バリ島の舞踊・宮廷での踊り
バリ島の魅力からバリ舞踊を外すことはできません。舞踊にかけるバリ人の思いや神・儀礼との関わり、昔のバリ舞踊、バリ舞踊の発達過程についてまとめました。
最後に、宮廷での踊りと創作舞踊について紹介します。
contents → レゴンの発祥、女は人前で踊らない、昔のレゴン修行、昔のアルジョ、ガンブーは踊りの源、奉納舞バリス、1930年代のトペン、クビャルそしてマリオ、ケチャの創作
バリの舞踊には、宮廷で演じられてきたものと地域で演じられてきたもの、そして現代に演じられている創作された舞踊(元となる舞踊があるものも含む)という見方もできると思います。宮廷で演じられていた踊りは、儀礼のためではあっても王族が鑑賞するものなので、現代の民衆や観光客のために演じる踊りに発展しているものが多いようです。
アナック・アグン・グデ・ラカ・バワ ANAK GEDE RAKA BAWA
1930年ごろの生まれ マンダラ氏の長男 クンダン奏者 1986-1987年談話
レゴンの踊りができたいきさつについては、いくつかの言い伝えがある。ロンタルによれば、17世紀の半ばに、スカワティ家のデワ・アグン・カルナがクテウェル村で瞑想にふけっている中で、神の国に迷い込み、天女の舞を見た。村の娘たちを集めて、踊らせてみたが、天女の美しさにかなう娘はみつからなかった。そこで、彼は天女の面をつくって、それをつけて踊らせた。これがレゴンと呼ばれるものの最初だと言われている。
クテウェル村のこの踊りは、サンヒャン・レゴン(サンヒャンは神さまの意)と呼ばれてきた。これは、現在の観光客が見るレゴンとはまったく違うものだ。
一方、バトゥブラン村のイ・グスティ・ングラ・ジェランティックが、儀礼のためではなく、見て楽しむものとして面をつけずに踊るサンヒャン・レゴンを考えた。
少女ではなく、女装した美しい少年たちに踊らせた。この踊りはナンディールと呼ばれてバリ中に広まった。
最初に踊り手を少女にするレゴンを考えだしたのは、20世紀に入ってからで、ある学者によるとスカワティ王家の血をひくイ・デワ・グデ・ライ・プリット※1)という人物で、彼はギャニャールのラジャに今までにない踊りをつくるよう命じられ、男の子の代わりに女の子を踊り手に使い、筋立てはガンブで演じられていたラッサム王の物語※2)を使うことにし、レゴン・ラッサムと呼ばれた。あるいは、王宮(クラトン)で演じられるものだったので、レゴン・クラトンとも呼ばれた。
※2)異国にさらわれたランケサリ姫と、姫を妻にしようとするラッサム王の葛藤を描いたもの。
※1)踊る島バリでは、イ・デワ・グデ・ライ・プリットとは「アナック・アグン・グデ・ライ・プリットのことか」と記載している。グンカとともにグヌン・サリ楽団を作ったイ・マデ・ルバ※3)の語りで、ラジャの命でガムランの叩き方を習った。習いに行かされたのは、スカワティの王族、アナック・アグン・グデ・ライ・プリットだと言っている。
その語りの中で、プリアタンのラジャは物語のあるものをやりたい、というので、ルバをライ・プリットへつかわした。つまり、ライ・プリットのレゴンは筋書きのあるものであったことがわかる。
イ・グスティ・グデ・ラカ※4)は8歳の時に、スカワティへ通ってガムランの演奏と踊りを本格的に習い始めた。アナック・アグン・グデ・ライ・プリットから教わった。
ルバは1910年生まれ、ラカは1915年生まれである。
ちなみに、アナック・アグン・グデ・ライ・プリットは、ルカの父の弟にレゴンを教えた。それまで二人で踊っていたレゴンをチョンドン役(侍女、女官役の踊り手)を入れて三人にしたこと、チョンドンの冠をつくったのも、レゴンの衣装を白い上着から今のような衣装にしたのも、ルカの父の弟だとルカは語っている。
よって、今に通じるレゴンの誕生は、19世紀後半~20世紀初めと考えられる。
また、ルカは、スカワティのライ・プリットが教えた弟子たちが、それぞれの地にレゴンを教え、全バリ中にレゴンが広まっていったと語っている。
※3) イ・マデ・ルバ I MADE LEBAH 1910年ごろの生まれ クンダンの名手 1986年談話
※4) イ・グスティ・グデ・ラカ I GUSTI GUDE RAKA 1915年ごろの生まれ 演奏家・踊り手、海外公演多数 1987年談話
踊りを始めるとき、最初に習うのもレゴンだった。といっても当時は女の子のレゴンはなくて、全部、男の子が女装して踊った。名前もレゴンといわずにナンディールといった。踊りの内容は同じなんだけど。
今はもうナンディールなんて全くやらない。女の子が踊り始めるようになったのは、たしか1930年ごろのことだ。その前は女が踊ることはなかった。なぜってそういうふうだったんだ、昔は。女の子が人前で踊るなんて、そんなことは恥ずかしくてできなかったんだよ。
ガンブの踊りを六ヶ月練習してようやく一通りできるようになりました。次に、レゴン・クラトン(叙事舞踊)をやろうということになり、私も選ばれました。
朝4・5時に起こされ川で水浴し、柔軟トレ。8時から練習、昼休憩1時間。3・4時まで練習。夜に練習。そういう練習が3年続きました。
先生は、踊りのことを本当によく知っていて、レゴンも、いろいろなレゴン、レゴン・ジョッボッグ(猿の王のレゴン)やレゴン・クントゥール(白鷺のレゴン)など何でもできました。先生方は王宮のガンブの踊り手でした。
レゴンは普通の人なんて見に来れませんでした。当時の踊り子の衣装もそれはきらびやかで、めったに普通の人が目にすることができるものではなかった。冠も金、花も金、イヤリングも金・・・こっちもあっちも金で重たかったわねぇ。衣装も重たかったですよ。
遠くのクルンクンやカランアッサムの王宮でお祭りや儀式があると呼ばれていくこともあった。村の人の前で踊るのは、1年に1回、ラジャ・クニン(ラジャからの賜り物を競い合ってとる催し)の時だけでした。
踊り子を選ぶにも、手が長すぎてはいけない。背が低すぎてもいけない。腰は細く、お尻は出ている方がいい。足も長すぎず短すぎず、鼻がぺちゃんこではダメとか、頭は極端に大きくてはいけないとか、いろいろと厳しく選んだものなんです。
ニ・チャワン NI CAWAN 1926年ごろの生まれ 日本軍政時代に日本人の人気を集めた。 1987年談話
昔の人は踊りを見るのは好きだったけど、強いて、はじめて踊るという感じで、自分から踊ろうとはしなかったものでした。
いったん踊り始めると、まるで別の魂になったようで、何も感じなくなったものです。体の重みも感じなくなるし、全く別の感覚になるんです。踊り終わるとようやく体に重みを感じたりして。踊っている最中も、観客の顔の表情なんてまったく目に入らない。それが全部見えてしまうときは踊りもよくないんです。ぎこちなくてね。踊っていてもなんだかしっくりこない。とても、疲れるし、ああ今日はダメだな、と思いましたね。
他にも、お寺にいる間は、いろいろい厳しいおきてがありました。牛肉を食べてはならない。頭を人に触らせてはいけない。下着の干してある下をくぐってはいけないって。
こうして、17歳くらいまで寺に寝起きして踊っていたのですが、そのうち次のレゴンの踊り手が決まって、寺を去ることになりました。儀式をして、次の踊り子に神さまが入るようにお祈りしておいとまをしました。
バワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
アルジョは今では、男の役さえ女が演じることが多いが、昔は、役者は男ばっかりで王女役も男が演じた。私が子どもだったころは(1930年代)は、ちょうど時代の変わり目で、女だけのアルジョもあれば、男だけのアルジョもあった。女の役のいくつかを男がやるというふうに男女入り交じったアルジョも見たことがある。
グンカが芸能活動を始めた1922年ごろのアルジョは、もちろんみんな男でした。
昔のアルジョは恋の相手を見つける絶好の機会
バワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
昔は、アルジョはどんなに早くても、始まるのは夜中の12時近く。次の日のお昼前にようやく終わるという具合なので、みんな真剣に見ようと思って、いったん寝たものだ。最高潮が朝の四時くらいになるのだから。

アルジョのある夜は、恋の相手を見つける絶好の機会でした。ところが、観客席は一方が男、もう一方が女と厳しく分けられていた。そこで、目と目で合図を送るのだ。
バリでは本来、男と女は別々でなければならない。例えばワヤンなどは、女の人はめったに見ることはなかった。ワヤンをやる所というのは暗いので、暗いところに夜中に女の人がいくことは批判を受ける。女の人が夜、家から出られるのはアルジョを見るときとかお祭りのときとかに限られていた。
※マンダラ翁が青年時代に演じたアルジョ「インタイとサンピック」の話し
演目は、ジャワの歴史物語マラット(パンジ物語)や、ロンゴラウェ物語などが取りあげられる。ガンブーには、「文学」「舞踊」「芸術」のあらゆる要素が含まれており全ての古典バリ舞踊の原点・源となっている。
上演の際には、ガムラン ガンブーという編成が使われ、巨大な竹笛が使われるのが特徴。
バワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
トペンやアルジョの登場人物とその踊りの型は、ガンブーから受け継がれている。ガンブーはマジャパイト王国の時代、ジャワの宮廷で演じられていた舞踊劇の流れをくんでおり、バリの王国時代に、もっぱらラジャのもとで演じられた。やはり、踊りの入った劇というもので、話の内容は、パンジという王子が、別れ別れになった許嫁を捜して遍歴するというものだ。
このガンブの中には、その後いろいろに枝分かれし独立していった、踊りの所作のもとがすべて詰まっているともいわれている。例えば、バリスやジャウックといった単独で踊る踊りでも、その振りのひとつひとつは、みんなガンブに出てくる戦いの場面などの動きそのものなのだ。
バリスの場合、そのバリスという名前や衣装の形は、寺院に武芸を奉納する儀礼の舞、バリス・グデからきているが、その踊りの中身はといえば、すべてガンブのバリエーションなのだ。

そういう、ガンブを劇から踊りに凝縮したもの、つまり多くの登場人物を二人または三人の踊り手にし、いろいろな所作をすべて優美な踊りの振りにした、いわばガンブのエッセンスともいうべきものがレゴンということになるのだろうか。

イ・マデ・ルバ I MADE LEBAH 1986年談話
王国時代のバリスは、今のバリス(戦士の踊り)とは違う。昔のバリスは槍なんかを使って大勢で踊り、バリス・トゥンバック(槍の奉納演舞)という。
バリスにもいろんな種類があって、バリス・トゥンバックっていうのもあれば、バリス・ゴアック(カラスのバリス)とか、バリス・プレン(楯のバリス)とか、バリス・ボレン(市松模様の衣装のバリス)、バリス・ジョジョール(槍のバリス)とか、いろいろある。
たいてい年とった、二三人の役者が全部の役をこなしもまぬけな召使いや怒りっぽい総理大臣から英雄的王、知恵ある若い王子まで、ありとあらゆる登場人物を実にみごとに演じきる。老人が仮面をつけ上品に踊るだけで優雅な若い王子になりきったかと思うと、すぐに舌たらずでうすのろの道化になって出てくるのを見るのは、まるで魔法のようだった。
「トペン」の一種で、ちょっと変わった、「パジェガン」という、一人の役者がすべての役を演じるものがある。
このときは、役者が変わり身をするいつもの幕を張った小部屋が「舞台」端に設けられ、楽団はその反対側で演奏する。役者は衣装を身につけ、面はまだかぶらぬまま小部屋の中に座って、演ずる登場人物たちにお供えをし、祈る。そして、香木に火をつけ、携えてきたささやかな供物を捧げ、小ぶりの鶏の首をはねて、その血を地面にまく。
仮面はひとつひとつ布にくるまれ、籠の中にきめられた順序でそろえてある。役者が最初の面を取り、布にくるんだまま、仮面の裏の木の突起を歯でくわえるか、後についている革ひもを使って、面をつける。覆いを外す前に彼は緊張し、一種のトランス状態に入ったようになって、頭と手で踊りの身振りをしながら「役に入っていく」と、急に布を破りすて、立ち上がって、幕の後でちょっと踊ってから、姿を現す。
これがどの役についても繰り返される。面はどれもていねいに包んであって、使ったあとはきちんと片付けるのである。

仮面は神聖この上ないものというか、呪力を持つものであり、売ろうなどとはだれも夢にも思わない。すぐれた「トペン」仮面のひとそろいは宝物である。と、いうのは一流の彫刻師でなければ作れないからである。
by ミゲル・コバルビアス Miguel Covarrubias
メキシコ生まれの画家。1933年から1年余夫妻でウブドに滞在、帰米して1937年『Island of Bali』を出版。バリ文化を欧米に知らしめた。
オランダ統治により寺院が王族から共同体のもになるとともに、民衆や観光客に見せるための舞踊が発展した。一つは神に奉納する舞踊が元になっている、ケチャやチャロンアランなど、もう一つはゴン・クビャールという新たな音楽・楽団編成に合わせて創作されたもの、オレッグ・タムブリリガン、クビャール・ドゥドゥック、クビャール・トロンポンなど。後者の舞踊はマリオという傑出した踊り手が創作した。
身分の低い生まれの若い男・マリオがバリスの男っぽさとレゴンの優雅さを組み合わせた新しい舞踊(クビャル)でバリ南部の人々を驚かせた。
この踊
りの新しさは踊り手が地面からけっして立ち上がらずに、腰から上を動かして、胴・腕・手の動きを強調し、踊り手の顔の表情に注意をひきつけたことにあった。
マリオの名声は島の外国人客、そして世界の旅行者に知られるようになった。
※マリオ イクトゥットゥ・マリオ I Ketut Mario 1920~1930年代に活躍した天才舞踊家。当時流行していたゴン・クビャールのための数々の創作舞踊を生み出した。
バリ島を舞台として「デーモンの島」という自主制作の映画が作られた折、ドイツ人画家ウォルター・シュピースがこの男性唱和をラーマーヤナの猿の軍団として登場させるアイデアを考えだした。
ある著名なバリ人舞踏家がサンヒャン・ドゥダリの男声合唱にバリス舞踊の動きを組み込ませたのを見たシュピースは、ガムランの代わりにこの男声合唱のみを使って『ラーマーヤナ』のストーリーを組み込んだ観賞用の舞踊を考案するよう提案し、プドゥル村の人びとが、1933年にボナ村の人びととともに、総勢160名で試みたのが最初のケチャであるとされる。その2年後にボナ村の人びとがさらに発展させたケチャを上演し、これが今のケチャの原型になった
。
こうして、1950~1960年代頃には、一般に観光向けに上演される舞踏劇としての様式が確立した。
別名モンキーダンスとも呼ばれるようになったのは、男性のコーラス隊をラーマーヤナの猿の軍団と見立てたことによる。
参考資料:バリ島 Island of BALI ミゲル・コバルビアス 平凡社
踊る島バリ 聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り子たち PARCO出版
First-バリ舞踊の様式と主な舞踊 Back-悪霊祓いの舞踊とワヤン 宮廷での踊りと創作舞踊
最後に、宮廷での踊りと創作舞踊について紹介します。
contents → レゴンの発祥、女は人前で踊らない、昔のレゴン修行、昔のアルジョ、ガンブーは踊りの源、奉納舞バリス、1930年代のトペン、クビャルそしてマリオ、ケチャの創作
バリ舞踊-宮廷で演じられていた踊り
バリの舞踊には、宮廷で演じられてきたものと地域で演じられてきたもの、そして現代に演じられている創作された舞踊(元となる舞踊があるものも含む)という見方もできると思います。宮廷で演じられていた踊りは、儀礼のためではあっても王族が鑑賞するものなので、現代の民衆や観光客のために演じる踊りに発展しているものが多いようです。
レゴン legong の発祥-現在に通じる形になったのは19~20世紀
アナック・アグン・グデ・ラカ・バワ ANAK GEDE RAKA BAWA
1930年ごろの生まれ マンダラ氏の長男 クンダン奏者 1986-1987年談話
レゴンの踊りができたいきさつについては、いくつかの言い伝えがある。ロンタルによれば、17世紀の半ばに、スカワティ家のデワ・アグン・カルナがクテウェル村で瞑想にふけっている中で、神の国に迷い込み、天女の舞を見た。村の娘たちを集めて、踊らせてみたが、天女の美しさにかなう娘はみつからなかった。そこで、彼は天女の面をつくって、それをつけて踊らせた。これがレゴンと呼ばれるものの最初だと言われている。
クテウェル村のこの踊りは、サンヒャン・レゴン(サンヒャンは神さまの意)と呼ばれてきた。これは、現在の観光客が見るレゴンとはまったく違うものだ。
一方、バトゥブラン村のイ・グスティ・ングラ・ジェランティックが、儀礼のためではなく、見て楽しむものとして面をつけずに踊るサンヒャン・レゴンを考えた。
少女ではなく、女装した美しい少年たちに踊らせた。この踊りはナンディールと呼ばれてバリ中に広まった。
最初に踊り手を少女にするレゴンを考えだしたのは、20世紀に入ってからで、ある学者によるとスカワティ王家の血をひくイ・デワ・グデ・ライ・プリット※1)という人物で、彼はギャニャールのラジャに今までにない踊りをつくるよう命じられ、男の子の代わりに女の子を踊り手に使い、筋立てはガンブで演じられていたラッサム王の物語※2)を使うことにし、レゴン・ラッサムと呼ばれた。あるいは、王宮(クラトン)で演じられるものだったので、レゴン・クラトンとも呼ばれた。
※2)異国にさらわれたランケサリ姫と、姫を妻にしようとするラッサム王の葛藤を描いたもの。
※1)踊る島バリでは、イ・デワ・グデ・ライ・プリットとは「アナック・アグン・グデ・ライ・プリットのことか」と記載している。グンカとともにグヌン・サリ楽団を作ったイ・マデ・ルバ※3)の語りで、ラジャの命でガムランの叩き方を習った。習いに行かされたのは、スカワティの王族、アナック・アグン・グデ・ライ・プリットだと言っている。
その語りの中で、プリアタンのラジャは物語のあるものをやりたい、というので、ルバをライ・プリットへつかわした。つまり、ライ・プリットのレゴンは筋書きのあるものであったことがわかる。
イ・グスティ・グデ・ラカ※4)は8歳の時に、スカワティへ通ってガムランの演奏と踊りを本格的に習い始めた。アナック・アグン・グデ・ライ・プリットから教わった。
ルバは1910年生まれ、ラカは1915年生まれである。
ちなみに、アナック・アグン・グデ・ライ・プリットは、ルカの父の弟にレゴンを教えた。それまで二人で踊っていたレゴンをチョンドン役(侍女、女官役の踊り手)を入れて三人にしたこと、チョンドンの冠をつくったのも、レゴンの衣装を白い上着から今のような衣装にしたのも、ルカの父の弟だとルカは語っている。
よって、今に通じるレゴンの誕生は、19世紀後半~20世紀初めと考えられる。
また、ルカは、スカワティのライ・プリットが教えた弟子たちが、それぞれの地にレゴンを教え、全バリ中にレゴンが広まっていったと語っている。
※3) イ・マデ・ルバ I MADE LEBAH 1910年ごろの生まれ クンダンの名手 1986年談話
※4) イ・グスティ・グデ・ラカ I GUSTI GUDE RAKA 1915年ごろの生まれ 演奏家・踊り手、海外公演多数 1987年談話
昔は女は人前で踊らなかった
イ・マデ・ルバ I MADE LEBAH 1986年談話踊りを始めるとき、最初に習うのもレゴンだった。といっても当時は女の子のレゴンはなくて、全部、男の子が女装して踊った。名前もレゴンといわずにナンディールといった。踊りの内容は同じなんだけど。
今はもうナンディールなんて全くやらない。女の子が踊り始めるようになったのは、たしか1930年ごろのことだ。その前は女が踊ることはなかった。なぜってそういうふうだったんだ、昔は。女の子が人前で踊るなんて、そんなことは恥ずかしくてできなかったんだよ。
踊り手が語る-昔のレゴン修行
ニ・クトゥトゥ・ルナル NI KETUT RENENG 1909年ごろの生まれ 音楽舞踊専門大学で教える 1987年談話ガンブの踊りを六ヶ月練習してようやく一通りできるようになりました。次に、レゴン・クラトン(叙事舞踊)をやろうということになり、私も選ばれました。
朝4・5時に起こされ川で水浴し、柔軟トレ。8時から練習、昼休憩1時間。3・4時まで練習。夜に練習。そういう練習が3年続きました。
先生は、踊りのことを本当によく知っていて、レゴンも、いろいろなレゴン、レゴン・ジョッボッグ(猿の王のレゴン)やレゴン・クントゥール(白鷺のレゴン)など何でもできました。先生方は王宮のガンブの踊り手でした。
レゴンは普通の人なんて見に来れませんでした。当時の踊り子の衣装もそれはきらびやかで、めったに普通の人が目にすることができるものではなかった。冠も金、花も金、イヤリングも金・・・こっちもあっちも金で重たかったわねぇ。衣装も重たかったですよ。
遠くのクルンクンやカランアッサムの王宮でお祭りや儀式があると呼ばれていくこともあった。村の人の前で踊るのは、1年に1回、ラジャ・クニン(ラジャからの賜り物を競い合ってとる催し)の時だけでした。
踊り子を選ぶにも、手が長すぎてはいけない。背が低すぎてもいけない。腰は細く、お尻は出ている方がいい。足も長すぎず短すぎず、鼻がぺちゃんこではダメとか、頭は極端に大きくてはいけないとか、いろいろと厳しく選んだものなんです。
ニ・チャワン NI CAWAN 1926年ごろの生まれ 日本軍政時代に日本人の人気を集めた。 1987年談話
昔の人は踊りを見るのは好きだったけど、強いて、はじめて踊るという感じで、自分から踊ろうとはしなかったものでした。
いったん踊り始めると、まるで別の魂になったようで、何も感じなくなったものです。体の重みも感じなくなるし、全く別の感覚になるんです。踊り終わるとようやく体に重みを感じたりして。踊っている最中も、観客の顔の表情なんてまったく目に入らない。それが全部見えてしまうときは踊りもよくないんです。ぎこちなくてね。踊っていてもなんだかしっくりこない。とても、疲れるし、ああ今日はダメだな、と思いましたね。
他にも、お寺にいる間は、いろいろい厳しいおきてがありました。牛肉を食べてはならない。頭を人に触らせてはいけない。下着の干してある下をくぐってはいけないって。こうして、17歳くらいまで寺に寝起きして踊っていたのですが、そのうち次のレゴンの踊り手が決まって、寺を去ることになりました。儀式をして、次の踊り子に神さまが入るようにお祈りしておいとまをしました。
演奏者が語る-昔のアルジョ Arja
昔のアルジョは男だけで演じたバワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
アルジョは今では、男の役さえ女が演じることが多いが、昔は、役者は男ばっかりで王女役も男が演じた。私が子どもだったころは(1930年代)は、ちょうど時代の変わり目で、女だけのアルジョもあれば、男だけのアルジョもあった。女の役のいくつかを男がやるというふうに男女入り交じったアルジョも見たことがある。
グンカが芸能活動を始めた1922年ごろのアルジョは、もちろんみんな男でした。
昔のアルジョは恋の相手を見つける絶好の機会
バワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
昔は、アルジョはどんなに早くても、始まるのは夜中の12時近く。次の日のお昼前にようやく終わるという具合なので、みんな真剣に見ようと思って、いったん寝たものだ。最高潮が朝の四時くらいになるのだから。

アルジョのある夜は、恋の相手を見つける絶好の機会でした。ところが、観客席は一方が男、もう一方が女と厳しく分けられていた。そこで、目と目で合図を送るのだ。
バリでは本来、男と女は別々でなければならない。例えばワヤンなどは、女の人はめったに見ることはなかった。ワヤンをやる所というのは暗いので、暗いところに夜中に女の人がいくことは批判を受ける。女の人が夜、家から出られるのはアルジョを見るときとかお祭りのときとかに限られていた。
※マンダラ翁が青年時代に演じたアルジョ「インタイとサンピック」の話し
踊りの源-宮廷で演じられていたガンブーは多くの踊りの源
ガンブー Gambuh。15世紀には既にあったという、バリで一番古い奉納舞踊劇。マジャパイトがバリを征服し、ジャワ宮廷文化がバリに根付く過程と関係が深いものと思われる。この舞踊劇では400年前からずっと変わらず古代カウィ語が使われている。演目は、ジャワの歴史物語マラット(パンジ物語)や、ロンゴラウェ物語などが取りあげられる。ガンブーには、「文学」「舞踊」「芸術」のあらゆる要素が含まれており全ての古典バリ舞踊の原点・源となっている。
上演の際には、ガムラン ガンブーという編成が使われ、巨大な竹笛が使われるのが特徴。
バワ ANAK GEDE RAKA BAWA 1986-1987年談話
トペンやアルジョの登場人物とその踊りの型は、ガンブーから受け継がれている。ガンブーはマジャパイト王国の時代、ジャワの宮廷で演じられていた舞踊劇の流れをくんでおり、バリの王国時代に、もっぱらラジャのもとで演じられた。やはり、踊りの入った劇というもので、話の内容は、パンジという王子が、別れ別れになった許嫁を捜して遍歴するというものだ。
このガンブの中には、その後いろいろに枝分かれし独立していった、踊りの所作のもとがすべて詰まっているともいわれている。例えば、バリスやジャウックといった単独で踊る踊りでも、その振りのひとつひとつは、みんなガンブに出てくる戦いの場面などの動きそのものなのだ。
バリスの場合、そのバリスという名前や衣装の形は、寺院に武芸を奉納する儀礼の舞、バリス・グデからきているが、その踊りの中身はといえば、すべてガンブのバリエーションなのだ。

そういう、ガンブを劇から踊りに凝縮したもの、つまり多くの登場人物を二人または三人の踊り手にし、いろいろな所作をすべて優美な踊りの振りにした、いわばガンブのエッセンスともいうべきものがレゴンということになるのだろうか。
寺院に武芸を奉納する舞-バリス baris
バリスということばは「戦列」「軍隊の隊形」という意味。英雄・勇士の踊りとされるバリスは、寺院を訪れる神々を護る役目として、各自が手に武器を持って踊る。かつては成人した男性(中年男性たち)が、バリス舞踊に最も適している踊り手だった。基本的に寺院の内部で奉納され、その名前は、踊り手が運ぶ武器の種類や、身に付ける衣装にちなんで呼ばれている。
イ・マデ・ルバ I MADE LEBAH 1986年談話
王国時代のバリスは、今のバリス(戦士の踊り)とは違う。昔のバリスは槍なんかを使って大勢で踊り、バリス・トゥンバック(槍の奉納演舞)という。
バリスにもいろんな種類があって、バリス・トゥンバックっていうのもあれば、バリス・ゴアック(カラスのバリス)とか、バリス・プレン(楯のバリス)とか、バリス・ボレン(市松模様の衣装のバリス)、バリス・ジョジョール(槍のバリス)とか、いろいろある。
ミゲル・コバルビアスが見たトペン topeng 1930年代
昼間の演し物でいちばん人気があり、成人男子たちにとくに好まれているのは、[トペン」という、地方の王や戦士の偉業、バリ史(ババド)に伝わる戦争や陰謀をめぐっての仮面劇である。たいてい年とった、二三人の役者が全部の役をこなしもまぬけな召使いや怒りっぽい総理大臣から英雄的王、知恵ある若い王子まで、ありとあらゆる登場人物を実にみごとに演じきる。老人が仮面をつけ上品に踊るだけで優雅な若い王子になりきったかと思うと、すぐに舌たらずでうすのろの道化になって出てくるのを見るのは、まるで魔法のようだった。
「トペン」の一種で、ちょっと変わった、「パジェガン」という、一人の役者がすべての役を演じるものがある。
このときは、役者が変わり身をするいつもの幕を張った小部屋が「舞台」端に設けられ、楽団はその反対側で演奏する。役者は衣装を身につけ、面はまだかぶらぬまま小部屋の中に座って、演ずる登場人物たちにお供えをし、祈る。そして、香木に火をつけ、携えてきたささやかな供物を捧げ、小ぶりの鶏の首をはねて、その血を地面にまく。
仮面はひとつひとつ布にくるまれ、籠の中にきめられた順序でそろえてある。役者が最初の面を取り、布にくるんだまま、仮面の裏の木の突起を歯でくわえるか、後についている革ひもを使って、面をつける。覆いを外す前に彼は緊張し、一種のトランス状態に入ったようになって、頭と手で踊りの身振りをしながら「役に入っていく」と、急に布を破りすて、立ち上がって、幕の後でちょっと踊ってから、姿を現す。
これがどの役についても繰り返される。面はどれもていねいに包んであって、使ったあとはきちんと片付けるのである。

仮面は神聖この上ないものというか、呪力を持つものであり、売ろうなどとはだれも夢にも思わない。すぐれた「トペン」仮面のひとそろいは宝物である。と、いうのは一流の彫刻師でなければ作れないからである。
by ミゲル・コバルビアス Miguel Covarrubias
メキシコ生まれの画家。1933年から1年余夫妻でウブドに滞在、帰米して1937年『Island of Bali』を出版。バリ文化を欧米に知らしめた。
バリ舞踊-観光時代到来とともに創作された踊り
オランダ統治により寺院が王族から共同体のもになるとともに、民衆や観光客に見せるための舞踊が発展した。一つは神に奉納する舞踊が元になっている、ケチャやチャロンアランなど、もう一つはゴン・クビャールという新たな音楽・楽団編成に合わせて創作されたもの、オレッグ・タムブリリガン、クビャール・ドゥドゥック、クビャール・トロンポンなど。後者の舞踊はマリオという傑出した踊り手が創作した。
ミゲル・コバルビアスが見たクビャル、そしてマリオ 1930年代
天才芸術家が在来の型を突き破って出現し、強い影響力を及ぼすことがある。身分の低い生まれの若い男・マリオがバリスの男っぽさとレゴンの優雅さを組み合わせた新しい舞踊(クビャル)でバリ南部の人々を驚かせた。
この踊
りの新しさは踊り手が地面からけっして立ち上がらずに、腰から上を動かして、胴・腕・手の動きを強調し、踊り手の顔の表情に注意をひきつけたことにあった。マリオの名声は島の外国人客、そして世界の旅行者に知られるようになった。
※マリオ イクトゥットゥ・マリオ I Ketut Mario 1920~1930年代に活躍した天才舞踊家。当時流行していたゴン・クビャールのための数々の創作舞踊を生み出した。
ケチャの創作 - サンヒャン・ドゥダリから作られたケチャ Kecak
バリ島の伝統的な舞踏、サンヒャンは、疫病が蔓延したときなどに初潮前の少女を媒体にして祖先の霊を招き、加護と助言を求めるものであった。これに対して現在のケチャは、『ラーマーヤナ』の物語を題材とする舞踏劇の様式で演じられている。バリ島を舞台として「デーモンの島」という自主制作の映画が作られた折、ドイツ人画家ウォルター・シュピースがこの男性唱和をラーマーヤナの猿の軍団として登場させるアイデアを考えだした。
ある著名なバリ人舞踏家がサンヒャン・ドゥダリの男声合唱にバリス舞踊の動きを組み込ませたのを見たシュピースは、ガムランの代わりにこの男声合唱のみを使って『ラーマーヤナ』のストーリーを組み込んだ観賞用の舞踊を考案するよう提案し、プドゥル村の人びとが、1933年にボナ村の人びととともに、総勢160名で試みたのが最初のケチャであるとされる。その2年後にボナ村の人びとがさらに発展させたケチャを上演し、これが今のケチャの原型になった
。こうして、1950~1960年代頃には、一般に観光向けに上演される舞踏劇としての様式が確立した。
別名モンキーダンスとも呼ばれるようになったのは、男性のコーラス隊をラーマーヤナの猿の軍団と見立てたことによる。
参考資料:バリ島 Island of BALI ミゲル・コバルビアス 平凡社
踊る島バリ 聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り子たち PARCO出版
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