バリ島の歴史と人物
「バリ島の王国」の歴史は別ページにまとめてあります。合わせて御覧ください。
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歴史上の人物
ルシ・マルカンディア Rsi Markandeya8世紀。ジャワ島マタラム王朝時代のヒンドゥー教僧侶。バリ島に信徒と渡り、アグン山に登りブサキ寺院の基礎となるバスキアン・プセー・ジャガット寺院をつくったとされる。また、ウブドを開拓し、グヌン・ルバ寺院他を建設した。バンジャールとデサ(村)の組織、潅漑システム=スバックの基礎を造った人と伝えられている。
関連サイト:グヌン・ルバ寺院
ダルマ・ウダヤナ王 Udayana
11世紀。バリのワルデマワ王朝の第4代王。東ジャワのクデェリ王国のマヘンドラダッタ姫を妻に迎え、エルランガの父となる。ウダヤナ王は妻との連名の5つの碑文を残しているが、この碑文が古代バリ語からジャワ語に変わっていくことにより、バリにジャワ文化の影響が強くなっていくことがわかる。グヌン・カウィに墓があるといわれる。
関連サイト:グヌン・カウィ遺蹟
マヘンドラダッタ王妃 Mahendradatta
11世紀。ウダヤナ王の妻、エルランガ王の母。東ジャワのグデェリ王国初代シンドク王のひ孫にあたる。ウダヤナ王が亡くなるとマヘンドラダッタは寡婦となり、チャロナランとよばれるようになる。ギアニャール県にあるブキット・ダルマ遺跡にはマヘンドラダッタを彫ったと思われる古いドゥルガ神像が奉られている。
関連サイト:チャロン・アナン-舞踊・悪魔祓いの踊り
エルランガ王 Erlangga
11世紀。バリのウダヤナ王の長男、エルランガはクデェリ王朝のダルマ・ワンサ王の女婿となった。しかし、ダルマ・ワンサ王は地方領主の一人ウラウリ王の反乱によって暗殺されたので、後にダルマ・ワンサのイサナ王朝を継ぐ者として王位に就き、領地を回復していって東ジャワのクディリ王朝を復興した。当時のバリ王はグヌン・カウィを造った弟のアナック・ウンス。
関連サイト:クデェリ王国
ウンプ・クトゥラン Ketran
11世紀。ヒンドゥー教シワ派の高僧。ジャワから渡ってきて、ワルデマワ王朝時代にウダヤナ王に仕えた。当時は東ジャワのクディリ王国とのつながりが強まった時期。クトゥラン僧はカヤンガン・ティガという村の三つの寺院やメル塔、屋敷内の社(やしろ)など新しい宗教慣行をバリに広めた人物といわれる。
関連サイト:ウルワツ寺院
ダルム・ブダウル王 Dalem Bedahulu
豚頭王。14世紀。ペジェン近郊にあったダルム・ブダウル王は、1343年にはマジャパイト王国の侵攻と戦い、Beduluで敗北し、ワルマデワ王朝と古来のバリ人政権が終わりをつげた。マジャパイト時代の宰相カジャ・マダは、このダルム・ブダウル王を征服すべく国王から派遣された。豚の頭だったかはどうかはともかく「変な顔の王」と伝えられたようだ。
ブドゥルゥ村 Bedulu の名称は魔王マヤ・ダワナの子孫という豚頭王 Bedahulu の名前からとられたという。
関連サイト:ダルム・ブダウル伝説
ガジャ・マダ Gaja Mada
14世紀。ジャワのマジャパイト国の大宰相。在任中は領土拡張政策を推進し、古代インドネシア史上最大の版図を築いた。1343年にバリを攻撃して、征服した人物として知られている。バリと関係の深いクディリ王国の子孫をバリ統治のために派遣する。
関連サイト:マジャパイト王国
クパキサン Kepakisan
14世紀。本名はイダ・ダラム・クトゥト・クリスナ・クパキサンIda Dalem Ketut Kepakinsan。マジャパイト王国から、バリに派遣されたクパキサンは1352年に現在のギャニャール付近のサンプランガンSampranganを本拠地として定め、周辺の統治を行った。後にクパキサンを始祖とする小王国はゲルゲル王朝となる。
関連サイト:ゲルゲル王国
ワフ・ラフ Wahu Rahu
14~15世紀。マジャパイトの最高位の祭司で、ジャワからバリに渡り、バリ中を放浪して、妻たちの侍女に至るまで、あらゆる階層の女との間に子をつくったという。その子がブラフマナの家系の祖となった。ブラフマナの家系のそれぞれの地位の高低は、祖となった子の母親の出自にもとづくとされる。
関連サイト:バリ島の祭司
ダンヒャン・ニラルタ Danghyang Nirartha
16世紀。東ジャワ出身のヒンドゥー教シワ派の僧。16世紀中頃バリに渡来後、ゲルゲル王朝に仕え、タナ・ロット寺院、ウルワツ寺院のメルなど各地の寺院を建立や造築し、祭壇のパドマサナを寺院内に建てる慣行をバリに広めるなど、バリ・ヒンドゥー教の基礎を築いた。
関連サイト:タナロット寺院
グデ・スカワティ Ida Tjokorde Gede Sukawati
1880年、イダ・チョコルド・グデ・スカワティ(Ida Tjokorde Gede Sukawati)初代ウブド王。ラコー・スカワティの父。北部ギアニャールを支配下におき、クルンクンの勢力にも圧力をかけた。長女をギアニャール王の妻として、スカワティ家と姻戚関係を結ぶ。カランセスムの王と並んで、植民地時代にバリ人の中で最も政治力を持った人物となった。ラコー・スカワティ Rako Sukawati
20世紀。ウブド領主。チョコルド・グデ・ラコー・スカワティCokordo Gede Rako Sukawati。グデ・スカワティの次男。長男が死亡し、父の後を継ぐこととなる。オランダ植民地政府の中で要職を務める。バリ芸能の発展に寄与した外国人のスピースとボネの二人を招き、土地を与えて家を建てることを許した。プリ・ルキサン美術館を1956年に開館した。1931年のパリでの植民地博覧会ではバリ遠征団の団長を務めた。東インドネシア国の大統領を務めるも、スカルノ政権のインドネシア共和国では政界から退く。
関連サイト:プリ・ルキサン美術館、ウブド宮殿
P・J・A モーエン P.J.A. Moojen
20世紀。オランダ人建築家。1903年、東インドに渡る。1916年、東インドの芸術サークル連合の初代会長となる。1926年、「バリの文化」をオランダで出版。1917年のバリ島大地震被害からの復興事業の政府代表責任者としてバリに赴任する。ブサキ寺院の再建に取り組む。パリで1931年に開催された国際植民地博覧会の実行委員として、パビリオン設計や展示内容に関わる。1931年、バリ博物館の建設に携わる。関連サイト:バリ博物館
ウォルター・スピース Walter Spies
20世紀。ロシア生まれのドイツ人の画家。ピアノ奏者でもあった。27~38年にかけてウブドに住んだ。オランダ人のルドルフ・ボネ、ウブド領主ラコー・スカワティらと絵画の研究団体ピタ・マタを設立した。
スピースは当時奉納舞であったケチャ・ダンスにストーリー性を持たせ、いつでも上演できるようにと考案した人として知られている。敵国ドイツ国籍を持つスピースをオランダは抑留し、抑留者を後方に移送する彼を乗せたオランダ船はセイロン沖で日本軍機の攻撃により沈没した。
関連サイト:アルマ美術館、バリ舞踊ケチャ
アーリー・スミット Arie Smit
20世紀。画家。オランダ人。1950年にバリに住み、子どもたちを集めて絵画を教えた。一時はピタ・マハにも参加してウブド・スタイルの発展に助力した後、バリ現代絵画のヤング・アーティスト・グループを師弟とともに結成した。
ミゲル・コバルビアス Miguel Covarrubias
20世紀。メキシコ生まれの画家。1933年から1年余夫妻でウブドに滞在、帰米して1937年『Island of Bali』を出版。バリ文化を欧米に知らしめた。※バリ島 Island of Bali 関本紀美子訳 平凡社
関連サイト:バリ島の宗教と儀礼、バリ島の村・寺・住居、悪魔祓いの踊り
グスティ・ニョマン・レンパッド I Gusti Nyoman Sudara Lempad
(1862年 - 1978年4月24日)インドネシアバリ島の画家。
ウブド近郊の村に生まれ、ウブドのスカワティ王家に彫刻士として仕える。文盲であったが幼少より芸術性に富み、絵を死ぬまで描き続けた。彼は叙事詩ラーマヤナやバリ民話をモチーフにした作品を描いた。
1936年、レンパッドは画家のルドルフ・ボネ、ウブドの王家スカワティ家らと各々の作品の向上を目的に「ピタ・マハ」という芸術家の共同体を設立した。彼の作品は、ウブドのメガサリと彼の作品のみ扱うデワンガ・ギャラリー、ネカ美術館、プリ・ルキサン美術館で見ることができる。
関連サイト:アルマ美術館、ウブド宮殿
マリオ Mario
1920~30年代に活躍した天才舞踊家。タバナン出身。本名はイ・ニョマン・マリオ。当時流行していた新しいガムランのゴン・クビャールのためにレゴン・クビャールに取り組み、クビャール・ドゥクドゥクやクビャール・トロンポンを始めとする数々の創作舞踊を生み出した。マリオの著名な弟子にグスティ・ラカなどがいる。
関連サイト:主なバリ舞踊、創作バリ舞踊
マンダラ翁 Mandera
1905~1986年。プリアタン村の王族であるプリ・カレラン家の出身。本名はアナック・アグン・グデ・ングラ・マンダラ Anak Agung Gede Ngurah Mandera 愛称はグンカ。偉大なる父の意味。グヌン・サリ歌舞団の創始者。
マンダラ翁率いるグヌン・サリ歌舞団は1931年に団長のラコー・スカワティとともにパリの植民地博覧会に出場する。(団長のラコー・スカワティとマンダラ翁は遠縁にあたる。)以降、グヌン・サリ歌舞団の名声は世界中に広まる。マンダラは戦後の80年代にはティルタ・サリ歌舞踊団を結成し、日本公演を果たす。マンダラの火葬の前日にはバリ中から集まった、ガムランの演奏や踊りが絶えなかったという。
「踊る島バリ 聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り子たち PARCO出版」にマンダラ翁の語りが掲載されている。
関連サイト:プリ・カレラン、マンダラ翁の葬儀、主なバリ舞踊
ングラ・ライ中佐 Ngurah Rai
20世紀。独立戦争の英雄。空港や道路の名称、5万ルピア紙幣に印刷されている。本名はイ・グスティ・ングラ・ライI Gusti Ngurah Rai。インドネシアの独立以降に再度進駐しようとしたオランダ軍に抵抗してゲリラ戦を指揮し戦死した青年将校。
彼らの戦いはププタン・マルガラナと呼ばれている。その勇気をたたえて戦死した地マルガには、記念碑が建てられている。そこには、チャンディ・マルガラナ墓苑(英雄墓地)があり、独立戦争の戦没者1372人が眠り、独立戦争に参加した日本人の墓が13基ある。墓苑脇には独立戦争関係資料を展示する博物館があり、旧日本軍の遺品も展示されている。毎年11月20日にはここで戦没者のための儀式が行なわれる。
スカルノ Sukarno
20世紀。インドネシア共和国初代大統領(在任1945~67)。ジャワ人を父としバリ人貴族を母とする。インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家。国民に建国の父として愛され続けており、現在再び紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。タレントのデヴィ夫人はスカルノと正式に結婚していて、4人の夫人のうちの第3夫人にあたる。
関連サイト:ティルタ・ウンプル寺院側の別荘
ハッタ Mohammad Hatta
20世紀。西スマトラの商家の出身。1934年にハッタの民族主義運動により植民地政府に逮捕され、1942年の日本軍政府に解放される。 スカルノとともにその民衆運動の第一線に立ち、インドネシア独立宣言にはスカルノとともに署名。 独立後、副大統領となる。最初期の国家運営に重要な役割を演じたが、次第にスカルノと対立し、1956年に副大統領を辞職した。
バリ島の歴史
◇有史以前バリ島は紀元前2000年ごろから台湾起源のオーストロネシア語族(※1)が移り住んだとされ、紀元前1世紀からインドや中国の影響を受けるようになる。
また、ベトナム北部を発祥とするドンソン文化(東南アジア初期の金属器文化)が金属器とともに稲作技術をバリ島にもたらした。
4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続ける。
そして、西暦913年頃に、バリ人独自のワルマデワ王朝が築かれた。
◇ヒンドゥー教・仏教の伝来(3世紀 - 9世紀)
3~4世紀にインドからヒンドゥー文化が伝わり、 5世紀後半には仏教も伝わってきたと考えられている。
6世紀に入るとスマトラ島に興った王朝が西インドネシアの海洋貿易を独占し、インド仏教を基盤とする都市国家を築く。
8世紀、ジャワ島からヒンドゥー教僧侶、ルシ・マルカンディアが渡来し、バンジャールとデサ(村)の組織、潅漑システム=スバックの基礎を造った。
8~9世紀にはジャワ島に興った王国がインドやセイロンから本格的な稲作をバリ島に持ちこむ。
◇ジャワ王朝の影響(11世紀 - 16世紀)
11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国とのつながりを強めるようになる。(※2) スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができる。
その後、ジャワのシンガサリ王国に征服され、その王国が滅亡し自由を得たが、14世紀に当時のジャワ王朝・マジャパイト王国の侵攻を受け、ワルマデワ王朝は滅び、400年続いたバリ人の王朝は幕を閉じた。マジャパイト王国は、バリ島にクディリ王国の子孫を派遣し統治した。(その統治者がゲルゲル王国の始祖になる。)
15世紀には、ジャワ海沿岸の国々がイスラム教を信仰し、イスラム勢力が侵入してくる。ヒンドゥー教であるジャワ・マジャパイト王国は衰え、ジャワ王国の廷臣、僧侶、工芸師たちがバリに逃れてくるようになる。そうして、ジャワ島のヒンドゥー教徒がバリ島に大規模に移住して、10~14世紀にかけて形成されたジャワ・ヒンドゥー文化を今日まで伝える最後の地にバリ島がなった。
バリ島に逃れてきた一部の王族や貴族たちの影響により、爛熟した王朝文化の黄金期を迎える。そして、古典文学や影絵芝居、音楽や彫刻などヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いた。
さらには、ジャワから渡来したヒンドゥーの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院やウルワツ寺院など数々の寺院を建立するなど、宗教面での発展も見られた。
◇群雄割拠による王国時代(17世紀 - 19世紀)
ジャワ王朝によって作られたゲルゲル王国の実権はゲルゲルからクルンクンへの遷都をきっかけに、各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまい、9つの小国(クルンクン王国、タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ブレレン王国、メングィ王国、ジュンブラナ王国))に分かれ、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。
1597年、かつてポルトガルに雇われていたコルネリウス・ホウトマンに率いられたオランダの艦隊がバリ島を発見した。1601年、ヘムスクークという貿易商人が、オランダから遣わされた。
◇オランダ帝国によるバリ征服(19世紀末 - 20世紀初頭)
19世紀末になると、オランダがバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下に置き始める。オランダの目的は巨大な島々を植民地化し、香辛料貿易を独占することにあった。
1846~1849年、オランダ軍の第1次~第3次バリ島侵攻。ジュンブラナ国、ブレレン国を植民地とする。
1891年、バドゥン、タバナン連合軍にメングィ王国が滅ぼされる。
1894年のロンボク戦争※3で、オランダはロンボク国とカランガスム王国を獲得し、オランダ領東インド領土に編成する。
1900年、ギャニャールがオランダの保護領になる。
1906年、バリ南部侵攻。バドゥン国とタバナン国を滅ぼす。ププタン・バトゥンは1906年9月20日。
1908年のオランダ軍の再侵攻でクルンクン王国を滅ぼし(ププタン・クルンクン)、全土を植民地とするにいたった。
しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)※4 によってオランダは国際的な非難を浴びることとなり、非難にさらされたオランダ政府は、旧王族に実質的統治を任せる間接統治を行い、バリ島の伝統文化を保全する政策を打ち出すことにした。この政策が結果的に島社会の混乱を防ぎ、貴重な伝統文化の保護継承に繋がった。
1910~1920年 オランダ政府はバリの土地評価を厳密にし、税金の徴収方法を見直した。このことにより、バドゥン地域では税金の徴収率は50%も増加した。
1914年、バリ人のオランダに対する抵抗は完全に制圧され、軍隊の駐留が終了し、警察部隊に替わる。オランダは島の統治に王族を組み込み、一定の支配権を与えた。
1917年、バリ南部大地震。オランダはブサキ寺院再建等の復興事業に乗り出す。同年、バトゥール山噴火。島全体で65,000戸の家、25,00の寺院と、1372人の死者という被害がでた。
1919年、南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。
1920年、オランダ王立郵便船会社の定期船がシンガラジャ港に就航。※5
バリ島がオランダを通じ広くヨーロッパに紹介され、バリ島観光が始まる。この時代からバリ島は「最後の楽園」 として欧米に紹介され、多くの欧米人が訪れるようになる。こうした欧米人の影響を受け、1930年代には、現在の観光の目玉であるバリ舞踊やガムラン音楽、バリ絵画のスタイルが確立されていった。
1926年8月、バトゥール山爆発。バトゥールの村を溶岩流が飲み込み村は壊滅した。
1928年、バリで最初のバリ・ホテルが開業。オランダ王立郵便船会社のゲストハウスを改修する。ここでのバリ舞踊が観光客相手の初めての公演となった。
1931年、国際植民地博覧会がフランス・パリで開催。オランダはバリ文化の紹介をパビリオンのメインにすえ、バリ舞踏団を編成して参加させた。団長はラコー・スカワティ。これが最初の海外公演になる。期間中にオランダ館が火事で消失し建て直す。
1931年、王家評議会が結成された。
1933年、ウォールター・スピースがケチャを公演可能な舞踊にすることをブドゥル村の村人に提案する。
1936年、地元芸術家たちの技術の向上と正統な評価を目的に芸術家協会ピタ・マハ(偉大なる光)設立。
1937年、ミゲル・コバルビアスが『Island of Bali』を出版。バリ文化を欧米に知らしめた。
1938年6月29日、ブサキ寺院で、オランダ人植民地行政官とバリの旧王家代表が集まり、大規模な式典を挙行した。ガルンガンの日。 カランガスム王家が自治領主代表。間接統治が完成をみた日となった。
1938年、ギャニャールのラジャにオランダ政府から権限の一部を返還する式典が開かれ、余興として全バリ・ゴン大会が行われた。
◇第二次世界大戦と日本軍の占領統治(1942 - 1945年)
20世紀に入るとアジア各地で反植民地運動が高まり、オランダの支配体制は次第に疲弊していく。
1940年5月15日、ドイツの侵攻をうけたオランダは降伏し、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。オランダ本国が降伏した後も、蘭印はオランダ亡命政府傘下であり続け、東インド植民地軍による統治が続いていた。
1941年太平洋戦争が勃発し、1942年2月日本軍はバリ島に侵攻し、オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。バリ島を始めジャワ、スマトラ島は日本軍の占領統治下になった。「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。
現地人は反植民地主義の「解放者」として日本を出迎えた。同年6月には日本はオランダと同様の統治体制を敷くことにになったが、インドネシアに対する姿勢には違いがあった。日本占領下の教育において、制度改革、教育の無償化などに取り組み、学校を増やして生徒数は2倍になった。※6
1944年9月7日、当時の日本国小磯首相が、インドネシアに対する将来の独立を容認する、いわゆる「小磯声明」が発令され、これによりインドネシアの独立運動が活発化する。
1945年3月には、日本政府が「独立準備調査会」を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させ、8月7日にはスカルノを主席とする「独立準備委員会」を発足させた。(1945年8月15日、日本終戦)
◇太平洋戦争と独立
1945年8月17日に、スカルノとハッタがインドネシア共和国の独立を宣言、翌46年に再び植民地化を狙うオランダ軍がバリ島に上陸し、バリ島各地で激しいゲリラ戦闘が行われた。
1946.11.20、戦いの中で壮絶な死を遂げたイ・グスティイ・ングラ・ライ中佐率いるゲリラ部隊94名は全滅し、バリは再びオランダの間接統治となる。
この義勇軍の戦いの中には、元日本兵を含む12名の日本人がいた。マルガラナ村の英雄墓地には戦死した1,372名のインドネシア独立軍兵士とともに埋葬されている。
ゲリラ部隊を鎮圧したオランダはバリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、オランダによる間接統治が敷かれることになったが、1950年をもって、ついにバリ島はインドネシア共和国の一員となった。
(1945年インドネシア独立宣言。スカルノ初代大統領。)
1946年、オランダがこれまでの権勢力を復活させるためにオランダ領東インドに、東インドネシア国を作られた。セルベス島、ティモール島、バリ島など、ジャワ島、ボルネオ島の東側の地域。大統領はラコー・スカワティ。
1948年12月、バリ島からオランダ軍撤退。
1950年、東インドネシア国は、インドネシア共和国に合流して独立。
1962年、ヒンドゥー教が政府公認の宗教になる。
1963-64年アグン山噴火。死者1600人。ペストが流行していた。
1965年9月30日、共産党勢力によるクーデターが起きる。1965年10月から1966年3月にかけ、インドネシア共産党関係者の虐殺が多発しバリでは推定10万が虐殺される。以後、軍部の発言力が強くなり、軍出身のスハルト政権に替わるきっかけとなる。
1966年、サヌールに日本の敗戦賠償金によりバリ・ビーチ・ホテル開業
1967年、ングラ・ライ国際空港開港。サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。
そして、大統領もスカルノからスハルトに変わった1970年代以降、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、世界的な観光地へと成長することとなる。
1979年、ブサキ寺院でエカ・ダサ・ルドラ大祭が開催される。
1983年、観光客の増加による無計画なバリ島開発を抑制するために、中央政府はヌサドゥアにパッケージ型高級リゾートを開発する政策を取り、その政策のもとヌサドゥア・ビーチホテル開業。その後、ヌサドゥアエリアにはメジャーなホテルチェーンが多く参入し一大リゾートエリアに発展した。
1985年9月、日本文化財団と朝日新聞社の主催でバリ日本公演。公演名は「マンダラ翁率いるスマル・プグリンガン プリアタン歌劇団」。全国十都市。総観客動員数約4万人。
〈 Wikipedia他をまとめる 〉
※1)オーストロネシア語族は千前後の言語から構成され、西はマダガスカル島から東はイースター島まで、北は台湾・ハワイから南はニュージーランドまでと非常に広く分布している。近代のインド・ヨーロッパ語族の拡大まで、最大の範囲に広がる語族であった。
※2)バリの王ダルマ・ウダヤナが東ジャワの王女マヘンドラダッタと結婚し、長男の王子エルランガが、後に東ジャワのスリウイジャヤの王女と結婚し婿養子に入る。エルランガは東ジャワのクデェリ王国を復興させ、エルランガ王国を作り上げ、バリ島も勢力下におくことになる。バリ島は弟のアナック・ウンスに任せた。この兄弟関係により、ジャワとバリの交流が一層進んだ。
※3)ロンボク戦争
ロンボクでは原住民ササク人をバリのカランガスム王国の系統のバリ人が支配していた。ロンボクの王と本家筋のカランガスムは仲が悪かった。1849年の第三次バリ島侵攻の際に、オランダはロンボクと同盟を結んだ。ブレレン王国はオランダに破れ、関係の深いカランガムスに逃げ込んでいた。オランダ・ロンボク軍により、ブレレン王は戦死し、カランガスムは儀式的な自決を行った。これによりカランガスム王国の支配権はロンボクのマタラム王が獲得した。
バリに攻め入ったロンボク軍の兵士はササク人であった。度重なる兵役にササク人はロンボク王国に各地で反乱を起こしたが、制圧され続けてきた。1894年2月、ササク人はオランダ軍に介入と支援を要請。バリ島での支配権を広げたいオランダは、ササク人の要請をきっかけとしてロンボクに侵攻する。ロンボクを倒すことは、カランガムスをも得ることにつながる。1894年7月ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)から三艦の軍艦で、ヨーロッパ人兵士・ジャワ人兵士が派遣された。1894年11月末までにはオランダ軍はマタラム基地を殲滅し、マタラム側はププタンという集団自決も含めて数千人の人的損失を被り、マタラムは降伏した。この戦争では、ササク人がオランダ側とマタラム側に分かれて戦っている。マタラムの王子は殺され、年老いたラジャは捕らえられてバタヴィアに流刑となり、世を去った。この流刑という仕打ちが、後の戦争に大きく影響することになる。
こうしてロンボクとカランガスム王国はオランダ東インド領となり、バリ島オランダ当局から統治され、オランダ人の摂政を受け入れた。マタラムの敗北をうけてバンリとギャニャールもオランダ帝国を宗主国として認めたが、バリ島南部の王国はこれを認めず、1906年バリ侵攻を受けることになる。
※4)ププタン(Puputan)
ププタンとはバリ語の「終焉(Puput)」を語源とする。古来よりあるバリの風習で、王朝が戦闘で敗北すると自決を選び、多くの王族、貴族が殉死をする。そのため、「血の最後の一滴まで、敵に対して抵抗すること」と言われている。オランダ軍がバリ島を植民地化するために、各王国を攻撃した際、圧倒的武力差がある中、いくつかのバリ島王族は降伏を選ばず、このププタンを選んだ。
オランダ軍に囲まれた王族たちは、王族ゆかりの寺院で神への祈りをすますと、王宮に火をはなち、老人や病人はクリス(聖剣)で自害した。燃え盛る王宮を後に、着飾った王がみこしに乗り、ガムランの音が鳴り響く中、王宮の門からオランダ軍の前に行進を行う。その後には、重臣や婦女子たちが続いて行った。
制止の命令を全く聞かず近づいてくる行軍に恐怖したオランダ軍は、銃弾を浴びせた。次々と倒れる人々を乗り越えて、行進は続き、すべての人々が銃弾に倒れるまで続いた。この惨劇を「ププタン=死の行進」と人々は伝えた。
※5)オランダ王立郵便船会社時代の観光ルート
船はバリ島北部中央海岸のシンガラジャに入港。金曜日の午前から日曜日の午後まで3日間。バリ島中央部バトゥカウ山の西側のルートでデンパサールで宿泊、バトゥール山の西側のルートでキンタマーニ泊。そして船の待っているシンガラジャに戻る。ギンニャールからカランガスム方面に向かうコースもあり。
今の飛行機時代とはずいぶん違います。1932年に、バリに3週間滞在したというチャールズ・チャップリンもこのルートを通ったのでしょうか。
※6)日本占領下の教育改革
それまでオランダ式のエリート教育とバリ語による教育との2本立てであったものを、初等教育は3年制の普通学校と、さらに3年間の上級公学校をおき、6年制を基本とした。就学を奨励し、授業料を無料としたことにより、生徒は2倍になった。教育用語は一様に2年生までは地方語、その後はインドネシア語(マレー語)とした。
共通語が社会に広く行き渡ったことは、日本軍政の「功績」とされている。さらに、初等教育6年の後、中学校3年、高等学校3年という制度が確立され、独立インドネシアに引き継がれた。
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