ふるさとの抵抗
第二章
森の中
九朗はまたいつものように学校の裏手の工事現場の上を飛んでいた。いつものように今日も人間達は泥まみれになって動き回っている。その汚れは浸食してくる人間達に抵抗しているふるさとの手のように九朗の目には映った。彼らにはきっと聞こえないのだろう、彼らの操る鉄の爪が大地を削る度に叫んでいるふるさとの声が…。九朗は人間達を哀れにさえ思っていた。
ふと下を見るとあの人間が自分の方に手を振っている。一体何が面白いのだろう。あの人間は自分を見ると必ず同じ動作をしてくる。私に何を求めているのだろう?九朗はふとそう思った。
元来自分の属する種は長く人間達に嫌われてきた。ノアという人物が洪水が収まった世界に自分の先祖を放ち、その箱船に帰らなかった時から自分の種は黒い羽に覆われ、不吉な鳥とされて忌み嫌われてきた。森を追われ、街に棲み着き、人間のおこぼれを頂戴するようになってからは更に嫌われるようになった。まったく嘆かわしいことだ。
九朗は自分たちの種に対する人間達の扱いを不満に想いながら上空を旋回していた。あの人間は相変わらず手を振っている。
少し悪戯をしてやろうか、九朗は丸い瞳を輝かせながらその人間に向かって急降下をした。勢いをつけて降下して行くにつれ速度を上げていき、ぶつかりそうになる寸前で急激に速度を落とす。大きく翼を拡げてその人間の肩に何もなかったようにとまった。
その人間も、周りにいた人間達も、驚いて九朗の姿に注目する。
「おい、こいつはカラスだぜ」
年のいった男が九朗を指さす。
「吉行、お前は人間の女にはからっきしだが、動物にはもてるんだな」
別の男が言った。
どうやら九朗がとまった男は吉行というらしい。
「そんなぁ、絶望的なこといわんで下さいよ」
吉行は笑いながらそう言った。
それでも九朗が肩にとまっているのが気に入ったのか、彼の身体を空いた手で触れてくる。
九朗もそれは悪い気はしなかった。
この吉行という人間は他の人間達とはどこか違っていた。ふるさとの哀しい叫びが聞こえているような気がした。この様な人間が居るというのも九朗には新鮮な驚きだった。
「おい、お前はどこから来たんだ?」
吉行は黄色い重機に乗り込むと九朗に話しかけてきた。
だが、九朗に応えられるはずはなかった。その代わりに吉行の肩の上で大きく羽ばたいて見せた。重機には屋根がない。飛び立とうと思えばいつでも飛び立つことが出来た。だが、人間達がどのような反応を見せるのか、九朗には興味があったのであえて飛び立とうとはしなかった。
「お前、この頃よく見るよなぁ」
吉行の言葉はどこか間延びしているように聞こえる。
「そうだ、お前に名前をつけてやろう」
そう言って吉行がつけたのが「シロ」だった。
バンッ。
不意に何かで頭を殴られて美鈴は我に返った。
目を上げると福原の呆れた視線と目があった。
「あっ…」
美鈴は一瞬のうちに状況を知った。そう、今は授業中なのだ。周囲からクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「鏡、お前が授業中に居眠りなんて珍しいな」
福原が溜息混じりに言った。
「はい、あの…。すみません…」
こういうときにどう対処していいのかわからなかった美鈴はとりあえず謝ることでこの場を取り繕うことにした。
「まったく、夕べは遅くまで起きていたんだろう?」
福原は美鈴の頭を軽くこづいた。
確かに夕べは遅くまで起きていた。いや、寝かせてもらえなかった。またあの思考が頭の中に入ってきたのだ。それもかなり鮮明に…。
その思考から美鈴はその主が翔と呼ばれていることを知った。そしてその主は魔鈴が映像で送ってきた子供と同じだということもわかった。その思考は母親とおぼしき人物から何度も、何度も叩かれていた。それでも翔は必死になって声を上げることを堪えていた。ただ母親に嫌われたくないためだけに…。
母を求めるその思いは美鈴にもよくわかった。彼女の古い記憶の中に母を必死に探している自分の姿があったからだった。幼い子供が母を失うということは自らの生きる術をなくすこと。その時の美鈴はそう感じていた。それと似たような思いが翔の送ってくる思考から読み取れた。だから翔はどんなに酷いことをされても母から離れることが出来ないで居た。そういう思いが彼の思考に混ざって美鈴の中に入り込んできた。
そのあまりにも強い思考が美鈴を眠らせなかった。それだけではない。美鈴は翔の思考を仲立ちとして児童虐待の現場にいたのだ。翔の受ける痛みが美鈴の身体を走る。翔に受けた傷が美鈴の肌に浮かび上がる。美鈴は母に気づかれまいと必死に耐えた。
しかし、母に隠し通すことは出来なかった。美鈴の部屋の様子がおかしいことに気づいた美里が隣の部屋から入ってきたのだ。
「美鈴、どうしたの?」
美里はベッドの上で苦しんでいる美鈴を抱きしめた。
パジャマの裾が捲れ上がる。そこに次々と新しい傷が浮き上がる。その度に喰いしばった歯の隙間から美鈴の呻き声が漏れる。やがてそれがピークに達した時、嘘のように痛みが去った。傷が一つ、また一つと消えていく。同期していた思考が一方的に切れる。
「おかあさん…」
苦しい息の中、美鈴は母を見上げた。
「一体何があったの?」
美里の問いに美鈴は今起こったことを話した。
「おかあさん、これは虐待だわ」
美鈴は話し終えると美里に行った。
「そうね、きっとそうなんだわ」
美里もまた娘に同意した。
「何とかならないの?」
「そうね…、難しいわね」
「何故?」
「虐待はね、特定が難しいの。たとえその現場を押さえたとしても躾だといわれてしまうと手が出せない…」
美鈴は母がいつになく消極的なことに苛つきを覚えた。
「どうして?だって小さな子供が暴力をふるわれているんだよ。このままにしておいたら…」
「わかっている。でも私たちが他の人の家庭に乗り込むことは出来ないの。出来ることはこのことを通報することだけ…」
「だけど、私が経験した事なんて誰が信じるの?」
美鈴の声が心なしか沈んでいく。
「そう、誰も信じてはくれないわ。私たちの言うことなんて…」
美里の言葉は悔しさで満ちている。
美鈴の心の中にも母と同じ感情が沸き上がってくる…。
「鏡、どうした?」
福原の声で美鈴は現実の世界に引き戻された。福原が心配そうに覗き込んでいる。どうやら美鈴は暫くの間呆けていたようだった。
「先生、どこか悪いところを叩いたか?」
福原は明らかに動揺している。
「いえ、何でもありません…」
だが、美鈴はそう言うと目の前が暗くなっていくのを感じた…。
ふと下を見るとあの人間が自分の方に手を振っている。一体何が面白いのだろう。あの人間は自分を見ると必ず同じ動作をしてくる。私に何を求めているのだろう?九朗はふとそう思った。
元来自分の属する種は長く人間達に嫌われてきた。ノアという人物が洪水が収まった世界に自分の先祖を放ち、その箱船に帰らなかった時から自分の種は黒い羽に覆われ、不吉な鳥とされて忌み嫌われてきた。森を追われ、街に棲み着き、人間のおこぼれを頂戴するようになってからは更に嫌われるようになった。まったく嘆かわしいことだ。
九朗は自分たちの種に対する人間達の扱いを不満に想いながら上空を旋回していた。あの人間は相変わらず手を振っている。
少し悪戯をしてやろうか、九朗は丸い瞳を輝かせながらその人間に向かって急降下をした。勢いをつけて降下して行くにつれ速度を上げていき、ぶつかりそうになる寸前で急激に速度を落とす。大きく翼を拡げてその人間の肩に何もなかったようにとまった。
その人間も、周りにいた人間達も、驚いて九朗の姿に注目する。
「おい、こいつはカラスだぜ」
年のいった男が九朗を指さす。
「吉行、お前は人間の女にはからっきしだが、動物にはもてるんだな」
別の男が言った。
どうやら九朗がとまった男は吉行というらしい。
「そんなぁ、絶望的なこといわんで下さいよ」
吉行は笑いながらそう言った。
それでも九朗が肩にとまっているのが気に入ったのか、彼の身体を空いた手で触れてくる。
九朗もそれは悪い気はしなかった。
この吉行という人間は他の人間達とはどこか違っていた。ふるさとの哀しい叫びが聞こえているような気がした。この様な人間が居るというのも九朗には新鮮な驚きだった。
「おい、お前はどこから来たんだ?」
吉行は黄色い重機に乗り込むと九朗に話しかけてきた。
だが、九朗に応えられるはずはなかった。その代わりに吉行の肩の上で大きく羽ばたいて見せた。重機には屋根がない。飛び立とうと思えばいつでも飛び立つことが出来た。だが、人間達がどのような反応を見せるのか、九朗には興味があったのであえて飛び立とうとはしなかった。
「お前、この頃よく見るよなぁ」
吉行の言葉はどこか間延びしているように聞こえる。
「そうだ、お前に名前をつけてやろう」
そう言って吉行がつけたのが「シロ」だった。
バンッ。
不意に何かで頭を殴られて美鈴は我に返った。
目を上げると福原の呆れた視線と目があった。
「あっ…」
美鈴は一瞬のうちに状況を知った。そう、今は授業中なのだ。周囲からクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「鏡、お前が授業中に居眠りなんて珍しいな」
福原が溜息混じりに言った。
「はい、あの…。すみません…」
こういうときにどう対処していいのかわからなかった美鈴はとりあえず謝ることでこの場を取り繕うことにした。
「まったく、夕べは遅くまで起きていたんだろう?」
福原は美鈴の頭を軽くこづいた。
確かに夕べは遅くまで起きていた。いや、寝かせてもらえなかった。またあの思考が頭の中に入ってきたのだ。それもかなり鮮明に…。
その思考から美鈴はその主が翔と呼ばれていることを知った。そしてその主は魔鈴が映像で送ってきた子供と同じだということもわかった。その思考は母親とおぼしき人物から何度も、何度も叩かれていた。それでも翔は必死になって声を上げることを堪えていた。ただ母親に嫌われたくないためだけに…。
母を求めるその思いは美鈴にもよくわかった。彼女の古い記憶の中に母を必死に探している自分の姿があったからだった。幼い子供が母を失うということは自らの生きる術をなくすこと。その時の美鈴はそう感じていた。それと似たような思いが翔の送ってくる思考から読み取れた。だから翔はどんなに酷いことをされても母から離れることが出来ないで居た。そういう思いが彼の思考に混ざって美鈴の中に入り込んできた。
そのあまりにも強い思考が美鈴を眠らせなかった。それだけではない。美鈴は翔の思考を仲立ちとして児童虐待の現場にいたのだ。翔の受ける痛みが美鈴の身体を走る。翔に受けた傷が美鈴の肌に浮かび上がる。美鈴は母に気づかれまいと必死に耐えた。
しかし、母に隠し通すことは出来なかった。美鈴の部屋の様子がおかしいことに気づいた美里が隣の部屋から入ってきたのだ。
「美鈴、どうしたの?」
美里はベッドの上で苦しんでいる美鈴を抱きしめた。
パジャマの裾が捲れ上がる。そこに次々と新しい傷が浮き上がる。その度に喰いしばった歯の隙間から美鈴の呻き声が漏れる。やがてそれがピークに達した時、嘘のように痛みが去った。傷が一つ、また一つと消えていく。同期していた思考が一方的に切れる。
「おかあさん…」
苦しい息の中、美鈴は母を見上げた。
「一体何があったの?」
美里の問いに美鈴は今起こったことを話した。
「おかあさん、これは虐待だわ」
美鈴は話し終えると美里に行った。
「そうね、きっとそうなんだわ」
美里もまた娘に同意した。
「何とかならないの?」
「そうね…、難しいわね」
「何故?」
「虐待はね、特定が難しいの。たとえその現場を押さえたとしても躾だといわれてしまうと手が出せない…」
美鈴は母がいつになく消極的なことに苛つきを覚えた。
「どうして?だって小さな子供が暴力をふるわれているんだよ。このままにしておいたら…」
「わかっている。でも私たちが他の人の家庭に乗り込むことは出来ないの。出来ることはこのことを通報することだけ…」
「だけど、私が経験した事なんて誰が信じるの?」
美鈴の声が心なしか沈んでいく。
「そう、誰も信じてはくれないわ。私たちの言うことなんて…」
美里の言葉は悔しさで満ちている。
美鈴の心の中にも母と同じ感情が沸き上がってくる…。
「鏡、どうした?」
福原の声で美鈴は現実の世界に引き戻された。福原が心配そうに覗き込んでいる。どうやら美鈴は暫くの間呆けていたようだった。
「先生、どこか悪いところを叩いたか?」
福原は明らかに動揺している。
「いえ、何でもありません…」
だが、美鈴はそう言うと目の前が暗くなっていくのを感じた…。
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