リリスの嘆き
第三章
覚醒
ここにこの世のものではない存在の訪問を受けた者がもう一人いる。
かつて吉田沙保里にそそのかされて鏡美鈴を誘拐しかけた加瀬拓哉だ。彼は今、精神鑑定の結果、とある精神病院に入院していた。
そこでの彼は隔離病棟の中にいたが、美佳のように鉄格子の中にはいなかった。いわゆる一般病棟とは変わらない相部屋の中にいたのだ。そこには隔離されているという異環境のもと、外の世界で感じるようなストレスは一切ない。十分な治療と休息が取れるのだ。
そういった中で生活してきた加瀬は、あの時自分が起こした行動に関して冷静に受け止めることができるようになってきていた。
四人部屋の加瀬の病室に他の患者の姿は見えない。完全な個室と同じような環境の中、加瀬はゆったりとした日常の中で暮らしていた。勿論、彼の更生プログラムは行われている。そういった中で彼は回復してきているのだ。
しかし、ここでそれを乱すものが現れた。
その夜、加瀬は妙に寝付けなかった。昼間は特に眠りもせず読書などで過ごしていたので、体と頭はそれなりに疲れていた。ぼんやりとした眠気さえ感じていたのだが、睡魔は彼を眠らせようとはしなかった。現実と睡眠との境目で彼の意識は浮遊していたのだ。
そこに侵入してきた『もの』がいる。
それは最初陽炎のようなゆらぎとして加瀬の前に現れた。そして、それはゆっくりと人間の輪郭を撮り始めたが、実体を見せるまでには至らなかった。しかし、ぼんやりとした加瀬の脳裏にその陽炎は言葉を送り込んできた。
(ここに来て大分経つけれども、元気かい?)
それは若い男の声だった。しかし、加瀬はそれが『もの』であることを知らなかった。
これは、何かの夢なのだろう。
その程度でしか受け止めていなかった。
そもそも加瀬は「統合失調症」で入院していた。この病は幻覚や元朝を体験するものだ。加瀬の犯罪の同期の中にあった沙帆里の魂が出現した件がこれに該当すると判断されたためだ。そのことは入院し、治療を受けていくうちに加瀬も感じるようになっていた。だから今回のことも、しばらく治まっていた幻覚や幻聴、もしくは悪夢がぶり返されたのだと彼は理解していた。
しかし、現実は違っていた。
目の前のゆらぎは消えることがなく、その声ははっきりと聞こえていた。それも目で見るものではなく、また耳で聞くものではないもの、脳裏に中に直接送り込まれるイメージとして捉えられているのだ。
(僕は夢でも幻覚でもないよ)
声は優しく語りかけてきた。
一瞬、加瀬の心の中にあの時の記憶が蘇ってきた。
「あんた、あの時の女の仲間か?」
加瀬の言葉が静かに病室の中に消えていく。
(そうでもあるし、そうでないともいえるよ)
影はそう応えた。
「今頃になって何故、俺の前に現れる?」
(そうだねぇ、君に是非とも手伝ってもらいたいことがあるんだ)
声の言葉は相変わらず優しい。しかし、その裏には残忍な気配が隠れ、それを影自身が知っているようでもあった。
「こんな場所にいる俺に何が手伝えるっていうんだ?」
加瀬もまた応じる。
(僕はこの場所から君を出してあげることができるよ。事が終わったら君は自由だ)
影のククッという笑い声が、その唇の橋から漏れだしてくる。
「自由だって?」
自由、その言葉は加瀬の耳にとても魅力的に届いた。
そう、彼が自由を奪われてからかなりの時間が経っていた。その間に彼が感じていた「症状」はかなり緩和されていた。もう健常な人々と同じレベルに達した、加瀬はそう思っていた。もう自由を手に入れてもいい頃だ…。
「本当に俺を自由にできるのか?」
加瀬の心は大きく揺らいだ。
(そうだよ。ただし僕の言うことを聞いてくれたなら、だけどね)
声の笑みは一段と高くなった。
かつて吉田沙保里にそそのかされて鏡美鈴を誘拐しかけた加瀬拓哉だ。彼は今、精神鑑定の結果、とある精神病院に入院していた。
そこでの彼は隔離病棟の中にいたが、美佳のように鉄格子の中にはいなかった。いわゆる一般病棟とは変わらない相部屋の中にいたのだ。そこには隔離されているという異環境のもと、外の世界で感じるようなストレスは一切ない。十分な治療と休息が取れるのだ。
そういった中で生活してきた加瀬は、あの時自分が起こした行動に関して冷静に受け止めることができるようになってきていた。
四人部屋の加瀬の病室に他の患者の姿は見えない。完全な個室と同じような環境の中、加瀬はゆったりとした日常の中で暮らしていた。勿論、彼の更生プログラムは行われている。そういった中で彼は回復してきているのだ。
しかし、ここでそれを乱すものが現れた。
その夜、加瀬は妙に寝付けなかった。昼間は特に眠りもせず読書などで過ごしていたので、体と頭はそれなりに疲れていた。ぼんやりとした眠気さえ感じていたのだが、睡魔は彼を眠らせようとはしなかった。現実と睡眠との境目で彼の意識は浮遊していたのだ。
そこに侵入してきた『もの』がいる。
それは最初陽炎のようなゆらぎとして加瀬の前に現れた。そして、それはゆっくりと人間の輪郭を撮り始めたが、実体を見せるまでには至らなかった。しかし、ぼんやりとした加瀬の脳裏にその陽炎は言葉を送り込んできた。
(ここに来て大分経つけれども、元気かい?)
それは若い男の声だった。しかし、加瀬はそれが『もの』であることを知らなかった。
これは、何かの夢なのだろう。
その程度でしか受け止めていなかった。
そもそも加瀬は「統合失調症」で入院していた。この病は幻覚や元朝を体験するものだ。加瀬の犯罪の同期の中にあった沙帆里の魂が出現した件がこれに該当すると判断されたためだ。そのことは入院し、治療を受けていくうちに加瀬も感じるようになっていた。だから今回のことも、しばらく治まっていた幻覚や幻聴、もしくは悪夢がぶり返されたのだと彼は理解していた。
しかし、現実は違っていた。
目の前のゆらぎは消えることがなく、その声ははっきりと聞こえていた。それも目で見るものではなく、また耳で聞くものではないもの、脳裏に中に直接送り込まれるイメージとして捉えられているのだ。
(僕は夢でも幻覚でもないよ)
声は優しく語りかけてきた。
一瞬、加瀬の心の中にあの時の記憶が蘇ってきた。
「あんた、あの時の女の仲間か?」
加瀬の言葉が静かに病室の中に消えていく。
(そうでもあるし、そうでないともいえるよ)
影はそう応えた。
「今頃になって何故、俺の前に現れる?」
(そうだねぇ、君に是非とも手伝ってもらいたいことがあるんだ)
声の言葉は相変わらず優しい。しかし、その裏には残忍な気配が隠れ、それを影自身が知っているようでもあった。
「こんな場所にいる俺に何が手伝えるっていうんだ?」
加瀬もまた応じる。
(僕はこの場所から君を出してあげることができるよ。事が終わったら君は自由だ)
影のククッという笑い声が、その唇の橋から漏れだしてくる。
「自由だって?」
自由、その言葉は加瀬の耳にとても魅力的に届いた。
そう、彼が自由を奪われてからかなりの時間が経っていた。その間に彼が感じていた「症状」はかなり緩和されていた。もう健常な人々と同じレベルに達した、加瀬はそう思っていた。もう自由を手に入れてもいい頃だ…。
「本当に俺を自由にできるのか?」
加瀬の心は大きく揺らいだ。
(そうだよ。ただし僕の言うことを聞いてくれたなら、だけどね)
声の笑みは一段と高くなった。
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