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詩について過去に思ってきたこと

2013年10月1日 11時02分50秒 (Tue)

詩についてのぐだぐだ①



僕は飽くまでも創造を目指しているのですが、正直、暴力的なものに惹かれます。日本のロックミュージシャンで忌野清志郎と名乗る人がいましたが、2009年5月2日、他界しました。歌はいくつか知っていたけれども、名前を知ったのは、ネットの動画ででした。動画は一連の放送禁止歌についての特集みたいなやつでした。”♪~おま○こ野郎~FM東京~♪”の歌詞には畏れ入りましたが、それをテレビの生放送でやるのだから笑ってしまうのです。しかし、今、笑い者になっているのは、清志郎ではなく、あの時代にいきすぎた言論統制をして表現の自由を不当に奪っていた当局の輩の方でしょう。清志郎の曲は所謂ロックとは趣が違う。明らかにメルヘンチックなのです。それは、恐らく清志郎の素直すぎるくらい素直な感性からくるものだと思われます。清志郎は正直すぎるくらい正直に自分の感性を躊躇うことなく表現してきたのでしょう。それには、今更ながら驚嘆するのです。「あこがれの北朝鮮」は、拉致事件が発覚する前の作品。勿論、「メルトダウン」や「原発音頭」は、大震災及び原発事故以前の作品です。震災時には彼はあの世とやらで歌っていたに違いないでしょう。「総理大臣何もはっきり言わねぇ」などは、もっと昔の作品です。それ以外にも、世の中を風刺した曲も多いのですが、彼は決して安っぽい社会派などの歌手ではありません。勿論、予言者などでもありません。彼は、みんなにも見えているはずなのに、敢えて見えていないと思いこもうとしている、そんな大衆に対し、疑問を投げかけてきたのだろうと思います。その姿は、まるで裸の王様を見て大声で笑っている少年のようです。彼はただ素直なだけだったのです。だから、彼の心にはいつもメルヘンが宿っていたのだと思います。それにしても、見えるものをそのまま直視することの難しさを、思い知らされたような気がするのです。



次の詩は勿論、拙蛙の詩ではありません。



http://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/6.html



上記の詩は、忌野清志郎の歌詞が暴力的だと言ったことと同じ意味で、暴力的です。要するに、ある種の「単語」や「主張」が社会的、慣習的に秩序を乱す可能性があるという類の単純な反社会性を避難して、公衆の面前から遠ざけようとするものです。その場合、芸術性を第一義として評価されることは希でしょう。「二十億光年の孤独」という詩を知っている人のなかで、上記の詩を知っている人がどれくらいいるのでしょう。



しかし、「自由詩」「現代詩」「散文詩」なんて呼ばれているものは、既にその存在そのものが、暴力的なのだと思います。そして秩序的詩は、対抗します。叫びます。「自由詩」の中に真の自由はあるのか。「現代詩」の現代とは何時のことなのか。「散文詩」とは一体何を指すのか。そもそも散文と詩とは対極をなすものではないのか-----と。それにしてもあまりに久しい。その初め、暴力のための暴力を目指した人たちはいなかったはずではなかったのでは。



一見、伝統を無視したかに見える詩人達は、確かに新しい創造的何かを目指していたのでしょう。しかし、韻律を拒否し、あるいは俳句のようなある種のルールを悉く拒否した文章を「詩」と呼ぶための要素とは、一体何だったのでしょうか。結局それは、言語自体が持つその関係性から生まれる面白味以外にはなかったのではないかということです。そして詩の本質が主観性にしかないとしたら、当然、日本語の特殊性というものを駆使した様々な試みがなされるのは、必然のことでしょう。そして、「現代詩」等というものが出現したと同時に、様々な詩人がそのような努力を積み重ねてきた-----成れの果てが今日の情況であると言ったら怒られるのでしょうか。



このサイトにも投稿されている人で面白い人がいます。「たもつ」のHNで書いている人です。僕のHP「詩心ごんどら」にもリンクしていますし、彼とは何度かお互いのHPを通して、言葉を交わしたことはあるのですが、ここでは、敢えて一度しかレスを書いたことはありません。レスと言っても激励の意味を込めて☆☆☆☆☆って書いただけですし、蛙の名も名乗っていません。彼のレスもへんな記号が五つばかり返ってきたのかな(笑)。彼は大人しい顔をしているが、かなりの暴力家です。何故なら、言葉を、日本語を土台からひっくり返すような試みをやっているからです。僕は、今、彼の詩をどのようにも批評できません。しかし、彼の詩に対して何らかの評価あるいは批判ができるようになれば、僕自身の詩に対しての対峙の仕方がハッキリするのではないかと思っています。もし、彼の詩をカンディンスキーの抽象画に喩えることが出来た暁には彼の詩はホンモノでしょう。そして、そうでないかもしれなませんし。今の自分には何も言えません。



今まで、詩について色々考えてきたと言うよりも、何だかんだとぐだぐだ思ってきたという方がアタリだろう。でも、そこからしか自分は出発できないのだろうから、それは仕方がないことだ。取り敢えず、振り返ってみよう。多分、自己矛盾も見えてくるだろうというものだ。



持論①「詩人であるかないか」はイディオロギーには関係ない



「詩人であるかないか」を判断する上で、絶対にイディオロギーをもってしてはいけない。「詩の良し悪し」の判断も同じである。政治的判断、道徳的判断、教育的判断、教条主義的判断・・・それに類する如何なる判断も悪しき判断である。従わなければならないものは唯一つそれは、「言葉における真理」・・それだけである。それは民主主義ではありえない。何故なら、芥川が言ったように「キリストが何を言ったかではなく、大衆が知りたがっているのは、彼が私生児であるかどうかである」・・我々は絶対に、悪しき民主主義に染まってはならない。精進に精進を重ね唯只管、詩人が座禅三昧により「言葉における真理」を自ら悟らなければならない。個々人の悟りは決して”独り”ではない。何故なら、それが真理であるからである。”普遍”であり、真の詩人の”アイデンティティー”であるからである。



持論②言葉は抹殺できない



一つの民族を根こそぎ世界から抹消しようとしたナチスドイツ。その目的の善悪はここでは度外視する。ここで問題とするのはその方法についての過ちを指摘するに留まる。何故なら、その方法の過ちを示すことこそが、言葉のありのままの姿を見出すことにほかならないからである。彼らのユダヤ狩りは神の名においてなされた。しかしキリスト教においても、ユダヤ教のテキストである旧約聖書は共有しているのである。問題はタルムードとそれに基づく他民族に対する無慈悲な態度にあった。ドイツ民族は彼らを非難する口実をそこに求めていたのであるが、ヒトラーは、そのような宗教的理由を糸口にして、ユダヤ人の精神的及び身体的特徴を科学的歴史学的な合理化を施し標的にしたのである。彼は神の名を唱えながら、その実、唯物論的思考によって行動していたのである。しかもその手法は、キリスト教徒が最も憎むべき彼のタルムード的手法に従って行われたのである。これはまさにトリック以外のなにものでもなかった。それは、自らが持つ精神的属性(思想的属性を含む)を棚に上げて、ユダヤ人の身体的、宗教的特徴のうえにそのレッテルを貼りつけたのである。仮にユダヤ人を根こそぎ抹殺したとしても、抹殺する理由であるその精神は消すことはできないのである。抹殺者自らの精神に既にその属性が内在しているからにほかならない。その行為は、人をモノとして処理したのである。焚書も然りである。人の世界は意味の世界であり、書の内容も意味の世界である。意味の世界は、あらゆる関係の世界であり、どんなミクロの隙間も許さないアナログの世界なのである。どんな言葉にせよ抹殺はできない、意味を本質的に抹殺することはできないのである。意味は断じてモノではないからである。たとえ単語を抹殺したとしても、意味は不死身なのである。ヒトラーの犯した過ちを、いやしくも詩人たるもの絶対に犯してはならない。



夢について[1]  夢は蜜柑農家の摘果作業に似ている。



最近、よく夢を見る。夢と言っても、眠っている時に見るやつに限る。そんな夢だが、青春時代には頻繁に見ていたのに、一時期、あまり見なくなっていた。夢ラッシュ復活だ。そんな夢について、心理学者でもない自分が考えてみても埒のあかないことは解っているが、頭に浮かんでくるのだから仕方がない。また、蜜柑農家でもないのにそんなことを言うのもおこがましいが、何だか夢は摘果作業に似ている。良質の現実を得るために、可能性を整備し調整する作業のように思える。夢は泡になって弾ければ弾けるほど良い現実が可能になるのかも知れない。それは夜見る夢に限らないような気がする。



夢について[2]  何処かへ逃れようとすることは出来ても、夢それ自体から逃れることはできない。



夢は一見、個人の心の中を自由気ままに浮遊しているかに思える。しかし、夢を見ている自分は、どんなに辛い、どんなに恐ろしい夢でも、それから逃れることは出来ない。何処かへ逃れようとすることは出来ても、夢それ自体から逃れることはできない。例外はあるかもしれないが、大抵の場合、夢を夢と気付いていないからである。だから、夢の中では、自由でありたいという意思さへ持つことは許されていない。夢は絶対的であり、夢を見ているいる自分は心の中を飛び回っているのではなく、夢自体に閉じこめられているのだ。夢は器であり心はそれ自体なのだ。器に脈絡を持った意思を入れることができるのは、醒めて初めて可能になるのだ。夢は自由を必要としないほど自由(あるいは不自由)であり、自分自身であろうという意思を持つ必要がないほど、自分自身(あるいは自分自身ではない)なのだ。



.夢について[3]  夢はたった一人の観客の為に演じられる一人芝居である。



夢はたった一人の観客の為に演じられる一人芝居である。しかもその観客役さえ自分自身でやり終えてしまう。演技は瞬時に行われるアドリブであるが、いざ、観客が見ようとする時には、舞台の上には何もなく誰もいない。観客は既に終わってしまった劇の切れ端を掴み取って、必死でそいつにストーリーを回復しようとする。が、何時も曖昧で辻褄合わせは必ずしもうまくいかない。また、そいつは、書き留めてでもおかない限り直ぐに忘れ去られてしまうのだが、書き留めるという作業そのものは、既にアドリブとは懸離れたものとなってしまっている。夢はたった一度のフラッシュ群なのだ。



夢と詩について[1]  詩は夢に似ている。



詩は夢に似ている。詩は浮かんでくるものがあって初めて書くことができる。夢のようにあちら側からやってくるのであって、少なくとも端緒は積極的にこちらから出向いてゆくものではない。そして、メモでもしておかなければ、その端緒は直ぐに忘れ去られてしまう。感動は現実の光に掻き消されてしまう。夢はそこで終わってしまうのだが、詩はそこから始まってゆくもののようだ。いや、始まってゆくと言うよりも、何者からか得た衝撃を再現しようとする試みのように思える。それは自分内部への保存行為であり、且つ翻訳行為のようでもある。それは他人の為になされると同時に自分のためになされる翻訳行為であり即ち保存行為なのだ。



夢と詩について[2]  詩の発想は夢と同じく向こう側からやってくる。



詩の発想は夢と同じく向こう側からやってくるものなので、詩人はそいつを創ることはできない。精々そいつを文字で形にするのが関の山だ。やってくるものを描写しようとするのだが、土台無理なことだ。それは音を色に変換できないのと同じ事なのだから。だが、やってくるものが何なのか知ろうとすれば、先ずはそいつを掴まえようとするのが人情というものだ。だから、捕虫網でも被せてみたくなる。その網が言葉にすぎないのだろう。網の目から逃げ出したやつはどうすることも出来ないが、どうにか掴まえることができた奴が言葉の網の上を奏でて、半分逃げられたお化け虫の全体像をもっともらしく文字で再現しようとするらしいのだ。多分、そいつが詩なのだろう。



夢と詩について[3]  夢を読むとは言わない。だが、詩は読まれるものである。



夢は見るものである。科学的分析においてはどうだか知らないが、普通、夢を聞くとか夢を嗅ぐとか夢を触るとかは言わない。夢を喰うのは貘ぐらいなものだろう。だから、夢は視覚が第一の感覚らしい。だが、暑かったり寒かったり、虫が首筋を這ったりとか、誰かが何かの歌を歌っていただとか、色々な場面を見るのが夢である。少なくとも夢をみている間は、現実と区別がつかないように大変うまくできている。夢はまるで紙芝居のように、一枚一枚の絵(普通の場合動画だが)の上で、ストーリーができているが、一枚捲られると、前の一枚とは脈絡を断絶されている場合が多い。やはり視覚に頼る部分が大きい。直観的なのだ。だから、夢を読むとは言わない。だが、詩は読まれるものである。読まれるものでありながら直観的でなければならない。いや詩の定義などするつもりはない。ただ、そうでなければ面白くないのだ。文字数や朗読時間はともかく、時間を感じさせずに一気に読ませ読者の網膜にはりつける迫力のある詩こそ読者は面白く感じるのだと思う。



日本語について[1]  歌を反対から歌えるという中高年の女性がテレビに出ているのを見た。



歌を反対から歌えるという中高年の女性がテレビに出ているのを見たことがある。名人級だった。ホントに素晴らしいと思った。どんなに褒めても褒めたりないが、それは兎も角として、僕はそこに日本語のある種の特性をみたような気がして面白かった。おばちゃんは、歌詞を反対から歌うのであるが、単純に歌詞をひらがな(或いはカタカナ)に戻したものを反対から歌うのではなかった。所謂アブクド読みと言うか、桑田佳祐が歌うような発音にして、つまりアルファベッドに分解してから、それを逆に歌っているのだ。そうやって、初めて、巻き戻して聞いたときに、正常な歌詞(日本語の言葉)として、人々が聞くことが出来るのだ。桑田がするような発音を美和明宏などは、そんな言葉はとても美しい日本語とは言えないなどと嘆いていたが、それもそうかもしれない。僕も最初にあの歌を聞いたとき、違和感を禁じ得なかった。しかし、或る意味で桑田は音楽家として耳が研ぎ澄まされていて、音そのものを純粋に掴まえていたのかもしれない。彼は作詞家としても優れていると思うが、折角の歌詞が日本語としては不鮮明でとてももったいなく思ってしまう。(つづく)



日本語について[2]  僕に教えてくれたことは、日本語の仮名についての秘密だった。



おばちゃんが歌を反対から歌うことによって、僕に教えてくれたことは、日本語の仮名についての秘密だった。などと言えば大袈裟である。それまで自分がそのことに気付かなかったというだけのことなのだから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E9%9F%B3%E6%96%87%E5%AD%97

表音文字には音素文字と音節文字があって、仮名は後者にすぎない。ただ、それだけのことに僕は気付かされたのである。だから、だから=dakaraであって、「だから」は、ホントは三つの音ではなく、六つの音でできているのだということなのである。もっとも、6つ以上かもしれないが、その音数は物理的というよりもヒトが感じることが出来る心因的な音数のようだ。当たり前のことだが、仮名のイロハやあかさたな等は原則母音だけの場合を除き複数の音で出来ているのだ。しかも、しかも=shikamoはs.h.i.k.a.m.oという時間軸に沿った順序で発音されているのだ。これまた当たり前のことだが、おばちゃんの歌を聞くと興奮して、そんなことを思ってしまう。もしかして、自分は仮名を発音することによって本当は音をごまかされているのではないのかとさえ思ってしまう。そして、桑田の発声は日本語の音を見せる為に施されたスローモーションなのだと。(つづく)



日本語について[3]  日本語の仮名は、駄洒落も回文も作りやすく、また、語呂合わせもやりやすい。



音素文字が砂粒であるなら音節文字は小石なのだろう。一つの文字が原則二つの音を含んでいるのに、あたかもそれが一つの音かのように発音され又、表現されるなら、当然、同音異義語も多く発生せざるを得ない。そして、それは言葉の前後等の関係から正しい意味を汲取ることになるのだろう。そう考えるなら、日本語の仮名は、駄洒落も回文も作りやすく、また、語呂合わせもやりやすいということになるのではないか。古より掛詞などと高尚な名で呼ばれている和歌等に使われる手法もこの手のものに変わりないのだ。だから、自作の詩に頻繁に使っているそのような手法を自ら蔑む必要は決してないのだ、との独り言で、この話を結ぶことにする。(了)



さて、その他にも、蛙はいろんな所でいろんなことの思いつきを、詩について語っているようなので、ついでに、そいつも載せておくことにしよう。



★こちみさんへのレスより

オレは、下手な小説を読むとめちゃくちゃに腹がたつんだ。小説って、最後まで読まなければ、面白いのか面白く無いのかが解らない。だから、ついつい最後まで読んでしまう。で、面白くなかったら、めっちゃくちゃ腹がたってくるんだ。

でも、詩は短いから、面白くなくても、あまり腹はたたない。音楽なら、つまらなきゃ消せばいいし、絵なら見なけりゃいい。

それでも、やっぱり自己嫌悪に陥ってしまうんだ。自分が書いたものをいつも落書きだと思ってしまう。でも、オレは自分の詩は殆ど保存しているんだ。やっぱり大事なんだ。

オレは、書店で殆ど詩を買わないし、立ち読みもしない。面白くないからだ。正直、現代詩だとか自由詩だとかいうことで書店に出回っている詩集なんて、殆ど面白くない。

なら、ネット詩が面白いか、と言えば、正直、そうでもない。あまりひどいことを言うと、このサイトの人たち全員を敵に回しそうだから、詳述はしない。

でも、巷の書店で商業ベースにのって売られている詩集は、本当は「詩」を売っているわけではないんだ。「詩人」を売っているんだ。個人のスキャンダラス性をウリにしているのが実情なんだ。

その点、ネット詩には、嘘がない。1人1人のあらゆる意味での情熱が文字にされている。オレは、ネット詩のそこに惹かれるんだ。

だが、”詩とはなんぞや”と言う、そもそも論に立ち戻れば、またもや自己嫌悪に陥らざるをえない。

オレに言わせれば、詩の本質は芸術の本質と変わるものではない。問題は内容論ではなく、形式論なのだ。

そして、俳句を見せられれば、絶句してしまう。ここからまた、自己嫌悪の循環エラーだ。



★izchan さんへのレスより①

自分で書いておきながら、いつも、不思議だなと思っています。何だかふわ~っと浮かんできて、そこのところを文字にしてみたら、今度は、文字の方が、自分の思い?か何かを、引っ張り込んでしまうんです。で、読んでみて、まっ、こんなものかと思ったところで、一応、決着するんです(笑)。自分で読んでみて、面白くないと思う場合で一番多いのは、無駄な言葉が多いと思うことです。無駄だと思う言葉は、思いっきり削除してしまうのです。そうすれば、それだけで、結構、読めるものになったりすることがあります。文字数が多いかどうかよりも、読者に(読んでいる)時間を意識させる詩、つまり、長いなあと思わせる詩は、それだけで失格だと自分では思っています。そうは言っても、なかなか思うような詩は書けません(涙)。



★izchan さんへのレスより②

蛙が思うには、表現力はいつも磨かいていなければ、折角浮かんだモノを表現出来なくなっちゃうような気がしています。だから、表現力をつけるってことは、一種の習作だろうと思っています。練習すれば、誰でも、ある程度の技術は身につけることができるのだと思います。問題は、「浮かぶ」というか「降りてくる」というか、「閃く」というのか、「発見する」というのか、そんなものだと思うのです。それは表現されるべきものであると同時に表現する主体でもあるような気がします。そして、詩の形式とは、そのことを容易にする一種のツールの一面を持っているように思えます。でも、優れた形式は、単にツールに終わらず、作品そのものを閉じこめるというのか、奥行きをもつ作品そのもののバックボーンになってしまうようなもののような気がしています。

これは蛙が持っている形式の希望論とでもいうのか、いまだ無い形式の詩に関する抽象論というのか、蛙が持ちたがっている形式の願望です。





詩についてのぐだぐだ②



★小説と詩(自己サイトより)

小説は

それが何であるかを語り煎じ詰められた結論を著す

詩は

それが何であるかを問う端緒である

閃きであり発見である



★そんな気がする①(自己サイトより)

現代詩からすっかり文語調の詩が姿を消してしまった。昭和の中頃までは、歌詞にさえ残っていたと思うのだが。口語詩に駆逐されることは、自由詩などというものが誕生した時からの宿命であったのかもしれない。しかし、そのことによって韻律というものから現代詩はまた一歩遠ざかっていったような気がする。



★そんな気がする② (自己サイトより)

有り難いことに、日本語にはひらがなとカタカナの二種類の表音文字がある。この二つの特質を使い分けて詩を書くことはできると思うが、ただ朗読したものを聞かされただけでは、意味を充分に把握することは不可能かもしれない。その判別は往々にして視覚と同時にしか感じ取ることができないものであるからである。



★そんな気がする③ (自己サイトより)

小説には純粋な読者がいて且つそれが多数派である。現代詩にも全くいないわけではないのだろうが、少数派と思われる。

当ホームページの来訪者を解析してみても、自分が詩を書く為のサイトを探している人が多いように見受けられる。そして、有名詩人の詩を探している人が多いという事実からすれば、有名でない人(一般詩人)の詩などは、読むに値しないと思われているのかもしれない。また、もしかすると、有名詩人の詩を探している人達のなかには、詩を読むこと自体を目的としているのではないのかもしれない。例えば、結婚式の餞に自分のスピーチの中で引用するとか、随筆やブログ等に引用するとかといった目的があって有名な詩を探しているのかもしれない。



★そんな気がする④ (自己サイトより)

プロの歌手が歌っている流行歌をよく聴いてみれば、面白いことに気づく。歌手は歌詞に書かれた主人公になりきって、その感情どうりに歌っているのではないことに気づかされる。主人公の他にもう一人の誰かがいて、そいつが歌手を操って歌わせているように思えるのだ。だから、プロの歌は客に聞かせられるのだと思う。歌でさえそうなのだから、もし、読ませたいのなら、詩を誰かに読ませたいのなら・・。



★そんな気がする⑤ー震災と詩人 (自己サイトより)

この惨憺たる非常時に詩人は何も出来ない。肩身が狭い思いで胸が締め付けられるといった気持ちでいっぱいでした。いや詩人に何もできないのではなく、詩を書くことでは被災者の方々に何の役にも立たないという申し訳ないような気分でいっぱいだったのです。しかし、ただ、詩人は詩人である以前に人間であるという多様な属性を持っているのだから、それでいいのだと蛙は思った訳です。人間が人間としてできる限りのことをすれば、それでよい。そう思ったわけです。

詩を詩以上の何かにしてはいけない。つまり、詩を詩以外の何かにすることは詩人のすることではないと思ったわけです。詩は詩でしかないのだから、それでよい。そう思ったわけです。



日経新聞4月2日の文化欄(40面)では、---未曾有の惨事を前に、言葉は無力なのか、文学に何ができるのか。詩人や作家らは戸惑いながらも言葉を探り、新たな表現の模索を云々---とあり、記事の終わりの方には---被災地から発せられる声もある。「詩よ。お前をつむごうとすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか」。福島市に住む詩人の和合亮一は震災の5日後から、ツイッターで詩の断片のような言葉を吐き出し始めた。---とあります。拙蛙には実に自然なことに思われます。「詩心ごんどら」の「何でも掲示板」に女郎花さんが、「孤独」のタイトルで詩を書かれ、LUCIA 5mgさんが(untitled)で詩を書かれているのと本質的(詩作に係わる姿勢という意味では)には何ら変わるものではありません。詩人としては実に自然な行為です。

そもそもこの記事の問題の取り上げ方には無理がある。「文学」というモノが社会に与えることができる恩恵というものを総花的に捉え、それを前提にして、言葉の社会的役割を見いだそうとしているかに思えます。つまり詩の特殊性というものを全く考慮していないのですね。詩に力などを期待するのはお門違いなのです。少なくとも詩人は誰かを励まそうとかなんとかという目的を持って詩を書くことなど出来ないはずなのです。そんなモノは詩でも何でもないのです。

近頃金子みすゞの詩が頻繁にテレビコマーシャルにコピーとして使われているのを耳にします。これは一種の力を持っています。力を持たせるべくコピーとして使われているのだから当然のことです。しかし作者は、そのような力を発揮しようとして書いたわけではないでしょう。結果として、そのような力を持っただけのことでしょう。詩を詩として素直な気持ちで書いたことのある人なら、誰でも解るはずのことです。詩とは所詮そんなモノであるのだから、それを恥じるなら、それは詩作そのものを否定することになると思います。詩には目的などありません。あるなら、それは既に詩から逸脱したところの何かに向かっているのです。震災以後、多くのネット詩人の詩を覗いてみたのですが、そんなことは自明のことだとばかりの創作がほとんどでした。まさに無名のネット詩人の猫的振る舞いには、蛙でさえ呆れ果てる始末です(笑)。



★井魚不可以語於海者 拘於虚也(自己サイトより)

人間の寿命は最近かなり延びてきたようですね。蛙の寿命は昔からあまり変わらないように思いますので、それにはびくりしますね。長生きすると何か良いことでもあるのですかね?みんなヨボヨボしていてトンチンカンなことを言って・・・蛙にはそんな風にしか見えませんけどね。まあ、人間の生態とはそんなものでしょうから、蛙なんぞがとやかく言うべきことでは無いのでしょうね。ただ、蛙が一番不思議に思うのは、「人間の思い」についてですね。人間は、一生のうちで色んなことを色々と思い巡らす生き物のようですが、一つのことを考えるにしても感じるにしても、その時その時によって結構大きな違いを持っているように推察するのですが、一体どの思いが本物なのかということです。幼児や呆け老人にもその時の気持ちは、全く一人前に持っているように見えることが、蛙にとっては一番の不思議です。所詮、本能に素直に従って生きていくことが出来ない人間は、蛙や犬畜生にも劣っていて、一貫性を持って生き抜くことができない哀れな存在なのかもしれませんね。いえいえ、決してあなた方人間を馬鹿にしているわけではないのですよ。ただただ不思議だって言っているだけなんですから(汗)。。

・・・・・もしかしたら、「思い」に本物も偽物もないのではないかということ。そして、そのことは本当に怖いことだと思う。まだ年端もいかないからとか、老人性の認知症なのだからといっても、その時々の思いはほんの一刹那のものであったとしても、本人にとってその時は人生そのものであるような気がしてしかたがない。たとえば、消防士になったつもりの幼児が、もし自分がトイレに入っている時に火事が起きて出動命令がでたら、お尻を拭かずに直ぐに出動すべきか、それともやはりお尻はきれいに拭いてからトイレを出るべきかを真剣に悩んだり、老人が孫のことばかり思っているうちに、ふと70年前の自分のことと錯覚してしまって、今日は入社式だといって早朝一張羅の背広を着込んで出発の時刻を待っているというようなことがあっても、それは笑い話ではなく、本人にとっては、まぎれもない人生そのものであるような気がする。そして幼児でもなく認知症でもなく精神的な疾患がない健常的成人の場合であっても、生きるということそのものには、何ら変わりがない・・・そう思えるのだ。そして、何故だか自分にはそのことがとても怖いことのように思えてしかたがないのだ。自分には、生きるということ自体が、とても頼りないことのように見えてしまっているのかもしれない。



★ボケ(自己サイトより)

人はボケます。年を取れば必ずボケます。あなたもボケます。でも、いいのです。所詮人間は死ぬ者であると同時にボケる者でもあるのですから。そんなことは気にしないでください。年を取ればあちこちの内蔵が弱ったり、筋力が落ちたり、血圧が上がったり色んな病気に罹ったりします。老眼や白内障になったり耳もとおくなったりします。脳だけが衰えないはずがないではありませんか。長生きの代償です。いえ、蛙が人間の長生きを妬んで、そんなことを言っているわけではありません。実は蛙は迷惑しているのです。蛙の詩の三種の神器は、「駄洒落」「回文」「語呂合わせ」なのですが、そのうちの一つ「回文」が小学生の間で流行っているそうです。「ホアンインゼンインアホ」---「それを見てみんな笑うけれども、笑いながらそんな奴らに自分たちの運命を任せている大人たちこそアホだ」そう言った人もいるそうです。まあ、アホでもボケでもいいですけど、蛙が思うには、ボケていい人とボケてはいけない人がいるような気がするのです。役所や会社の定年は昔は大抵55歳でしたが、最近は60歳のようです。脳みその耐用命数が5年も延びたとは蛙にはとても思えませんけど、少子高齢社会にあっての苦肉の策なのでしょうか。役員はどこをみても殆どジジイですね。蛙はいろんな事情から今まで様々な老人と接してきたけれども、やはり、何処かがイカレてきていました。と同時に異様に研ぎ澄まされた部分が出来てきているのには驚かされました。ボケの客観性、つまり認知症の程度を数値化する為のテストや脳のMRIによる検査などとは別の次元のボケ---そんな類のボケがあるような気がします。映画監督であれば、美的感覚だけが先行してしまって全体の構成が疎かになってしまったり、書評家であれば、その書き手が何を言おうとしているかを主眼にしないで、今までの経験が先行してしまって書き手の性癖とかを無意識のうちに分析することを主眼としてしまうとか・・・蛙は特に意地悪な眼で見ているつもりはないのですが、ひょっとしてボケているのではないかと、失礼ながら年配の芸術家に対して思ってしまうことがあるのです。でも、芸術ならボケていようがどうだろうが殆ど人畜無害ですからいいのです。特に詩の場合はどんなにボケた人の詩だって一向に構わないし、寧ろ、そんな視点からの方が真実を見抜くことができる場合だってあるのかもしれません。詩は芸術の分野では最も主観的な分野であり、最もボケてもいい分野なのだと蛙は考えています。しかし、絶対にボケてはいけない人たちはいっぱいいます。ボケてはいけない社会的立場の人たちにとって、ボケることは罪なのです。欲ボケなどは最低です。欲ボケもある意味特殊性癖の突出であるのかもしれません。そのために著しい統合性の欠如をきたすことだってないわけではないでしょう。もし、そんな人間が首相なんかだった日には、人類と両棲類だけの問題とは蛙にはとても思えないのです。



★感想(自己掲示板より)

良い詩には、作者の感情で読者を包み込んでしまうものと、読者の理性を刺激するものがあるような気がする。



★♪ふり向いてもくれない♪(自己掲示板より)

はじめまして。降太と申します。

懐かしい歌を耳にしたので、ちょっとおじゃましました。

朝丘雪路ですね。嬉しいです。



降太さま、ようこそ。初めまして、管理蛙でございます。

この歌詞が、もし単独の「詩」だとしたらどうでしょう。実に平凡でつまらない詩だとは思いませんか。ところが、曲をつけて彼女が歌うと、こんなにも味があるのです。不思議ですね。因みに作詞は青島幸夫、作曲は小杉仁三です。



ほんとに不思議ですね。

作詞が先なのでしょうか、それとも作曲が先?

どちらにせよ、お互いがマッチしてますよね。それに彼女が歌うと、また一段素晴らしくなりますね。

たしか、彼女の父親は伊東深水でしたよね。芸術性も引き継いでいるのでしょうか。

青島幸夫の作詞ですか。確かにこれがただの「詩」ならつまらない詩ですよね。でも、ヘタな「詞」ではないですよね。曲より先に詞が作られたとしても、少なくとも歌われることを前提にしてつくられているのでしょうから。もしかして、朝丘雪路が歌うことを前もって知っていて作られた詞なら、寧ろ巧いというべきなのかもしれませんね。



そういえば、雪路をモデルにした深水の絵を見たことがあります。勿論、彼女自身もその絵を見ていることでしょう。雪路は知らず知らずのうちに父親が身につけている芸術性を習得していったのかもしれませんが、それ以外にも彼女は幼少の頃から日本舞踊もやっていたし、ジャズにたけた宝ジェンヌでもあったらしいので、色んな角度からの様々な工夫により自らの歌を創り上げていったのだと思われます。

貴方の言われるように「詩」として読めばつまらなくても「歌詞」としてなら秀逸であるのかもしれません。しかし、単なる視覚からすれば、どちらも全く同じ”文字とその配列”でしかないのです。このことはどう考えれば良いのでしょうか。



視覚的見地からすれば全く同じ。仰る通りです。だから、視覚で比較することは無意味だということです。「詩」は文字自体で完結すべきものかもしれませんが、「歌詞」は歌を構成する上での必要不可欠の一素材と言うことになるかと思います。外部から働きかける楽器による「音楽」も、人体を通しての「音声」も、聴覚によって人間の感情に訴えかけるものですが、「歌詞」の場合はその両者に共鳴すべき心の底にある原始的感情をできる限りの言葉にしたもののように思われます。僕はそんな風に思っていますが、管理蛙さんはどう思われているのでしょう?



青島幸夫さんと仲良しだった谷啓さんが他界されたようです。ご冥福を祈ります(合掌)。

拙蛙は、「詩」と「歌」とは全く別物だと思っています。「詩」は文字であることに意義があるし、「歌詞」は歌われることに意義があると思います。ですから、「詩」の場合、書かれたものは、それが全てであり、すなわち「作品」であるのに対し、「歌詞」は歌われない限り唯のメモみたいなものだと思っています。だから、それが全く同じ”文字とその配列”であっても、その存在理由は全然違うものだということです。仰るとおり視覚的比較は無意味です。

拙蛙は、貴方が言われる「音楽」「音声」「歌詞」は一つの「歌」を形造る上での分離不可能な有機的要素だと思います。

貴方のご説は、曲が先に出来ていることを前提とされてのことかとは存じますが、音声は歌詞がなければ発することができないものですから、そこには矛盾が生じます。順序とすれば、「音楽、歌詞、音声」か「歌詞、音楽、音声」のどちらかでしょう。どちらにせよ、「音声」が最後にきますから、歌い手が感情の集大成をしなければならないかと思います。

※ 上記、降太は蛙の分身である。



★かたくちいわしさんへ(自己掲示板より)

こんばんは。

早速のご返答、また、率直なご意見有り難うございます。

>安らぎを得られることがあります。

>自分はまだ何も作ってないと思います。

拙蛙も全く同感です。

結果的に自らが安らぎを得ただけのモノなど、とても詩などとは呼べない。それを糞のような何々と称している芸術志向の方もいらっしゃいます。確かにそうかなとも思いますが、詩の本質の中には、そんな糞的要素を含んでいて、拙蛙はその糞を含まないモノなど、やはり詩ではないとも言えるのではないかと思っています。ですから、自分のホームページの末尾に掲載している「糞ころがしの唄」の中にはそんな意味も込めています。拙蛙のリンク集の中にある古今東西の人達の詩も、有名無名を問わず、殆どが、ある意味では糞のような何かだと拙蛙は思っています。しかし、詩は臭いだけの糞であってはいけないという思いもあって、やはり、何かを創ろうとするのですが、それが簡単ではない。そんな訳で、拙蛙も何もつくってはいない・・そう思っているわけです。



「ミュージカルの歌詞は説明です。」と言われるのはそうかもしれません。拙蛙が思いますには、ミュージカルとは、シナリオ(小説と類似するもの)と呼ばれる「道」を予め決められた地点まで、歌いながら踊りながら「行進」することではないかと思うのです。歌詞は一種の「道標」であり、曲と踊りはその地点での感情の現在性を表すものではないでしょうか。ここでの歌詞もミュージカルとして演じられない限りは、メモみたいなものかもしれません。ミュージカルの場合は、小説的、つまり目的に向かって鉛直に書かれたストーリーと、現在性を重視する詩的部分(歌及び踊り)が並行的に行われるため、開演時間中の全部を観客に惹きつけておくのは難しいことなのかもしれませんね。(小説なら、斜め読みとか、とばし読みとかができますけど。)逆に部分的に人気がでて、そこだけが独立してメロディーが有名になったりすることもよくあることなのでしょうね。



>新しいものの入ってくる余地は、心の中で繰り返され(てい)ることによってしか得られないかなと考えたりで



拙蛙もそうだと思いますが、ミュージカルと詩についての、解り方というか、発見の仕方というか、そんなものには本質的な違いがあるような気がしています。と言いますには、ミュージカルのように予め目的に向かって鉛直に書き下ろされたもの(小説等も含め)については、主に作者の意図を探ることに終始することになるかと思いますので、いかに理性的に理解するかが問題になるかと思うのですが、詩の場合には、先ずは作者自身の発見とか感動に共感することが出来るか否かが問題だろうかと思うからです。そして、そこから始まる飛躍は読者の自由だと思うからです。



>詩作に技巧は必要かという事は気になりますが

>創作に関して、自分は下手な積み木探しの段階でうんぬんかんぬんして



拙蛙も同感、試行錯誤です。

なかなか出来立ての目玉焼きは食べられません。

技巧というか、詩を詩たらしめるための何かが必要だろうとは思ってはいるのですが・・なかなか・・。では、また。今後とも宜しくお願いします。



★蛙の一匹忘年会(自己掲示板より)

今年の忘年会は反省会そのものである。

詩についてあれやこれやと考えてはみるが一向に埒があかない。

詩はあちら側からやってくるものであると蛙は思っているので、あちら様がやってこない限り詩は書けないような気がする。あちら様がどちらからやってくるものなのか蛙には見当がつかない。見当がつかないからと言って何もしないと、あちら様は振り向いてもくれない。だから、闇雲に何かを書いてみるしかないと思うからそうしてみるが、何故か虚しさだけが先行して実りが無い。しかし、それを続けない限り、詩を見つけることはできないような気がする。もしかして、偶然、あちら様がやってきてくれはしないだろうかという一縷の望みを胸にして書いていくしかないだろう。もし詩について何かを掴もうとするなら、そうやって考えていくしかないだろう。



★猫と詩人(自己掲示板より)

拙蛙は猫も嫌いではないが、どちらかというと犬の方が好きである。ところが詩を書いている人達のなかでは、圧倒的に猫派が多いように思える。猫が好きな人とか猫を飼っている人が多いのには驚く。猫は犬に比べて気ままでひとに媚びない。詩人は猫に似ている。気ままで気まぐれで気短なかくせに案外気位が高い。ここネット上では、傍若無人型の詩人も結構多いような気がする。マナーの点では問題があるかもしれないが、それを詩に活かすなら大歓迎である。最近はお手をする猫もいるそうだが、世も末、詩も末である。詩人は野生の猫でなければならない。

冒頭、拙蛙は猫も嫌いではないと言ったが、訂正する。蛙は猫が大嫌いである。猫は蛙でも蜥蜴でも生き物を玩具にして遊ぶ冷徹で残忍な魔物であることを思い出したからである(桑原桑原)。



★I・Aー井上秋博さまへ(自己掲示板より)

理論や技法などは、詩を書いているうちに自然にというか本能的にできてくるものだと思いますので、必要がなければいちいち気にされなくとも良いと思います。拙蛙などは、書いた後で妙なレトリックを使っていることに気づいて苦笑することもよくあります。蛙はそれでいいのだと思っています。押さえることができないほどのあふれる想いを書くことこそ詩の醍醐味であると蛙は思っています。ご活躍をお祈りします。



★Ucidresまへ(自己掲示板より)

詩は小説のように、作者と読者が分離していません。詩を書く人が詩を読み、詩を読む人が詩を書くのが普通です。言葉は、誰でもが使っているものだし、詩は短くていい(僕は本当は短くなければいけないと思っているのですが)と思っている人が多いので、つい、誰にでもできそうに思ってしまうわけです。そういう意味では詩はあまっちょろく見られがちです。舐められているのだと思います。詩はいろんな人の唾を付け放題にされてベトベトになっています。可哀想です。

詩を書く人のきっかけは勿論色々でしょうが、大別すれば、①何かしら書きたい衝動に駆られて書いたのだが、小説とか随筆とか日記とかとは何となく違う気がするので一応「詩」ということにしておこうという人達。②詩とはこういうものだ。こういうものでなければならない。という定義が初めにあって、それに基づいて「詩」を書き始めた人達。

おそらく①が多数派だと思いますが、①であろうが②であろうが、それ以外であろうが、書いている間に「書いているもの」と「詩」とが対峙している自分に気付く時期があると思うのです。そんな闘いの時に産まれ、そして勝ち取られた「言葉」・・・そんな風なものを、今、自分は探そうとしています。





詩についてのぐだぐだ③



★「頭のうちどころが悪かった熊の話」を読んで

①ねねさんに紹介してもらた本は、小学生高学年~中学生向きのコーナーに置いてあった。なるほど、子供でもそれなりに読みこなすことが出来る本なのかも知れない。しかし、それにしても自分にとっては難解だった。頗る面白い本ではあったのだが、そのせいかつまらないことをいろいろ考えてしまった。考えたというよりも、心と頭にいろんなものが去来したと言った方がいいのだろう。

そんなわけで、気が向いたときに、去来したことを思い出し出し、脈絡もなくここへ書いていくことになるかと思います。

それにしても、この本は、是非大人のコーナーにも置いてもらいたいものだと思います。なにしろ、大人は子供の成れの果てなのですから。



②もし、あの本を大人向きのところに置いてもらえるとあしたら、是非、詩のコーナーにしてもらいたいものだとと思います。

「人生について考える7つの動物寓話」と銘打ってあった。

寓話(ぐうわ)とは、道徳的な教訓を伝えるための短い物語である。しばしば、動物などを登場人物とし、不可解で神秘的な印象を与えることも多い。そのような表現法を寓意と言う。童話にもよく見られる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なるほど、寓話なのだろう。寓話詩なんてものがあるのかないのか知らない。しかし、詩的な作品だと思った。「書棚は作品である」と言う人がいるくらいなのだから、この七つの寓話は一つの作品なのかもしれない。だから一冊になっているのかも。熊や虎や旅人が、一見ばらばらに見える七つの話を一つにしてしまっている。だから、一つの作品と言えるにちがいない。



③なるほど、寓話(ぐうわ)とは、道徳的な教訓を伝えるためのものであるのかも知れないし、処世訓や風刺などを、動物や他の事柄に託して語る物語なのかもしれない。

しかし、この定義を「頭のうちどころが悪かった熊の話」に厳格に適用しようとするなら、些か無理があるように思える。

道徳的な教訓、処世訓や風刺などを描こうとするなら、初めからそのような目的をもって描かれるはずであるから、この本のような詩的な作風には届かないような気がする。作者は自身の内部から湧出る疑問に追いかけられていて、結論に向かって逃走しているように見える。(未だに結論に達し得ないままの)その軌跡そのものがこの作品のように思えてしかたがない。前の話で一段落したはずの旅人や虎や熊が再び登場するのも、その一つの情況証拠として捉えることができるのではないだろうか。決して目的に向かって鉛直に掘り下げられた文章ではないと思える。だから、寓話というよりも詩に近い作品のように思えてしかたがない。(しかし、現在明確な定義も持っていないのだから、詩だの詩的だの言ってみても仕方がないことなのだが、その謎解きに挑戦している自分にとっては、そのような解析を試みることはまんざら無意味なことでもないように思える。)



④詩(し、うた)は韻律などの形式に従い(あるいは形式に従わないという形式に従い)、感動や叙情を記した文学の一形式。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9

上記詩の定義は、明快である。詩というものが如何に明快に説明し得ないものであるかと言うことを明快に示している。文学の一形式であることに異論を唱えてはいけない。この前提を失えば、議論の余地はなくなる。しかし、形式というものは元来従わせしめるためにあるものである。形式に従わなくていいなら、もはや形式の意味はない。形式とも呼べないはずだ。しかし、なお、「形式に従わない」としても、”「形式に従わない」形式”などと言って飽くまでも形式に固執する。それは、恐らく形式が、詩の本質を語る上で欠くべからざる重大要素なのだからだと思われる。

上述したような観点からしても、この「頭のうちどころが悪かった熊の話」を反芻することは、面白いことだと思う。



⑤「頭のうちどころが悪かった熊の話」がもし詩であったとしたら、散文詩として分類されるのだろうか。

散文とは、韻律・字数・句法などに制限のない通常の文章をいうのであり、それは詩の対語に他ならない。英語でも、いわゆる韻を踏んだverseやpoetryの対語として扱われていて、詩のようにリズムや韻を使用せず、自由に書かれた日常・口語的な文章を指すものとされている。形容詞形のprosaicには「平凡で、退屈な」といった意味があるようだ。

詩が氷なら散文は熱湯である。散文詩とは、熱湯で出来た氷のことである。まことに詩的な表現であるかもしれないが、それは物理的事象でなくても論理を追求する立場からすれば笑止千万な話である。



⑥散文詩こそ、「形式に従わないという形式に従い、感動や叙情を記した文学の一形式」の典型なのであろう。それにしても、何故、このような分類が必要なのだろう。本屋さんが陳列すべき棚を決めるのには、そのような分類でもあった方が無いよりは便利なのかもしれないが、自分にはそれくらいのことしか思い当たらない。

松坂慶子のあの歌を思い出した。五木寛之の作詞らしいのだが・・・「これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛」・・・「愛」を「詩」に置き換えてみたら面白い。



⑦古今東西、色んな形態の文章があるわけで、それが詩であろうがなかろうがお構いなく実体が先行しているのだから、文章を書いている人間にとっては、分類などに拘わることなど無意味に思われる。しかし、もしそのことに興味があるとしたら、それは自分が書いている文章自体に或は今自分がそれを書いている行為そのものにある種の不可思議を感じているからだと思う。そして自分自身のそんな不可解な行為にある種の意義を見出したい、そう思っているからなのかも知れない。

いろいろ考えられた末に「それでも、何故、書くかという疑問だけは残る」というような意味あいのことを言っておられたネット詩人(故大木透さま)のことを思い出す昨今です。



⑧誰だったか西洋の著名な詩人がたしかこんな風なことを言っていたと思う。野に咲いている花が自然。それで花輪を作ることが芸術だと。普段人が使っている言葉が自然、それに一工夫して作られたものが芸術なのかもしれない。人は太古より様々な形を試みて創作してきたのだと思う。

大木透さん、すみません。ここに貴方の詩を引用させてください。



(題)不自由だって



俳句の有季定型を

貶す男が

不自由きわまりない

と宣って

自由詩なるものを

書いている

短歌の復興に

老人と少女たちの

癒しの覇権を見て

蔑み嘆く男が

短編小説の

自由世界を

謳歌している



だが

君は

君の領地を

出たことのない孤児

君の目を

疑ったこともない

裸の王様



第一

君は

生まれて

生きて

死んでいく

その不動の定型を

忘れ去っている

(二〇〇三・四・一)



大木透さんの「不自由だって」について、当時自分がしたレスの記録があるので、ここに記して思い出してみよう。



<上略>

それに比べ、「不自由だって」はただ一度読んだだけでスンナリ納得してしまいま

した。自由の本質を問われている詩だと思いました。問われるというよりも、大木さ

まはご自分のなかに「自由」の定義をお持ちになっていて、その「自由」を理解してい

ないモノカキたちへの反発を詩にされているように思えました。

それは山鳩さんがおっしゃるような

「私小説や短歌の隆盛に同調できない気分」ではないように、

私は拝読いたしましたが、私の読み違いでしょうか。

私は寧ろ「自由」とは束縛の中にこそあるものであり、安易に短歌等の定型や自分自

身が抱えている人生の有様に目をそむけてはいけない。そんなところには真の自由は

ない。創作の自由も人生の自由もある種の拘束の中にこそある。



下記は、上記僕のレスに対する大木透さんのコメントです。



<上略>

「不自由だって」は、自虐的な気分で書きました。

孫悟空のパロディーみたいなもので、孫悟空は自由だと思って行動しています。

しかし、人間は自由なんてものは思いようなのだというふうに思っている。

有限だから無限を求める、不自由だから自由になろうとする。

客観的には不自由、しかし主観的には自由。これが普通ですね。

>自分のなかに「自由」の定義をお持ちになっていて、その「自由」を理

>解していないモノカキたちへの反発を詩にされているように思えました。

そんなたいそうなものではなくて、自分にお灸をすえた積もりなのです。

>それは山鳩さんがおっしゃるような「私小説や短歌の隆盛に同調できな

>い気分」ではないように、私は拝読いたしましたが、私の読み違いでし

>ょうか。

>私は寧ろ「自由」とは束縛の中にこそあるものであり、安易に短歌等の

>定型や自分自身が抱えている人生の有様に目をそむけてはいけない。そ

>んなところには真の自由はない。創作の自由も人生の自由もある種の拘

>束の中にこそある。

それに近い気分ですね。

しかし、積極的にそう思ってそれを肯定するのではなくて、

それ以外になにか第三の道があるだろうかという、ちょっと暗い気分なのです。

<中略>

小笹さんのお考えは間違っていないと思います。

なにか論点がすれ違っておりますね。もっと考えてまた書きます。

今後ともよろしく。



⑨大木透さんが言われるように論点が擦れ違ったままで、あの話は断ち切れてしまい、その後大木さんは永眠されたので、非常に残念だと思っています。しかし、大木さんが言われていた、「『不自由だって』は、自虐的な気分で書きました。」「それ以外になにか第三の道があるだろうかという、ちょっと暗い気分なのです。」・・・そんな言葉は自分にとってひどく気に掛かる言葉なのです。

大木さんとはこの世では直接お話しできる機会はないのだけれども、恐らく大木さんも「形式」の意義ということについて考えられていたのではないかと思うのです。



⑩大木透さんが自虐的だと言われるのもよく解る気がする。定型を否定する輩を非難しながらも、ご自身、自由詩でそれを表現なさっている。



僕も「形」あるものの素晴らしさを多少とも知っているつもりだ。とりわけ、俳句には感服せざるをえない。また、曲を伴った歌詞についてももっと考えてみたい。



以前、自分の掲示板に書いた次の記事はやはり自虐的気分で書いたものだ。



<前略>

詩は小説のように、作者と読者が分離していません。詩を書く人が詩を読み、詩を読む人が詩を書くのが普通です。言葉は、誰でもが使っているものだし、詩は短くていい(僕は本当は短くなければいけないと思っているのですが)と思っている人が多いので、つい、誰にでもできそうに思ってしまうわけです。そういう意味では詩はあまっちょろく見られがちです。舐められているのだと思います。詩はいろんな人の唾を付け放題にされてベトベトになっています。可哀想です。



詩を書く人のきっかけは勿論色々でしょうが、大別すれば、(1)何かしら書きたい衝動に駆られて書いたのだが、小説とか随筆とか日記とかとは何となく違う気がするので一応「詩」ということにしておこうという人達。(2)詩とはこういうものだ。こういうものでなければならない。という定義が初めにあって、それに基づいて「詩」を書き始めた人達。



おそらく(1)が多数派だと思いますが、(1)であろうが(2)であろうが、それ以外であろうが、書いている間に「書いているもの」と「詩」とが対峙している自分に気付く時期があると思うのです。そんな闘いの時に産まれ、そして勝ち取られた「言葉」・・・そんな風なものを、今、自分は探そうとしています。

<後略>



⑪俳句はただ素晴らしいとしか言いようがない。575で書いて季語さえ入っていればそれだけでも素晴らしい詩だ。しかも様々なルールは詩を深めるための仕掛けとなっている。譬え地球の裏側にいても、俳句の世界には日本があり四季がある。俳句は、宇宙の果てのあらゆる事物や思いまでも、日本の国土に吸い込ませてしまう575の魔法瓶だ。



「頭のうちどころが悪かった熊の話」には、そのような形式やルールは一切無い。それなのに、いったいどこが詩的なのか。恐らく作者の安東みきえさんも詩だなどと言われようとは思っていないのだと思う。本屋さんだって詩のコーナーには置いていないのだし。



⑫僕が「頭のうちどころが悪かった熊の話」のことを詩だと言っているのは、「ないものねだりのカラス」が、「ただの木の枝のすきま」をシラサギだと言っているのと同じことなのかもしれない。しかし、この「木の枝のすきま」は少なくとも芸術である。勿論、文字芸術が即詩であるわけはない。だが、そんな倒錯を起こさせるほどの何かがある。



⑬「木の枝のすきま」は「木の枝のすきま」であって「木の枝のすきま」でしかない。「木の枝のすきま」だからこそシラサギであったりカササギであったりすることができる。しかし、それらの芸術は既に実体のある既存の芸術であったりする。あるいは既存の”詩”であるかもしれない。だが、それでもカラスは「木の枝のすきま」に何かを求めてやむことをしない。他のカラスにあほうと言われようとも。何かを求めることがやめられない。



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