哀しき血脈
第三章
ストーカー
川がゆっくりと流れている。
あれほどまでに咲き誇っていた桜の花びらがピンクの絨毯となって水面を流れていく。両岸に植えられている木々は緑の葉を勢いよくつけている。暖かな午後だった。
この日、珍しく早く帰れた美佳は河原でぼんやりと水面を眺めていた。
こんな日もあってもいい。
水面を眺めながら美佳は背筋を伸ばした。
川岸には割と人通りがあったが、誰も美佳のことに神経を裂く者はいない。何かと人から見られることが多い美佳にとって、それはとても心地よかった。このままこうしていたいな、美佳はそう思ったが、すぐにその考えを打ち消した。そんなことは出来るはずがないのだ。毎日の授業、クラス委員としての活動、塾への通学、こなさなければいけないことがいくつもあった。
さあ、そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がったときのことだった。近くの草むらがガサガサッという音を立てた。何だろうと思ってその音がする方に神経を集中していると草むらの中から一匹の若い黒猫が姿を現した。赤い首輪が妙に似合っている。ふと見るとその猫は両目の色が異なっていた。碧眼、というのは美佳も知っていたが、見るのは初めてだった。
屈み込んで手招きをしてみるとその猫は咽を鳴らして近づいてきた。
「お前はどこの猫ちゃんなの?」
美佳は指で黒猫の顎を撫でながらそんなことを口にしていた。
彼女は動物が好きだった。幼い頃から犬か猫を飼ってみたいと思っていた。けれども彼女の家は団地だったため、それは叶わなかった。だからなのか、道ばたで出会った動物には構ってみたくなるのだった。それでも、いつまでもこうしている訳にはいかない。美佳は黒猫の頭を軽く叩くと勢いをつけて立ち上がった。黒猫が美佳の顔を見上げる。
その様子を物陰からのぞいている者がいた。
相馬祐司だった。
彼は血走った目で美佳を舐め回すようにじっと見つめていた。若い女の血、それが目の前にあった。そして彼は思い当たった。あの女は以前愛した女だった。そしてその愛を打ち明け、拒絶した女だった。復習すべき女だった。相馬の心の中で憎しみの炎が燃え上がった。あの女に復習するのだ。復習すると同時にその血を屠り、より強い力を手に入れるのだ。
相馬は獲物を狙う肉食獣のように物陰からゆっくりと気づかれないように美佳に近づいていった。
不思議なことにあれほど行き交っていた人々が今はぱったりと途絶えている。それは相馬にとって都合のよいことだった。
幸いあの女は気づいていない。
一歩、また一歩と美佳の背後から近づいていく。
そして手を伸ばせばその身体に触れられそうになったとき、相馬は小さな黒い塊に襲われた。
その音に気づいた美佳は振り返った。
そこに包丁を身構えている相馬の姿があった。その包丁を持った手に再び黒い塊が飛びかかる。
先ほどまで美佳に懐いていた黒猫だった。
相馬は黒猫からの攻撃を避けようと必死に包丁を振り回している。
逃げるなら今だ。美佳はとっさにそう判断して川岸の道を走り出した。
黒猫と相馬の争う音が遠ざかろうとしている。しかし、その脚は思うような速度を出せずにいた。
脇腹が痛くなってくる。
肺がより多くの酸素を求めてあえぎ出す。
目の前が暗くなっていく…。
俯瞰した光景が美鈴の脳裏で炸裂する。
人通りのない河原で魔鈴が男と争っている。男の手には何か光るものが握られている。
その先では少女が一人、ひざまづいている。
和田美佳だ。
男は彼女を襲おうとしているのだ。それを魔鈴が妨害し、九朗がその様子を伝えてきているのだ。
突然、俯瞰した景色の高度が下がり、男の顔をかすめて再び舞い上がる。
男の顔が美鈴の脳裏に映る。
その男の目は血走っていた。いや、その目は血の色で染まっていた。そしてその男は赤黒い陰の気に包まれていた。
あれは『もの』だ。
美鈴の直感がそう叫んだ。
彼女の体中の血がざわめき始めた。
身体が変わろうとしている…。美鈴はそう感じた。
『私と替われ…』
心の奥底から聞き慣れた声がした。
それは力強く美鈴を心の奥底に引きずり込もうとした。
音が、空気が、美鈴の意識から遠ざかっていく。
『私と替われ!』
声が叫んだ。
その瞬間、美鈴の意識が途絶えた。
髪が次第に赤く変わり逆立っていく。
瞳が赤く輝いていく。
細い身体に熱い血が流れる。
美鈴は『紅い菊』に変わっていった…。
あれほどまでに咲き誇っていた桜の花びらがピンクの絨毯となって水面を流れていく。両岸に植えられている木々は緑の葉を勢いよくつけている。暖かな午後だった。
この日、珍しく早く帰れた美佳は河原でぼんやりと水面を眺めていた。
こんな日もあってもいい。
水面を眺めながら美佳は背筋を伸ばした。
川岸には割と人通りがあったが、誰も美佳のことに神経を裂く者はいない。何かと人から見られることが多い美佳にとって、それはとても心地よかった。このままこうしていたいな、美佳はそう思ったが、すぐにその考えを打ち消した。そんなことは出来るはずがないのだ。毎日の授業、クラス委員としての活動、塾への通学、こなさなければいけないことがいくつもあった。
さあ、そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がったときのことだった。近くの草むらがガサガサッという音を立てた。何だろうと思ってその音がする方に神経を集中していると草むらの中から一匹の若い黒猫が姿を現した。赤い首輪が妙に似合っている。ふと見るとその猫は両目の色が異なっていた。碧眼、というのは美佳も知っていたが、見るのは初めてだった。
屈み込んで手招きをしてみるとその猫は咽を鳴らして近づいてきた。
「お前はどこの猫ちゃんなの?」
美佳は指で黒猫の顎を撫でながらそんなことを口にしていた。
彼女は動物が好きだった。幼い頃から犬か猫を飼ってみたいと思っていた。けれども彼女の家は団地だったため、それは叶わなかった。だからなのか、道ばたで出会った動物には構ってみたくなるのだった。それでも、いつまでもこうしている訳にはいかない。美佳は黒猫の頭を軽く叩くと勢いをつけて立ち上がった。黒猫が美佳の顔を見上げる。
その様子を物陰からのぞいている者がいた。
相馬祐司だった。
彼は血走った目で美佳を舐め回すようにじっと見つめていた。若い女の血、それが目の前にあった。そして彼は思い当たった。あの女は以前愛した女だった。そしてその愛を打ち明け、拒絶した女だった。復習すべき女だった。相馬の心の中で憎しみの炎が燃え上がった。あの女に復習するのだ。復習すると同時にその血を屠り、より強い力を手に入れるのだ。
相馬は獲物を狙う肉食獣のように物陰からゆっくりと気づかれないように美佳に近づいていった。
不思議なことにあれほど行き交っていた人々が今はぱったりと途絶えている。それは相馬にとって都合のよいことだった。
幸いあの女は気づいていない。
一歩、また一歩と美佳の背後から近づいていく。
そして手を伸ばせばその身体に触れられそうになったとき、相馬は小さな黒い塊に襲われた。
その音に気づいた美佳は振り返った。
そこに包丁を身構えている相馬の姿があった。その包丁を持った手に再び黒い塊が飛びかかる。
先ほどまで美佳に懐いていた黒猫だった。
相馬は黒猫からの攻撃を避けようと必死に包丁を振り回している。
逃げるなら今だ。美佳はとっさにそう判断して川岸の道を走り出した。
黒猫と相馬の争う音が遠ざかろうとしている。しかし、その脚は思うような速度を出せずにいた。
脇腹が痛くなってくる。
肺がより多くの酸素を求めてあえぎ出す。
目の前が暗くなっていく…。
俯瞰した光景が美鈴の脳裏で炸裂する。
人通りのない河原で魔鈴が男と争っている。男の手には何か光るものが握られている。
その先では少女が一人、ひざまづいている。
和田美佳だ。
男は彼女を襲おうとしているのだ。それを魔鈴が妨害し、九朗がその様子を伝えてきているのだ。
突然、俯瞰した景色の高度が下がり、男の顔をかすめて再び舞い上がる。
男の顔が美鈴の脳裏に映る。
その男の目は血走っていた。いや、その目は血の色で染まっていた。そしてその男は赤黒い陰の気に包まれていた。
あれは『もの』だ。
美鈴の直感がそう叫んだ。
彼女の体中の血がざわめき始めた。
身体が変わろうとしている…。美鈴はそう感じた。
『私と替われ…』
心の奥底から聞き慣れた声がした。
それは力強く美鈴を心の奥底に引きずり込もうとした。
音が、空気が、美鈴の意識から遠ざかっていく。
『私と替われ!』
声が叫んだ。
その瞬間、美鈴の意識が途絶えた。
髪が次第に赤く変わり逆立っていく。
瞳が赤く輝いていく。
細い身体に熱い血が流れる。
美鈴は『紅い菊』に変わっていった…。
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