バリ島の王国伝
バリ島の歴史を理解するためには、それぞれの王国について知ることが重要だと思います。バリ島の王国とバリ島に影響を与えたジャワ島の王国について「バリ島の王国伝」としてまとめました。
contents → ワルマデワ王朝、クデェリ王国、シンガサリ王国、マジャパイト王国、ゲルゲル王国、クルンクン王国、カランガスム王国、ギャニャール王国、バンリ王国、ブレレン王国、ジュンブラナ王国、バドゥン王国、タバナン王国、メングウィ王国
バリ島は、4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。ワルマデワ王朝の四代目ウダヤナ王は東ジャワの王女マヘンドラダッタを妻に迎え、989年から1011年にかけて5つの碑文を残している。
1248年には、ジャワのクディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国(ジャワ)の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパイトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついにワルマデワ王朝は滅び、400年続いたバリ人の王朝は幕を閉じた。
グヌン・カウィに葬られているという、11世紀のバリの王、ダルマウダヤナの頃の中心地はペジェン付近だとされている。※1)
2.
地方領主の反乱で王が殺害された後、前王娘婿のエルランガ Erlangga(バリ王の子)が1037年にジャワ東部の統一事業を完成した。後にバリ島を占領するシンガサリ朝に滅ぼされる。
クディリ王国は、10世紀初頭~13世紀のシンガサリ朝以前にインドネシアのジャワ島東部に繁栄していたヒンドゥー教を奉ずる古代王朝。10世紀初頭中部ジャワのマタラム王国がジャワ東部に移り、建国した。
マクサワンサワルダナ王は、娘のマヘンドラダッタをバリ王ウダヤナに嫁がせ、ダルマヴァンシャ(息子か女婿)が次の王に即位した。ウダヤナ王の息子エルランガは、ダルマヴァンシャン王の婿養子となる。ダルマヴァンシャン王は、1016年に地方領主の反乱によって殺害された。それは、彼の娘とその婿エルランガの結婚式のときだったと伝えられる。
エルランガは自国を再生させ、1037年にジャワ東部の統一事業を完成した。バリ島も影響下に置いたが、バリ島は弟のアナック・ウンスに任せた。文芸を保護し、治水事業や海外交易の振興を行った。1222年にシンガサリ朝を建てたケン=アンロクによって滅ぼされる。
(エルランガ Erlangga=アイルランガ Airlangga)
3.
シンガサリ王国の初代ケン・アンロクは、仕えた領主を殺してトゥマペルの領主となり、クブィリ王国を挑発し、クディリ王討伐軍と戦い滅ぼした。2代、3代と親族同士の争いで王が変わる。※2)5代クルタナガラ王は1275年、スマトラのムラユ王国に対する遠征を行った。また1284年にも、クルタナガラはバリに遠征軍を送って、バリの女王を捕虜として連れ帰っている。1292年、旧クディリ領3代目の領主(クディリ王家の末裔)ジャヤカトワンが反乱を起こし、一挙に首都シンガサリを突いて、シンガサリ王国は滅亡した。
反乱を討伐するために遠征していたラデン・ヴィジャヤ(クルタナガラの女婿)は、クディリに一旦降伏した。1293年シンガサリを討伐するための元(フビライ・ハーン)の軍※がやってきたのを利用し、元軍とクディリ軍を戦わせ、勝利した元軍を迎撃し撤退させた。1294年、ラデン・ヴィジャヤが即位しマジャパイト王国を建国した。
※クルタナガラ王のもとにモンゴル帝国の使者が来て朝貢を求めたが、その使者の顔に刺青を入れて送り返したのに怒ったフビライがジャワに遠征軍を出した。
4.
マジャパイト王国(マチャパヒト王国)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。ラジャ・サナガラ王の命を受け、宰相ガジャ・マダは1342年にバリ島に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。琉球王国とも交易を行っていた。版図は歴代王国で最大になり、インドネシア全域を支配し、最盛期を迎え、文学・建築などの分野でヒンドゥー・ジャワ文化の頂点を築いた。
バリ島の支配はガジャ・マダの配下や親族の将軍が行い、これらの武将をバリのカースト上位者は自分たちの祖先と考えている。
15世紀にマレー半島南岸に、中国・明王朝と良好な関係を持つ、マラッカ王国ができると南海貿易の中心はマラッカに移った。マラッカは、香料貿易の中継港としてイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。
マジャパイト王国は15世紀末、マラッカを中心とする沿岸イスラム都市国家の執拗な攻撃を受けて崩壊し、1478年、ドゥマク王国(ジャワ島北岸に栄えたイスラム国家)の宗主権を認めた。16世紀初頭には滅びる。
5.
バリはジャワのクディリ王国と関係が深く、それゆえバリを征服したシンガサリ王国を倒したクディリの末裔ジャヤカトワンを滅ぼし台頭したマジャパイト王国に敵対していた。1343年マジャパイト王国の宰相ガジャ・マダに率いられた軍勢によりバリは支配され、マジャパイトに忠誠を誓わせるため、バリの統治者としてクディリ王国の子孫クパキサンが派遣された。イダ・ダラム・クトゥト・クパキサン Ida Dalem Ketut Kresna Kepakisan は、現在のギャニャール付近のサンプランガンを本拠地として、周辺の統治をおこなった。後にクパキサンを始祖とする小王国はゲルゲル王国となる。
ゲルゲル王国は、最初サンプランガンを都とし、後にゲルゲルに遷都した。ワトゥレンゴン王の時代に最盛期を迎え、ジャワ島の東端、ロンボク島、スンバワ島までを支配下に治めた。15世紀末、マジャパイト王国がイスラム教国に奪われようとしている頃、ジャワより王族・貴族、ヒンドゥー教僧などがゲルゲル王国に逃れて、バリ文化が成熟する契機となった。
1651年、ディマデ王の時代に大臣による反乱が起こり、王が亡くなった。残された王子たちは地方領主の協力を得て打ち破ったが、地方領主がそれぞれ覇を唱える機会を与えることとなった。バリ島を統一する力はなくなり、ゲルゲルの北にあるクルンクンに遷都した。ゲルゲル王国は後継のクルンクル王国を含め9つの王国に分立することになる
(オランダが介入してくる時代には9つの王国があり、その内メングゥイ王国が滅び、残り8王国が現在の県の母体となった。)
※マジャパイトは、クディリ王国の子孫を派遣して、ゲルゲル王国を建国させたのではなく、バリ侵攻後に宰相カジャ・マダによってバリに統治者として使わされたクパキサンが統治を行い、後に彼を始祖とする小王国ができ、クパキサンの子がゲルゲルに遷都してゲルゲル王朝となった。
**** ここからは、群雄割拠の小王国時代になります。情報が少ない王国もあり、どうしても、オランダとの関係が多くなります。王国の位置関係も重要です。
6.
クルンクル王国は、マジャパイト王国がバリに侵攻した後、バリを治めるために派遣したクパキサンを始祖としてできたゲルゲル王国の直系の国。都はスマラプラ(旧名クルンクン)。ゲルゲル王国より別れたバリ9王国の中での、宗主国ともいうべき存在で、王の位はデワ・アグンといい、他王国の王より位が高いが名目上のものであった。
1849年、オランダの第三次バリ島侵攻では、自国まで攻め込まれるが、バドゥン、ギャニャール、タバナン、クルンクン王国らのバリ軍により、オランダを苦戦させ停戦に持ち込む。
1880年代前半、ギアニャール王国を勢力下としたが、新興勢力として台頭してきたウブドのスカワティ家にギアニャールの北部を支配されてしまい、スカワティ家はカランガスム王国と連合して、クルンクンを攻めてきた。
バリ王国の中で最後までオランダに抵抗したクルンクン王国であったが、1908年についにオランダ軍に攻められ滅びる。これにより、オランダの全島支配が完成した。
7.
カランガスム王国は、16世紀後半にゲルゲル王国での内乱に負け、ゲルゲルからカランガスムに逃れ、その親族がカランガスム地方を統一し17世紀末に王国をたてた。18世紀群雄割拠するバリ島の8王国の中でも勢力が強大にとなり、バリ島の東側のロンボク島西部をも支配した。1800年頃、(海沿いに)隣接するブレレン王国の内紛に乗じてブレレン王国を影響下に置いた。1849年のロンボク戦争でオランダとロンボクの連合軍に敗れ、オランダの保護領となり、ロンボク国はカランガスムの支配権を獲得した。(ロンボク国もオランダに滅ぼされる。)
王は領事となり、オランダの支配を認めたことで、それ以上侵攻されず王政はそのまま残り、勢力が削がれなかったことより、ウブトのスカワティ家とともにオランダの植民地支配のエリートとしての地位を築いた。
8.
ギャニャール王国の都はギャニャール。1880年代中頃、隣接するクルンクル王国の軍事遠征にオランダに保護を求めるが無視されクルンクン王国の勢力下に置かれる。
また、新興勢力として台頭してきたウブドのスカワティ家にギャニャールの北部を支配される。
1900年、バドゥン、バンリ、クルンクンの3王国が同盟を組み、ギャニャールに対して、戦争をしかけた。ウブドの領主、グデ・スカワティはギャニャールのラジャにオランダの援助を求めさせた。オランダは制圧のため軍隊を送り、これによりギャニャールはオランダの保護領となる。
9.
詳しい情報が得られませんでした。
10.
ブレレン王国はバリ島の北海岸に細長くバリ島の北斜面のほとんどを占める。1800年頃、隣接するカランガスム王国の影響下に置かれる。1846年第一次、1848年第二次、1849年第三次とオランダに侵攻される。第三次バリ島侵攻で、オランダ・ロンボク連合によって、逃走先のカランダスムでついに討たれた。
ブレレン王国の都はシンガラジャ。オランダ軍司令部はシンガラジャに置かれた。ブレレン港はバリにおけるオランダ植民地政府最大の交易基地として栄えた。
11.
ジュンブラナ王国は、バリ島の西南部。都はヌガラ。バリ島最西端のギリマヌクから、ジャワ島クタパンへの航路は、30分ほどである。1849年の第三次バリ島侵攻によって、オランダは、ジュンブラナ国とその北に隣接するブレレン国の征服に成功した。バリ島の王国の中で、両国がいち早くオランダの宗主権を認めることとなった。
12.
バドゥン王国は、都であるバドゥン(現デンパサール)を中心に18世紀頃に勃興した王国。主にバリ島中南部の平野部を支配した。19世紀末にタバナン王国と連合し、メングウィ王国を滅ばし、タバナン王国とその領地を分割し併合する。
1904年、オランダ国旗を掲げていた中国の船「スリ・クマラ号」がサヌールで座礁し地元民に物資を略奪されたことにより、バドゥンのラジャに賠償を求めた。バドゥンのラジャは船主の要求に応じなかった。船主は宗主国であるオランダに、バドゥンに損害の賠償を認めさせるよう、またはオランダが支払うよう要求した。オランダはバドゥンに対して賠償金の支払いを求めたが、バドゥンは要求を拒否した※3)。交渉は2年にもおよんだ結果、オランダはバドゥンに対して全面通商封鎖を発令し、バリ島の隣接王国に協力を要請したが州境閉鎖は拒絶された。
1906年9月20日、オランダ艦隊がサヌールの海岸に上陸し都を攻められ、オランダ軍により滅ぶ。この時の戦いは「死の行進ププタン・バドゥン」※4)と呼ばれ、オランダ軍の残虐な行為は欧米からの非難をあび、バリ文化を保護する政策に転換するきっかけとなった。
13.
タバナン王国はバリ島の中西部にあり、都はタバナン。ここでは、カジャの方向をバトゥカル山にし、神聖なものとしている(他地域はアグン山)。
1891年、バドゥン王国と連合し、メングゥイ王国を滅ぼす。
1904年、オランダはタバナン王国に対して、ヒンドゥー教の習慣で寡婦が夫(主人)の遺体とともに焼身自殺するムサティア制度※5)の実施をやめるよう要請したところ、国王がこれを拒絶したため、オランダは不快に感じていた。
1906年9月に、バドゥンに侵攻したオランダ軍は、タバナンにも兵を進める。タバナン王と王子は、ギャニャールやカランガスムの王と同等の権利を保持するという条件で降伏したいと申し出たが、オランダはオランダ人摂政を設置するよう要求し、また、マドゥラ島やロンボク島への国外追放※6)を勧告した。王と王子は自殺し、王族といっしょに捕らえられていた、タバナン国民は二日後、収容所で自決した。
14.
メングウィ王国(=ムンウィ王国、ムングィ王国)1728年にバリ中南部に台頭したメングウィ王国の誕生によって、バリでは8王国から9王国になる。
東にはバドゥン王国、西にはタバナン王国があった。1891年にバドゥン王国とタバナン王国の連合軍に敗れ、領地はバドゥン王国とタバナン王国に分割して併合された。タマン・アユン寺院は王家の寺。
メングウィ王国の支配地に関する情報は得られなかったが、現状のバドゥン県の北部が中心と思われる。バドゥン県には、メグウィ郡がある。
※ ゴア・ラワ寺院の洞窟にメングウィ王子が探検に入ったとか、ウルワツ寺院がメングウィ王国だったという資料があり、そうだとすれば支配地は広大なものになります。「踊る島バリ」には、サトリア階層(王族)のマンダラ翁の長男の聞き書きが収録されていて、その中にプリ・カレラン家はメングウィ王国の領土に生まれたスカワティ家の出身であること。(その位置はギャニャールに属する。)「(ゲルゲル王国またはクルンクル王国から)分裂した王国の中では、クルンクル王国とメングウィ王国の二つが大きな勢力をもっていた。」と話しています。
※ メングウィ王国の成立は、ゲルゲル王国のクルンクンへの遷都以降(当時の王が倒れた1651年以降)です。タマンアユン寺院は1634年にメングウィ王国の国寺として建立されているというのですが、2層のメル塔があり王家の祖霊を奉るとされ、建立当初は小領主だった可能性があります。ただ、バリ王国の分裂からメングウィ王を名乗るまで数十年もかかったのかが疑問です。1728年誕生という情報は、バリ島カルチャー事典によります。
※1)ペジェン王国はワルマデワ王朝か?
マジャパイト王国はペジェン王国のダルマ・ペダウルを滅ぼすためにバリに侵攻した、という資料がある。ペジェン王国とワルマデワ王朝との関係を書いている資料は見つけていないが、関連する遺跡からペジェン付近が中心地だったのだろうと思われる。マジャパイト王国によりワルマデワ王朝が滅ぼされたわけだが、バリの最強国であるペジェン王国が敗れてからマジャパイトは残党狩り等があり、完全制圧には時間を要したらしい。ペジェン王国はワルマデワ王朝の直系の国ではないようだ。
※2)シンガサリ王国親族どおしの殺りく
初代ケン・アクロクは、自分の子に暗殺される。2代アヌサパティは、実はケン・アクロスが殺した領主の子どもであった。(ケン・アクロスは領主の妻を自分のものとした。)2代アヌサパティは、兄弟に殺された。(ケン・アクロスの愛人の子、トージャヤ)3代トージャヤは、自分の親族(前王の子と初代王の孫)に王の座を奪われること懸念するあまり、この二人を殺そうとした。喧噪は住民を巻きこむ争いとなり、矛先はトージャヤに向かうことになる。トージャヤは敗北し、その治世はわずか数ヶ月であった。
※3)船舶救助償金権の廃棄
海事法には、財産が海上で失われ、他の者によって救われた時、救出した者は救出した財産について救出賞金を請求する権利がある。本協定第二条の「船舶救助償金権の廃棄」の条項は、オランダとオランダを宗主国と認めた王国間の取り決めで、これまで、難破した船の財産はバリの人々が取ってもかまわなかったものを禁止したもののようである。オランダの立場としては、取り決めを守れということになる。
※4)ププタン・バドゥン Puputan Badung
ププタンとはバリ語の「終焉(Puput)」を語源とする。ププタン(死の行進)の中でも1906年9月20日にバドゥン王国の王家によってなされたププタンは「ププタン・バドゥン」と呼ばれ、歴史に刻まれている。1908年には、クルンクン王家のププタンによってバリはオランダに征服された。
デンパサール(バドウゥン王国の都:旧バドゥン)のププタン広場には、王のププタンを讃える記念碑が建てられている。
ププタンは集団自決とされ、軍隊どおしの衝突と思われるかもしれないが、少なくとも「ププタン・バドゥン」の場合は、軍人、王、王に仕える行政官、王の妻たち、王族、王・王族に使えた者たちがオランダ軍に射殺され、他にも自らを剣で刺し自決している。成人のみならず、老人、女、子どもも含まれている。「バリ島物語」では、王が領国内に明日は「終焉」の日として、ふれをだした。「終焉」に望む者を王宮に集めたと描いている。王宮への攻撃はデンパサールとその近くのプムチュタン宮殿に対して行われた。双方のププタンでの死亡者は2000人とも4000人とも資料には書かれている。純粋な王宮関係者だけでは、このような人数にならないことは明らかだ。
「踊る島バリ」では、マンダラ翁の長男が次のように話している。明日は終焉だというおふれに、王と武将のみならず、老人、女、子どもに至るまで最上の衣装を身につけ、持てる限りの宝石で着飾って王宮に集まった。夜明けとともに始まったオランダ軍の砲撃の中を、人々は炎に向かってガムランを打ち鳴らしながら行進をしたということです。
死亡した者は王とともに焼かれたという。この火葬により、王に天界に連れて行ってもらったことだろう。
※5)ムサティア制度 Mesatia (またはスチー制度)
王族が死ぬと夫の霊と同じくその妻も霊として一緒に伴うため、犠牲となって殉死する風習。王族の妻が夫の死後も生きながらえて寡婦となれば、彼女はランダとして忌み嫌われた。ムサワティア制度はオランダ植民地以降はププタンと同様に廃止された。
ヴィキィバウム著「バリ島物語」では、火葬はタバナンのラジャの父のもの、(すでに殉死は過去のものとなったという認識があったが)殉死はあくまでも本人の意思。24名の婦人の内、ラジャの第一婦人と二名の特にお気に入りの二人の奥方が白装束をまとい、(飛び込んだ際に、苦しまないためにすぐに窒息するように、油を注いで火勢を強くする)鳩を持ち、火に飛び込んだ。鳩は天に飛び去った。と描いている。資料からは、オランダを宗主国として認めた時点で、妻・家臣等が火葬の際に殉死することが禁止されていたよう読めるが、根拠は見つけていない。
タバナンのこのムサティアは、植民地になる前の最後の火葬・殉死になったと思われる。
※6)国外追放とププタン
ギャニャール王国やカランガスム王国では、王から権力は剥奪するも生かす方策をとったオランダであったが、オランダに対して抵抗が強かったタバナン王国には国外追放を勧告した。ロンボク戦争により、敗れたマタラムのラジャはジャワ島に流刑され彼の地で亡くなっている。異国の地で死ぬということは、王族・家臣や民衆によって火葬をしてもらうことはなく、よって「祖霊」となることができない、また生まれ変わることもできないことになる。異国に追放されることは死よりも耐えがたいことだろう。このオランダの姿勢が後に攻められた王国の徹底抗戦とププタンにつながった。
王族の称号の位は、ダラム、デワ・アグン、チョコルド、アナック・アグン、イグスティと下がっていく。
最初、クルンクンの王はダラムという称号を使っていたが、その後デワ・アグンに変わった。
contents → ワルマデワ王朝、クデェリ王国、シンガサリ王国、マジャパイト王国、ゲルゲル王国、クルンクン王国、カランガスム王国、ギャニャール王国、バンリ王国、ブレレン王国、ジュンブラナ王国、バドゥン王国、タバナン王国、メングウィ王国
※バリ島の歴史と人物の情報は別なページにまとめてあります。
1.
ワルマデワ王朝
※バリ人による王朝で、AD.913年に築かれ400年続くも、ジャワのマジャパイト王国に滅ぼされた。バリ島は、4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。ワルマデワ王朝の四代目ウダヤナ王は東ジャワの王女マヘンドラダッタを妻に迎え、989年から1011年にかけて5つの碑文を残している。
1248年には、ジャワのクディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国(ジャワ)の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパイトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついにワルマデワ王朝は滅び、400年続いたバリ人の王朝は幕を閉じた。
グヌン・カウィに葬られているという、11世紀のバリの王、ダルマウダヤナの頃の中心地はペジェン付近だとされている。※1)
2.
クデェリ王国 Kerajaan Kediri
※ジャワ島の王国。10世紀初めから 13世紀の初めにかけてジャワ東部に栄えた 。地方領主の反乱で王が殺害された後、前王娘婿のエルランガ Erlangga(バリ王の子)が1037年にジャワ東部の統一事業を完成した。後にバリ島を占領するシンガサリ朝に滅ぼされる。
クディリ王国は、10世紀初頭~13世紀のシンガサリ朝以前にインドネシアのジャワ島東部に繁栄していたヒンドゥー教を奉ずる古代王朝。10世紀初頭中部ジャワのマタラム王国がジャワ東部に移り、建国した。
マクサワンサワルダナ王は、娘のマヘンドラダッタをバリ王ウダヤナに嫁がせ、ダルマヴァンシャ(息子か女婿)が次の王に即位した。ウダヤナ王の息子エルランガは、ダルマヴァンシャン王の婿養子となる。ダルマヴァンシャン王は、1016年に地方領主の反乱によって殺害された。それは、彼の娘とその婿エルランガの結婚式のときだったと伝えられる。
エルランガは自国を再生させ、1037年にジャワ東部の統一事業を完成した。バリ島も影響下に置いたが、バリ島は弟のアナック・ウンスに任せた。文芸を保護し、治水事業や海外交易の振興を行った。1222年にシンガサリ朝を建てたケン=アンロクによって滅ぼされる。
(エルランガ Erlangga=アイルランガ Airlangga)
3.
シンガサリ王国 Kerajaan Singhasari
※ジャワ東部の王朝。クディリ王国をたおして建国され、バリ島を一時支配する。クディリ王家の末裔と考えられるジャヤカトワンによって滅ぼされる(1222-1292)。シンガサリ王国の初代ケン・アンロクは、仕えた領主を殺してトゥマペルの領主となり、クブィリ王国を挑発し、クディリ王討伐軍と戦い滅ぼした。2代、3代と親族同士の争いで王が変わる。※2)5代クルタナガラ王は1275年、スマトラのムラユ王国に対する遠征を行った。また1284年にも、クルタナガラはバリに遠征軍を送って、バリの女王を捕虜として連れ帰っている。1292年、旧クディリ領3代目の領主(クディリ王家の末裔)ジャヤカトワンが反乱を起こし、一挙に首都シンガサリを突いて、シンガサリ王国は滅亡した。
反乱を討伐するために遠征していたラデン・ヴィジャヤ(クルタナガラの女婿)は、クディリに一旦降伏した。1293年シンガサリを討伐するための元(フビライ・ハーン)の軍※がやってきたのを利用し、元軍とクディリ軍を戦わせ、勝利した元軍を迎撃し撤退させた。1294年、ラデン・ヴィジャヤが即位しマジャパイト王国を建国した。
※クルタナガラ王のもとにモンゴル帝国の使者が来て朝貢を求めたが、その使者の顔に刺青を入れて送り返したのに怒ったフビライがジャワに遠征軍を出した。
4.
マジャパイト王国 Kerajaan Majapahit
※バリ人によるワルデマイト王朝を1342年に滅ぼし、バリ島にジャワ・クディリ王国の子孫を使わし統治した。マジャパイト王国(マチャパヒト王国)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。ラジャ・サナガラ王の命を受け、宰相ガジャ・マダは1342年にバリ島に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。琉球王国とも交易を行っていた。版図は歴代王国で最大になり、インドネシア全域を支配し、最盛期を迎え、文学・建築などの分野でヒンドゥー・ジャワ文化の頂点を築いた。
バリ島の支配はガジャ・マダの配下や親族の将軍が行い、これらの武将をバリのカースト上位者は自分たちの祖先と考えている。
15世紀にマレー半島南岸に、中国・明王朝と良好な関係を持つ、マラッカ王国ができると南海貿易の中心はマラッカに移った。マラッカは、香料貿易の中継港としてイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。
マジャパイト王国は15世紀末、マラッカを中心とする沿岸イスラム都市国家の執拗な攻撃を受けて崩壊し、1478年、ドゥマク王国(ジャワ島北岸に栄えたイスラム国家)の宗主権を認めた。16世紀初頭には滅びる。
5.
ゲルゲル王国 Kerajaan gelgle
※バリ島を征服したマジャパイト王国がバリ島と関係の深いジャワ・クディリ王国の子孫を使わしたことが経緯となってできた国。後にクルンクン王国となる。バリはジャワのクディリ王国と関係が深く、それゆえバリを征服したシンガサリ王国を倒したクディリの末裔ジャヤカトワンを滅ぼし台頭したマジャパイト王国に敵対していた。1343年マジャパイト王国の宰相ガジャ・マダに率いられた軍勢によりバリは支配され、マジャパイトに忠誠を誓わせるため、バリの統治者としてクディリ王国の子孫クパキサンが派遣された。イダ・ダラム・クトゥト・クパキサン Ida Dalem Ketut Kresna Kepakisan は、現在のギャニャール付近のサンプランガンを本拠地として、周辺の統治をおこなった。後にクパキサンを始祖とする小王国はゲルゲル王国となる。
ゲルゲル王国は、最初サンプランガンを都とし、後にゲルゲルに遷都した。ワトゥレンゴン王の時代に最盛期を迎え、ジャワ島の東端、ロンボク島、スンバワ島までを支配下に治めた。15世紀末、マジャパイト王国がイスラム教国に奪われようとしている頃、ジャワより王族・貴族、ヒンドゥー教僧などがゲルゲル王国に逃れて、バリ文化が成熟する契機となった。
1651年、ディマデ王の時代に大臣による反乱が起こり、王が亡くなった。残された王子たちは地方領主の協力を得て打ち破ったが、地方領主がそれぞれ覇を唱える機会を与えることとなった。バリ島を統一する力はなくなり、ゲルゲルの北にあるクルンクンに遷都した。ゲルゲル王国は後継のクルンクル王国を含め9つの王国に分立することになる
(オランダが介入してくる時代には9つの王国があり、その内メングゥイ王国が滅び、残り8王国が現在の県の母体となった。)
※マジャパイトは、クディリ王国の子孫を派遣して、ゲルゲル王国を建国させたのではなく、バリ侵攻後に宰相カジャ・マダによってバリに統治者として使わされたクパキサンが統治を行い、後に彼を始祖とする小王国ができ、クパキサンの子がゲルゲルに遷都してゲルゲル王朝となった。
**** ここからは、群雄割拠の小王国時代になります。情報が少ない王国もあり、どうしても、オランダとの関係が多くなります。王国の位置関係も重要です。
6.
クルンクン王国 Kerajaan Klungkung
※クルンクン王国は、バリ島の東南に位置する。ゲルゲル王国の遷都をきっかけに建国され、バリ島の王国の宗主国ともいうべき存在。1908年、オランダ軍に攻められ滅びる。クルンクル王国は、マジャパイト王国がバリに侵攻した後、バリを治めるために派遣したクパキサンを始祖としてできたゲルゲル王国の直系の国。都はスマラプラ(旧名クルンクン)。ゲルゲル王国より別れたバリ9王国の中での、宗主国ともいうべき存在で、王の位はデワ・アグンといい、他王国の王より位が高いが名目上のものであった。
1849年、オランダの第三次バリ島侵攻では、自国まで攻め込まれるが、バドゥン、ギャニャール、タバナン、クルンクン王国らのバリ軍により、オランダを苦戦させ停戦に持ち込む。
1880年代前半、ギアニャール王国を勢力下としたが、新興勢力として台頭してきたウブドのスカワティ家にギアニャールの北部を支配されてしまい、スカワティ家はカランガスム王国と連合して、クルンクンを攻めてきた。
バリ王国の中で最後までオランダに抵抗したクルンクン王国であったが、1908年についにオランダ軍に攻められ滅びる。これにより、オランダの全島支配が完成した。
7.
カランガスム王国 Kerajaan Karangasem
※ガランガスム王国は、バリ島の東岸に位置する。1800年頃、隣接するブレレン王国の内紛に乗じてブレレン王国を影響下に置いた。傍系のロンボク王家が1894年にオランダに敗れたことにより力を失いオランダの保護領になる。カランガスム王国は、16世紀後半にゲルゲル王国での内乱に負け、ゲルゲルからカランガスムに逃れ、その親族がカランガスム地方を統一し17世紀末に王国をたてた。18世紀群雄割拠するバリ島の8王国の中でも勢力が強大にとなり、バリ島の東側のロンボク島西部をも支配した。1800年頃、(海沿いに)隣接するブレレン王国の内紛に乗じてブレレン王国を影響下に置いた。1849年のロンボク戦争でオランダとロンボクの連合軍に敗れ、オランダの保護領となり、ロンボク国はカランガスムの支配権を獲得した。(ロンボク国もオランダに滅ぼされる。)
王は領事となり、オランダの支配を認めたことで、それ以上侵攻されず王政はそのまま残り、勢力が削がれなかったことより、ウブトのスカワティ家とともにオランダの植民地支配のエリートとしての地位を築いた。
8.
ギャニャール王国 Kerajaan Gianya
※バリ島の中央部東側に位置する。1849年のオランダ第三次バリ島侵攻の際には、バドゥン、タバナン、クルンクン王国ともにオランダと戦う。1900年、オランダの保護領になる。ギャニャール王国の都はギャニャール。1880年代中頃、隣接するクルンクル王国の軍事遠征にオランダに保護を求めるが無視されクルンクン王国の勢力下に置かれる。
また、新興勢力として台頭してきたウブドのスカワティ家にギャニャールの北部を支配される。
1900年、バドゥン、バンリ、クルンクンの3王国が同盟を組み、ギャニャールに対して、戦争をしかけた。ウブドの領主、グデ・スカワティはギャニャールのラジャにオランダの援助を求めさせた。オランダは制圧のため軍隊を送り、これによりギャニャールはオランダの保護領となる。
9.
バンリ王国 Kerajaan Bangli
※バリ島の中央東側に位置し、海に面しない国。北部にキンタマーニ高原がある。都はバンリ。バンリ王国の国寺はクヘン寺院。詳しい情報が得られませんでした。
10.
ブレレン王国 Kerajaan Buleleng
※バリ島の北側に位置する。オランダの第1~3次のバリ島侵攻で執拗に攻められ、1849年に滅びる。ブレレン王国はバリ島の北海岸に細長くバリ島の北斜面のほとんどを占める。1800年頃、隣接するカランガスム王国の影響下に置かれる。1846年第一次、1848年第二次、1849年第三次とオランダに侵攻される。第三次バリ島侵攻で、オランダ・ロンボク連合によって、逃走先のカランダスムでついに討たれた。
ブレレン王国の都はシンガラジャ。オランダ軍司令部はシンガラジャに置かれた。ブレレン港はバリにおけるオランダ植民地政府最大の交易基地として栄えた。
11.
ジュンブラナ王国 Kerajaan Jembrana
※バリ島の西南部に位置する。1849年の第三次バリ島侵攻によってオランダに征服される。ジュンブラナ王国は、バリ島の西南部。都はヌガラ。バリ島最西端のギリマヌクから、ジャワ島クタパンへの航路は、30分ほどである。1849年の第三次バリ島侵攻によって、オランダは、ジュンブラナ国とその北に隣接するブレレン国の征服に成功した。バリ島の王国の中で、両国がいち早くオランダの宗主権を認めることとなった。
12.
バドゥン王国 Kerajaan Badung
※18世紀に勃興し、バリ島の中央部の平野部を支配した。19世紀末にタバナン王国と連合し、メングウィ王国を滅ぼしたが、1906年にオランダ軍により滅される。バドゥン王国は、都であるバドゥン(現デンパサール)を中心に18世紀頃に勃興した王国。主にバリ島中南部の平野部を支配した。19世紀末にタバナン王国と連合し、メングウィ王国を滅ばし、タバナン王国とその領地を分割し併合する。
1904年、オランダ国旗を掲げていた中国の船「スリ・クマラ号」がサヌールで座礁し地元民に物資を略奪されたことにより、バドゥンのラジャに賠償を求めた。バドゥンのラジャは船主の要求に応じなかった。船主は宗主国であるオランダに、バドゥンに損害の賠償を認めさせるよう、またはオランダが支払うよう要求した。オランダはバドゥンに対して賠償金の支払いを求めたが、バドゥンは要求を拒否した※3)。交渉は2年にもおよんだ結果、オランダはバドゥンに対して全面通商封鎖を発令し、バリ島の隣接王国に協力を要請したが州境閉鎖は拒絶された。
1906年9月20日、オランダ艦隊がサヌールの海岸に上陸し都を攻められ、オランダ軍により滅ぶ。この時の戦いは「死の行進ププタン・バドゥン」※4)と呼ばれ、オランダ軍の残虐な行為は欧米からの非難をあび、バリ文化を保護する政策に転換するきっかけとなった。
13.
タバナン王国 Kerajaan Tabanan
※バリの中西部にある。バドゥン王国と連合し、メングゥイ王国を滅ぼす。1906年オランダ軍のバリ侵攻で滅ぼされる。タバナン王国はバリ島の中西部にあり、都はタバナン。ここでは、カジャの方向をバトゥカル山にし、神聖なものとしている(他地域はアグン山)。
1891年、バドゥン王国と連合し、メングゥイ王国を滅ぼす。
1904年、オランダはタバナン王国に対して、ヒンドゥー教の習慣で寡婦が夫(主人)の遺体とともに焼身自殺するムサティア制度※5)の実施をやめるよう要請したところ、国王がこれを拒絶したため、オランダは不快に感じていた。
1906年9月に、バドゥンに侵攻したオランダ軍は、タバナンにも兵を進める。タバナン王と王子は、ギャニャールやカランガスムの王と同等の権利を保持するという条件で降伏したいと申し出たが、オランダはオランダ人摂政を設置するよう要求し、また、マドゥラ島やロンボク島への国外追放※6)を勧告した。王と王子は自殺し、王族といっしょに捕らえられていた、タバナン国民は二日後、収容所で自決した。
14.
メングウィ王国 Kerajaan Mengwi
※1728年にバリ中南部に台頭した王国。1891年にバドゥン王国とタバナン王国の連合軍に敗れ、領地はバドゥン王国とタバナン王国に分割して併合された。メングウィ王国(=ムンウィ王国、ムングィ王国)1728年にバリ中南部に台頭したメングウィ王国の誕生によって、バリでは8王国から9王国になる。
東にはバドゥン王国、西にはタバナン王国があった。1891年にバドゥン王国とタバナン王国の連合軍に敗れ、領地はバドゥン王国とタバナン王国に分割して併合された。タマン・アユン寺院は王家の寺。
メングウィ王国の支配地に関する情報は得られなかったが、現状のバドゥン県の北部が中心と思われる。バドゥン県には、メグウィ郡がある。
※ ゴア・ラワ寺院の洞窟にメングウィ王子が探検に入ったとか、ウルワツ寺院がメングウィ王国だったという資料があり、そうだとすれば支配地は広大なものになります。「踊る島バリ」には、サトリア階層(王族)のマンダラ翁の長男の聞き書きが収録されていて、その中にプリ・カレラン家はメングウィ王国の領土に生まれたスカワティ家の出身であること。(その位置はギャニャールに属する。)「(ゲルゲル王国またはクルンクル王国から)分裂した王国の中では、クルンクル王国とメングウィ王国の二つが大きな勢力をもっていた。」と話しています。
※ メングウィ王国の成立は、ゲルゲル王国のクルンクンへの遷都以降(当時の王が倒れた1651年以降)です。タマンアユン寺院は1634年にメングウィ王国の国寺として建立されているというのですが、2層のメル塔があり王家の祖霊を奉るとされ、建立当初は小領主だった可能性があります。ただ、バリ王国の分裂からメングウィ王を名乗るまで数十年もかかったのかが疑問です。1728年誕生という情報は、バリ島カルチャー事典によります。
※1)ペジェン王国はワルマデワ王朝か?
マジャパイト王国はペジェン王国のダルマ・ペダウルを滅ぼすためにバリに侵攻した、という資料がある。ペジェン王国とワルマデワ王朝との関係を書いている資料は見つけていないが、関連する遺跡からペジェン付近が中心地だったのだろうと思われる。マジャパイト王国によりワルマデワ王朝が滅ぼされたわけだが、バリの最強国であるペジェン王国が敗れてからマジャパイトは残党狩り等があり、完全制圧には時間を要したらしい。ペジェン王国はワルマデワ王朝の直系の国ではないようだ。
※2)シンガサリ王国親族どおしの殺りく
初代ケン・アクロクは、自分の子に暗殺される。2代アヌサパティは、実はケン・アクロスが殺した領主の子どもであった。(ケン・アクロスは領主の妻を自分のものとした。)2代アヌサパティは、兄弟に殺された。(ケン・アクロスの愛人の子、トージャヤ)3代トージャヤは、自分の親族(前王の子と初代王の孫)に王の座を奪われること懸念するあまり、この二人を殺そうとした。喧噪は住民を巻きこむ争いとなり、矛先はトージャヤに向かうことになる。トージャヤは敗北し、その治世はわずか数ヶ月であった。
※3)船舶救助償金権の廃棄
海事法には、財産が海上で失われ、他の者によって救われた時、救出した者は救出した財産について救出賞金を請求する権利がある。本協定第二条の「船舶救助償金権の廃棄」の条項は、オランダとオランダを宗主国と認めた王国間の取り決めで、これまで、難破した船の財産はバリの人々が取ってもかまわなかったものを禁止したもののようである。オランダの立場としては、取り決めを守れということになる。
※4)ププタン・バドゥン Puputan Badung
ププタンとはバリ語の「終焉(Puput)」を語源とする。ププタン(死の行進)の中でも1906年9月20日にバドゥン王国の王家によってなされたププタンは「ププタン・バドゥン」と呼ばれ、歴史に刻まれている。1908年には、クルンクン王家のププタンによってバリはオランダに征服された。
デンパサール(バドウゥン王国の都:旧バドゥン)のププタン広場には、王のププタンを讃える記念碑が建てられている。
ププタンは集団自決とされ、軍隊どおしの衝突と思われるかもしれないが、少なくとも「ププタン・バドゥン」の場合は、軍人、王、王に仕える行政官、王の妻たち、王族、王・王族に使えた者たちがオランダ軍に射殺され、他にも自らを剣で刺し自決している。成人のみならず、老人、女、子どもも含まれている。「バリ島物語」では、王が領国内に明日は「終焉」の日として、ふれをだした。「終焉」に望む者を王宮に集めたと描いている。王宮への攻撃はデンパサールとその近くのプムチュタン宮殿に対して行われた。双方のププタンでの死亡者は2000人とも4000人とも資料には書かれている。純粋な王宮関係者だけでは、このような人数にならないことは明らかだ。
「踊る島バリ」では、マンダラ翁の長男が次のように話している。明日は終焉だというおふれに、王と武将のみならず、老人、女、子どもに至るまで最上の衣装を身につけ、持てる限りの宝石で着飾って王宮に集まった。夜明けとともに始まったオランダ軍の砲撃の中を、人々は炎に向かってガムランを打ち鳴らしながら行進をしたということです。
死亡した者は王とともに焼かれたという。この火葬により、王に天界に連れて行ってもらったことだろう。
※5)ムサティア制度 Mesatia (またはスチー制度)
王族が死ぬと夫の霊と同じくその妻も霊として一緒に伴うため、犠牲となって殉死する風習。王族の妻が夫の死後も生きながらえて寡婦となれば、彼女はランダとして忌み嫌われた。ムサワティア制度はオランダ植民地以降はププタンと同様に廃止された。
ヴィキィバウム著「バリ島物語」では、火葬はタバナンのラジャの父のもの、(すでに殉死は過去のものとなったという認識があったが)殉死はあくまでも本人の意思。24名の婦人の内、ラジャの第一婦人と二名の特にお気に入りの二人の奥方が白装束をまとい、(飛び込んだ際に、苦しまないためにすぐに窒息するように、油を注いで火勢を強くする)鳩を持ち、火に飛び込んだ。鳩は天に飛び去った。と描いている。資料からは、オランダを宗主国として認めた時点で、妻・家臣等が火葬の際に殉死することが禁止されていたよう読めるが、根拠は見つけていない。
タバナンのこのムサティアは、植民地になる前の最後の火葬・殉死になったと思われる。
※6)国外追放とププタン
ギャニャール王国やカランガスム王国では、王から権力は剥奪するも生かす方策をとったオランダであったが、オランダに対して抵抗が強かったタバナン王国には国外追放を勧告した。ロンボク戦争により、敗れたマタラムのラジャはジャワ島に流刑され彼の地で亡くなっている。異国の地で死ぬということは、王族・家臣や民衆によって火葬をしてもらうことはなく、よって「祖霊」となることができない、また生まれ変わることもできないことになる。異国に追放されることは死よりも耐えがたいことだろう。このオランダの姿勢が後に攻められた王国の徹底抗戦とププタンにつながった。
王様の称号 デワ・アグン Dewa Agung と ラジャ Raja
デワ・アグンは王族の最高称号。デワは神、アグンは偉大な、大いなるの意味。カーストのサトリア階層の最高称号である。デワ・アグンはマジャパイト王国の武将の直系であるゲルゲル王朝の歴代王の称号で、ゲルゲル王朝直系のクルンクン王国の王もデワ・アグンを名乗った。クルンルン王朝は分裂後の小王国の王たちはデワ・アグンを名乗らずにラジャRaja(君主や領主を意味する)を称号とした。オランダ植民地時代には王政は廃止されたが、この習慣は続き、残った王たちの末裔もラジャとよばれた。王族の称号の位は、ダラム、デワ・アグン、チョコルド、アナック・アグン、イグスティと下がっていく。
最初、クルンクンの王はダラムという称号を使っていたが、その後デワ・アグンに変わった。
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