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踏みにじられた生命

第二章
朝の風景

 翌朝、重い足取りで美鈴は学校に向かっていた。街路樹が歩道に影を落とし、鳥の囀りが辺りから聞こえてきている。爽やかな朝だった。いつもと何も変わらない…。けれども今日は美鈴は学校に行きたくなかった。嫌なざわめきを感じるのだ、学校の方角から…。 なんだか憂鬱な気分だった。
 そんなとき、
「みーさと!」
 不意に後ろから肩を叩かれた。思った通りそこには佐枝が笑っていた。
「何沈んでるのよ?」
佐枝は美鈴を覗き込むようにして言った。
「別に、何でもないよ」
 美鈴は佐枝の言葉を受け流した。
「なら、早く行こう。遅刻しちゃうよ」
 佐枝は手を差し出して美鈴を引っ張っていく。五分ほど過ぎた頃だろうか、美鈴は辺りが騒がしいのに気づいた。そして、ざわめきの正体を知った。校門付近が騒がしかったのだ。何台もの車両、昭明、カメラ、マイク、スタッフにレポーターらしい人物などが集まっていたのだ。目的は分かっている。昨日の事件のことを伝えたいのだろう。だがこの時間だ、朝の報道番組ではなく興味本位のワイドショーだろう。
 美鈴と佐枝はこの人混みを掻き分けるようにして校門を潜った。その間に何本のマイクと幾つの質問が二人を襲ってきたのだろう、美鈴はそれらの無神経な言葉の矢を無視して歩き続けた。
 こういう人混みが美鈴は苦手なのだ。
 普段は何の興味も持たないのに、何かあった時だけにまるで死肉に集まるハイエナのようにどこからともなく沸いてきて群れをなす。それも他人の幸福には目もくれず不幸な時にだけ興味を示す。
 人の醜い部分が嫌いだった。
 そんな美鈴の表情とは裏腹に佐枝は興味深そうに周囲を眺めていた。
「あれ、昨日のことで集まっているのかな?」
「多分そうでしょう、でも私達には関係ない」
 美鈴は佐枝を引っ張るように校舎に向かった。その表情には怒りのようなものが浮かんでいた。
 二人は上履きに履き替え階段に向かう。廊下も階段も生徒達で溢れていて騒がしかった。話題は校門のところの報道陣のことだった。 誰もが興味を持っていた。
 毎日同じことの繰り返しの日常の中で充分な刺激なのだ。数人はインタビューに応えていたようだ。そのことを自慢げに話す者やそれを羨ましく思う者の言葉で溢れている。
 皆、興奮していた。
 それは教室に入っても同じことだった。
(人が一人、死んでいるっていうのに…)
 美鈴は溜息をついて窓側の席に着いて、確認するように窓の外を見下ろした。数台の車両はテレビ局の者ものだった。その中に新聞社、週刊誌の記者達が紛れているようだ。
 佐枝はまだ興奮しているようだ。背中越しに彼女の気配が感じられる。
「おい、お前らもインタビュー受けたのか?」
 校門前のざわめきのことを言っているのだろう、義男が二人に近づいてきた。その表情は興奮していることを隠しきれずにいた。
「杉山君、あなたまさか受けたの?」
「当たり前だろう?テレビに出られるチャンスなんだから」
 当然のことだと言いたげに義男は答えた。
 後ろの席で佐枝が同意するように首を縦に振る。
「呆れた、人が一人死んでいるんだよ」
 美鈴は義男を睨みつける。
 義男は脅えたような仕草をした。勿論本気ではない。
「啓介は受けなかったんでしょうね?」
 美鈴はそこから離れている自分の席に鞄を置いたばかりの啓介に視線を移した。
「いや、俺は受けていない」
 啓介は不機嫌そうに答えた。
「まったく、鏡は真面目なんだからな」
 義男はそう言い捨てて自分の席に戻っていった。美鈴は呆れたように義男の動きを追った。。その後に彼女は視線を移し、三上響子の席だったところを見た。今朝は何の気配も感じられない。昨日の影は微塵も見えなかった。
 ショートホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。暫くして担任の野本と副担任の恵子が入ってきた。彼らの姿を見ても教室内の興奮は修まらなかった。
「ほぉら、静かにしてくれ!」
 野本が出席簿を教壇に打ち付けた。
 教室内が次第に静かになっていく。
「みんなももう分かっているように昨日のことで報道の人達が集まっているが、それに振り回されないようにいつもの通りにしてくれ」 
 野本は教室中に聞こえるように声を高くして言った。
 恵子はその隣で静かに佇んでいる。
 やっと日常が戻ってくる、美鈴は静かに心の中でそう言った。

「やはり目撃者は無かったか」
昨夜の小島の行動の報告を聞いて係長の太田昌義は溜息をついた。口の中で棒付きのキャンデーを弄んでいる。二年前に煙草をやめてから始まった彼の癖である。また、彼に言わせれば食事が美味しくなったということだった。そのせいか、彼は日を追うごとに体重を増やしているようだ。
 こうなってしまうくらいなら、煙草はやめないな、小島は太田の姿を見るといつも思っていた。
「死亡推定時刻に現場辺りを歩いている人が数人いるのですが、何も見ていないということです」
 小島の背後から恵が言った。
「どういうことなんだ?」
 太田が恵の方を見る。
「本当に見ていないのか、口裏を合わせているのか、判りません」
「けれども彼らには何の共通点もありませんし、口裏を合わせる意味もありません」
 小島が応える。
「ならば、関わり合いたくない、ということか?」
 太田が付近の聞き取りをしていた刑事に視線を投げる。
「ええ、夜になるとあの辺りには数人の不良グループが集まっているようですからね」
 視線を受けた刑事が答えた。
「その不良グループの聞き取りは済んでいるのか?」
「いえ、まだですが。生活安全課の協力をもらって早い内に確認する予定です」
「どのくらいかかる?」
「二、三日でしょう」
「よし、そっちは任せた」
 太田に指示された刑事は直ぐさま駆けだしていく。
「首を絞めて木に吊り下げているのですから、相当な時間が掛かっているはずです、誰かが見ていても可笑しくない」
 太田が昨晩の小島の言葉をなぞるようにいった。両手で後頭部を支え、椅子に体を預けた。
「ところで、不審者の方はどうなっている?」
「はい、加瀬拓也という人物があがっています」
 別の刑事が答えた。
「どんな奴だ?」
「三十過ぎの独身、フリーター、十歳から十五歳くらいまでの女生徒が好みで、付近の小中学校では有名な奴です」
 確かに加瀬拓也は有名なストーカーだった。彼の標的になるのは主に十歳程度の女子だった。彼は気に入った標的を見つけるとそれを付け回したり、その家庭のゴミや下着などを盗み、隠し撮りを行い、彼なりのラブレターなどを送ったりしていた。 何度か被害届も出ていた。
「今日、奴のヤサに行く予定です」
 その刑事もまた、刑事課を出て行った。
「それで良さん達はどうする?」
 太田の言葉を受けて小島は考え込みながら応えた。
「今夜、被害者の通夜がありますから、行ってみます」
 恵もそれに応えるように頷いた。

 街外れ、古い二階建てのアパートが一軒建っていた。それは新しい街の美しが丘から取り残されたような一角だった。けれども家賃が安いのだろう、十部屋設けられている部屋は全て埋まっていた。各部屋の外側に十台の洗濯機が並んでいる。古い自転車やスクーターがも停められていた。
 その少し手前に一台のセダンが停まっている。車内には取り外し式のサイレンがあり、それが覆面パトカーであることが判る。内部には誰も乗っていない。
 アパートの二階の端の部屋に二人の男が息を潜めて近づいていく。更にアパートの裏手には二人の男が控えていた。
 一人の男が扉の横にあるポストの中を確認する。
 何も入っていない。
 耳を澄ますとかすかにテレビの音が聞こえてくる。
 加瀬拓也は中にいる。
 二人の男は頷きあう。
 意を決したようにポストとは別の位置にいた男が呼び鈴を鳴らした。
「加瀬さん、いらっしゃいますか?」
 男は警戒させないように扉の向こうに呼びかける。二回、三回、同じ動作を繰り返す。 そして四回目に呼び鈴を鳴らした時、閉ざされていた扉が少し開き、手入れのされていない長い髪と無精髭を生やした三十代の男が顔を覗かせた。
「加瀬拓也さんですね?」
「ああ、そうだけど、あんた誰?」
「美しが丘署の者です。少しお話を伺いたいのですが」
 男がそう言って警察手帳を示そうとした時、開きかけた扉が勢いよく閉められ、反対方向に走っていく音が響いた。二人の男は扉を乱暴に開くと加瀬を追うために部屋に傾れ込んだ。
 しかしその時、加瀬は窓を開け階下に飛び降りていた。その加瀬を裏手に控えていた男達が襲いかかる。加瀬はその手を振りほどき彼らとは逆の方に走っていく。
 その行く手を二階から飛び降りた男達が阻む。
 追い詰められた加瀬は自分の正面にあるフェンスに飛びつき、乗り越えようとする。その加瀬の足を男が押さえる。別の男が加瀬に飛びつき、フェンスから引き離す。三人目の男が手錠を出し、加勢の両手の自由を奪う。
「十時二十分、公務執行妨害の現行犯として逮捕する!」
 男の声が響く。

 黒板を何気なく眺めながら美鈴は溜息をついた。教室内では野本の声が響いていた。現代国語の時間だった。
 美鈴はこの科目は決して嫌いではなかった。野本が教鞭を執らなければ、である。
 野本の授業は面白いとはいえなかった。授業の進め方が単調なのである。本人はそうならないようにと考えているのだろう、時々冗談を混ぜてくる。だが、その冗談も笑えるものではなかった。内容が古いのだ。いわゆる『親父ギャグ』というものだ。
 他のクラスメートも美鈴と同じように感じているのだろう、小さな声で近くの生徒と話している者、メモ用紙にメッセージを書いて回している者、別の科目の勉強をしている者などが多かった。勿論、野本の授業を熱心に聞いている者も少なからずいた。
(早く終わらないかな)
 美鈴はもう一度溜息をついて手首に巻いた時計に目をやった。
 まだ二十分はこの退屈な時間が残っていることを時計は告げていた。
「ふう」
 また溜息。
 ふと校門の方に目をやると報道陣の姿が少し減ったように感じた。居間は授業中なので教師や生徒の話を訊くことが出来ないからなのであろう。
 ふと教室に視線を戻すと何か暖かい気配を美鈴は感じた。教室の前方、野本の隣にそれはいた。一人の上品そうな高齢の女性が暖かい視線を野本に送っていた。それはまるで成長した子供を見守っているような視線だった。
 だが、彼女の姿は誰にも見えていないようだった。
 あれは『もの』だ。
 美鈴は瞬時に感じた。
 その『もの』は穏やかで悪意は感じられなかった。
 美鈴がじっとその『もの』を見つめていると、その女性はゆっくりと美鈴を見つめ返してきた。
〈あなた、私が『見える』のね?〉
『もの』の言葉が美鈴の脳裏に突然浮かんできた。その言葉は暖かいものだった。
 美鈴は小さく頷いた。
『もの』は優しく微笑んだ。
〈彼はね、私の教え子なの。成績が良い方ではなかったのだけれど、こうしてあなた方の先生になったのね。でもね、心配で時々こうして見に来ているのよ〉
 美鈴は『もの』の言葉をじっと聞いていた。
〈あなたは野本先生の…〉
〈そして、この学校の教師でもあったわ。〉
〈じゃあ野本先生は〉
〈あなたたちの先輩。だから先輩の授業をきちんと聴いてあげてね〉
『もの』は美鈴にそう伝えると静かに消えていった。
 悪意に染まっていない『もの』も存在することを美鈴は改めて知った。
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