油川城跡

 青森市西田沢地区には油川城跡がありますので、ご紹介します。
 油川城跡は青森市西田沢字浜田に位置します。いつ頃に造られたものかは、はっきりしていませんが、青森県史によれば、採集遺物の多くは15~16世紀に属するものであり室町時代・戦国時代のお城です。城跡の西側にまわると、土塁や切岸がはっきりしています。
 「津軽一統志」には、天正13年(1585年)の大浦為信による外ヶ浜攻略の際、為信が新城・油川の住民に騒動を起こさせ、城主の奥瀬善久郎は戦わずして南部領田名部に逃亡したと記されています。為信の油川城攻略がどのようなものだったのかも、まとめました。

contents
〈 A 〉油川城跡
  1.油川城と呼ばれる理由
  2.大手虎口から南側の遺構へ
  3.城の遺構図
  4.城跡の縁から南側城館遺構へ
  5.城跡の状況
  6.城の防御機能
  7.城の築城時期と築城者
  8.城の採集遺物
  9.城の性格
  10.奥瀬一族の墓
〈 B 〉為信の油川城攻略
  1.歴史史料から解析する油川城攻略方法
  2.奥瀬善九郎が油川城を放棄した理由
  3.為信の最初の油川城攻め

  ●ビデオ 油川城跡探訪
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油川城跡

 油川城趾のある丘陵
油川城跡のある丘陵 大手虎口があったと見られる北側からみる
 
YAMAP コース軌跡と写真
「ヤマップ」を使って、移動したコ−スの記録や軌跡に写真を合わせて、遺構などの位置がわかるようになっている『活動日記』を公開しています。「活動日記」に掲載している写真にカーソルを当てると説明が表示されます。写真をクリックすると、拡大写真になり説明文も読めます。  
アプローチ
A:国道280号(旧道)を油川を過ぎて、西田沢地区に入って道の左側に「西田沢保育園」の標識がある交差点を左折。バイパスとぶつかった正面左手に墓地がみえる。交差点を右折して北上する。
B:国道280号バイパスを北上して、油川から西田沢地区に入る。道の左側に「ヤンマーアグリジャパン青森支店」。その先の正面に「龍飛・蓬田」の青色道路標識。左手に墓地が見える。そのまま北上する。
 油川城へは、国道280号バイパスを山側に入るが、曲がり角には目立った目印はないものの、曲がり角の奥にベージュ色の小屋が見える。墓地を過ぎて「十字路」の交通標識がある1本目の舗装道を左折する。正面に新幹線高架橋が見える。進むと黄色の小屋、高架橋の右下に変電所(JR北海道 新富田き電区分所)がある。高架橋を越えてから左手に見える丘が油川城となる。進むと十字路(右ジャリ道、左舗装道)があり、角に黄色の「44番」鉄塔保安路への標識がある。そこを左折すると油川城にたどり着く。ぶつかって右側の周回道を進むと、側溝傍に車をおけるスペースがある。油川跡mapへリンク
→ Google map へ リンク。

 油川城趾は青森市西田沢字浜田に位置します。このサイトで紹介している西田沢共同墓地(軍人墓地)の西側にある丘です。西田沢小公園の西にある向かいの山になります。
 いつ頃に造られたものかは、はっきりしていませんが、青森県史によれば、採集遺物の多くは15~16世紀に属するものであるということです。
 「津軽一統志」には、天正13年(1585年)3月の大浦為信による外ヶ浜攻略の際、為信が新城・油川の住民に騒動を起こさせ、城主の奥瀬善久郎は戦わずして南部領田名部に逃亡したと記されています。
 「新青森市史資料編2」では、油川城主奥瀬氏は、油川の領主というより、北畠氏や南部氏によって油川に置かれた「代官」の可能性を指摘しています。
 
 安部龍太郎さんの小説、『十三の海鳴り』の中で、油川城とその湊は蝦夷の人々との交易の場として登場します。主人公の新九郎も滞在しています。
 

油川城と呼ばれる理由

 油川城跡は、油川地区の北、青森市西田沢地区にあります。城の名称は、通常所在地の名前が付くことが多いのですが、なぜ「油川城」なのでしょうか。
 前提として、江戸時代においては、油川村と西田沢は別村でした。貞享検地帳(貞享4年(1687)の津軽藩土地台帳)に「田澤村」として記載されています。西田沢となったのは、明治12年3月に出された県の行政命令により、東津軽郡に現平内町の田澤村と名前が同じなために西田沢となったという歴史があります。
  • 理由1.津軽藩の歴史書に「油川の城」と書かれていること。「津軽一統志」の為信の外ヶ浜平定に関する記述などです。
  • 理由2.平成16年度に刊行された「新青森市史資料編2」以前は、油川城には「二つの郭」があるとされていて、二ノ郭は油川地区に所在していた。
 平成16年度に刊行された「新青森市史資料編2」では、調査を含めて油川城について詳しく記載されています。それにより、油川城は「これまで二郭の城と言われてきたが、単郭の城である。」とまとめられました。この二ノ郭の領域は、油川城に含まれないとされたわけです。それ以前は、油川城には二ノ郭があり、二の郭を含めると油川地区にも跨がっていたというわけです。
 この二つが、この城の名称が『油川城』とされてきた理由です。

大手虎口から南側の遺構へ

 油川城跡への大手虎口は、現状は畑へ上がる道となっている。そこから、南側の城館遺構へ行くには、畑へ上がる道を進む。道は、城域を二分する中軸道路となっている。この道は築城当時からの道である。道は城域の端にある林に当たる。右折して、林と畑の縁を少し進んでから林に入り、林の端から切岸が見え、その向かいに中土塁が見える。

油川城跡 大手虎口
油川城跡 大手虎口  大手口は、北側に位置する。この道を上がると中軸道路となり、油川城趾を西地区と東地区に分けている。上がると現状は畑。

油川城跡 西~南西側の切岸
油川城跡 西~南西側の切岸  中軸道路を進むと右手・西側の畑の奥に林ある。その林の縁に切岸がある。

油川城跡 切岸の向いにある土塁
油川城跡 切岸の向いにある土塁  切岸、空堀、土塁、空堀と二重の堀になっている箇所。写真は中央の土塁。

油川城跡 切岸の向いにある土塁
油川城跡 切岸の向いにある土塁  右側に土塁が見える。

油川城跡 南西側の切岸
油川城跡 南西側の切岸 切り岸のもっとも高い箇所。高さは、3~4m程。

油川城趾 西側の切岸
油川城跡 西側の切岸  西側の切岸は若干低い。

油川城跡遺構図

 油川城跡遺構図
油川城跡 遺構図 (元図は「新青森市史資料編2古代・中世」)
  • 内曲輪下の切岸と土塁が明瞭にわかるのは、南側から北東に向けての崖状斜面である。
  • 切岸と土塁が明瞭な地区は、その形状からB・C・Dの3地区に分かれる。
  • B地区は中土塁がはっきりしている。C地区は中土塁の高さが低くなる箇所と土盛り程度になる箇所がある。D地区には外周の土塁がない。
  • B地区とC地区の間には「搦手虎口」がある。
  • C地区とD地区の間には、C地区がD地区に比べて高いため、内曲輪へ上りやすい箇所がある。
  • D地区の土塁は低いが幅広い。D地区には切岸側に水路のような堀がある。
  • 遺構図の「C」には、内曲輪に上がる斜路が設定されていて、新青森市資料編2では、中世からのものと推定している。
  • B地区の二重土塁からA地区に向けて北に進むと切岸の下が空堀になっている。堀は、遺構図の土塁と土塁の切れ目(畑地)まで続く。原地形からこの空堀を掘って、城領域を設定したと思われる。

城跡の縁から南側城館遺構へ

 先に、大手虎口から城館遺構へ向かうルートを説明したが、油川城跡を見るには、城領域をぐるりと回り込んで見る方が、理解しやすい。油川城跡は、城跡は道からはっきりと見える小高い丘になっている。入り口は、アプローチで説明しているので参照を。
 
外周道路での駐車スペース
外周道路での駐車スペース  写真の左角(ガードレールの手前)に駐車スペースがある。この道を少し進むと、左手に畑に上がる道がある。油川城の外周の空堀は、畑に向かって右手の切岸下から始まる。
 
油川城の外郭切り岸
油川城の外郭切り岸  大手口のある北側外郭の切岸の状況。高さは3m程。
 
A地区・南側の空堀最終地点あたり
A地区・南側の空堀最終地点あたり  西側外周の空堀は、徐々に広くなり、二重土塁のあるB地区に入る。A地区は切岸の上が高さ1m程の土塁が設定されている。
 
B地区・西端、南側の二重土塁の始まり
B地区・西端、南側の二重土塁の始まり  B地区の外側には道がある。B地区の城域は土塁が二重に設定されている。写真正面切岸の上が内郭になっている。
 
B地区・南側の中土塁
B地区・南側の中土塁  城域の外周にあるB地区の中土塁。高さは1.5m程。
 
B地区東端、搦手虎口
B地区東端、搦手虎口  搦手虎口は、内郭の西地区の最南端に位置する。B地区の中土塁が終わった箇所で、上の内郭に上がる道が設定されている。上がって林となり、林を過ぎると畑になる。搦手虎口の道を上がっての切岸の上には、50cm程の土塁が廻らせてある。
 
内郭、頂部は畑
内郭、頂部は畑  油川城の内郭は平場になっている。写真は内郭の中軸道路の西側(西地区)。
 
C地区、中土塁の西側
C地区、中土塁の西側  C地区の中土塁は、B地区の中土塁と比べて明瞭ではなく崩れている。構築した段階でも造りが雑だったと考えられる。油川城の内郭は西地区が「中心地区ヵ」とされているが、西地区に付随する城遺構の方が厳重な造りとなっている。
 
C地区の中土塁
C地区の中土塁  C地区の中土塁は、北東に進むにつれて高さがなくなっていく。
 
D地区・西側の状況
D地区・西側の状況  D地区の城域の東側の現状は畑である。畑地より城域は1m程高くなっている。D地区の土塁は幅広で低く、土手のように見える。D地区の防御遺構は内郭の切岸だけとも言え、築城当時は湿地帯だったのではないかと思われる。
 
D地区の土塁
D地区の土塁  新青森市史資料編2では「土塁状遺構」としている。写真の土塁の左手には、水路が掘られている。D地区は水位が高い時には、土塁を残して水で覆われたのではないだろうか。
 
D地区・東端、内曲輪への取付け道
D地区・東端、内曲輪への取付け道  D地区の東端の周りはヤブ地を挟んで水田となっている。東端の内郭の切岸には、内曲輪に上がる取付け道が設定されている。新青森市史資料編2では、この取付け道は築城当時からの遺構であろうとしている。

城跡の状況

 油川城は油川の北、青森市西田沢字浜田に所在する平城である。
油川城の城域は、東・北は台地の崖、南・西は壕で区切られた、南北約250m、東西約300mの台地上の地域と考えられる。標高11~15mの台地の先端を利用してつくられており、周囲との比高低差は、高いところで約10mに達する。
城域は、南側に二つ、北に一つと三つの郭から構築されたものと従前は考えられていたが、南側の二つのエリアは北の郭との関連が乏しく、遺構とみえるものも北の郭との時代が異なるとの理由から、『新青森市史資料編2古代・中世』では、油川城は「単郭(曲輪が一つ)」であると結論づけている。
 油川城の南側には堀と土塁が築かれている。また、城郭を囲むかのように北側、東側には水田が外周をめぐっていて、往時の水濠の面影を残している。

( 内曲輪・大手虎口・搦手虎口 )

 油川城の内曲輪に入る大手の虎口は北側に、搦手の虎口は南側にあった。大手虎口の両脇には、腰曲輪状の平場が設けられており、大手虎口にふさわしい堂々としたつくりである。大手虎口(北側の入口)は、北から城に向って延びてきた道が、台地に突き当たったあと、左(東)に折れ、そのまま郭内へと通じる坂道となって、ゆるやかに右折しながら、内曲輪に入る構造となっている。
 大手虎口を上がって、内曲輪の中央に走る道の延長は約200m、幅は約1.5mであり、この道路によって、曲輪は東西に分けられている。内曲輪の現状は畑地と杉林となっている。西地区は、東地区に比べて標高は若干高いものの、ほぼ平坦面である。
 西地区の中心部分は、城館全体の中で最も高い場所(海抜15m)に位置する。しかも背後となる西側から南西側は、高さ3~4mの立派な切岸で守られ、西側には現状で高さ1m?(もっと低いようだ)の土塁をともなっている。西地区には、幅広の空堀に中土塁を築いた形の二重堀がめぐっている。こうした状況から、西地区が城の中心となる地区であったと考えられる。
 西地区南側にある搦手虎口の周りには、土塁が設定されていなく、現状の外周道路付近から内曲輪に向かっての斜路となっていて、内曲輪に上がった地点の東側には、低い土塁が設定されている。搦手虎口から内曲輪に入ってすぐは杉林で北に向かって進むと、西地区のほぼ中央となる。このことも、西地区が中心であり城館があっただろうことの補強材料となるだろう。

( 西地区・東地区の南側の堀と土塁 )

 油川城の南側は、空堀がめぐらされている。下に掲載している「油川城跡遺構図」をご参照いただきたい。場所を方角だけで表現するのは困難で、かつわかりづらいので、堀と土塁があるエリアを「A・B・C・Dの4つの領域」として表示した。

 西地区の西側の「A地区(遺構図に表示)」は、切岸(崖)と空堀の向かい側に土塁は設定されていない。原地形から堀で城域を切り出したと考えられる。ただ、新青森市史資料編2では、南側他の地域と同様に、「空堀の隣に土塁があり、畑地を作る際に埋め立てたのではないか。」という可能性も示唆しているが、二重土塁の始まる「B地区」の外周にある土塁の西側始点が他に比べて明らかに高いため、その可能性は薄いと現時点では考え得ている。
A地区の空堀は「遺構図」の西地区・西側の「戦後になって開けられた出入口」にある畑で終わっている。その先の北側の地形は比高差約3~5mの急崖となっていて、ここには、もともと堀はなかったものと思われる。

 西地区南側の「B地区」は「搦手虎口」までには、土塁があり、外周にさらに土塁が設定されている。搦手虎口の近くで、中央の土塁(中土塁)はいったん消える。この地区は土塁が二重になり、これと対応する切岸も、大変立派で、上端に土塁も一部残されている。ここは、油川城でもっとも軍事的な要素が感じられる場所である。中土塁はB地区に入ってから形成され、その外側の土塁の西端は高台から始まっている。

 西地区搦手虎口から北東側の「C地区」の外周は「遺構図」でわかるように、丘陵部と畑地となっている平坦部に分かれる。切岸の向かいの土塁の外側の堀の外周は切岸と土塁で高くなっている。「C地区」の切岸向かいの土塁は、高さが一定ではなく、土塁が崩れたのか低くなってしまっている箇所がある。

 切岸(崖)の向かいに設定させている土塁は、高さが変わるものの「B・C・D地区」共に存在する。B地区、C地区とも切岸から土塁までの距離(空堀の幅)はほぼ同様である。この土塁は、空堀を設定した際の土と城域の縁となる崖を整形した(切岸)際の土を使って構築したものと考えられる。つまり、中土塁と呼ぶかどうかは、切岸の外側にある土塁のさらに外側に土塁があるかどうかによる。切岸向かいの土塁の外側が丘陵になっている場合には、外周の土塁は設定されていない。D地区の土塁の形状はBC地区とはまったく異なる。積み上げた土塁というよりは、現地形の残り、つまり、両側を掘り下げた結果の残存地形のように感じられる。

 東地区南側のD地区は、BC地区と明らかに構造が異なる。まず、D地区は、BC地区よりも、一段低くなっていて、切岸(崖)と土塁との距離が広くなる。これは、BC地区の外周が丘陵なのに対して、D地区の外周は畑地・水田なことも関係しているのだろう。D地区には切岸向かいの土塁の外側には、土塁は設定されていない。ただ、畑地よりも、全体が一段高くなっている。D地区の土塁は、BC地区に比べて幅広く、切岸側に細い水路が設定されている。D地区の切岸と土塁の間は水壕だった可能性もあると思われた。
 「新青森市史資料編2」では、『この土塁は、現状では崩れて大半が緩い盛土のようになっているが、東地区全体を東から北の大手虎口までずっとめぐっていた可能性がある。事実、1948年に米軍が撮影した航空写真には、土塁のようなものが映像として残っているが、現状では完全に水田化されて確認できない。』と記載している。

油川城の防御機能

 油川城の内曲輪の周りは、高さ3~4mの崖(切岸)となっていて、容易に登ることはできない。城が機能していた当時は、柵がめぐらされていたとすれば、やすやすとは内曲輪に入ることは難しかったと考えられる。ただ、東地区の東側は西地区に比較すると、切岸の高さが低い場所がある。攻めるとすれば、北側の大手虎口方面から突破するか、東側からの侵入が考えられる。
 「新青森市史資料編2」では、東側に土塁がめぐらされていただろうことを指摘しているが、現在の水田が当時は湿地帯であった可能性があると思われる。かつ、東側に土塁があったとすれば、空堀ではなく水壕であっただろう。これで、外周からの防御性は確保されたのではないか。関連して、『尻八館調査報告書1981』には、「城郭を囲むかのように幅約10mの水田が外周をめぐっており、往時の水濠の面影を残している。」と記載されている。現在は水田の大区画化が行われたので、「幅約10mの水田」は見ることができないが、かつては水壕があったのだろうことを裏付けている。
 油川城は、外周は切岸で固められているものの、内曲輪の内部には土塁や堀などの防御施設は設定されていない。木戸・門や柵があったにしても、内曲輪に侵入されたら即白兵戦になってしまう。ましてや、大手虎口や搦手虎口を突破され、騎馬で侵入されたとしたら、たちまち攻め手が優勢になってしまう。合わせて、退路・引き口がないのも防御側としては困難な戦さになることだろう。

油川城の築城時期と築城者

 油川城ができたのはいつ頃で、築城したのは誰なのかを考察した本(資料)は見られない。まず、油川城の城主は「奥瀬善九郎」で南部氏の武将だと伝えられている。
 油川の浄満寺には奥瀬一族の墓碑であるとされる五輪塔が4つある(五輪塔の大きさが小さいのが一基)。当初は「寺内野(青森市立油川中学校付近、羽白字沢田)」にあったものを、安政六年(1859)に当時の住職である良快の発案で浄満寺境内に移されたということである。
 天正十三年(1585) 3月末~4月初めの油川城攻めで、当時の城主奥瀬善九郎は、「津軽一統志」によると、田名部方面に船で逃れたとされている。仮にその奥瀬善九郎が四代目だとすれば、奥瀬一族が油川に入部したのは、100年前程だとすると、ちょうど十三湊安藤義季が自刃し、安藤氏嫡流家が一時途絶えた頃、安東政季が田名部から蝦夷地に脱出した、田名部合戦(蠣崎蔵人の乱)が終息した時期になる。
 油川城は、十三湊安藤氏の影響力が津軽と下北地方からなくなった頃(15世紀半ば)に、南部氏かもしくは北畠氏が築城したものであろう。北畠氏が外浜を支配した頃、青森市古川以北を「北浜」(現在の呼称の「上磯」とほぼ同様の地域)と呼ぶようになった。奥瀬氏は北畠氏にとって「客将」、南部氏にとっては北畠氏の「目付」のような役割があったのではなかろうか。

油川城の採集遺物

 油川城跡での採集遺物は、中国産のものでは、青磁碗・皿・香炉・盤、白磁の皿・八角小杯、染付の碗・皿。
国産陶器では、瀬戸・美濃焼の灰釉碗・皿と鉄釉碗(天目茶碗)、越前焼の甕・擂鉢、瓦質火鉢・擂鉢、坩堝などがある。鉄製品には、小刀、釘、鍋があり、銅製品には、瓜型の錘、飾り金具、大中通宝(明代・1361年)をはじめとする古銭、石製品には茶臼が採集されている。
 これら採集資料の多くは、15~16世紀に属するものである。
※新青森市史資料編2から、参照資料は「青森県史」資料編考古4(2003年)による。

油川城の性格

 『新青森市史資料編2』では、油川城を次のように記載している。
 油川城は全体的に要害性(軍事性)の低い城であり、居館・屋敷の趣であり、儀礼空間的な雰囲気を持っている。郭内はほぼ平坦面が続いており、中土塁を持つ堀の存在や中軸街路の通し方など、浪岡城のつくりに類似している。
 油川城は町場と離れていること。表の入口である大手虎口が町の方角ではない北側に向けられていること。しかも、手前の台地が障害となり、町場から城本体を直接に望むことはできない「町に背を向けた城」である。
 これらのことから、油川城の最重要な機能は、油川周辺地域の支配ではなく、蝦夷交易の管轄にあった可能性がある。油川城は油川湊の支配者の居城ではなく、「代官所」かつ「蝦夷交易のための儀礼空間(交易の場)」だったと考えられる。

 油川城は天正十三年(1585)、津軽為信により攻略された後、廃城となったと伝えられている。
※慶長15年(1610)第2代藩主信牧領内の城や砦を破壊。油川城も取り壊される。

《 参考資料 》
新青森市史資料編2 古代・中世 2005.3
調査報告書第9集 歴史1 尻八館調査報告書 青森県立郷土館 1981.3
 

奥瀬一族の墓

 青森市油川の浄満寺に、為信に追討されるまでは油川城主だった奥瀬一族の墓、五輪塔があります。 浄満寺は、旧国道280号線を北上して、道の左手にりっぱな山門が見える浄土宗の寺院です。 奥瀬一族の墓は、本堂の後ろにあり、建物の縁をぐるっと廻るようにして進んでください。 本堂の裏のお墓群が終わったあたりに通称坊主山と呼ばれる「千人塚」があります。 ここは、天明の大凶作で餓死した人を葬った場所といわれ、その供養塔が残っています。
 その供養塔に並んでいるのが五輪塔で、油川には奥瀬一族の他に城主や豪族がないことから奥瀬氏のものと伝わっています。 このお墓は、もともと寺内野(現油川中学校の校庭付近)という場所にあり、安政6年(1859)に浄満寺住職良快により境内に移されたとのことです。 五輪塔の脇に、この場所に五輪塔を整備した経緯が記された石碑があります。
 当時油川町の町長だった西田林八郎氏が、大正10年の夏に母親を亡くしその「仏縁」にちなんで、浄満寺境内に半ば地中に埋まっていたお墓を現在地に移し、 さらにコンクリート製の台座を設え修理したものだそうです。

 石碑に刻まれている奥瀬氏墓移設の経緯

 油川城主奥瀬善九郎氏は天正十三年大浦氏に亡さる、其一族の墓は寺内野にロロロを安政六年浄満寺に移さる、然も半は地中に埋つて人の顧るなし、予常に之を哀む、今夏母の喪に遭ひ仏縁に因み 之を供養せんことを思い、此処に移して修理するを得たり、此地は天明の凶年餓死者を合葬せる所なり、後の人其の□口を知□永く弔問を絶ざらんことを希ひ、石に刻みて之を尊ふ、
 大正十三年十一月三日
 天正を去る三百三十六年・天明を去る百四十年・安政を去る六十三年
 西田 林八郎誌す

油川浄満寺 山門と本堂
奥瀬一族の五輪塔がある油川浄満寺 山門と本堂  浄満寺は青森市大字油川大浜249−1にある。寺の向かい(海側)に「消防の械械器具置場」がある。

奥瀬一族の五輪塔
奥瀬一族の五輪塔  五輪塔は本堂の裏の敷地に安置されている。この写真右側に五輪の塔に関する碑文がある。
 
奥瀬氏城主位牌
奥瀬氏城主位牌  浄満寺本堂に奥瀬氏城主の位牌が安置されている。初代奥瀬修理頼兼、二代奥瀬判九郎建助、三題奥瀬善九郎と書かれてある。
 

為信の油川城攻略

歴史史料から解析する油川城攻略方法

 油川城が為信にどのように攻略されたのかについては、詳しく書かれている本はなかなか見られなかった。油川城主の奥瀬善九郎は、一戦も交えないで船で田名部ヘ逃げ去った、とされている。

 郷土誌うとう93号(1987.2)の鈴木政四郎「中世油川城跡に関する論考」八、史料的に見た油川城 に、
(1)舘ノ越記、(2)永禄日記〈注1〉、(3)木立日記〈注2〉、(4)愚耳旧聴記〈注3〉、(5)津軽一統志〈注4〉、(6)二本柳由緒記と、六ツの史料の為信と油川城攻略に関する箇所が原文のままで記載されている。
 書かれている内容によるとおよそ二つに分けることができる。(1)~(5)と(6)で、津軽一統志では(6)に書かれていることも紹介されている。
 一つは、新城村の村人たちを「為信軍が攻めてきた」として口々に叫ばせて、油川町下になだれ込ませ、同時に新城村外れに積んで置いた「カヤ・竹・木」を燃やし、その煙でさらに油川町民や城中の危機感をあおり、奥瀬善九郎や妻子、家臣が船に乗りこぎ出すことになった、という内容(1~5)。
 もう一つは、新城村の村人たちが油川に来ることはなく、狼煙を新城を含む、飛鳥、奥内、蓬田から立ち上らせて城下中が怪しむ中、二本柳三郎右衞門重次〈注5〉と同志が油川城主の奥瀬善九郎に会って開城を迫った、という内容(6、5でも紹介)である。

《 戦を始める前の調略 》
 戦いの前段は共通している。まず時期は浪岡城攻略後、津軽三郡を手中に収めた為信は、津軽平定のためには、油川、蓬田、横内・高田・荒川の武士層を攻略することが必要だった。為信は、元来の臆病者と聞こえる油川城の奥瀬氏を追討することを、家老たちに伝え軍議を持った。軍議の結果は、為信が直接城を落とすために油川に出陣するまではないが、浪岡までは出張ることになった。
 その上で、為信に策略があるので、油川付近の賢しき者、村おさを連れてこいと為信が命じた。この命により、人を見つけに行く者は史料で異なっている。木立日記では小栗山左京、津軽一統志では忍者の小栗山、砂子瀬と書かれて、愚耳旧聴記では浪岡城攻めの際に使った盗人とある。
 為信の元に連れられてきたのは、木立日記では新城村の肝煎(村役人。庄屋・名主など)、愚耳旧聴記では新城村の郷民一人と庄屋と書かれている。
 為信の策略は、新城村の村人たちに自分たちの資財を牛馬に積ませ(村から逃げるように見せかけ)、油川城下に行かせ、「為信軍が油川城を攻め落とそうとして、新城村に放火して蹂躙している。」と口々に叫ばせろ。村人が油川城下に入った頃に、新城村外れに積んでおいた「カヤ・竹・木」を燃やして、黒煙が油川から見えるようにしろ。」ということだった。その上で、奥瀬善九郎は城から逃げるはずなので、城の中の資財は略奪してかまわないと言った。
 一方、二本柳由緒記では、三家老に次ぐ金勘解由左衛門が、二本柳三郎右衞門重次という、油川城攻略にうってつけの者がいると、為信に推薦する。浪岡に居住し外ヶ浜に彼の兄弟や親戚が多く、事をなすのに便利な者だということであった。為信の密命を受けた重次は、同志と共にまず新城村に行き村おさを説得した。外ノ浜一帯には北野宮を深く信仰する人々が多く、社を建立したいという願いを領主が許さなかったという事情があったが、為信なら免許を与えてくれる、だから、為信の油川城攻略に協力してほしいと説得した。
 村おさたちは協力を約して、重次を案内して油川の村おさに紹介した〈注6〉。ここでの具体的な手立て及び取り決めは、新城村から神輿の狼煙が見えたら、飛鳥、奥内、蓬田でも呼応して一斉に神輿の狼煙を上げる、ということだった。つまり、二本柳由緒記によると、新城村の村民が油川城下になだれ込むということは書かれていない。つまり、(1~5)では、為信が直接に新城村の村おさ等に攻略方法を指示しているが、(6)では為信が二本柳重次に対して指示している。

 《 二人の功労者 》
 実働者を比べると、津軽一統志では、新城村の村民の他に、油川の門徒寺の僧侶「念西坊頼英」〈注7〉が出てくる。奥瀬善九郎城主よりも為信に寺の未来をみて、同志を集めて油川の辻々に放火して、町の混乱を助長する行動に出る。
 一方、二本柳由緒記では、外ヶ浜中に狼煙が立ち上り、町民・城の家臣団が不安を覚える中、重次と同志が城に入り、奥瀬善九郎に「為信の軍勢が油川城を攻めようと大軍で押し寄せている。既に軍勢は外ヶ浜中にいて町を取り囲んでいる。籠城して自刃するか、速やかに城を開けて逃げるかの二択となるであろう。」と降参しての開城を迫った。愚耳旧聴記他の「奥瀬善九郎は臆病だから町の混乱に動転して逃げたのだ。」と大きく異なることになる。為信の軍勢は、奥瀬善九郎が逃げ去ってから油川城下に入っている。

 《 為信軍の動向 》
 為信軍の動向は、実働部隊である小笠原信清〈注8〉・兼平綱則〈注9〉の二つの軍で500~800人、他に為信本体が800~1,000人とされ、大浦出陣が天正13年(1585)3月27日、その日の内に浪岡に着陣した。為信は浪岡に留まり、小笠原・兼平軍が新城村に入るのは3月28日の明け方頃、油川に入るのは、その日の巳の刻(午前10時)とされている。
 奥瀬氏が船で田名部ヘ逃走した後の為信の動きは、津軽一統志によると、油川城下に入った小笠原・兼平の軍勢は、町の混乱を鎮めた後、浪岡の為信に飛脚を出して注進する。為信は翌29日の申の刻(午後4時)に油川に入り、念西坊頼英の門徒寺を本陣とした。油川を離れる4月3日までの間に、蓬田城の蓬田越前が逃亡、横内の堤弾正も逃亡し、横内・高田・荒川の地侍が戦勝を祝いにやってきて、為信の軍門に降った。為信は浪岡に一泊した後、大浦に4月4日に帰陣する。こうして、為信に反抗していた勢力は一掃されて、津軽平定が成し遂げられた〈注10〉

 《 功労者への恩賞 》
 一見大きく異なるように見える双方の内容ではあるが、それぞれ証拠となりそうな事柄も書かれている。津軽一統志によると、念西坊頼英の門徒寺では、恩賞として為信から寺領24石を与えられる。さらに、慶長9年(1604)、念西坊頼英は為信に船遊びに呼ばれ鰺ヶ沢に行き、その場で寺領13石を追加され合計37石となっている。そして弘前城完成後、油川から弘前に移り「円明寺」となったとある。単に寺を為信の本陣としただけの恩賞ではなさそうだ。また、二本柳重次は大光寺村に50石、同志にも30石、20石と為信から恩賞が与えられた。合わせて、津軽統一後、為信が黒石、藤崎(藤崎の城は荒れ果てていた)の城を作り直そうと巡視に出かけた折には、二本柳重次の家に入り、重次の息子たちにも恩賞が与えられた。この他、田舎館攻の時、落城した城を預けられるという名誉も与えられたという。この事柄は二本柳由緒記だけではなく、津軽一統志でも紹介されている。 

《 油川城攻略の真相 》
 では、油川城攻略の真相はどうなのであろうか。
 「為信の軍勢と奥瀬氏は戦闘をしていない。油川城下で騒ぎ立て、至る所で煙が立ち上ったということだけで、奥瀬氏と家臣団は開城して船で逃げた。」というこれまでの話では、『いかに臆病者と知られていた奥瀬善九郎だとしても、それだけで奥瀬氏は城を明け渡したのだろうか』という疑問があった。二本柳由緒記による二本柳重次が交渉し、奥瀬善九郎に開城を迫った、という記述には納得できるものがある。ちなみに、油川城は油川の街並と離れていて、新城や油川村人の喧噪だけでは奥瀬氏家臣に届くことはない。
 為信が念西坊頼英の功績を認めて、寺領を与えたというのだから、念西坊頼英が為信に味方して油川城下を混乱させたということもあったことなのかもしれない。二本柳由緒記では、新城村の村民が油川城下になだれ込むということは書かれていないが、小笠原・兼平軍が新城村に着陣した以上、新城村の人々を油川城下に追いやることは可能であろう。為信と村おさとは打ち合わせ済みなわけだから、村おさが指示し村人を油川城下へ移動するように煽動できる。
 二本柳由緒記では、煙があがる場所は、新城と飛鳥・奥内・蓬田〈注11〉などに対して愚耳旧聴記では、新城だけなことが違いとなっている。愚耳旧聴記では新城村の村おさが加担するが、二本柳由緒記では新城村の村おさがだけではなく、油川の里の村おさや村おさを通じて、飛鳥・奥内・蓬田の北野宮の信者をも巻き込んでいる。
 念西坊頼英は、為信が油川城を攻めることを事前に知っていたからこそ、協力する者を集めることができた。近々にある戦の情報を新城村の村おさから聞いたというよりは、油川の者から聞いたという方が自然である。このことは、二本柳三郎重次の動きに同調する者から聞いたのではないかと推測できる。この推測が正しければ、為信軍が新城村に進軍し、新城村村民を油川城方面に逃げさせるという動きと二本柳重次らの動きは同時に行われたことになるのではなかろうか。
 津軽一統志では、愚耳旧聴記等を種本にしていそうだが、「外ノ浜、平均、油川開城の事惟二本柳家の書にあり。」として、二本柳由緒記の内容を記載している。どうも、為信の油川城攻略の実際は、双方の内容が合わさっているのではないかと考えられる。津軽一統志において「内容は諸家の記録と異なる」としながらも記載してあるのも、津軽一統志の編者が二本柳由緒記にも信憑性があると考えたのではないだろうか。津軽一統志には、「而テ重次カ大切又覆すべからず自他之説折衷スル」と書かれている。

《 油川城攻略のポイント 》
・開城退避を勧告した二本柳重次は、北畠(=浪岡)つながりで、奥瀬氏が知っている人物だった可能性が高い。「我々旧好を以て是を告る(二本柳由緒記)」
⇒二本柳重次の勧告により、無血開城が行われた。
・戦いを仕掛ける段階で、地元の住民は奥瀬氏よりも為信についていた。
⇒〈二本柳重次の調略〉為信が領主となれば奥瀬氏が許さなかった北野宮の開基は許してくれる。奥瀬氏にとっては南方(新城)の煙よりも、北方(飛鳥、奥内)の煙が脅威だったのではないか。
⇒〈念西坊頼英の調略〉油川の町は商業都市であり、奥瀬氏に味方するよりは、新興勢力の為信に味方した方が先を見込める。油川の商店主は、北陸商人が多く、一向宗(門徒寺)に帰依していた。念西坊頼英が次の時代は為信ではないかと言えば、当然まとまって為信に加担しただろう。念西坊頼英の功績は、町の辻々に火をつけたことではなく、為信が油川に攻め入る前に油川の人々を為信に味方するようにしていたこととなる。

【 為信が念西坊頼英と二本柳重次とに恩賞を与えているということは、両者ともに油川城攻略に功績があったという証明ではないか。つまりは、新城村人の油川への乱入も、二本柳重次の奥瀬氏への開城勧告も両方があったことと考えられる。 】

【注釈】
  • 注1:『永禄日記』は浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏の家記。「山崎記」と題されて二百年にわたり代々書き伝えられていた。損傷が多くなり、宝暦十三(1763)年に、山崎立朴によって整理・編纂一書としたもの。
  • 注2:木立日記は『津軽徧覧日記』を差しているのだろうと推測した。「津軽徧覧日記」は、為信から信明に至る津軽家8代の事蹟を編年体で記載した史書で、寛政5年(1793)2月に成稿した。木立要左衛門藤守貞編。
  • 注3:『愚耳旧聴記』は、弘前藩の藩祖である津軽為信の一代記、軍記物語。弘前藩士添田儀左衛門源貞俊が寛文年間(1661年から1673年まで)に著述したものと言われている。
  • 注4:『津軽一統志』は、弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書。1731年(享保16年)刊行、全10巻。編纂にあたっては藩内の旧家・寺社の古文書を蒐集するとともに、津軽為信の津軽統一に従った家あるいは為信と敵対して後に津軽氏に従った家に対して史料の提出を求めている。
  • 注5:「二本柳系図」によると、二本柳三郎右衛門重次は「初メ浪岡東館ノ城主」とあり、天正のころの人であり、城内に代々住んだと伝えられる。北畠一族であるが二本柳村(現田舎館村大袋二本柳か)に閑居し、落城後大浦為信に仕えたという。「浪岡城跡発掘調査報告書、P9」
  • 注6:史料での(2)永禄日記、(3)木立日記、(4)愚耳旧聴記、(5)津軽一統志では、新城村の主立った者を為信の元に呼びよせて、為信が策略を説明している。油川の住民と策略を打ち合わせるのは、(6)二本柳由緒記のみである(津軽一統志においても二本柳家によるとして紹介はしている)。
  • 注7:念西坊頼英は津軽一統志のみに登場する。:関連して「津軽為信墨付」について紹介する。この墨付は黒印状で、代々円明寺に伝わった。確実な文献史料の少ない藩成立期の記録として、きわめて重要なものといえる。藩祖為信の油川城攻略の際、その地の浄土真宗の僧念西坊頼英が協力し、また外ヶ浜一円の平定にあたっては同僧の寺に本陣を置いたという。この墨付は、油川城攻略の際に、その功を賞するため為信が与えたものといわれている。
  • 注8:「小笠原信清(信浄)」は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。天文22年(1553年)頃より大浦為信に仕えた重臣で、さまざまな戦いで貢献したといわれる。森岡信元や兼平綱則らと並んで、大浦三老の一人に数えられている。
  • 注9:「兼平綱則」は、津軽氏の家臣で大浦三老の一人。大浦為信(津軽為信)に尽力し、数々の武功を上げた。参陣した主な戦としては和徳城攻め・浪岡城攻め・大光寺城攻め・天正7年(1579年)7月4日の六羽川合戦・田舎館城攻めがある。  
  • 注10:南部氏側に伝わる史料によると、天正18年(1590)3月に、為信が秋田の湊安東実季と同盟を結んで浪岡城を攻略し、その後外浜一円も領地化することによって、ようやく津軽統一を実現させたという。特に外浜地域については、天正13年(1585)段階では油川以北までを掌握し、天正18年になりようやく平内・浅虫・横内・荒川・高田一帯を掌握することに成功した。
  • 注11:記載されている地域の位置関係は、新城は油川城のほぼ南で約6Kmある。油川の街並みと油川城は約3Km離れていて、油川城の南にある。飛鳥は油川城のある西田沢とほぼ同じで、油川街並みの北にある。飛鳥の北(隣)に奥内がある。蓬田は奥内の北に位置する。つまり、二本柳重次の策ならば、城が為信の軍勢に取り囲まれているようにみせることができる。

奥瀬善九郎が油川城を放棄した理由

 奥瀬善九郎が籠城しての戦いを選ばず、早々に開城して田名部ヘと逃走した理由を考えてみたい。
・油川城の形状は、防御に適したものではない。かつ、攻め手が城の回りを完全に包囲することが可能である。
・かつての後ろ盾だった浪岡北畠氏はすでになく、煙が新城だけではなく、飛鳥・奥内・蓬田方面からも立ち上っていたとすれば、籠城したとしても援軍(蓬田越前)が来る可能性は極めて低い。
・城内にいた武装可能な武士は30名だったとしたら、為信軍と戦っても勝算はない。
・奥瀬氏にとって、油川は先祖伝来の土地ではなく、北畠氏より預けられた地だったのではないか。
 油川浄満寺には、奥瀬氏3代の位牌がある。青森県史によれば、「油川城趾での採集遺物の多くは15~16世紀に属するもの」であり室町時代・戦国時代の城である。とすれば、油川城が機能し始めたのは、安藤氏が南部に蝦夷に追いやられた後で、浪岡北畠氏が北方交易を安藤氏から受け継ぐ時期とみられる。
 奥瀬氏にとっては、執着すべき土地ではなかったのであろう。

為信の最初の油川城攻め

 為信の油川城攻めとホーハイ節

 鈴木政四郎「中世油川城跡に関する論考」郷土誌うとう93号(1987.2)には、津軽の民謡「ホーハイ節」の由来が、為信軍が油川城攻略に失敗して帰陣する際に、為信が津軽坂の茶屋でお茶を運ぶ婆様の姿を見て、即興で唄ったものだと言う伝承があると記載し、天正六年の浪岡城攻め、翌七年の六羽川合戦から、天正十三年の油川城攻略までの間に、油川城攻略に挑んだのではないかと書いている。
 この一回目の油川攻めは日中のため苦戦となった。家臣団は空腹のあまりやっと津軽坂(鶴ヶ坂)の茶屋でのどをうるおした。為信のこの唄に元気づけられた家臣たちは浪岡に着陣した。との伝承があると紹介していた。

 つがる市の「ホーハイ節保存会」では、ホーハイ節を次のように紹介している。
『高い裏声を張り上げて唄う旧森田村の盆踊り唄で、日本民謡としては、きわめて特異な発声法を用いており、津軽民謡の中でも異色で、日本のヨーデルともいわれております。 由来は、今から430年位前の天正年間、津軽藩の祖津軽為信が、油川城を攻撃した時、落城が叶わず兵士たちの落胆ぶりは相当なものでした。険しい津軽坂(今の鶴ヶ坂)を越えて津軽藩に帰ること(ママ、大浦城に帰ること)など到底できそうもなかったそうで、そんな兵士たちの士気を鼓舞するために、為信公が峠の「お茶屋」で即席に唄ったのが、この唄の始まりと伝えられています。』

ホーハイ節の歌詞は、「婆の腰ぁ ホーハイホーハイホー ハイ まぁがた まがた腰ぁのらぬ。(意味:お婆さんの腰が曲がってしまった。曲がった腰は治らない。)」

・西田源蔵著「油川町誌」には、浪岡八幡宮の神官阿部文助氏の「浪岡名勝舊跡(きゅうせき)考」に掲載されている一節として『波岡於(お)たまが茶屋の故事』を紹介している。これによれば、天正の初年に為信が奥瀬善九郎を攻めたが、奥瀬氏の要所々に伏兵をおく戦術により、為信軍は敗れ逃げ帰った。その際に、為信は浪岡のおたまの茶屋まで行けば、休養が取れると兵士たちを励ました。ホーハイ節は為信の茶屋での即興謡いが元だという。
・木村慎一著「油川町の歴史」では、この歌は、津軽家では為信が天正の昔、津軽統一の戦乱のさなかに作った歌として代々伝えて大事にしてきた。森鴎外の小説「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」には、毎年夏になると、江戸の津軽家藩邸では江戸詰の藩士たちがこの「ホーハイ節」を歌って盆踊りを踊るのが恒例であったと書いている、と紹介している。
・木村慎一著「油川町の歴史」では、天正13年(1578)※の春3月、奥瀬氏は「(為信は)浪岡城落城のあとは必ず敵は油川を攻撃してくる。」と判断して迎え撃つ準備をしていた。新城から野木和にかけての山中で油川勢の伏兵に出くわして鶴ヶ坂まで退いた。と記載している。

 津軽一統志などでは「油川城主奥瀬善九郎は、元来の臆病者として有名だった。為信軍と一戦も交えず、田名部に船で逃走した。」と書いてあるわけだが、一度、攻略に失敗しているからこそ、天正十三年は、軍勢で城を正面攻撃するのではなく、策略をもって攻めることとして、それが当たった。というのが、ことの真相なのかもしれません。

ビデオ

1.「油川城跡探訪」:青森市西田沢地区にある『油川城跡』は大浦為信が津軽独立の戦いで落城した城です。油川城跡の内郭は現在は畑地ですが、城の西側、南側には城郭遺構がはっきりと残っています。
 動画は、青森市北部市民センターの野外講座と下見の撮影映像を組み合わせて構成しています。
   


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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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