VS. NERO
FIGHT3『氷結の支配者、後編』
七年の歳月が流れた――
フォルトゥナの街を覆う、巨大な城砦。その一角に立ち、眼下の街並みを見下ろす長身の人影があった。
雪色の白い髪と、赤く鋭利な瞳孔を持つ彼は、名をツンドラといった。
生まれ故郷を見下ろす真紅色の眼差しに、だが郷愁の念はない。あるのは戦いを目前に控えた緊張感と、ついに復讐を遂げるのだという暗い昂揚感だけだった。
ツンドラは目を閉じ、これまでの苛烈な七年間を思い返す。彼と彼の仲間の人生を狂わせた連中と、対等に戦える力を得るために、危険な職を通じて己を鍛え続けてきた日々……
特殊な力と才能を持つ者は、仕事を選ぶのではなく、仕事に選ばれる存在である。とあるイカレ学者のおかげで相手に苦痛と死を与える力を持つことになったツンドラは、必然、殺し屋の道へと足を踏み入れていた。人殺しに向かないはずがなかった。ツンドラほど暴力的な遺伝子に恵まれた者もいないのだから。
血と硝煙に彩られた世界。経験を積み己を鍛えるには、この上ない職場だった。裏稼業の中でも最低ランクの仕事とされる「暗殺者」の役に身を堕とそうとも、強くなれるのなら構いやしなかった。それにツンドラが標的とするのは、マフィアや暗殺組織といった後ろ暗い連中だけなのだ。彼が仇敵と定める魔剣教団のような。だから良心の呵責はまるでなかった。悪党をブチ殺して何が悪い?
開き直りにも似た免罪符の元、数々の殺しを遂行してきたツンドラの名は、裏社会に広く轟き渡った。彼に睨まれて無事な者は誰一人としていなかった。どれほど警戒厳重な標的であろうと、依頼人から詳細な情報を仕入れ、前払い金がツンドラの口座に振り込まれたら、もう標的は運の尽きだった。
――欲望と裏切り、死と血の匂いに満ちたルールなき暗黒街にも、決して冒してはならないタブーは存在する。
――踏み込めば破滅してしまう、裏社会の顔役さえ震え上がる、いくつかの不文律。そうしたものの一つに数えられるまでになったツンドラを疎ましく思い、消し去りたいと考える連中は少なからずいた。過ぎた力は、得てして余計な敵を作ってしまうものだ。だが彼らには、ツンドラと直接対決するような度胸は、もちろんない。ツンドラの命を狙った者は例外なく、墓の下で蛆の餌になっている。あるいは、死体すら残らなかった者も。
下手な襲撃が通用するような相手ではない、と誰もが認識していた。
やつに関わると死に繋がる、と誰もが恐怖していた。それでも彼らはツンドラを葬り去るべく作戦を練りつづけ、ついには悪魔の力を導入するという勝利の方程式を導き出していた。
表舞台はともかく、裏社会において悪魔の力とは、さして珍しい代物ではない。薄汚い街角にわだかまる腐敗と悪徳に惹かれて人間界に出現する悪魔の存在は、知る者には早くにその存在を確認されていたし、空虚で破壊的なその力を利用するべく、解体された悪魔の肉体の一部が闇の市場で売買されているほどだ。人体改造により悪魔の力を人間に移植するためだ。そうして強化された肉体は、銃やナイフよりも致命的な武器となる。探知機に引っかかることはないし、人間の科学力で解明できるような痕跡も残らない。CSIも真っ青な代物だ。
真実は定かではないが、軍事目的で悪魔の力を持った人間兵器を、政府が開発しているという噂を耳に挟んだこともあった。馬鹿げた噂だと笑い飛ばすことはできなかった。その馬鹿げた存在を、他ならぬツンドラ自身が立証しているのだから。悪魔の力を利用しようなどと考える連中は、どうやら魔剣教団だけではないらしい。結局、本当に恐ろしいのは悪魔ではなく人間のほうなのだ。
そういった背景でヒトの身でありながら悪魔の力を得、ツンドラに対する刺客として雇われた常人ならざる凶手は、だがやはり返り討ちに遭って無惨な死に様を晒した。ツンドラもまた悪魔の力の持ち主だったし、その完成度を競って勝てる道理などなかったからだ。悪魔の肉体の一部を取って付けただけの出来損ないと、細胞レベルで悪魔の因子を組み込まれた存在。文字通り、出来が違っていた。それでいてツンドラは、強くなることに勤勉な男だった。しかも彼に宿る因子は、敵を殺すことを唯一の目的として設計され造り出された生物のものだった。そして、ツンドラの成長に合わせて進化した氷の力は、その由来となった魔王の精鋭部隊をすでに凌駕していた。つまり、戦って勝てる相手ではないのだ。
仇敵の一人、教団騎士団長が、かつて言った台詞を思い出す。
『あの子供は私が始末する……あれが手の負えない化け物に成長してしまう前に!』
「悪いな。もう手遅れってやつだ」
七年の歳月をかけて己を鍛え、力を蓄えたツンドラは、あのときは力及ばなかった相手に微笑みかけた。
残虐な死を約束する、不吉な微笑み。
「あのときも言ったがな、首を洗って待っていろ……命をもらいにいくぜ」
誰にともなく宣誓し、ツンドラは城砦を蹴って虚空へと身を躍らせた。背中まで伸びた白銀の髪が、粉雪のように煌めきながら舞い上がる。
その全身から沸々と湧き出す、無限のパワー。
かつて敗れ去った悪魔は、より強く完璧になって帰ってきた。
◇
ツンドラの生まれ故郷であるフォルトゥナは、かなり様変わりしていた。
街並みが、ではない。
住民たちが、である。
フォルトゥナという小国家は、宗教的な伝統で古めかしい頭巾を着用する決まりがある。
老若男女を問わず、季節や仕事もまた関係なく、だ。
もちろん宗教的な義務はなく、着用の自由は許されているが、フォルトゥナの住民は全員が敬虔な信徒である。高い地位や階級にいるからこそ、堂々と顔を出すことを義務化された者や、魔剣祭の歌姫に抜擢された特定の女性、ほんの一部の不信心者を除き、あとは皆、自分の意思で頭巾を着用していた。その起原や理由はわからない。だが、かつてツンドラがフォルトゥナに住んでいた時、彼が物心ついた時から、それが当然の事として住民のあいだに浸透していた。だから七年の歳月が経とうと、今もまだあの古めかしい頭巾は、宗教的かつ文化的なシンボルとして存在しているものと思っていた。
だが、そうではなかった。住民の過半数、殊に若い男女は素顔をさらけ出し、性の別を楽しんでいたのだ。
城塞都市フォルトゥナが独自に信仰する宗教、魔剣教は禁欲を説いているにもかかわらず、だ。
ある者は恋人と、のぼせた愚かなティーンエージャーみたいな真似をしているヘドの出そうな光景を衆目に晒し。
ある者は派手に着飾り、おしゃれ女を気取ってパリコレのモデルのごとく脚を交差させながら歩いていた。肌の露出の多い、その扇情的な衣服は明らかに他国から取り寄せた代物だ。排他的で慎ましやかな土地柄のフォルトゥナで購入できるものではない。
フォルトゥナの街を闊歩する若者は、誰もが自らの素行に何の疑いも不安も抱いていなかった。それが当然の事のように若さを楽しみ、堂々としていた。自信に満ちた佇まいは、まぎれもない魅力として異性の興味を誘っていた。ツンドラが修業を積んだアメリカ流に言うと、クールで、いけてる感じ。
もしかして、ここはフォルトゥナじゃないのか? あまりにも様変わりした住民たちの様子に、ツンドラはそんな疑念に駆られ、眩暈すら覚えた程だった。
だが、行き交う人混みを呆然と眺めているうちに、ごく少数ではあるが例の古めかしい頭巾を被った者を見かけた。つまり、ここはフォルトゥナで間違いないということだった。けれどフォルトゥナの伝統に則って頭巾を着用している者のほうが、おどおどとしていた。自分の身なりに疑いと不安しか抱いていなかった。
すれ違う若者は、そんな彼にノット・クール(かっこ悪い)と言わんばかりの嘲りの一瞥を送っていた。受けた彼は居心地の悪そうに足踏みを繰り返すしかなかった。それが本来あるべき装いをした者が、同じ土地に住まう共同体の中にあって、ゆるやかに弾圧されている光景。
一体全体、何が起こっているというのか。ツンドラの記憶が正しければ、みだりに軽装をする者こそが咎められるはずだった。宗教的な堅苦しい気質を持つ、この城塞都市においては。
だというのに、それを咎める声はなかった。街の風紀を取り締まる魔剣教団の活動も見受けられなかった。
なぜか?
それは魔剣教団の存在が消失したからに他ならない。
遊び慣れた感じで、なにかを期待しているようにツンドラに声をかけた若い女。
その女から、魔剣教団は半年も前に壊滅したという話を聞いた時、ツンドラの中の時間は完全に停止した。
なんでも魔剣教団は、その当時教団に属していた一人の騎士によって知られざる悪行の数々を暴き出されたらしい――この騒動の中で魔剣教団は壊滅し、教団の主立った面子もまた命を落とした。犠牲者リストの中には、全ての元凶である教皇、理想に殉じた教団騎士団長、アゴが割れていた技術局局長の名が、もれなく記載されていた。
ツンドラが仇敵と定めていた連中は皆、彼の知らぬ内に罪を裁かれ、死の鉄槌を下されていたのだ。
そのときツンドラを襲った混乱と衝撃には、実際にハンマーで頭を一撃されたのと同等の破壊力があった。どうなってやがる。これはタチの悪いジョークか何かか?
だが、フォルトゥナの変わり様はそれ相応の理由があってのことだし、その原因が街を統治していた信仰組織の瓦解によるものならば納得もいく。だからこそ、あれほど敬虔な、逆に言えば堅苦しかったはずの住民がこうも露骨に様変わりしたのだ。
信仰という心の拠り所を失い、その裏切りに対する失意と怒りで叛意を起こし、かつて教団の唱えた教えに反発するように振る舞う若者たち……その姿を目の当たりにしたツンドラにはもう、魔剣教団の消滅を事実として受け入れるしか他になかった。どうやら彼は、とことん運命という名の神様とは相性が良くないらしい。
胸の内にぽっかりと空いた空洞の大きさに、ツンドラは愕然となった。バケツの底に穴が開いたような喪失感はあまりに致命的すぎて、ツンドラという人格の輪郭すらも崩壊させ、判別できないほど変容させてしまうものだった。
そのときになって初めてツンドラは、復讐の対象・魔剣教団という要素を喪失した後の自分自身について、予期もしなければ想像も及ばなかったということに、あまりにも遅蒔きながら気がついた。抑えきれない動揺のせいで、すぐ傍らにいる女の存在さえ完全に失念したまま、ツンドラは何処にともなく歩きだした。夢遊病者のように、よろよろと揺れ動きながら。
背中に浴びせかけられる女の罵声が、どこか果てしなく遠い世界の音のように聞こえた。街の喧騒も、周囲の景色も、己の実存さえも、すべてが遠い。
そこに自分という存在の居場所はない。こんな虚ろな場所にはいられない。
ツンドラは足を進めた。
行く先を見失ったまま。
想いの丈を叩きつけるべき相手がいなくなってしまった今、胸の内に焦げついた怒りと、狂おしいまでの復讐心は……いったい何処に向かえばいいのだろう?
そうして気がつけばツンドラは、そこに辿り着いていた。
霊峰ラーミナ――自らの魂の起源である雪山に立ち、眼下にひっそりと建つフォルトゥナ城を見下ろす。
今しがたツンドラはフォルトゥナ城の地下に隠された、あの忌まわしい実験施設へと足を運んだばかりだった。彼は自分の目で見たことしか信じられぬ性分だからだ。しかし、ツンドラの狂気を育んだ実験施設には人の手が入った痕跡があり、対悪魔用の兵器などを開発する機材は軒並み撤去されていた。魔剣教団の消滅と共にその区域が閉鎖になったのは明白だった。さきほど声をかけてきた女の言葉が虚偽である可能性を考慮し、そこに一縷の望みをかけていたのだが、こうして儚い期待に終わってしまった。
ラーミナの高みからは、魔剣教団の本部が遠目に見える。ツンドラのような実験体を収容、あるいは廃棄する隔離施設が、その白い建物内に存在するはずだった。しかし、それも半年前の騒動のせいで荒れ地と化しており、当時の荘厳な外観はもはや見る影もなかった。
いずれ教団本部跡を整理し、そこに今後、墓地を建てることが決まったらしい。道行くフォルトゥナの通行人から、そう聞いた。
魂の安らかな眠りを願う霊園……半年前の騒動で亡くなってしまった人達と、教団の悪行によって悪魔に改造され、そうなってはもう二度と人間には戻れぬからこそ尊厳死を与えられた、被験体達のための。
つまるところ魔剣教団との因縁は、もう何もかも決着がついていたのだった。
ツンドラの不在のあいだに。ツンドラの与り知らぬところで。
生きる目的を喪失した復讐者は、もう気力もなかった。
人間であることを辞めさせられて。望むと望まざるとにかかわらず、悪魔の力を手に入れて。
生き抜くために、かつての仲間を手にかけてまで強くなって。
それでも勝てなかった怨敵を前に、血と屈辱の味を噛みしめて。
不様に逃げ延びてまで復讐の完遂を心に誓って。
だというのに、想いの丈を叩きつけるべき相手がいなくなってしまったのなら……
この想いは、いったい何処に向かえばいいのだろう?
血と闘争にまみれた七年もの歳月は、いったい何のためにあったのだろう? 俺は、いったい……
「見つけたぜ、この野郎」
氷の薄片のごとく今にも砕けてしまいそうな背中に、そのとき斬りつけるような声がかかった。
振り返る。
「てめえが噂の流れ者か。街のみんなが話題にしてたぜ」
ひとりの男が、そこに立っていた。
ツンドラの雪色のそれとは種類の違う、刃物のような硬質感のある光沢を放つ、銀色がかった白い髪。
「べつにフォルトゥナは流れ者を毛嫌いしているわけじゃないが、ここの連中は土地柄、人間じゃないやつの気配に敏感でね」
銀髪の男は、そう言ってツンドラの姿をまじまじと見つめた。
戦闘的なレザースーツの上に羽織った、銀狐のファーをあしらったカジュアルジャケットは、見るからに生地と仕立ての違う逸品である。ファッションモデルでなければ明らかに着負けする装束が、男には珍しい撫で肩の長身と女と見紛うほどに美しく整っている顔立ちをしたツンドラには馴染みすぎるほどに馴染んで、むしろ彼の流れるような雪色の髪と美貌を飾るに相応しい華になっている。
その見た目だけでも充分に大衆の目を惹きつけたのだが、より注目を集めたのはツンドラの放つ、冷気にも似た不吉な気配だった。
それは決して人間が身につけることはない、魔界の住人のみが身にまとう、暗く冷たい闇のオーラ。
血のような真紅の双眸は明らかに人のものではなく、見つめられた者すべてを委縮させずにはおかない獰猛な輝きを放っている。悪魔による人的被害の多い地域に住まう者から見れば、ツンドラが『人とは非なるもの』であることは一目瞭然だった。
「何やら怪しいやつがいる。人間じゃないかもしれないそいつは、ラーミナの雪山に向かった――そう人伝に言われたもんだから、わざわざ冬服を引っぱり出してまで追いかけてきたんだぜ、こん畜生」
そう言う銀髪の男は、マルベリー色をした厚手のコートを着込み、その上にロングのマフラーを身に付けている。防寒対策は万全な見た目だった。
「よりにもよって、こんなクソ寒いところにいやがって……俺は暑いのが苦手だが、だからといって寒さが得意ってわけじゃねえんだぞ」
それは単に軟弱なだけではあるまいか。ツンドラは思ったが、どうやら相手は難癖をつけたいだけだということに気がついた。
銀髪の男のツンドラを見る目は明らかに不審人物に向ける類の敵意あるものであり、友好的な態度では決してない。それに厚手のコート越しにも判別できるほど引き締まった長身は、力強く気力に満ち、軟弱さや不健康といった印象とは全く疎遠であった。
そして何より、その右腕。
そこだけ捲り上げられた右の袖口から伸びる腕は、ヒトのカタチをしていなかった。
完全に悪魔のそれだった。
肉体の一部が悪魔化した者は、さほど珍しい存在ではない。解体された悪魔の肉体の一部を移植し、そうして人ならざる力を手に入れた後ろ暗い連中を、ツンドラは何度も目にしてきた。人体に移植する悪魔のパーツとして最も多く取り扱われるのは、とりわけ使い勝手のいい腕部だ。そういう意味では、銀髪の男の右腕も目新しい代物ではない。
しかし男の右腕は、移植によって無理やり取って付けたような出来損ないとは違っていた。
ツンドラのように一つの肉体に相反する二つの魂が同居しているような不自然さもなかった。
その右腕は、あたかも「当然そうあるべきだ」と主張しているかのように、何の違和感も無理もなく、そこに存在していた。馴染んでいる、という域ですらなかった。それが本来あるべき姿であるかのように、まったく自然そのものであった。
「なに驚いてやがる。俺が裏切り者の血族だって知ってるンなら、こんな右腕をしていてもおかしくはないだろ。魔界の追っ手さんよ?」
銀髪の男は非人間的な右腕を、これ見よがしに持ち上げる。
その右腕が、ぼんやりと光を放った。悪魔の力の顕現である魔力の光。
外界へと溢れ出るその青い光は、次第に形と質感とを備えていく。
次の瞬間にはもう、男の右手に一振りの日本刀が握られていた。その刀身が凄まじい魔力を帯びているのをツンドラは見て取った。魔力の光を寄り集めて形成されたそれは、明らかに強力な魔界の産物である。
「雪山で銃を使うわけにもいかないからな……ぶった斬らせてもらうぜ」
魔界の追手に狙われているという、裏切り者の血族。刃物のような銀髪。そして何より、一振りの魔剣を携えたその姿。
まさか、本当に伝説の魔剣士ゆかりの人間だったのか?
ツンドラは信じられないといった驚愕の表情を浮かべた。
かつて、とある敬虔な夫妻に魔剣士の縁者として遇された、ひとりの子供がいた。その子供は世間的には娼婦の捨て子と見なされていた。しかし、なんと実は本当に魔剣士の血族であったのだ。ツンドラも良く知る、あの敬虔な夫妻は、ただの妄信的な信者ではなかったらしい。いや、もしかしたら無謬の信仰心が、それとは知らず真実に繋がったとでもいうのか。
何にせよ、いま目の前にいる、あのときの子供が暖かな夫妻に迎え入れられたのは、そう成るべくして成った運命だったのだ。
そんな馬鹿げた話があるのか、とツンドラは天を仰いだ。あの敬虔な夫妻、今は亡き教団騎士団長と魔剣祭の歌姫を務めた女神の両親は、この俺と同じ被験体に殺されたというのに。
さきほど足を踏み入れた、フォルトゥナ城の地下に隠された実験施設。その跡地に取り置きされていたファイルの一つに、そう記されていたのだ。人間の悪魔化に失敗し、自我を失った被験体の一人が、隔離施設から逃げ出し、街の人々を襲った、と。そしてその犠牲者が、あの暖かな夫妻だった、と。
誰よりも無垢に神を信じ、誰よりも救われるべきだった高貴な魂が、この俺と同じようなケダモノに命を奪われたのだ。
かくも悪辣な運命の皮肉に、もはや言葉もなかった。無情な現実に打ちひしがれ、ただただ立ち尽くすのみだった。なにやら銀髪の男がツンドラのことを魔界の追っ手だと決めつけ息巻いているが、その誤解を解く気にもなれなかった。
だから。
すかっと大暴れして、なにもかも忘れ去りたい気分だった。
幸いにも、その狂気をポジティヴに解放するのに好都合な相手が、いま目の前にいる。
これが八つ当たりじみた癇癪だとは理解していた。ツンドラがこの世で唯一、明確な殺意と許しをもって殺せる魔剣教団の存在は、すでに消失している。だが、この望まれざる再会により、今日まで努めて意識すまいとしていた憎悪の堆積を再点火してしまった。もはや、留めようもなかった。
同じ天涯孤独の身。同じ孤児院に住まう身寄りのない子供。
その後の二人の境遇に致命的なまでの差異が生じてしまったのは、運命の齟齬、天の運気の食い違いによるものに他ならない。なればこそ、それは誰に裁かれるものでも、誰に咎められるものでもない。全ては過ぎ去った現実だ。覆し得ぬ結末だ。
――だが、ならばツンドラの想いは、いったい何処に向かえばいいのか?
――どうしようもない現実だと諦め、全てを忘れて過ごすしかないのか?
できるはずがなかった。七年も持ち越された憎悪に、いま再び火が点いてしまった以上は。凍結していた心に灯る……氷点下の炎。
「ぶった斬る、だって? この俺を?」
もはや許しなど要らなかった。理不尽な憎悪で戦うことにも抵抗はなかった。これは気分の問題なのだ。
だって俺は悪魔だぜ。憎しみに突き動かされて何が悪い?
ツンドラは不敵に微笑みかけた。その全身から濃密に発せられる、絶対零度の殺意。
銀髪の男よりも厚みに乏しく、ほっそりとしたツンドラの身体が、なぜか氷山よりも大きく見えた。
「できるものなら、やってみな。無理な話だと思うけどな?」
「言うじゃねえか、ロン毛野郎。まずは丸坊主にしてやるぜ」
ブリザードに直面したような威圧感を前に、だが銀髪の男もまた不敵な微笑み。
かつてフォルトゥナの孤児院に、身寄りのない子供が二人、居た。
一人は暖かな家族に迎え入れられ、もう一人は陰謀の魔の手に闇へと堕とされた。
――運命が振りかざす、不公平な刃に引き裂かれた二人が今、激突する。
◇
「――アイス・ショット」
始まりは、ツンドラの静かな呟きだった。
かざされた彼の五指に発生する、魔力で形成された杭状の氷。
その様を見たネロの表情が、わずかに強張る。
「……おいおい。前にも見たことあるぜ、こんなやつ……」
かつて霜柱のような腕をした悪魔と対峙した際に、その悪魔が似たような攻撃をしてきた事を、ネロは覚えていた。その記憶と全く違わぬ遠隔攻撃。ツンドラの呟きの通り、まさしく『氷の弾丸』と化した魔力が、唸りを上げてネロに襲いかかっていた。
「それ嫌いだ!」
泣き言を吐きながらもネロは慌てて飛び退った。
しかし、高速かつ時間差で飛来する氷を回避するには、ネロの動体視力を以ってしても三本までが限界だった。避け損ねた四本目と五本目の氷が、ネロの左腕と肩とを掠める。ネロは鋭い痛みに顔をしかめた。弾丸というよりはむしろ刃だ。掠めただけだというのに、思いの外、ざっくりとやられてしまっている。
「クソッ!」
ネロは痛みに構うことなく、ツンドラに向かって突撃した。
霜柱の名を持つ悪魔との戦闘経験から、こういう手合いは接近して一気に仕留めるのが定石だという事を、ネロは理解していた。雪山という場所の為、銃を使えぬネロと、思う存分に遠隔攻撃を行使できるツンドラ。ゆえに距離のアドバンデージは向こうにある。その距離を潰して接近戦に巻き込まなければならない。
踏み込みからの一閃を、ツンドラは素早いバックステップで回避した。そしてまた氷弾を見舞う。この位置関係を維持してじっくりと相手を痛めつける腹積もりらしい。
「アイス・ショット――」
時間差で撃ち出される鋭利な氷。ネロは三本目までを転がってかわし、回避しきれぬ後続は愛剣で叩き落とした。攻撃を封殺されたツンドラは、だが必勝の微笑み。
「ダブル!」
いま氷を撃ち出した右手に続き、今度は左手で氷を撃ち出すツンドラ。単純に手数が倍に増え、ネロを襲うプレッシャーもまた倍になる。
しかし、ネロも負けていない。その手の愛剣『閻魔刀』を身体の前で大きく回転させる。スクリューのような高速度の刃が、ことごとく氷弾を弾き落としていった。
「やるな……これならどうだ!」
追い討ちが不発に終わったツンドラは、その結果に不満を示すこともなく、すぐさま右手を振り上げた。
その右手が凍てついた魔力を集束させていくのを見て取り、ネロは身を構える。
「アイス・ウェーブ!」
ツンドラが魔力の籠もった右手を叩き下ろすと、地を這う冷気が沸き起こった。
巨大な氷柱を立てながらネロに向かっていく氷の波。
「食らうかよ、そんな攻撃!」
ネロは閻魔刀を引きつけるように構え、一気に振り抜いた。
刃から撃ち出された巨大な剣風が、真っ向から氷の波と激突し、衝撃で地面の雪が盛大に舞い上がる。
「な……っ」
驚きの表情から、それなりに自信があったと見える一撃を相殺され、たじろぐツンドラ。
「悪いな。パワーで負けるつもりはなくてね」
不敵に笑うネロが、その隙を見逃すはずもない。
ネロは間髪入れずに突撃した。ここぞという神速の踏み込みに対応の遅れたツンドラは、その刃圏まで接近を許してしまう。
「おらおら、今度は俺のテリトリーだぜ!」
有利な間合いを獲得し、気を良くしたネロは嬉々として閻魔刀を繰り出した。
表情に余裕を失ったツンドラに向かって、コンパクトな振りで嵐のような剣撃を浴びせかける。
軽さと正確さを武器にコンビネーションを見舞うネロの剣は、反撃どころか回避の暇さえ与えない。
ツンドラの細身の身体が、見るも無残に斬り刻まれていく……かに見えた。
「……アイス・シールド!」
ギゥゥン!
硬い衝撃音が響いた。
見ればツンドラの作り出した氷の盾が、ネロの剣を阻んでいた。どんな状況でも即座に対応できる、汎用性の高い氷の力。万能型と呼び声の高いその力は決して伊達ではない。
「く……っ!」
しかし、攻撃を防いだツンドラの表情に余裕はない。
防御などお構いなしに何度となくネロが剣を叩きつけてくるからだ。
ギィゥン、という耳障りな音と共に氷の盾が削られ、衝撃が襲いかかる。
「そら、ガードがお留守だぜ!」
頭部を狙う剣撃ばかりに気を取られていたツンドラの腹部に、強烈な蹴りが叩き込まれる。
「ぐぅ……ッ!」
蹴り飛ばされ、よろめくツンドラを必殺の刃が襲う。
「ショウダウンだ!」
勝利を確信したネロは、ツンドラの首を狙って閻魔刀を一閃する。
アイス・ウォールと、ツンドラが小さな声で呟いたのは、そのときだった。
「ぐがっ!?」
それは百年の恋も冷めるような情けない光景だったと思う。
突如出現した氷の壁。それに真正面から激突したネロは、ぶつかって鈍痛を訴える鼻柱を押さえて数歩、後ろに下がる。少し涙目になっているところを指摘したら、これは汗だと誤魔化すに違いない。
透き通った氷の壁の向こうで、右手をかざすツンドラの姿が見えた。
「やべえ!」
警鐘を鳴らす直感に従い、慌ててバックステップする。
しかし、ネロが安全圏まで脱するよりも早く、
「アイス・ショック!」
と、ツンドラが叫んだ。
かざされていた右手から炸裂する、冷気を伴った衝撃波。
それが巨大な氷の壁を粉砕していた。凄まじい勢いで砕け散り、散弾と化した氷の欠片がネロを襲う。
たまらず怯んだネロに向かって、今度はツンドラのほうから攻勢を仕掛けた。己の肉体を分子単位にまで分解し、氷の粒子と化して瞬間的な移動を行う。次の刹那にはもう、ネロの眼前で元の姿を取り戻す、空気中を高速で伝播した氷の粒子。それを見てネロは思わずぼやいた。何でもありかよ?
瞬く間にネロの懐へと飛び込んだツンドラは、ぐっと拳を引きつけた。その両手は、くまなく氷の塊に覆われていた。
「アイス・フィスト!」
文字通り『氷の拳』と化した右ストレートが、ネロの顔面に叩き込まれる。
人ならざるネロでなければ頭部粉砕も十分にあり得る、凶悪な破壊力のストレート。
「うぐ……っ!」
「まだまだ!」
たたらを踏むネロの横腹に、返す刀で左のボディ・フックが直撃する。
あばら骨が、メキメキと軋む嫌な音。
「ごはアッ!?」
「おネンネしてやがれッ!」
苦悶するネロに向かって、さらに怒涛のラッシュを追加する。
氷のように滑らかな打撃の嵐。
「ぐあ、あ、あっ……!」
「しっかりと味わえよ? 地獄送りのフルコースだッ!」
ダメ押しとばかりに、そこからコンビネーションで左右の蹴りが次々に決まった。その数、合計13発。しなやか、かつナイフのような鋭さで食い込む足先は、もちろん硬い氷に覆われ、その威力を凶悪化させていた。
遠距離戦術だけでなく、接近戦まで完璧にこなすコンプリート・ファイター。
万能型の力と猛獣の如き殺傷本能に高度の戦闘経験がプラスされて、ツンドラの実力はネロを圧倒していた。七年の歳月をかけて磨きに磨き抜かれた、これが凍土の名を持つ男の真価だった。
「お、お……ッ!」
コテンパンにされ、ノックアウト寸前のネロは、立っているのがやっとの状態だった。
とどめの拳を振りかぶったツンドラが、そのネロに向かって肉薄した。
「こいつで……フィニッシュだ!」
敗北を与える拳が、そうして撃ち出される。ネロは焦点の定まらぬ瞳でその拳を見つめていた。
(……負ける? この俺が?)
冗談じゃない。
「いつまでも調子に……」
死にかけていたネロの目が炎を灯す。
敗北を拒絶する猛烈な怒りが彼を突き動かし、いっとき力と速さを甦らせた。
「乗るんじゃねえッ!」
力任せに閻魔刀をなぎ払う。悪魔の右腕から、おびただしいまでの魔力を刀身に注ぎ込みながら。
空間そのものを引きちぎりかねない、圧倒的な力を体現した豪快な剣は、攻勢に出ていたツンドラを後退させるには申し分ないパフォーマンスであった。逃げ遅れた雪色の髪が数本、宙をたゆたう。
「……」
咄嗟のバックステップで事なきを得たツンドラは、険しい眼差しでネロの剣を見た。
無理もない話だった。軽さと正確さばかりが取り柄の閻魔刀が、あの一瞬、急に迫力を増してツンドラを圧倒したのだ。
それを振るったネロの腕力だけでは説明のつかない程のパワーを感じたのは、どうしてか?
その答えは――片刃の大剣と化した閻魔刀を見れば一目瞭然のことであった。
「認めるよ……攻めの多彩さじゃ、おまえには勝てねえ」
ゆらり、とネロは剣を担ぎ直す。
無骨な変貌を遂げた閻魔刀が、主の闘気に呼応して凶悪な魔力の光を放っていた。
「だから、パワーでゴリ押しだ」
頭を振って意識をはっきりさせ、ぎらついた瞳でツンドラを睨みつけるネロ。
ブチのめされたばかりのダメージは、それを凌駕する怒りに打ち消されていた。
「ぶった斬ってやるぜッ!」
戦闘が始まる前にも言った台詞を、もう一度、言い放つ。
だが、そこに込められる怒りと殺意の密度は先ほどの比ではない。
血に飢えた獣と化したネロは一直線にツンドラへと突撃した。獰猛な雄叫びを上げ、雪に覆われた地面を猛烈に蹴散らしながら。
「……アイス・ショット!」
ネロの殺気を総身に受けるツンドラは、その脅威に内に潜むケダモノが騒ぎはじめるのを感じながらも再度、氷の弾丸を撃ち出す。
しかし、大上段から叩き落とされた巨大な刃が、時間差をつけて射出される五つの氷弾を、まとめて粉微塵にした。ただでさえ長いリーチの見た目以上に、その一刀は攻撃の手を伸ばしている。剣圧と魔力とが複合した、とてつもない大斬撃。
だが、その威力を見てなおツンドラは氷の如く冷静だった。むしろ嘲笑すら浮かべていた程だ。そんな大振りをかました直後に次の攻撃を見舞われたら、すぐには対応できないぜ?
「ダブル!」
打ち終わりの隙を狙って射出される氷弾の第二波が、なす術もないネロに襲いかかった。
突進するネロにカウンターで直撃する、五つの氷弾。
ざくざくと肉を裂く音と共に身体の各所から血の花を咲かせるネロは――しかし、そのまま止まることはなかった。
「……!?」
「こういう強引なやり方は好きじゃないんだがな……アイツみたいで!」
そう嘯くネロではあるが、あの赤い男と同じような、脳内麻薬が分泌されっぱなしの笑みを浮かべ、攻撃を受けたばかりだというのに、むしろ突進の勢いを加速させていた。戦いの昂揚感と怒りで、人間なら即死モノの傷の痛みを感じてすらいない様子だった。魔剣士の血族はイカレポンチが多い。
迫力に押されたツンドラは、逃げるような足取りで後退を始めた。距離を取って仕切り直しを図るためだ。冗談のような大剣、殺気にまみれた威圧感を見ても、あれと真正面から斬り合うのは命取りである。インファイトではなくアウトボクシングのほうが望ましい。
しかし、追うネロと追われるツンドラとでは、攻勢に出ている者にこそ加速の伸びがあった。
剣の間合いまで獲物を追いつめたネロは、その手の閻魔刀を振りかざした。
ペーパーナイフでも扱うように軽々と。
もちろん、それで見かけ倒しと誤解するようなツンドラではない。あれは単純にネロの右腕だからこそ為し得る破天荒だ。大剣の重さを物ともしないパワー!
「うらぁ!」
常軌を逸したサイズの剣先が、やはり常識外のスピードで振り抜かれる。
紙一重の見切りで攻撃を回避したツンドラは、しかし激痛に顔をしかめた。剣圧の強烈さのあまり、真空の刃が発生し、それがツンドラの左の肩を抉ったのだ。
それは剣撃というより、もはや削岩機の猛威だった。カテゴリー的には『刀傷』に分類すべき怪我だが、まるで獰猛な顎に噛み千切られたかのように肉を削がれ、骨まで砕かれている。剣先が擦過しただけで、これほどの裁断力。
「じょ、冗談じゃねえ!」
痛みよりも驚きで、ツンドラの顔が青褪めていった。掠めて〝これ〟だと……直撃した場合のことは、考えない方が心の健康に良さそうだ。
音をたてて肩から噴き出る血。落ち着いてダメージの程を確認したいツンドラだが、この窮地に傷の痛みを構っているような贅沢は許されない。ネロは大剣と化した閻魔刀のテイストを堪能させようと危険なサービスに奔走している。次のメニューは、踏み込みから繰り出される居合の一撃。
回避ではまた剣圧に巻き込まれると見たツンドラは、防御を選択した。
「アイス・ウォール!」
先ほどと同じように、ぎりぎりまでネロを引きつけてからアイス・ウォールを発動する。
氷の盾ほど取り回しは利かないが、その密度と巨大さから、ツンドラの手札の中では最硬の防御力を誇る氷の壁。
同じミスを二度犯さないネロは、だからこそ氷の壁に真正面からぶつかった痛みを思い出し、踏み込みのスピードを鈍らせた。これで一気に半減する運動エネルギー。剣撃の威力が目減りするのは確実であった。あとはネロが氷の壁に手を焼いている隙に、大きく距離を取って体勢を立て直す……
踏み込みの鈍った剣は、だというのに一撃でアイス・ウォールを粉砕していた。
何ていう事はない。威力の目減りした剣撃でも充分、氷の壁の耐久力を上回っていた、それだけの話だった。
パワーが違う。
「魔力で強化した氷だぞ……!」
「あぁ、だろうな。硬かったよ」
舞い散る氷の破片越しにネロは微笑みかけたが、その目だけは笑っていない。
間髪入れず大剣が振り上がる。
だがツンドラのほうが行動が早かった。
距離を取ることが出来ないなら、逆に相手を引かせればいいだけの話である。
「アイス・ソード!」
瞬時にその手に出現した氷の剣が、ネロの首を狙って奔る。
剣としては標準的なサイズのアイス・ソードは、だからこそ巨大な閻魔刀よりも攻撃が速い。
あと一歩までツンドラを追いつめたネロも、これには攻撃を中断して後方に飛び退いていた。悪魔の血を引く夜の眷属とて不死の存在ではない。いくらアドレナリンの過剰分泌で痛みが麻痺しているとはいえ、首を刎ねられたら「さらば友よ(アディオス・アミーゴ)」だ。
後退する黒い影、空を切る氷剣の切っ先。結果としてツンドラのカウンターは失敗に終わり、何物をも捉えることはなかったが、それで構わなかった。
ネロのような攻撃偏重型のパワーファイターには、勢いづく前に攻撃の手を止めてやるのが一番の処方だし、お互いの距離は大きく離れたのだ。ツンドラの目論見通りに。
ようやく仕切り直しのインターバルが発生し、その隙にツンドラは肩の傷口に氷を張って止血を施し、呼吸を整える。
息が上がっているのが自分でも分かった。砕かれた左の肩も、ツンドラの回復力が追いつかない程に破壊され、しばらくは使いものにならない。あっと言う間に陥った、絶体絶命の窮地。
「やるじゃねえか……息切れしたのは久しぶりだ」
不敵な笑みで疲労感と焦燥とを誤魔化し、ツンドラは少しでも時間を稼ごうと口を開く。
対照的に意気軒昂そのものなネロは、なぜか怪訝な眼差し。
「……おまえ、どこかで会ったことあるか?」
ネロの唐突な問いかけに、ツンドラは苦笑した。
その瞬間だけは、傷の痛みも忘れていた。
「さあね。アホ面に見分けがつくのか?」
「どちらかというと、おまえはアホ面というより、むしろ女顔って気がするけどな……って、危ねえ!」
ネロは慌てて仰け反っていた。
抜き撃ちのアイス・ショットが眉間を狙って飛んできたからだ。
「誰が女顔だって……?」
ツンドラは酷薄な笑みを浮かべていたが、その目は全く笑っていない。
どうやら相手の逆鱗に触れてしまったらしい、ということをネロは理解した。もしかして女顔を気にしてるのか?
「よく覚えとけ。俺は女顔なんかじゃない……ちょっと中性的な顔の人、だっ!」
「……あっそう」
どうでもいいよ、と言わんばかりにネロは失笑した。『ちょっと中性的な顔の人(自称)』のキル・リストの一番上にネロの名前が挙がった瞬間だった。
怒りに先走らないように努めて冷静さを維持しながらツンドラは思案する。最大級のタブーを口走った、あのクソバカ野郎に生まれてきた事を後悔させてやる方法を。
だが、そんな方法などあるのか。彼我の戦力差を分析すると、浮き彫りになるのはネロの尋常ならざるパワーばかりなのだ。
ツンドラとネロの身体能力に、さして開きはない。むしろ戦闘経験の差でツンドラの方が実力という点では研ぎ澄まされている。だからこそ多彩なスキルで一時はネロを圧倒したツンドラであったが、あのパワーの前に全ての有利を帳消しにされてしまった。多少の不利や劣勢など、文字通り力ずくでひっくり返してしまう圧巻の攻撃力。
大剣と化した閻魔刀も要因の一つではあるが、それを振るう悪魔の右腕にこそパワーの秘訣があるのは誰の目にも明らかだった。
――同じ悪魔の力を持つ者、同じ人間よりも優れた身体。
――だが、そこだけ悪魔そのものと化した右腕を持つネロ。その違いが、両者のあいだに致命的なまでの戦力差を生み出していた。
たかが右腕だけと理不尽を嘆くことなかれ。悪魔の肉体は、たとえ一部でも恐ろしく破壊的な出力をもたらす代物なのだ。実力伯仲であるツンドラとネロの明暗を分けた理由が、ここにあった。
ツンドラは直感した。このままでは勝てない。ネロとは違い、悪魔の力を持ちながらもヒトのカタチを留めている以上は。
ならば、どうする……?
簡単だ。
人ではないモノに化けてしまえばいい。
ツンドラの悪魔的な部分が、この窮地に興奮しはじめていた。全身の細胞ひとつひとつに闘争心という名の魔力が行き渡るのを感じた。
内に潜むケダモノが、もう気が狂ったように叫びまくっていた。
殺せ。殺せ。この爪を振るい、この魔力を使い、敵を殺せ――ッ!!
その魂の叫びを聞き入れたツンドラは、頭の中に引き金を思い浮かべる。悪魔の力を爆発させる為のトリガーを。
「ブチ殺される準備はいいか、クソ野郎?」
ツンドラはいつもの不敵な笑みを浮かべたつもりだった。
凄まじい魔力の奔流を感じて身を強張らせるネロには、それがサメのにやつきに見えた。獲物に喰らいつく瞬間、水面下でギザギザに尖った歯並びを露わにするような……
「ロックの時間だ!」
ツンドラは嬉々として叫び、そして魔力が爆発した。
一瞬でツンドラの全身を満たし、あふれ返って外界へと放出される凍てついた魔力。
その魔力がツンドラを覆い尽くし、氷の結晶となって彼を封じ込めた。
ネロにはその氷の結晶が卵のように見えた。卵――即ち魂のシンボル。
氷の結晶の中でなにかが音をたてて脈動し、左肩の傷を癒し、関節をねじ曲げながら変身しているのを見て取ったネロは、その様子をあえて見守った。もちろん相手が身動きの取れぬ内に攻撃を仕掛けることもできたが、そうしなかったのは恐らく心のどこかで、一体どんなサプライズが飛び出てくるのかと期待していたからだ。彼の悪魔的な部分もまた、命の危険によって興奮を覚え、そのスリルを楽しむ性癖がある。詰まる所、望むと望まざるとにかかわらず、悪魔の力を持つような連中は、イカレた事なしには生きていけないのだ。
「戦いに魅入られた人ならざる者……そういう意味では、俺とおまえは兄弟みたいなもんだな、ロン毛野郎?」
自らの不謹慎な性癖に苦笑するネロの目の前で、ついに氷の結晶が砕け散る。
そうして〝孵化〟したのは、氷で形成された鎧と、爬虫類のような浅黒い肌、そしてツンドラの目を持つ、恐ろしくも美しい生き物。あの霜柱の名を持つ悪魔を、よりシャープな人型に寄せたら、こんな異形になるだろうか。
それは読んで字の如く『魔人』――ヒトのカタチをした、悪魔の姿だった。
「こいつは……想像以上だ」
「まだまだ、こんなもんじゃないぜ」
ひしひしと肌に感じる魔力の強大さに戦闘本能をくすぐられ、戦慄の震えを禁じ得ないネロに、魔人と化したツンドラは陽気に笑いかける。
ヒトの言葉で、ヒトじゃない声で。その声の端々に、なにかが擦れるような獰猛な呼気を漏らしながら。
「デビル・アイス・ショット――」
ツンドラの五指が杭のような氷柱を撃ち放つ。その姿に変じる前よりも明らかにサイズとスピードを増した氷の遠隔攻撃。
(だが、対応できない程じゃねえ)
威力の多寡を見て取ったネロは、ぐっと閻魔刀の柄を握りしめる。時間差で飛翔する氷弾をまとめて迎撃するべく刀身に魔力を注ぎ込み……
撃ち出された五つの氷弾が、そのとき空中で爆裂し、まるでクラスター爆弾のように子弾をまき散らした。
「なっ!」
五つの氷弾から拡散された氷の子弾の数は、数えきれない。
とてつもない物量にものを言わせた、鋭く冷たい死のシャワー。
迎撃を諦めたネロは、慌てて剣を逆手に構え、その幅広の刀身で身体の中心線をガードする。
そうして急所への直撃を防ぐことはできたが、剣の幅からはみ出た四肢はくまなく氷の子弾を堪能する羽目になった。腕から脚から剣山のような氷を生やしている様子は、まるでハリネズミのように痛々しい姿だ。
「ぐっ……クソッ!」
アドレナリンが過剰分泌してなお無視できぬほどの激痛がネロを襲う。
強敵が顔をしかめて苦悶する様を見て、美しく静謐な悪魔は異様な感情がこみ上げてくるのを感じた。高笑いと同時に雄叫びをあげたくなるような、この上ない昂揚感。
そのせいか、ツンドラの足元は少しふらついていた。まるで酔っているかのようだ。
「悪いが、さっさと終わらせてもらうぜ」実際、ツンドラは酔っていた。悪魔の力に。「この姿のままだと、どんどん人間性が失われていくからな」
そうでなくとも、ツンドラは速戦即決を好む男だった。
完璧、円滑、迅速な殺しこそが、戦闘において最も評価される仕事である。血と硝煙にまみれた世界で己を鍛え続けてきた、それがツンドラの理想とするやり方だった。
「瞬殺だぜ、ベイビー!」
そのうえ今は、ひたすら殺戮の本能に苛まれ、ただ殺すための獲物に飢えている。
一秒でも早く敵を殺せと命じてくる暗い衝動。
それに突き動かされ、氷の魔人は相手に苦痛と死を与える力を思う存分に振るいはじめた。
「うおおおおおおッ!!」
野獣のような雄叫びをあげて斬りかかるツンドラ。
その手には、ネロとよく似た氷の剣が握られている。
「デビル・アイス・ソード!」
明らかにそれは大剣と化した閻魔刀を模した代物だった。
氷とは、つまり水である。元より不定形であるからこそ、それはツンドラの任意でいかなる形態をも取り得る。彼の力が万能型と呼ばれる由縁が、ここにあった。
「でかい剣で斬られる痛みを知りな」
ツンドラは先ほどの意趣返しとばかりに斬り結びにかかる。
剣を得意とするネロを相手に、だ。
万能型の力、すなわち欠点らしい部分が無いということは、逆に言えば、ずば抜けた面が少ないということでもある。とりわけ剣技の心得がある訳でもないツンドラが、その剣技を十八番とするネロに競り勝てる道理などない。しかし、
「く、くぅっ!」
と、苦しげに呻く声はネロのものだった。
ツンドラの剣圧に押されたからではない。強靭な右腕を除く片腕両足を氷の弾丸に貫かれたからと言って、その程度で鈍るネロの剣ではない。
だが一太刀交えるごとに、なぜかネロの身体のあちこちに、まるで殺人鬼のナイフで切られたかのような傷が走るのだ。巨大な氷の剣が身体に触れたわけでもないのに、だ。
見れば二人の周囲に、ガラスの欠片のような煌きが舞っていた。
それが薄く研ぎ澄まされた氷であるのは言うまでもない。ツンドラは空気中の水分を凍らせ、即席の凶器に変えていた。氷の魔人ならではの空間干渉力。氷結の支配者の名は、決して伊達ではない。
「クソッたれめ……!」
自分だけ肉ひき器の中で戦っているような気分のネロは、まずは冷気の刃圏から逃れることにした。ツンドラの支配下にある空間から離脱しなければ、このまま嬲り殺しにされるのは火を見るより明らかだ。
とはいえ、そう簡単にテリトリーから逃してくれるようなツンドラではない。だが、ここはネロに軍配が上がった。振り下ろされる氷剣を閻魔刀で受け止めたネロは、あえて踏ん張ることなく、その衝撃に身を任せて後方に吹き飛ばされた。戦闘慣れした者だからこそ咄嗟に取り得る、変則的な退避行動。
そうして自分のテリトリーから獲物を逃したツンドラは、だが必勝の微笑み。
「離れたからって安心したか?」
間合いが生じたということは、それ相応の運動距離が確保できたという事でもある。
そしてツンドラは、遠距離を攻撃する大技をも持ち合わせる男だった。何度も言うが、彼の力は万能型なのだ。しかも今は魔人化の影響ですべての技が爆発的に強化されている。つまり、今の俺に不可能はない。
「デビル・アイス・ウェーブ――」
振り上がる剣先に、膨大な魔力が集まりはじめた。
一点に集中する魔力が最高潮に達した瞬間、それを一気に解放する。
「氷龍斬波ッ!!」
剣先を叩き下ろすと、地を這う強烈な冷気が沸き起こる。
巨大な氷柱を生やしながら標的に向かっていく氷の波には、鱗のような凹凸が見て取れた。そのせいか、ネロにはそれが龍の胴体のように見えた。
その鱗は一つ一つがカミソリの刃のように切れ味鋭い。それは変則的だが紛れもなく『斬撃』であり、運動距離に比例して龍の胴体が長くなればなるほど威力が上昇するツンドラの必殺奥義だった。それが今まさにネロに直撃する瞬間、氷の波が巨大な龍の頭を象った。
「だから……」
大口を開ける氷牙のアギトを目前にしてネロの取った行動は、だが回避でも防御でもなかった。
ゆらり、と大剣が振り上がる。力比べでは負けぬという自負が、そのときネロを突き動かした。
「パワーじゃ負けねえつってんだろうがッ!」
稲妻のように落下する大剣が、そうして氷の龍と激突する。
次の瞬間、閻魔刀の刃が真っ向から龍の頭部を断ち割っていた。真っ二つに斬り裂かれた氷龍は、そのまま勢いを殺せずにネロの左右を通り抜け、やがて雪が溶けるように消えていく。跡形もなく。衝撃で舞い上がった雪煙だけが、唯一の名残だった。
「どうだ畜しょ」
う、と言葉は続かなかった。
見ればネロの顔が蒼く変色し、窒息しかけた魚のように口をぱくぱくさせている。肺の中の水蒸気が凍り始めているせいだ。
「ようやく効いてきたか……」
それがツンドラの仕業であるのは言うまでもない。
空気中の水分を凍らせることができるなら、こうした応用も可能な道理である。魔人と化してから周囲の空間に干渉しつづけ、その結果、ネロの体内に影響を及ぼす程にまで空間の支配率が高まっていた。もはやこの場はツンドラの庭であり、この場における彼は神にも等しい絶対者だった。
「これでもう、絶対に逃がさない」
この程度でネロを仕留められるとは、もちろんツンドラとて楽観視していない。だが、苦しくなった呼吸では素早い回避は望むべくもない。満足な防御もまた然り、だ。つまり、勝利へのプロセスは完成したのだ。
そして、これより繰り出す技はあらゆる対策を蹴散らすほどの超火力を誇る。呼吸困難に陥り、まともに行動できぬ状態になった相手に対するフィニッシュ・ブローとしては、これ以上なく悪辣な決定力だ。万全に万全を期す、それがツンドラのやり方だった。
「恐竜が絶滅した原因を知ってるか?」
残忍な殺しの衝動を隠そうともしない、ツンドラの微笑み。
問われたネロは苦しげに口をぱくぱくさせるばかりで答える事もできない。だから代わりに、ぎょっとした表情を浮かべた。意外にも読書家なネロは、とりわけ図鑑の類を好む。彼の愛銃の銘もまた、植物図鑑から得た知識が由来となった。これでも動植物に対してまだ小学生なみの情熱を残しているネロは、もちろん恐竜に関する本を読んだこともあった。だからこそ、その恐竜が滅んだ原因についても当然知っていた。
肺腑が凍りつく苦痛以外の理由で顔を蒼くしたネロに満足し、ツンドラは跳躍した。
ヒトではない全身から、ありったけの魔力を放出しながら。
「アイス――エイジッッ!」
着地と同時に術式を解放すると、文字通り氷河期が再来した。
範囲内にある事象を須らく凍結する、広範囲に張られた氷雪の結界。
猛烈なブリザードが吹き荒れ、ただでさえ凍てついたラーミナをさらに冷却する。自然の息吹を停止させる絶対零度。まるで一度世界を滅ぼした味を覚えているかのような威力だった。
やがて暴風雪が止むと、そこには氷の樹海が出現しており、地形を変えてしまっていた。当然、ネロの姿は見当たらない。印象的な銀髪とロングコートは、この極寒の氷雪地帯に飲み込まれ、生前と変わらぬ姿のまま凍結されたのだろう。
「……」
自ら作り出した銀世界の中心に立つ悪魔の表情に、だが勝利への余韻や陶酔はない。
敵を仕留めたところで、我に返ったのだ。
全力を出した後の脱力感は清々しいはずなのに、胸の内は色褪せていた。
積年の憎悪、八つ当たりじみた癇癪で人を殺すことが、こうも空しいものなのか。
呆然と踵を返す。すかっと大暴れすれば、少なくとも気は晴れるはずだった。だが、それさえも裏切られた。気分はますます曇る一方だった。結局、この手に残るものは何もない。今日は、こんなはずじゃないことが多い一日だ。
氷の魔人は無感動な足取りで、この場を離れようと一歩踏み出し、
「……やるじゃねえか」
と、冷凍保存したはずの男の声に呼び止められた。
「おまえが、あんまりにも強いもんだから――」
背後で氷の樹海を、文字通り切り開く音が聞こえる。
硬い氷塊が粉砕され、雪煙が舞い上がる衝撃音。
「俺の中の悪魔が、マジになっちまったぜ」
そこでようやくツンドラは己の失敗を悟る。戦いが終了したというのに、なぜ自分は悪魔に変じたままだったのか。それは内に潜むケダモノからの警告だったのではないか。だというのに敵に背を向けてしまったツンドラは、ついに致命的な瞬間まで気づく事ができなかった。敵はまだ倒れていないという、その事実に。
「ブチ殺される準備はいいか、クソ野郎?」
慌てて振り返ったところで、もう遅い。
舞い上がった雪煙のせいで、ぼんやりとした人影しか見えないが、頭部と思しき位置に、ふたつの赤い輝きがあった。
そしてその人影の背後に感じる、とてつもなく恐ろしい気配。
氷河期を生き延び、ツンドラに死を与えに来た「なにか」の息遣い。
ツンドラは蛇に睨まれた蛙の心境でその正体を見極めにかかり――だが次の瞬間、視認する間もなく斬り伏せられていた。袈裟掛けに。ばっさりと。斬られたツンドラが惚れ惚れとする見事な太刀筋で。
完璧、円滑、迅速な殺しだった。ツンドラが理想とするような。そして、生命は意味なく流れだし、冷えきったラーミナの雪に吸い込まれていった。
ふぅ、と体内に充満する熱気を排出するように一息吐き、ネロは構えを解いた。全身を襲う脱力感や凍傷による肌の爛れも、激しい戦闘の余韻で気にもならない。
たったいま斬殺したばかりの敵を見下ろす。思えば奇妙な相手であった。魔界に追っ手にしては、裏切り者の血族に対する失望と怒りを露わにする様子がなかった。しかも悪魔だというのに、死と退廃と背徳の悪臭――とある伝説のデビルハンターの言葉を借りれば、『掃き溜めの臭い』――もしなかった。そのことが、ネロに僅かな疑念を与えていた。
だがもう、すべては終わったのだ。
足元に転がるツンドラは見るも無残に斬り伏せられ、力尽きたことで人の姿に戻り、自らの血の海に沈んでいる。悪魔のくせに赤い血をしていることや、その顔になぜか見覚えがあることを問い質そうにも、どうあっても答えられぬ状態。
なればこそ、それ以上疑念を引き伸ばす必要もない。ネロは踵を返した。死体を放置する形になるが、氷雪系の悪魔ならいずれ雪が溶けるように消滅するだろう。塵は塵に、闇は闇に還る。
「……ぅ、ぅ……っ」
斬り殺したはずの男の声が聞こえてきたのは、そのときだった。
「……冗談だろ?」
ネロは愕然と振り返る。敵に与えたダメージの致死量を見誤るようなネロではないが、その手応えは完全に裏切られた。
雪色の髪とジャケットを真っ赤に染め、両断しかかった上体からおびただしい量の鮮血を流しながら、それでもツンドラは立ち上がっていた。
ごぼ、と盛大に吐血する。口の中に充満する血の味……あのときと同じだ。孤児院時代、娼婦の子と殴り合いのケンカをした、あのときと。
幼い頃の記憶が、ツンドラの闘志を奮い立たせる。瀕死の身体に鞭を打ち、生命力と同時に底を突きかけた魔力を振り絞って彼は戦闘を続行しようとした。食いしばった歯の隙間から、血とちぎれた内臓の破片と、あとは手負いの獣が今際の際に発するような唸り声を漏らしながら。
「よせ、致命傷だ!」
見かねたネロが思わず制止を呼びかける程に、その姿はあまりに痛々しく壮絶だった。
だが、ツンドラは聞く耳を持たない。俺を止めたければ、とどめを入れろと言わんばかりに、獰猛に血走った凝視を返事として送ってくる。憎悪に彩られた眼差し。裏切り者の血族に対する失望と怒りとは種類の違う、もっと個人的な、むき出しの感情。
ネロは困惑を禁じ得なかった。私怨を込めた瞳と、口から血を流すその姿は、やはり何処かで見覚えのあるものだ。俺はこいつと、会ったことがあるのか?
「おまえは、一体……」
瞠目するネロの呟きは、不吉な地響きによって遮られた。
ネロは愕然と音の発生源――すり鉢状の緩やかな弧を描く、ラーミナの山頂付近を見上げる。
「まさか……!」
ネロの危惧は現実となって動きはじめた。
雪崩である。山頂付近の積雪が下方の雪を巻き込みながら急激に崩れ、そうして巨大化しながら滑り落ちてきたではないか。
数トンもの雪が時速一〇〇キロ以上の運動エネルギーでもって迫りくる光景。ネロの全身に戦慄の震えが走る。
「何で……銃は使ってないのに!?」
そう嘆くネロではあるが、そもそもフィクションにあるように「大きな音を出したら雪崩が起きる」という考え自体が間違った認識なのである。その程度で積雪が崩れる事はない。ただし、それが衝撃を伴って地表を揺るがす程の音であるのなら、話は別である。
ネロとツンドラの激突によって吹き荒れた、破壊的なまでの轟音と衝撃――今の今まで積雪の崩落が始まらなかったのが不思議なほどであった。
「ちィ……!」
ネロは慌てて安全圏まで避難しようとし――思い直したかのように足を止め、振り返った。
立ち上がったまでが精一杯で、そこからはもう一歩も動けそうにないツンドラを見つめる。
逡巡の暇はない。雪崩はもう、すぐそこまで迫っている。
「こっちだ!」
ツンドラに駆け寄ったネロは彼に肩を貸し、運びにかかった。
なぜ、こんなことをしているのか。手を差し伸べられたツンドラの方が困惑もひとしおだった。
「まだ死ぬんじゃねえぞ……おまえには訊きたいことがあるんだ!」
力づけるようにそう怒鳴りつけ、ネロは両断しかかったツンドラの身体になるべく負担がかからないように配慮した動きで走り出した。
だが、すぐに悟る。間に合わない。
「くそ、くそっ……畜生が!」
ネロは呪うように悪態を吐く。いまツンドラを見捨てたところでもう、完全に手遅れなタイミング。
そのときだった。
「……アイス・ショック」
耳元に聞こえた、か細い声に驚愕した時にはもう、ネロの身体は宙を舞っていた。
分厚い氷の壁を粉砕する衝撃波も、死にかけた身体では見る影もないほど威力が落ちていたが――それでも人ひとりを吹き飛ばすには充分だった。
「おまえ……っ!?」
ネロは吹き飛びながら、ひとり雪崩の走路に取り残されたツンドラを愕然と見やる。
凍土の名を持つ男は、吐血する唇を歪めて不敵に笑った。
「おまえに助けられるなんざ、死んでもご免だね――売女のせがれ野郎」
かっと目を見開くネロの目の前で、ついに雪崩に飲み込まれる、血に染まった白い影。
受け身も取れずに背中から着地したネロは、たったいまツンドラが消えた位置を呆然と見つめ、言葉を失っていた。
思えば名前すら交わしていない相手であった。
なのに何処かで見覚えのある顔。にやりとした嘲りの笑み。そして何より、あの罵倒の文句。
「アイツは、まさか……そんな……」
ネロの呟きは雪崩の残響に消えていく。誰の耳に届くこともなく。
静かな衝撃がいつまでも、いつまでも彼の身体を覆い尽くし、決して消えようとはしなかった。
・あとがき
最近の主食はプロテインのユートです。現在はウェルター級リミットをアンダー。がんばって次はスーパー・ライト級を下回りまふ。
さてさて、どうでしたか、今回の話。知ってる方もいると思いますが、今回は、かつて『にじファン』にて投稿されていた、デビルメイクライ二次小説『Devil May Cry ~Tundra Story~』を僕なりにリメイクした形になります。ツンドラ、いいよね。リメイクしたとはいえ、なるべく元のキャラクターのまま描いたつもりです。女顔を気にしてるところや、善戦してもやっぱり負けちゃう勝利に恵まれないところなどね(笑
技名もTundra Storyのリスペクトとして原作(?)通りにしました。中でも唯一和名である『氷龍斬波』はお気に入り。今作では氷の龍を飛ばす遠距離攻撃でしたが、原作では剣先が描く龍が長くなればなるほど威力が上昇する、ダッシュからの近接攻撃でした。知ってる人、覚えてる人、いるかなあ?(苦笑
また、少しだけ遊び心を出してネロをプロトタイプコスチュームで登場させたり、ネロとツンドラのバトルは現在『ハーメルン』で活躍中の朋友、スノーマンさんの文章を意識したりしました。戦闘描写は彼の方が上なので。
あ、それとフォルトゥナに関してですが、かなりオリジナル色の強い魔界化を進めています。僕なりに考えた〝4から半年後のフォルトゥナ〟ですので、どうか、あしからず<(_ _)>
作品名が『VS. NERO』の通り、ネロの対戦相手に力を置いた本作。次回もまた、意外すぎる角度からオリキャラを誕生させます。程よくお楽しみに。
さて、ここから少し長くなります。それでも読みたいという方だけ、お付き合いください↓
今回の話を書き始めた経緯ですが、実は元々、予定としてこれを書くつもりは全くありませんでした。
というのも、プロット自体がなかったからね。いきなり閃いたアイディアのまま、いきなり書きはじめました。ええ、つまりはいつもの見切り発車です(死
しかし、なろうの頃から交友のあるGI8さんから、
「ツンドラの作者さんは、きっと帰ってくる。今回のツンドラのように」
という言葉を頂いた時、僕はツンドラの作者、光沢を持つこんにゃくさんとツンドラを重ね合わせて今回の話を書いていた自分の無意識に気づきました。僕に感想をくれた最初の読者が、他ならぬ彼ですからね。もしかしたら彼と再会したいという気持ちが文章に出たのかもしれません。おセンチな柄じゃないのに(苦笑
しかも前述しましたが、今回は戦闘描写の面でスノーマンさんのエキスも入っています。
なろうの時代では、ユート(当時、45口径の芸術家)、スノーマン、光沢を持つこんにゃくの三人合わせて、『デビルメイクライ三銃士』と呼ばれていた三バカトリオ。
そんな三人のエキスがブレンドされた今回の話は、けっこう思い入れの強い話となっています。
なので程よく、と言わず大いに楽しんでくれたなら、最高の幸せです。
ここまで読んでくださったあなた、どうかもう一度読み直して、僕たち三人のエキスを感じてください。エキスと言っても、下ネタではないですよ?(笑
でわでわ。
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