内真部城館群
安藤氏山城遺構の構造と主な遺構 青森市の津軽半島陸奥湾沿いに、安藤氏に関連する山城跡が連なっています。そして、鎌倉幕府滅亡の一因ともなったといわれる「安藤氏の乱」の舞台でもありました。これらの山城群の中に、安藤氏の居館とされている「内真部館」があることから『内真部城館群』と呼ばれています。
南から飛鳥山館、瀬戸子館、前田蝦夷館、湯ノ沢館、内真部館・内真部山城、尻八館の城塞は、楠木正成の「千早・赤坂城塞群」に匹敵する「内真部・尻八城塞群」とするのが相応しいとされています。
この地は、平泉藤原時代に外浜支配および蝦夷交易の拠点となる地方政庁がおかれた場所であり、おそらく「奥大道」の終点として、平安時代後期~鎌倉時代後期の外浜の政治的・経済的中心であったということです。
よく知られている歴史では、「安藤氏」は十三湊を本拠地として、蝦夷や京都北部・若狭湾などの日本海を交易した北国の雄であり、藤崎から発祥したというものですが、鎌倉幕府から「蝦夷管領」(蝦夷沙汰代官)に任ぜられた安藤氏嫡宗家の最初の本拠地は、十三湊や藤崎ではなく、中世の内末部(青森市内真部)であったことが「新青森市史資料編2 古代・中世」に記載されています。
なお、青森市では、文化財保護法に基づく「周知の埋蔵文化財包蔵地」に登録されている城館跡は本山域での一部となっているため、未登録の包蔵地等の範囲を確認することを目的に、令和3年5月から令和7年10月まで「分布調査」を実施してきました。各年の調査結果は『市内遺跡発掘調査報告書』によって報告されています。その成果を別ページで各山域ごとにまとめました。→『山城分布調査』のサイトへ
※ページ名称の変更 ●このページは以前「内真部・尻八城塞群」としていました。青森市教育委員会の「市内遺跡発掘調査報告書」では、内真部城館群としていますので、本サイトでもその呼称とします。斉藤先生が提唱する「内真部・尻八城塞群」との名称の理由は、別項目に掲載します。
contents
※安藤氏に関わる福島城、唐川城に興味のある方は、こちら⇒「十三湊遺跡」
令和元年10月に斉藤利男弘前大学名誉教授が「瀬戸子館跡」を調査されて、瀬戸子館跡が安藤氏に関わる山城であることが確認されました。令和2年3月に同教授が「飛鳥山館跡」を調査され、頂部の曲輪だけではなく、山城としての規模が大きいことを確認。令和2年11月に瀬戸子館跡の北斜面段築群も確認されました。これらの調査によって、内真部城館群は、内真部館・内真部山城、湯ノ沢館、前田蝦夷館の3つの城館から、瀬戸子館、飛鳥山館までの5つに拡大しました。
その際に伺った話では、「新青森市史での内真部城館群の範囲は、内真部館、湯ノ沢館、前田蝦夷館を想定していた。内真部館と尻八館が離れていることが、尻八館を内真部城館群に含めなかった理由だった。」ということでした。それに瀬戸子館、飛鳥山館が加わってくるとなると、北の尻八館を合わせて、「尻八・内真部城塞群」※1.2とまとめることを斉藤教授は提唱されました。(※斉藤氏は2022年11月19日に、山城群の名称を『内真部・尻八城塞群』と改めて提唱した。)
これらの山城は安藤氏に関連すること、鎌倉時代に設立していただろうこと※3、が共通しています。合わせて、居館は内真部館のみ(尻八館東曲輪への居住は室町時代が想定されている)で、戦時の砦として造られていることから「城塞」群の名称が相応しいとされました。
内真部・尻八城塞群は、北は尻八館跡から、南は飛鳥山館跡まで続く7つの山々(大阪山の山城遺構の発見を加えて)※4.5にそれぞれ山城があるということになります。本サイトでの、「内真部城館群」の山域は前行と同様と扱います。
※1 鎌倉時代末期の楠木正成の千早・赤坂城は、「千早・赤坂城塞群」とまとめられている。鎌倉時代の山城として、内真部地域の山城と城の造りがよく似ていることが、新青森市史資料編2でも指摘されている。
※2 「尻八・内真部城塞群」と「千早・赤坂城塞群」との築城時期(城塞として機能した時期)は、ほぼ同じ時期であり、鎌倉時代の末期である。外浜安藤氏山城群の方がおよそ10年先行している。
※3 尻八館の西曲輪は、改修後の東曲輪と異なり古態であること知られている。なお、現状の東曲輪への登山道ではなく、溜め池方面から西曲輪(本丸跡)へ進むルートに、多数の壕道が確認され、それら壕道の形状から鎌倉時代のものだと想定できる。
※4 内真部館・内真部山城と尻八館跡の間には大阪山の山域があります。令和3年5月に大阪山の頂上から北下に位置する領域に山城遺構があることがわかりました。これで、南は飛鳥山館から北は尻八館まで、全山域に山城遺構があることになります。
※5 油川城跡は飛鳥山館跡の南に位置する。油川城跡を「内真部・尻八城塞群」に含めない理由は、築城者が安藤氏と関わりのない奥瀬氏とされていること、築城時期が採集された遺物が15~16世紀のものであり、他の山城よりも新しいことが想定されることによる。
外浜安藤氏の山城である内真部城館群は、青森県内の先駆的城館研究の小友叔雄『津軽封内城址考』(1943年)には、外ヶ浜にある安藤氏山城群の城館の記載はまったくなく、沼館愛三『津軽諸城の研究』(1945~50年調査、1978年刊行)には、内真部館が記載されているだけであり、研究者にその存在が知られたのは、それほど昔のことではありません。これは古文書にまったく記載のない「忘れ去られた城跡」であることが、その要因のようです。
《 立地 》
(1)内真部城館群の名称を「内真部・尻八」とする
※→ 山城跡タイトルをクリックすると、詳細ページにリンクします。
尻八館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線を過ぎて、蓬田村方面に向かって「六枚橋川」を渡って進むと右側に佐藤農機「クボタ」があり、その向かいの舗装道路を山側に左折。新幹線高架橋をくぐり、山際の橋を渡って右折して道なりに進みます。内真部城館群では、最も北に位置する山城です。詳しい到達方法は、尻八館跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
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尻八館は、安藤氏に関わる山城跡です。現状では「潮潟安藤氏」の城、後潟城とされています。
尻八館跡の曲輪は、二つの頂部にあり、二の丸跡との標識がある「東曲輪」と本丸跡との標識がある「西曲輪」があり、特に「東曲輪」の周りには山城遺構が顕著に見られます
本によっては、青森県郷土館の調査での名称であるⅠ郭(西)・Ⅱ郭(東)とする本もあります。
※詳しくは、別ページに写真とともに別ページにまとめてあります。⇒「尻八館跡」
南の飛鳥山館から北の尻八館の間で「山城遺構」が見つかっていないのは、大阪山だけでした。大阪山を調べる必要があったのは、内真部山城と尻八館との関係がどのようになっていたのかを探るためです。
1.内真部山城の頂部から、大阪山にかけてのルートに遺構がある。
2.尻八館の西路に壕道が続くことから、尻八館の成立時期は他の山城群と同様に鎌倉時代に遡る可能性が可能性が高い。
このことから、内真部山城から大阪山を経て、尻八館に至るルートがあったはずだと考えました。
まず、尻八館から六枚橋川へのルートは、S28年地図には、尻八館への駐車場(ため池)から、現状鉄塔下の保安路のコースが道として記載されています。よって、このルートの延長線から大阪山山頂までを2021年5月に探りました。その結果、大阪山の北側の尾根筋にある頂部の平坦地が陣地(曲輪)として、使われていたことがわかりました。大阪山の山頂付近には、尾根筋を含めて平坦地がなく、山頂から北西部にある西方に連なる領域に、山城遺構があることがわかりました。この領域はヒバ林に囲まれているため、雑木・雑草が少なく、切通しを伴う壕道が良好な形で残されています。さらに、その西にある二つの頂部が山城領域に含まれることがわかりました。
これで、飛鳥山館、瀬戸子館、前田蝦夷館、湯ノ沢館、内真部館・内真部山城、大阪山館、尻八館と7つの山々に連続して、山城が構築されていたということが判明しました。
大阪山「館」としたのは、瀬戸子館のように資料があったわけではありませんが、本地域の山城は「館」と呼ばれていることから、飛鳥山館のように合わせました。
踏査の報告として、ヤマップでの活動日記へのアドレスを貼り付けておきます。こちらで、現地写真やGPSでの軌跡で、遺構の位置などをご覧ください。
「新山城発見・大阪山登頂」⇒ https://yamap.com/activities/11218410
「大阪山西山城遺構」⇒ https://yamap.com/activities/11562794
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「大阪山館跡」
内真部館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線の北側に位置します。内真部城館群では、北から最初にある「居館と山城」です。詳しい到達方法は、内真部館跡と内真部山城跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
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内真部館跡は、奥内から五所川原に向かう県道2号線が新幹線高架橋をくぐり、眺望山に向かって左にカーブするあたりの丘陵で、標高15mの低い台地を利用して館がつくられている。
北・西の両面に上幅約9mの空堀を堀り、南西から南および東にかけては切岸(壁面を切り落としたもの)を設けて周囲から区画した、東西100~105m、南北90~95mの正方形に近い形をした居館跡である。
内真部館跡は、背面となる西側は二重堀・高低差3mとなっているものの、全体に要害性に欠け、平時の居館とみられている。また、台地の先端を占地し、段築によって平場を設けて生活面をつくり出す手法は、近隣にある内真部(4)遺跡と共通しており、平安時代末期の居館の構造を踏襲したものとみられる。そして、内真部館跡からは擦文土器が表面採取されており、平安時代後期の集落跡だったことがわかる。古代末期の集落の場所が外浜安藤氏によって継承され、居館として使用されたものであろうとされています。
新青森市史史料編古代・中世から
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「内真部館跡と内真部山城跡」
山城としての施設は、①自然地形を利用して陣所とした場所、②山下につくられた虎口と防御施設、③山下から頂上の陣所に至る途中の壕道の、三つの部分から構成される。
戦時に際してつくられた急ごしらえの城塞らしく、①は自然地形のまま、②③もつくりが粗雑で、鎌倉時代末期の「安藤氏の乱」の際に安藤季久(宗季)が構えた「城郭」の有力な候補地になる遺構である。
内真部の山城は、戦国時代の山城に比べれば非常に素朴だが、「太平記」などの軍記物に記された急ごしらえの城郭の記述とよく符合している。
鎌倉末~南北朝時代の山城がほぼそのままの形で残された可能性が高く、高い価値をもつ遺跡と評価されている。
内真部山城跡は、ふもとにある内真部館跡が「安藤氏の居館・政庁」であるのに対して、その西側(山手)の丘陵にある山城跡です。防衛機能に関する遺構を見ると、内真部城館群の山城の中で最も守りが弱い城跡です。居館の背後にある「逃げ込み城」でしょう。仮に城主がいたまま戦になったとしたら基本的には「逃げの一手」だろうと考えられます。
新青森市史資料編に関連した調査の時点では、大阪山館の存在は未発見でした。「内真部山城」は『詰めの城、大阪山館』にとっての前衛砦という性格を持つと考えられます。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「内真部館跡と内真部山城跡」
遺跡は、奥内から五所川原に向かう県道2号線が新幹線高架橋をくぐって、左に見える丘で、内真部館跡から見ると、県道と内真部川を挟んでの位置、標高9~12mの低位段丘に立地していて、なだらかな台地の先端部にいくつかの段築をもって平場をつくりだした古代~中世の集落・居館遺蹟である。
発見された遺構としては、掘立柱建物跡9棟、竪穴建物跡10棟、土坑17基、井戸跡12基、焼土遺構7基、溝跡8条がある。
小面積の発掘調査にかかわらず、多数の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、擦文土器、土師器、中国産青磁・白磁、国産陶器、さらに個体数で約30を数える平泉系の「手づくねかわらけ」を出土して注目された。
中国製の青白磁合子といった優品の陶磁器やカワラケというハレの器を出土することから、「権威」を内在した集落ないしは館とみなすことができる。 とくに多数の平泉系の「手づくねかわらけ」の出土は、平泉藤原氏との密接な関わりを推測させ、この地に平泉政権の地方政庁的な機関がおかれていた可能性もあると考えられている。
内真部の地は平泉藤原氏時代の外浜の政治的中心であった。
内真部(4)遺跡は、県道2号線を五所川原方面に向かって、右手の丘陵が内真部館跡と内真部山城跡。左手が湯ノ沢館跡のある丘陵で、その裾野に位置します。
城館の位置
湯ノ沢館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線の南側に位置します。内真部城館群では、北から2番目にある山城です。詳しい到達方法は、湯ノ沢館跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
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「内真部館跡」の南方900m、標高85mの湯ノ沢山の頂部には、周壕で囲まれた単郭の「湯ノ沢館跡」がある。館跡から南の山麓に下る堀道は現在でもはっきり確認できる。戦前の地図には尾根を下って北の内真部館跡方面へ向かう道も描かれていた。
※湯ノ沢館跡は、前田蝦夷館と湯ノ沢川(道一本)を隔てただけの隣の丘です。その道のすぐ近く、山の麓に壕道・空堀があります。さらに「新青森市史史料編 古代・中世」作成のための調査では見つかっていなかった「曲輪」や遺構が見つかりました。調査を進めて、まず南斜面の壕道が半円となっている曲輪を「南曲輪」、従来の頂部に周壕のある曲輪を「東曲輪」、その先に壕道が切り通しのようになっている「中曲輪」があることがわかりました。
さらに、湯ノ沢館山頂から真東の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「湯ノ沢館跡」
西曲輪と斜面中腹にある壕道、西方山城遺構の東方曲輪と腰曲輪・堀切状の壕道、逃げ込み城と見られる西方曲輪とあることがわかりました。
湯ノ沢館は、遺構の東西の長さから見れば、内真部城館群の中で、内真部山城、前田蝦夷館と南方山城遺構と比べてもっとも長い山城であり、飛鳥山館に匹敵するものです。これらのことからも諏訪大明神画詞に記載されている安藤季久の険阻な城は内真部館と内真部山城ではなく、「湯ノ沢館跡」を指すものと考えられます。
※斉藤先生は飛鳥山館、瀬戸子館の調査により、「諏訪大明神画詞に記載されている険阻な城」は、特定の山城ではなく、飛鳥山館から尻八館までの山城群全域を指すものとされています。
※そして、新たに発見された湯ノ沢館跡の西方にある山城遺構を、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「湯ノ沢館・西方山城遺構」

前田蝦夷館跡のある丘陵 写真中央のピークから左側の丘にある
城館の位置
前田蝦夷館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立奥内小学校(令和2年度から北小学校)の真西に位置します。内真部城館群では、北から3番目にある山城です。詳しい到達方法は、前田蝦夷館跡詳細ページのアプローチでご確認ください。
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前田蝦夷館跡は、このサイトで紹介している「蝦夷館山守護神御堂」の後の丘陵北側の尾根にある。前田蝦夷館跡の北側の山裾を「湯の沢」が流れている。
標高50~40mの丘陵先端部を占地し、南北120m・東西20~55mを二重の周壕(一部は一重)で囲み、その中に南北二つの曲輪と中間の曲輪を設けた城郭である。
前田蝦夷館のつくりで特徴的なのは、城郭をめぐる周堀が「堀」というより、斜面を削って切岸と腰曲輪(斜面の中腹に設けた曲輪)をつくり、腰曲輪の縁辺に土を盛って堀状にしたものであり、このため、切岸の高さも3~4mと高く、5mに達する場所もある。
前田蝦夷館は内真部城館群の中でひときわ堅固で、規模は大きくないとはいえ、戦乱の長期化の中で建設された本格的城郭とみえる。前田蝦夷館とその南に広がる「南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ」は、安藤氏の乱の長期化の中か、南北朝動乱の中で構築され、利用されたものではないかと考えられている。
また、前田蝦夷館跡から東南へ約200m離れた丘陵東山麓には、段築によって多くの平場をつくりだした場所「平場状遺構」があり、同時代の城館遺跡とみられる。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「前田蝦夷館跡」
※南方山城遺構Ⅰ・Ⅱは、前田蝦夷館と組み合わせて、使用できる構造・配置となっています。
※詳しくは別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「前田蝦夷館・南方山城遺構」

瀬戸子館跡のある丘陵 写真の左にある丘陵には飛鳥山館跡がある。
城館の位置
瀬戸子館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立西田沢小学校(令和2年度から廃校)の真西から少し北よりに位置します。内真部城館群では、北から4番目にある山城です。詳しい到達方法は、瀬戸子館跡詳細ページのアプローチで確認してください。
《 内真部城館群 》は、北から「内真部館+内真部山城跡」、次の山に「湯ノ沢館跡」、その次ぎに「前田蝦夷館跡」があり、そしてもっとも南に「飛鳥山館跡」が遺構として知られています。実はこれまで、前田蝦夷館と飛鳥山館の間にある山には、山城遺構はないとされていました。それぞれの城跡の調査が進み、その規模が把握できた段階で、「どうしてこの山には城跡がないのだろう?」と逆に不思議に思うようになってきました。
『瀬戸子八幡宮の位置する山にも城館があったのではないのか?』
平成30年の晩秋に「瀬戸子八幡宮のある山にも壕道がある」ことがわかり、詳しい状況把握は翌年度に持ち越していました。壕道があるとすれば、曲輪もあるのだろうか。曲輪のある「館・楯」なのか「山城遺構」と扱うべきものなのか。これらが当面の課題でした。
* * *
現在の探索状況から、曲輪は5つ存在することがわかりました。
よって遺構の名称を「瀬戸子館」とします。瀬戸子館という名称は、明治初期の地元の絵図面にも「瀬戸子館」という枝村が書かれていることからも妥当でしょう。
確認しますが、この山城遺構は、現在把握されていない新発見となります。城の性格は飛鳥山館と前田蝦夷館の支援にあるとみています。
瀬戸子館の存在により、安藤氏は青森市北部の陸奥湾に面した内真部地区から飛鳥地区の全山に砦を築いていたことになり、内真部城館郡の価値が格段に高まるものと考えています。さらに、瀬戸子館の東尾根(海側)の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※簡単なアプローチ
瀬戸子館跡は、瀬戸子八幡宮の参道を登っての稲荷大明神に向かって右脇から斜面に入る。右手方向に伐採された尾根すじを登って行くと正面に、まるで「堀切り」のような大きな堀道にぶつかります。この堀道の向いの高台が「一の曲輪」です。
※H20.12.4の北部市民センター、油川地域史研究会木村慎一氏の講座資料に「明治初期のものと考えられる古地図」がありました。その中に瀬戸子村の枝村として「瀬戸子館村」という地名が書かれていることがわかりました。つまり、その当時は瀬戸子に山城跡があることが認識されていたものと考えられます。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「瀬戸子館跡」
飛鳥山館跡のある丘陵=飛鳥山 飛鳥山の南方に油川城址がある
城館の位置
飛鳥山館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立西田沢小学校(令和2年度から廃校)の真西に位置します。内真部城館群では、北から5番目にある山城です。詳しい到達方法は、飛鳥山館跡詳細ページのアプローチで確認してください。
前田蝦夷館跡から南に2.7kmの飛鳥山の頂上にも周壕をめぐらした単郭の館跡「飛鳥山館跡」があり、山頂の館跡に至る山腹には土塁をともなった壕道らしき遺構がみられる。
新青森市史史料編古代・中世から
飛鳥山の頂上には周壕があり、そこから東方面(海)へ下る壕道と、西方面に下る壕道があります。
西方面への壕道は、飛鳥山の尾根すじに向かって降りていて、途中から南へ下りふもとまで続いていきます。この西壕道は送電線鉄塔保安路に2箇所分断されてはいますが、山頂からふもとまでほぼ完全な形で残されています。
飛鳥山へ東方面から登ると、約200mで、壕道にぶつかります。左手方向に登ると山頂に続いていきます。右手方向(北)に進むと、瀬戸子八幡宮の鳥居が正面となる高台に出ます。この高台を見張り台にしていたと考えられます。
この北側壕道の中央に斜面を削り段築がこしらえられていて、軍勢を駐屯させることのできる平場となっている遺構があります。
山頂へ向かう壕道は、登山路との合流点から約100mで伐採地に出ます。そこから左手方向に登って、尾根すじを進むと山頂に登る壕道に当ります。この間は、伐採に伴いブルドーザーで破壊されています。壕道を登っていくと山頂の周壕に出ます。この登山路との合流点あたりは、東方面、新幹線高架橋や水田、街並がよく見える箇所です。飛鳥山館は、街道を攻めてくる敵軍を察知するには絶好な場所なことが実感できます。さらに、飛鳥山山頂から真東の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※上記の説明は、飛鳥山館跡の全体の東から1/3の領域の遺構についてです。飛鳥山館は、東から約2.5kmも続く長大な遺構領域を持つことがわかりました。中央遺構・西遺稿も含めての詳しい説明は、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「飛鳥山館跡」
内真部城館群の位置関係
新青森市史資料編の図面をトレースしました。5つの城館跡から、内真部館・同山城、湯ノ沢館、前田蝦夷館の北3城館です。※緑色が山城。青色が居館跡です。

内真部城館群の遺構領域 令和3年10月時点での各山城の遺構領域です。新に、瀬戸子館東側尾根先端部の遺構と大坂山館の遺構が加わりました。

尻八館から瀬戸子館までの遺構配置地図 作図、榊原滋高

瀬戸子館から飛鳥山館までの遺構配置地図 作図、榊原滋高
外ヶ浜安藤氏の本拠であった内真部地区には、外ヶ浜安藤氏の居館「内真部館」跡を中心に、700年前の安藤氏の乱の時に作られたと思われる壮大な「内真部城館群」の遺跡が広がっています。①内真部館と背後の山城跡、②湯ノ沢館跡、③前田蝦夷館跡とその南に広がる山城跡、④瀬戸子館跡、⑤飛鳥山館跡、そして、内真部館北方の⑥尻八館跡です。 それは私たちが考えていたよりも(新青森市史調査時点)、はるかに広範囲にわたる、スケールの大きなもので、700年前の安藤氏の乱の規模の大きさ、影響の深刻さを物語るものでした。 安藤氏の乱を記録した「諏方大明神画詞」は、「彼等カ留守ノ士卒、数千夷賊ヲ催集之、外浜内末部・西浜折曽関ノ城郭ヲ構テ相争フ、両ノ城険阻ニヨリテ、洪河ヲ隔テ雌雄互ニ決シカタシ」と述べていますが、ここで記されている「外浜内末部ノ城郭」とは、内真部館とその背後の山城だけでなく、その周囲に構築された「城塞群」全体をさしていることが、実際に発見された遺構から判明するのです。
実は、こうした城塞群のあり方は、楠木正成が元弘の乱の時に構築した有名な赤坂城・千早城など「千早赤坂城塞群」(「金剛山城」)と全く同じもので、鎌倉時代後期から南北朝時代の合戦の際に構えられた臨時の城館に共通する特徴です。
ちなみに、これら(外ヶ浜安藤氏)の山城の遺構は、臨時の城館にふさわしい素朴なもので、曲輪(平場)の削平は不十分で、切岸も明瞭でなく、広大な範囲にまとまりのない遺構が散在しているのが特徴です。もちろん城主が住む生活空間もありません。その中で目立つのは、これらの遺構を連絡する壕道が発達していることで、壕道自体がすぐれた防御施設となっています。そして、こうした特徴もまた「千早赤坂城塞群」と共通するのです。ただ、その中で④瀬戸子館の遺構は、近世城郭を思わせる巨大な「枡形虎口」を有するなど、安藤五郎家の本拠「内真部館」をはるかにしのぐスケールをもっていて、安藤氏の乱の際の軍の本営として構築されたことをうかがわせます。
とくに楠木正成の千早赤坂城塞群が、室町時代の再利用をへて、原型からかなり変化していると思われるのに対し、内真部城館群は、安藤氏の乱後本格的に使われた形跡がなく、鎌倉末期の姿を伝えていると思われます。それだけに価値の高い、貴重なものなのです。
乱の顛末を記した「諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)」には以下のような記述がある。
「(蝦夷管領安藤太の)子孫に五郎三郎季久(すえひさ)・又太郎季長(すえなが)というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒(しそつ)、数千の夷賊(いぞく)を催し集め、外浜内末部(そとはまうちまっぺ)・西浜折曽関(にしはまおりそのせき)(現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻(けんそ)によりて、洪河(こうが)(現在の岩木川)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」
この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたると考えられている。内真部館跡の西方の丘陵には「内真部山城跡」の遺構が存在しており、この山城跡が五郎三郎季久(宗季)と又太郎秀長との争い「安藤氏の乱・津軽大乱」の際に構えた「外浜内末部」の「城郭」の一つであった可能性はきわめて高いと「青森市史資料編2古代・中世」では記載している。
※前項で説明したとおり、安藤氏の乱での安藤季久の「険阻な城」は、内真部山城跡のみならず、その周辺の山城(尻八館から飛鳥山館まで)を指すと考えられる。
元亨二年(1322)春、惣領安藤又太郎季長(すえなが)とその従兄弟五郎三郎季久(すえひさ)が対立する。双方とも鎌倉に上り理非を争ったが、得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)では裁決をすぐには下せなかった。 津軽では、双方とも蝦夷を味方につけて合戦が激化していった。(幕府・中央では、安藤家の内紛よりは蝦夷の蜂起の方が重要な問題であった。)
そうこうしているうちに蝦夷蜂起については季久が一定の戦果をあげ、北条高時はその功績を認めて「地頭代官職」や「蝦夷沙汰職」を季長から季久に改替した。季久はこれを契機に改名し、宗季(むねすえ)と名乗る。
季長は収まらず、自分に従う一族のものや蝦夷の軍勢で、宗季になおも抵抗した。両軍は外浜の内末部(宗季)と西浜の折曾関・現深浦(季長)に城郭を構え、相対した。
正中三年(1326)得宗家は有力得宗御内人、工藤貞祐を「蝦夷征罰」のため鎌倉から進軍させる。これにより季長は敗れ捕虜として鎌倉に護送された。 季長派は従兄弟の季兼が戦を継続し、翌年、宇都宮高貞・小田高知らを「蝦夷追討使」として派遣したが、抵抗は激しく嘉歴三年(1328)ようやく和談にこぎつけた。
【解説】
文永五年(1268)俘囚(蝦夷)の反乱が起きる。この反乱に関連して、蝦夷管領安藤五郎(太郎)が蝦夷に殺害されている。安藤五郎の殺害については「日蓮聖人遺文」 建治元年(1275)に「信仰に厚い人がどうしてこんなにことになったのか(大意)」と記載されている。
蝦夷の反乱時点での安藤家惣領(安藤五郎)は、季久の家系であった※。季久の通り名は「五郎三郎」である。つまり、蝦夷沙汰職にありながら蝦夷を抑えられなかった罪を幕府に問われ、蝦夷沙汰職が季長の家系にすげ替えられたのではないかというのである。
※新青森市史史料編では、この説をとっている。
安藤氏には様々な家系があるが、東側(外浜内真部)と西側(西浜)の両家に力があり、当時の本州の蝦夷が津軽・外浜と下北、出羽地方に根拠地があったことも関連しているようだ。
元応二年(1320)~元享二年(1322)、出羽の蝦夷の蜂起があった。
「出羽の蝦夷を押さえられない季長・西浜に蝦夷沙汰職を任せるべきではなく、安藤五郎の時と同様に蝦夷沙汰職を交替すべき。」というのが、季久・外浜、側の言い分だったとかもしれない。
正中二年(1325)、蝦夷沙汰代官職が安藤秀長から安藤季久(宗季)に交替されるが、俘囚(蝦夷)の押さえに季久の方が成果を上げたことにより、その勲功を認め代官職の交替という裁定が下ったのではないかとみられている。
蝦夷沙汰職を取るということは、北条得宗家の所領である「津軽半島突端、今別・三厩」と「下北」の事実上の支配権を得るということである。安藤氏は得宗北条氏の被官であり、血筋よりも、役職=権力の移動に伴い、惣領家が代わるということのようだ。
安藤家惣領となった宗季は、外浜は次男「五郎二郎家季」に継承させたとみられています。外浜安藤氏は安藤家惣領家として、拠点を津軽内陸の尻引の地(藤崎付近)に移し、その後でさらに十三湊に拠点を移していきます。
⇒ 「安藤氏の乱」については、こちらに詳しくまとめてあります。
※新青森市史 資料編2 古代・中世
⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 鎌倉~南北朝時代」は、こちら!
⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 室町~江戸時代」は、こちら!
⇒ 「安藤氏に関わる歴史年表」は、こちら!
ユーチューブチャンネル『山城の里』 (←クリック)に動画を掲載しています。そちらからの方が動画を楽しめるのでお勧めします。
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 前田蝦夷館跡 - 南方山城遺構 - 湯ノ沢館跡 - 西方山城遺構 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊
南から飛鳥山館、瀬戸子館、前田蝦夷館、湯ノ沢館、内真部館・内真部山城、尻八館の城塞は、楠木正成の「千早・赤坂城塞群」に匹敵する「内真部・尻八城塞群」とするのが相応しいとされています。
この地は、平泉藤原時代に外浜支配および蝦夷交易の拠点となる地方政庁がおかれた場所であり、おそらく「奥大道」の終点として、平安時代後期~鎌倉時代後期の外浜の政治的・経済的中心であったということです。
よく知られている歴史では、「安藤氏」は十三湊を本拠地として、蝦夷や京都北部・若狭湾などの日本海を交易した北国の雄であり、藤崎から発祥したというものですが、鎌倉幕府から「蝦夷管領」(蝦夷沙汰代官)に任ぜられた安藤氏嫡宗家の最初の本拠地は、十三湊や藤崎ではなく、中世の内末部(青森市内真部)であったことが「新青森市史資料編2 古代・中世」に記載されています。
なお、青森市では、文化財保護法に基づく「周知の埋蔵文化財包蔵地」に登録されている城館跡は本山域での一部となっているため、未登録の包蔵地等の範囲を確認することを目的に、令和3年5月から令和7年10月まで「分布調査」を実施してきました。各年の調査結果は『市内遺跡発掘調査報告書』によって報告されています。その成果を別ページで各山域ごとにまとめました。→『山城分布調査』のサイトへ
※ページ名称の変更 ●このページは以前「内真部・尻八城塞群」としていました。青森市教育委員会の「市内遺跡発掘調査報告書」では、内真部城館群としていますので、本サイトでもその呼称とします。斉藤先生が提唱する「内真部・尻八城塞群」との名称の理由は、別項目に掲載します。
contents
- 山城群の名称を「内真部・尻八城塞群」と提唱する経緯
- 尻八館跡(後潟城)
- 大阪山館跡 ※新発見の山城跡です!
- 内真部館跡
- 内真部山城跡
- 内真部(4)遺跡
- 湯ノ沢館跡
- 湯ノ沢館・西方山城遺構
- 前田蝦夷館跡
- 前田蝦夷館・南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ
- 瀬戸子館跡 ※新発見の山城跡です!
- 飛鳥山館跡 ※これらの内、4と6は居館跡、残りは山城跡です。そして、4・5はセット、7・8と9・10はセットです。
- 内真部城館群の位置関係
- 内真部城館群の遺構領域
- 内真部城館群の遺構配置地図
- 内真部城館群の価値
- 千早赤坂城塞群との類似性
- 内真部城館群と安藤氏の乱
- 「安藤氏の乱」とはなにか
- 「安藤氏の乱」の流れ 年表
- 山城ビデオ 青森市北部にある山城を動画で紹介 ・尻八館西路壕道群 ・瀬戸子館跡外ヶ浜安藤氏本城 ・安藤氏山城瀬戸子館跡探訪 ・瀬戸子館跡長土塁 ・南部藩野牧相内野 ・瀬戸子館跡尾根段築群 ・瀬戸子館跡脇段築群 ・瀬戸子館跡 林Ⅰ段築群 ・尻八館城址探訪 ・(油川城跡探訪)
- 安藤氏山城遺構の構造と主な遺構 ※別ページにリンク
- 市内遺跡発掘調査報告 青森市山城分布調査 ※別ページにリンク
写真をクリックすると、大きな写真にリンク!
※安藤氏については、別サイトにまとめてあります。⇒「下国安東氏ノート」※安藤氏に関わる福島城、唐川城に興味のある方は、こちら⇒「十三湊遺跡」
『ルポ 安部龍太郎の創作世界』~「十三の海鳴り」を歩く~ 内真部城館群
↑ 安部龍太郎さんが斉藤利男先生の案内で、内真部館と前田蝦夷館を視察した時のルポが書かれています。
「十三の海鳴り」の小説の中で、内真部館は安藤季久の居館として登場します。主人公の新九郎も訪ねていきます。前田蝦夷館は名前は出ていませんが、季久の居館に近い山城として描かれました。
↑ 安部龍太郎さんが斉藤利男先生の案内で、内真部館と前田蝦夷館を視察した時のルポが書かれています。
「十三の海鳴り」の小説の中で、内真部館は安藤季久の居館として登場します。主人公の新九郎も訪ねていきます。前田蝦夷館は名前は出ていませんが、季久の居館に近い山城として描かれました。
●山城群の名称を「内真部・尻八城塞群」と提唱する経緯
新青森市史 資料編2「古代・中世」(刊行:平成16年度) では、内真部館以南の山城群を「内真部城館群」としてまとめています。この城館群には尻八館跡は含めてはいませんでした。令和元年10月に斉藤利男弘前大学名誉教授が「瀬戸子館跡」を調査されて、瀬戸子館跡が安藤氏に関わる山城であることが確認されました。令和2年3月に同教授が「飛鳥山館跡」を調査され、頂部の曲輪だけではなく、山城としての規模が大きいことを確認。令和2年11月に瀬戸子館跡の北斜面段築群も確認されました。これらの調査によって、内真部城館群は、内真部館・内真部山城、湯ノ沢館、前田蝦夷館の3つの城館から、瀬戸子館、飛鳥山館までの5つに拡大しました。
その際に伺った話では、「新青森市史での内真部城館群の範囲は、内真部館、湯ノ沢館、前田蝦夷館を想定していた。内真部館と尻八館が離れていることが、尻八館を内真部城館群に含めなかった理由だった。」ということでした。それに瀬戸子館、飛鳥山館が加わってくるとなると、北の尻八館を合わせて、「尻八・内真部城塞群」※1.2とまとめることを斉藤教授は提唱されました。(※斉藤氏は2022年11月19日に、山城群の名称を『内真部・尻八城塞群』と改めて提唱した。)
これらの山城は安藤氏に関連すること、鎌倉時代に設立していただろうこと※3、が共通しています。合わせて、居館は内真部館のみ(尻八館東曲輪への居住は室町時代が想定されている)で、戦時の砦として造られていることから「城塞」群の名称が相応しいとされました。
内真部・尻八城塞群は、北は尻八館跡から、南は飛鳥山館跡まで続く7つの山々(大阪山の山城遺構の発見を加えて)※4.5にそれぞれ山城があるということになります。本サイトでの、「内真部城館群」の山域は前行と同様と扱います。
※1 鎌倉時代末期の楠木正成の千早・赤坂城は、「千早・赤坂城塞群」とまとめられている。鎌倉時代の山城として、内真部地域の山城と城の造りがよく似ていることが、新青森市史資料編2でも指摘されている。
※2 「尻八・内真部城塞群」と「千早・赤坂城塞群」との築城時期(城塞として機能した時期)は、ほぼ同じ時期であり、鎌倉時代の末期である。外浜安藤氏山城群の方がおよそ10年先行している。
※3 尻八館の西曲輪は、改修後の東曲輪と異なり古態であること知られている。なお、現状の東曲輪への登山道ではなく、溜め池方面から西曲輪(本丸跡)へ進むルートに、多数の壕道が確認され、それら壕道の形状から鎌倉時代のものだと想定できる。
※4 内真部館・内真部山城と尻八館跡の間には大阪山の山域があります。令和3年5月に大阪山の頂上から北下に位置する領域に山城遺構があることがわかりました。これで、南は飛鳥山館から北は尻八館まで、全山域に山城遺構があることになります。
※5 油川城跡は飛鳥山館跡の南に位置する。油川城跡を「内真部・尻八城塞群」に含めない理由は、築城者が安藤氏と関わりのない奥瀬氏とされていること、築城時期が採集された遺物が15~16世紀のものであり、他の山城よりも新しいことが想定されることによる。
外浜安藤氏の山城である内真部城館群は、青森県内の先駆的城館研究の小友叔雄『津軽封内城址考』(1943年)には、外ヶ浜にある安藤氏山城群の城館の記載はまったくなく、沼館愛三『津軽諸城の研究』(1945~50年調査、1978年刊行)には、内真部館が記載されているだけであり、研究者にその存在が知られたのは、それほど昔のことではありません。これは古文書にまったく記載のない「忘れ去られた城跡」であることが、その要因のようです。
《 立地 》
内真部城館群は、青森市中心市街地の北西の陸奥湾沿いの海岸からは約2~3km内陸に入った地点にある。駅では、JR津軽線油川、津軽宮田、左堰、後潟の各駅が最寄りの駅となる。尻八館から飛鳥山館までは約9.0kmあり、山域の西方は津軽半島の中央、中山山地に繋がる。山城領域としては東西に約1~1.5kmとなっている。
※「安藤氏山城遺構の構造と主な遺構」については、こちらにまとめてあります。
※「安藤氏山城遺構の構造と主な遺構」については、こちらにまとめてあります。
● 内真部・尻八城塞群 とした理由 ●
2022年11月19日の「山城フォーラム ~城塞遺構と遺跡から見る外浜安藤氏の里~」において、斉藤利男弘前大学名誉教授が、「内真部・尻八城塞群」の名称を提唱した理由を以下に要約します。
(1)内真部城館群の名称を「内真部・尻八」とする
ア.大阪山の山城遺跡の発見で、城郭群が内真部から北の尻八館まで続いていることが明らかになった。
イ.現状の尻八館は、東郭と西郭では造りが大きく違っている。東郭は、曲輪を囲んで連続する大規模な切岸、尾根を断ち切る深い堀切、そして整然と削平されて広い平坦面が作り出された曲輪(平場)など、かなり発達した城郭の姿を示していて、その年代は遺物から15世紀と推測されている。それに対して西郭は、曲輪の削平が行われておらず、ほとんど自然地形のままである。曲輪を囲む切岸も、堀切もない。そのかわり、長大な周濠で山頂部を囲んで曲輪をつくっている。これは、内真部館以南の城郭群と共通の造りなのである。おそらく「原尻八館」は、この西郭のような曲輪が東西に並んだものであり、それが後になって東郭のみ、大規模に改修され、現在の姿になったことは明瞭である。
(※これまで、尻八館は15世紀の山城であり、内真部館以南の山城と成立時期が大きく異なると考えられてきた。)
(2)内真部城館群の名称を「城塞群」とする
(※これまで、尻八館は15世紀の山城であり、内真部館以南の山城と成立時期が大きく異なると考えられてきた。)
ア.「城館群」では遺跡の実態に合わず、砦を意味する「塞」を使った方がふさわしい。
イ.そもそも「城」と「館」は本来別のものをさす言葉で、「館」は「たち」と読み、「庁(たち)」=「政庁」を意味する用語である。一方「城」は「土」と「成」を組み合わせた漢字で、土を盛って築いた城壁を意味する。その意味で「城」はまさしく軍事施設ですが、「館」はそうでなかった。つまり「城館」とは、支配の政治拠点である政庁「館」と軍事施設「城」という異なる意味のことばを合体した用語である。ちなみに「館」は現在「たて」とも読むが、本来「たて」は「楯」と書き、防御のために「盾」を並べた軍事施設を意味し、館=「たち」とは別のものだった。そして厨川柵を厨川楯と記すこともあるように、「楯」は「柵」と同義のことばであった。
ウ.新青森市史資料編2の編さんのため、2003年1月に千早城と赤坂城塞群の現地調査を実施した。これにより、山城と山城の連絡路が、堀道や土橋状になった尾根道で、優れた防御性を持った施設であることが判明した。広い山中に分布する山城が、この堀道と土橋状の尾根道で有機的に結びつけられ、「全体で一つの山城」と言っても過言ではない構造を備えていた。これこそまさしく「城塞群」の名にふさわしいものであり、そして、この特徴は、内真部館を中心として広がる山城群でも共通してみられるものである。
イ.そもそも「城」と「館」は本来別のものをさす言葉で、「館」は「たち」と読み、「庁(たち)」=「政庁」を意味する用語である。一方「城」は「土」と「成」を組み合わせた漢字で、土を盛って築いた城壁を意味する。その意味で「城」はまさしく軍事施設ですが、「館」はそうでなかった。つまり「城館」とは、支配の政治拠点である政庁「館」と軍事施設「城」という異なる意味のことばを合体した用語である。ちなみに「館」は現在「たて」とも読むが、本来「たて」は「楯」と書き、防御のために「盾」を並べた軍事施設を意味し、館=「たち」とは別のものだった。そして厨川柵を厨川楯と記すこともあるように、「楯」は「柵」と同義のことばであった。
ウ.新青森市史資料編2の編さんのため、2003年1月に千早城と赤坂城塞群の現地調査を実施した。これにより、山城と山城の連絡路が、堀道や土橋状になった尾根道で、優れた防御性を持った施設であることが判明した。広い山中に分布する山城が、この堀道と土橋状の尾根道で有機的に結びつけられ、「全体で一つの山城」と言っても過言ではない構造を備えていた。これこそまさしく「城塞群」の名にふさわしいものであり、そして、この特徴は、内真部館を中心として広がる山城群でも共通してみられるものである。
※→ 山城跡タイトルをクリックすると、詳細ページにリンクします。
尻八館跡(後潟城) しりはちだて
尻八館東曲輪「ニノ丸跡」標識
尻八館跡のニノ丸跡の標識。石柱の文字は竹内俊吉知事が揮毫したもの。
城館の位置尻八館跡のニノ丸跡の標識。石柱の文字は竹内俊吉知事が揮毫したもの。
尻八館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線を過ぎて、蓬田村方面に向かって「六枚橋川」を渡って進むと右側に佐藤農機「クボタ」があり、その向かいの舗装道路を山側に左折。新幹線高架橋をくぐり、山際の橋を渡って右折して道なりに進みます。内真部城館群では、最も北に位置する山城です。詳しい到達方法は、尻八館跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
→ Google map 山城公園駐車場 へ リンク
尻八館は、安藤氏に関わる山城跡です。現状では「潮潟安藤氏」の城、後潟城とされています。
尻八館跡の曲輪は、二つの頂部にあり、二の丸跡との標識がある「東曲輪」と本丸跡との標識がある「西曲輪」があり、特に「東曲輪」の周りには山城遺構が顕著に見られます
本によっては、青森県郷土館の調査での名称であるⅠ郭(西)・Ⅱ郭(東)とする本もあります。
※詳しくは、別ページに写真とともに別ページにまとめてあります。⇒「尻八館跡」
大阪山館跡 おおさかやまだて 新発見の山城
大阪山は、標高142.6m。安藤氏山城群の山域で山に名称があるのは、「飛鳥山」と「大阪山」の二つのみです。南の飛鳥山館から北の尻八館の間で「山城遺構」が見つかっていないのは、大阪山だけでした。大阪山を調べる必要があったのは、内真部山城と尻八館との関係がどのようになっていたのかを探るためです。
1.内真部山城の頂部から、大阪山にかけてのルートに遺構がある。
2.尻八館の西路に壕道が続くことから、尻八館の成立時期は他の山城群と同様に鎌倉時代に遡る可能性が可能性が高い。
このことから、内真部山城から大阪山を経て、尻八館に至るルートがあったはずだと考えました。
まず、尻八館から六枚橋川へのルートは、S28年地図には、尻八館への駐車場(ため池)から、現状鉄塔下の保安路のコースが道として記載されています。よって、このルートの延長線から大阪山山頂までを2021年5月に探りました。その結果、大阪山の北側の尾根筋にある頂部の平坦地が陣地(曲輪)として、使われていたことがわかりました。大阪山の山頂付近には、尾根筋を含めて平坦地がなく、山頂から北西部にある西方に連なる領域に、山城遺構があることがわかりました。この領域はヒバ林に囲まれているため、雑木・雑草が少なく、切通しを伴う壕道が良好な形で残されています。さらに、その西にある二つの頂部が山城領域に含まれることがわかりました。
これで、飛鳥山館、瀬戸子館、前田蝦夷館、湯ノ沢館、内真部館・内真部山城、大阪山館、尻八館と7つの山々に連続して、山城が構築されていたということが判明しました。
大阪山「館」としたのは、瀬戸子館のように資料があったわけではありませんが、本地域の山城は「館」と呼ばれていることから、飛鳥山館のように合わせました。
踏査の報告として、ヤマップでの活動日記へのアドレスを貼り付けておきます。こちらで、現地写真やGPSでの軌跡で、遺構の位置などをご覧ください。
「新山城発見・大阪山登頂」⇒ https://yamap.com/activities/11218410
「大阪山西山城遺構」⇒ https://yamap.com/activities/11562794
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「大阪山館跡」
内真部館跡 うちまんぺだて
内真部館趾と内真部山城跡のある丘陵
写真中央の丘に内真部山城跡。内真部館跡は少し右側(北)。内真部(4)遺跡は左端にある。ここ※
城館の位置写真中央の丘に内真部山城跡。内真部館跡は少し右側(北)。内真部(4)遺跡は左端にある。ここ※
内真部館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線の北側に位置します。内真部城館群では、北から最初にある「居館と山城」です。詳しい到達方法は、内真部館跡と内真部山城跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
→ Google map へ リンク
内真部館跡は、奥内から五所川原に向かう県道2号線が新幹線高架橋をくぐり、眺望山に向かって左にカーブするあたりの丘陵で、標高15mの低い台地を利用して館がつくられている。
北・西の両面に上幅約9mの空堀を堀り、南西から南および東にかけては切岸(壁面を切り落としたもの)を設けて周囲から区画した、東西100~105m、南北90~95mの正方形に近い形をした居館跡である。
内真部館跡は、背面となる西側は二重堀・高低差3mとなっているものの、全体に要害性に欠け、平時の居館とみられている。また、台地の先端を占地し、段築によって平場を設けて生活面をつくり出す手法は、近隣にある内真部(4)遺跡と共通しており、平安時代末期の居館の構造を踏襲したものとみられる。そして、内真部館跡からは擦文土器が表面採取されており、平安時代後期の集落跡だったことがわかる。古代末期の集落の場所が外浜安藤氏によって継承され、居館として使用されたものであろうとされています。
新青森市史史料編古代・中世から
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「内真部館跡と内真部山城跡」
内真部山城跡 うちまんぺやましろ
内真部山城跡は内真部館跡の西にそびえる標高87mの丘陵上に立地し、丘陵の頂部、北西斜面、東側の斜面と尾根筋を利用してつくられた山城である。山城としての施設は、①自然地形を利用して陣所とした場所、②山下につくられた虎口と防御施設、③山下から頂上の陣所に至る途中の壕道の、三つの部分から構成される。
戦時に際してつくられた急ごしらえの城塞らしく、①は自然地形のまま、②③もつくりが粗雑で、鎌倉時代末期の「安藤氏の乱」の際に安藤季久(宗季)が構えた「城郭」の有力な候補地になる遺構である。
内真部の山城は、戦国時代の山城に比べれば非常に素朴だが、「太平記」などの軍記物に記された急ごしらえの城郭の記述とよく符合している。
鎌倉末~南北朝時代の山城がほぼそのままの形で残された可能性が高く、高い価値をもつ遺跡と評価されている。
内真部山城跡は、ふもとにある内真部館跡が「安藤氏の居館・政庁」であるのに対して、その西側(山手)の丘陵にある山城跡です。防衛機能に関する遺構を見ると、内真部城館群の山城の中で最も守りが弱い城跡です。居館の背後にある「逃げ込み城」でしょう。仮に城主がいたまま戦になったとしたら基本的には「逃げの一手」だろうと考えられます。
新青森市史資料編に関連した調査の時点では、大阪山館の存在は未発見でした。「内真部山城」は『詰めの城、大阪山館』にとっての前衛砦という性格を持つと考えられます。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「内真部館跡と内真部山城跡」
内真部(4)遺跡 うちまんぺかっこよんいせき
内真部(4)遺跡は、内真部城館群の中で唯一発掘調査が行われている。遺跡は、奥内から五所川原に向かう県道2号線が新幹線高架橋をくぐって、左に見える丘で、内真部館跡から見ると、県道と内真部川を挟んでの位置、標高9~12mの低位段丘に立地していて、なだらかな台地の先端部にいくつかの段築をもって平場をつくりだした古代~中世の集落・居館遺蹟である。
発見された遺構としては、掘立柱建物跡9棟、竪穴建物跡10棟、土坑17基、井戸跡12基、焼土遺構7基、溝跡8条がある。
小面積の発掘調査にかかわらず、多数の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、擦文土器、土師器、中国産青磁・白磁、国産陶器、さらに個体数で約30を数える平泉系の「手づくねかわらけ」を出土して注目された。
中国製の青白磁合子といった優品の陶磁器やカワラケというハレの器を出土することから、「権威」を内在した集落ないしは館とみなすことができる。 とくに多数の平泉系の「手づくねかわらけ」の出土は、平泉藤原氏との密接な関わりを推測させ、この地に平泉政権の地方政庁的な機関がおかれていた可能性もあると考えられている。
内真部の地は平泉藤原氏時代の外浜の政治的中心であった。
内真部(4)遺跡は、県道2号線を五所川原方面に向かって、右手の丘陵が内真部館跡と内真部山城跡。左手が湯ノ沢館跡のある丘陵で、その裾野に位置します。
湯ノ沢館跡 ゆのさわだて
城館の位置
湯ノ沢館は、青森市から中山山地を越えて五所川原市金木町喜良市方向に進む県道2号線の南側に位置します。内真部城館群では、北から2番目にある山城です。詳しい到達方法は、湯ノ沢館跡の詳細ページのアプローチでご確認ください。
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「内真部館跡」の南方900m、標高85mの湯ノ沢山の頂部には、周壕で囲まれた単郭の「湯ノ沢館跡」がある。館跡から南の山麓に下る堀道は現在でもはっきり確認できる。戦前の地図には尾根を下って北の内真部館跡方面へ向かう道も描かれていた。
※湯ノ沢館跡は、前田蝦夷館と湯ノ沢川(道一本)を隔てただけの隣の丘です。その道のすぐ近く、山の麓に壕道・空堀があります。さらに「新青森市史史料編 古代・中世」作成のための調査では見つかっていなかった「曲輪」や遺構が見つかりました。調査を進めて、まず南斜面の壕道が半円となっている曲輪を「南曲輪」、従来の頂部に周壕のある曲輪を「東曲輪」、その先に壕道が切り通しのようになっている「中曲輪」があることがわかりました。
さらに、湯ノ沢館山頂から真東の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「湯ノ沢館跡」
湯ノ沢館・西方山城遺構 せいほうやましろいこう
湯ノ沢館跡は、単郭の山城だとされてきました。前項説明の湯ノ沢館跡「中曲輪」の先にも「西曲輪」があり、隣接する壕道の先に遺構があることがわかりました。壕道が途中で薄くなることから、前田蝦夷館と南方山城遺構との関係に準じて、「湯ノ沢館・西方山城遺構」と呼ぶことにしました。このエリアは現時点で専門家に認知されていない遺構です。西曲輪と斜面中腹にある壕道、西方山城遺構の東方曲輪と腰曲輪・堀切状の壕道、逃げ込み城と見られる西方曲輪とあることがわかりました。
湯ノ沢館は、遺構の東西の長さから見れば、内真部城館群の中で、内真部山城、前田蝦夷館と南方山城遺構と比べてもっとも長い山城であり、飛鳥山館に匹敵するものです。これらのことからも諏訪大明神画詞に記載されている安藤季久の険阻な城は内真部館と内真部山城ではなく、「湯ノ沢館跡」を指すものと考えられます。
※斉藤先生は飛鳥山館、瀬戸子館の調査により、「諏訪大明神画詞に記載されている険阻な城」は、特定の山城ではなく、飛鳥山館から尻八館までの山城群全域を指すものとされています。
※そして、新たに発見された湯ノ沢館跡の西方にある山城遺構を、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「湯ノ沢館・西方山城遺構」
→ Google map へ リンク。
前田蝦夷館跡 まえだえぞだて

前田蝦夷館跡のある丘陵 写真中央のピークから左側の丘にある
城館の位置
前田蝦夷館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立奥内小学校(令和2年度から北小学校)の真西に位置します。内真部城館群では、北から3番目にある山城です。詳しい到達方法は、前田蝦夷館跡詳細ページのアプローチでご確認ください。
→ Google map へ リンク。駐車スペースのある蝦夷館お堂
前田蝦夷館跡は、このサイトで紹介している「蝦夷館山守護神御堂」の後の丘陵北側の尾根にある。前田蝦夷館跡の北側の山裾を「湯の沢」が流れている。
標高50~40mの丘陵先端部を占地し、南北120m・東西20~55mを二重の周壕(一部は一重)で囲み、その中に南北二つの曲輪と中間の曲輪を設けた城郭である。
前田蝦夷館のつくりで特徴的なのは、城郭をめぐる周堀が「堀」というより、斜面を削って切岸と腰曲輪(斜面の中腹に設けた曲輪)をつくり、腰曲輪の縁辺に土を盛って堀状にしたものであり、このため、切岸の高さも3~4mと高く、5mに達する場所もある。
前田蝦夷館は内真部城館群の中でひときわ堅固で、規模は大きくないとはいえ、戦乱の長期化の中で建設された本格的城郭とみえる。前田蝦夷館とその南に広がる「南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ」は、安藤氏の乱の長期化の中か、南北朝動乱の中で構築され、利用されたものではないかと考えられている。
また、前田蝦夷館跡から東南へ約200m離れた丘陵東山麓には、段築によって多くの平場をつくりだした場所「平場状遺構」があり、同時代の城館遺跡とみられる。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「前田蝦夷館跡」
前田蝦夷館・南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ なんぽうやましろいこう
前田蝦夷館跡から続く尾根道を南に150mほど行った丘陵の頂上一帯は、軍勢の駐屯地に使えそうな広い平坦地になっている「南方山城遺構Ⅰ」がある。それに至る尾根道には、一部土橋や虎口状の施設も設けられていて、臨時のものであるが、明らかな城塞の構えである。さらに、この山城跡から土橋状になった尾根道をへて西へ約250m行った先にも、尾根上に広い平坦地が広がる「南方山城遺構Ⅱ」となっている。※南方山城遺構Ⅰ・Ⅱは、前田蝦夷館と組み合わせて、使用できる構造・配置となっています。
※詳しくは別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「前田蝦夷館・南方山城遺構」
瀬戸子館跡(奥内城) せとしだて

瀬戸子館跡のある丘陵 写真の左にある丘陵には飛鳥山館跡がある。
城館の位置
瀬戸子館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立西田沢小学校(令和2年度から廃校)の真西から少し北よりに位置します。内真部城館群では、北から4番目にある山城です。詳しい到達方法は、瀬戸子館跡詳細ページのアプローチで確認してください。
→ Google map 瀬戸子八幡宮 へ リンク。
--------------------------------------------------《 内真部城館群 》は、北から「内真部館+内真部山城跡」、次の山に「湯ノ沢館跡」、その次ぎに「前田蝦夷館跡」があり、そしてもっとも南に「飛鳥山館跡」が遺構として知られています。実はこれまで、前田蝦夷館と飛鳥山館の間にある山には、山城遺構はないとされていました。それぞれの城跡の調査が進み、その規模が把握できた段階で、「どうしてこの山には城跡がないのだろう?」と逆に不思議に思うようになってきました。
『瀬戸子八幡宮の位置する山にも城館があったのではないのか?』
平成30年の晩秋に「瀬戸子八幡宮のある山にも壕道がある」ことがわかり、詳しい状況把握は翌年度に持ち越していました。壕道があるとすれば、曲輪もあるのだろうか。曲輪のある「館・楯」なのか「山城遺構」と扱うべきものなのか。これらが当面の課題でした。
* * *
現在の探索状況から、曲輪は5つ存在することがわかりました。
よって遺構の名称を「瀬戸子館」とします。瀬戸子館という名称は、明治初期の地元の絵図面にも「瀬戸子館」という枝村が書かれていることからも妥当でしょう。
確認しますが、この山城遺構は、現在把握されていない新発見となります。城の性格は飛鳥山館と前田蝦夷館の支援にあるとみています。
瀬戸子館の存在により、安藤氏は青森市北部の陸奥湾に面した内真部地区から飛鳥地区の全山に砦を築いていたことになり、内真部城館郡の価値が格段に高まるものと考えています。さらに、瀬戸子館の東尾根(海側)の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※簡単なアプローチ
瀬戸子館跡は、瀬戸子八幡宮の参道を登っての稲荷大明神に向かって右脇から斜面に入る。右手方向に伐採された尾根すじを登って行くと正面に、まるで「堀切り」のような大きな堀道にぶつかります。この堀道の向いの高台が「一の曲輪」です。
※H20.12.4の北部市民センター、油川地域史研究会木村慎一氏の講座資料に「明治初期のものと考えられる古地図」がありました。その中に瀬戸子村の枝村として「瀬戸子館村」という地名が書かれていることがわかりました。つまり、その当時は瀬戸子に山城跡があることが認識されていたものと考えられます。
※詳しくは、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「瀬戸子館跡」
飛鳥山館跡 あすかやまだて
飛鳥山館跡のある丘陵=飛鳥山 飛鳥山の南方に油川城址がある
城館の位置
飛鳥山館跡は、海側の国道280号線(旧道)に沿いにある、青森市立西田沢小学校(令和2年度から廃校)の真西に位置します。内真部城館群では、北から5番目にある山城です。詳しい到達方法は、飛鳥山館跡詳細ページのアプローチで確認してください。
→ Google map へ リンク。
--------------------------------------------------前田蝦夷館跡から南に2.7kmの飛鳥山の頂上にも周壕をめぐらした単郭の館跡「飛鳥山館跡」があり、山頂の館跡に至る山腹には土塁をともなった壕道らしき遺構がみられる。
新青森市史史料編古代・中世から
飛鳥山の頂上には周壕があり、そこから東方面(海)へ下る壕道と、西方面に下る壕道があります。
西方面への壕道は、飛鳥山の尾根すじに向かって降りていて、途中から南へ下りふもとまで続いていきます。この西壕道は送電線鉄塔保安路に2箇所分断されてはいますが、山頂からふもとまでほぼ完全な形で残されています。
飛鳥山へ東方面から登ると、約200mで、壕道にぶつかります。左手方向に登ると山頂に続いていきます。右手方向(北)に進むと、瀬戸子八幡宮の鳥居が正面となる高台に出ます。この高台を見張り台にしていたと考えられます。
この北側壕道の中央に斜面を削り段築がこしらえられていて、軍勢を駐屯させることのできる平場となっている遺構があります。
山頂へ向かう壕道は、登山路との合流点から約100mで伐採地に出ます。そこから左手方向に登って、尾根すじを進むと山頂に登る壕道に当ります。この間は、伐採に伴いブルドーザーで破壊されています。壕道を登っていくと山頂の周壕に出ます。この登山路との合流点あたりは、東方面、新幹線高架橋や水田、街並がよく見える箇所です。飛鳥山館は、街道を攻めてくる敵軍を察知するには絶好な場所なことが実感できます。さらに、飛鳥山山頂から真東の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※上記の説明は、飛鳥山館跡の全体の東から1/3の領域の遺構についてです。飛鳥山館は、東から約2.5kmも続く長大な遺構領域を持つことがわかりました。中央遺構・西遺稿も含めての詳しい説明は、別ページに写真とともにまとめてあります。⇒「飛鳥山館跡」
内真部城館群の位置関係
内真部城館群の位置関係
新青森市史資料編の図面をトレースしました。5つの城館跡から、内真部館・同山城、湯ノ沢館、前田蝦夷館の北3城館です。※緑色が山城。青色が居館跡です。
内真部城館群の遺構領域

内真部城館群の遺構領域 令和3年10月時点での各山城の遺構領域です。新に、瀬戸子館東側尾根先端部の遺構と大坂山館の遺構が加わりました。
内真部城館群の遺構配置地図
上に掲載した「遺構領域図」では、山城遺構の具体的な状況はわかりませんので、青森市が実施した分布調査の指導者として、山城踏査に同行されていた、榊原滋高氏が作成された「遺構配置地図」を掲載させていただきます。※両図面ともクリックすると拡大します。

尻八館から瀬戸子館までの遺構配置地図 作図、榊原滋高

瀬戸子館から飛鳥山館までの遺構配置地図 作図、榊原滋高
内真部城館群の価値
- 内真部城館群の名称は『新青森市史資料編2 古代・中世2004』で提唱されている。その時点での山城の範囲は、北から1.内真部館・内真部山城、2.湯ノ沢館、3.前田蝦夷館 であった。飛鳥山館は山域が前田蝦夷館と離れていること、山城の状況が把握されていなかったことから、含まれていなかった。
- 令和元年の「瀬戸子館」の発見と、斉藤利男弘前大学名誉教授の令和元・2年の現地調査によって、飛鳥山館の山城遺構が頂上曲輪だけではなく、広範囲に広がっていること、瀬戸子館が戦時の城として「安藤本城」とも呼べるような規模と防御遺構があることが判明した。
- このことにより、内真部城館群の範囲は、北から1.内真部館・内真部山城、2.湯ノ沢館、3.前田蝦夷館、4.瀬戸子館、5.飛鳥山館 にまで、拡大できることとなった。
- 尻八館が内真部城館群に含まれなかった理由は、「尻八館が内真部館・内真部山城 と離れていること」によるものであった。尻八館の西曲輪は、南部氏による大改修(市史資料編2による)の影響はなく、安藤氏山城としての古態を残しているとされている。
- 斉藤利男氏は、2020.11の瀬戸子館北斜面段築群の現地調査の後で、尻八館から飛鳥山館までを『尻八・内真部城塞群』とすることを提唱された。その理由は、安藤氏に関わる山城であること、外浜安藤氏の時代、鎌倉時代にこれら山城が機能していたことが推測されることによる。
- 令和3年に大坂山にも山城遺構があることが確認できた。この発見により、北から1.尻八館、2.大阪山館、3.内真部館・内真部山城、4.湯ノ沢館、5.前田蝦夷館、6.瀬戸子館、7.飛鳥山館 まで、全域に山城があることがわかり、斉藤教授の「尻八・内真部城塞群」の名称提唱がさらに裏付けられた。
- 斉藤利男氏は、「「千早・赤坂城塞群」では、楠木本城が「上赤坂城」、詰めの城として「千早城」と呼ばれていることに対して、安藤本城が「瀬戸子館」、詰めの城が「尻八城」と呼んでいい。」とした(安藤氏の居城は「内真部館」)。 ⇒ ※2022.11に開催された山城フォーラムにおいて、斉藤氏は「内真部・尻八城塞群」の名称を提唱し、安藤氏の本城は「内真部館」と修正した。
- これらの山城は独立してあるだけではなく、近くにある丘陵のそれぞれに砦を設けている。それぞれの拠点は、尾根でつながっているか、また沢・道を挟んで向いにあるなどして、連結している。守る側としては、攻められたとしても移動・退却が容易であり、攻める側としては、軍勢が挟み撃ちにされる危険が常につきまとう「難攻不落」の山城である。
- 山城のあるそれぞれの丘陵は、西に進むと津軽半島の中央尾根までつながる。このため、山城を取り囲むのは事実上不可能である。
- 戦国時代には、既に使用されなかったため改修・改築されていなく、鎌倉時代の山城の形状をそのまま今日に伝えている。⇒青森市文化遺産課による「山城分布調査」において榊原滋高氏は、飛鳥山館の北斜面にある曲輪は、曲輪内が平削していて、切岸もしっかりしていることなどから、戦国時代に形成された可能性が高いことを指摘した。よって、「内真部・尻八城塞群」は鎌倉時代末期に成立し、尻八館(東曲輪)の室町時代に改修、飛鳥山館・瀬戸子館の一部が戦国時代に改修されていることが推定できるようになってきている。
- 同様の山城は、南北朝時代の南朝の雄、楠木正成の本拠地として有名な大阪府千早赤阪村にある鎌倉末・南北朝時代の城館遺構、「千早・赤坂城塞群」であると青森市市史資料編2に記載されている。
- 鎌倉幕府の崩壊につながったとされる「安藤氏の乱・津軽大乱」の外浜安藤氏の陣地・拠点であり、日本史上の価値がある。(敵の西浜安藤氏の拠点は深浦町)
- 新青森市史の時点では、当領域の山城の状況把握が進んでいなかったために、諏訪大明神画詞による「外浜内末部ノ城郭(険阻な城)」は内真部館とその背後の内真部山城であろうと推測されていた。しかし、安藤氏山城群の状況が掴めだしたことにより、「その周囲に構築された「城塞群」全体をさしていることが、実際に発見された遺構から判明する、と斉藤利男氏は講演している(2020/11/18北部市民センター講座「外ヶ浜安藤氏と内真部城館群」)。
- 令和3年に、飛鳥山館と瀬戸子館、湯ノ沢館に相次いで「方形居館」跡が発見された。尻八・内真部城塞群の価値は、さらに高まった。
- 2022年11月19日に北部市民センターで「山城フォーラム ~城塞遺構と遺跡から見る外浜安藤氏の里~」が開催され、斉藤利男弘前大学名誉教授は「安藤氏と内真部・尻八城塞群」を講演された。その中で、「内真部・尻八城塞群」との名称を提唱され、その理由を明らかにした。
千早赤坂城塞群との類似性
※本項目は、2020年11月18日に北部市民センターで開催された斉藤利男弘前大学名誉教授の講演「外ヶ浜安藤氏と内真部城館群」から抜粋した。外ヶ浜安藤氏の本拠であった内真部地区には、外ヶ浜安藤氏の居館「内真部館」跡を中心に、700年前の安藤氏の乱の時に作られたと思われる壮大な「内真部城館群」の遺跡が広がっています。①内真部館と背後の山城跡、②湯ノ沢館跡、③前田蝦夷館跡とその南に広がる山城跡、④瀬戸子館跡、⑤飛鳥山館跡、そして、内真部館北方の⑥尻八館跡です。 それは私たちが考えていたよりも(新青森市史調査時点)、はるかに広範囲にわたる、スケールの大きなもので、700年前の安藤氏の乱の規模の大きさ、影響の深刻さを物語るものでした。 安藤氏の乱を記録した「諏方大明神画詞」は、「彼等カ留守ノ士卒、数千夷賊ヲ催集之、外浜内末部・西浜折曽関ノ城郭ヲ構テ相争フ、両ノ城険阻ニヨリテ、洪河ヲ隔テ雌雄互ニ決シカタシ」と述べていますが、ここで記されている「外浜内末部ノ城郭」とは、内真部館とその背後の山城だけでなく、その周囲に構築された「城塞群」全体をさしていることが、実際に発見された遺構から判明するのです。
実は、こうした城塞群のあり方は、楠木正成が元弘の乱の時に構築した有名な赤坂城・千早城など「千早赤坂城塞群」(「金剛山城」)と全く同じもので、鎌倉時代後期から南北朝時代の合戦の際に構えられた臨時の城館に共通する特徴です。
ちなみに、これら(外ヶ浜安藤氏)の山城の遺構は、臨時の城館にふさわしい素朴なもので、曲輪(平場)の削平は不十分で、切岸も明瞭でなく、広大な範囲にまとまりのない遺構が散在しているのが特徴です。もちろん城主が住む生活空間もありません。その中で目立つのは、これらの遺構を連絡する壕道が発達していることで、壕道自体がすぐれた防御施設となっています。そして、こうした特徴もまた「千早赤坂城塞群」と共通するのです。ただ、その中で④瀬戸子館の遺構は、近世城郭を思わせる巨大な「枡形虎口」を有するなど、安藤五郎家の本拠「内真部館」をはるかにしのぐスケールをもっていて、安藤氏の乱の際の軍の本営として構築されたことをうかがわせます。
とくに楠木正成の千早赤坂城塞群が、室町時代の再利用をへて、原型からかなり変化していると思われるのに対し、内真部城館群は、安藤氏の乱後本格的に使われた形跡がなく、鎌倉末期の姿を伝えていると思われます。それだけに価値の高い、貴重なものなのです。
内真部城館群と安藤氏の乱
この一帯は、鎌倉時代末期の文保二年(1318年)ころに始まった有名な安藤氏の乱(津軽大乱)の中心舞台となった土地であった。乱の顛末を記した「諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)」には以下のような記述がある。
「(蝦夷管領安藤太の)子孫に五郎三郎季久(すえひさ)・又太郎季長(すえなが)というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒(しそつ)、数千の夷賊(いぞく)を催し集め、外浜内末部(そとはまうちまっぺ)・西浜折曽関(にしはまおりそのせき)(現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻(けんそ)によりて、洪河(こうが)(現在の岩木川)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」
この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたると考えられている。内真部館跡の西方の丘陵には「内真部山城跡」の遺構が存在しており、この山城跡が五郎三郎季久(宗季)と又太郎秀長との争い「安藤氏の乱・津軽大乱」の際に構えた「外浜内末部」の「城郭」の一つであった可能性はきわめて高いと「青森市史資料編2古代・中世」では記載している。
※前項で説明したとおり、安藤氏の乱での安藤季久の「険阻な城」は、内真部山城跡のみならず、その周辺の山城(尻八館から飛鳥山館まで)を指すと考えられる。
「安藤氏の乱」とはなにか
安藤氏の乱は、「津軽大乱」、「蝦夷の乱」とも呼ばれている。安藤氏は「蝦夷管領(蝦夷沙汰職代官)職」として、蝦夷に強い影響力を持っていた。元亨二年(1322)春、惣領安藤又太郎季長(すえなが)とその従兄弟五郎三郎季久(すえひさ)が対立する。双方とも鎌倉に上り理非を争ったが、得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)では裁決をすぐには下せなかった。 津軽では、双方とも蝦夷を味方につけて合戦が激化していった。(幕府・中央では、安藤家の内紛よりは蝦夷の蜂起の方が重要な問題であった。)
そうこうしているうちに蝦夷蜂起については季久が一定の戦果をあげ、北条高時はその功績を認めて「地頭代官職」や「蝦夷沙汰職」を季長から季久に改替した。季久はこれを契機に改名し、宗季(むねすえ)と名乗る。
季長は収まらず、自分に従う一族のものや蝦夷の軍勢で、宗季になおも抵抗した。両軍は外浜の内末部(宗季)と西浜の折曾関・現深浦(季長)に城郭を構え、相対した。
正中三年(1326)得宗家は有力得宗御内人、工藤貞祐を「蝦夷征罰」のため鎌倉から進軍させる。これにより季長は敗れ捕虜として鎌倉に護送された。 季長派は従兄弟の季兼が戦を継続し、翌年、宇都宮高貞・小田高知らを「蝦夷追討使」として派遣したが、抵抗は激しく嘉歴三年(1328)ようやく和談にこぎつけた。
【解説】
文永五年(1268)俘囚(蝦夷)の反乱が起きる。この反乱に関連して、蝦夷管領安藤五郎(太郎)が蝦夷に殺害されている。安藤五郎の殺害については「日蓮聖人遺文」 建治元年(1275)に「信仰に厚い人がどうしてこんなにことになったのか(大意)」と記載されている。
蝦夷の反乱時点での安藤家惣領(安藤五郎)は、季久の家系であった※。季久の通り名は「五郎三郎」である。つまり、蝦夷沙汰職にありながら蝦夷を抑えられなかった罪を幕府に問われ、蝦夷沙汰職が季長の家系にすげ替えられたのではないかというのである。
※新青森市史史料編では、この説をとっている。
安藤氏には様々な家系があるが、東側(外浜内真部)と西側(西浜)の両家に力があり、当時の本州の蝦夷が津軽・外浜と下北、出羽地方に根拠地があったことも関連しているようだ。
元応二年(1320)~元享二年(1322)、出羽の蝦夷の蜂起があった。
「出羽の蝦夷を押さえられない季長・西浜に蝦夷沙汰職を任せるべきではなく、安藤五郎の時と同様に蝦夷沙汰職を交替すべき。」というのが、季久・外浜、側の言い分だったとかもしれない。
正中二年(1325)、蝦夷沙汰代官職が安藤秀長から安藤季久(宗季)に交替されるが、俘囚(蝦夷)の押さえに季久の方が成果を上げたことにより、その勲功を認め代官職の交替という裁定が下ったのではないかとみられている。
蝦夷沙汰職を取るということは、北条得宗家の所領である「津軽半島突端、今別・三厩」と「下北」の事実上の支配権を得るということである。安藤氏は得宗北条氏の被官であり、血筋よりも、役職=権力の移動に伴い、惣領家が代わるということのようだ。
安藤家惣領となった宗季は、外浜は次男「五郎二郎家季」に継承させたとみられています。外浜安藤氏は安藤家惣領家として、拠点を津軽内陸の尻引の地(藤崎付近)に移し、その後でさらに十三湊に拠点を移していきます。
⇒ 「安藤氏の乱」については、こちらに詳しくまとめてあります。
「安藤氏の乱」の流れ 年表
安藤氏の乱に関わるできごとを、メモしておきます。- 元久3年(1206)、安藤五郎、執権北条義時の代官として、蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)に補任される。
- 文永5年(1268)、この年津軽蝦夷の反乱が起こる。
- 1275 建治元年(1275)、日蓮、この事件を蒙古襲来と並ぶ国家的事件として重大視する「日蓮聖人遺文」。※日蓮は蝦夷管領安藤五郎が蝦夷に「頸を取られた」ことを記録する。安藤五郎が殺されたのは、蝦夷の反乱のあった文永5年とみる説と日蓮が「日蓮聖人遺文」として書いた建武元年とみる説がある説があるが文永5年の頃が有力か。
- 元応2年(1320)、「出羽蝦夷」蜂起する。蜂起は翌々年の元亨2年に至って大規模化し、安藤氏の乱(津軽大乱)に発展する。
- 元亨2年(1322)、「蝦夷蜂起」大規模化する。事件は蝦夷管領安藤氏一族の内乱に発展し(安藤氏の乱・津軽大乱)、五郎三郎季久(宗季)・又太郎季長の両派が、それぞれ「数千の夷賊」を率いて、季久は外浜の内末部(現在の青森市内真部)、季長は西浜の折曾関を本拠に争う。
- 正中元年(1324)、幕府、蝦夷調伏のため、執権北条高時邸および鶴岡八幡宮にて、「五檀護摩」の修法を行う。
- 正中2年(1325)、執権北条高時、蝦夷静謐の功祈の功を褒める書状を金沢称名寺に送る。
- 正中2年(1325)、幕府、安藤又太郎季長の蝦夷沙汰代官(蝦夷管領)職を更迭し、五郎三郎季久(宗季)を新代官に補任する。
- 嘉暦2年(1327)、安藤季長の郎党(従兄弟)季兼らの抗戦により、安藤氏の乱なお続く。常陸の小田氏、下野の宇都宮氏、「蝦夷追討使」として津軽下向を命じられ、一族に戦死者を出す。
- 嘉暦3年(1328)、安藤氏の乱、和談によりようやく静まり、宇都宮氏・小田氏の軍勢、鎌倉に帰参する。※※和談の条件は明確ではないが、秀長派の所領の一部「関・阿曾米(前)」・現深浦地域は、後家取り分として認められている。季長の嫡子や季兼は秋田・小鹿島(男鹿半島)へ本拠を移している。
- 元徳2年(1330)、安藤宗季、安藤季長旧領の津軽西浜(関・阿曾米(前)を除く)を嫡子五郎太郎高季に譲る。
※新青森市史 資料編2 古代・中世
⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 鎌倉~南北朝時代」は、こちら!
⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 室町~江戸時代」は、こちら!
⇒ 「安藤氏に関わる歴史年表」は、こちら!
山城ビデオ
ユーチューブチャンネル『山城の里』 (←クリック)に動画を掲載しています。そちらからの方が動画を楽しめるのでお勧めします。
1.「尻八館西路壕道群」:青森市後潟地区にある『尻八館跡』は青森県立郷土館の調査、新青森市史資料編2の調査がされています。郷土館の発掘調査によって、東曲輪では建物跡も見つかっています。尻八館は、遺物から室町時代の山城とされていますが、それ以前の形態はよくわかっていません。この動画では、これまでの調査の範囲外に「壕道群」があり、外浜安藤氏時代の山城の形態を垣間見ることができます。当初は、西曲輪、東曲輪と使われていた尻八館が、室町時代の改修後東曲輪中心に使われたという流れが推察できるでしょう。
2.「瀬戸子館跡 外ヶ浜安藤氏本城」:青森市北部地区にある『瀬戸子館跡』は、令和元年に発見されました。この発見によって、外ヶ浜安藤氏の山城群が「ひとつながり」であることがわかました。瀬戸子館跡を、現地調査した弘前大学名誉教授の斉藤利男氏は、瀬戸子館跡を軍事拠点としての立派さから外ヶ浜安藤氏の本城とも呼べるような規模と防御遺構があるとしました。
3.「安藤氏山城 瀬戸子館跡探訪」:この動画は、2021年10月18日に開催された、青森市北部市民センターの野外講座での様子から、山城を構成している遺構を説明しています。
4.「瀬戸子館跡 長土塁」:瀬戸子館跡の北斜面を登って尾根に出ると、土塁があり、そこから麓まで約1.4km続く長土塁があります。単なる防御施設としては手が込んでいて、「野牧(馬の牧場)」の可能性があります。
5.「南部藩野牧相内野」:青森県南部町剣吉公民館から車で15分ほどの山間に『相内野(あいないの)』という"野牧(のまき)"、馬の牧場跡があります。南部藩の南部九牧の一つで、中世時代からあっただろうと推定されています。『野牧』とは、山の中にある牧場とは、いったいどんなものなのかを見に行きました。
6.「瀬戸子館跡 尾根段築群」:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。 内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から尾根筋に沿って10段で構築されている『尾根段築群』を紹介します。
7.「瀬戸子館跡 脇段築群」:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から尾根段築群の隣にある『脇段築群』を紹介します。
8.「瀬戸子館跡 林Ⅰ段築群」:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から脇段築群の隣にある『林Ⅰ段築群』を紹介します。
9.「尻八館城址探訪」:青森市後潟地区にある『尻八館跡』は青森県内で最も著名な山城です。 潮潟安藤氏が築城し、南部氏が大改修したという歴史があります。 尻八館跡を理解できるように、通常の行程だけではなく、より山城が理解できるように深めたコースで探訪しました。
10.「油川城跡探訪」:青森市西田沢地区にある『油川城跡』は大浦為信が津軽独立の戦いで落城した城です。油川城跡の内郭は現在は畑地ですが、城の西側、南側には城郭遺構がはっきりと残っています。油川城は、内真部城館群には含まれませんが、ご覧になってください。
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- 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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