前田蝦夷館跡

 青森市北部(後潟・奥内・西田沢地区)は、安藤氏(安東氏)に関連する城跡・館跡が集中して見つかっているエリアです。その中から、前田蝦夷館跡(まえだえぞだて)をご紹介します。
 前田蝦夷館は内真部城館群の中でひときわ堅固で、規模は大きくないとはいえ、戦乱の長期化の中で建設された本格的城郭であると新青森市史資料編で説明されています。 
 蝦夷館とは(北日本の?)昔の人が城跡・館跡だと伝えられているが、その由来が不明なものを蝦夷と結びつけて「蝦夷館」と呼び、蝦夷館と呼ばれていた遺跡の多くは平安時代の防御性集落で周りに堀をめぐらせているものだということです。前田蝦夷館の名称は、山頂を周壕で囲んでいる形状が「平安時代の防御性集落」と似ていること、戦国時代に使用されず、安藤氏時代の城主名が忘れられたということがあるのではないかと新市史の中で説明されています。
 なお、青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。前田蝦夷館遺跡は令和5年5月と令和6年10月と11月に調査が実施されています。⇒「山城分布調査

※尻八・内真部城塞群については、別ページにまとめてあります。⇒「尻八・内真部城塞群
※安藤氏については、別サイトにまとめてあります。⇒「下国安東氏ノート

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1.前田蝦夷館跡
2.前田蝦夷館跡模式図
3.城跡の状況
4.城館遺跡への大手道
5.城館遺跡からの搦手道
6.南方山城遺構の概要
7.前田蝦夷館・南方山城遺構のルートと主な遺構
8.平場状遺構の概要
9.城趾用語解説
10.山城の時代

11.写真アルバム
12.前田蝦夷館・南方山城遺構
 
写真をクリックすると、大きな写真にリンクします!  

前田蝦夷館跡


 前田蝦夷館跡は、このサイトで紹介している「蝦夷館山守護神御堂」の後の丘陵北側の尾根にある。(前田蝦夷館跡の北側の山裾には湯の沢が流れていて、その北側には「湯ノ沢館跡」がある。)
 標高50~40mの丘陵先端部を占地し、南北120m・東西20~55mを二重の周壕(一部は一重)で囲み、その中に南北二つの曲輪と中間の曲輪を設けた城郭である。
 前田蝦夷館のつくりで特徴的なのは、城郭をめぐる周堀が「堀」というより、斜面を削って切岸と腰曲輪(斜面の中腹に設けた曲輪)をつくり、腰曲輪の縁辺に土を盛って堀状にしたものであり、このため、切岸の高さも3~4mと高く、5mに達する場所もある。
 前田蝦夷館は内真部城館群の中でひときわ堅固で、規模は大きくないとはいえ、戦乱の長期化の中で建設された本格的城郭とみえる。前田蝦夷館とその南に広がる「南方山城遺構Ⅰ・Ⅱ」は、安藤氏の乱の長期化の中か、南北朝動乱の中で構築され、利用されたものではないかと考えられている。
前田蝦夷館跡のある丘陵
前田蝦夷館跡のある丘陵 写真中央のピークから右側の丘にある
 
立地
前田蝦夷館跡は、青森市中心市街地の北西、JR津軽線奥内駅から南西へ約1.7km、海岸からは約1.9km内陸に入った地点にある。山域は南北に約0.8km、東西に約0.7kmある。標高は84.0m。所在地は青森市前田字中野。南方山城遺構は、奥内字平塚。
(※山域の西端と標高は、遺構が確認されているエリアと連動する。)

見どころ
頂上にある「北曲輪」と「南曲輪」。それを囲む二重の周壕、壕道(壕のように掘り込んだ道)、切岸と腰曲輪。「南方山城遺構」に続く尾根道。

アプローチ
 国道280号バイパスを北上して、奥内川を渡る。先に進むとバイパスの両側に神社の林が見える。その山手に、三社神社の林と祠の林が道の両側に見える。そこを過ぎるとすぐに、右手に「前田町会」の看板が立っている。その交差点(角に家屋あり)を左折して、新幹線高架橋を越え、道の行き止まりの丘陵までたどり着く。そこに停車し、丘陵わきの道を北に歩いてすぐに「蝦夷館山守護神御堂」の、幟・のぼり用のポールが2本立てられていて、「前田蝦夷館跡」の標識も立っている。
 前田蝦夷館跡は、御堂のある丘陵の右(北)側の山頂に位置する。たどり着くには次のコースがわかりやすい。
 まず、「蝦夷館山守護神御堂」への階段を御堂まで登る。御堂を正面に見て右手に石碑が立てられている。石碑を左手にして、その前方の林に入り、尾根伝いに斜面を登っていく。十分程度で前田蝦夷館跡の「南曲輪」にたどり着く。
蝦夷館山守護神御堂へリンク
→ Google map へ リンク前田蝦夷館跡mapへリンク
右のアイコンが登り口にある前田蝦夷館御堂、左が前田蝦夷館跡の地図にリンクします。

《 神社口から南・中・北曲輪ルート 》
 大手道は見つけにくく、「蝦夷館山守護神御堂」の社殿まで階段で上り、社殿脇の斜面を上がって行くのがわかりやすい[神社口]。山方向に登っていけば、下の周壕を過ぎて、南曲輪下の周壕に出る。山に向かって右手に進めば、中曲輪、北曲輪がある。曲輪下の周壕は一周できる。

《 大手口から南方山城遺構Ⅰへのルート 》
 アプローチで説明した駐車スペースの山側が伐採地になっている。駐車スペースの山に向かって左手に川を浚渫した残土が盛られている。[大手口]は残土の山が切れた辺りの裏側になる。林に入りやすい箇所から入山する。右手方向に尾根筋がある。大手道はその尾根筋にある。上がりきると前田蝦夷館と南方山城遺構Ⅰとの連絡路になっている。谷を背にして右手方向が前田蝦夷館。左手方向が南方山城遺構Ⅰへのルートになる。

《 前田蝦夷館連絡路から中央路ルート 》 前田蝦夷館・南方山城遺構のページで説明
《 南方山城遺構Ⅰから南方山城遺構Ⅱへの中央路ルート 》前田蝦夷館・南方山城遺構のページで説明

覚え書き
前田蝦夷館跡のにある山は、昔は立木がなく、冬はスキーやソリ遊びができたとのこと。ふもとにある蝦夷館お堂の元となる祠は、北曲輪内に建てられて(数十年前)祠から前田村(現前田町会)の家々が見渡せたそうです。前田蝦夷館の山のズキは、戦後のスギ・人工林造林に呼応して植林したものだそうです。

前田蝦夷館跡遺構模式図

前田蝦夷館跡遺構模式図   
  前田蝦夷館跡模式図
  新青森市史資料編の図面をトレースしました。
  図面の実線と点線との関係は、実線の方が点線よりも高くなっています。

蝦夷館跡標識蝦夷館山守護神御堂と御堂右脇に立つ石碑前田蝦夷館跡への登山経路入口
蝦夷館跡標識、蝦夷館山守護神御堂と御堂右脇に立つ石碑、前田蝦夷館跡への登山経路[神社口]
 上記アプローチに書かれている蝦夷館跡標識と階段を上がっての御堂、そして御堂右脇の石碑です。石碑の後に見えている林の中が下草もなく、曲輪まで登るのに適しています。

城跡の状況

 アプローチに書いてあるように進むと、山頂付近で一段目の周壕にぶつかります。一段目の周壕は深くえぐれているのではなく廻廊のようになっています。それを上がると二段目の廻廊になり、「南曲輪」が目の前に現れます。上れない程の急斜面という程ではありません。上がると南曲輪になり、ほぼ楕円形の広場になります。(現状は杉や灌木が生えています。)右手に廻廊を見ながら北の方角に進むと空堀のようになり、中央の曲輪(「小曲輪」)で仕切られています。
 南曲輪は南北60m・東西20mと細長く、ほとんど整地されておらず、南から北へ高度差8mで傾斜しています。

 曲輪の下にある二段目の周壕(廻廊)で、前田蝦夷館跡(山城)を一周することができます。二段目の周堀は尾根筋の場所では崖側に土盛りして高くなり(腰曲輪)、廻廊が堀状になっている箇所もあります。
 山城は丘陵の北側にある湯ノ沢から、敵が侵入することを想定しているらしく、北側が厳しい地形になり、南側は自然の地形を活かしたものになっています。つまり、切岸の高さは北側が高くできています。
 山城としていた時には、切岸(城の石垣が土でできていると想像してください。)の上の曲輪には、防御のための木塀が建てられていたでしょうから、かなりな防御機能だと思われます。敵兵が周壕(廻廊)に上がった際には、身を隠すものがなくなり、格好の標的となります。
 アプローチで説明した第二段目の廻廊へ到達したポイントから、曲輪に向かって右手方向・北側に廻廊を進むと南曲輪を終え、南曲輪と北曲輪を分ける中央の堀(一本目の堀は目線が高く、気づかないかもしれません。)の北側が壕道のようになっていて、「北曲輪」に上がるのが容易です。北曲輪の縁を周ると、廻廊と高さが実感できます。
 北曲輪の規模は南北50m・東西55m、内部はある程度削平されていて、北東側が一段低くなっています。

 曲輪に登るだけでなく、ぜひ第二段目の廻廊を回って、切岸の高さや山城の全体を見てください。廻廊はいったんは下がり、北曲輪を周り出してから、徐々に登り勾配となり、前に説明した中央の小曲輪の堀・壕道の裏側にたどり着きます。
 この辺りの周堀が二段になっているのが、よく見える場所で、「虎口」として壕道が下にくだる「搦手道」として湯ノ沢館跡のある山腹にたどれる道となっています。

 そこから、少し進むと南曲輪の周りに入り、南曲輪に上がりやすい地点があります。
 その先をさらに進むと南曲輪の南端に出ます。少し回った所も「虎口」とされ、廻廊と南曲輪とにもっとも近い地点です。南曲輪に上がるのが容易です。
 
 写真はふもとから登り、南曲輪へ。南曲輪を一周し、第2周壕へ降りてから北曲輪へ。北曲輪を一周し、搦手道側へ出て、第2周壕を回り、一部第1周壕へ降りてたどってから、第2周壕にもどって、下山するという経路にそって紹介しています。

蝦夷館跡の南曲輪切岸
蝦夷館跡の南曲輪切岸 北曲輪に比べ南曲輪の方が高度が高い。第2周壕に立っての、南曲輪の切岸です。

南曲輪「虎口」付近、左方向へ向かうと「南方山城遺構」
南曲輪「虎口」付近、左方向へ向かうと「南方山城遺構」 南曲輪南端にある虎口付近。左手方向の尾根すじを進むと南方山城遺構Ⅰに向かいます。

前田蝦夷館・南曲輪南端の周壕
南曲輪南端の周壕 虎口付近の周壕。第2周壕を回ると前田蝦夷館跡を一周できます。

南曲輪の中から第2周壕をみる
南曲輪の中から第2周壕をみる 南曲輪に上がって、第2周壕を覗いています。切岸の高さがわかりますか。

南曲輪の内部
南曲輪の内部 南曲輪の内部は、ほぼ自然地形です。南端が高く、北に向って低くなっています。

 南曲輪、北側の平場
南曲輪、北側の平場  南曲輪の北側の平場。背中側に北曲輪が位置します。

  蝦夷館・南曲輪と小曲輪を分ける周壕
蝦夷館・南曲輪と小曲輪を分ける周壕  南曲輪と北曲輪の間が二重の周壕で区切られ、小曲輪を設けています。
 
  北曲輪と小曲輪を分ける周壕
北曲輪と小曲輪を分ける周壕  南曲輪から北曲輪に行くためには、間の2本の周壕を越えていくことになり、移動は簡単ではありません。南曲輪の搦手道側、第2周壕に一旦降りてから、北曲輪に入ります。小曲輪の周壕が高い位置にあるのがわかりますか。

御堂裏手の斜面を登って第一廻廊付近 この写真を下へ
北曲輪と小曲輪を分ける周壕  北曲輪の西側にあるテラス状になった周壕から、北曲輪に上がります。
 
北曲輪内にある段築
北曲輪内にある段築  北曲輪内部は頂部分は自然地形のままで、頂部の脇を削り、段築を設け、かつ平場をこしらえてあります。

北曲輪内から第2周壕をみる
北曲輪内から第2周壕をみる  北曲輪の東側(海方向)の平場は2段になっていて、周壕側が低くなっています。そこから、周壕を見ています。
 
北曲輪からみる第2周壕の様子
北曲輪からみる第2周壕の様子  北曲輪の北の端からみた、第2周壕です。

前田蝦夷館・裏手の第2廻廊
前田蝦夷館・裏手の第2廻廊  北曲輪の南端の裏手(海から見て)、西側の搦手道の上部の周壕はテラス状になっていて、この方角から来る敵の見張り台のようになっています。
搦手道に続く谷
搦手道に続く谷  テラス状の第2周壕から、第1周壕と合わせて、搦手道に続く谷を見ています。搦手道を進むと「湯ノ沢館跡」の麓に出ます。

北曲輪の北側に位置する第1周壕
北曲輪の北側に位置する第1周壕  前田蝦夷館跡の第1周壕は崖等により一部途切れていて、一周することはできません。北曲輪の北側の第1周壕に降りて、正面にはふもとの道が見えています。向かいの山は「湯ノ沢館跡」のある山です。
 
北曲輪の北側に位置する第1周壕
北曲輪の北側に位置する第1周壕  第2周壕の方が手がかけられていて、幅広くなっています。第1周壕はさほど平坦にはしていません。

前田蝦夷館・北曲輪切岸
前田蝦夷館・北曲輪切岸  前田蝦夷館跡の切岸は、北曲輪の北側がもっとも高くなっています。曲輪の周りには、防御用の塀があったでしょうから、切岸と合わせて敵勢が曲輪内に侵入することは、容易ではなかったと思います。
 
前田蝦夷館・第2周壕腰曲輪
前田蝦夷館・第2周壕腰曲輪  写真では、左側の土手の高さがわかりずらいのですが、山を掘り出して、周壕をつくり、かつ左手の方向の尾根を登ってくる敵を撃退できるように(軍勢を隠しておけるように)腰曲輪となっています。

北曲輪切岸と第2廻廊(周壕)
北曲輪切岸と第2廻廊(周壕)  第2廻廊をほぼ一周して、蝦夷館お堂脇の斜面からの登り口に向っています。

城館遺跡への大手道

 「アプローチ」で説明した駐車スペースの正面の植林地・ブッシュに大手道の入口があったのではないかと思います。現在は杉を切ってヒバを植林し下草が刈られていないため、元の入口を見つけることは困難です。
 植林地に向かって左手方向・南のすぐ脇にその隣の林に入れる箇所があります[大手口]。そこから、谷を歩いて上がります。右手を見ながら、植林地が切れそうな辺りで尾根筋に上がります。現状で鉄製はしごが立っている地点の少し先・上に、植林地を見下ろすことができる地点で、大手道の古道にあたります。背中を植林地に向けて、右手方向・谷側の尾根の道です。
 古道は少し掘られていてはっきりしています。そのライン上を登ってください。
 最後に尾根にでます。谷を背中に、右手方向・北に向かうと「前田蝦夷館跡」の南曲輪です。左手方向・南に向かうと「南方山城遺構Ⅰ」です。この尾根筋道を[中央路]とします。南方山城遺構Ⅰの入口にあたる「土橋」のある場所とはそんなに離れていません。
 この位置に道を造ったということは、前田蝦夷館と南方山城遺構は同時期に使われていたと考えますが、いかがでしょうか。
・大手道入り口は「蝦夷館山守護神御堂」幟ポールから、南へ約70m。

前田蝦夷館と南方山城遺構への大手道
前田蝦夷館と南方山城遺構への大手道  写真は、もう少しで尾根道に出ようという辺り。

城館遺跡からの搦手道

 「前田蝦夷館跡模式図」の中央にある「虎口」の箇所が搦手道となっています。 「城跡の状況」で説明してある、西側の「二つの曲輪の中間付近」の第2廻廊(下側の周道)は、監視のためとみられる広めの平場につくられています。搦手道は谷筋からの壕道となっていて、第一廻廊までつながっています。
 谷への傾斜はかなりあります。谷まで下りてしまうとそこから先の下りはほぼ平坦です。(現状はブッシュ状態)。進むと伐採地に出るのですが、古道の上に切り出した丸太が置かれていて、その上にツタ類が繁り、移動は困難です。谷筋を通ると伐採地の木材を搬出した作業道にあたり、湯ノ沢館跡の真向かいに出ます。
 蝦夷館のある山の、湯ノ沢側の傾斜はかなり厳しいので、この搦手道が湯ノ沢館との連絡通路だったと思われます。
 

南方山城遺構の概要

 海側から見て、前田蝦夷館跡のある丘陵の北1/3が「前田蝦夷館の山城」であり、南側が「南方山城遺構」になっています。南方山城遺構は、前田蝦夷館跡と連結する山城です。近年、新青森市史編纂のための調査で発見されました。
 戦の防衛拠点としての機能は前田蝦夷館の山城にあり、「南方山城遺構」は前方の軍勢拠点の機能であると思われます。
 
※南方山城遺構については、別ページにまとめてあります。⇒「南方山城遺構
前田蝦夷館跡と南方山城遺構との位置関係
  前田蝦夷館跡と南方山城遺構との位置関係
  新青森市史資料編の図面をトレースしました。
 ※この地図の緑部分、南方山城遺構Ⅰ・Ⅱのエリアは実際には、もっと広いはずの箇所や狭いはずの箇所があります。
 ※詳しくは別ページで報告!
 
 南方山城遺構は二つのブロックとして、新靑森市史史料編古代・中世に記載されています。  主な遺構の説明と写真は詳しいページで御覧ください。

南方山城遺構Ⅰ

  • 北側連絡路遺構 (1)東土橋と切岸→虎口状の施設、  (2)3重の見張り台
  • 東側入口と頂上平場
  • 東側尾根すじ遺構−東見張台
  • 北側入口遺構と西側入口遺構
  • 南側南東斜面の段築 

南方山城遺構Ⅱ

  • 中央尾根すじ−土塁と壕道
  • 南方尾根すじ−土塁と壕道
 
入り口 ルート 行程 主な遺構
神社口   社殿脇~南曲輪周壕~中曲輪、北曲輪 南曲輪・中曲輪・北曲輪と周壕、北曲輪切岸
大手口 大手道 大手口~南曲輪から南方山城遺構への尾根筋連絡路 連絡路見張り台、東土橋
  中央路 尾根筋連絡路~南方山城遺構Ⅰ~1.5 西堀道、北堀道、東見張り台、西土橋、南東斜面・見張り台
  中央路 南方山城遺構1.5~山城遺構Ⅱ 南方山城遺構Ⅱ土塁
 

平場状遺構の概要

  「アプローチ」で説明した駐車スペースの山に向って左手・南方角の、山縁に道があります。南方向にたどっていくと、2階建ての倉庫があり、その裏側が「平場状遺構」です。南方山城遺構Ⅰの谷側にあたります。青森市史では「前田蝦夷館跡から東南へ約200m離れた丘陵東山麓には、段築によって多くの平場をつくりだした場所があり、同時代の城館跡(平場状遺構)とみられる。」と説明しています。
 この平場状遺構は、「南方山城遺構Ⅰ」の頂部平坦地の東の麓に位置し、重要な戦略地であることがうかがえます。

○平場状遺構の現状説明
・平場状遺構は、「蝦夷館山守護神御堂」の参道手前の駐車スペースから、少し南に進んだ位置が北端となる。
・平場状遺構の南端は、道に接して2つある建物の南側の作業小屋の位置にほぼ等しい。
・道の北側にある最初の建物が平場状遺構のほぼ中心に位置している。
・「南方山城遺構Ⅰ・東見張台」の南端からの小尾根を下ると平場状遺構の北端となる。
・平場状遺構には腰高程度の段築が全域に渡って連なっている。その上下にそれよりも切岸が低い段築がある。
・平場状遺構の南端(2つある小屋の南側より少し南)には、斜面を5段に切った段築群がある。幅は15m程度である。
・5段段築群から北に進むと、堀があり方形区画になっている。
・平場状遺構にある方形区画は一辺が約28mの方形の上に約14mの方形を重ねた形状をしていて、斜面は平らにしていない。建物の敷地ではないとみられ、上下の堀を縦堀で連結した防御性遺構か。
・方形区画から北に進むと、斜面を削って小屋を建てることができる平場が上下に3箇所ある。幅一間半のお堂の敷地かと考えられる。
・さらに北に進むと、道に接するように長方形の平場がある。上記平場とセットなのかもしれない。山城遺構というよりは、宗教施設と考えられる。
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平場状遺構の北端の段築
平場状遺構の北端の段築  平場状遺構では、切岸の高さが「腰高程度」の段築が全域に連なっている。
 
平場状遺構にある5段段築群(南端)
平場状遺構にある5段段築群(南端)  斜面を5段に切った段築群がある。幅は15m程度である。
 
平場状遺構にある5段段築群(北端)
平場状遺構にある5段段築群(北端) 上の写真は段築群の南端。この写真は段築群の北端から撮影している。
斜面にある平場(神社跡地か) 
斜面にある平場(神社跡地か)  斜面を切って平場を造り建物敷地としたような場所が3箇所ある。
 

城趾用語解説

曲輪 くるわ
曲輪は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭とも書く。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。

切岸 きりぎし
切岸とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く作られた。 角度が(目標とする切岸よりも)ゆるい斜面を削って切岸にした場合、削った土は上の郭に上げることもあるが、多くの場合は下に捨てられる。切岸の高さが上部の郭から一定になるように削ると、必然的に腰曲輪ができる。削った土は、腰曲輪の拡幅に用いられることも多い。

腰曲輪 こしぐるわ
山城・平山城・丘城などで、斜面の中腹に設けた曲輪。斜面の勾配が比較的緩やかで、そのままでは防御機能が十分でない場合に設ける。

周壕 しゅうごう
考古学では普通,古墳の周囲に掘られた堀をさす。本文では曲輪の周りの堀を指す。

空堀 からぼり
水のない堀のことで、主に山城などで用いられており、平常時には底を通路として使用できる。

虎口 こぐち
虎口とは中世以降の城郭における出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「小口」とも書く。

土橋 どばし
虎口の前を通路分だけ残して左右に堀を掘った場合、出入りのための通路を細い土手として残したものである。前田蝦夷館跡(南方山城遺構Ⅰ・Ⅱを含む)の場合は、谷を削って「土の橋」にしたような箇所と、尾根筋に土盛りをして高さを合わせたような箇所がある。よって「土橋状」と表現している。

山城の時代

 この山城が機能していただろう時代のメモをつくります。山城を攻めてくるだろう敵国はどこだったのでしょうか。

 近くにある内真部(4)遺跡は、「内真部山城群」の中で唯一発掘調査が行われていて、多数の平泉系の「手づくねかわらけ」が出土し、平泉藤原氏との密接な関わりを推測されています。※内真部(4)遺跡は内真部館跡の南側向かいの山ふもと、つまり、湯ノ沢館跡の山の北東側ふもとに位置します。
 1126年に藤原清衡(初代)が、白河関から外の浜まで一町ごとに笠卒都婆を建てています。
 1185年、鎌倉時代が始まり、1189年には、四代藤原泰衡が源頼朝に滅ぼされています(義経の死)。
 1268年頃、俘囚(蝦夷)の反乱により、蝦夷管領安藤五郎が蝦夷に殺害される。
 1274年、元寇・文永の役。そして、1281年、元寇・弘安の役。 

 鎌倉幕府の弱体化は、元寇(蒙古襲来)と「津軽大乱」によるともといわれていますが、その「津軽大乱」つまり安藤氏の「蝦夷沙汰職相続を巡る争い」が1322年~1328年の間続きました。(蝦夷を押さえるにはどちらが適任か、蝦夷管領=蝦夷沙汰代官職を握る家が一族の惣領となる)
 地政学的にいうと外ヶ浜の安藤氏(季久・すえひさ)と日本海側の安藤氏(季長・すえなが)の戦いです。この頃、蝦夷の反乱(津軽蝦夷、出羽蝦夷の双方で)が起きていて、押さえるべき蝦夷沙汰代官の安藤家がいとこ同士でまっ二つに分かれ、蝦夷も連動しての戦いとなったものです。⇒ 「安藤氏の乱」についてのまとめはこちら
 この時代が第1候補です。その場合は、敵国は安藤氏(日本海側拠点)となります。

 1331年元弘の乱。鎌倉幕府倒幕のため、後醍醐天皇と楠木正成らが挙兵した。
 1333年に、鎌倉時代が終わり、南北朝時代は1336年~1392年の間です。青森県内でも南朝方、北朝方に分かれ、武将が離合集散して戦いました。安藤氏の一族も、南朝方、北朝方に分かれたようです。
 この時代が第2候補です。敵国は南朝方に立つ南部氏と南朝に与する安藤氏の一族です。
※私は、第1候補としてあげた「安藤氏の乱」の際に造られた山城だと考えています。
 
 1335年、南部師行(もろゆき、根城南部)、北条得宗領の外ヶ浜内摩部郷(現青森市)のうち、泉田、潮方(後潟)、中沢、真坂を与えられる。
 1432年には、安藤康季(やすすえ)が南部義政(よしまさ、三戸南部)に十三湊を攻められて敗れ、蝦夷島に撤退。その後幕府の調停により、十三湊へ帰還する。しかし、1442年には、安藤康季が再び南部義政に敗れ、十三湊を追われ蝦夷島に渡ります。
 南部氏は、十三湊陥落ののち、潮潟安藤師季・(後に政季-盛季の弟の孫)を安藤氏当主にすえる。
 1445年には、南部氏に蝦夷島に追われた安藤康季が津軽奪回のため攻め入ったが引根城で病死し、1453年には、父の遺志を継いで安藤義季が再度津軽に侵攻したが、南部勢に攻められ自害し、ここに安藤氏嫡流が断絶します。
 尻八館(後潟城趾)は15世紀後半に機能していた城郭跡で、築城(改修)の手法に、南部氏の影響が見られるとされています。

 「蝦夷館跡」を含む内真部城館群が機能していただろう時代は、14世紀~14世紀中頃のあたり、1590年秀吉から大浦為信と南部信直が津軽・南部支配を認められた頃からみても200年以上も前のことです。

※新青森市史 資料編2 古代・中世

 ⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 鎌倉~南北朝時代」は、こちら!
 ⇒ 「安藤氏に関わる人物伝 室町~江戸時代」は、こちら!
 ⇒ 「安藤氏に関わる歴史年表」は、こちら!
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 南方山城遺構 - 湯ノ沢館跡 - 西方山城遺構 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊


プロフィール

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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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