詩について学ぶ
★詩論メモ(自己HPより)
①ピエール・ジャン・ジューブ(1887~1976)[鏡の中]
詩は唯名論的能力を有してはいるが、詩の意味には常にある種の神秘が付き纏う。
詩人であれば規律に尽くすべき義務がある。
※ 唯名論・・・中世スコラ哲学の普遍論争における考え方の一。
概念的思惟の対象たる普遍を個物に先立つ実在とみる実念論に対して、個物こそが実在であり普遍とは単に物のあとにある<名称にすぎないとする。近世哲学の先駆となる。代表者はオッカムなど。ノミナリズム。名目論。
恋愛同様詩もまた秘められたタブーに従うものである。
詩は稀にしか存在しない。詩は言語の高いレベルの表現である。
記憶の果実たるイマージュによって潜在的な世界全体を、宇宙をその腕に抱きつつーーー詩は語という、複雑な意味を既に担い、実際に存在するもののうちの不確かな量に触れる記号、この上に成り立っているのだ。
詩は、物を創りだすという語の持つ不可思議な能力の上に成り立っているのだ。
創造と神秘とが詩の宝をなすのである。
詩は意味の有機体と考えなければならない。
一つの詩を他の詩に還元することは不可能だが、すべての詩が驚くべき程似通った或る共通の領域に達していることも事実である。
詩句の技巧は厳密な意味で識別不能である。「詩法」とは規律である。
韻律法の諸規則は時代時代の一時的な手法、一国の言語にしか関わらぬ道標しか表してはいない。
創造、神秘、美、そして大地に根を下ろすことだ。
②ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~1882)
詩を作るものは、韻律ではなく、韻律のもとになる思想、------たとえば植物や動物の精気のように、おのれ独自の建築様式をそなえ、自然を新しいもので飾るほど、情熱と活力にみなぎる想念だからだ。
③フリードリヒ・シュレーゲル(1772~1829)[ロマン派文学論(断片116)]
シュレーゲルは狭義の詩論ではなく、全ての文学ジャンルの総合を目指していた。
一編の作品の全ての輪郭が鋭く限界付けられ、しかもその限界がなく無尽蔵に豊かであるならば、そしてみずからにこのうえなく忠実で・・・しかもみずからをはるかに超えているならば、そのときその作品は完成している一編の作品は常にその内部にその作品自体に対する批評を内蔵し、自己を相対化し続けなければならない。そのことによって一編の作品は、つまり一編の詩は、みずからを超越する。
ロマン主義文学は、発展的普遍的文学である。永遠に生成し続けていて決して完成することがありえないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。したがっていかなる理論によっても分析し尽くすことはできない。予見的批評のみが、その理想型の特性描写をあえて企てることを許されるであろう。
芸術のさまざまな形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモールのはばたきによって生動せしめんとするものである。
いかなる実在的関心にも理念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼にのって、描写された対象と描写する主体との中間に漂い、この反省を次々に累乗して合わせ鏡のなかに並ぶ無限の像のように重ねてゆくことができる。
ロマン主義文学は、もっとも高度にしてもっとも多様な形成を可能ならしめる。しかも、単に内から外へ向かってのみならず、外部から内へ向かってもである。
作品はそれぞれにひとつのまとまった全体でなければならないのであるが、そのひとつひとつのあらゆる部分は、同じように有機的に組織され、そのことによってロマン主義文学には、限りなく展開してゆく古典性への眺望が開かれる。
④ウイリアム・ブレイク(1757-1827)
悟性の眼には隠されているが宗教的理性の眼には開かれている寓話(アレゴリー)、私が考える詩の最高の定義とはこのようなものだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0742.html
http://www.longtail.co.jp/sise/nf.html
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/B/Blake/Blake.htm
⑤ウイリアム・ワーズワス(1770~1850)[抒情歌謡集]
詩を、人間の本質的かつ永続的な思想感情の表現とするため
[1] 題材を田舎の人々の平常な生活にもとめること(18C流行の都会の裕福な階級の生活やセンセーショナルな事件に求めない) ・・我々の基本的な感情はいっそう素朴な状態で存続するために、いっそう正確に観察され、いっそう力強く伝達されうる。そういう環境においてこそ、人間の情熱は美しく恒久的な自然の姿と一体になっている。
[2] 田舎の素朴な人々が実際の会話に使っている言葉を用いる(当世紀英詩特有の「詩語」や擬人法を避ける) ・・この人々は、最善の言葉が派生する源である最善の事物と常に交わっているからである。社交上の虚栄心に動かされずに、自分たちの情感や考えを素朴で飾りの無い表現で表すからである。
詩とは次のものではない
A.いたずらに感情を揺さぶるような外的事件の感動に発するもの
B.哲学的真理や教訓を説くもの
C。社会や人物の風刺を狙うもの
詩作の根本的動機は「詩人が感動状態にあるときの、その心の動きを力強く表現すること」である。
(それが以後の英詩の重要な底流の一つとなった)
http://www.hamajima.co.jp/osa/koten/england.shtml
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/4174/poetry-log/poetry-wordsworth.htm
詩において私が企てた主要な目的は、生活の出来事のなかに、これ見よがしにでなしに真実に即して、そして主としてわれわれが感動状態にあるときの観念の連想の仕方に見られる人間性の根源的な法則をたどり、それによって、それらによって、それらの出来事を興味深いものにすることであった。
詩とは力強い感情がおのずから溢れ出たものだ。そして詩は、静かな気持ちでいるときに思い起こされた情緒に発する。
詩人たるものは、自然の教えに習って、読者に対してどんな強い感情を伝えるにしても、その読者の心が健全で活力に満ちている場合には、その感情には常にその感情を上回る喜びが伴うよう、特に注意すべきなのである。
その喜びこそが、深い激情の力強い描写に必ず入り混じる苦痛を和らげるのに最も重要な働きをするのである。この効果は哀切で情熱的な詩にいつも生み出される。
散文と韻文という二種類の描写が、それぞれ見事な出来栄えを示しているときは、散文の一回に対し詩の方は百回も読まれるであろう。
⑥ミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)
笑いは非日常性への橋渡しの役目を表し、おどろきも伴う。
日常生活という至高の現実の相対化であり、経験的世界を越えさせてゆく。
詩の精神世界は純然たる邪教と言うか、寧ろ純然たる異端の世界である。
本物の詩人は皆異端者である。そして異端者とは、事前の訓え(プレセプト)ではなく事後の訓え(ポストセプト)で、前提ではなく結果で、勅令と教義ではなく創造と詩歌で、よしとする者である。
何故なら、詩歌は事後の訓え(ポストセプト)の問題であり、教義は事前の訓え(プレセプト)の問題だから。
⑦アンリ・ミショー(1899~1984)
僕は詩の作り方を知らない。自分を詩人だとは思わない。
僕は詩歌の中に特に詩を見出すことはない。こんなことを言うのは僕が最初ではないのだ。
詩は、それを恍惚と呼ぼうが、発明、音楽と呼ぼうが、常に、どんなジャンルにも見つかる 予測不能なものであり、忽然たる世界の拡大である。
詩の密度は、一幅の絵、一枚の写真、一見のあばら家において一層濃密なことだってあるのだ。
詩歌で腹立たしく不愉快なのは、自己陶酔と瞑想三昧(という二つの袋小路)、あの退屈な自己欺瞞、そして最後に一番たちの悪いのがわざとらしさである。
そもそも詩は自然の贈り物、恩寵であって、仕事ではない。
詩歌を作ろうとする野心だけで、詩歌を殺すに充分なのだ。
悪魔祓い、つまり破壊槌による必死の反発、これは囚人の本当の詩である。
⑧ャン・モレアス(1856~1910)
教訓、美辞麗句、偽りの感性、客観的叙述、こうしたものの敵である象徴詩の目指すところは、観念を感覚に訴える形式で覆うことにある。感覚に訴える形式といっても、それはしかし象徴詩そのものの目的ではなくて、観念を表してはいるが題材であることに変わりはない。
一方観念はどうかといえば、外部からの類推を断ち切った姿を露呈してはならない。
何故なら、象徴芸術の本質をなす性格は、観念そのものの概念にまで行くことはけっしてないということに存するからだ。様々な現象は、目に見える外観でしかなく、それも根底にある観念との秘められた血縁関係を表すべき宿命にある。
⑨マルティン・ハイデガー(1889~1976)
詩において・・・人は己の人間的現実の奥底に沈潜する。
人はそこで心の平安に赴く。
しかしこれは断じて無為とか思考の欠落といった偽りの平安ではない。
すべての活力とすべての関係が躍動する無限の平安である。
詩は、我々が己の居処と心得て安心しているあの騒が触知可能な現実に対し、夢と非現実の出現を呼び起こす。
ところが事は正反対で、現実的なのは、詩人が言うこと、詩人が在ると認めることなのである。
★「詩とはなにか」吉本隆明著
メモ[1]
詩とはなにか(「詩学」1961年7月号)
自覚的な詩作へ(P8~P12.3)
著者にとって、「詩にほんとうのことを吐き出すというのは現実上の抑圧を、詩をかくことで観念的に一時的に解消することを意味している」。
著者の詩の体験にとって「詩とは何か」(P12.4~P13.9)
詩は内発的なこころから生じ、批評文は事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に反応するものであるが、ほんとのことを吐き出してきたことには変わりない。
萩原朔太郎「詩の原理」を引用して(P13.10~P14.5)
著者は、萩原朔太郎「詩の原理」を引用しているが、「本質論」については、下記私のHPに掲載のとおりである。
http://heine.xxxxxxxx.jp/
詩人論の課題・詩論の課題(P14.6~P14.終)
朔太郎「現在しないものへの憧憬」=「現在しえないものへの憧憬」著者。
詩人論:絶望した生活者としての『氷島』の詩人の思想
詩 論:詩をかくというこころの状態において、だれもが感ずる現実との隔離感
(注)下記--萩原朔太郎著「氷島」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/4869_14066.html
「氷島」要点。Re: 詩人論の課題・詩論の課題(P14.6~P14.終)
「氷島」の自序の中に、自分の詩作についての考え方が掲載されていると思う。が、吉本は詩人論として、より客観的に朔太郎の詩作態度を検証してゆく意図があるのかもしれない。
※ 文中の朱色は私が入れたものである。
http://heine.xxxxxxxx.jp/hyoutou.htm
メモ[2]
中村光夫著「小説入門」引用部分の整理(P15.1~P15.7)
①詩は肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持つ。
②そのために言語をその日常性社会性からできるだけ解放することを目指す。
ヴァレリー「文学論」引用部分の整理(P15.13~P16.4)
①詩は、節調のある言語によって、叫び、涙、接吻、歎息等が暗々裡に表現しようとし、または再現しようとする試みである。
②詩は、節調のある言語によって、物体がその外見上の生命或いは仮想された意志によって表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを表現しまたは再現しようとする試みである。
吉本の見解(P15.8~P16.7)
ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうことによる禁圧による破瓜症の状態においては、たえず何ごとかが口からつぶやかれる。そのことにおいては、ヴァレリーと中村光夫とはほぼ等しい地点にたっている。
叫び声が人間と現実との関係に介在するとすれば、詩をこれに結びつけるのは、ひとつの見解である。
マルティン・ハイデガー著「ヘルダーリンと詩の本質」引用部分の整理(P16.10~P17.3)
人間の現存在はその根拠に於いて「詩人的」である。
①詩人として住むとは神々の現在のうちに立ち事物の本質の近みによって迫られることである。
②現存は建設せられたものとしてなんらかのいさをしではなく賜物である。
③詩は歴史を担う根拠である。
④詩は、文化現象とか「文化精神」の単なる「表現」などではない。
吉本の翻訳。Re: マルティン・ハイデガー著「ヘルダーリンと詩の本質」引用部分の整理(P17.4~P17.10)
言うべきほんとのことをもって生きるということは、本質的にいえば個々の詩人の恣意ではなく、人間の社会における存在の仕方の本質に由来するもの、つまり、ほんとのことを持つ根拠は、人間の歴史とともに根ぶかい理由をもつものである
メモ[3]
三者(朔太郎・中村・ハイデガー)の詩観に脈絡をつける①(P17.11~P20.3)
詩の本質はまったくちがった部分に脈絡をつけることができる場所からしか視えない。
詩は一本の花とちがってわたしたちの意識の外化されたものとしてある
(文学の党派性などという架空のものとは似ても似つかない)。
「ほんとのこと」を口に出したいとかんがえるとき、じぶんをこの社会の局外にたたせている。それは幻想的態度であるがゆえに社会の慣習の淘汰によっては消滅しない。
幻想的態度とじっさい的態度のあいだが、現実社会からわたしたちが何かをつかみだす場所である。
三者(朔太郎・中村・ハイデガー)の詩観に脈絡をつける②(P17.3~P20.終)
「ほんとうのこと」は性格に由来する妄想にすぎないかもしれないが、その性格は遡った歴史的環境から自らがつかみだしたものである。
別の問題
①ほんとうのことを口に出せば、世界は凍ってしまうという妄想を自分がもつこと
②その妄想を詩にかくことでその都度消滅させること
(妄想は詩をかくものに固有なものではない)
詩の全体へ接近するために[吉本](P21.1~P21.8)
詩人がそれぞれの仕方で現実から禁圧されていることと、詩をかくことまたはかかれた詩とを一元的にむすびつけているのは、詩をかくということを主体的にうけとめるかぎりやむをえない。
吉本は、上記端緒をめぐる問題から、詩の実情況へはいっていき、その過程で、いく度も、詩の本質とは何かへ立ちかえり、はっきりした仕方で詩の全体へ接近しなければならないと決意を述べている。
詩の発生の研究 折口信夫「国文学の発生」(第1稿)①(P21.10~P22.1)
吉本は「詩の本質をたずねるには、発生の極小条件をみるのが有利であるとし、折口信夫の書↓を取り上げる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/43764_18094.html
國文學の發生
http://futoshi.amigasa.jp/origuchi.htm
メモ[4]
折口信夫の信仰起源説(P22.11~P24.7)
吉本は、折口説に「文学。芸術が人間の意識の自己表現に発したという面を、一貫して立証している」ところを評価している。
文学発生
○ 人間の意識の自己表出された態様
○ ある一つの種族間の意識体験は、共通の意識体験を抽出してゆく。
○ 人(みこ)神に憑いて、種族の共通の意識体験を表現する。
折口信夫の抒情詩の起源(P24.8~P25.6)
呪言(よごと)の中のことばが、叙事詩(ものがたり)の抒情部分(うた)を発生させた。
つまり、抒情部分(うた)は、呪言(よごと)を通して、叙事詩(ものがたり)より脱落することによって宮廷詩等の独立した形態となったのである。
上述に関する吉本の見解(P25.7~P26.1)
① 古代人の意識の自己表出が神の口として、叙事詩として語られた。
② 叙事詩の物語性が、(さらに)自発的な表出力の面で抽出されたところに抒情詩が生まれた。
ここに金太郎飴の切り口(断面)をみることができる。
その層面こそが、詩としての詩の本質を示唆するものである。
金太郎飴の層面、それは「意識の自発的な表出性」である。
折口信夫の「万葉集の解題」より叙景詩について(P26.1~P26.終)
神武天皇の后いすけより媛が天皇崩御の後作られた二首は、真の叙景詩ではない。
昔の人は、大体の気分があるのみで、何を歌はうというはっきりした予定が、初めからあるのではない。でたらめの序歌によって、自分の思想をまとめていった。即、神の告げと同様であった。
つまり、折口は、この時代の叙景詩は、叙事詩と同じようなやり方で、叙景詩を作っていったと見ているようである。
万葉集の解題
上記(叙景詩)に関する吉本の見解(P27.1~P28.12)
① 古代人の叙景では、対象は選ばれるよりも眼にふれた手近なものがうたわれ、うたわれながら感情をひき出した。
② このような手近な景物をうたうことが、宗教的自己疎外に似たものであった。
(シュールレアリズムと同じような忘我の状態が触目の景色によって表出され、しだいに、芸術的な意識の自己表出となって結晶し、おわる。)
折口説のとおり、古代の祭式が劇をうみ詩をうみ、音楽をうみ舞踏をうんだことは、疑う余地はない。
ただ、吉本は問題点として、宗教的な表現と芸術的な表現が二重にうつされねばならないところを、折口説が、信仰起源を固定化し、普遍化しすぎていることを指摘する。吉本は、神憑りがないばあいでも、意識の状態としては神憑りと共通性をもつ芸術的な表出を可能ならしめる、とする。そして、信仰と詩とは分離し、詩としての詩が発生する、としている。つまり、折口学説を信仰に封じこめないで、意識の自己表現として普遍化すれば、画期的なひとつの学説とすることができる、とする。
そうすることによって、吉本はヴァレリー、ハイデガー、中村光夫の各説(メモ2)にも共通する詩の本性(詩が意識の自己表現としての面で純化されるという性質)を見いだそうとしている。
メモ2
http://futoshi.amigasa.jp/memo2.htm
①ピエール・ジャン・ジューブ(1887~1976)[鏡の中]
詩は唯名論的能力を有してはいるが、詩の意味には常にある種の神秘が付き纏う。
詩人であれば規律に尽くすべき義務がある。
※ 唯名論・・・中世スコラ哲学の普遍論争における考え方の一。
概念的思惟の対象たる普遍を個物に先立つ実在とみる実念論に対して、個物こそが実在であり普遍とは単に物のあとにある<名称にすぎないとする。近世哲学の先駆となる。代表者はオッカムなど。ノミナリズム。名目論。
恋愛同様詩もまた秘められたタブーに従うものである。
詩は稀にしか存在しない。詩は言語の高いレベルの表現である。
記憶の果実たるイマージュによって潜在的な世界全体を、宇宙をその腕に抱きつつーーー詩は語という、複雑な意味を既に担い、実際に存在するもののうちの不確かな量に触れる記号、この上に成り立っているのだ。
詩は、物を創りだすという語の持つ不可思議な能力の上に成り立っているのだ。
創造と神秘とが詩の宝をなすのである。
詩は意味の有機体と考えなければならない。
一つの詩を他の詩に還元することは不可能だが、すべての詩が驚くべき程似通った或る共通の領域に達していることも事実である。
詩句の技巧は厳密な意味で識別不能である。「詩法」とは規律である。
韻律法の諸規則は時代時代の一時的な手法、一国の言語にしか関わらぬ道標しか表してはいない。
創造、神秘、美、そして大地に根を下ろすことだ。
②ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~1882)
詩を作るものは、韻律ではなく、韻律のもとになる思想、------たとえば植物や動物の精気のように、おのれ独自の建築様式をそなえ、自然を新しいもので飾るほど、情熱と活力にみなぎる想念だからだ。
③フリードリヒ・シュレーゲル(1772~1829)[ロマン派文学論(断片116)]
シュレーゲルは狭義の詩論ではなく、全ての文学ジャンルの総合を目指していた。
一編の作品の全ての輪郭が鋭く限界付けられ、しかもその限界がなく無尽蔵に豊かであるならば、そしてみずからにこのうえなく忠実で・・・しかもみずからをはるかに超えているならば、そのときその作品は完成している一編の作品は常にその内部にその作品自体に対する批評を内蔵し、自己を相対化し続けなければならない。そのことによって一編の作品は、つまり一編の詩は、みずからを超越する。
ロマン主義文学は、発展的普遍的文学である。永遠に生成し続けていて決して完成することがありえないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。したがっていかなる理論によっても分析し尽くすことはできない。予見的批評のみが、その理想型の特性描写をあえて企てることを許されるであろう。
芸術のさまざまな形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモールのはばたきによって生動せしめんとするものである。
いかなる実在的関心にも理念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼にのって、描写された対象と描写する主体との中間に漂い、この反省を次々に累乗して合わせ鏡のなかに並ぶ無限の像のように重ねてゆくことができる。
ロマン主義文学は、もっとも高度にしてもっとも多様な形成を可能ならしめる。しかも、単に内から外へ向かってのみならず、外部から内へ向かってもである。
作品はそれぞれにひとつのまとまった全体でなければならないのであるが、そのひとつひとつのあらゆる部分は、同じように有機的に組織され、そのことによってロマン主義文学には、限りなく展開してゆく古典性への眺望が開かれる。
④ウイリアム・ブレイク(1757-1827)
悟性の眼には隠されているが宗教的理性の眼には開かれている寓話(アレゴリー)、私が考える詩の最高の定義とはこのようなものだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0742.html
http://www.longtail.co.jp/sise/nf.html
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/B/Blake/Blake.htm
⑤ウイリアム・ワーズワス(1770~1850)[抒情歌謡集]
詩を、人間の本質的かつ永続的な思想感情の表現とするため
[1] 題材を田舎の人々の平常な生活にもとめること(18C流行の都会の裕福な階級の生活やセンセーショナルな事件に求めない) ・・我々の基本的な感情はいっそう素朴な状態で存続するために、いっそう正確に観察され、いっそう力強く伝達されうる。そういう環境においてこそ、人間の情熱は美しく恒久的な自然の姿と一体になっている。
[2] 田舎の素朴な人々が実際の会話に使っている言葉を用いる(当世紀英詩特有の「詩語」や擬人法を避ける) ・・この人々は、最善の言葉が派生する源である最善の事物と常に交わっているからである。社交上の虚栄心に動かされずに、自分たちの情感や考えを素朴で飾りの無い表現で表すからである。
詩とは次のものではない
A.いたずらに感情を揺さぶるような外的事件の感動に発するもの
B.哲学的真理や教訓を説くもの
C。社会や人物の風刺を狙うもの
詩作の根本的動機は「詩人が感動状態にあるときの、その心の動きを力強く表現すること」である。
(それが以後の英詩の重要な底流の一つとなった)
http://www.hamajima.co.jp/osa/koten/england.shtml
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/4174/poetry-log/poetry-wordsworth.htm
詩において私が企てた主要な目的は、生活の出来事のなかに、これ見よがしにでなしに真実に即して、そして主としてわれわれが感動状態にあるときの観念の連想の仕方に見られる人間性の根源的な法則をたどり、それによって、それらによって、それらの出来事を興味深いものにすることであった。
詩とは力強い感情がおのずから溢れ出たものだ。そして詩は、静かな気持ちでいるときに思い起こされた情緒に発する。
詩人たるものは、自然の教えに習って、読者に対してどんな強い感情を伝えるにしても、その読者の心が健全で活力に満ちている場合には、その感情には常にその感情を上回る喜びが伴うよう、特に注意すべきなのである。
その喜びこそが、深い激情の力強い描写に必ず入り混じる苦痛を和らげるのに最も重要な働きをするのである。この効果は哀切で情熱的な詩にいつも生み出される。
散文と韻文という二種類の描写が、それぞれ見事な出来栄えを示しているときは、散文の一回に対し詩の方は百回も読まれるであろう。
⑥ミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)
笑いは非日常性への橋渡しの役目を表し、おどろきも伴う。
日常生活という至高の現実の相対化であり、経験的世界を越えさせてゆく。
詩の精神世界は純然たる邪教と言うか、寧ろ純然たる異端の世界である。
本物の詩人は皆異端者である。そして異端者とは、事前の訓え(プレセプト)ではなく事後の訓え(ポストセプト)で、前提ではなく結果で、勅令と教義ではなく創造と詩歌で、よしとする者である。
何故なら、詩歌は事後の訓え(ポストセプト)の問題であり、教義は事前の訓え(プレセプト)の問題だから。
⑦アンリ・ミショー(1899~1984)
僕は詩の作り方を知らない。自分を詩人だとは思わない。
僕は詩歌の中に特に詩を見出すことはない。こんなことを言うのは僕が最初ではないのだ。
詩は、それを恍惚と呼ぼうが、発明、音楽と呼ぼうが、常に、どんなジャンルにも見つかる 予測不能なものであり、忽然たる世界の拡大である。
詩の密度は、一幅の絵、一枚の写真、一見のあばら家において一層濃密なことだってあるのだ。
詩歌で腹立たしく不愉快なのは、自己陶酔と瞑想三昧(という二つの袋小路)、あの退屈な自己欺瞞、そして最後に一番たちの悪いのがわざとらしさである。
そもそも詩は自然の贈り物、恩寵であって、仕事ではない。
詩歌を作ろうとする野心だけで、詩歌を殺すに充分なのだ。
悪魔祓い、つまり破壊槌による必死の反発、これは囚人の本当の詩である。
⑧ャン・モレアス(1856~1910)
教訓、美辞麗句、偽りの感性、客観的叙述、こうしたものの敵である象徴詩の目指すところは、観念を感覚に訴える形式で覆うことにある。感覚に訴える形式といっても、それはしかし象徴詩そのものの目的ではなくて、観念を表してはいるが題材であることに変わりはない。
一方観念はどうかといえば、外部からの類推を断ち切った姿を露呈してはならない。
何故なら、象徴芸術の本質をなす性格は、観念そのものの概念にまで行くことはけっしてないということに存するからだ。様々な現象は、目に見える外観でしかなく、それも根底にある観念との秘められた血縁関係を表すべき宿命にある。
⑨マルティン・ハイデガー(1889~1976)
詩において・・・人は己の人間的現実の奥底に沈潜する。
人はそこで心の平安に赴く。
しかしこれは断じて無為とか思考の欠落といった偽りの平安ではない。
すべての活力とすべての関係が躍動する無限の平安である。
詩は、我々が己の居処と心得て安心しているあの騒が触知可能な現実に対し、夢と非現実の出現を呼び起こす。
ところが事は正反対で、現実的なのは、詩人が言うこと、詩人が在ると認めることなのである。
★「詩とはなにか」吉本隆明著
メモ[1]
詩とはなにか(「詩学」1961年7月号)
自覚的な詩作へ(P8~P12.3)
著者にとって、「詩にほんとうのことを吐き出すというのは現実上の抑圧を、詩をかくことで観念的に一時的に解消することを意味している」。
著者の詩の体験にとって「詩とは何か」(P12.4~P13.9)
詩は内発的なこころから生じ、批評文は事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に反応するものであるが、ほんとのことを吐き出してきたことには変わりない。
萩原朔太郎「詩の原理」を引用して(P13.10~P14.5)
著者は、萩原朔太郎「詩の原理」を引用しているが、「本質論」については、下記私のHPに掲載のとおりである。
http://heine.xxxxxxxx.jp/
詩人論の課題・詩論の課題(P14.6~P14.終)
朔太郎「現在しないものへの憧憬」=「現在しえないものへの憧憬」著者。
詩人論:絶望した生活者としての『氷島』の詩人の思想
詩 論:詩をかくというこころの状態において、だれもが感ずる現実との隔離感
(注)下記--萩原朔太郎著「氷島」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/4869_14066.html
「氷島」要点。Re: 詩人論の課題・詩論の課題(P14.6~P14.終)
「氷島」の自序の中に、自分の詩作についての考え方が掲載されていると思う。が、吉本は詩人論として、より客観的に朔太郎の詩作態度を検証してゆく意図があるのかもしれない。
※ 文中の朱色は私が入れたものである。
http://heine.xxxxxxxx.jp/hyoutou.htm
メモ[2]
中村光夫著「小説入門」引用部分の整理(P15.1~P15.7)
①詩は肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持つ。
②そのために言語をその日常性社会性からできるだけ解放することを目指す。
ヴァレリー「文学論」引用部分の整理(P15.13~P16.4)
①詩は、節調のある言語によって、叫び、涙、接吻、歎息等が暗々裡に表現しようとし、または再現しようとする試みである。
②詩は、節調のある言語によって、物体がその外見上の生命或いは仮想された意志によって表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを表現しまたは再現しようとする試みである。
吉本の見解(P15.8~P16.7)
ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうことによる禁圧による破瓜症の状態においては、たえず何ごとかが口からつぶやかれる。そのことにおいては、ヴァレリーと中村光夫とはほぼ等しい地点にたっている。
叫び声が人間と現実との関係に介在するとすれば、詩をこれに結びつけるのは、ひとつの見解である。
マルティン・ハイデガー著「ヘルダーリンと詩の本質」引用部分の整理(P16.10~P17.3)
人間の現存在はその根拠に於いて「詩人的」である。
①詩人として住むとは神々の現在のうちに立ち事物の本質の近みによって迫られることである。
②現存は建設せられたものとしてなんらかのいさをしではなく賜物である。
③詩は歴史を担う根拠である。
④詩は、文化現象とか「文化精神」の単なる「表現」などではない。
吉本の翻訳。Re: マルティン・ハイデガー著「ヘルダーリンと詩の本質」引用部分の整理(P17.4~P17.10)
言うべきほんとのことをもって生きるということは、本質的にいえば個々の詩人の恣意ではなく、人間の社会における存在の仕方の本質に由来するもの、つまり、ほんとのことを持つ根拠は、人間の歴史とともに根ぶかい理由をもつものである
メモ[3]
三者(朔太郎・中村・ハイデガー)の詩観に脈絡をつける①(P17.11~P20.3)
詩の本質はまったくちがった部分に脈絡をつけることができる場所からしか視えない。
詩は一本の花とちがってわたしたちの意識の外化されたものとしてある
(文学の党派性などという架空のものとは似ても似つかない)。
「ほんとのこと」を口に出したいとかんがえるとき、じぶんをこの社会の局外にたたせている。それは幻想的態度であるがゆえに社会の慣習の淘汰によっては消滅しない。
幻想的態度とじっさい的態度のあいだが、現実社会からわたしたちが何かをつかみだす場所である。
三者(朔太郎・中村・ハイデガー)の詩観に脈絡をつける②(P17.3~P20.終)
「ほんとうのこと」は性格に由来する妄想にすぎないかもしれないが、その性格は遡った歴史的環境から自らがつかみだしたものである。
別の問題
①ほんとうのことを口に出せば、世界は凍ってしまうという妄想を自分がもつこと
②その妄想を詩にかくことでその都度消滅させること
(妄想は詩をかくものに固有なものではない)
詩の全体へ接近するために[吉本](P21.1~P21.8)
詩人がそれぞれの仕方で現実から禁圧されていることと、詩をかくことまたはかかれた詩とを一元的にむすびつけているのは、詩をかくということを主体的にうけとめるかぎりやむをえない。
吉本は、上記端緒をめぐる問題から、詩の実情況へはいっていき、その過程で、いく度も、詩の本質とは何かへ立ちかえり、はっきりした仕方で詩の全体へ接近しなければならないと決意を述べている。
詩の発生の研究 折口信夫「国文学の発生」(第1稿)①(P21.10~P22.1)
吉本は「詩の本質をたずねるには、発生の極小条件をみるのが有利であるとし、折口信夫の書↓を取り上げる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/43764_18094.html
國文學の發生
http://futoshi.amigasa.jp/origuchi.htm
メモ[4]
折口信夫の信仰起源説(P22.11~P24.7)
吉本は、折口説に「文学。芸術が人間の意識の自己表現に発したという面を、一貫して立証している」ところを評価している。
文学発生
○ 人間の意識の自己表出された態様
○ ある一つの種族間の意識体験は、共通の意識体験を抽出してゆく。
○ 人(みこ)神に憑いて、種族の共通の意識体験を表現する。
折口信夫の抒情詩の起源(P24.8~P25.6)
呪言(よごと)の中のことばが、叙事詩(ものがたり)の抒情部分(うた)を発生させた。
つまり、抒情部分(うた)は、呪言(よごと)を通して、叙事詩(ものがたり)より脱落することによって宮廷詩等の独立した形態となったのである。
上述に関する吉本の見解(P25.7~P26.1)
① 古代人の意識の自己表出が神の口として、叙事詩として語られた。
② 叙事詩の物語性が、(さらに)自発的な表出力の面で抽出されたところに抒情詩が生まれた。
ここに金太郎飴の切り口(断面)をみることができる。
その層面こそが、詩としての詩の本質を示唆するものである。
金太郎飴の層面、それは「意識の自発的な表出性」である。
折口信夫の「万葉集の解題」より叙景詩について(P26.1~P26.終)
神武天皇の后いすけより媛が天皇崩御の後作られた二首は、真の叙景詩ではない。
昔の人は、大体の気分があるのみで、何を歌はうというはっきりした予定が、初めからあるのではない。でたらめの序歌によって、自分の思想をまとめていった。即、神の告げと同様であった。
つまり、折口は、この時代の叙景詩は、叙事詩と同じようなやり方で、叙景詩を作っていったと見ているようである。
万葉集の解題
上記(叙景詩)に関する吉本の見解(P27.1~P28.12)
① 古代人の叙景では、対象は選ばれるよりも眼にふれた手近なものがうたわれ、うたわれながら感情をひき出した。
② このような手近な景物をうたうことが、宗教的自己疎外に似たものであった。
(シュールレアリズムと同じような忘我の状態が触目の景色によって表出され、しだいに、芸術的な意識の自己表出となって結晶し、おわる。)
折口説のとおり、古代の祭式が劇をうみ詩をうみ、音楽をうみ舞踏をうんだことは、疑う余地はない。
ただ、吉本は問題点として、宗教的な表現と芸術的な表現が二重にうつされねばならないところを、折口説が、信仰起源を固定化し、普遍化しすぎていることを指摘する。吉本は、神憑りがないばあいでも、意識の状態としては神憑りと共通性をもつ芸術的な表出を可能ならしめる、とする。そして、信仰と詩とは分離し、詩としての詩が発生する、としている。つまり、折口学説を信仰に封じこめないで、意識の自己表現として普遍化すれば、画期的なひとつの学説とすることができる、とする。
そうすることによって、吉本はヴァレリー、ハイデガー、中村光夫の各説(メモ2)にも共通する詩の本性(詩が意識の自己表現としての面で純化されるという性質)を見いだそうとしている。
メモ2
http://futoshi.amigasa.jp/memo2.htm
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