リリスの嘆き
第一章
伝承
啓介は夕方の校庭を一人歩いていた。後片付けを始めた運動部の姿がそこここに見える。まだ明るかったが、時計の針は六時を過ぎていた。あれ以来、啓介は美鈴を避けていた。自分の意志ではなかったのせよ、彼女に刃を向けてしまったのだ。罪悪感が彼の胸にはあった。
「おぅい、啓介」
啓介は不意に背後から声をかけられる。
振り向くとサッカーのユニフォームを着た義男が手を振っている。部活が終わったのだろう、タオルで流れ落ちる汗を拭いている。
啓介は手を振り返すと深い溜息をついた。
校庭に満ちている様々な声が次第に遠のいていく。
啓介は急に義男たちが羨ましくなった。彼らには自分が背負っているような運命はない。誰もが楽しみ、そして悩む普通の青春時代を謳歌している。しかし自分はそうではない。思いを寄せる美鈴の命を絶たなければならないという運命を背負っている。しかも、自分の意志とは関係なく、それを実行しようとする意思が自分の中の潜んでいる。それが彼の中に重たくのしかかっていた。
啓介はもう一度ため息をつくと再び校門の方に歩きはじめた。彼の前をラフに制服を着た女子生徒が三人、歩いている。美鈴ならああいう着方はしない、一瞬浮かんだ考えを啓介は振り払うように首を振った。
その時、校門にもたれかかっている影が啓介の視界をよぎった。その傍らには黒いオートバイがサイドスタンドで立てかけられている。そう、啓介はその男に見覚えがあった。
その男は美鈴を撃ちぬいた男そのものだった。そして彼もまた重い傷を負っていたはずだった。だが、目の前にその男がいるということは、彼もまた助かったということだった。
啓介の心の奥に憎しみの炎が生まれた。
震える右手をぎゅっと握りしめた。
啓介に気づいたのだろう、男はにこやかに右手を上げている。
啓介は気づかぬふりをしてその傍らを通りすぎようとした。
しかし、それはかなわなかった。
「よう、『伝承者』」
その男、横尾雅也は啓介のうちに潜んでいる存在の名で声をかけてきた。
それでも啓介は気づかぬふりを決め込んで通りすぎようとした。それを横尾は啓介の右手を掴み引き止めた。
「つれないじゃないか、無視するなんてさ」
横尾は努めて優しく啓介に話しかけた。
啓介は振り返ると横尾の目を睨みつけた。
「あなたと話すことなんてありません…」
啓介の言葉は震えていた。
「それに僕をその名で呼ばないでください」
彼の声は静かに横置を突き刺そうとしていた。
だが横尾にはそれは届かず、その笑顔でかわされてしまった。
「彼女は元気なのかい?」
横尾は啓介との距離を縮めようとしているのか、努めて親しげに話しかけていた。
「ええ、元気ですよ。でもそれはあなたの望んでいることじゃないでしょう?」
「まぁね、でも今日はそのことで来たんじゃぁないんだ」
そう言うと横尾は手にしていたヘルメットを啓介の前に差し出した。横尾のものはバイクのバックミラーにかけられている。これは二つ目のものだった。
「どこへ連れて行こうっていうんです?」
啓介はそれを受け取らずに言った。
「お前さんの前の『伝承者』が、この近くに住んでいると言ったらどうする?」
「前の『伝承者』?」
横尾の言葉は啓介の興味を引いた。前の『伝承者』が生きている?それは啓介が初めて聞くことだった。『伝承者』が啓介一人だけであるはずがないことは彼にもわかっていた。しかし、前の『伝承者』がまだ生きているとは思ってはいなかった。それほど近い時代に『紅い菊』と向き合った人間がいたなんて、考えもつかないことだった。
「どうだい、興味が有るんじゃないか?」
横尾を相違ってもう一度ヘルメットを差し出した。
啓介は黙ってそれを受け取った…。
「お母さん、ちょっといい?」
学校から帰ってきて私服に着替えた美鈴がパソコンに向かっている母、鏡美里に向かって神妙な顔で話しかけた。メールを送ったのだろうか、美里はマウスをクリックしてから振り返った。
「どうしたの?」
美里はにこやかに答える。
「あのさ、話があるんだけど…」
美鈴は言いにくそうに言葉を区切る。思いつめた表情だ。
「何?」
美里は無防備に娘の言葉を受ける。
美鈴は言いにくそうに目を伏せている。
「あのさ、私の両親って誰?」
その言葉は美里の体に激しい電流を走らせた。
ついにこの日が来てしまった。いつかはこうした日が来ることだと思っていたのだが、まさかこんなに早く来てしまうとは思ってもいなかった。だが、これまで美鈴に気取られるようなことをしたとは思えなかった。では、どこから美鈴はこのことを知ったのだろうか?美里の胸に疑念が浮かんだ。
「どうしたの?急にそんなことを…」
美里は娘の言葉を一度受け流すことにした。
しかし、美鈴は追及の手を緩めなかった。
「私のお父さんは交通事故で亡くなったっていってたよね?」
美鈴の声は震えている。
「何処で?何処で事故を起こしたの?」
美鈴は明らかに強く疑っていた。
その目は伏せられたまま美里を見ようともせず、その体は細かく震えていた。
「それにお母さんは、私の本当のお母さんじゃないんでしょう?」
ついに美鈴はその言葉を口にした。口に出したくはなかった。でも、どうしてもそれは通らなければならない道だと彼女の心は訴えていた。
「一体誰がそんなことを言ったの?」
美里はぎこちない笑みを美鈴に向ける。
「『紅い菊』よ…」
「『紅い菊』が?…」
それを聞いて美里の心に安堵の思いが広がっていった。
美鈴は誰かにその事実を聞いたわけではなかった。彼女のうちに潜んでいる『もの』、『紅い菊』からそのことを聞いていたのだ。確たる証拠を掴んでいるわけでもない。それならばもう少しの間、このことを伏せておくことができるのではないか?美里の胸にそんな思いが広がった。
もう一つ、美里が美鈴にこの事実を打ち明けたくない理由があった。
『紅い菊』が目覚めてから既に二年が過ぎていた。その間にそれは次第に力を強めていき、表に用意に出てこられるようになっていた。それとともに美鈴の精神状態は不安定になりつつあった。それはひとえに『紅い菊』が容易に暴走してしまうことを意味していた。
だから今は美鈴の心を刺激したくない。美里はそう思っていた。
この場はなんとか切り抜けられるかもしれない。
美里の心に希望が生まれた。
「あなたはそれを信じているの?」
美里は努めて静かに言った。
「わからない…、でも」
「『紅い菊』は『もの』なのよ。あれはあなたの体を支配したがっているの。そのためならどんなことでもするのよ」
「どんなことでも?」
「そう、アレにとってはあなたの心が不安定になることこそが都合がいいのよ。そうすればあなたを押しのけて、その体を支配できるから…」
美里の言葉を聞いて、美鈴の目が次第に美里の瞳の高さに移動していく。
「それじゃあ」
「アレの言うことに惑わされてはいけないわ」
美里はそう言うと椅子から立ち上がり、両手を大きく広げた。美鈴は少しずつその腕の中に体を収めていく。
「信じて、いいのよね?」
美里の胸の中で美鈴は潤んだ瞳を母に向けた。
「ええ、信じていいのよ」
美里は抱きしめた右の手を娘の髪にそっと置いた。
その心のなかでは罪悪感が広がって行った…。
「おぅい、啓介」
啓介は不意に背後から声をかけられる。
振り向くとサッカーのユニフォームを着た義男が手を振っている。部活が終わったのだろう、タオルで流れ落ちる汗を拭いている。
啓介は手を振り返すと深い溜息をついた。
校庭に満ちている様々な声が次第に遠のいていく。
啓介は急に義男たちが羨ましくなった。彼らには自分が背負っているような運命はない。誰もが楽しみ、そして悩む普通の青春時代を謳歌している。しかし自分はそうではない。思いを寄せる美鈴の命を絶たなければならないという運命を背負っている。しかも、自分の意志とは関係なく、それを実行しようとする意思が自分の中の潜んでいる。それが彼の中に重たくのしかかっていた。
啓介はもう一度ため息をつくと再び校門の方に歩きはじめた。彼の前をラフに制服を着た女子生徒が三人、歩いている。美鈴ならああいう着方はしない、一瞬浮かんだ考えを啓介は振り払うように首を振った。
その時、校門にもたれかかっている影が啓介の視界をよぎった。その傍らには黒いオートバイがサイドスタンドで立てかけられている。そう、啓介はその男に見覚えがあった。
その男は美鈴を撃ちぬいた男そのものだった。そして彼もまた重い傷を負っていたはずだった。だが、目の前にその男がいるということは、彼もまた助かったということだった。
啓介の心の奥に憎しみの炎が生まれた。
震える右手をぎゅっと握りしめた。
啓介に気づいたのだろう、男はにこやかに右手を上げている。
啓介は気づかぬふりをしてその傍らを通りすぎようとした。
しかし、それはかなわなかった。
「よう、『伝承者』」
その男、横尾雅也は啓介のうちに潜んでいる存在の名で声をかけてきた。
それでも啓介は気づかぬふりを決め込んで通りすぎようとした。それを横尾は啓介の右手を掴み引き止めた。
「つれないじゃないか、無視するなんてさ」
横尾は努めて優しく啓介に話しかけた。
啓介は振り返ると横尾の目を睨みつけた。
「あなたと話すことなんてありません…」
啓介の言葉は震えていた。
「それに僕をその名で呼ばないでください」
彼の声は静かに横置を突き刺そうとしていた。
だが横尾にはそれは届かず、その笑顔でかわされてしまった。
「彼女は元気なのかい?」
横尾は啓介との距離を縮めようとしているのか、努めて親しげに話しかけていた。
「ええ、元気ですよ。でもそれはあなたの望んでいることじゃないでしょう?」
「まぁね、でも今日はそのことで来たんじゃぁないんだ」
そう言うと横尾は手にしていたヘルメットを啓介の前に差し出した。横尾のものはバイクのバックミラーにかけられている。これは二つ目のものだった。
「どこへ連れて行こうっていうんです?」
啓介はそれを受け取らずに言った。
「お前さんの前の『伝承者』が、この近くに住んでいると言ったらどうする?」
「前の『伝承者』?」
横尾の言葉は啓介の興味を引いた。前の『伝承者』が生きている?それは啓介が初めて聞くことだった。『伝承者』が啓介一人だけであるはずがないことは彼にもわかっていた。しかし、前の『伝承者』がまだ生きているとは思ってはいなかった。それほど近い時代に『紅い菊』と向き合った人間がいたなんて、考えもつかないことだった。
「どうだい、興味が有るんじゃないか?」
横尾を相違ってもう一度ヘルメットを差し出した。
啓介は黙ってそれを受け取った…。
「お母さん、ちょっといい?」
学校から帰ってきて私服に着替えた美鈴がパソコンに向かっている母、鏡美里に向かって神妙な顔で話しかけた。メールを送ったのだろうか、美里はマウスをクリックしてから振り返った。
「どうしたの?」
美里はにこやかに答える。
「あのさ、話があるんだけど…」
美鈴は言いにくそうに言葉を区切る。思いつめた表情だ。
「何?」
美里は無防備に娘の言葉を受ける。
美鈴は言いにくそうに目を伏せている。
「あのさ、私の両親って誰?」
その言葉は美里の体に激しい電流を走らせた。
ついにこの日が来てしまった。いつかはこうした日が来ることだと思っていたのだが、まさかこんなに早く来てしまうとは思ってもいなかった。だが、これまで美鈴に気取られるようなことをしたとは思えなかった。では、どこから美鈴はこのことを知ったのだろうか?美里の胸に疑念が浮かんだ。
「どうしたの?急にそんなことを…」
美里は娘の言葉を一度受け流すことにした。
しかし、美鈴は追及の手を緩めなかった。
「私のお父さんは交通事故で亡くなったっていってたよね?」
美鈴の声は震えている。
「何処で?何処で事故を起こしたの?」
美鈴は明らかに強く疑っていた。
その目は伏せられたまま美里を見ようともせず、その体は細かく震えていた。
「それにお母さんは、私の本当のお母さんじゃないんでしょう?」
ついに美鈴はその言葉を口にした。口に出したくはなかった。でも、どうしてもそれは通らなければならない道だと彼女の心は訴えていた。
「一体誰がそんなことを言ったの?」
美里はぎこちない笑みを美鈴に向ける。
「『紅い菊』よ…」
「『紅い菊』が?…」
それを聞いて美里の心に安堵の思いが広がっていった。
美鈴は誰かにその事実を聞いたわけではなかった。彼女のうちに潜んでいる『もの』、『紅い菊』からそのことを聞いていたのだ。確たる証拠を掴んでいるわけでもない。それならばもう少しの間、このことを伏せておくことができるのではないか?美里の胸にそんな思いが広がった。
もう一つ、美里が美鈴にこの事実を打ち明けたくない理由があった。
『紅い菊』が目覚めてから既に二年が過ぎていた。その間にそれは次第に力を強めていき、表に用意に出てこられるようになっていた。それとともに美鈴の精神状態は不安定になりつつあった。それはひとえに『紅い菊』が容易に暴走してしまうことを意味していた。
だから今は美鈴の心を刺激したくない。美里はそう思っていた。
この場はなんとか切り抜けられるかもしれない。
美里の心に希望が生まれた。
「あなたはそれを信じているの?」
美里は努めて静かに言った。
「わからない…、でも」
「『紅い菊』は『もの』なのよ。あれはあなたの体を支配したがっているの。そのためならどんなことでもするのよ」
「どんなことでも?」
「そう、アレにとってはあなたの心が不安定になることこそが都合がいいのよ。そうすればあなたを押しのけて、その体を支配できるから…」
美里の言葉を聞いて、美鈴の目が次第に美里の瞳の高さに移動していく。
「それじゃあ」
「アレの言うことに惑わされてはいけないわ」
美里はそう言うと椅子から立ち上がり、両手を大きく広げた。美鈴は少しずつその腕の中に体を収めていく。
「信じて、いいのよね?」
美里の胸の中で美鈴は潤んだ瞳を母に向けた。
「ええ、信じていいのよ」
美里は抱きしめた右の手を娘の髪にそっと置いた。
その心のなかでは罪悪感が広がって行った…。
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