湯ノ沢館跡

 青森市北部(後潟・奥内・西田沢地区)は、安藤氏(安東氏)に関連する城跡・館跡が集中して見つかっているエリアです。その中から、湯ノ沢館跡(ゆのさわだて)をご紹介します。
 湯ノ沢館跡は、「湯ノ沢山の頂部には、周辺を周壕で囲まれた単郭の「湯ノ沢館跡」が存在し、館跡から南の山麓に下りる堀道は現在でもはっきり確認できる。」と新青森市史資料編で説明されています。
 なお、青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。湯ノ沢館遺跡は令和5年10月と11月、令和6年11月に調査が実施されています。⇒「山城分布調査

※尻八・内真部城塞群については、別ページにまとめてあります。⇒「尻八・内真部城塞群

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1.湯ノ沢館跡
2.湯ノ沢館跡と他の山城遺構との位置関係
3.湯ノ沢館跡遺構図
4.麓の空堀
5.一の陣地:山頂への壕道と斜面
6.一の陣地:U字形周壕域
7.山頂曲輪
8.二の陣地、東頂部:山頂曲輪の西にある遺構

9.内真部館跡への古道
10.方形居館跡 新発見!
11.湯ノ沢館、東側遺構の位置
12.内真部城館群のできた時代

13.写真アルバム
14.湯ノ沢館・「二の陣地、西頂部」と西方山城遺構
 
 

湯ノ沢館跡


 湯ノ沢館跡は、このサイトで紹介している「前田蝦夷館跡」のある丘陵の「湯の沢川」を挟んで北側にある丘陵にある。つまり、前田蝦夷館跡の向かい側に隣接し、「内真部館と内真部山城跡」に挟まれています。

 「内真部館」の南方900m、標高85mの湯ノ沢山の頂部には、周辺を周壕で囲まれた単郭の「湯ノ沢館跡」が存在し、館跡から南の山麓に下りる堀道は現在でもはっきり確認できる。戦前の地図には尾根を下って北の内真部館跡方向へ向かう道も描かれていた。(「新青森市史資料編2古代・中世」では、湯ノ沢館跡に対する記述はこれだけです。)

 (以下の文章は、湯ノ沢館跡に関連する新市史史料編の記述として確認してください。)
 注目されるのは、これらの城館遺跡は、「湯ノ沢館跡」・「前田蝦夷館跡」・「飛鳥山館跡」が丘陵の頂部を周壕で囲郭するという共通の構造をもったおそらく同時代の山城であり、「内真部山城跡」・「南方山城遺構Ⅰ」・「南方山城遺構Ⅱ」は自然の丘陵を占地した臨時の施設ながら、入口に虎口や堀道を設けて、軍隊が駐屯できる陣所としてのつくりを備えていることである。

 ※前田蝦夷館跡については、別ページにまとめてあります。⇒「前田蝦夷館跡
湯ノ沢館跡のある丘陵
湯ノ沢館跡のある丘陵 写真中央のピークと左側の丘にある

立地
湯ノ沢館跡は、青森市中心市街地の北西、JR津軽線奥内駅から真西へ約1.7km、海岸からは約2.0km内陸に入った地点にある。山域は南北に約1.1km、東西に約1.3kmある。標高は99.0m。所在地は青森市前田字湯の沢・清水字生田。
(※山域の西端と標高は、遺構が確認されているエリアと連動する。)

見どころ
山裾にある「深壕道(空堀)」。頂上から続く壕道。山頂曲輪の周壕。そして、山頂曲輪の南側にある「一の陣地、周壕」。山頂曲輪の西側にある切岸と壕道。

アプローチ
 国道280号バイパスを北上して、奥内川を渡る。先に進むとバイパスの両側に神社の林が見える。その山手に、三社神社の林と祠の林が道の両側に見える。そこを過ぎるとすぐに、右手に「前田町会」の看板が立っている。その交差点(角に家屋あり)を左折して、新幹線高架橋を越え、道の行き止まりの丘陵までたどり着く。(ここまでは「前田蝦夷館跡」と同じ)
 丘陵の手前の舗装農道と十字路で交錯する「ジャリ道」を右折する。次の十字路を越えて(角の左手に小屋あり)狭い道に入るとすぐの左手に、駐車できるスペースがあり、湯ノ沢館のある丘陵にたどり着く。
 先ほどの十字路に戻り、小屋のあるあたりの向かい左手に林に入りやすい箇所で用水路側溝を越え、山に入る。入ると昔の用水路の跡がある。湯ノ沢館跡mapへリンク
→ Google map へ リンク。

《 東口から中央路ルート 》
 アプローチで説明した小屋の向かい側から用水路を渡る[東口]。斜面沿いに左に回り込むと「麓の深壕道」がある。深壕道の左上土手を進んで、伐採地に出る。伐採地跡(ブル道)を渡る。取り付き斜面に壕道がある。その脇を進むと堀が膝ほどある壕道がある。壕道に降りて進むと「U字形周壕に囲まれた領域(以下、一の陣地、周壕域)」。一の陣地、周壕域の右手を登って「山頂曲輪」へ至る[中央路]となる。
山頂曲輪前の道を進むと、正面に斜面が出る。斜面を回避するように右脇の浅い壕道を進むと「二の陣地、東頂部」下の切通しに出る。切通しを過ぎると67番鉄塔「二の陣地、西頂部」方面へ続く。

《 北口から北路ルート 》
 県道2号線沿いにある「北口」から山方向へ進むと右側に尾根があるので、その尾根筋に上がって進む。斜度がきつくなる辺りで軽く右側に曲がっていく感じで登ると、湯ノ沢館「山頂曲輪」へ向かう広い尾根筋が始まる。終点が山頂曲輪の周壕となる。

《 南口から中央路ルート 》     湯ノ沢館・西方山城遺構のページで説明
《 防火帯口から西方壕道ルート 》 湯ノ沢館・西方山城遺構のページで説明  
「湯ノ沢」の由来
〈角川 日本地名大辞典2 青森県〉には「湯ノ沢」という名前について次のように書かれています。
「貞享4年(1687)検地水帳」によれば、前田村の小字に「湯野沢」があり、また、嘉永3年(1850)の松浦武四郎「東奥沿岸日誌」には「温泉有」と記され、この温泉はのち山崩れによって埋没し、「湯ノ沢」は名だけとなる。

湯ノ沢館の陣地構成
 「湯ノ沢館跡」は、現状では「単郭(曲輪が一つで構成されている城館)」とされています。しかし、山頂曲輪一つが防御陣地というわけではなく、東西に渡って要所要所に陣地を構築している山城跡です。
 
令和5年11月18日に、青森市教育委員会の山城分布調査が湯ノ沢館で行われました。
この調査結果に基づいて、山城遺構の名称変更や遺構領域の修正を行いました。この結果、湯ノ沢館の「防御陣地の構成」は次のとおりです。
【防御陣地】東から西に向かって説明します。
1.「一の陣地」:斜面を縦に貫く「大きな壕道(竪堀状空堀)」、U字形周壕域
2.「山頂曲輪」:標高85mの頂部と周壕
3.「二の陣地」:山頂曲輪の西に位置する「二の陣地、東頂部」とその西にある丘「二の陣地、西頂部」
4.「三の陣地」:防火帯の西側、国有林に位置する高土塁と尾根筋にある段築

計測値を掲載しました。
 麓の壕道の距離、一の陣地の周壕の距離と直径、山頂曲輪の周壕の距離と直径を計測しました。規模を把握するための値としてください。
 
 「湯ノ沢館跡」の私たちの調査が2017年から2年目に入り、大きな進展がありました。
まず、これまで「単郭とされてきた曲輪」の西側にも「防御陣地」が存在し、さらにその西方にも山城遺跡があることがわかりました。この発見によって、このサイトでの「防御陣地」の呼称を整理しました。以下にまとめます。
・従来から知られていて、単郭とされてきた曲輪を「山頂曲輪」
・山頂曲輪の手前、南側にある陣地を「一の陣地、周壕域」
・山頂曲輪の西にある切岸と壕道の頂部を「二の陣地、東頂部」
・二の陣地の西にある丘の頂部を「二の陣地、西頂部」
 2年目の2018年に発見した「二の陣地、西頂部」の先に尾根沿いに「壕道」が続き、その先のエリアには防御陣地があることがわかりました。このエリアを「西方山城遺構」と呼称しておきます。
 ※詳しい報告はこちらでご覧ください。 ⇒ 『湯ノ沢館・西方山城遺構

湯ノ沢館跡と他の山城遺構との位置関係

湯ノ沢館跡と他の山城遺構との位置関係   
  湯ノ沢館跡と他の山城遺構との位置関係
 新青森市史資料編の図面をトレースしました。この図の上(北)に「尻八館跡」、下(南)に「飛鳥山館跡」があります。 ※緑色が山城。青色が居館跡です。
 
 なぜ、湯ノ沢館跡に関する記述が「新青森市史資料編2古代・中世」には、ほとんど見られないのかというと、詳しい調査がされていないからです。「内真部館」と「内真部山城跡」、「前田蝦夷館跡」と「南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ」は新青森市史資料編の編纂のために、調査がされましたが、「湯ノ沢館跡」と「飛鳥山館跡」は未調査です。「湯ノ沢館」は先人の調査により、単郭の山城とされています。
 前田蝦夷館と南方山城遺構をおおよそ把握した後で、湯ノ沢館跡に入り出しました。
 そして、湯ノ沢館跡は、単純な「単郭」ではないことがわかりました。前田蝦夷館と南方山城遺構のように、「曲輪」と自然の丘陵を占地した、軍勢が駐屯できる「陣所」としてのつくりを備えています。さらに、従来「単郭」とされていた山頂部の西側にある山頂部(二の陣地、東頂部)にも切岸と壕道があり、2018年に確認した「二の陣地、西頂部」を含めて広いエリアを山城として使っていました。
 ※青森市教育委員会の山城分布調査が、湯ノ沢館に23.11.18に入ることができました。

湯ノ沢館跡の遺構図

湯ノ沢館跡遺構位置図   
  湯ノ沢館跡遺構位置図
 新青森市史資料編の図面をトレースし、遺構の位置を書き込みました。
  → 麓の壕道エリア
  → 一の陣地エリア
  → 山頂曲輪エリア
  → 二の陣地エリア      ※それぞれの遺構は、この後の項目の説明をご覧ください。リンクしています。
湯ノ沢館跡遺構位置図   
  GPSロガーでの軌跡
  CANMORE GP-101を使って得た軌跡です。周壕が2つあるのがよくわかります。
  ※注意:上図で「北曲輪」と記載していますが、説明文では「山頂曲輪」として扱います。上図での「南曲輪」は「一の陣地、周壕域」として扱います。また、上図で「西側ピークの切岸と壕道」と記している箇所が「二の陣地」の位置を示します。
湯ノ沢館、東側遺構の位置
 湯ノ沢館、東側遺構の位置図 A → 麓の壕道《 エリア(A)》、B → U字形周壕域手前斜面《 エリア(B)・一の陣地》、C → 窪地壕道《 エリア(B)・一の陣地》、D → U字形周壕《 エリア(B)・一の陣地》 、E → 山頂曲輪《 エリア(C)》、F → 二の陣地、東頂部《 エリア(D》。

湯ノ沢館跡の空堀 麓の深壕道 −エリア (A)

 湯ノ沢館跡の特徴の一つが、山裾に空堀(深壕道)を持つことです。内真部城館群の中で、山裾に空堀を持つのはここだけです。
 アプローチで説明したとおり、山を右手に、(小屋を左手に)川を左手にして進むと、用水路を渡って林に入りやすい箇所があります[東口]。林に入ったら山手に進み、正面が山で開ける場所に出ます。そこを左手方向に進むと、深壕道がある箇所にたどり着きます。空堀は二重になっている箇所もあります。空堀はU字を書き山側に曲がりますが、その中を進めば、身体が隠れる程の深さになり、伐採地側に曲がると深さ3~4m程になります。
 このような深い堀は、内真部城館群の中で最大級のものです。
 残念なことに、空堀は伐採の際に一部埋め立てられてしまっています。山頂から続く壕道は林の終点部分から深くなっていき、現在のふもとからの空堀の上側(終端)とつながっていたものと思われます。壕道(空堀)は、「堅堀」のように、斜面を縦方向に分断し、敵の軍勢の移動を制限したことでしょう。
  • 麓壕道の計測値
 上記の壕道の距離を計測しました。壕道の始まりから壕道が伐採のために切れ埋められている終点まで、約85mでした。

湯ノ沢館跡・麓の深壕道
湯ノ沢館跡・麓の深壕道 写真左手方向が車の走れる道。写真正面の林の奥は伐採地。

湯ノ沢館跡・麓の深壕道
湯ノ沢館跡・麓の深壕道 壕道が右から左へと曲がるカーブ。
 
湯ノ沢館跡・麓の深壕道
湯ノ沢館跡・麓の深壕道 写真左手上部が伐採地。壕道のもっとも深いあたりです。

《一の陣地》
  山頂への壕道と斜面−エリアAからB

 (1)U字形周壕域への道
 湯ノ沢館跡のもう一つの特徴が、山頂から続く壕道が山裾まで続いていて、現在でもはっきりしていることです。
 新青森市史資料編2では「館跡から南の山麓に下りる堀道は現在でもはっきり確認できる。」と記述されています。この堀道は、市史史料編に掲載されている地図から、現状の伐採のためにブルドーザーでつけられた作業道から上の部分を指すものでしょう。
 なぜなら、一つは前項の「空堀」を見つけていたなら、史料編に記述しないわけがありません。
 市史史料編に掲載されている地図(図、湯ノ沢館跡と他の山城遺構との位置関係)での東側からの入山路は、かつては、南側斜面のふもとに、現在青森市立北中学校の近くにある「清水天満宮」があり、それに参詣するための道だったと思われます。
 さて、ブルドーザーの作業道を越えて、林に入ると伐採地の西側が尾根すじになっていて、堀道にそって登ります。

 (2)『一の陣地』U字形周壕域手前の斜面
 堀道の右手方向が伐採地ですが、その伐採地の終端近くで林になります。このエリアにも遺構があります。
 「U字形周壕域」へと続く堀道の東側の斜面には、それを縦に切る空堀(広壕道)があります。幅は広く深さはそれほどではありません。斜面に各方面に移動できる道がついています。この領域が敵を迎え撃つ第1次の防御陣となっています。その斜面の頂部は山側面が切岸となり、壕道により断ち切られ、窪地を造っています。その西側から「U字形周壕域」の周壕(一方が開放)が始まります。 

湯ノ沢館・壕道が深くなる箇所
湯ノ沢館・麓に向って壕道が深くなる箇所 背中が山側。麓の空堀に向って深くなっていく箇所

湯ノ沢館跡・山頂へ向かう壕道
湯ノ沢館跡・山頂へ向かう壕道 この辺りは腰ほどの深さです。

湯ノ沢館・U字形周壕域手前の頂部「一の陣地」
湯ノ沢館・U字形周壕域手前の頂部「一の陣地」 この頂部の次が「U字形周壕域」となる。斜面には堀道がいくつもある。

湯ノ沢館・一の陣地の空堀
湯ノ沢館・一の陣地の空堀 斜面にあるもっとも広い壕道

湯ノ沢館・一の陣地の空堀
湯ノ沢館・一の陣地の空堀 空堀の底に入っての写真。空堀は斜面頂部辺りから、現状伐採地の手前傾斜がゆるやかになる所まで続く。

湯ノ沢館・U字形周壕域の周壕が始まる窪地
湯ノ沢館・U字形周壕域の周壕が始まる窪地 頂部の次が窪地となり、左方向に麓からの壕道がある。ここから「U字形周壕域」の周壕として、西方向に曲がり出します。右手方向にも山頂に向かう堀道が続いています。

湯ノ沢館跡・窪地壕道
湯ノ沢館跡・窪地壕道 窪地の谷を横断する壕道は、伐採地を進み対岸の林まで続きます。つまり、斜面を登ってきた者に対して空堀となる。この壕道の林までの長さは約44m。壕道は林の中を尾根すじに向かって進み、尾根道とほぼ合流します。

《一の陣地》
U字形周壕域 −エリア (B)

 「一の陣地」は前述した壕道の北側斜面と、ここで説明する「周壕のようにU字形に構築された領域(U字形周壕域)」とに分かれます。まず、山頂から若干南にある周壕(U字形周壕域)について説明します。
 尾根筋にある堀道は高くなるについて、深くなっていきます。山頂に進むために、堀道から上がり尾根筋を歩いていました。山頂には立木がなく、この箇所は平場になっていて、まるで南方山城遺構Ⅰを狭くしたような感じでした。
 尾根筋に上がらずに、堀道内をどこまでも進むと、南側に左折し、U字形となって回り込みます。そして、堀道の終点=始点は、ぐるっと回って頂にある平場の裏側になりました。つまり、完全に一周はしないが、「?」を裏返した形になっています。
 周壕はおよそ頭が出る位から2m程の深さがある箇所もあり、幅は人二人では通れないくらいです。周堀に囲まれているエリアには横断する浅い堀道がありますが、およそ自然地形です。ここを「U字形周壕域」としておきます。面積は感覚ですが、前田蝦夷館、北と南曲輪を合わせてその2/3位だと感じています。

 周壕に囲まれたエリア(U字形周壕域)は、頂部の平場からゆっくりと下っていきます。そして、北側が高く、南側が低くなっています。
  • U字形周壕域の計測値
 U字形周壕域の周壕の距離を計測しました。麓から続く壕道が周壕として曲がり始める地点から、曲輪の最終部分までの距離は約125mでした。ただし、?(左に90度曲げるとU字形周壕域のイメージ)の切れている部分は、計測していません。
 U字形周壕域の直径は、約40mでした。ただし、後でGPSの軌跡を見たら周壕の直径より短い箇所で計測していることが判明しました。50m程になるものと思います。

湯ノ沢館跡・U字形周壕域の周壕
湯ノ沢館跡・U字形周壕域の周壕 写真右側が平場、左側が麓への斜面。周壕はかなり深く、容易には両岸に出られません。

湯ノ沢館跡・U字形周壕域の周壕 
湯ノ沢館跡・U字形周壕域の周壕 曲輪の下側・南側から回り出した辺り

湯ノ沢館跡・U字形周壕域内の様子
湯ノ沢館跡・U字形周壕域内の様子 U字形周壕域の南端付近。平坦になっている箇所。

湯ノ沢館跡・U字形周壕域内の様子
湯ノ沢館跡・U字形周壕域内の様子 U字形周壕域の中は、自然地形です。

湯ノ沢館跡・U字形周壕域東側窪地の上部斜面
湯ノ沢館跡・U字形周壕域東側窪地の上部斜面 U字形周壕域頂部の平場の下側にある窪地への斜面

湯ノ沢館・U字形周壕域の頂部
湯ノ沢館・U字形周壕域の頂部 平場状になっている。南方向をみている。右方向に進むと周壕があり、起点付近にあたる。写真の左手方向が伐採地となっていて、海が見え、遠くに下北半島の釜伏山を望むことができる。

湯ノ沢館跡 山頂曲輪 − エリア(C)

 エリアC「山頂曲輪」が、従前から認知されていた「単郭」とされてきた周壕のある「曲輪」です。
 湯ノ沢館跡は、前項で説明している「U字形周壕域」の頂部の平場から北西に向って進みます。ここがけっこう広い道になっています。進むと右手方向に山頂と崖状になっている斜面(切り岸)があり、ここが「山頂曲輪」の南側斜面です。その斜面中腹の両側に周壕の入口があります。周壕にたどり着くには、斜面を登るよりも、斜面右手の林を通った方が楽です。 
 別なコースで山頂曲輪の周壕にたどり着く方法を説明します。「U字形周壕域」からの連絡道の伐採地の次にある右手の林に入り尾根筋を歩くと尾根筋を断ち切った形で周壕にあたります。周壕の幅は前項の「U字形周壕域」の周壕より幅広くできています。U字形周壕域の周壕はU字型に掘ってありますが、こちらはL字型で曲輪に登り辛くさせている構造で、前田蝦夷館跡の周壕と同じような造りです。

 湯ノ沢館跡(山頂曲輪)の周壕に囲まれたエリアは、ほぼ自然地形です。人為的に広い平場を作ってはいません。湯ノ沢館の山頂曲輪は、古代(平安時代)に環濠集落だったものを山城として再利用した可能性が、青森市教育委員会の山城分布調査によって指摘されています。

 「山頂曲輪」の崖状斜面の前を通る道は、西に延びていきます。本項で説明しているU字形周壕域から山頂曲輪への道は、広すぎて山城時代のものか、後に造られたものなのかの判断がつきませんでしたが、山城時代の連絡道を林業施業のために古道を整備したもののようです。理由は、山頂曲輪を過ぎるとその道が2つに分かれ、その片方(下側)が壕道になる箇所があるからです。 
  • 山頂曲輪の計測値
 山頂曲輪の周壕の距離を計測しました。山頂正面の崖へ繋がる周壕の端から端までは、約155mありました。双方の周壕入口の距離は約40m(正面崖の部分)でした。山頂曲輪の直径は、約60m(正面崖に対しての平行線)でした。
※U字形周壕域と山頂曲輪の面積としてはさほど変わらない大きさなことがわかりました。
 

湯ノ沢館跡・尾根筋と山頂曲輪を分ける周壕
湯ノ沢館跡・尾根筋と山頂曲輪を分ける周壕  単郭とされる「湯ノ沢館跡」の周壕。右側が曲輪、左側が尾根すじ。周壕内に降りての写真。

湯ノ沢館跡・尾根筋と山頂曲輪を分ける周壕
湯ノ沢館跡・尾根筋と山頂曲輪を分ける周壕  右側が曲輪、左側が尾根すじ。周壕の幅は広い。

湯ノ沢館跡・山頂曲輪周壕と切岸
湯ノ沢館跡・山頂曲輪周壕と切岸  山頂曲輪の東側、切岸がもっとも高い辺り。

湯ノ沢館跡・山頂曲輪内の様子
湯ノ沢館跡・山頂曲輪内の様子 山頂曲輪付近は、植林ではなく自然林。ある程度斜度はあるが平坦になっている。

湯ノ沢館跡・山頂曲輪の西側切岸を上から見る
湯ノ沢館跡・山頂曲輪の西側切岸を上から見る  周壕の終点から、曲輪の西側の切岸。道は中央のスギのさらに下にある。

湯ノ沢館跡・山頂曲輪の南側切岸
湯ノ沢館跡・山頂曲輪の南側切岸 切岸全体の中央あたり。全体はこの3倍以上の広さです。崖状斜面の中腹に、切り岸でできた土を盛って段築のようにして道が付けられている。

湯ノ沢館・山頂曲輪西側正面切岸
湯ノ沢館・山頂曲輪西側正面切岸 写真左上が周壕の起点。切岸の斜度がわかる。

湯ノ沢館・古道壕道
湯ノ沢館・古道壕道 「山頂曲輪」を過ぎて、西ピークに向かう辺り。道は右手の上段にある。

湯ノ沢館・古道と連絡道分岐
湯ノ沢館・古道と連絡道分岐 前方が「山頂曲輪」、後が「西ピーク」。壕道が右手、連絡道が左手。

《二の陣地、東頂部》
 山頂曲輪の西にある遺構 − エリア(D)

 湯ノ沢館跡は、「U字形周壕域」から「山頂曲輪」に向う道を、山頂曲輪を過ぎてもさらに進むことができます。当初、この道を進むと「内真部館跡」方面に下るものと見込んでいました。探索すると、送電線の鉄塔(67番鉄塔)にあたり北に進んでいたつもりが、実は西に向かっていたことがわかりました。この勘違いによって「山頂曲輪の西側遺構」を発見しました。
 山頂山頂曲輪にある頂部の西側には山頂曲輪とほぼ同等の高さの頂部があります。その頂部に向って登る斜面の右手(北側)方向に壕道がありました。その道は頂部を正面から上った後の尾根すじに出ます。その壕道の中央、頂部の東側が切岸になっています。対岸は腰曲輪になっています。この切岸がある箇所は、湯ノ沢館跡の中でもかなりな規模の遺構です。
 自然地形ですが、武者を配置しやすい平場でかつ両岸が崖になっています。頂部からは、切り岸の下をのぞき込めますから、上から敵を叩くことができます。ここを「二の陣地、東頂部」と呼称します。
 さらにこのDエリアの西側に曲輪のような陣地があることがわかりました。前述した送電線67番鉄塔の前の丘頂部を当初「西曲輪」と呼称していましたが、青森市教育委員会の山城分布調査により、陣地扱いが相当となり「二の陣地、西頂部」と呼称します。つまり「二の陣地」は若干離れてはいますが、東頂部と西頂部の二つの丘の周辺にある遺構ということです。
  ⇒ 「湯ノ沢館・二の陣地、西頂部」の報告は別ページで御覧ください。(リンクしています)

湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部正面
湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部正面 右手方向に頂部を半周する壕道と切岸がある。

湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部の壕道
湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部の壕道  写真右側が西頂部。

湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部の壕道
湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部の壕道 浅く掘られている道。左手が頂部。
 
湯ノ沢館跡、二の陣地・東頂部の壕道
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下の切岸  切岸の斜面の状況。

湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下の切岸
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下の切岸  左手が西頂部。切岸の斜面の状況。

湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下切岸と壕道
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下切岸と壕道  中央が壕道。この辺りは道幅が広い。

湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下切岸の反対斜面
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部下切岸の反対斜面  左手が切岸、そして対岸の土塁。土塁の左側は尾根すじで、右側は谷となっている。

湯ノ沢館、二の陣地・東頂部脇壕道が終わり、頂部への斜面
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部脇壕道が終わり、頂部への斜面  中央斜面の左手に壕道がある。つまり、壕道を進み終わりふりかえっている。写真後ろ方向に進むと「二の陣地、西頂部」と西方山城遺構方面。
 
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部から腰曲輪をみる
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部から腰曲輪をみる  写真ではわかりづらいが、中央部分の壕道は尾根すじを掘って造った状況がわかる。
 
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部の頂部
湯ノ沢館、二の陣地・東頂部の頂部  頂部は自然地形ではあるが、平坦で長い。

山頂曲輪から内真部館跡へ向かう道 (内真部館跡への古道)

 青森市史史料編には、「戦前の地図には尾根を下って北の内真部館跡方面へ向かう道も描かれていた。」と書かれてあります。その道が書かれている地図史料を入手できました。
(1)この地図により、まず、ふもとから湯ノ沢館跡に登る道は、本サイトで説明している「山頂に向かう壕道」とほぼ同様なことがわかりました。丘陵の南から入ります。つまり、本サイトに掲載している地図(新青森市史史料編による)の道は東から入るので異なることになります。
(2)そして、内真部館跡に向かう道は「山頂曲輪」から北に向い、ちょうど「内真部館(4)遺跡」(平安時代から鎌倉時代の住居跡が発掘調査によって発見されている。)あたりが登り口となっていました。
 
※「山頂曲輪」の周壕から北に向かう尾根すじを見つけました。山頂曲輪の北斜面はゆるやかに降りていき、伐採地に出ます。そこから尾根すじをたどり麓に降りると「内真部館(4)遺跡のすぐ近くに出ます。県道を挟んで向かい側に「内真部館跡」があります。GPSロガーの軌跡から、ここが古道で間違いないことがわかりました。
 山頂曲輪の周壕から県道までを辿って約600mでした。
・入り口「北口」は、県道2号線「きんせい橋」から約60m手前。北口のすぐ先に林道入口がある。北口のすぐ手前の高台にビニールハウスあり。五所川原方面に向かって左側の道脇の畑付近から山域に入る。

方形居館跡 

 新発見! 方形居館跡が見つかりました。
 令和3年4月17日の調査で飛鳥山館の麓に「方形居館跡」が発見され、次の日18日に今度は瀬戸子館の東尾根の麓にも「方形居館跡」が発見されました。それらの遺構を当日現場にいなかった仲間が後で見たところ、「湯ノ沢館」の麓にも同じ様な遺構があるとして、確認したところ、湯ノ沢館にも方形居館跡があることがわかりました。
 方形居館とは、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士(支配階級層)の住まい、屋敷跡です。
 武家屋敷の形は方形を基調としており、周囲を土塁と空堀で囲むものでした。一般に、鎌倉時代の方形居館の規模は、郡荘地頭が一町四方(109m)であり、湯ノ沢館の方形居館の大きさは、西辺の横(正面・山側)が40m、北辺の縦が29mであり、面積は 40×29=1,160㎡。352坪。1.2反となります。
 湯ノ沢館の方形居館の構造は、敷地の山側(正面・裏側)に土塁が設定されていて、それに合わせて敷地は高めになります。山側の土塁の外側に堀があります。縦辺の南側(正面に向かって左手)にも、土塁と堀があります。縦辺の北側(正面に向かって右手)では、土塁は造られていなく、堀もかすかに跡がある程度です。山側堀は、北が高く南が低く、南角から1/3あたりに上からの小さい沢が合流しているので、春先の水位が高い時期や大雨が降った際には、水が流れただろうと考えられます。正面東側の辺は段築状に一段高くなっていて、その下には堀はなかったようです。段の高さは、およそ90cmです。湯ノ沢館の方形居館跡は、湯ノ沢館山頂(山頂曲輪)からちょうど真東の麓にあります。
 近くにある古代の遺跡としては、「01131-内真部(3)遺跡」(平安:散布地)、「01130-内真部(2)遺跡」(縄文前期、平安:散布地)、「01132-内真部(4)遺跡」(平安:散布地)、があります。
 特に、内真部(4)遺跡は、古代~中世の集落・居館遺蹟で、小面積の発掘調査にかかわらず、多数の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、擦文土器、土師器、中国産青磁・白磁、国産陶器、さらに個体数で約30を数える平泉系の「手づくねかわらけ」を出土して注目された遺跡です。

※青森市教委の山城分布調査では、この湯ノ沢館の方形居館跡は、居館跡もしくは寺院跡の可能性もあると見ています。

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 小友叔雄著の「津軽封内城趾考」青森郷土会出版 昭和18年に、『清水村館趾』が記載されています。
湯ノ沢館の方形居館跡と清水村館趾は同じものである可能性があります。名称は「奈良岡館又は窪館」とされています。
 津軽封内城趾考では清水村館趾を「本藩通観録に清水村館館主奈良岡豊後なり、故に奈良岡館又は窪館と云ふと然れども其沿革詳かならず。」と説明しています。
※本藩通観録(津軽古今通観録)とは、「津輕徧覧日記」(寛政5年に成稿。為信から信明に至る津軽家8代の事蹟を編年体で記載した史書)の抄録ということです。
※奈良岡豊後は、天正三年(1575)夏、為信の大光寺城攻め十勇士とあり、清水村館趾と湯ノ沢館方形居館跡が同じであるとした場合には、戦国時代の居館跡ということになります。
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 ちなみに、津軽封内城趾考では、清水村館趾の説明に、奈良岡豊後は、堤景則の弟で、阿保中務が養子にしたとあります。そして、阿保中務は「為信の大光寺城攻め」で死亡し、その後別に一家を立てたのではないかと記載しています。青森県図書館が刊行した「津軽史」では、阿保中務は天正二年八月大光寺合戦討死とあり、森山内蔵之助信実が阿保中務の遺児と記載されています。そして、その業績に「弘前城築城に当り外浜小国に於いて鉄吹初めしむ」とあります。この森山内蔵之助信実が、青森港を開港するのに尽力した森山弥七郎ということになります。
 清水村館の主だった奈良岡豊後と森山(旧阿保)内蔵之助信実は義兄弟であったということです。両氏とも外浜に深い因縁があったわけです。
 ※阿保中務が戦死した時に弥七郞(内蔵之助の幼名)は二歳、母とともに斎藤掃部介に養われた(中務の妻は掃部介の娘)。
    ※森山内蔵之助信実の長男弥七郞は寛文元年(1661)8月までに内蔵之助を名乗る。その子弥七郞は中師材木奉行であった(国日記、寛文4年10月26日条)。

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方形居館跡 南縦辺 土塁と堀
方形居館跡 南縦辺 土塁と堀 方形居館の堀の中では、南縦辺の堀がもっとも深い。

方形居館跡 山側南角 土塁と堀
方形居館跡 山側南角 土塁と堀 南縦辺の堀と正面山側の堀が交わっている角。

方形居館跡 正面山側南角 土塁と堀
方形居館跡 正面山側南角 土塁と堀 正面山側の堀に、山からの小さい沢注ぎ込んでいる。写真の大きな葉は、水芭蕉が成長したもの。

方形居館跡 正面山側北側 土塁と堀
方形居館跡 正面山側北側 土塁と堀 正面山側の堀は、北から南へ流れるようになっている。

方形居館跡 敷地内
方形居館跡 敷地内 写真正面が東方向(海)となっている。
  
安藤氏山城群の方形居館3箇所 位置図
安藤氏山城群の方形居館3箇所 位置図
方形居館は、飛鳥山館・瀬戸子館・湯ノ沢館で発見されました。図をクリックすると拡大図が表示されます。

湯ノ沢館、東側遺構の位置

 GPSロガー「CANMORE GP-101」を使って、壕道のある箇所、遺構のある箇所を表示します。※緑色は壕道で、赤色は連絡路です。上部でU字形周壕域と山頂曲輪の位置を示した「GPSロガーでの軌跡」は一筆書き (行程を区切らずに歩く)で得た軌跡でした。下図は、道と壕道ごとに区切って得た軌跡を合成したものです。図はクリックすると大きく表示します。 
湯ノ沢館跡、東側遺構位置図   
  湯ノ沢館跡、東側遺構位置図
(A)東口近くにある「麓の壕道」 (B)U字形周壕域手前の斜面「一の陣地」にある「大きな壕道(空堀)」 (C)U字形周壕域手前の窪地から山頂曲輪方面へと延びる壕道 (D)U字形周壕域の周壕 (E)山頂曲輪の周壕 (F)二の陣地、東頂部脇の壕道 ← クリックすると関連する写真・説明にジャンプします。

※湯ノ沢館の「二の陣地、西頂部」は掲載ページの関係で示していません。湯ノ沢館西方山城遺構のページでご確認ください。
湯ノ沢館跡は次のページに続きます。 ⇒ 湯ノ沢館西方山城遺構

内真部館城館群のできた時代

 青森市史史料編には、これらの城館は、「安藤氏の乱」もしくは「南北朝時代」に造られたものだろうと書かれています。
 私は「安藤氏の乱」の前半、戦が拡大した時期から鎌倉幕府によって、安藤氏に対しての「蝦夷管領=蝦夷沙汰代官職」が季長(西浜拠点)から季久(外浜拠点)に変えられた時期までの間がもっとも可能性が高いと考えています。
 つまり、次の時期です。元享2年(1322)「惣領安藤又太郎季長とその従兄弟五郎三郎季久が対立する」~正中3年(1326)年「得宗御内人、工藤貞祐が「蝦夷征伐」のため鎌倉を進発、西浜で合戦」
 幕府の裁定が下ってからは、季長を討伐する軍勢が送られているため、主戦場は岩木川の西側に移っていきます。この時期からは内真部の各城に手をかける必要が薄くなるからです。
 市史史料編には、これら山城に対して、よく「急ごしらえではあるものの」という言葉がでますが、例えば、南方山城遺構Ⅰから南に下る斜面に段築がありますが、その造りはゆるいものです。ある時期にこれ以上造り込む必要がなくなったことを表しているのではないかと考えます。
 居城である「内真部館跡」の後方・山側=西側に位置する「内真部山城跡」は、居館とセットで造られたことでしょう。「湯ノ沢館跡」と「前田蝦夷館跡・南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ」を比較すると、湯ノ沢館跡が居館に近く、前田蝦夷館跡が敵の西浜に近い位置です。湯ノ沢館跡は麓から曲輪までの距離があり、かつ地形が前田蝦夷館に比べて単純です。「山城の造作」も湯ノ沢館の方が単純です。前田蝦夷館跡の方は地形が複雑であり、かつ軍勢を置くことのできる平場に事欠きません。攻め手には困難であり、守る側にとっても、退却も進軍も容易です。
 これらのことから、私は先に湯ノ沢館山城を造り、そのノウハウを盛り込んで、前田蝦夷館・南方山城を造ったのだろうと考えています。
※新青森市史 資料編2 古代・中世

 ⇒「安藤氏の乱」についてのまとめはこちら

 ⇒ 「安藤氏の歴史年表と人物伝」は、こちら!
 
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 前田蝦夷館跡 - 南方山城遺構 - 西方山城遺構 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊


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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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