・尾根道を進むと道の真ん中に段築があり、進行を妨げる。
・そこを越えて進むと斜面に、平場(見張り台)を設定している。その上部には段築がある。
・平場(見張り台)を山方向にして、斜面の左端に壕道がある。ただし、入口はわかりずらい。もしも、見逃しても斜面中央ではなく左端を登ればりっぱな壕道があることがわかる。
・尾根道は池からのルートと六枚橋川へのルートとの合流点にたどり着く。正面が伐採地になるため、上が明るくなりわかりやすい。
・その手前には、尾根(伐採地)に出る前に、直線的な壕道がある。
・前述したアプローチでの伐採地を経由して、尾根筋に戻ってから登ると右側に壕道がある。
・さらに「本丸跡」に向かって登ると右側に壕道がある。この本丸跡南下の壕道は、本丸跡からも近い。
・明瞭な壕道は6箇所存在する。

 内真部城館群の山城を含めても、一つのルート上にこれだけの立派な壕道が次々と出てくる例はここだけです。
ここで説明している「西路の壕道」が設定されている尾根筋は、「尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981.3」のP17第1図尻八館略図によれば、『ウトウ坂』と呼ばれていたそうです。
 現在ある駐車場前のため池は、当時はなかったわけですので、この西路のルートは、尻八館に入る主要な道であり、西曲輪へも東曲輪へも行き安い便利な道であったことでしょう。また、池脇山には砦があったわけで、これも西路のルートが主要道であったことを証明します。
 尻八館の主郭は「東曲輪」とされていますが、南部氏による大改修と東曲輪山頂への居住以前は、潮潟安藤氏にとって、西曲輪も重要な拠点であったことがうかがえます。そして、これら山城遺構の発見は尻八館の成立時期に関わります。西路にある壕道が他の安藤氏山城の壕道と酷似していることから、尻八館の成立時期は鎌倉時代であることが推定できます。
本丸跡南下の壕道
本丸跡南下の壕道 頂部本丸跡から南下の堀に降り、上がっての尾根斜面を進むと壕道がある。ここまではさほど時間はかからない。「⑥ブナ・曲輪下壕道」の長さは63m
 
西路の中央にある壕道
 西路の中央にある壕道 西路分岐点から頂部に進んである壕道 「③笹原壕道」の長さは18m
 
西路の中央にある壕道
西路入口に近い斜面脇にある壕道 西路入口から進み、最初の高低差のある斜面の脇に壕道が造られている 「①斜面脇壕道」の長さは62m
 
西路の中央にある壕道
西路壕道遺構図 番号は壕道。青丸番号はそれぞれの壕道の下からの起点箇所。赤丸番号は壕道の終点箇所。
 

ため池にある製鉄遺跡   

 尻八館東曲輪への登り口がある山城公園駐車場の前に広がるため池〈註1〉の向かい奥は、「山城溜池遺跡」となっています。
 平成19年(2007)に、ブラックバス駆除のために溜め池の水が抜かれた際に、製鉄遺跡のものと考えられる『排滓場』が発見されました。 青森市教育委員会が試掘調査を実施し、「山城溜池遺跡」として登録しています。
 青森県内では、中世と考えられる製鉄遺跡は確認されたことがなく(市内遺跡発掘調査報告書18)、貴重な遺跡です。
 調査の結果、排滓場、木炭窯、焼土遺構、炉状遺構が確認されました。 排滓場の鉄関連遺物の年代測定の結果、最も新しいもので15世紀前半と判定され、山城溜池遺跡の遺構の時期は12世紀から15世紀と考えられると、青森市教育委員会の報告書はまとめています。
 とすれば、平安時代末期から室町時代前期のものとなり、潮潟安藤氏の入部〈註2〉以前の外浜安藤氏のものであると考ええるのが自然です。尻八館の成立時期にも影響を及ぼす遺跡と考えられます。
  • 註1:この「ため池」は藩政時代に造られたものと伝えられている。
  • 註2:安藤盛季の弟貞季が、外浜に入部したのは、14世紀の初め室町時代初期とされている。以後、領地の名前から「潮潟」を名乗った。

 
鉄の産地の意味するところ

 蝦夷地では鉄が生産できなかったために、蝦夷に住む人々は、交易によって鉄を入手する必要がありました。このため、津軽海峡を渡って陸奥湾に入り、安藤氏が支配する外浜に来るわけです。安藤氏にとっては「地の利」と相手のほしい「産物」を両方を持っていたことになります。このことが外浜安藤氏の力の源であったわけです。

 
山城溜池遺構 位置図
山城溜池遺構 位置図 
青森市埋蔵文化財調査報告書 第103集 市内遺跡発掘調査報告書18(平成21年度)第31図から 着色とキャプション再設定

尻八城跡の構造・ルートと主な遺構

 西曲輪は南北30m、東西15mの平坦地。東曲輪は、南北12.5m、東西11.5mの平坦地で、その周囲を削平段が取り巻き、特に東側にはいわゆる腰郭が広がっている。北・西・南には壕が巡っています。どちらが主郭かといえば東曲輪の方です。東曲輪には、人が居住していたことを示す遺物が発掘されています。
 防御施設としては、竪壕・横壕・平場(削平段)・土橋などがあり、竪壕は、西曲輪と東曲輪の平場から沢に下る場所に見られ、東曲輪の東側には壕道(ほりみち)とされる長い竪壕も存在する。
 横壕は西曲輪のほぼ全周を、東曲輪は東側を除いて巡るが、特に西側の西曲輪に向かう箇所には現状二本の横壕があり、その内の頂部に近い横壕は、二重構造で下の堀が埋め立てられたことが発掘調査によってわかっている。古い壕は箱堀であり、この壕を埋め戻したうえで内側に薬研堀の壕を構築していた。また、南西の一角には竪壕と横壕が交錯する地点もあり、いずれも薬研堀となっている。
 土橋は、東曲輪と西曲輪を遮断する横壕の上層で発見されている。

尻八館 東曲輪、西曲輪、全体図
尻八館 東曲輪、西曲輪、全体図 
原図は千田嘉博「北の山城」、「東北の名城を歩く 北東北編-尻八館」を参考に書き込み
 
《 尻八館 》ルートと主な遺構
入り口 ルート 行程 主な遺構
山城公園 登山路 山城公園駐車場~陣場跡~東曲輪 東曲輪虎口、東曲輪下堀、東曲輪切岸
  登山路 東曲輪~西曲輪 西曲輪、西曲輪下堀・壕道・切通し
搦手口 搦手道 搦手口駐車場~搦手口~東曲輪  
山城公園 西路 山城公園駐車場~81・80番鉄塔~西曲輪 西曲輪下壕道
大手口 大手道 山城公園駐車場~83番鉄塔~大手口~堀底道~東曲輪 沢拡張道、堤状土塁、堀底道
 

尻八城跡の建物遺構

 東曲輪では、頂部の中央部やその東側から柱穴が発見され、掘立柱建物跡・柵列などと想定されています。また竪穴建物跡も発見されています。竪穴建物跡周辺からは、青磁浮牡丹文香炉・青磁蓮弁文碗・瀬戸鉄釉印花文瓶子・朝鮮産褐釉大壺・瓦質風炉など精品を含む多様な陶磁器類が出土しています。
 西曲輪では、表土層が薄く、調査面積が狭いため建築遺構は発見できなかったが、瀬戸仏花瓶が出土しています。

尻八館遺跡「中世竪穴建物」復元模型
尻八館遺跡「中世竪穴建物」復元模型
中泊町博物館にある竪穴建物の復元模型が尻八館跡のものでした。このような建物が東曲輪にありました。

尻八城跡からの出土品

 尻八館・主な出土品

 発掘調査では、陶磁器・金属製品・石製品・漆器が出土していて、山城にかかわらず量は豊富で特に陶磁器類は多種多様な製品が多いとされています。
 陶磁器では、〈中国産〉:青磁香炉、酒会壺、椀、皿、盤。白磁椀、皿、小杯、染付椀・鉄釉椀(天目椀)・壺(いわゆるルソン壺)。〈朝鮮産〉:椀、壺形(いわゆる三島手)、鉄釉の大型壺。〈国産〉:瀬戸産の椀、皿、鉢、盤、香炉、仏花瓶、瓶子、耳付き壺。他に珠洲・越前産の擂鉢や壺、瓦質土器には風炉、火鉢、擂鉢。
 金属製品では、〈鉄製品〉:槍、吊耳の鉄鍋、小札、火打金、鉄鏃(てつぞく=やじり)、刀子(とうす)、釘のほか、鉋刃、楔(くさび)、轡(くつわ)、鎌。〈銅製品〉:笄(こうがい)、鎧のコハゼ、刀装具の目貫、宝珠形の錘(おもり)、神獣形の脚。
 出土品は、生活用具と武具の双方が出土していて、「尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981」では、東曲輪の頂部の建物跡から出土した陶磁器に外来の精品が多く、頂部の東側(腰郭)の陶磁器は国産品が多いことから、居住していた人の身分の違いがわかるとしています。

///////////// 出土品メモ ////////
・酒会壺(しゅかいこ)→胴が強く張った蓋付壺は「酒会壺」と呼ばれ、酒を貯めておく器であったとされる。
・三島手→高麗茶碗の一つ。 灰色の素地に細かい文様を縄状に型押しし、その部分に白土を象眼したのち透明な釉(うわぐすり)をかけて焼いたもの。この文様を三島暦の仮名に見立てての名称。
・瓶子(へいし)→酒などを入れる、細長く口の狭い焼き物。
・小札(こざね)→鎧の胴、草摺 (くさずり)、大袖、兜の錏 (しころ) に用いる小板。甲冑の最も主要な構成要素。
・刀子(とうす)→ものを切る、削るなど加工の用途に用いられる工具の一種。現代の小刀に通じる。
・笄(こうがい)→髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具。
・コハゼ→足袋・脚絆などの、合わせ目を止めるために付けるつめ形のもの。
 
 遺跡の発掘調査報告書をみても出土品の内容や価値を理解するのが難しいのですが、「津軽秋田安東一族」にわかりやすく書かれていましたので紹介します。
  • 出土した「竜泉窯青磁浮牡丹唐草文大香炉」(りゅうせんよう せいじ うきぼたんからくさもん だいこうろ)は、全国で唯一の発掘品であった。
  • 竜泉窯は、中国浙江省の竜泉地方、宋代からの官窯。この窯青磁の澄み切った青さは、世界に名の知られた逸品で、明代には遠くエジプトまで輸出された。
  • この浮牡丹の大香炉は、日本でも数は少なく、伝世品としては足利菩提寺の鑁阿(ばんな)寺に足利尊氏奉納の品として伝えられるもの、奈良法華寺の伝世品(神戸市・白鶴美術館蔵)、立山仲宮寺(富山県)の足利将軍寄進品などが知られている程度である。
  • この他、中国製の青磁、白磁、白磁青花、鉄釉陶磁、朝鮮の三島手、褐釉陶器など、ほぼ124個分の破片が出た。
  • そのなかには、中国の黒磁茶碗や瀬戸天目茶碗、茶壺に使用された黒褐釉や黄褐釉の茶壺(いわゆる呂宋壺、ルソンツボ)、それに石製の茶臼断片もあった。茶壺の肩には「利市」とか「招財」の印が押されている。発掘された茶碗、茶壺、茶臼は、いずれも最高級の喫茶用具。
  • 「青銅製人物形脚」が出土している。姿は人物か神獣のように見え、背中に盤様のものを背負うように、両手を挙げて支え持つ恰好になっている。四脚の盤か香炉の脚であろう。高さ約3cm。同じものが二つ出ている。類似品には滋賀県聖衆来迎寺の四脚香炉の脚がある。
  • 青銅品には、宝珠形青銅品もあった。これは元代の「権」に似ている。「権」とは中国で重さをはかる分銅である。それに精巧な蓮弁文が掘られていた。
  • これらの「権」は、中国大陸でも北方の山西省や内蒙古、モンゴルのカラコルム、ソ連の沿海州シアイギンスク城など、北アジアから発掘され、日本では尻八館のほかには、津軽の浪岡城、宮城県の御所館から出ている。
  • 開元通宝(唐)や永楽通宝(明)など、中国古銭二百枚などが出ている。
そして、著者の七宮涬三氏は、尻八城の城主像について、このように書いています。
 喫茶は、十四世紀の南北朝期から十五世紀の室町期にかけて、京・鎌倉の上流社会に起こった新しい社交風習だ。この城の城主は、葉茶を茶臼でひいて作った抹茶を、大陸渡来の最高級の茶器で悠然とたしなむ人物だった。室町初期の喫茶は、きわめて贅沢な遊びで、村田珠光以後の町衆のわび茶とはよほどちがう、豪華な酒宴でもあった。いまに残る金閣寺も茶を楽しむための客殿であった。 青磁香炉、酒壺、瀬戸の花瓶など、伝尻八館の出土品は、この城で開かれた茶会が、当時のトップモードだったことをものがたっている。
津軽秋田安東一族 七宮涬三著 新人物往来社 1989.03

※尻八館からの出土品のなかに、青磁酒会壺があります。この類似品が沖縄県首里城跡から発掘され、研究の結果15世紀のものと判明しました。これにより、発掘品からも尻八館は15世紀の城跡とはっきりしたということです。工藤泰人氏、新青森市通史。この他の出土品では、瓦質風炉(がしつふうろ)が有名です。

外浜の安藤氏伝承 心のこり沢

 尻八館跡の西曲輪(本丸跡)から北に向かう沢が「のこり沢」と呼ばれている。その言われにまつわる伝承が『新青森市史通史 コラム「外浜の安藤氏伝承」』で紹介されている。

《 心のこりの沢 》
 潮潟四郎道貞という武将は安藤一族の一人で、父は十三城主で一族の総帥安藤貞季。道貞は外浜一帯の支配を任され、尻八城を預かり潮潟を名乗っていた。 やがて時代は室町時代に入り、城主は道貞の嗣子重季が継いでいた。永享十三年(1441)、南部義政は婿の見参とみせて十三城を突然急襲。城主安藤盛季を支城唐川城(小泊)に追放、 二年後の嘉吉三年(1443)、その唐川城も落とし、返す刀で大倉岳を越えて尻八城に挑みかかったのだ。
 勢いに乗る南部勢を追撃する重季にとって、頼みとする安藤側の支城内真部城はすでになく、四面楚歌のなか、それでも難攻不落をうたわれた尻八城に立て籠もって勇戦敢闘したが、刀折れ、矢尽きてついに南部勢の軍門に降った。

 城主重季には二男一女があったといい、長男を政季、二男を家季、一人娘はひさ姫といった。南部勢との戦いの合間に父重季は三人の子どもを前にして、もし戦いに敗れ、 余が一人討ち死にしようと、そなた達まで巻き添えにするつもりは毛頭ない。たとえそなた達が敵に捕らわれてもかまわない。必ず強くしたたかに生き延びよ。 生きていさえすれば再びご先祖様の名誉を挽回することもでようと、かたく厳命していたという。
 その後、長男政季はいったん南部側に捕らえられ、諸国を転々としたが、戦国時代の康正二年(1456)、秋田に進出、下国安藤義季の後を嗣ぐことになったという。
 一方、ひさ姫と二男家季は蝦夷ヶ島へ逃げのびようとしたが、城の西方の搦め手道を降って行ったが、その首尾は杳(よう)としてわからない。  ひさ姫と家季、二人の遺児の行く末に悲しみの心を寄せた村の衆は、その後誰言うとなくこの深い沢を、心が残る沢、”のこり沢”と呼ぶようになったという。

尻八館調査に至る経緯と後方羊蹄郷土史研究会

  • 昭和46年(1971)5月30日、当城郭の整備に努力してきた後方羊蹄郷土史研究会は、東曲輪とその北東部腰郭において陶磁器、石製品、鉄製品などを採集した。
  • これらは成田末五郎氏と青森県立工業試験場の鑑定をうけ、中国製青磁、白磁などを含む中世の遺物であることが判明し、その後、県立郷土館に寄贈され保管された。
  • 昭和51年(1976)2月、保管されていた資料は東京大学名誉教授三上次男博士の鑑定を受け、これらは14、15世紀に竜泉窯や福建省辺りの窯で焼かれた陶磁器で、なかには竜泉窯青磁の浮牡丹文大香炉の破片や酒会壺の破片など、本州最北端の辺境で発見されるとは思いもよらない逸品が含まれていることが判明した。
  • 三上博士は、これらを出土した尻八館の学術調査を奨めた。
  • そして、昭和52、53、54年の三次にわたる発掘調査が青森県立郷土館により実施されることになった。
  • 後方羊蹄(しりべし)郷土史研究会は、昭和5年に地元の有志で結成された「山城公園保勝会」(初代会長片川要助氏)を母体に、昭和31年に誕生した研究会。初代会長は赤平重春氏、現会長赤平幸悟氏は二代目に当たり、会員数は47名、旧後潟村民により組織されている。(昭和56年1981、時点)

「二の丸」にある説明板の文面

「尻八館の由来」
  • 「中世紀の城で、古いアイヌのチャシを土台として、築城した〇〇の山城である。築城したのは安東氏で、鎌倉時代の寛喜二年から、室町(足利)時代の永享七年まで、約二百五年間続いた城である。  ※「〇〇」部は削られていて読めず。
  • 城主で判明したものは、次の通りです。 
  • 寛喜二年(1230年)安藤一族が、潮潟の摺鉢山に尻八館を築いた。 
  • 貞永元年(1232年)安倍三郎成季が尻八館で、治領代頭役に任ぜられた。 
  • 正安2年(1300年)安東孫次郎師季 (祐季)が尻八館城主となる。後に秋田の土崎湊城主に転ずる。 
  • 明徳4年(1393年)安東四郎道貞が尻八館城主となる。道貞は本家の貞季(愛季)四男で、地名の潮潟を姓として、潮潟四郎道貞と称した。
  • 応永19年(1412年)七月一日道貞死す。戒名は飛鳥院殿道行夫禅大居士位。 
  • 応永32年(1425年)道貞の長男重季が鉢巻館より転じて、尻八城主となりて潮潟四郎重季となのる。南部義政の娘の里子姫を妻として政季はその子である。 
  • 永享7年(1435年)六月に尻八館は南部義政に攻め破られた。この時に十三才の政季が生け捕られたが、南部の血を引いているので、八戸にて育てられ、成人の後に田名部の旧安東家の知行を継いだ。
 以上」 ※この文面は「後方羊蹄郷土史研究会」の方が書かれたものと推測します。本内容は、全てが正しいわけではないようです。

尻八館城跡のポイント

  • 明治時代から地元の研究者により、遺物が出る城跡と言われていた。
  • 文献や地元の言い伝えでも、城名称やだれの者かがわからない「謎の城」であった。
  • 山裾の山城公園は昭和6年にできている。
  • 地元の後方羊蹄郷土史研究会が昭和46年(1971)に同遺跡から採集した青磁浮牡丹文香炉(せいじうきぼたんもんこうろ)を青森県立郷土館へ寄託した。
  • 青磁は東京大学名誉教授三上次男博士の目にとまり中国龍泉窯の名品と鑑定され、所有者はかなりの権力者であろうとされた。
  • このことは、昭和52年~54年にかけての青森県立郷土館発掘調査が実施される契機となった。
  • 昭和49年に「二の丸跡」と称される場所(東曲輪)に後方羊蹄郷土史研究会が「尻八城跡」石碑を建てた。
  • 山頂部には東曲輪と西曲輪の2つの曲輪がある。(標識での二の丸と本丸)
  • 発掘調査では、防御施設としては竪堀・横堀・平場(削平段)・土橋などが検出され、生活遺構としては掘立柱建物跡の柱穴や、竪穴建物跡が発見された。
  • 東曲輪腰郭(こしくるわ)では、瓦質風炉など精品を含む多様な陶磁器が出土した。
  • 出土品から、生活器財のほとんどをこの山上に持ち運んでいたことがわかる。そして、生活は東曲輪の中央部と腰郭でそれぞれ営まれていたらしい。
  • 郷土館調査時点では、現登山道が大手道と見られていたが、大手道は現在の山城公園から二の丸(東曲輪)にたどる登山道ではなく、北側の峰裾に位置することが青森市史編纂に関連する調査でわかった。
  • 大手道は駐車場から北側の鉄塔保安路を100m進んで、山側に入る道の脇下にある沢筋を利用している。
  • 大手道の脇上の道を進むと鉄塔保安路にぶつかる。そのまま、山に進むと約30mで壕道の入口がある。
  • 鉄塔保安路を北に進むと、大きな沢があり「馬立沢」である。『馬立場』はその沢の山手に位置する斜面状の平坦地である。
  • 登山道の急な道を上がったあたりの北側に大手道の壕道(壕のように掘り込んだ道)がある。登山道終盤の位置で平行して走るようになり見ることができる。
  • 標識での「展望所」の下で大手道は登山道と合流する。
  • 標識で「展望所」とされるあたりから東曲輪(二の丸・尻八城跡石碑)までのテラス状になっているエリアは、人為的に造成したもの。
  • このあたりから「青磁浮牡丹紋香炉」が出土している。
  • 東曲輪から搦手道が北にのびている。
  • 城跡の中心部は「東曲輪」であり、標識での本丸「西曲輪」ではない。発掘された遺物によって明らかである。
  • 西曲輪は東曲輪に比べ、人為的な工事の跡が少なく、東曲輪よりも古い形態のままと思われている。
  • 「陣場」と称するエリアからは「遺構」は確認できない。
  • 城跡の年代は、当初13~15世紀のものと見られていたが研究が進み、15世紀後半に機能していたものと、現在では考えられている。
  • 尻八館は、十三湊安藤氏が南部氏によって、蝦夷地に追いやられた後も機能していた。さらに、火災にあったことが発掘調査で明らかになっている。
  • 尻八館跡の山裾には居住遺跡は見つかっていない。
 

 

尻八館城跡関連 知見

  1. 尻八館城跡の標識等が東曲輪に建てられている「尻八城跡石碑・S49」と同時期のものとしたら、県立郷土館の発掘調査(S52~S54)の調査結果がまとまる以前に建てられたものといえる。もしくは、調査結果が取り込まれてはいない。
  2. 尻八館城跡は、15世紀後半に機能していた城跡である。出土品や城建造史からこの頃のものと現在はされている。
  3. 時代は南部氏が十三湊の安藤氏を破り、青森県から追放した(1442年)後となる。(安藤氏惣領家と南部氏との戦いの時代に、外浜に潮潟安藤氏の一族がいた。)
  4. 南部氏は、十三湊陥落の後、安藤氏の本家を一族の潮潟安藤氏・潮潟四郎家(安藤・南部氏の抗争の際に、南部氏側についていたらしい)の師季(もろすえ・政季として有名)に継がせた。尻八館の改築・整備もこの頃と思われる。東曲輪には安藤氏の城跡に見られる工法の他に南部氏の城の工法が取り入れられている。(新たに作ったのではないことから、それ以前に城として使われていなかった、ということではないようだ。)
  5. 師季(のちに政季)は、八戸で元服し、田名部を所領して下国家の家督を継ぐ。
  6. 南部氏の支配を嫌った師季は1454年田名部を脱出し、蝦夷ヶ島に渡り、1456年には湊安東氏からの誘いを受け、秋田に移り檜山の地で下国家を再興する。
  7. 上記以前、14世紀(鎌倉時代末期)に蝦夷蜂起に端を発しての安藤氏惣領季長と従兄弟の争いがあり、北条氏は安藤氏は北条氏代官であるため両者を鎌倉に呼んだ。話を聞いた内管領長崎高資(たかすけ)は、双方から賄賂を受け取り明確な結論を下さなかった。
  8. 蝦夷の反乱が小康状態になり、北条高時(北条氏惣領・鎌倉幕府執権)は、反乱沈静に功績があったとして、季長を更迭し従兄弟の安藤五郎三郎季久(宗季)に地頭代官職・蝦夷沙汰職を改替することとなった。これを契機に、季久は宗季と名を変え、また惣領の通り名「又太郎」も名乗るようになった。
  9. そもそも、安藤氏の惣家は当初、西浜安藤氏(季長の家系)ではなく、外浜安藤氏(季久の家系)の方だったという説を新青森市史資料編ではとっている。
  10. 収まらない季長は自分に従う一族や蝦夷と宗季に抵抗した。両軍は外浜の内末部(現内真部)と西浜の折曾関(現深浦)とに分かれ対峙した。「安藤氏の乱」、「津軽大乱」(1322~1328年)と呼ばれ、乱を治められない鎌倉幕府の弱体ぶりを露呈したという。〈つまり、外浜は安藤氏の一大拠点であった。〉 「安藤氏の乱」についてはこちらに詳しくまとめてあります。
  11. 曽我貞光軍忠状(暦応二年・1339年11月1日)に、「去六月安藤四郎以下御敵等、尻八(引)楯打入、依令至合戦。」という文章があり、吉野朝史跡調査会が編集・刊行した『南部家文書』の中で「遠野南部家文書」の解読にあたった研究者が「尻引楯」を「尻八楯」と誤読した。このことが、尻八館跡を「伝尻八館」と記載する理由となっている。地元の「後方羊蹄郷土史研究会」は本城跡のある山を地元では「すりばち山」ということから、この山に違いないと考えた。「伝尻八館=尻八館と称されるところ」という名称が見られるのはこのような事情による。
  12. よって、尻八館は『後潟城跡』「潮潟城跡」とされるべきという見解を「新青森市史資料編2 古代・中世」ではとっている。
  13. 沼館愛三「津軽諸城の研究」の中の小山内「津軽考」には、後潟村はかつて「シリペ(チ)村」と呼称したことが、古記にあると記している。「シリペ」がアイヌ語の「シリパ」の転とすれば、「シリ(山)・パ(の頭)」である。また「シリペツ」だとすれば「ペツ」は川の意である。(資料編2より)

尻八館とはどんな城だったのか

 尻八館の城主は、潮潟安藤氏と言われています。潮潟安藤氏の初代は、潮潟四郎道貞で安藤盛季の弟でした。「季」の字を名乗っていないことから、庶子(側室の子)ではないかと見られています。そして、尻八館の城主は安東師季、系図や本では安東政季として登場します。「政」の字は、室町幕府8代将軍足利義政から一字を拝領したもので、史料には安東師季として書かれています。
 政季は、潮潟重季の子(道貞の孫)。母は南部氏で、十三湊の安藤惣領家と南部氏が戦い、室町幕府の和平調停により、蝦夷地に追いやられた安藤氏は十三湊に戻ることができました。和平調停の証しとして、南部氏へ安藤康季の娘(妹?)が嫁ぎ、潮潟重季に南部氏の娘が嫁いだという伝承があります。潮潟氏を滅ぼしたのは、三戸南部氏第15代当主の南部政盛で、宝徳二年(1450)に外浜潮潟の蓬田城を攻め、潮潟重季は戦死し、(政盛の叔母)と嫡子の師季(政季)は捕らえられたと、「安東氏下国家四百年ものがたり 森山嘉蔵著」に書かれています。ただし、十三湊安藤氏を蝦夷に追いやったのは三戸南部氏ではなく、根城南部(八戸南部)氏が有力であることが近年刊行の県史・市史に記載されています。とすれば、潮潟氏を滅ぼしたのも根城南部氏なことが考えられます。
 捕らえられた師季(幼名不詳)は八戸で元服し、宇曽利(下北地方)田名部を与えられ、安東太郎師季となり、蝦夷地に追いやられた安藤義季の養子・嗣子であったとして、安東家惣領だと南部氏によってまつりあげられることになりました。
 松前藩の歴史書「新羅之記録」にはこのように書かれています。「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安藤四郎道貞の息男潮潟四郎重季の嫡男なり、十三之湊破滅の節、若冠にて生虜られ、糠部八戸にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行し家督を継ぐ」
 安藤義季が津軽の地で敗死した次の年の享徳三年(1454)、安東師季は南部氏の支配下を嫌い、下北の大畑より蝦夷島に脱出しました。 ここまで説明しておかないと、「尻八館」の城として機能した時期とどんな城だったのかについて理解できません。
 さて、 尻八館は、二の丸と標識が立つ「東曲輪」と、本丸と標識が立つ「西曲輪」があります。香炉が出土しているのは「東曲輪」です。城郭の調査から、東曲輪は大規模な改修工事がされていること、そして、その工事手法は南部氏の城郭と酷似していることがわかっています。改修がされた時期は15世紀と見られています。(つまりは西曲輪を含め、山城としては15世紀以前からあったと見ることができます。)尻八館の東曲輪から見える切岸は、確かにりっぱなもので、安藤氏系の山城とは異なります。
 尻八館は青森市安藤氏関連の城址にあって、唯一発掘調査が行われています。そして、出土した陶磁器の時代査定が先に出土していた「青磁浮牡丹文香炉」との関係から、難しかったそうです。「青磁浮牡丹文香炉」が13~14世紀のものとされ、他の国産陶磁器が15世紀後半のものという中で「出土品の年代観からは、尻八館は13~15世紀の城」とあいまいになりました。そしてその後、沖縄首里城京内跡から「青磁浮牡丹文香炉」に酷似した香炉が出土し、首里城の出土品等の調査結果から尻八館の香炉は15世紀のものと判明しました。このことは新青森市史通史(工藤清泰氏執筆)に書かれており、北部市民センターで執筆した工藤清泰氏の講座でも改めてお話しを伺うことができました。
 尻八館の調査報告書が出された段階では、ずれがあった出土品からの時代推定と城郭調査からの時代推定が合致したというわけです。 なお、調査報告書には、出土品から安藤氏渡海(1442年)以後も尻八城は続いていることが明白であること、火災が起きた跡があることが記載されていす。

 新青森市史資料編2古代・中世には、斉藤利男弘前大学教授が次のように書かれています。
「おそらくこの時期(師季が安東太として南部氏にまつりあげられた時期)、伝尻八館(後潟城)は、十三湊安藤氏にかわって下国家惣領となった師季(のちの政季)の「名字の地」にふさわしい城として、後見者南部氏によって大々的に改築されたのではあるまいか。東曲輪に顕著な非安藤氏的特徴はその結果であろう。そして、安藤師季(政季)の自立、南部支配からの離脱によって、後潟城はその意義を失い、やがて放棄される、という歴史が考えられてくる。(中略) 一つの仮説として、伝尻八館は本来、戦時に立て籠もる山城であったのを、南部氏が十三湊安藤氏を蝦夷ヶ島に追ったのち、政季(師季)の実家潮潟家の本城たる一種の儀礼空間として整備し、1441~1454年の時期〈註1〉に使用したのではないか。このような推測も浮かんでくるのである。」

 尻八館の城を、本来主たる師季は訪れたことがあるのでしょうか?私は、南部氏にとって師季を下北の地(南部氏の管理下)に囲い込んでおくことが重要で、もし師季が惣領家先祖の地、外浜に出向くとしたら津軽に住む安藤氏一族や旧臣を刺激すると考え、師季が潮潟城(尻八館)を訪れることを許したとは思えないのです。 師季は蝦夷地に脱出して、ようやく「籠の鳥」から大空に自由に羽ばたくことができるようになりました。
  • 註1:1441年、嘉吉元年には、室町幕府第6代将軍足利義教が赤松満祐によって殺害(嘉吉の乱)された。1454年、享徳三年には、安東政季が下北から蝦夷地に脱出して南部氏の手から離れた。斉藤氏は、安藤氏が南部氏によって蝦夷地に追われた最初の年、永享四年(1432)以降、尻八館の支配権は安藤氏から南部氏に移ったとみているようだ。

尻八館の成立と破却

 尻八館が城と使われなくなったのは、前段で説明したとおりです。成立時期については、15世紀室町時代とされています。その理由は、出土遺物から、15世紀後半を中心とする時期に限定できること。そして、尻八館は大改修されていて、その際の作り方が「南部氏」の手法〈註1〉であることが、調査によってわかってるなどからです。15世紀後半とは、安藤氏が南部氏に再度敗れて蝦夷地に亡命した時期です。尻八館は南部氏無くして語れない山城のようです。
 尻八館は、全体として、壕道など安藤氏系統の城の造りであることは確実で異論のないところです。かつ、南部氏が改修する以前に城は成立していることは当然です。現在の説では、尻八館を造ったのは潮潟安藤氏だと推定されています。
 潮潟氏は安藤盛季(十三湊)の弟、四郎道貞が分家したもので、その子重季が居住する「潮潟氏」を名乗ったとされている。父道貞から重季に代替わりしただろう時期が15世紀中ごろになり、出土品から推定される城の設立時期と合致します。また、「宝徳二年(1450)に、潮潟重季を南部氏が滅ぼした。」という説〈註2〉があります。南部氏は尻八館を我が物にした後に、安東政季を南部氏が安藤氏惣領にしたことを正当づけるためにも、尻八城を改修したのでしょう。
 その後は、享徳三年(1454)に安東政季が下北から蝦夷ヶ島に渡って、南部氏の下から離れたことにより、尻八館は南部氏にとって意味ある城ではなくなった、そして城の火事を経過に廃城となっていくのだということのようです。

《尻八館の成立時代は鎌倉時代》
 当初、私は尻八館東曲輪へ登る「大手道につながる壕道」の形状が、V字形(薬研堀)で歩きにくく、堀底が広い(箱堀)他の安藤氏山城と比較して違うことから、外浜安藤氏の造りではないのではないかと考えていました。令和2年10月に西曲輪(本丸跡)から南へ降りるルート上に壕道があり、他の安藤氏山城の壕道と形状が酷似していることから、尻八館の成立時期は鎌倉時代と推定できました。詳しくは→「西路にある壕道
 山城は長い時間をかけて、その時期の事情と必要に応じて、改修されていったわけです。尻八館が15世紀の城というのは、東曲輪に人が居住した時代を指すものです。
  • 註1:南部氏の城の造りとしては、東曲輪の西側に堀と土塁があり、その土塁の傾斜がきつく突き固めてある。この造りは、内真部城館群の土塁と異なる。
  • 註2:「宝徳二年(1450)、三戸・南部政盛(義政の弟で、義政の後嗣)が外浜潮潟の蓬田城を攻め、潮潟重季は戦死した。妻女(政盛の叔母)と嫡子の政季は捕らえられた。」という説です。この説は何を根拠とするのかを把握できないでいます。新青森市史では取り上げていません。蓬田大館の発掘調査では、中世前期(鎌倉期)の遺物は出土しているものの、それ以降のものはなく、室町時代に潮潟氏が蓬田大館を居城にしていたという証拠はないことも欠点です。ただ、「新羅之記録」でいう政季は十三湊で捉えられた、というのは無理があり、潮潟(青森市後潟から外浜町)で南部氏に捕縛されたのだと思います。
 尻八館跡は現状の説でいう潮潟安藤氏が造ったとすれば、南北朝時代の末期に安藤季久の系統が尻引の地(弘前市中崎、藤崎町西岸)から十三湊に進出した後の室町時代前半という線が妥当です(潮潟道貞は安藤盛季の弟とされている)。
 しかし、西路にある壕道から、内真部に居住していた安藤氏が『北への備え』(内真部安藤氏は蝦夷との交戦で頸を取られている)として、既に築城していたものと考えられます。内真部館・同山城の間に「大阪山」を挟み、その北に尻八館後は位置しています。国土地理院の地形図には、西曲輪から南へ降りる道(六枚橋川へ至る)があり、そこから大阪山を経て、内真部山城に至るルートがあったと考えられます。西曲輪は安藤氏の築城であることはわかっています。
 弘前大学斉藤利男名誉教授は、安藤氏関連の山城を同時代(安藤氏の乱時代)に設立していた「尻八・内真部城塞群」としてまとめ、安藤氏の居館は内真部館、戦の際の本城は「瀬戸子館(奥内城)」、詰めの城として「尻八館(後潟城)」と、一連の調査の後(2020.11)に提唱されました。

参考文献 
新青森市史 通史編第一巻 原始・古代・中世
新青森市史 資料編2 古代・中世
尻八館調査報告書 青森県立郷土館
県立郷土館歴史02「伝尻八館と潮方安東氏」インターネットによりPDFで入手
東北の名城を歩く 北東北編 吉川弘文館
「外ヶ浜安藤氏と内真部城館群」青森市北部地区農村環境改善センター地域力アップ講座 2020/11/18

 ⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 鎌倉~南北朝時代」は、こちら!
 ⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 室町~江戸時代」は、こちら!
 ⇒ 「安藤氏に関わる歴史年表」は、こちら!
 ⇒ 「安藤氏の乱」は、こちら!
 
 


尻八城跡自然歩道道路標識
尻八城跡自然歩道道路標識 後潟農協の近くにある
 

山城ビデオ

1.「尻八館西路壕道群」:青森市後潟地区にある『尻八館跡』は青森県内で最も著名な山城です。 潮潟安藤氏が築城し、南部氏が大改修したという歴史があります。 尻八館跡を理解できるように、通常の行程だけではなく、より山城が理解できるように深めたコースで探訪しました。
   
2.「尻八館西路壕道群」:青森市後潟地区にある『尻八館跡』は青森県立郷土館の調査、新青森市史資料編2の調査がされています。郷土館の発掘調査によって、東曲輪では建物跡も見つかっています。尻八館は、遺物から室町時代の山城とされていますが、それ以前の形態はよくわかっていません。この動画では、これまでの調査の範囲外に「壕道群」があり、外浜安藤氏時代の山城の形態を垣間見ることができます。当初は、西曲輪、東曲輪と使われていた尻八館が、室町時代の改修後東曲輪中心に使われたという流れが推察できるでしょう。
   


 
 

プロフィール

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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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