湯ノ沢館・西方山城遺構
湯ノ沢館跡は、「湯ノ沢山の頂部には、周辺を周壕で囲まれた単郭の「湯ノ沢館跡」が存在し、館跡から南の山麓に下りる堀道は現在でもはっきり確認できる。」と新青森市史資料編で説明されています。このように「単郭(曲輪が一つ)」というのが現状の認識ですが、曲輪が一つきりでないばかりかその西方約1.3kmまで遺構があることがわかりました。「西方山城遺構」という呼称は、前田蝦夷館の南方に位置する山城遺構を「南方山城遺構ⅠとⅡ」と新青森市史で名付けていることに準じたものです。
※青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。⇒「山城分布調査」
※尻八・内真部城塞群については、別ページにまとめてあります。⇒「尻八・内真部城塞群」
contents 12件。スマホの方は、右にスライドしてください。
| 1.湯ノ沢館跡・二の陣地、西頂部と西方山城遺構 2.二の陣地、西頂部と西方山城遺構の遺構配置図 3.入山路 4.湯ノ沢館・二の陣地、西頂部 5.湯ノ沢館・二の陣地、西頂部から西壕道 ➀ 6.西壕道➁ 7.三の陣地 西方山城遺構の壕道・高土塁 |
8.終端の丘 9.三の陣地 尾根部分 10.湯ノ沢館跡の遺構位置図・ルートと主な遺構 11.湯ノ沢館のまとめ 12.二の陣地、西頂部・西方山城遺構へのコース 13.写真アルバム 14.湯ノ沢館跡 |
湯ノ沢館跡・二の陣地、西頂部と西方山城遺構
湯ノ沢館跡は、このサイトで紹介している「前田蝦夷館跡」のある丘陵の「湯ノ沢川」を挟んで北側にある丘陵にある。つまり、前田蝦夷館跡の向かい側に隣接し、湯ノ沢館の北には「内真部山城跡」があります。内真部館は「蝦夷の乱・安藤氏の乱」での一方の当時者である安藤季久の居館であると想定されています。諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)に「外浜内末部・西浜折曽関の城郭を構えて相争う。二つの城険阻によりて、洪河を隔て、雌雄互いに決しがたし。」と記載されている安藤季久の城はどこなのかが比定されてはいません。新青森市史史料編古代・中世においては、内真部館跡とその後方にある内真部山城跡か、とは書かれてはいるのですが、内真部山城跡は防御施設に乏しく「逃げ込み城」としてはいいのでしょうが、「城険阻」と称される程の城跡ではありません。
とすれば、湯ノ沢館跡の城としての機能・防御施設が明らかになれば(研究者の認知を受ければ)「安藤氏の乱」の舞台となった城として一躍浮上するものと考えています。
※湯ノ沢館に関する新青森市史資料編に記載されている紹介記事は、
湯ノ沢館跡のページでご確認ください。⇒「湯ノ沢館跡」
見どころ
アプローチ
二の陣地、西頂部と西方山城遺構に行くには、湯ノ沢館の南側の「湯ノ沢」沿いの道を進み、送電線保安路から尾根をめざすコースが効率的である。
国道280号バイパスを北上して、奥内川を渡る。先に進むとバイパスの両側に神社の林が見える。その山手に、三社神社の林と祠の林が道の両側に見える。そこを過ぎるとすぐに、右手に「前田町会」の看板が立っている。その交差点(角に家屋あり)を左折して、新幹線高架橋を越え、道の行き止まりの丘陵までたどり着く(ここまでは「前田蝦夷館跡」と同じ)。丘陵の手前の舗装農道と十字路で交錯する「ジャリ道」を右折する。次の十字路を左折する(黄色の送電線保安路の標識あり)。約1.0kmで送電線保安路[南口]があり、越えてすぐの右手に、駐車できるスペースがある。

湯ノ沢川沿いの道にある[南口](鉄塔保安路)から山を上がり、Y字路で右へ進む。左手は保安路。尾根まで上がって、右折すると「二の陣地、東頂部」。左折してT字路で右折すると、「東口から中央路ルート」で説明した、「67番鉄塔」へ出る。そのまま上がると「二の陣地、西頂部」。鉄塔を過ぎて、左手の谷斜面を下りて行くと、二の陣地、西頂部への取付壕道が右手斜面にある。少し進んでから、右手に回り込むようにすると「二の陣地、西頂部下の切通し」がある。切通しを過ぎると伐採地が正面に見える。壕道(西壕道①)は右に回り込んでいく。道なりに進んで林に入り、左手方向に進むと「西遺構」への尾根筋となる。林を出ると伐採地(西壕道②)。伐採地の尾根筋を進む。正面が沢になるので、右折して沢を回り込んで進む。沢の終わりで左手が尾根筋になる。尾根筋に沿って進むと防火帯に出る。その先が「西方山城遺構」。
《 防火帯口から西方壕道ルート 》
湯ノ沢川沿いの道にある[防火帯口]から山を上がり、右手に「防火用土塁」が見える。ここから、道の左側を歩き、T字路(正面尾根へ、左手が西方壕道)で左折する。このルートが西方山城遺構(高土塁)にもっとも近い。左折したその先に「高土塁」が見えてくる。高土塁と山側斜面の段築に挟まれた壕道を進むと、山斜面を上がり「終端の丘」にたどり着く。
お断り
「湯ノ沢館・西方山城遺構」と「湯ノ沢館・二の陣地、西頂部」は、研究者に認知されていない遺跡で現在遺跡としても未登録です。また、専門的調査もなされていません。
※令和5年11月18日に、青森市教育委員会の山城分布調査が湯ノ沢館で行われました。この調査結果に基づいて、山城遺構の名称変更や遺構領域の修正を行いました。
このサイトを見てもらえれば、湯ノ沢館は現状の「単郭(曲輪が一つで構成されている城館)」という認識は誤りであり、広大な城跡であることがおわかりいただけると思います。
なお、湯ノ沢館・二の陣地、西頂部は「湯ノ沢館跡」のページで説明すべきでしょうが、壕道と西方山城遺構との関連でまとめて説明した方がわかりやすいと考え、このページで説明することにしました。
二の陣地、西頂部と西方山城遺構の遺構配置図
湯ノ沢館・二の陣地、西頂部と西方山城遺構のあるエリアを下図に示します。「A」は湯ノ沢館・「二の陣地、西頂部」。「B」は二の陣地、西頂部 前山下の壕道。「C」は西方山城遺構・高土塁。「D」は西方山城遺構・終端の丘。「E」は西方山城遺構・三の陣地のエリアです。
二の陣地、西頂部と西方山城遺構のエリアを〈1〉送電線保安路から尾根、67番鉄塔まで〈2〉湯ノ沢館・二の陣地、西頂部「Aエリア」、〈3〉「二の陣地、西頂部 前山」下の壕道➀「Bエリア」、〈4〉二の陣地、西頂部 下から防火帯までの壕道➁、〈5〉西方山城遺構の壕道・腰曲輪「Cエリア」、〈6〉終端の丘「Dエリア」、〈7〉三の陣地「Eエリア」、に分けて説明していきます。
壕道は、「二の陣地、西頂部 曲輪前山」下の西壕道➀と二の陣地、西頂部 下から防火帯までの西壕道➁。防火帯から西方山城遺構に伴う西方壕道と分けることができます。
※〈番号〉をクリックすると、それぞれの説明ブロックへジャンプします。
なお、文中で遺構の長さ等を記載していますが、GPSロガーを使っての測った距離です。GPSでの距離は目安としてください。

湯ノ沢館・二の陣地、西頂部と西方山城遺構の位置図 赤線はGPSロガーでの軌跡
〈1〉入山路 送電線鉄塔保安路から尾根、67番鉄塔まで
(1)入山路-[南口]
道路脇の山側に「65・64番鉄塔標識」があります。そこから送電線保安路を利用して、湯ノ沢館の尾根をめざします。進むと「65番鉄塔標識」が中央にあるY字を右方向に進みます。途中の左手沢側に「65番鉄塔標識」が立っています。さらに道を進むと左手尾根すじに「66番鉄塔」が見えてきます。
(2)鉄塔保安路と古道の分岐
Y字路中央に「66番鉄塔標識←」があり、鉄塔保安路と古道に分かれます。左手に戻るように進むと66番鉄塔に行き、林の脇、古道の向かいの道は67番鉄塔の保安路になっています。どちらでも67番鉄塔と遺構には辿り着けますが、右手の古道を進んだ方が楽で風情があります。古道を進むと尾根すじに出ます。
この道が「古道」だと考える根拠は地形が鞍部になっていて、昔から活用したはずであることと、古道の終点の尾根すじが「二の陣地、東頂部」・「山頂曲輪」にも「二の陣地、西頂部」へも行くことができる交通の要所であることです。
(3)湯ノ沢館・二の陣地、東頂部と67番鉄塔への分岐
尾根すじにたどり着くと、来た道を背にして右手が湯ノ沢・二の陣地、東頂部です。尾根すじの左手に壕道があり、進むと「二の陣地、東頂部」下の堀切のような壕道・腰曲輪を通って湯ノ沢館「山頂曲輪(単郭と称されている曲輪)」に行くことができます。
湯ノ沢館・「二の陣地、西頂部」方面に行くには、まず67番鉄塔に行きます。古道と尾根すじの合流点から左手方向に進むと鉄塔保安路とT字に合流します。T字路の左は鉄塔保安路を使って前項の鉄塔保安路と古道の分岐地点に行きます。よってT字路を右に進むと67番鉄塔があります。
(4)67番鉄塔と二の陣地、西頂部への道
「67番鉄塔」を右手にしながらまっすぐに進み林に入ると、左手に斜面(頂部が二の陣地、西頂部)が見えます。(左折せずにそのまま上がると二の陣地、西頂部)。左折して斜面を下ると壕道が出現します。
〈2〉湯ノ沢館・二の陣地、西頂部 − エリア(A)
出現した壕道はト字路になり、右手山側には二の陣地、西頂部へと続く壕道、前方は「二の陣地、西頂部 前山」下の壕道➀になっています。まず、二の陣地、西頂部への壕道を進み「二の陣地、西頂部」へ登ります。ふもとからの壕道は二の陣地、西頂部から降りる壕道にT字に合流します。右折して頂部に進みます。
(1)二の陣地、西頂部 前山
二の陣地、西頂部入口までの丘陵を「二の陣地、西頂部 前山」とします。この部分は自然地形で遺構はありませんが、二の陣地、西頂部と合わせて軍事拠点として使用していたと考えられます。移動しやすい斜面や若干の平場もあり、二の陣地、西頂部 下壕道➀とも連携させて砦として使用したのでしょう。
(2)二の陣地、西頂部
二の陣地、西頂部は自然地形ですが平場になっていて、現状では前半分が伐採されての笹原で、後半分が立木に覆われているものの背の高い笹で覆われています。後側の平場には頂部から端へ浅い堀道が設定されています。その先に遺構があるのかを探しましたが、見つかりませんでした。二の陣地、西頂部二の陣地、西頂部の入口箇所以外はある程度の急斜面で囲まれています。
※この遺構は、当サイトで「西曲輪」と呼称していました。令和5年11月18日に、青森市教育委員会の山城分布調査が湯ノ沢館で行われ、その調査結果により「曲輪よりは陣地が相当」となり、「二の陣地、西頂部」に呼称を修正しました。頂部の平場に連動しての、斜面に平場(防御遺構)が存在しないこと、掘切りによって区画を分離していないことなどがその理由です。
〈3〉湯ノ沢館・二の陣地、西頂部から西壕道 ➀(二の陣地、西頂部の下)− エリア(B)
二の陣地、西頂部を降りて西壕道➀に戻り、前方の「二の陣地、西頂部 前山」下の西壕道➀を進みます。二の陣地、西頂部 前山下から二の陣地、西頂部下までを西壕道➀として説明します。(1)切通し−両側が切岸状の壕道
西壕道➀の出発点付近は壕道の高低差を無くすために、尾根の鞍部をかなり掘って両側が切岸状になっている「切通し」です。下りながら切通しを過ぎると正面が開けて斜面にあたり、西壕道➀は右折して「二の陣地、西頂部 前山」下を進みます。この曲がり角には、しゃがむと身を隠せるほどの土塁がこしらえられています。
(2)三段になる壕道
「二の陣地、西頂部 前山」下の壕道は、複線が設定されている珍しい壕道です。壕道を進むとその上段に壕道があり「上段壕道」とします。さらに壕道は分岐し「下段壕道」と進んできた「中段壕道➀」になります。「中段壕道➀」は途中で切れ、その上に「中段壕道➁」に付け替えられます。中段壕道➁は上段壕道と連結して、一本となり二の陣地、西頂部下の「壕道➁」の入口に回っていきます。このエリアの現状は一面の伐採地であり、つまり緩斜面で、攻めてきた軍勢が幅広くどこからでも登ってくることができる地形だということが三段の壕道を設定した理由だと考えます。
・下段壕道
中段壕道から分岐した下段壕道は峰状の高台に到達して終わります。この高台は緩斜面エリアのほぼ中央に位置し、四方を見わたすことができます。
・上段壕道
上段壕道は、二の陣地、西頂部 前山に上がれるわけではなく、途中で切れています。ただし、上壕道から二の陣地、西頂部 前山に上がりやすい箇所もあることから、前山から壕道を使わず直接上段壕道に降りるためと壕道➁に進みやすいために設定したものと考えました。
ここの三段の壕道をどう進むかをまとめると、中段壕道➀を通り、中段壕道➁に上がり、上段壕道との合流点で上段壕道に入って先に進むということになります。
※この壕道は、壕道下が緩斜面であるため、そこを敵兵が攻め上ってきた場合に対応する防御拠点となっています。
〈4〉西壕道➁(林から防火帯まで)
「二の陣地、西頂部 前山」と「二の陣地、西頂部」との境、二の陣地、西頂部入口南方にある谷すじ付近の林から防火帯(営林署が森林火災の延焼を防ぐために工作している)までを西壕道➁として説明します。このエリアは二の陣地、西頂部から西方山城遺構への連結路であり、主に尾根すじを歩きます。尾根すじに浅い壕道がある箇所と尾根下に壕道がある箇所があります。高低差はほとんどありません。また、防御性の高い遺構はありません。
(1)二の陣地、西頂部下から尾根すじまで
西壕道➁は二の陣地、西頂部下の林を通って西の尾根すじに向かいます。北側と南側は斜面となるため、幅は広いのですが尾根すじを歩くことになります。この林の中には壕道はありません。
(2)伐採された尾根すじ
伐採された尾根すじを西に進みます。この区間にはところどころに浅い壕道が残っています。壕道の深さは20cm程。なぜ掘ったのでしょうか。道を誤らないためでしょうか。
(3)尾根すじは谷状の緩斜面に添ってのびる
伐採された尾根すじは、谷状の斜面に当たるために北に曲がってから西に進みます。伐採地から林に入るあたりには、壕道はありませんが、谷筋と尾根すじが近くなったあたりで尾根すじの下に壕道が出現します。見た目には左側が土手となるのですが、尾根すじ下を切って造った壕道です。壕道は高低差がないように造られていますので、右手の地形が高くなれば両側に切り岸、つまり掘って造られています。
(4)谷状の緩斜面の終端の尾根すじ
終端部の尾根すじの壕道ははっきりせず、尾根すじの下の平坦部を歩いて、防火帯と合流します。防火帯の両側は谷斜面となっています。
《三の陣地》 〈5〉西方山城遺構の壕道・高土塁 − エリア(C)
「西方山城遺構」の位置は、湯ノ沢館丘陵の南側(湯ノ沢)からも登れるし、北側(内真部川)方面にも下れるという箇所です。総じて内真部城館群の山城のある丘陵は、地層の関係だと思うのですが、北側が急で南側に緩斜面がある構造になっています。つまり、湯ノ沢館丘陵では北側から容易に入れる場所として珍しい地点でもあります。軍事上の拠点を設定する根拠があると考えます。西方山城遺構には、三の陣地と終端の丘があり、三の陣地の方が西方壕道の出発点(防火帯)に近いのですが、壕道をたどって説明しているので、先に終端の丘を説明してから三の陣地の説明をすることにします。
また、防火帯から分岐して終端の丘まで至る壕道を西方壕道とします。
(1)西方壕道の腰曲輪状の高土塁
西方壕道の南側はある程度の緩斜面です。西方壕道は西壕道➀、西壕道➁と異なり道幅を広くとっています。壕道を進むと腰曲輪状となった高い土塁が出現します。土塁の反対側(北)は三の陣地の切り岸(段築)となっています。ここの腰曲輪状の土塁は内真部城館群の山城の中の軍事施設としてりっぱなもので、長さと高さでは随一かもしれません。仮に敵軍が登ったとしても、掘のようになっている壕道に降りると身体をさらし、上の三の陣地高台から射かけられてしまいます。
土塁は切り岸や壕道を掘った土を盛って高くしています。土塁の裏側(南)には尾根があるわけではないので、造成するためには、かなりな労力をかけたものと考えられます。※高土塁の計測値は長さ45m。高さは2.5mです。高土塁は東側の大きな箇所の次に少し規模の小さいものと2箇所に分かれています。
(2)腰曲輪状の高土塁を過ぎた西方壕道
この腰曲輪状の高い土塁を過ぎると斜面側には土塁がなくなり尾根すじを切って平にした道を進むことになります。ただし、尾根すじは平らなままで続いていますから、上からの攻撃から完全に逃れられたわけではありません。平坦な道が続き、終端の丘に当たるということになります。
〈6〉終端の丘 − エリア(D)
「終端の丘」には、取り立てた遺構があるわけではありません。西方壕道の終点と尾根すじが合流したすぐ先にあり、この箇所が西方壕道の目的地であることは明確です。終端の丘は防御するためのものではなく「逃げ込む・退却する」ためのものだと考えます。終端の丘は西壕道の最終地点から尾根すじが駆け上がるようになって、頂部の平坦地になります。一見どちらにでも逃げられるようになっていて、敵が追ってきたとしても姿が見えなくなってしまっていれば、簡単には探せないことでしょう。頂部から南方向に曲がっていく下り斜面になり、そのまま突っ切って進んだとしたら、「湯ノ沢」側の街道に出るはずです。ただし、その方向ではなく、斜面を降りずに西へ進むと津軽半島の尾根へと進むことも可能で、昭和28年頃の地図にはその方向への道が描かれています。
【市教委調査により発見された遺構】
令和5年11月18日に、青森市教育委員会の山城分布調査が湯ノ沢館で行われました。この調査によって、「終端の丘」に上がって、116.6ピークの方向には遺構はないものの、北側の斜面に「平場」が造られていることがわかりました。この平場の先は尾根道となっていて、西方の津軽半島の尾根へと続くものと推定されます。※上記の昭和28年頃の地図に記載されている道。
〈7〉三の陣地 尾根部分 − エリア(E)
「三の陣地」は、西方壕道とセットの尾根すじを利用した軍事拠点です。〈5〉で説明した、防火帯と西方壕道分岐点の上から〈6〉で説明した西方壕道と尾根すじの合流点までが平坦な尾根すじになっています。尾根すじの北側は急な斜面になっていて、後側から攻められる可能性はまずありません。終端の丘に近い方よりも、三の陣地(腰曲輪)に近い方が平場が広くなっていて、軍勢を置きやすくなっています。腰曲輪のある箇所では、斜面を切り広めの壕道を設定して段築のようにしています。三の陣地は湯ノ沢館山城のもっとも西方にある軍事拠点です。
湯ノ沢館跡の遺構位置図・ルートと主な遺構
湯ノ沢館跡と西方山城遺構の壕道・遺構のあるエリアを下図に示します。●湯ノ沢館跡エリア:「A」は東口・麓の深い壕道。「B」はU字形深壕道域手前斜面のもっとも広い壕道(空堀)。「C」はU字形深壕道域手前の窪地から山頂曲輪方向への壕道。「D」はU字形深壕道域の周壕。「E」は山頂曲輪の周壕。「F」は二の陣地、東頂部下の壕道・腰曲輪。「G」は”二の陣地、西頂部”への壕道と二の陣地、西頂部。「H」は”二の陣地、西頂部 前山”下の三重の壕道。
●湯ノ沢館西方山城遺構エリア:「I」は連絡路・尾根下の壕道。「J」は三の陣地下の壕道(高土塁を含む)。「K」は終端の丘。「L」は三の陣地尾根部分。
※ 下図は実際に歩いて、GPSロガーで得られた軌跡です。壕道は緑色に着色しました。

湯ノ沢館跡と西方山城遺構の位置図 赤線・緑線はGPSロガーでの軌跡
| 入り口 | ルート | 行程 | 主な遺構 |
| 東口 | 中央路 | 東口~U字形深壕道域~山頂曲輪~二の陣地 | 麓の深壕道、U字形深壕道域へ向かう壕道、一の陣地、U字形深壕道域周壕、山頂曲輪、二の陣地・東頂部切岸 |
| 北口 | 北路 | 北口~山頂曲輪(北口は内真部館向かい) | 山頂曲輪周壕と切岸 |
| 中央路 | 二の陣地、東頂部~二の陣地、西頂部~西方山城遺構 | 二の陣地・西頂部、二の陣地・西頂部 下切通し | |
| 南口(保安路) | 南路 | 南口(65・64番鉄塔標識)~中央尾根筋~二の陣地・西頂部~防火帯 | |
| 防火帯口 | 西方壕道 | 防火帯口~西方壕道~終端の丘(116.6ピーク) | 高土塁、終端の丘 |
まとめ 湯ノ沢館跡の遺構から
- 湯ノ沢館跡は従前の認識の「単郭(曲輪が一つ)」ではなく、多くの軍事拠点を持っている城跡である。
- 南側斜面から侵入する敵に対処して壕道が掘られ、”堅掘”のようになっていて麓から攻める敵の移動を制限していた。
- 現状では、深さ約3mの巨大な堀道が存在し、その先は伐採のブルドーザーで破壊されてはいるが山裾の壕道とつながっていたものと考えられる。
- 山裾から続く壕道は、南側山麓で半円を描き、東口方面からの敵に対処する「U字形深壕道域」となっている。
- 単郭と称されてきた頂部に周壕のある曲輪「山頂曲輪」があり、その先には丘を迂回する壕道がある。壕道は丘の尾根すじを掘って堀切・腰曲輪状になっていて、侵入する敵を叩く砦・「二の陣地、東頂部」がある。
- 山頂曲輪は、古代(平安時代)には環濠集落であり、それを再利用した可能性がある。
- 二の陣地、東頂部の先には、丘を利用した「二の陣地、西頂部」がある。丘の中腹に設定された壕道と共に軍事拠点となっている。
- 二の陣地、西頂部 脇の壕道から西方山城遺構までの壕道は、できるだけ高低差をなくし、登り降りがないように掘られていて、味方が高速で移動できるように工作されている。
- 湯ノ沢館と西方山城遺構の壕道は、尾根すじの両側を掘り進めて”掘切”状・”腰曲輪”状にしたもの。斜面を登る壕道が”堅掘”状になっていただろうものがあり、戦国期の山城の軍事施設の原型となり得るものがある。
- 鎌倉時代末期の山城を現代にそのまま伝える遺跡として高い価値があると考えられる。
- 安藤氏の居館であろうとされている内真部館跡と内真部山城跡は防御性に乏しく、交戦の可能性がある場合は、内真部館の隣の丘陵である湯ノ沢館を軍事拠点としただろうことが考えられる。
- 湯ノ沢館跡の東の麓には、内真部館(4)遺跡があり、平安時代からの居住跡があることが知られている。内真部館の館主ともども湯ノ沢館に避難しただろうことが考えられる。
- (内真部館からは、内真部山城を経由して「大阪山館」に入ることができる。よって、避難先は敵の侵入方向により、大阪山と湯ノ沢館を使い分けすることができる。)
- 内真部館(4)遺跡は、内真部館の向かいにあり、安藤氏の家臣団の居住地であったことも考えられる。
- 内真部城館群の城跡で「逃げ込み城」としての曲輪を持つのは、内真部山城跡と湯ノ沢館・西方山城遺構だけであり、内真部館との深い関連を指すものと考えられる。
- 湯ノ沢館跡の軍事拠点は、東南麓の深い壕道、壕道を登っていってのU字形深壕道域、U字形深壕道域の北側斜面に対して掘となる壕道、単郭とされてきた山頂曲輪、その先の二の陣地、東頂部と脇の腰曲輪・堀切状の壕道、二の陣地、西頂部と斜面中腹にある壕道、西方山城遺構の三の陣地と腰曲輪・堀切状の壕道、逃げ込み城と見られる終端の丘があることがわかった。
- 遺構の東西の長さから見れば、内真部城塞群の中で、内真部山城、前田蝦夷館と南方山城遺構と比べて長い城である。飛鳥山館に次ぐ。
- これらのことからも諏訪大明神画詞に記載されている安藤季久の険阻な城は「湯ノ沢館跡」を指すものと考えられる。 ※斉藤利男弘前大学名誉教授(『新青森市史資料編2古代・中世』編纂時の中世部会長)が、飛鳥山館跡・瀬戸子館跡を調査され、「諏訪大明神画詞に記載されている安藤季久の険阻な城」は、安藤氏山城群の全体を指すと解釈できるとされました。これにより、斉藤教授は尻八館から飛鳥山館までを「尻八・内真部城塞群」と称することを提唱されました。
当初、湯ノ沢館跡の主郭は、従前から知られてきた山頂に周壕のある「山頂曲輪」だと考えていた。しかし、湯ノ沢館から内真部館へ通じる道を探し、発見した後に疑問が出てきた。内真部館向かいにある居住地(内真部(4)遺跡)から山頂曲輪への道はかなり容易に辿り着ける。そして、行程上にある山頂曲輪周壕の北斜面はなだらかでかつ広く、軍勢が横に展開しながら攻撃することが可能である。つまり、攻められやすいという欠点がある。
湯ノ沢館跡と西方山城遺構を含め、曲輪内が平坦でかつ広い頂部を持つ場所がない。
山頂曲輪は自然地形で、建物を建てられるように整地したように見える箇所がない。U字形深壕道域の頂部も同様である。二の陣地、西頂部の頂部は平坦であるが、建物を建てる面積が十分にないように見える。二の陣地、西頂部は全遺構の中心に存在し、かつ周りの形状からも攻めづらいが、広くないのが欠点である。西方山城遺構の三の陣地は頂部が平であり長さは十分にあるが、幅が狭い。
このように、湯ノ沢館には、ここが主郭だという決定的な条件を持つ曲輪がない。曲輪に柵を廻し砦を築いてあったとしても、大人数が籠城できるような曲輪はなかったのではないだろうと考えている。
二の陣地、西頂部・西方山城遺構へのコース
(1)東口・正面湯ノ沢館跡のページのアプローチで説明しているコース。U字形深壕道域→山頂曲輪→二の陣地、東頂部と進むと「〈1〉送電線鉄塔保安路から尾根、67番鉄塔まで」で説明している尾根に出ます。その尾根を進み、Y字路で右折すると67番鉄塔があります。
(2)送電線保安路を登る・南口
アプローチで説明している湯ノ沢館丘陵の南側・湯ノ沢の道にある送電線保安路を使って登り尾根に出るコース。
(3)防火帯口を登る
前項(2)の送電線保安路を右手に見て、道をさらに進むと広大な伐採地があります。その上に「二の陣地、西頂部」や西壕道➀、西壕道➁が位置します。伐採地が終わり林(国有林)になると「林道標識」があり、道の脇のスペースを使って駐車できます。ほんの少し戻って防火帯口から「防火帯」を登っていくと「〈5〉西方山城遺構の壕道・腰曲輪」で説明している防火帯の土塁と西方壕道の分岐点があります。ここは、防火帯のほぼ頂部です。
西方山城遺構だけを見るのであれば、(3)のコースが効率的です。ちなみに、防火帯口から送電線保安路までは歩いて20分程の距離です。 鉄塔保安路(南口)から防火帯口までの距離は約750mです。
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 前田蝦夷館跡 - 南方山城遺構 - 湯ノ沢館跡 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
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- 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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