リリスの嘆き
第一章
伝承
美しが丘署の会議室、そこに小島と恵、係長の太田昌義、そして広域捜査課特殊犯罪捜査室を名乗る剣崎が顔を揃えている。十人程度がミーティングで使いそうな狭い会議室で上座に太田と剣崎、下座に小島と恵という風に向かい合った形で座り、互いに睨み合うように座っていた。いらついてでもいるのだろうか、小島の体は小刻みに震えている。いつもならそれを咎める恵だったが、今日はそれをしようとはしない。この席で取り上げられている議題に頭がいっぱいだったからだ。
「それで?どうしてあの件がここにいる警視庁の方に知られているのですか?」
刺し貫くような小島の言葉が会議室に吸い込まれていく。あの事件、キメラの件についての報告書は作られていないはずだった。それだけではない、その他の奇妙な事件についてもその情報は他に知られていないはずだった。だが、剣崎という男には情報が漏れているようだった。小島はそれが気に入らないようだ。
「それは報告が私の手に登ってきたからですよ」
剣崎は当然というように答えた。
しかし、小島の知る限りそのような報告書は作られていないはずだ。小島の視線が自然と太田の方に向いた。
「報告書は私が作った」
太田の声がそれに続く。
その声は少しばかり沈んでいるようだ。
「この街では奇妙な事件はその大小にかかわらず報告の義務を持っているんだ」
「どういうことです?」
小島が聞き返す。隣に座っている恵も鋭い視線を二人に投げている。
剣崎が咳払いを一つすると立ち上がった。
「それは昔からこの街では人とは異なるものによって引き起こされる事件が多いからです」
剣崎はしれっと言い放った。
「私たちはこの街で起きた中学生の連続殺人事件、女子中学生の頭を食い破られた不審死事件、制服警官の不審死事件、工事現場における破壊行為はこのような事件だと理解しています。このような事件は過去にも一定の期間をおいて発生しているのです」
「一定の期間だって?」
「ええ、直近では八十年前に起きています」
剣崎はそう言うと机上に置かれていた資料を手にとった。同じものは小島たちの手元にも置かれている。小島はそれを手に取ると素早くページをめくっていく。そこには剣崎の言うように奇妙な事件の記録が綴られていた。
「このように、以前からこの地域は霊的に特殊な場所と認識されてきました。資料を見てもらうとわかるようにここで起きた奇妙な事件には実際に被害が出ているものもあります。そしてこれらの事件は最終的に大規模な破壊行為によって終結しているのです」
「大規模な、ですか?」
それまで資料を読んでいた恵が視線を上げていった。
「ええ、その破壊行為を行った者を我々は『紅い菊』と呼んでいます」
「『紅い菊』?」
「少女の形をした悪魔ですよ。既にあなた達の前に現れているはずですよ?」
その言葉に小島と恵はこれまで幾度と無く遭遇してきた赤い瞳をした少女の姿を思い返した。たしかにその少女は人間離れした動作をして異形の者たちと相対していた。それが剣崎の言う『紅い菊』なのだろうか?
二人がそう思った時、剣崎が一枚の写真を彼らの前に差し出した。
それは例のキメラ事件の際に撮られた少女の写真だった。赤い瞳を持ち、赤い髪を逆立てた少女、二人が何度となく遭遇した少女そのものだった。
「この写真は直近の事件の際に撮影されたものです。映像の中心には『紅い菊』が映しだされています」
やはりそうだったか、小島は言葉には出さなかったが深い溜息をついた。
「小島さん、よく見るとこの子…」
写真をじっと見つめていた恵がそうつぶやきかけた時、剣崎の声が会議室の中に響いた。
「そうです、この子の名は鏡美鈴、重要な観察対象です」
その言葉にはただならぬ緊迫感が滲んでいた。
都会へ向かう線路の脇に打ち捨てられたビルがそびえている。
集合住宅だったのだろうか、線路に面した壁に一定の間隔で同じようなベランダを持ったサッシが並んでいる。住民の姿は見当たらず、元は白かったであろう外壁はくすんだ色となり、枯れ果てた蔦のような植物の残骸がそこにへばりついている。建物を囲んでいるフェンスのワイヤーもところどころ綻びが見えている。
そのフェンスの脇に一台の黒いセダンが止まっている。中には三つの人影、ひとつは若く力に満ちた若者、ひとつは枯れ果てた老人、ひとつは神秘的な女性の姿が見られた。若者と老人は後ろのシートに収まっている。
「君には申し訳ないと思っているよ。でも君の他に適任者がいないんだ」
力に満ちた若者、田宮宗一が老人に囁く。その手には短くなったラークが収まっている。
運転席の女性、風間由香里はそれを嫌がりもせずにじっと前を見ている。
「いえ、気になさらないでください。私は与えられた役目を行うだけですから…」
老人は当たり前のように応える。
「アガシャラ、そう言ってくれると嬉しいよ」
田宮は影のある笑みを浮かべる。
「しかし、『Red chrysanthemum』は現れるでしょうか?」
「その点は心配しなくていい。『Red chrysanthemum』はこれまでもちゃんと現れている。おそらく覚醒も近いだろう。だから今度はより直接的に彼女に働きかけるのさ」
田宮はそう言うと数枚の写真をアガシャラと呼ばれた老人に手渡した。
「これは?」
「『Red chrysanthemum』のお友達さ。今回はこの子たちを直接狙ってもらうよ」
田宮は手にしていた小箱からラークを一本抜くとアガシャラに手渡し、火をつけた。
アガシャラは美味そうにその煙を肺の奥に吸い込んだ。
「この子たちの目の前で『Red chrysanthemum』と対峙してもらうよ。そうすればきっと彼女は覚醒するはずなんだ」
田宮は革張りのシートに身を沈めてアガシャラの様子を見つめている。
アガシャラは何も言わずにただ煙草の煙を弄んでいる。
ルームミラーからその様子を見つめている由香里は田宮の言葉の意味を静かに飲み込んだ。田宮はアガシャラに対して死を宣告しているのだ。『Red chrysanthemum』を覚醒させるためにはまだ膨大な精神エネルギーが必要になる。それを一気に手に入れるためにはアガシャラの命と引き換えにしなければならない。後部シートの二人はそれを十分に理解していた。そしてアガシャラはそれに抗おうとはしていなかった。
「それでいつ私は行動に移ればいいのですか?」
アガシャラは短くなったラークを社内の吸殻に押し付けると深い溜息をついた。
「人間たちの動きが気になるんだ。少し待っていてくれないか。なに、二、三日で蹴りがつくと思うから」
田宮はそう言うとルームミラー越しに由香里の目を見た。
由香里は黙って頷く。
「それまでの間、力を溜めておいておくれ。人の二、三人捕食してもいいからさ」
田宮の目が不気味に光る。
アガシャラは不敵な笑みを浮かべると静かにセダンのドアを開いて陽の傾いた街並みにに消えていった。
黒いSR400は街の北側の外れに停まっていた。更に北の方にはまるで外から入ってくるものを拒むように里山が連なっている。そいうえば、この街の周辺は皆、里山が連なっていて街をぐるりと囲んでいるような景色だ。この場所は少なくなった田園風景を今も残している。まるで街の侵食を拒んでいるようだった。
啓介は結局横尾の提案を受け入れてこの場所に立っていた。横尾の言う前の『伝承者』の話を聞くことで自分の背負った運命を少しでも変えることができないかと考えたからだった。少しでもこの運命を変えることが出来れば美鈴を救うことができるかもしれない。微かな希望に啓介は賭けてみようと思ったのだ。
そんな思いを見透かしているのだろうか、横尾は啓介の手からヘルメットを受け取るとバイクのバックミラーに被せて付いて来るようにと手招きをして歩き出し、一件の古びた小さな民家に入っていった。家を囲んでいる生垣を通り抜けるとき、啓介は微かな違和感を感じた。弱い結界が張られている。啓介はすぐにその正体を悟った。
その家はとても古かった。
建てられてから百年近くは過ぎているだろうか、茅葺屋根の家の木が露出している部分は黒く光っていた。手入れが行き届いている証拠だ、啓介はそう感じた。
その家の縁側に一人の老人が座っている。老人は近づいてくる横尾に気づいたのだろう微笑んで手を上げていた。
彼が以前の『伝承者』なのだろうと啓介は思った。
「やあ、蓮見さん。今日は連れがいるんだ」
横尾は穏やかな声で老人に話しかけた。
蓮見と呼ばれた老人が啓介の方を見る。啓介は軽く頭を下げる。
「この子が今の?…」
「『伝承者』ですよ」
横尾は蓮見の隣に腰を掛ける。
「榊啓介です」
啓介はもう一度頭を下げる。
「そうか、榊さん所の子か」
蓮見は遠くを見るような視線で啓介を見る。
「父をご存知で?」
「直接会ったことはないんだ。風の噂で『伝承者』の子を持ったと聞いたものでね」
蓮見は辛そうな咳を何度かする。胸が大きく動く。
「それで、今日はあなたの『伝承者』としての記憶のことを伺いに来たのです」
横尾は相変わらず丁寧な応対をしている。啓介はこんな横尾を見たことがなかった。
「『伝承者』のことを?」
「ええ、あなたと『紅い菊』のことです」
「こんな老いぼれの話がなんの役に立つのですかな?」
蓮見はそう言って横尾の顔をのぞき込んだ。その顔はどこか悲しげに写った。そんな蓮見に横尾は微かに頷いて見せた。
「あれはもう何十年前になるか…」
遠い空を眺めながら蓮見は遠い過去を思い出しながら言葉を放ち始めた。
それはあの世界大戦の前のこと、この土地に『紅い菊』は現れた。それと時を同じくするように『もの』による事件が繰り返し起こった。その中で蓮見は思いを寄せる女生徒が『紅い菊』であると気づいた。『伝承者』としての定めを負っていた蓮見は己の恋心と与えられた使命との間で板挟みになった。そして『紅い菊』が覚醒し、暴走をした時、蓮見は使命をとった。蓮見は与えられていた剣で『紅い菊』を貫いたのだ。
「今でもその時の判断は間違っていないと思う…」
蓮見の言葉は暮れかかる空気に吸い込まれ、消えていく。
「それで、『紅い菊』はどうなったのですか?」
啓介の言葉が静かに蓮見の胸を貫く。
「死んだよ。穏やかな最期だった…」
蓮見は静かに答えた。
やはりあの時『紅い菊』が言ったことは本当だったのだ。使命を全うすれば美鈴の命を奪うことになる。それは避けられないのだ。啓介はそれを思い知らされた。ならばその時、自分はどういう行動をとるのだろうか?
「その時、あなたには迷いはなかったのですか?」
啓介はずっと抱いている思いをそのまま蓮見にぶつけた。
「迷いは…、あったさ。何しろ心を通い合わせ、深い血の絆があったからな…」
心のなかに深い傷があるのだろう、蓮見は言葉をつまらせながらも言い切った。しかし、最後には流れる涙が言葉に勝ってしまった。
横尾は震えている蓮見に近づいてその手を彼の肩にのせた。
蓮見の嗚咽が次第に大きくなる。
その姿を見て啓介は自分の将来の姿を見ているような気持ちになっていった。
「ひとりの…」
不意に嗚咽の中から蓮見の言葉が漏れでた。
「一人の幸せよりも多数の幸せのほうが優先されたからだ…」
その言葉は啓介の胸に重く突き刺さった。そうだ、美鈴を生かしておきたいという気持ちは自分の幸せを求めているだけなのだろう。すべてを破壊すると言われている『紅い菊』は滅ぼさなければならない存在なのだ。だが、心を通わせてしまった自分にはそれを行うことは身を切られるように辛い。自分はなぜ心を通わせてしまったのだろう。そうでなければこれほど辛いことはなかったのに…。
啓介は改めて自分の運命を呪った。
「そうだ、お前さんの考えは単に甘えにすぎないんだ」
横尾の言葉が更に啓介を追い詰めていった。
「それで?どうしてあの件がここにいる警視庁の方に知られているのですか?」
刺し貫くような小島の言葉が会議室に吸い込まれていく。あの事件、キメラの件についての報告書は作られていないはずだった。それだけではない、その他の奇妙な事件についてもその情報は他に知られていないはずだった。だが、剣崎という男には情報が漏れているようだった。小島はそれが気に入らないようだ。
「それは報告が私の手に登ってきたからですよ」
剣崎は当然というように答えた。
しかし、小島の知る限りそのような報告書は作られていないはずだ。小島の視線が自然と太田の方に向いた。
「報告書は私が作った」
太田の声がそれに続く。
その声は少しばかり沈んでいるようだ。
「この街では奇妙な事件はその大小にかかわらず報告の義務を持っているんだ」
「どういうことです?」
小島が聞き返す。隣に座っている恵も鋭い視線を二人に投げている。
剣崎が咳払いを一つすると立ち上がった。
「それは昔からこの街では人とは異なるものによって引き起こされる事件が多いからです」
剣崎はしれっと言い放った。
「私たちはこの街で起きた中学生の連続殺人事件、女子中学生の頭を食い破られた不審死事件、制服警官の不審死事件、工事現場における破壊行為はこのような事件だと理解しています。このような事件は過去にも一定の期間をおいて発生しているのです」
「一定の期間だって?」
「ええ、直近では八十年前に起きています」
剣崎はそう言うと机上に置かれていた資料を手にとった。同じものは小島たちの手元にも置かれている。小島はそれを手に取ると素早くページをめくっていく。そこには剣崎の言うように奇妙な事件の記録が綴られていた。
「このように、以前からこの地域は霊的に特殊な場所と認識されてきました。資料を見てもらうとわかるようにここで起きた奇妙な事件には実際に被害が出ているものもあります。そしてこれらの事件は最終的に大規模な破壊行為によって終結しているのです」
「大規模な、ですか?」
それまで資料を読んでいた恵が視線を上げていった。
「ええ、その破壊行為を行った者を我々は『紅い菊』と呼んでいます」
「『紅い菊』?」
「少女の形をした悪魔ですよ。既にあなた達の前に現れているはずですよ?」
その言葉に小島と恵はこれまで幾度と無く遭遇してきた赤い瞳をした少女の姿を思い返した。たしかにその少女は人間離れした動作をして異形の者たちと相対していた。それが剣崎の言う『紅い菊』なのだろうか?
二人がそう思った時、剣崎が一枚の写真を彼らの前に差し出した。
それは例のキメラ事件の際に撮られた少女の写真だった。赤い瞳を持ち、赤い髪を逆立てた少女、二人が何度となく遭遇した少女そのものだった。
「この写真は直近の事件の際に撮影されたものです。映像の中心には『紅い菊』が映しだされています」
やはりそうだったか、小島は言葉には出さなかったが深い溜息をついた。
「小島さん、よく見るとこの子…」
写真をじっと見つめていた恵がそうつぶやきかけた時、剣崎の声が会議室の中に響いた。
「そうです、この子の名は鏡美鈴、重要な観察対象です」
その言葉にはただならぬ緊迫感が滲んでいた。
都会へ向かう線路の脇に打ち捨てられたビルがそびえている。
集合住宅だったのだろうか、線路に面した壁に一定の間隔で同じようなベランダを持ったサッシが並んでいる。住民の姿は見当たらず、元は白かったであろう外壁はくすんだ色となり、枯れ果てた蔦のような植物の残骸がそこにへばりついている。建物を囲んでいるフェンスのワイヤーもところどころ綻びが見えている。
そのフェンスの脇に一台の黒いセダンが止まっている。中には三つの人影、ひとつは若く力に満ちた若者、ひとつは枯れ果てた老人、ひとつは神秘的な女性の姿が見られた。若者と老人は後ろのシートに収まっている。
「君には申し訳ないと思っているよ。でも君の他に適任者がいないんだ」
力に満ちた若者、田宮宗一が老人に囁く。その手には短くなったラークが収まっている。
運転席の女性、風間由香里はそれを嫌がりもせずにじっと前を見ている。
「いえ、気になさらないでください。私は与えられた役目を行うだけですから…」
老人は当たり前のように応える。
「アガシャラ、そう言ってくれると嬉しいよ」
田宮は影のある笑みを浮かべる。
「しかし、『Red chrysanthemum』は現れるでしょうか?」
「その点は心配しなくていい。『Red chrysanthemum』はこれまでもちゃんと現れている。おそらく覚醒も近いだろう。だから今度はより直接的に彼女に働きかけるのさ」
田宮はそう言うと数枚の写真をアガシャラと呼ばれた老人に手渡した。
「これは?」
「『Red chrysanthemum』のお友達さ。今回はこの子たちを直接狙ってもらうよ」
田宮は手にしていた小箱からラークを一本抜くとアガシャラに手渡し、火をつけた。
アガシャラは美味そうにその煙を肺の奥に吸い込んだ。
「この子たちの目の前で『Red chrysanthemum』と対峙してもらうよ。そうすればきっと彼女は覚醒するはずなんだ」
田宮は革張りのシートに身を沈めてアガシャラの様子を見つめている。
アガシャラは何も言わずにただ煙草の煙を弄んでいる。
ルームミラーからその様子を見つめている由香里は田宮の言葉の意味を静かに飲み込んだ。田宮はアガシャラに対して死を宣告しているのだ。『Red chrysanthemum』を覚醒させるためにはまだ膨大な精神エネルギーが必要になる。それを一気に手に入れるためにはアガシャラの命と引き換えにしなければならない。後部シートの二人はそれを十分に理解していた。そしてアガシャラはそれに抗おうとはしていなかった。
「それでいつ私は行動に移ればいいのですか?」
アガシャラは短くなったラークを社内の吸殻に押し付けると深い溜息をついた。
「人間たちの動きが気になるんだ。少し待っていてくれないか。なに、二、三日で蹴りがつくと思うから」
田宮はそう言うとルームミラー越しに由香里の目を見た。
由香里は黙って頷く。
「それまでの間、力を溜めておいておくれ。人の二、三人捕食してもいいからさ」
田宮の目が不気味に光る。
アガシャラは不敵な笑みを浮かべると静かにセダンのドアを開いて陽の傾いた街並みにに消えていった。
黒いSR400は街の北側の外れに停まっていた。更に北の方にはまるで外から入ってくるものを拒むように里山が連なっている。そいうえば、この街の周辺は皆、里山が連なっていて街をぐるりと囲んでいるような景色だ。この場所は少なくなった田園風景を今も残している。まるで街の侵食を拒んでいるようだった。
啓介は結局横尾の提案を受け入れてこの場所に立っていた。横尾の言う前の『伝承者』の話を聞くことで自分の背負った運命を少しでも変えることができないかと考えたからだった。少しでもこの運命を変えることが出来れば美鈴を救うことができるかもしれない。微かな希望に啓介は賭けてみようと思ったのだ。
そんな思いを見透かしているのだろうか、横尾は啓介の手からヘルメットを受け取るとバイクのバックミラーに被せて付いて来るようにと手招きをして歩き出し、一件の古びた小さな民家に入っていった。家を囲んでいる生垣を通り抜けるとき、啓介は微かな違和感を感じた。弱い結界が張られている。啓介はすぐにその正体を悟った。
その家はとても古かった。
建てられてから百年近くは過ぎているだろうか、茅葺屋根の家の木が露出している部分は黒く光っていた。手入れが行き届いている証拠だ、啓介はそう感じた。
その家の縁側に一人の老人が座っている。老人は近づいてくる横尾に気づいたのだろう微笑んで手を上げていた。
彼が以前の『伝承者』なのだろうと啓介は思った。
「やあ、蓮見さん。今日は連れがいるんだ」
横尾は穏やかな声で老人に話しかけた。
蓮見と呼ばれた老人が啓介の方を見る。啓介は軽く頭を下げる。
「この子が今の?…」
「『伝承者』ですよ」
横尾は蓮見の隣に腰を掛ける。
「榊啓介です」
啓介はもう一度頭を下げる。
「そうか、榊さん所の子か」
蓮見は遠くを見るような視線で啓介を見る。
「父をご存知で?」
「直接会ったことはないんだ。風の噂で『伝承者』の子を持ったと聞いたものでね」
蓮見は辛そうな咳を何度かする。胸が大きく動く。
「それで、今日はあなたの『伝承者』としての記憶のことを伺いに来たのです」
横尾は相変わらず丁寧な応対をしている。啓介はこんな横尾を見たことがなかった。
「『伝承者』のことを?」
「ええ、あなたと『紅い菊』のことです」
「こんな老いぼれの話がなんの役に立つのですかな?」
蓮見はそう言って横尾の顔をのぞき込んだ。その顔はどこか悲しげに写った。そんな蓮見に横尾は微かに頷いて見せた。
「あれはもう何十年前になるか…」
遠い空を眺めながら蓮見は遠い過去を思い出しながら言葉を放ち始めた。
それはあの世界大戦の前のこと、この土地に『紅い菊』は現れた。それと時を同じくするように『もの』による事件が繰り返し起こった。その中で蓮見は思いを寄せる女生徒が『紅い菊』であると気づいた。『伝承者』としての定めを負っていた蓮見は己の恋心と与えられた使命との間で板挟みになった。そして『紅い菊』が覚醒し、暴走をした時、蓮見は使命をとった。蓮見は与えられていた剣で『紅い菊』を貫いたのだ。
「今でもその時の判断は間違っていないと思う…」
蓮見の言葉は暮れかかる空気に吸い込まれ、消えていく。
「それで、『紅い菊』はどうなったのですか?」
啓介の言葉が静かに蓮見の胸を貫く。
「死んだよ。穏やかな最期だった…」
蓮見は静かに答えた。
やはりあの時『紅い菊』が言ったことは本当だったのだ。使命を全うすれば美鈴の命を奪うことになる。それは避けられないのだ。啓介はそれを思い知らされた。ならばその時、自分はどういう行動をとるのだろうか?
「その時、あなたには迷いはなかったのですか?」
啓介はずっと抱いている思いをそのまま蓮見にぶつけた。
「迷いは…、あったさ。何しろ心を通い合わせ、深い血の絆があったからな…」
心のなかに深い傷があるのだろう、蓮見は言葉をつまらせながらも言い切った。しかし、最後には流れる涙が言葉に勝ってしまった。
横尾は震えている蓮見に近づいてその手を彼の肩にのせた。
蓮見の嗚咽が次第に大きくなる。
その姿を見て啓介は自分の将来の姿を見ているような気持ちになっていった。
「ひとりの…」
不意に嗚咽の中から蓮見の言葉が漏れでた。
「一人の幸せよりも多数の幸せのほうが優先されたからだ…」
その言葉は啓介の胸に重く突き刺さった。そうだ、美鈴を生かしておきたいという気持ちは自分の幸せを求めているだけなのだろう。すべてを破壊すると言われている『紅い菊』は滅ぼさなければならない存在なのだ。だが、心を通わせてしまった自分にはそれを行うことは身を切られるように辛い。自分はなぜ心を通わせてしまったのだろう。そうでなければこれほど辛いことはなかったのに…。
啓介は改めて自分の運命を呪った。
「そうだ、お前さんの考えは単に甘えにすぎないんだ」
横尾の言葉が更に啓介を追い詰めていった。
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