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リリスの嘆き

第一章
火炎

 複数のサイレンが美しが丘中学校に響いている。銀色の防火服を着た消防士たちが校舎を舐める炎と闘っている。その外側で教師が、生徒たちが固唾を飲んでその様子を見守っている。その中で左枝は美鈴の姿を探して素早く視線を動かしている。だが、美鈴の姿は見つけられない。左枝の鼓動が高まっていく。縋るような思いが左枝の目に福原の姿を映した。ほんの数メートル先、左枝は人混みをかき分けて福原のもとに近寄った。
「先生…」
 救いを求めるような左枝の瞳が福原を見上げている。
「どうした、佐伯?]
 福原が左枝の姿を捉える。
「美鈴が、あの中に…」
 左枝が炎に包まれた校舎を指差す。福原の表情から血の気が引いていく。
 炎の中からは担架に乗せられた生徒たちが一人、また一人と運びだされてくる。どれも身動き一つしていない。
 福原の拳が細かく震えている。助ける術を持たない己に怒りを覚えているのだ。
「大丈夫だ。きっと…」
 左枝の肩に置かれた福原の手に力が込められていく…。

 煙の流れる廊下を啓介は走っていた。なんのフィルターも通していない生の煙は、啓介の喉と肺を容赦なく攻めつけてくる。それに耐えながら、啓介は教室を目指していた。
 そこには彼を選んだ『剣』があった。彼をこの皮肉な運命に引き入れた『剣』があった。
『紅い菊』と化してしまった美鈴に対して、どのような行動をとったらいいのか、啓介にはわからなかったが、彼は今、その『剣』を必要としていた。『紅い菊』に対峙できるのは、その『剣』しかなかったからだった。
 教室に近づくに連れて図書室から立ち上る煙は次第に濃くなっていく。彼の教室は三階にあったのだが、ちょうど真下の位置に図書室がある。そして爆風のせいなのか、廊下にある窓ガラスが割れている。煙はそこから入り込んできているのだ。
 啓介はポケットからハンカチを取り出すと、それを口に当てた。それでも煙はその布切れの隙間から彼の喉に入り込もうとしてくる。
 呼吸が苦しかった。しかし、彼が走る速度は落ちることはなかった。いや、むしろ増しているようにさえ思えるほどだった。
『…』
 微かな思考が啓介の脳裏をかすめた。それは冷たい、無機的なものだった。
『剣』のものだ…。
 啓介にはそれがわかった。それが自分に呼びかけているのがわかった。それが啓介に、それを欲するように働きかけているのがわかった。
(『剣』よ…)
 啓介の心が機械のようにそう呟きだした。
「『剣』よ、来い!」
 啓介が叫んだ。
 それと同時に教室にある彼のカバンから一筋の光が放たれた矢のように飛び出し、それは啓介の手に収まった。
 青い目に変わった啓介の右手に、一筋の光の剣が光っていた…。

 荒れ狂う炎の中、髪を振り乱した美鈴が立っている。炎の熱は彼女の制服を焦がし、その白い肌を焼こうとしていたが、なぜかそれ以上、彼女にふれることは叶わなかった。そう、炎はまるで美鈴の従者のように従っていたのだ。
 図書室はもはやその原形をとどめていなかった。
 あらゆる書籍は灰と化し、本棚は虚しく朽ち果てていた。そこにいたはずの数人の生徒たちは、倒れたまま動くことはなかった。そんな彼らに向かって、炎はその赤い舌を近づけていく。その様子を美鈴は残忍な視線で見つめている。その赤い瞳は倒れた生徒達を見つめている。『紅い菊』は残忍な笑みを浮かべている。
「まだだ…」
『紅い菊』は呟いた。
「まだ、足りない…」
 そう言って『紅い菊』は炎を放った。
「生命(いのち)が、まだ、足りない…」
『紅い菊』の周囲で炎が飛び散った。その爆風は、救助のために図書室の扉に近づいていた数人の消防士を吹き飛ばした。
 その様子を美鈴は暗い闇の中で見ていた。『紅い菊』の意識の底辺で美鈴はそれを見ていた。
(駄目…)
 美鈴は声を発した。
『紅い菊』に届くように声を発した。
 しかし、それは虚しく闇に吸い込まれていくだけだった。その代わりに激しい憎悪が美鈴の体の回りに渦巻き始めた。『紅い菊』の笑い声が闇の中に響く。
(駄目よ…)
 美鈴は憎悪が放つ熱に焼かれながら、それでも言葉を放ち続けた。
 彼女には外の様子がわかっていた。
『紅い菊』がその目で見て、その耳で聞き、その肌で感じているものが、『彼女』の意識を通じて、美鈴の中になだれ込んできていた。だが、彼女には、美鈴にはどうすることもできなかった。
『紅い菊』の視界の片隅で何かが動いた。『彼女』はゆっくりと視線を動かす。その先には傷ついた女子生徒が倒れていた。その生徒が弱々しくも立ち上がり、その場から逃げ出そうとしていた。
『彼女』は、それを見逃さなかった。
 周囲で燃え盛る炎を意志の力で集め、火球としてその生徒に放った。
「駄目ぇ!」
 闇の中で美鈴が叫んだが、その声はどこにも届かなかった。
 その間にも火球は女子生徒を飲み込むために進んでいく。それを見て『紅い菊』は勝ち誇ったように不気味に笑う。
 炎が女子生徒を包み、人であったものは灰と化した。
「ひっ…」
 どこからか息を飲むひきつった声が漏れでてくる。その声を『紅い菊』は聞き逃さず、再び周囲を見回し始めた。
 炎の中でいくつかの影がうずくまっている。息を潜めているのだろう、どの影も動いてはいない。
『紅い菊』は楽しげに一つの影に近づいていく。
「どこにいるのかな?子猫ちゃん?」
『彼女』の言葉はまるで歌うように流れていく。吹き荒れる風の中、うずくまった影の怯える空気の振動が『彼女』に伝わってくる。そして、その気配は確実に『紅い菊』にその源を知らせてくる。
「そこに居たのね?」
『紅い菊』の周囲に炎が集まってくる。それは火球をかたちどり放たれるのを待っている。緊張した空気があたりを支配していく…。
 そして火球は再び放たれる。
 それを悟ったのだろう、うずくまっていた人影の一つが動き始める。しかし、虚しいかなその動きは遅かった。怯えるその影に今にも火球が襲いかかろうとしていた。
 もう駄目だ。人影がそう悟ったとき、どこからか影が割り込んできた。そして火球が目の前で弾け飛んだ。
「!」
 次の瞬間、『紅い菊』は自らと敵対する者の気配を感じ取り身構えた。そして火球が弾け飛んだあたりを睨みつけた。
 そこには青い瞳をもった啓介が立ちはだかっていた。
「またお前か…」
『紅い菊』が啓介を、『伝承者』を睨みつける。しかし『伝承者』はそれには応えずに、ただ静かに青白く光る剣を構えた。それを受けて『紅い菊』もまた身構える。
「今度もまた、邪魔をするつもりか?」
 だが、『伝承者』は答えない。
「まあいいさ」
『紅い菊』はそう言うと両手を頭上に高くかざした。周囲で燃え盛っていた炎が渦を巻いてその手に吸い寄せられていく。やがて小さな火球が生まれ、それが音もなく大きくなっていく。剣を持つ『伝承者』の手に力が入る。二人の間合いが詰まっていく。
 先に動いたのは『紅い菊』だった。頭上で形成した火球を『伝承者』に向かって続け様に三つ放った。『伝承者』はそれらをすべて剣でなぎ払い、『紅い菊』に突進していく。振り下ろされる剣を紙一重で交わすと『紅い菊』は鋭くとがった爪を振り下ろす。『伝承者』はそれを軽く受け流すが、読みが甘かったのだろう、鋭い爪が『彼』の左肩をとらえる。
 制服の切れ端が飛び、『彼』の左肩が赤く染まっていく。勝ちを予測したのであろう、『紅い菊』は勝ち誇ったような微笑を浮かべると、さらに二の矢を放とうとする。その瞬間、『紅い菊』に苦悩の表情が浮かぶ。『彼女』の動きが止まる。
「また貴様か…」
 身体を拘束する力を振り切るように『紅い菊』は全身に力を込める。『彼女』の身体が激しく振るえる。
「そうよ、これ以上あなたの好きにはさせない…」
 苦悩の中から美鈴の声が聞こえてくる。
 我に返った『伝承者』が、ゆっくりと剣を振りあげていく。
「このままでは、私もお前も殺されてしまうのだぞ?」
「それでもいい。私はこれ以上あなたに暴走はさせない…」
 美鈴の決意の声が炎に消されていく。
 そして、彼女たちの身体が崩れ落ちていく。
 その光景を『伝承者』はじっと見ていた。『彼』の中の殺意が消えていき、啓介の意識が浮かび上がってくる。
 『彼』は『彼女』の身体を抱き上げた…。
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