ふるさとの抵抗
第二章
森の中
それは再び地上の空気を吸っていた。
排気ガスや人の臭いがする決して良い空気とはいえなかったが、ほんの少し緑の匂いもしていた。そこはそれにとっては見覚えのない木々の中だった。遠くから聞こえてくる街の喧騒から、それが知らない街ではないことを物語っていたが、いかんせんそれはこの場所に来たことはなかった。
きっと意識のない時に何者かに連れてこられたのだろう。
あの老いた女だろうか、それは心の中でそう呟いた。
そのとき、それの頭の中にあの声がした。
『気分はどうだ?』
それはその声に応える言葉を知らなかった。元々それにとっては言葉などというものは必要のないものだった。感情を表現できる幾つかの声の調子さえあればよかったのだ。
それは閉ざされた中から解放された喜びを思った。
『そうか、それはよかった』
それの感情が伝わったのだろう、声は安心したように言った。
『我らの願いを叶えてくれるか?』
声は約束を確認するように言う。
それは、忘れてはいないことを声に伝える。
『ならば、我らの力を与えよう。我らと同化しよう』
声はそう言った。
その直後、それはこれまでに感じたことのない感情を感じた。自分たちの住み処が奪われていく悲しさ、ふるさとが壊されていく儚さ、そしてこれらの行為を何の躊躇いもなく実行していく人間たちのイメージ、そして彼らに対する強い憎しみ…。
声の思いはとても強いものだった。
声は時間をかけてそれの中に入り込んできた。
そしてひとつひとつがまるでそれの状態を確認するようにゆっくりと同化していった。
その度にそれの体は変化していった。
ものを見る目が増え、音を聞く耳が増え、それらは幾つかの顔となり、それの前足がついている大元から生まれてくる。背中の部分から無数の触手が生まれ出て、その先が二つに割れ、鋭い牙を持つ口が生まれた。尾の部分が幾重にも分かれ、そこにも牙を持つ口が現れた。
幾つもの生き物の特徴が、それの体に表れた。
そしてそれらは、強い憎しみで充ち満ちていた。
人間たちに対して、彼らが動かす重機の群れに対して、その憎しみは向けられていた。
それらを壊すのだ。
完膚無きまでに破壊してしまうのだ。
そしてもう一度、ふるさとを取り戻すのだ。
人と獣と『もの』たちが共存していたふるさとを取り戻すのだ。
それの中に強い決意が生まれた。
幾つもの獣たちの魂がそれを中心として結合していった。
そして、それはキメラになった。
美鈴と啓介、そして美里の三人はあの気の流れの源である森の中にいた。既に陽は西に沈み始めており、森は闇に包まれていこうとしていた。その中で気の流れは陽炎のように揺らいでいる。それはまるで彼女たちを招いているようでもあった。
三人は互いの精神の波を同調させて外界から中の世界を閉ざしている結界に人が通れるほどの穴を穿つ。結界は何の抵抗も見せずに扉を開いていく。まるで彼女たちが来るのを知っていて招待でもするようだった。
結界の中はまるで春のような穏やかな日の光が降り注いでいた。この中はどうやら時間の流れが違うようだ。美鈴はその光景を見て思った。
ハーリーティは何処にいるのだろうか、子供たちの笑う声が遠くから聞こえてくるその場所に彼女の姿を見つけることが出来ない。だが、きっと何処かから美鈴たちの様子を見ていることは間違いがなかった。美鈴は周囲に精神の触手を伸ばしていった。
やがてその触手は子供たちを優しく見つめている気配を感じ取った。
ハーリーティだ、美鈴はその存在にそっと触れた。
「やはり来たのか…」
三人の前にハーリーティが姿を現す。
「この人間は?」
ハーリーティの問いに美鈴は自分の母親であることを告げる。
美里が軽く会釈する。
「それで、考えは纏まったのか?」
ハーリーティの試すような視線が三人に注がれる。
「完全に、ではありません。ただこの子たちだけでは解決できないことはわかっています。」
美里は言葉を選んでいるようだ。
「そうだな、これは大人の問題だな?」
「ええ、でもこのままというわけにはいきません」
「そうだ、親が変わらなければこの問題は解決しない…」
ハーリーティの哀しげな言葉が美鈴の心にしみていく。
親を変えていく、本当にそんなことが出来るのだろうか?美鈴の中に不安が広がる。
「今すぐ、というのは難しいと思います」
美里の目にも哀しげな光が浮かんでいる。
「ですが、今の人間の社会にはこういった子供たちを一時的に親から離しておく仕組みがあります。それを利用したいと思っています」
「どのようにしてそれを利用する?お前たちはここにいる子供たちとは何の繋がりもないのだろう?」
「仰るとおりです。その仕組みを動かすためには具体的な証拠が必要になります」
「具体的な証拠?」
「そうです、この機械で子供たちの体を写させてください」
「姿を写す?」
「はい、このようにすれば子供たちの姿を写し取ることが出来ます」
そう言って美里は娘の方にカメラを向けてシャッターを押す。カシャリッ、という音がして美鈴の姿がデジタルカメラの小さなディスプレイに写し出される。それを見たハーリーティは驚くとともに感心する。
「お前たちの世界には便利なものがあるのだな。それで、その姿を使ってどうするのだ?」
「私の知り合いに警察という組織に属している人がいます。その人にこれを見せて力を借ります」
美里の提案を聞いたハーリーティは黙り込み、暫くの間何かを考え込んでいるような仕草をした。その時間は恐らく数分の出来事だったはずだが、美鈴にはとても長く感じられた。
やがてハーリーティが口を開く。
「その警察の人間というのは信用できるのか?」
「はい、私達はある出来事でその人と知り合ったのですが、信頼できる人物です」
再びハーリーティは考え込む。
美里の言葉を信じても良いのかと評価するように、彼女の様子をじっと見つめる。美里は心のゆらぎを感じさせないように毅然として彼女の視線を迎え撃つ。
ハーリーティの視線が優しいものに変わる。
「いいだろう、子供たちをここに呼ぼう」
ハーリーティはそう言うと二つの目を閉じる。
暫くすると遠くから四人の子供たちが近づいてくるのが見えた。
「さあ、この子たちの体を見てやってくれ」
ハーリーティは自分の傍らに来た四人のうちの一人、翔の来ているものを捲りあげた。それを見た美鈴たちは自分の目を疑った。
そこには無数の傷跡が走っていた。何か堅いものを打ち付けられたような紫の傷跡、小さな温度の高いもの、恐らく煙草の火を押しつけられたと思われる爛れた傷跡。古いものやまだ生々しい傷跡が、彼に向けられた虐待が決して短い時間ではないことを告げていた。
美里はその体の映像を冷静にカメラに写し取り、啓介は怒りの目をし、美鈴は目を背けた。
やがて四人全ての体の様子を写し取った美里はハーリーティに礼を言った。
「ありがとうございます。これで次の行動に移れます」
「だが、上手くいくかな?」
「わかりません、簡単なことではないと自覚しています。でも誰かがやらなければならないことだと思っています」
「上手くいくと良いな。生ける者がここにいることが良いとは私も思ってはいない…」
ハーリーティはそう言うと哀しげな表情を見せた。そして四人の子供を連れてそこから去っていった。
「行きはよいよい帰りは怖い、か…」
ハーリーティの姿が見えなくなると美里がそう呟いた。
「なによ、それ」
「来るときは神経が張り詰めていたけど、彼女を説得できると信じていたわ。でも結局私達は重たい責任を背負わされてしまったわね?」
美里はそう言うと美鈴と啓介を交互に見つめた。
「とおりゃんせの歌ですね…」
「そうよ、啓介君。通りゃんせの歌には口減らしのために子供を捨てた意味があると言われてもいるのよ。子供を捨てた帰りには後ろ髪引かれる思いと後悔の念を持ってしまうというね。私達の場合は重たい責任を背負わされてしまった、ということになるわね。それも決して失敗の出来ない責任を…」
美里の目には強い決意を抱いたという光が見えた。
そして美鈴は静かに頷いた…。
排気ガスや人の臭いがする決して良い空気とはいえなかったが、ほんの少し緑の匂いもしていた。そこはそれにとっては見覚えのない木々の中だった。遠くから聞こえてくる街の喧騒から、それが知らない街ではないことを物語っていたが、いかんせんそれはこの場所に来たことはなかった。
きっと意識のない時に何者かに連れてこられたのだろう。
あの老いた女だろうか、それは心の中でそう呟いた。
そのとき、それの頭の中にあの声がした。
『気分はどうだ?』
それはその声に応える言葉を知らなかった。元々それにとっては言葉などというものは必要のないものだった。感情を表現できる幾つかの声の調子さえあればよかったのだ。
それは閉ざされた中から解放された喜びを思った。
『そうか、それはよかった』
それの感情が伝わったのだろう、声は安心したように言った。
『我らの願いを叶えてくれるか?』
声は約束を確認するように言う。
それは、忘れてはいないことを声に伝える。
『ならば、我らの力を与えよう。我らと同化しよう』
声はそう言った。
その直後、それはこれまでに感じたことのない感情を感じた。自分たちの住み処が奪われていく悲しさ、ふるさとが壊されていく儚さ、そしてこれらの行為を何の躊躇いもなく実行していく人間たちのイメージ、そして彼らに対する強い憎しみ…。
声の思いはとても強いものだった。
声は時間をかけてそれの中に入り込んできた。
そしてひとつひとつがまるでそれの状態を確認するようにゆっくりと同化していった。
その度にそれの体は変化していった。
ものを見る目が増え、音を聞く耳が増え、それらは幾つかの顔となり、それの前足がついている大元から生まれてくる。背中の部分から無数の触手が生まれ出て、その先が二つに割れ、鋭い牙を持つ口が生まれた。尾の部分が幾重にも分かれ、そこにも牙を持つ口が現れた。
幾つもの生き物の特徴が、それの体に表れた。
そしてそれらは、強い憎しみで充ち満ちていた。
人間たちに対して、彼らが動かす重機の群れに対して、その憎しみは向けられていた。
それらを壊すのだ。
完膚無きまでに破壊してしまうのだ。
そしてもう一度、ふるさとを取り戻すのだ。
人と獣と『もの』たちが共存していたふるさとを取り戻すのだ。
それの中に強い決意が生まれた。
幾つもの獣たちの魂がそれを中心として結合していった。
そして、それはキメラになった。
美鈴と啓介、そして美里の三人はあの気の流れの源である森の中にいた。既に陽は西に沈み始めており、森は闇に包まれていこうとしていた。その中で気の流れは陽炎のように揺らいでいる。それはまるで彼女たちを招いているようでもあった。
三人は互いの精神の波を同調させて外界から中の世界を閉ざしている結界に人が通れるほどの穴を穿つ。結界は何の抵抗も見せずに扉を開いていく。まるで彼女たちが来るのを知っていて招待でもするようだった。
結界の中はまるで春のような穏やかな日の光が降り注いでいた。この中はどうやら時間の流れが違うようだ。美鈴はその光景を見て思った。
ハーリーティは何処にいるのだろうか、子供たちの笑う声が遠くから聞こえてくるその場所に彼女の姿を見つけることが出来ない。だが、きっと何処かから美鈴たちの様子を見ていることは間違いがなかった。美鈴は周囲に精神の触手を伸ばしていった。
やがてその触手は子供たちを優しく見つめている気配を感じ取った。
ハーリーティだ、美鈴はその存在にそっと触れた。
「やはり来たのか…」
三人の前にハーリーティが姿を現す。
「この人間は?」
ハーリーティの問いに美鈴は自分の母親であることを告げる。
美里が軽く会釈する。
「それで、考えは纏まったのか?」
ハーリーティの試すような視線が三人に注がれる。
「完全に、ではありません。ただこの子たちだけでは解決できないことはわかっています。」
美里は言葉を選んでいるようだ。
「そうだな、これは大人の問題だな?」
「ええ、でもこのままというわけにはいきません」
「そうだ、親が変わらなければこの問題は解決しない…」
ハーリーティの哀しげな言葉が美鈴の心にしみていく。
親を変えていく、本当にそんなことが出来るのだろうか?美鈴の中に不安が広がる。
「今すぐ、というのは難しいと思います」
美里の目にも哀しげな光が浮かんでいる。
「ですが、今の人間の社会にはこういった子供たちを一時的に親から離しておく仕組みがあります。それを利用したいと思っています」
「どのようにしてそれを利用する?お前たちはここにいる子供たちとは何の繋がりもないのだろう?」
「仰るとおりです。その仕組みを動かすためには具体的な証拠が必要になります」
「具体的な証拠?」
「そうです、この機械で子供たちの体を写させてください」
「姿を写す?」
「はい、このようにすれば子供たちの姿を写し取ることが出来ます」
そう言って美里は娘の方にカメラを向けてシャッターを押す。カシャリッ、という音がして美鈴の姿がデジタルカメラの小さなディスプレイに写し出される。それを見たハーリーティは驚くとともに感心する。
「お前たちの世界には便利なものがあるのだな。それで、その姿を使ってどうするのだ?」
「私の知り合いに警察という組織に属している人がいます。その人にこれを見せて力を借ります」
美里の提案を聞いたハーリーティは黙り込み、暫くの間何かを考え込んでいるような仕草をした。その時間は恐らく数分の出来事だったはずだが、美鈴にはとても長く感じられた。
やがてハーリーティが口を開く。
「その警察の人間というのは信用できるのか?」
「はい、私達はある出来事でその人と知り合ったのですが、信頼できる人物です」
再びハーリーティは考え込む。
美里の言葉を信じても良いのかと評価するように、彼女の様子をじっと見つめる。美里は心のゆらぎを感じさせないように毅然として彼女の視線を迎え撃つ。
ハーリーティの視線が優しいものに変わる。
「いいだろう、子供たちをここに呼ぼう」
ハーリーティはそう言うと二つの目を閉じる。
暫くすると遠くから四人の子供たちが近づいてくるのが見えた。
「さあ、この子たちの体を見てやってくれ」
ハーリーティは自分の傍らに来た四人のうちの一人、翔の来ているものを捲りあげた。それを見た美鈴たちは自分の目を疑った。
そこには無数の傷跡が走っていた。何か堅いものを打ち付けられたような紫の傷跡、小さな温度の高いもの、恐らく煙草の火を押しつけられたと思われる爛れた傷跡。古いものやまだ生々しい傷跡が、彼に向けられた虐待が決して短い時間ではないことを告げていた。
美里はその体の映像を冷静にカメラに写し取り、啓介は怒りの目をし、美鈴は目を背けた。
やがて四人全ての体の様子を写し取った美里はハーリーティに礼を言った。
「ありがとうございます。これで次の行動に移れます」
「だが、上手くいくかな?」
「わかりません、簡単なことではないと自覚しています。でも誰かがやらなければならないことだと思っています」
「上手くいくと良いな。生ける者がここにいることが良いとは私も思ってはいない…」
ハーリーティはそう言うと哀しげな表情を見せた。そして四人の子供を連れてそこから去っていった。
「行きはよいよい帰りは怖い、か…」
ハーリーティの姿が見えなくなると美里がそう呟いた。
「なによ、それ」
「来るときは神経が張り詰めていたけど、彼女を説得できると信じていたわ。でも結局私達は重たい責任を背負わされてしまったわね?」
美里はそう言うと美鈴と啓介を交互に見つめた。
「とおりゃんせの歌ですね…」
「そうよ、啓介君。通りゃんせの歌には口減らしのために子供を捨てた意味があると言われてもいるのよ。子供を捨てた帰りには後ろ髪引かれる思いと後悔の念を持ってしまうというね。私達の場合は重たい責任を背負わされてしまった、ということになるわね。それも決して失敗の出来ない責任を…」
美里の目には強い決意を抱いたという光が見えた。
そして美鈴は静かに頷いた…。
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