倫理専門書
倫理専門書
『愛するということ』
1990 紀伊国屋書店 著者 エーリッヒ・フロム 訳者 鈴木晶
世界観の形成 5 実践への影響 5
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本書は、自分が大学生の時、今の奥さんを好きになった時に読み、勇気をもらった書籍です。卒業旅行での旅行先でのナンパなんですけどね(笑)。「何とでももなれ!」って背中を押してくれた本。「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに『落ちる』ものではなく、『みずから踏み込む』ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない」(第42~43頁)。「信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である」(第187~188頁)。「愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」(第190頁)。上記の引用三点は、折に触れて読み返す箇所です。
『竹田教授の哲学講義21講』
2011 みやび出版 著者 竹田青嗣
世界観の形成 5 実践への影響 2

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「大事なのは、プラトンがこんな変ないい方でいったい何をいおうとしていたか、つまり彼の思想的直観の内実をつかみ出すことです」(第7貢)。「ヘーゲル哲学の全体体系はもう誰の喉もとおらない。でも、それは大きなロブスターみたいなもんで、食べられない固い外殻だけうまく外して棄ててしまえば、その中味はただものではないんだ。人間についても社会についても、現代思想の全体が小さく見えるほど、多くの本質的な考察がある」(第165貢)。上記のように、多くの哲学者の主張の直観の核を筆者なりに抜き出し、それを提示してくれています。本書は、あとがきで、哲学を「一切の認識や主張を『確信』とみなし、キーワード(原理)をおいてこの確信を間主観的な『共通確信』へ作り替えてゆく『言語ゲーム』の方法」(第357頁)と定義しています。多くの著書がある竹田さんの哲学史理解を、「共通確信を作る!」という大テーマのもと、最も体系的に味わえるのが、本書であると思います。この共通確信は、大きく二つに分かれます。一つは「社会論」、一つは「認識論」です。まずは、社会論から。竹田さんの場合、この社会論は、「ホッブス→ルソー→ヘーゲル」の順でいきます。まずホッブスは、人間は放っておけば「万人の万人に対する闘争」が起こってしまうという確信を打ち立て、「人間社会の普遍戦争状態を抑制するには、権力を集めて強力なルールで統治する国家を作る以外にない」(第74~75頁)という原理を作りあげました。これを筆者は、「覇権の原理」とも呼んでいます。では、その国家権力の正当性の原理はなにか。それをルソーは、「近代国家は人々の合意によって主権を作っているので、統治権力はつねに人々の一般意志を代表しなくてはならない」(第118頁)と述べます。この一般意志は、あくまで「国家権力の正当性の原理」という理解が核です。では、その一般意志の中でも、最も優先すべきものは何か。そこが、ヘーゲルの仕事です。ヘーゲルは、「人間の普遍支配の歴史は『自由』を求める人間欲望のせめぎあいを根本原因とする」(第169頁)と読み解きました。結果、「人間は、悲惨な経験を繰り返したのちに、ある時点ではじめて、万人が『自由』でありうる唯一の原理を見出す。それがすなわち『自由の相互承認』」(第170頁)。上記のような社会構成の原理は、もう竹田哲学といって良いのではないか、と思います。同じく、認識論に関しては、竹田さんは、欲望相関性の原理を思想の核に置いています。ですので、それに直結する「プラトン→(カント)→ニーチェ→フッサール」の順で紹介します。まず、プラトンの洞窟の比喩の直観の核は、「人間は誰も自分の『認識』を正しいものだと考えるけど、それは結局『思惑』(ドクサ)であることを越えられない。つまり自分だけの主観的信念にすぎないのに、それを真知(エピステーメー)だと言い張る」(第14頁)ことだといいます。では、人間はどのようなものを、真知だと思うのか。「プラトンのエロス論の核にあるのは、まず、人間がエロス的欲望を向けるものは、総じて『美的なもの』(つまり、カッコよいもの、ステキなもの、心に快いと思えるもの)である」(第19頁)。それはつまり、「人間の『世界認識』を可能にしているのは世界に対するエロス性である、と取ると、『イデア説』は、まさしく欲望論的な哲学原理の端緒だといえる」(第24頁)。このようなプラトン理解は、高校では絶対に習わないと思います。上記の欲望論的な認識論を完成させたのがニーチェですが、その前に、近代認識論の核となったカントの認識論です。カントは、「生き物に認識されているリンゴ(=世界)は不完全に認識された世界。完全な世界は、神だけが『物自体』として認識している」(第212頁)ととります。そして、「人間の認識する世界は世界の完全な認識ではないが、少なくとも人間どうしはみな同じ認識装置をもつのだから、人間の経験する世界としては、世界は同じ姿で現れ出る。これが自然科学の客観性の根拠だ」(第212頁)と主張します。このカントの「物自体」という捉えを終焉させたのが、ニーチェの「力の思想」です。「絶対的認識、完全な認識というものはもはやどこにも存在しないということ。これ、分かるね。もはやさまざまな生き物の、さまざまな認識(ニーチェでは世界解釈)があるだけで、高度な認識も、完全な認識もない」(第214頁)。そして、その生き物の認識は、「原理的に、『対象』と、生き物の『身体』や『欲望』のありかたとの相関性としてだけ成立する」(第215頁)。「どんな認識も、カオス(対象)ー『力』(身体=欲望)相関性として成立する」(第215頁)。上記のように、ニーチェの認識論の直観を抜き出しました。そして、このニーチェの認識論をさらに発展させたのが、フッサールです。フッサールは、「すべての認識は、それぞれの主観的『確信』にすぎない」(第249頁)と言います。しかし、人間においては、「宗教では共同的認識は限界をもっているのに数学ではそうではない」(第250頁)です。言い換えると「人間の認識のうち、ある領域では、きわめて広範な共通認識の確信が成立し、ある領域では、きわめてせまい共通認識の確信しか成立しないが、それはなぜか」(第250頁)という疑問になります。その疑問に答えを与えるのが、「『正しい認識』の絶対的根拠は誰もいえない、でも『動かしがたい確信』の根拠はいえる」(第254頁)という「確信成立の条件」です。「ごくラフにいえば、自然科学の領域、つまり科学・物理の領域で認識の高い同型性が成立するのは、人間あるいは生き物の『身体性』に、構造的な同型性があるからだね。わたしはそれを『類身体性』と呼んでいる。これに対して人文科学の領域は、善悪、聖俗、美醜の秩序の領域であって、むしろここでは、人間や文化の間で厳密な一致は成立しないということのほうが原理的なんだ」(第262~263頁)。上記のように、竹田さんは、認識論を展開しています。書評として、「社会論」と「認識論」を紹介しました。上記のような哲学的思考は、高校倫理では習いません。例えば、カントの物自体の考え方に関しては、知ってて当たり前の前提条件になっています。ヘーゲルに関しても、「自由の相互承認」は竹田さん独自の解釈に近いです。ですので、本書は、入門書としてはおすすめできません。高校倫理程度の哲学理解は必要になります。ただ、高校倫理程度の哲学理解があれば、本書は非常に面白いです。本書は、様々な哲学者の思想的直観の核を竹田青嗣さんが抜き出してくれている、竹田さんの哲学理解を体系的に学べるお得な一冊だな、と思いました。
『史上最強の哲学入門』
2010 マガジン・マガジン 著者 飲茶
世界観の形成 5 実践への影響 2

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「今までの哲学入門書には何が足りなかったのだろうか?結論を先に言うなら、『バキ』分が足りなかったのです」(第6頁)。『グラップラー刃牙』から始まる、バキシリーズ。そのシリーズが大好きな飲茶さん。「最強を目指して、戦い続ける男たちの物語。そういった熱い展開、テイストを哲学入門書に持ち込んだらどうだろうかと考えました。格闘家と哲学者、両者は、一見まったく正反対の人種に思えるかもしれませんが、実のところ、格闘家が『強さ』に一生をかけた人間たちであるように、哲学者も『強い論(誰もが正しいと認めざるを得ない論)』の追求に人生のすべてを費やした人間たちなのです」(第7頁)。そんな入門書が、面白くないはずがありません。本書の白眉は、その具体例の豊富さです。例えば、相対主義を説明する際、それぞれの国が、別の国の神話に気付いてしまった時の例を挙げます。「『カミナリってのは、あの山の神様が、奥さんと喧嘩したときに起きるんだよね』『え!うちの国は違うよ!神様が悪魔を倒すために巨大なハンマーを振るうと出るんだよ!』『ちょっと、待って!おれの国は、また全然違うぞ!』」(第19頁)。ヒュームの「複合概念」=「過去の経験の組み合わせからできた、現実には存在しない概念」(第42頁)に関しては、「なぜ僕たちは現実には存在していないペガサスを思いつけるのかと言うと、単にペガサスとは、過去に見て知っている『馬』と『翼』を組み合わせただけの概念にすぎないからだ」(第42頁)と説明します。カントの「モノ自体」=「生物(人間)固有の型式によって経験される前の『ホントウの世界』」(第52頁)に関しても、「だいたい、イソギンチャク生物に『いやいや、世界はキミたちが思ってるようなものじゃないよ、世界は《ホントウ》は三次元世界なんだよ』と言ったところで、いったいどんな意味があるのだろうか?」(第53頁)、「結局のところ、人間は『人間にとっての世界』『人間にとっての心理』にしか到達できない」(第54頁)と結んでいます。豊富な具体例という意味がお分かり頂けたかと思います。本書は、すでに紹介した『竹田教授の哲学講義21講』とは異なり、高校倫理で習う哲学の一般的な解釈に従って、書かれています。本書発売時、ちょうど自分は高校3年生の受験期でした。もともと、飲茶さんのホームページを見て、その哲学解説の分かりやすさを知っていたことから、本書を購入し、倫理の勉強をしたことを未だに覚えています。カントの「モノ自体」、プラトンの「イデア論」、トマス・アクィナスの「二重心理説」、ニーチェの「神の死」など、本書の豊富な具体例から、ストンと理解できました。どんな入門書よりもわかりやすい哲学の入門書だと思います。ただ、これは解釈によって内容が変わる哲学という学問全般に言えることですが、あくまで本書に書かれている内容は、飲茶さんの解釈であることは、重々承知の上で、読む必要はあると思います。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
2012 マガジン・マガジン 著者 飲茶
世界観の形成 5 実践への影響 2

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『史上最強の哲学入門』の続編が出ると聞いて、すぐに本書を購入した覚えがあります。本書は、東洋哲学編。豊富な具体例や豊かな表現による記述は、前回と同様で、非常に分かりやすく、東洋哲学を説明してくれています。本書を読んで、まず驚いたのは、西洋哲学と東洋哲学の違いの、見事な説明です。まず、西洋哲学に関して。「西洋哲学を象徴的に図で表すとしたら、下図のような階段型のものとなる。すなわち、より優れた論、究極の真理をもとめて、先人の論を乗り越えて高み高みへと一歩ずつ登っていくイメージ。数え切れぬほどの人間たちが、二千五百年もの膨大な時間を費やし積み上げてきた強力な学問、それが西洋哲学である」(第13頁)。では、逆に東洋哲学とは何か。「東洋哲学とは、西洋哲学のように『たくさんの時間と人の手により、ちょっとずつ真理に近づいていく』のではなく、ある日突然、『真理に到達した』と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える」(第16頁)。続いての西洋哲学と東洋哲学の大きな違いは、理解のレベルの違いです。「西洋であれば、『知識』として得たことは素直に『知った』とみなされる。たとえば、ある事柄(哲学、科学の理論など)について知識を取得し、その知識に基づいてきちんと説明できたとしたら、『ああ、ああなたはそれについて知ってるね』と認めてくれるだろう。しかし、東洋では、『わかった!』『ああ、そうか!』といった体験を伴なっていないかぎり、『知った』とは認められないからだ」(第167頁)。「もし釈迦が到達した『真理』を知りたければ、釈迦と同じ『ああ、そういうことか!』という強烈な体験、悟りの体験をする、ということが前提になる。東洋では、リアルな体験として、『理解』を味わってはじめて『知った』と言えるのである」(第167頁)。最後の西洋哲学と東洋哲学の違いは、結果に至るプロセスの問題です。東洋哲学の場合、「『とにかく釈迦と同じ体験をすること』を目的として発展していったのである。『その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい!ウソだろうとなんだろうと使ってやる!』という気概でやってきた。なぜなら、彼らは『不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)』という絶望的な戦いに挑んでいるからだ」(第310頁)。その「真理に到達すれば良い!」、という目的を重視したできたものが、「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」(第310頁)であり、それが、鎌倉仏教に関連する、念仏であり、問答であり、座禅である、と結論付けています。本書は、上記のような東洋哲学解釈のもと、インドのウパニシャッド哲学のヤージュニャヴァルキヤから、釈迦、竜樹を経て、中国の孔子を代表とする諸子百家を経て、最後に鎌倉仏教の親鸞、栄西、道元に行き着きます。「史上最強を自称ととする東洋哲学者たちの哲学も、不思議なことに、みなこぞって『東』の方向へと継承されていきます。たとえば、古代インド哲学、仏教、老荘思想、あらゆる東洋哲学は、必ず東へと進み、最後には極東の日本へとたどり着いているのです」(第5頁)、「真理到達を宣言する不遜な東洋哲学が、みな一様に東を目指し、『日本』へ向かうという偶然の一致。我々は、その真意を知る必要がある!」(第5頁)。というようなオカルトチックな記述もありますが、それはご愛嬌。400頁以上ありますが、その頁数を一切感じさせない、熱意が伝わる記述で溢れています。本から湯気がほとばしる感覚があります。哲学初学者は、まずはこのシリーズが本当にオススメです。
『中学生からの哲学「超」入門』
2009 ちくまプリマー新書 著者 竹田青嗣
世界観の形成 5 実践への影響 4

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「哲学は、ひとことで、世界をより適切な仕方で説明する『原理』(キーワード)を提出する言語ゲームであり、かつ誰にも開かれた言語ゲームだと言えるのです」(第71頁)と哲学を定義づけ、哲学の方法を「①概念を使うこと、②原理を置くこと、③再始発すること」(第75頁)と説明する竹田さん。竹田青嗣さんの哲学の初歩が、誰にでも分かりやすく書いてある一冊が本書です。竹田さんは、近代哲学があつかった中心問題は三つ存在したといいます。「第一に、絶対に正しい認識というものは可能か、第二に社会の本質は何か、第三に人間の本質は何か」(第85頁)です。まさにこれらの竹田さんなりの「世界をより適切な仕方で説明する『原理』」が、見事に披露されています。まず、認識論について。「たくさんの人間がそれぞれ自分の確信をもち、その確信を交換しあっている。だから、そういった多様な確信が、どのような条件があればうまく交換され、共有されあうのか、ということをはっきりさせることが認識問題の本質である」(第41頁)というのが、竹田さんの認識論の大前提です。そして、その認識は、我々の欲望によって規定されると竹田さんは言います。「われわれは欲望をもっている。それに応じて、さまざまな対象が存在することになる。これが『欲望相関性』です」(第54頁)。詳しくは他の著書を読まなければいけませんが、竹田さんの認識論のエッセンスがはっきりと分かります。続いて、「社会の本質は何か」。竹田さんは社会の本質をルールにあると言います。「一つ一つの集団の性格を見ようと思ったら、このルールの性格と、それからルール権限ということを考えるのが、まず大事です。ルール権限というのは、ルールを決めたり変えたりする権限がどこに、あるいは誰にあると認められているか、ということです」(第126頁)。「人間関係の本質を、自分たちでそのルール関係を少しずつ編み変えてゆくゲームだと考えると、社会関係も、この考えを原理としておくのが有効です」(第133頁)。では、そのルール権限を中心概念とすると、社会はどのように見えるのか。「約一万年前に財の蓄積が可能になっていらい、人間社会は、つねに実力の闘争を延々続けてきた」(第122~123)。その闘争をホッブスは、「万人の万人に対する闘争」と呼びました。では、その社会においてルール権限は誰にあるか。それは、闘争の勝者です。「いたるところで戦争が続き、最後の覇者が決まると、ようやくその国の戦乱が収って統治がなり立ち、秩序が定まります。世の中は平和になる。しかし大きな問題がある。ここでは、秩序は、最後の勝利者の圧倒的な武力(実力)で支えられている。つまり、支配階級と被支配階級が力ずくで固定され、そのことで秩序が作り上げられているのです。要するに、近代以前の社会の根本のしくみは、はじめに『ケンカ』がある。勝者がついたら、一番強いものが、すべてのルールを決め、全員がそれに従う。つまり『実力の絶対支配の社会』です」(第122頁)。しかし、近代社会になり、ルール権限を持つ人々が市民革命によって作られた近代社会によって大きく変わりました。「つまり、近代社会ははじめて、『全員で作ったルールによる対等なゲーム』という仕組みとして、登場したのです。だから、もう一度言うと、近代社会のいちばん中心の原則は、だれもが自由で平等であることを誰かが(神や、政府や、その他が)認めている、というのではなく、社会の成員がそれを『相互承認』する意志をもつ、という仕組みにあるということです。哲学ではこれを『自由の相互承認』と言います」(第123頁)。このルール権限で社会の本質を見ていくという視座は、社会科教師として、大きな影響を受けました。最後に、「人間の本質は何か」。竹田さんは、ヘーゲルの哲学を援用し「自己とは一つの『欲望』である」(第143頁)と言います。そして、「人間の実存の本質が、各人の『欲望』とその『自由』(その実現可能性の条件)にあるなら、われわれの『欲望』はわれわれの生の根本的な与件(基礎条件)です。われわれは、本質的に自分の『欲望』のサーバント(奴)であって、マスター(主)ではない」(第200頁)のです。しかし、美しい人と結婚したいとか、お金持ちになりたいとか、皆が思うような「一般欲望」は達成できるかどうかはわかりません。ですから、竹田さんは提言します。「『一般欲望』は、すべての人をその目標に誘い生の憧れに誘うような、実存の”一般的”可能性です。しかしその運命は、きびしい競争の論理のうちにある。君がその目標を実現できるかどうかは、一定の確率をもったルーレットの中に投げ入れられたダイスの目のようなものです。私のアドバイスは、君はそういう欲望を捨てるべきだというのではない。そうではなくて、もしそれしか生の欲望をもてないなら、君の生は拠り所のないものになってしまう。むしろ君は、そのような『一般欲望』とはべつに、自分はこのように生きよう、このような生き方をしたいという、自分固有の生の目標(欲望)を見出すべきだ、ということです」(第206頁)。それは、言い換えると、「『自分の意志をもつこと』とは、自分の幸福の条件を、才能や運に委ねるのではなく、自分でよくつかみ直すこと、言いかえれば、自分で自分の『自由の条件』を考え、作り直すということです」(第206頁)ということになります。哲学的な課題を、ここまで明瞭で納得感のいく概念で説明できる竹田青嗣さんという人に感動を覚えます。また、本書の冒頭に書かれている竹田青嗣さんのライフヒストリーアプローチも、切実に自分と向き合い、哲学を学ぶことを欲した竹田さんの人間がわかりとても面白いです。自分はそんな切実性は持ち得ていないな、と思いと、そんな苦しみは味わいたくないという思いと、その哲学的な境地に達することのできた特異な経験に憧れも感じます。最後に、竹田さんの資本主義に関する理解も素晴らしく、で、学びの記録に残しておき、紹介を終了します。ヨーロッパでは、商品交換(交易)がもともと盛んでした。そして、商品を大量に売るためには大量生産しなければならない必要性から、分業が行われ、生産が拡大します。ただ、「交換と分業が刺激しあっているだけでは、じつは本格的な資本主義は現れない。それは『市民社会』、つまり、一般の民衆の『自由』が解放される社会、だれでも自分の好きな仕事を見つけ、稼いだお金で消費する自由をもつ社会が登場することではじめて可能になるのです。というのは、近代社会が現れるまでは、商品交換は、あくまで王侯や金持ちの商人の間だけに限定されていて広がりをもたない。普遍交換が普遍分業をうながし、生産性を拡大してゆくけれど、結局どこかで過剰になってしまう。ところが、市民社会では、すべての人間がこの分業生産と消費のプロセスに入ってきます。すると、普遍交換→普遍分業→普遍消費というサイクルが成立し、このサイクルはどんどん大きく拡大してゆくことが可能になるわけです」(第191頁)。「つまり、王権社会の経済は、『強制の経済』だけれど、資本主義の経済は人々を解放し、いわばその自主的な競争経済を利用して生産性をどんどん高めるという『競争の経済』なのです。これが資本主義というシステムの基本骨格です」(第191頁)。ただし、その競争原理は、いくら財を生み出しても働き続け、歯止めのきかない無限競争となってしまうということも書かれています。竹田さんの近代社会に対する洞察は、自分の授業に大きな影響を与えています。
『歎異抄 全訳注』
2000 講談社学術文庫 著者 梅原猛
世界観の形成 5 実践への影響 2

書評
親鸞の教えが、弟子であった唯円の手によって、鮮やかに残されている歎異抄。この歎異抄と出会ったのは、自分が大学3年生の時。その出会い以来、自分にとって歎異抄は、自分の人間観を形成してくれている大切な一冊となっています。古典を読み解けるほどの教養はないので、書評においても、梅原猛さんの訳から引用していきたいと思います。さて、歎異抄を読めば読むほど、自分は親鸞、そして唯円という人の魅力を感じざるを得ません。仏教というのは、基本的に、修行の末に煩悩がなくなるという境地である悟りを目指す宗教です。お釈迦様の到達した悟りという地点に到達したいという想いは、誰にでもあったのだろうと思います。しかし、親鸞は、いくら修行を積んでも、煩悩が消えないという自らの弱さに悩んでいました。何十年も修行をして、「私は悟った。煩悩は消えた」ということもできたでしょう。そのように言っていた僧侶の方が圧倒的に多かったはずです。しかし、親鸞は絶対にそのように言いません。絶対に自分を誤魔化しません。煩悩を消し去ることができない自分の弱さに、徹底的に向き合います。自分は煩悩を消し去ることができない悪人であるという自覚を徹底して持ち続けます。「自分の弱さに正直であるという強さ」。自分はこの親鸞の姿に、自分を常に重ねてしまいます。子どもたちの前で、自分を誤魔化し、偽善で話してはいないだろうか。自分に嘘をついていないだろうか。親鸞という人間の自己点検が、全く同様に、自分を点検してきます。歎異抄とは、自分にとって、自己点検をつきつけられるという、そんな書籍です。親鸞は第二条で、いくら修行をしても悟ることはできなかったと打ち明けます。親鸞は第三条では、「われらのごとき心の中にさまざまなどす黒い欲望をいっぱい持つものが、どういう行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいるのを阿弥陀さまはあわれんで、あの不可思議な願いを起こされた」(第30頁)とも話します。第九条では、極楽浄土に行く気がおきないとも言います。本当に、自分の心に対し、100%正直に向き合っているのです。そういった親鸞の姿に、自分は心を打たれます。さて、親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(第126頁)と言います。この言葉も、自分の心を打ちます。自分は欲望を制御しきれない悪人である。しかし、そんな悪人でさえ私のことを救ってくれるのだ。阿弥陀さまの存在とは、まさに自分を救ってくださるための存在だ。親鸞の感動が聞こえてきます。そして、自分自身に矢印を向けると、こんな自分でも無条件に受け入れてくれる存在がいること。特に妻に対してですが、感謝の念が湧き上がってきて、穏やかな気持ちになります。歎異抄。自分はこの歎異抄を、完全に自分なりの解釈で読んでしまっています。こんな読み方で良いのかなぁという想いもありつつ、「ひとえに自分のためなり」の気持ちで、歎異抄と出会い解釈しています。「どこまでいっても、自分を誤魔化さず、自分に正直に生きること」であったり、「自分を無条件に受け入れてくれる存在に感謝すること」であったり、そんな生き方の根本部分を見直させてくれている歎異抄。周囲にいくら批判されようが自分の気持ちに正直に生きた親鸞という人間の一生に、自分は感化されているのだなぁ、と歎異抄を読むたびに思います。
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『愛するということ』
1990 紀伊国屋書店 著者 エーリッヒ・フロム 訳者 鈴木晶
世界観の形成 5 実践への影響 5
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本書は、自分が大学生の時、今の奥さんを好きになった時に読み、勇気をもらった書籍です。卒業旅行での旅行先でのナンパなんですけどね(笑)。「何とでももなれ!」って背中を押してくれた本。「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに『落ちる』ものではなく、『みずから踏み込む』ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない」(第42~43頁)。「信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である」(第187~188頁)。「愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」(第190頁)。上記の引用三点は、折に触れて読み返す箇所です。
『竹田教授の哲学講義21講』
2011 みやび出版 著者 竹田青嗣
世界観の形成 5 実践への影響 2

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「大事なのは、プラトンがこんな変ないい方でいったい何をいおうとしていたか、つまり彼の思想的直観の内実をつかみ出すことです」(第7貢)。「ヘーゲル哲学の全体体系はもう誰の喉もとおらない。でも、それは大きなロブスターみたいなもんで、食べられない固い外殻だけうまく外して棄ててしまえば、その中味はただものではないんだ。人間についても社会についても、現代思想の全体が小さく見えるほど、多くの本質的な考察がある」(第165貢)。上記のように、多くの哲学者の主張の直観の核を筆者なりに抜き出し、それを提示してくれています。本書は、あとがきで、哲学を「一切の認識や主張を『確信』とみなし、キーワード(原理)をおいてこの確信を間主観的な『共通確信』へ作り替えてゆく『言語ゲーム』の方法」(第357頁)と定義しています。多くの著書がある竹田さんの哲学史理解を、「共通確信を作る!」という大テーマのもと、最も体系的に味わえるのが、本書であると思います。この共通確信は、大きく二つに分かれます。一つは「社会論」、一つは「認識論」です。まずは、社会論から。竹田さんの場合、この社会論は、「ホッブス→ルソー→ヘーゲル」の順でいきます。まずホッブスは、人間は放っておけば「万人の万人に対する闘争」が起こってしまうという確信を打ち立て、「人間社会の普遍戦争状態を抑制するには、権力を集めて強力なルールで統治する国家を作る以外にない」(第74~75頁)という原理を作りあげました。これを筆者は、「覇権の原理」とも呼んでいます。では、その国家権力の正当性の原理はなにか。それをルソーは、「近代国家は人々の合意によって主権を作っているので、統治権力はつねに人々の一般意志を代表しなくてはならない」(第118頁)と述べます。この一般意志は、あくまで「国家権力の正当性の原理」という理解が核です。では、その一般意志の中でも、最も優先すべきものは何か。そこが、ヘーゲルの仕事です。ヘーゲルは、「人間の普遍支配の歴史は『自由』を求める人間欲望のせめぎあいを根本原因とする」(第169頁)と読み解きました。結果、「人間は、悲惨な経験を繰り返したのちに、ある時点ではじめて、万人が『自由』でありうる唯一の原理を見出す。それがすなわち『自由の相互承認』」(第170頁)。上記のような社会構成の原理は、もう竹田哲学といって良いのではないか、と思います。同じく、認識論に関しては、竹田さんは、欲望相関性の原理を思想の核に置いています。ですので、それに直結する「プラトン→(カント)→ニーチェ→フッサール」の順で紹介します。まず、プラトンの洞窟の比喩の直観の核は、「人間は誰も自分の『認識』を正しいものだと考えるけど、それは結局『思惑』(ドクサ)であることを越えられない。つまり自分だけの主観的信念にすぎないのに、それを真知(エピステーメー)だと言い張る」(第14頁)ことだといいます。では、人間はどのようなものを、真知だと思うのか。「プラトンのエロス論の核にあるのは、まず、人間がエロス的欲望を向けるものは、総じて『美的なもの』(つまり、カッコよいもの、ステキなもの、心に快いと思えるもの)である」(第19頁)。それはつまり、「人間の『世界認識』を可能にしているのは世界に対するエロス性である、と取ると、『イデア説』は、まさしく欲望論的な哲学原理の端緒だといえる」(第24頁)。このようなプラトン理解は、高校では絶対に習わないと思います。上記の欲望論的な認識論を完成させたのがニーチェですが、その前に、近代認識論の核となったカントの認識論です。カントは、「生き物に認識されているリンゴ(=世界)は不完全に認識された世界。完全な世界は、神だけが『物自体』として認識している」(第212頁)ととります。そして、「人間の認識する世界は世界の完全な認識ではないが、少なくとも人間どうしはみな同じ認識装置をもつのだから、人間の経験する世界としては、世界は同じ姿で現れ出る。これが自然科学の客観性の根拠だ」(第212頁)と主張します。このカントの「物自体」という捉えを終焉させたのが、ニーチェの「力の思想」です。「絶対的認識、完全な認識というものはもはやどこにも存在しないということ。これ、分かるね。もはやさまざまな生き物の、さまざまな認識(ニーチェでは世界解釈)があるだけで、高度な認識も、完全な認識もない」(第214頁)。そして、その生き物の認識は、「原理的に、『対象』と、生き物の『身体』や『欲望』のありかたとの相関性としてだけ成立する」(第215頁)。「どんな認識も、カオス(対象)ー『力』(身体=欲望)相関性として成立する」(第215頁)。上記のように、ニーチェの認識論の直観を抜き出しました。そして、このニーチェの認識論をさらに発展させたのが、フッサールです。フッサールは、「すべての認識は、それぞれの主観的『確信』にすぎない」(第249頁)と言います。しかし、人間においては、「宗教では共同的認識は限界をもっているのに数学ではそうではない」(第250頁)です。言い換えると「人間の認識のうち、ある領域では、きわめて広範な共通認識の確信が成立し、ある領域では、きわめてせまい共通認識の確信しか成立しないが、それはなぜか」(第250頁)という疑問になります。その疑問に答えを与えるのが、「『正しい認識』の絶対的根拠は誰もいえない、でも『動かしがたい確信』の根拠はいえる」(第254頁)という「確信成立の条件」です。「ごくラフにいえば、自然科学の領域、つまり科学・物理の領域で認識の高い同型性が成立するのは、人間あるいは生き物の『身体性』に、構造的な同型性があるからだね。わたしはそれを『類身体性』と呼んでいる。これに対して人文科学の領域は、善悪、聖俗、美醜の秩序の領域であって、むしろここでは、人間や文化の間で厳密な一致は成立しないということのほうが原理的なんだ」(第262~263頁)。上記のように、竹田さんは、認識論を展開しています。書評として、「社会論」と「認識論」を紹介しました。上記のような哲学的思考は、高校倫理では習いません。例えば、カントの物自体の考え方に関しては、知ってて当たり前の前提条件になっています。ヘーゲルに関しても、「自由の相互承認」は竹田さん独自の解釈に近いです。ですので、本書は、入門書としてはおすすめできません。高校倫理程度の哲学理解は必要になります。ただ、高校倫理程度の哲学理解があれば、本書は非常に面白いです。本書は、様々な哲学者の思想的直観の核を竹田青嗣さんが抜き出してくれている、竹田さんの哲学理解を体系的に学べるお得な一冊だな、と思いました。
『史上最強の哲学入門』
2010 マガジン・マガジン 著者 飲茶
世界観の形成 5 実践への影響 2

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「今までの哲学入門書には何が足りなかったのだろうか?結論を先に言うなら、『バキ』分が足りなかったのです」(第6頁)。『グラップラー刃牙』から始まる、バキシリーズ。そのシリーズが大好きな飲茶さん。「最強を目指して、戦い続ける男たちの物語。そういった熱い展開、テイストを哲学入門書に持ち込んだらどうだろうかと考えました。格闘家と哲学者、両者は、一見まったく正反対の人種に思えるかもしれませんが、実のところ、格闘家が『強さ』に一生をかけた人間たちであるように、哲学者も『強い論(誰もが正しいと認めざるを得ない論)』の追求に人生のすべてを費やした人間たちなのです」(第7頁)。そんな入門書が、面白くないはずがありません。本書の白眉は、その具体例の豊富さです。例えば、相対主義を説明する際、それぞれの国が、別の国の神話に気付いてしまった時の例を挙げます。「『カミナリってのは、あの山の神様が、奥さんと喧嘩したときに起きるんだよね』『え!うちの国は違うよ!神様が悪魔を倒すために巨大なハンマーを振るうと出るんだよ!』『ちょっと、待って!おれの国は、また全然違うぞ!』」(第19頁)。ヒュームの「複合概念」=「過去の経験の組み合わせからできた、現実には存在しない概念」(第42頁)に関しては、「なぜ僕たちは現実には存在していないペガサスを思いつけるのかと言うと、単にペガサスとは、過去に見て知っている『馬』と『翼』を組み合わせただけの概念にすぎないからだ」(第42頁)と説明します。カントの「モノ自体」=「生物(人間)固有の型式によって経験される前の『ホントウの世界』」(第52頁)に関しても、「だいたい、イソギンチャク生物に『いやいや、世界はキミたちが思ってるようなものじゃないよ、世界は《ホントウ》は三次元世界なんだよ』と言ったところで、いったいどんな意味があるのだろうか?」(第53頁)、「結局のところ、人間は『人間にとっての世界』『人間にとっての心理』にしか到達できない」(第54頁)と結んでいます。豊富な具体例という意味がお分かり頂けたかと思います。本書は、すでに紹介した『竹田教授の哲学講義21講』とは異なり、高校倫理で習う哲学の一般的な解釈に従って、書かれています。本書発売時、ちょうど自分は高校3年生の受験期でした。もともと、飲茶さんのホームページを見て、その哲学解説の分かりやすさを知っていたことから、本書を購入し、倫理の勉強をしたことを未だに覚えています。カントの「モノ自体」、プラトンの「イデア論」、トマス・アクィナスの「二重心理説」、ニーチェの「神の死」など、本書の豊富な具体例から、ストンと理解できました。どんな入門書よりもわかりやすい哲学の入門書だと思います。ただ、これは解釈によって内容が変わる哲学という学問全般に言えることですが、あくまで本書に書かれている内容は、飲茶さんの解釈であることは、重々承知の上で、読む必要はあると思います。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
2012 マガジン・マガジン 著者 飲茶
世界観の形成 5 実践への影響 2

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『史上最強の哲学入門』の続編が出ると聞いて、すぐに本書を購入した覚えがあります。本書は、東洋哲学編。豊富な具体例や豊かな表現による記述は、前回と同様で、非常に分かりやすく、東洋哲学を説明してくれています。本書を読んで、まず驚いたのは、西洋哲学と東洋哲学の違いの、見事な説明です。まず、西洋哲学に関して。「西洋哲学を象徴的に図で表すとしたら、下図のような階段型のものとなる。すなわち、より優れた論、究極の真理をもとめて、先人の論を乗り越えて高み高みへと一歩ずつ登っていくイメージ。数え切れぬほどの人間たちが、二千五百年もの膨大な時間を費やし積み上げてきた強力な学問、それが西洋哲学である」(第13頁)。では、逆に東洋哲学とは何か。「東洋哲学とは、西洋哲学のように『たくさんの時間と人の手により、ちょっとずつ真理に近づいていく』のではなく、ある日突然、『真理に到達した』と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える」(第16頁)。続いての西洋哲学と東洋哲学の大きな違いは、理解のレベルの違いです。「西洋であれば、『知識』として得たことは素直に『知った』とみなされる。たとえば、ある事柄(哲学、科学の理論など)について知識を取得し、その知識に基づいてきちんと説明できたとしたら、『ああ、ああなたはそれについて知ってるね』と認めてくれるだろう。しかし、東洋では、『わかった!』『ああ、そうか!』といった体験を伴なっていないかぎり、『知った』とは認められないからだ」(第167頁)。「もし釈迦が到達した『真理』を知りたければ、釈迦と同じ『ああ、そういうことか!』という強烈な体験、悟りの体験をする、ということが前提になる。東洋では、リアルな体験として、『理解』を味わってはじめて『知った』と言えるのである」(第167頁)。最後の西洋哲学と東洋哲学の違いは、結果に至るプロセスの問題です。東洋哲学の場合、「『とにかく釈迦と同じ体験をすること』を目的として発展していったのである。『その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい!ウソだろうとなんだろうと使ってやる!』という気概でやってきた。なぜなら、彼らは『不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)』という絶望的な戦いに挑んでいるからだ」(第310頁)。その「真理に到達すれば良い!」、という目的を重視したできたものが、「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」(第310頁)であり、それが、鎌倉仏教に関連する、念仏であり、問答であり、座禅である、と結論付けています。本書は、上記のような東洋哲学解釈のもと、インドのウパニシャッド哲学のヤージュニャヴァルキヤから、釈迦、竜樹を経て、中国の孔子を代表とする諸子百家を経て、最後に鎌倉仏教の親鸞、栄西、道元に行き着きます。「史上最強を自称ととする東洋哲学者たちの哲学も、不思議なことに、みなこぞって『東』の方向へと継承されていきます。たとえば、古代インド哲学、仏教、老荘思想、あらゆる東洋哲学は、必ず東へと進み、最後には極東の日本へとたどり着いているのです」(第5頁)、「真理到達を宣言する不遜な東洋哲学が、みな一様に東を目指し、『日本』へ向かうという偶然の一致。我々は、その真意を知る必要がある!」(第5頁)。というようなオカルトチックな記述もありますが、それはご愛嬌。400頁以上ありますが、その頁数を一切感じさせない、熱意が伝わる記述で溢れています。本から湯気がほとばしる感覚があります。哲学初学者は、まずはこのシリーズが本当にオススメです。
『中学生からの哲学「超」入門』
2009 ちくまプリマー新書 著者 竹田青嗣
世界観の形成 5 実践への影響 4

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「哲学は、ひとことで、世界をより適切な仕方で説明する『原理』(キーワード)を提出する言語ゲームであり、かつ誰にも開かれた言語ゲームだと言えるのです」(第71頁)と哲学を定義づけ、哲学の方法を「①概念を使うこと、②原理を置くこと、③再始発すること」(第75頁)と説明する竹田さん。竹田青嗣さんの哲学の初歩が、誰にでも分かりやすく書いてある一冊が本書です。竹田さんは、近代哲学があつかった中心問題は三つ存在したといいます。「第一に、絶対に正しい認識というものは可能か、第二に社会の本質は何か、第三に人間の本質は何か」(第85頁)です。まさにこれらの竹田さんなりの「世界をより適切な仕方で説明する『原理』」が、見事に披露されています。まず、認識論について。「たくさんの人間がそれぞれ自分の確信をもち、その確信を交換しあっている。だから、そういった多様な確信が、どのような条件があればうまく交換され、共有されあうのか、ということをはっきりさせることが認識問題の本質である」(第41頁)というのが、竹田さんの認識論の大前提です。そして、その認識は、我々の欲望によって規定されると竹田さんは言います。「われわれは欲望をもっている。それに応じて、さまざまな対象が存在することになる。これが『欲望相関性』です」(第54頁)。詳しくは他の著書を読まなければいけませんが、竹田さんの認識論のエッセンスがはっきりと分かります。続いて、「社会の本質は何か」。竹田さんは社会の本質をルールにあると言います。「一つ一つの集団の性格を見ようと思ったら、このルールの性格と、それからルール権限ということを考えるのが、まず大事です。ルール権限というのは、ルールを決めたり変えたりする権限がどこに、あるいは誰にあると認められているか、ということです」(第126頁)。「人間関係の本質を、自分たちでそのルール関係を少しずつ編み変えてゆくゲームだと考えると、社会関係も、この考えを原理としておくのが有効です」(第133頁)。では、そのルール権限を中心概念とすると、社会はどのように見えるのか。「約一万年前に財の蓄積が可能になっていらい、人間社会は、つねに実力の闘争を延々続けてきた」(第122~123)。その闘争をホッブスは、「万人の万人に対する闘争」と呼びました。では、その社会においてルール権限は誰にあるか。それは、闘争の勝者です。「いたるところで戦争が続き、最後の覇者が決まると、ようやくその国の戦乱が収って統治がなり立ち、秩序が定まります。世の中は平和になる。しかし大きな問題がある。ここでは、秩序は、最後の勝利者の圧倒的な武力(実力)で支えられている。つまり、支配階級と被支配階級が力ずくで固定され、そのことで秩序が作り上げられているのです。要するに、近代以前の社会の根本のしくみは、はじめに『ケンカ』がある。勝者がついたら、一番強いものが、すべてのルールを決め、全員がそれに従う。つまり『実力の絶対支配の社会』です」(第122頁)。しかし、近代社会になり、ルール権限を持つ人々が市民革命によって作られた近代社会によって大きく変わりました。「つまり、近代社会ははじめて、『全員で作ったルールによる対等なゲーム』という仕組みとして、登場したのです。だから、もう一度言うと、近代社会のいちばん中心の原則は、だれもが自由で平等であることを誰かが(神や、政府や、その他が)認めている、というのではなく、社会の成員がそれを『相互承認』する意志をもつ、という仕組みにあるということです。哲学ではこれを『自由の相互承認』と言います」(第123頁)。このルール権限で社会の本質を見ていくという視座は、社会科教師として、大きな影響を受けました。最後に、「人間の本質は何か」。竹田さんは、ヘーゲルの哲学を援用し「自己とは一つの『欲望』である」(第143頁)と言います。そして、「人間の実存の本質が、各人の『欲望』とその『自由』(その実現可能性の条件)にあるなら、われわれの『欲望』はわれわれの生の根本的な与件(基礎条件)です。われわれは、本質的に自分の『欲望』のサーバント(奴)であって、マスター(主)ではない」(第200頁)のです。しかし、美しい人と結婚したいとか、お金持ちになりたいとか、皆が思うような「一般欲望」は達成できるかどうかはわかりません。ですから、竹田さんは提言します。「『一般欲望』は、すべての人をその目標に誘い生の憧れに誘うような、実存の”一般的”可能性です。しかしその運命は、きびしい競争の論理のうちにある。君がその目標を実現できるかどうかは、一定の確率をもったルーレットの中に投げ入れられたダイスの目のようなものです。私のアドバイスは、君はそういう欲望を捨てるべきだというのではない。そうではなくて、もしそれしか生の欲望をもてないなら、君の生は拠り所のないものになってしまう。むしろ君は、そのような『一般欲望』とはべつに、自分はこのように生きよう、このような生き方をしたいという、自分固有の生の目標(欲望)を見出すべきだ、ということです」(第206頁)。それは、言い換えると、「『自分の意志をもつこと』とは、自分の幸福の条件を、才能や運に委ねるのではなく、自分でよくつかみ直すこと、言いかえれば、自分で自分の『自由の条件』を考え、作り直すということです」(第206頁)ということになります。哲学的な課題を、ここまで明瞭で納得感のいく概念で説明できる竹田青嗣さんという人に感動を覚えます。また、本書の冒頭に書かれている竹田青嗣さんのライフヒストリーアプローチも、切実に自分と向き合い、哲学を学ぶことを欲した竹田さんの人間がわかりとても面白いです。自分はそんな切実性は持ち得ていないな、と思いと、そんな苦しみは味わいたくないという思いと、その哲学的な境地に達することのできた特異な経験に憧れも感じます。最後に、竹田さんの資本主義に関する理解も素晴らしく、で、学びの記録に残しておき、紹介を終了します。ヨーロッパでは、商品交換(交易)がもともと盛んでした。そして、商品を大量に売るためには大量生産しなければならない必要性から、分業が行われ、生産が拡大します。ただ、「交換と分業が刺激しあっているだけでは、じつは本格的な資本主義は現れない。それは『市民社会』、つまり、一般の民衆の『自由』が解放される社会、だれでも自分の好きな仕事を見つけ、稼いだお金で消費する自由をもつ社会が登場することではじめて可能になるのです。というのは、近代社会が現れるまでは、商品交換は、あくまで王侯や金持ちの商人の間だけに限定されていて広がりをもたない。普遍交換が普遍分業をうながし、生産性を拡大してゆくけれど、結局どこかで過剰になってしまう。ところが、市民社会では、すべての人間がこの分業生産と消費のプロセスに入ってきます。すると、普遍交換→普遍分業→普遍消費というサイクルが成立し、このサイクルはどんどん大きく拡大してゆくことが可能になるわけです」(第191頁)。「つまり、王権社会の経済は、『強制の経済』だけれど、資本主義の経済は人々を解放し、いわばその自主的な競争経済を利用して生産性をどんどん高めるという『競争の経済』なのです。これが資本主義というシステムの基本骨格です」(第191頁)。ただし、その競争原理は、いくら財を生み出しても働き続け、歯止めのきかない無限競争となってしまうということも書かれています。竹田さんの近代社会に対する洞察は、自分の授業に大きな影響を与えています。
『歎異抄 全訳注』
2000 講談社学術文庫 著者 梅原猛
世界観の形成 5 実践への影響 2

書評
親鸞の教えが、弟子であった唯円の手によって、鮮やかに残されている歎異抄。この歎異抄と出会ったのは、自分が大学3年生の時。その出会い以来、自分にとって歎異抄は、自分の人間観を形成してくれている大切な一冊となっています。古典を読み解けるほどの教養はないので、書評においても、梅原猛さんの訳から引用していきたいと思います。さて、歎異抄を読めば読むほど、自分は親鸞、そして唯円という人の魅力を感じざるを得ません。仏教というのは、基本的に、修行の末に煩悩がなくなるという境地である悟りを目指す宗教です。お釈迦様の到達した悟りという地点に到達したいという想いは、誰にでもあったのだろうと思います。しかし、親鸞は、いくら修行を積んでも、煩悩が消えないという自らの弱さに悩んでいました。何十年も修行をして、「私は悟った。煩悩は消えた」ということもできたでしょう。そのように言っていた僧侶の方が圧倒的に多かったはずです。しかし、親鸞は絶対にそのように言いません。絶対に自分を誤魔化しません。煩悩を消し去ることができない自分の弱さに、徹底的に向き合います。自分は煩悩を消し去ることができない悪人であるという自覚を徹底して持ち続けます。「自分の弱さに正直であるという強さ」。自分はこの親鸞の姿に、自分を常に重ねてしまいます。子どもたちの前で、自分を誤魔化し、偽善で話してはいないだろうか。自分に嘘をついていないだろうか。親鸞という人間の自己点検が、全く同様に、自分を点検してきます。歎異抄とは、自分にとって、自己点検をつきつけられるという、そんな書籍です。親鸞は第二条で、いくら修行をしても悟ることはできなかったと打ち明けます。親鸞は第三条では、「われらのごとき心の中にさまざまなどす黒い欲望をいっぱい持つものが、どういう行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいるのを阿弥陀さまはあわれんで、あの不可思議な願いを起こされた」(第30頁)とも話します。第九条では、極楽浄土に行く気がおきないとも言います。本当に、自分の心に対し、100%正直に向き合っているのです。そういった親鸞の姿に、自分は心を打たれます。さて、親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(第126頁)と言います。この言葉も、自分の心を打ちます。自分は欲望を制御しきれない悪人である。しかし、そんな悪人でさえ私のことを救ってくれるのだ。阿弥陀さまの存在とは、まさに自分を救ってくださるための存在だ。親鸞の感動が聞こえてきます。そして、自分自身に矢印を向けると、こんな自分でも無条件に受け入れてくれる存在がいること。特に妻に対してですが、感謝の念が湧き上がってきて、穏やかな気持ちになります。歎異抄。自分はこの歎異抄を、完全に自分なりの解釈で読んでしまっています。こんな読み方で良いのかなぁという想いもありつつ、「ひとえに自分のためなり」の気持ちで、歎異抄と出会い解釈しています。「どこまでいっても、自分を誤魔化さず、自分に正直に生きること」であったり、「自分を無条件に受け入れてくれる存在に感謝すること」であったり、そんな生き方の根本部分を見直させてくれている歎異抄。周囲にいくら批判されようが自分の気持ちに正直に生きた親鸞という人間の一生に、自分は感化されているのだなぁ、と歎異抄を読むたびに思います。
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