ふるさとの抵抗
第一章
闇の使者
美しが丘中学校の脇に黒い高級車が停まっている。スモークガラスのために車内を伺い知ることは出来ないが、一人の若い男が運転席にいるようだった。エアコンが働いているのだろう、アイドリングの音が時折高くなる。
男は運転席側の窓を少し下げて煙草をくわえ、火をつけた。
ほどなく彼の携帯電話が鳴る。
「はい、田宮」
男は携帯電話を開いて応えた。
「やぁ、君か…」
電話の相手は親しい間柄のようだ。
田宮は二言三言世間話を電話の相手と躱した後、待っていたように本題を切り出した。
「ところで、『Red chrysanthemum』の様子はどうだい?」
「はい、特に目立った変化はありませんが、着実に『覚醒』に近づいていると思われます」
「その根拠は?」
「根拠は、マゴットとラミアの一件以来、彼女の健康状態に変化があります。貧血気味になる事も多くなりましたし、友人達とも距離を取るようになっています。彼女は自分の中の『Red chrysanthemum』を意識してきています」
その報告を聞いた田宮は革張りのシートに身を沈めて満足げに笑った。
「マゴットやラミアを送り出した甲斐があった、という訳だね」
田宮の言葉に同意しているのか、電話の向こうの相手は何も言わない。
「あともう一息だねぇ…」
田宮がそう呟いた時、電話の向こうの相手が彼に質問をしてきた。
「でも田宮様。何故この様な回りくどい行動をなさるのですか?私たちで直接働きかければ…」
「そう焦ることもないよ。それにこの際だから邪魔者を燻りだしておこうと思っている」
「邪魔者、ですか?」
「『Hunter』さ。あれらは私たちの行動の妨げとなるでしょう?」
「それでは…」
「そうさ、『Red chrysanthemum』の覚醒をじっくりと行っているのは、『Hunter』をおびき寄せるためでもあるんだ。十分に集まったところで奴らを一掃する。既に一人現れているからね」
田宮の含み笑いが車内に広がる。
「これからも監視を怠らないようにね。連絡を待っているから」
田宮はそう言うと携帯電話を切った。サイドギヤを戻し、車を発進させる。
高級車のエンジンは静かに回転数を上げ、夜の街に消えていった。
誰も居ない保健室の中、風間由香里は手にしていたスマートフォンでの通話を終えて身を包んでいた白衣を脱ぎ捨てた。
窓の外から走り去る車のライトが入ってくる。机の上に置かれたノートパソコンにシャットダウンの命令を下す。
今日も一日が終わった、由香里は深い溜息をつく。
そのとき保健室の扉が開き、向こうから美鈴達の担任の教師、福原秀樹が顔を覗かせた。
「風間先生、まだいらしたんですか?」
福原は由香里がいたことを意外だと感じたような表情をして言った。
「いえ、そろそろ帰ろうかと思っていたところです」
由香里は慌てて帰り支度をする。
「福原先生はまだ?」
「ええ、いろいろと雑用が残っていまして…」
福原は恥ずかしそうに頭を掻く。
「そうですか、それじゃあ、お先に失礼します」
由香里は福原の脇をすり抜けていく。
「お疲れ様でした」
歩いていく由香里の背中に福原は声をかけた。
団地の一室…。
三DKのダイニングで守屋香と翔は遅い夕食をとっていた。掃除が行き届いていないのか、部屋の中は物が散乱しており、流しには洗わずに捨て置かれた食器が溢れている。後ろで一つに結んだ香の髪は乱れ、白い物がちらほらと見てとれる。翔の洋服はいつ洗ったものなのか首のあたりが黒く染まっている。香は黙々と食材を口に運んでいる。翔はそんな母親にときどき目をやりながら食事をしている。
「ほら、よそ見をしているとまたこぼすよ」
面倒くさそうな口ぶりで香は言った。
「ごめんなさい…」
翔は母に親しみの目を向けていたのだが、香にそう言われて元気をなくして目を伏せた。
ここに父親の姿はなかった。単身赴任で別居生活を始めてから既に二年が過ぎていた。香の変化はその頃から始まっていた。
それまでの香は翔に対して優しかった。晴れた日などは二人で公園に行って遊んでいる姿がよく見られた。だが、夫である進が単身赴任で出て行ったあとからその様子が変わっていった。
最初の頃は進も毎週家に帰ってきていた。それが月日が経つにつれて次第に間隔が開くようになり、今では一ヶ月に一度帰ってくればいい方になっていた。香は次第に情緒不安定になり、苛ついているような目をすることが多くなってきた。
部屋の片付けがうまくいかなくなったのもその頃からだった。そして翔にも辛く当たるようになっていった。
張りつめた息の中、二人は黙々と食事をこなしていた。会話は殆どない。翔は母と話がしたいらしく時々母の顔を見るが、その度に香の鋭い視線を浴びて目を伏せていた。
暫くして翔の食がとまった。お腹がふくれたという訳ではなかったのだが、この緊張に何となく耐えかねてきたのだった。まだ残っている食べ物をフォークで突き始めた。
香はそれを見逃さなかった。手にしていたコップの水を翔の顔にぶちまけた。
翔の身体が固まる。
「あんたは。食べ物で遊んじゃいけないって何度言ったらわかるの!」
香りは翔の頬に平手を喰らわせる。
翔の身体が壁の方に飛ばされる。
倒れた翔の腹を蹴り飛ばす。
何度も、何度も、翔の身体をいたぶるように…。
翔は必死に堪えていた。彼が泣くことを香りは極端に嫌っているからだった。しかし、幼い子供が堪えきれるはずはない。翔はいつの間にか泣き出していた。それを聞いた香は乱れた髪を掻きむしるとベランダから布団たたきを持ち出してきて翔の身体を打ち始めた。
「ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい…」
鳴き声の中、翔は必死に訴えた。
その声を聞いて香の手が止まった。
頭を抱え、縮こまって泣いている翔を見て、その目に涙が溢れる。床で縮まっている翔を抱き上げる。
「翔、ごめんね。ごめんね…」
香は泣きながら素用の頭を撫で、身体をさすった。
冷ややかな部屋の中、親子の泣き声が漂う。
翔は香の首に回した手に力を入れる。母が離れて行ってしまわないように必死になって…。
男は運転席側の窓を少し下げて煙草をくわえ、火をつけた。
ほどなく彼の携帯電話が鳴る。
「はい、田宮」
男は携帯電話を開いて応えた。
「やぁ、君か…」
電話の相手は親しい間柄のようだ。
田宮は二言三言世間話を電話の相手と躱した後、待っていたように本題を切り出した。
「ところで、『Red chrysanthemum』の様子はどうだい?」
「はい、特に目立った変化はありませんが、着実に『覚醒』に近づいていると思われます」
「その根拠は?」
「根拠は、マゴットとラミアの一件以来、彼女の健康状態に変化があります。貧血気味になる事も多くなりましたし、友人達とも距離を取るようになっています。彼女は自分の中の『Red chrysanthemum』を意識してきています」
その報告を聞いた田宮は革張りのシートに身を沈めて満足げに笑った。
「マゴットやラミアを送り出した甲斐があった、という訳だね」
田宮の言葉に同意しているのか、電話の向こうの相手は何も言わない。
「あともう一息だねぇ…」
田宮がそう呟いた時、電話の向こうの相手が彼に質問をしてきた。
「でも田宮様。何故この様な回りくどい行動をなさるのですか?私たちで直接働きかければ…」
「そう焦ることもないよ。それにこの際だから邪魔者を燻りだしておこうと思っている」
「邪魔者、ですか?」
「『Hunter』さ。あれらは私たちの行動の妨げとなるでしょう?」
「それでは…」
「そうさ、『Red chrysanthemum』の覚醒をじっくりと行っているのは、『Hunter』をおびき寄せるためでもあるんだ。十分に集まったところで奴らを一掃する。既に一人現れているからね」
田宮の含み笑いが車内に広がる。
「これからも監視を怠らないようにね。連絡を待っているから」
田宮はそう言うと携帯電話を切った。サイドギヤを戻し、車を発進させる。
高級車のエンジンは静かに回転数を上げ、夜の街に消えていった。
誰も居ない保健室の中、風間由香里は手にしていたスマートフォンでの通話を終えて身を包んでいた白衣を脱ぎ捨てた。
窓の外から走り去る車のライトが入ってくる。机の上に置かれたノートパソコンにシャットダウンの命令を下す。
今日も一日が終わった、由香里は深い溜息をつく。
そのとき保健室の扉が開き、向こうから美鈴達の担任の教師、福原秀樹が顔を覗かせた。
「風間先生、まだいらしたんですか?」
福原は由香里がいたことを意外だと感じたような表情をして言った。
「いえ、そろそろ帰ろうかと思っていたところです」
由香里は慌てて帰り支度をする。
「福原先生はまだ?」
「ええ、いろいろと雑用が残っていまして…」
福原は恥ずかしそうに頭を掻く。
「そうですか、それじゃあ、お先に失礼します」
由香里は福原の脇をすり抜けていく。
「お疲れ様でした」
歩いていく由香里の背中に福原は声をかけた。
団地の一室…。
三DKのダイニングで守屋香と翔は遅い夕食をとっていた。掃除が行き届いていないのか、部屋の中は物が散乱しており、流しには洗わずに捨て置かれた食器が溢れている。後ろで一つに結んだ香の髪は乱れ、白い物がちらほらと見てとれる。翔の洋服はいつ洗ったものなのか首のあたりが黒く染まっている。香は黙々と食材を口に運んでいる。翔はそんな母親にときどき目をやりながら食事をしている。
「ほら、よそ見をしているとまたこぼすよ」
面倒くさそうな口ぶりで香は言った。
「ごめんなさい…」
翔は母に親しみの目を向けていたのだが、香にそう言われて元気をなくして目を伏せた。
ここに父親の姿はなかった。単身赴任で別居生活を始めてから既に二年が過ぎていた。香の変化はその頃から始まっていた。
それまでの香は翔に対して優しかった。晴れた日などは二人で公園に行って遊んでいる姿がよく見られた。だが、夫である進が単身赴任で出て行ったあとからその様子が変わっていった。
最初の頃は進も毎週家に帰ってきていた。それが月日が経つにつれて次第に間隔が開くようになり、今では一ヶ月に一度帰ってくればいい方になっていた。香は次第に情緒不安定になり、苛ついているような目をすることが多くなってきた。
部屋の片付けがうまくいかなくなったのもその頃からだった。そして翔にも辛く当たるようになっていった。
張りつめた息の中、二人は黙々と食事をこなしていた。会話は殆どない。翔は母と話がしたいらしく時々母の顔を見るが、その度に香の鋭い視線を浴びて目を伏せていた。
暫くして翔の食がとまった。お腹がふくれたという訳ではなかったのだが、この緊張に何となく耐えかねてきたのだった。まだ残っている食べ物をフォークで突き始めた。
香はそれを見逃さなかった。手にしていたコップの水を翔の顔にぶちまけた。
翔の身体が固まる。
「あんたは。食べ物で遊んじゃいけないって何度言ったらわかるの!」
香りは翔の頬に平手を喰らわせる。
翔の身体が壁の方に飛ばされる。
倒れた翔の腹を蹴り飛ばす。
何度も、何度も、翔の身体をいたぶるように…。
翔は必死に堪えていた。彼が泣くことを香りは極端に嫌っているからだった。しかし、幼い子供が堪えきれるはずはない。翔はいつの間にか泣き出していた。それを聞いた香は乱れた髪を掻きむしるとベランダから布団たたきを持ち出してきて翔の身体を打ち始めた。
「ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい…」
鳴き声の中、翔は必死に訴えた。
その声を聞いて香の手が止まった。
頭を抱え、縮こまって泣いている翔を見て、その目に涙が溢れる。床で縮まっている翔を抱き上げる。
「翔、ごめんね。ごめんね…」
香は泣きながら素用の頭を撫で、身体をさすった。
冷ややかな部屋の中、親子の泣き声が漂う。
翔は香の首に回した手に力を入れる。母が離れて行ってしまわないように必死になって…。
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