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即身仏のページ

第四章 思想背景ごとにみた即身仏
湯殿山系

淳海上人

5・湯殿山系即身仏

1・淳海上人

新潟県津川町の玉泉寺に湯殿山系即身仏第一号と思われる淳海上人がまつられていた。寛永13年の入定である。明治13年津川大火の際に消失しており、現在は遺骨だけが安置されている。玉泉寺は真言宗寺院である。淳海上人は火除けにご利益があるとされて信仰されていた。
『津川姿見』、『東奥紀行』によると、明和から寛政にかけて一般に拝観させ、防火除疫に霊験があるとされていた。また、『津川姿見』、『東奥紀行』には出開帳もおこなっていたと記録がある。『東蒲原郡史蹟誌』によると、上人は下条組綱木村・飛田野弥左衛門の子で9歳で仏門に入り、『東蒲原郡史蹟誌』によると湯殿山や高野山で苦行学習し、始めは長運というなで津川町蜜蔵院の住職となりついで向鹿瀬村に転寺、また本寺に帰住して淳海と改名した。78歳のとき、寛永13年9月入寂した。
『当院中院相乗事』によると上人は高野山の偏照光院で慶長6年八月21日付で中院流の伝法灌頂を受けている。中院流とは平安末期、高野山が「三十帖策子」事件で後輩に帰したとき、祈親定誉という法華行者が高野山を再興、その祈親が愛育した俊英・明算が高野山に正統密教を復活させようとして小野曼荼羅寺の成尊に入門、受法灌頂して帰山。自分の宿坊である高野山の中院に興した。中院は昔、空海の住房があったと伝えられるところである。この明算の法嗣の良禅の門下の一人に日本密教史上最初の即身仏となった琳賢がいる。
「当寺第三世の僧淳海死に臨みて肉身成仏せんこと我願なり、滅後堂中に安置すべしと遺言す、時に年七十八歳、寛永十三年九月九日なり、今に全身朽腐せず、其形枯魚に似たり」と『新編会津風土記』に記録がある。このことは淳海上人が真言宗の教義として即身成仏し、ミイラ化して遺体を残すことを望んでいたことを示している。
現玉泉寺住職は「玉泉寺と親戚関係にある寺泊の照明寺で、照明寺三代前の住職である佐伯大弘という人がミイラとなることを希望してなくなり、死後遺体に炭を入れるなどの防腐処理をしているので地下でミイラになっているはず」と話をしている。住職の話に出てくる照明寺のすぐ近くには西生寺がある。
また、玉泉寺からは上人の火災で焼けた遺骨や、愛用していた数珠、血脈、伝法灌頂などと共に古文書が発見された。それによると、淳海上人は檀家たちに肉身成仏は我が宗の願うところでるから、自分の遺体は火葬にも土葬にもせずに寺の東南に小廟をつくって安置せよと遺言した。
淳海上人の特徴として、土中入定をしていない点と堂に安置されたという点があげられる。これらの特徴は平安時代の初期即身仏や高野山系即身仏と共通するものである。淳海上人の安置される寺の親戚筋の寺院のすぐ近くに弘智法院の西生寺があること、高野山と湯殿山両方で修行したことなどから、淳海上人が近畿から東北へと即身仏信仰を伝播させた役割を果たしたものとみられる。

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