三善院概要
平安時代の文章博士である三善朝臣清行によって創建された寺。清行の八男浄蔵貴所が初代住職である
菅原道真公御帰依の十一面観世音菩薩が安置されている。
浄土宗西山禅林寺派清行山三善院浄蔵寺
l 由来
三善朝臣清行卿の創建である
延喜九年(九〇九)この時の左大臣藤原時平が崩御された時に時平の耳から青色の二龍が現れたのを、浄蔵貴所(清行の八男)が見られて、応変天帝の化身(道真)と驚き、三善清行の先輩でもあり、親交深き菅原家が、信心していた吉祥天女と菅公の幼児より諸病平癒誓願の、十一面観世音菩薩を共に崇拝し詣でていたので、この地に延喜九年十一面観世音菩薩の尊容に清行・浄蔵の二人で七寶を喜捨し、建立して寺名をつけられた。(道真没後六年)
三善清行の名を山号に《清行山》院号を《三善院》寺号には清行公の八男初代住職浄蔵貴所の名を冠し《浄蔵寺》とされた。
この地は、常精舎の聖域であり、その福田に吉祥天女の前法華堂の辺りに建立された。地紋は藤原氏にちなんで、「下がり藤」を用いられている。
l 三善清行 (八四七~九一八)
卿は承和十四年生~延喜十八年十二月七日 卒去七十二歳
平安時代の文学者であり文章博士である。従四位式部権大輔。延喜十四年(九一五)『意見十二箇条』上奏で有名。 その内容は、奈良時代から律令政治が次第に衰え、国家財政が緊迫してきた事情を述べた序文の後に政治上の諸欠陥を具体的に指摘し実際的な対策を論じた実務家で、当時の事情がよく伺われる優れた文章家であった
l 浄蔵貴所 (八九一~九六四)
寛平三年~康保元年十一月二十一日 卒去七十四歳
浄蔵については、加持祈祷の逸話は数多く、一条戻り橋が有名で、父清行の死を聞き紀州熊野から京都に馳せ帰った時葬列は堀川一条橋にさしかかっていた。浄蔵は柩にすがり泣き悲しみ熱誠をこめて祈祷したところ不思議にも父が一時蘇生して言葉を交わしたという。
l 十一面観世音菩薩
今に伝わる、十一面観世音菩薩は、菅公三歳のおり重病に罹られ、父母共に傷心深く、母が吉祥天女に十七日誓願し、観音菩薩の威神力を深く信心され病気平癒後新たに十一面観世音像を奉納された。
天女堂の方、東向きに建立されたのが観音堂でありますが、損傷甚だしく、元和二年(一六一六)に吉祥院の多くの方々の寄進によりお堂・空殿の全面改築をして落慶法要を修す。
l 観音縁起によれば
観音の大慈大悲は海の如く深く広くして、三毒七難を払いたもうと記され、一心にこの観音を念じて称名すれば(隣家の火災で類焼を免れたとか、建武の時に当村某の女房の難産を平産にしたとか、元和の時大阪落城の敗軍の徒が草中に隠れ居るのを武者一箭すれど、矢はそれて当たらなかった。この人常に観音を念じていたお陰なり:等)古今霊験あらたかなる観音菩薩である。菅公の病気平癒の後父母歓喜して詠歌をお作りになったともあるが、又清行か清公かも定かではない。
今日でも未だに月二回―尼講・三善講にてご詠歌を奉納している。
三善院 十一面観世音菩薩 御詠歌
いつきても 心よくなる みよし寺
諸病平癒 たのまぬはなし
その他平安時代に最も多く信仰された地蔵尊
三善院 地蔵尊 御詠歌
造りたる 罪も願えば みよし寺
救う地蔵の 誓い尊し
三善院 大日如来 御詠歌
ひのめぐみ つみとがのゆき きえ果てて
あまねく照らす 身とやなるらん
又あまりほかの寺院には見られない青面金剛明王の祠あり、それぞれを後世に伝えるべくして平成十一年(一九九九)地蔵・庚申・大日如来の祠を一つにして新築し三味堂と名付けて、五月六日落慶開眼供養を檀信徒多数のもと厳修す。
平成十四年に二年掛けて改築し、浄土の楽土即ち佛の三千世界・二十五菩薩を雲間に配した極楽世界を表現。内陣の円柱には上り龍・下り龍を黒光茂明画伯により描かれており。すべての設計は現在の日本代表的一級建築士 山本良介氏による超近代的建築で、厳かな、なんとも言えぬ心温まる本堂です。
平成十八年、十一月五日
二十五菩薩のおねりにつづき多数の檀家並びに関係者参詣のもとで落慶法要を厳修。
プロフィール

- 三善院 前住職
- 第62世
「永井亮正和尚」と一級建築士(山本良介氏)により
平成14年旧寺院から現在ある広大なる宇宙を表現した、
阿弥陀堂を建立。
本堂の4つの柱には、(黒光茂明画伯)による昇り竜と下り竜が描かれ
四天王が上部に安置。
天井の放射状に、上下2段に広がった梁には、48の大願を表し、
下段に25菩薩を安置した、荘厳な本堂である。