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リリスの嘆き

第二章
許されざるもの

 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか、病院の堅いベッドの上で美鈴は目覚めた。窓辺から射し込んでくる光は太陽が発するものではなく、人工的に作られたそれに変わっていた。身体のあちこちがひりひりと痛む。それを発する方を見ると白いガーゼがテープで留められている。
(私はなぜ、ここにいるのだろう?)
 美鈴には何が起こったのかわからなかった。何故怪我をしているのかわからなかった。
 ふとベッドサイドに目をやると、そこには美里の姿があった。見ると目が真っ赤にはれている。
 最近はよく病院のベッドの上で目覚めることが多い。ぼんやりとした意識の中で美鈴はそう思った。だが、どうしてそういうことになってしまうのか、彼女にはその記憶がなかった。それだけではない。記憶のいくつかが失われていて過去との連続性が途切れてしまっているところもあることに気づいた。そして今もまた、自分が何故ここにいるのかがわからなかった。
「あら、目が覚めたの?」
 ベッドサイドにいる美里がじっとこちらを見ている。
「うん、あたしは何故…」
 そこまで口にして美鈴はハッとした。
 声が出ないのだ。口から出されるのはただの空気の流れだけだった。
 美鈴に衝撃が走った。
 それを察したかのように、美里が枕元に近づいてきた。
「大丈夫、暫くすれば元のように声がでるそうよ。気管に軽い火傷があるそうだから…」
 その声は幼い子供を諭すようなものだった。
 美鈴には、自分が何故火傷をしてしまったのかがわからなかった。今日一日の記憶さえ彼女にはなかったからだった。美鈴の目に一筋の涙が走った。
 美里の手が彼女の娘の額にそっと触れる。暖かなその感触は美鈴にとってとても安らげるものだった。その瞳はまっすぐに美里の方に向けられた。それはあの疑惑に満ちたものではなく、それ以前のものだった。
 それは美里の心を安らかにした。
 もしこれまでのような瞳を向けられていれば、やがては本当のことを話さなければならないときが来てしまうのだろう、美里にはそれが気がかりだった。
 確かに、彼女は目の前にいる娘の本当の母親を知った。それは以外にも彼女たちの近くにいるのも知った。だが、それはとても話せるものではなかった。その事実を話してしまえば、間違えなくその事実は美鈴の心を壊してしまうだろう。
 それだけは避けたい、美里はそう思っていた。
 今、まっすぐに自分を見つめる美鈴は、そのことを忘れてしまっているように思える。その事実は美里の心を救っていた。決して思ってはいけないことなのだが、美里はこのまま美鈴の記憶が戻らなければいいとも思っていた。
 そんなことを思っていたとき、ベッドの周りを囲んでいたカーテンが開けられ、小島と恵が現れた。二人は軽く会釈を行い、美里は二人を病室の外の廊下に促した。
「それで、娘さんの容態はいかがですか?」
 廊下の壁に身を預けて、小島は静かに言った。
「ええ、おかげさまで先ほど目を覚ましました。でも…」
「でも?」
「声が出ないんです。主治医の話だと一時的にそうなってしまうことがあるんだそうです」
 美里の言葉に小島の顔が曇った。
「声が出ない? 一時的に?」
「ええ、気管を火傷するとそうなるそうです。気道熱傷というらしいのですが…」
「筆談、というのも今は難しいでしょうなぁ」
 小島は自然に頭を掻く動作をした。
「まだ意識が戻ったばかりですから…」
 美里は目を伏せている。肩が微かに振るえている。
「そうですなぁ、今は難しいでしょう。また出直してきますわ」
 小島はそういうと一礼した。恵がそれに続く。二人はそうして今来た道を再び歩き始めた。
「小島さん、いいんですか?」
 長い廊下を歩きながら、恵は小島の背中に向かっていった。足早に彼女は歩き、小島と並んだ。
「何が?」
「彼女の話を聞かないことが、です。助かった生徒たちの話を聞くと…」
「彼女が火をつけたっていうことだろう? それも常識をはずれた方法で…」
 小島はふと足を止めて大きな溜息をついた。そんな彼に向き合うように恵も立ち止まった。
「それが本当ならば、俺たちの手の及ぶものじゃないっていうことだ」
「今までは…、ですよね?」
「そうだ、特殊犯罪捜査係なんてものに関わっちまったからなぁ」
 小島は言い捨てると何かを振り落とすように頭を掻いた。恵は小さく溜息をつくと確かめるように小島に向かって小首を傾げた。その表情が幼い子供のように見え、小島は思わず笑った。恵もまた、それにつられるように思わず吹き出した。
「何にしても…」
 心の中に渦巻いていた藻のが吹っ切れたような小島の言葉が恵に届いた。
「俺たちのすべきことは、あの子を捕まえることじゃない。あの子が引き起こす災いを少しでも小さくとどめることだ」
「ええ、あの話が本当だとしたら、彼女には罪はないんですものね」
 夕暮れの寂しい日差しの中、二人は駐車場に停めてある覆面パトカーに向かって歩いていった。

「よう『伝承者』。何浮かない顔をしているんだ?」
 黒いSRを停めて、横尾は河原に座り込んでいる啓介に向かって言った。啓介は声のした方を一別すると再び水面に視線を戻した。今は関わりあいたくない、そんな無言の意思表示だった。だが、横尾はそんなことにはお構いなしにSRのサイドスタンドを立てると啓介の方に歩いていく。
「何をいじけているんだ?」
 啓介の隣に座り込むと、横尾は視線を合わせてくる。
「別に、あなたには関係のないことでしょう?」
 啓介はその視線を無視し続ける。
「そんなことはないさ。『紅い菊』が暴走しかけたんだからな」
 横尾の投げた小石が水面を跳ねていく。
「僕は何も出来なかった。あんな美鈴を前にして…」
「何が出来るって言うんだ? あれは人ではないんだぞ」
「そんな言い方って…」
「あれは『もの』なんだ。人の体に巣くっている人とは別の存在なんだ」
 横尾は冷たく言い放った。
 啓介はそれには納得できなかった。彼にとって美鈴は美鈴以外の何者でもなかった。幼い頃から一緒に育ってきた幼なじみだった。そして今は、これまでと違った想いの対象となっている少女だった。『もの』であるはずはない。啓介の心は横尾の言葉を否定した。
 それを見透かしたかのように、横尾は微かに笑ってみせる。
「いいものを見せようか?」
 それは啓介を挑発しているような言葉だった。
「いいもの?」
「そうだ。『紅い菊』が人ではないものだということを証明するものだ」
 横尾は一度伸びをすると、その勢いで立ち上がった。それに続いて啓介がゆっくりと立ち上がる。
「一体何を証明するっていうのですか?」
 啓介の言葉には明らかに棘があった。
「お前さんやあの子が知らない『現実』って奴を見せてやるよ」
 横尾はそう言うとSRに取り付けてあった予備のヘルメットを啓介の方に投げて寄越した。啓介は両手でそれを受け止めると、黙って深く被った。
 夕暮れの中を二人を乗せたSRが街の中心に向かって走り出した。
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