瀬戸子館跡

 青森市北部(後潟・奥内・西田沢地区)は、安藤氏(安東氏)に関連する城跡・館跡が集中して見つかっているエリアです。その中から、新たに確認された瀬戸子館跡(せとしだて)をご紹介します。
 瀬戸子山館跡は、尻八・内真部城塞群の中でもっとも南に位置する飛鳥山館跡と頂部曲輪と周壕で著名な前田蝦夷館跡に挟まれた「瀬戸子八幡宮」のある丘陵に位置します。これまで、この山には山城遺構はないものとされていました。現地調査を進めるにつれ、山城遺構のある範囲が広大な領域であることがわかってきました。

※令和元年(2019)10月17日に安藤氏研究の第一人者である弘前大学名誉教授斉藤利男先生の現地調査がありました。(令和2年3月26日、11月18日に追加調査)この調査によってわかったことのまとめはこちら → 現地調査のまとめ
 調査の結果、斉藤利男氏は「瀬戸子館」を、安藤氏本城(戦時にもっとも中心となる城)と位置づけました。
※令和3年4月17・18日に十三湊遺跡発掘の専門家である五所川原市教育委員会榊原滋高氏他の現地調査がありました。その際に、新たに東尾根先端部に山城遺構があること、東側の麓に「方形居館跡」があることが判明しました。
※令和3年10月27日に榊原滋高氏の方形居館跡の追加調査があり、方形居館が2段で構成されていることがわかりました。

 なお、青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。仮称瀬戸子館は令和4年8月と9月、11月、令和6年4月と5月に調査が実施されています。⇒「山城分布調査

※尻八・内真部城塞群については、別ページにまとめてあります。⇒「尻八・内真部城塞群

contents   18件。スマホの方は、右にスライドしてください。
1.瀬戸子館跡
2.遺構配置図
3.ルートと主な遺構
4.〈1〉東側登り口
5.〈2〉南谷、大手虎口と一の陣地
 〈2-2〉南谷麓の土塁と堀跡(陣所跡)
6.〈3〉東曲輪
7.〈4〉北谷、北虎口
8.〈5〉脇壕道
9.〈6〉西曲輪
10.〈7〉二の陣地と下段状壕道
11.〈8〉三の陣地
 
12.〈9〉西口から西遺構入口
13.〈10〉北斜面 長土塁
14.〈11〉北斜面 段築群
15.〈12〉東尾根先端部 (方形居館他)新報告
16.遺構場所の緯度経度
17.瀬戸子館跡まとめ
18. 山城探索とGPS
19.山城ビデオ 
・瀬戸子館跡外ヶ浜安藤氏本城 ・安藤氏山城 瀬戸子館跡探訪 ・瀬戸子館跡長土塁 ・南部藩野牧相内野 ・瀬戸子館跡尾根段築群 ・瀬戸子館跡脇段築群 ・瀬戸子館跡 林Ⅰ段築群

19.写真アルバム
 
写真をクリックすると、大きな写真にリンクします!

瀬戸子館跡

 青森市北部(後潟・奥内・西田沢地区)には安藤氏に関連する山城として、北から「尻八館跡」、「内真部館跡」、「湯ノ沢館跡」、「前田蝦夷館跡」があり、そしてもっとも南に「飛鳥山館跡」が遺構として知られています。実はこれまで、前田蝦夷館と飛鳥山館の間にある山には、山城遺構はないとされていました。
 それぞれの城跡の現地調査が進み、その規模が把握できた段階で、「どうしてこの山には城跡がないのだろう?」と逆に不思議に思うようになってきました。
 『瀬戸子八幡宮の位置する山にも山城があったのではないのか?』
 前田蝦夷館のある山と飛鳥山館のある山とは約3Kmと離れているので、その他の城との連絡手段はどうしたのだろうということも疑問でした。
 平成30年の晩秋に「瀬戸子八幡宮のある山にも壕道がある」ことがわかり、詳しい状況把握は翌年度に持ち越していました。
 東奥日報紙で取り扱ってもらった記事「青森市奥内で新たな中世の山城跡を確認」はWEB東奥で見ることができます。2019年10月18日。弘前大学名誉教授斉藤利男先生が、前日に現地を調査して確認されました。
 
瀬戸子館のある丘陵
瀬戸子館跡のある丘陵 写真の左にある丘陵には飛鳥山館跡がある。

山城の名称の根拠
 H20.12.4の北部市民センター、油川地域史研究会木村慎一氏の講座資料に「明治初期のものと考えられる古地図」があり、その中に瀬戸子村の枝村として「瀬戸子館村」という地名が書かれていることがわかりました。つまり、その当時は瀬戸子に山城跡があることが認識されていたものと考えられます。よって、山城の名称を「瀬戸子館」としました。

枝村、瀬戸子館が書かれている古図
枝村、瀬戸子館が書かれている古図 書写・木村慎一氏。画像をアップすると原図の所有者等の情報が見えます。

立地
瀬戸子館跡は、青森市中心市街地の北西、JR津軽線津軽宮田駅から真西へ約1.7km、海岸からは約2.1km内陸に入った地点にある。山域は南北に約1.7km、東西に約1.3kmある。標高は104.0m。所在地は青森市瀬戸子字神田・奥内字宮田。
(※山域の西端と標高は、遺構が確認されているエリアと連動する。)

見どころ
「一の陣地」に隣接する南谷の「大手虎口」。「東曲輪」から北へ下がった所にある北谷の「北虎口」。北谷から東曲輪の山下に続く「脇壕道」。「二の陣地」の下にある「下段状壕道」。山域中央尾根筋から奥内川まで続く「長土塁」。北斜面にある「段築群」。(※見どころには、説明ヶ所へのリンクを貼ってあります。)
 
YAMAP コース軌跡と写真
「ヤマップ」を使って、移動したコ−スの記録や軌跡に写真を合わせて、遺構などの位置がわかるようになっている『活動日記』を公開しています。「活動日記」に掲載している写真にカーソルを当てると説明が表示されます。写真をクリックすると、拡大写真になり説明文も読めます。
アプローチ《東正面方面》
 国道280号バイパスを北上して、西田沢共同墓地を左手に見て進む。先に進むと国道280号線の「竜飛、外ヶ浜、蓬田」までの距離を表示した、大きな青色道路標識がある。左手に「夏井田町会」の標識あり。そこから左手にある「交差点を示す黄色道路標識」の3つ目を過ぎると、右手に「飛鳥町会」の標識がある。さらに進み「瀬戸子川」の橋を越え、次ぎに左折できる交差点に「瀬戸子八幡宮」の標柱がある。ここを左折し、舗装された農道を新幹線高架橋の方に進む。高架橋をくぐると、クランクがあって道なりに進む。ジャリ道の交差点があるが、正面が山となり、そのまま進むと「瀬戸子八幡宮」の鳥居が見える。 瀬戸子八幡宮mapへリンク
→ Google map 瀬戸子八幡宮 へ リンク。

アプローチ《北斜面方面》
 国道280号バイパスを北上して、瀬戸子川を渡ってから、左側に瀬戸子グラウンドがある。そこを通過して進み、右手の奥内保育園の看板のところに橋がある。奥内川を渡って、すぐ舗装道を左折する。新幹線高架橋を越え、林の縁の道にぶつかりジャリ道を右へ。(赤い水門あり)。次の分岐点に鉄塔保安路用黄色標識「今別線60−61」で左折し、山に向かう。進むと、鉄塔が見えてから、川岸にログハウス風の建物と「奥内豊源井堰竣工記念碑」がある。ここに駐車スペースがある。向かいに鉄塔保安路標識あり。

神社口から南谷奥広壕道ルート 》
 瀬戸子八幡宮の本殿の方へ上がり、稲荷大明神の後ろの丘斜面を右手に谷斜面を見ながら上る。頂上で、南谷奥の広壕道「枡形虎口」に当たる。広壕道手前の縁に沿って進むと、右手が「一の陣地」。「一の陣地」に入り、北へ尾根筋を上がると「東曲輪」にたどり着く。

《 東口から南谷奥広壕道ルート 》
 「一の陣地」の真南(瀬戸子川向かいの山の麓の道)に[東口]がある。東口は、飛鳥山館の真向かいに位置する。広い尾根筋を登り切ると、南谷奥の広壕道「枡形虎口」に当たる。

《 南谷口から一の陣地ルート 》
 瀬戸子八幡宮の北に位置する[南谷口](陣屋跡)から、南谷の「二の谷」を上がる。両側が尾根筋となっている幅広い谷斜面を上がると、正面に「一の陣地」下の斜面が崖状に見える。左手方向に道があるので、直角に左折する「枡形虎口」。両側と正面が尾根筋に囲まれて袋小路のように見えるが、奥に壕道があり、南谷「一の谷」への斜面を経て、奥の広壕道「枡形虎口」に続く。

《 一の陣地から東路ルート 》
 「一の陣地」の手前下に浅い壕道がある。左手に谷を見ながら進むと、「一の陣地」の中を進でのコースと合流する。尾根筋を上がると「東曲輪」に着く。これまでの進行方向(南→北)どおり北に向かって東曲輪を降りていくと「北谷」の奥にある「広壕道・枡形虎口」にぶつかる。広壕道の終点手前の左手に脇壕道の入口がある。※東曲輪から西へ降りると、東曲輪下の斜面となり脇壕道の出口がある。

《 北谷口から脇壕道経由、東曲輪下ルート 》
 [北谷口]から西方向、山に向かって上がる。北谷の奥になると壕道の堀が深くなる。進行方向の左側に、東曲輪から降りてきた尾根筋の斜面が崖の上にあり、壕道の幅が広がる「枡形虎口」。広壕道の最奥部の少し手前の左手に、一段高くなって、脇壕道の入口がある。
 脇壕道を、右手に谷斜面を見ながら進むと、東曲輪下の斜面に出る。

《 東曲輪下から中央路ルート 》
 東曲輪の斜面下から瀬戸子館山域の中央尾根筋(東~西)を[中央路]とする。東曲輪下から西に進むと、「西曲輪」、「二の陣地」、そして山域でもっとも高い「三の陣地」にたどり着く。中央路から三の陣地へ上がる壕道と「西遺構」へ降りる壕道の分岐点がある。

《 西口から三の陣地経由、86mピークルート 》
《 西口から三の陣地下を進み、西遺構ルート 》
 瀬戸子川沿いの山麓の道にある[西口](鉄塔保安路・青函トンネル線55→)から北へ保安路を登ると頂部が「三の陣地」。頂部に上がる手前に幅広い斜面がある。そこを上がりきる手前(S字の曲がり角)で、右手方向の林方面に進み、斜面下脇を上がると「西遺構」に進む。
 頂部「三の陣地」から、北西に尾根筋を進むと、長土塁のある「86mピーク」に向かう。

《 北口から86mピーク[北路]ルート 》
 奥内川の川沿いにある道を進むと、川岸にログハウス風の用水路管理棟がある。その向かい側の尾根筋斜面に北路(尾根道)へと進む[北口]がある。尾根筋を進むと「段築群(尾根段築)」が見える。頂上の尾根筋まで登ると左手方向に「86mピーク」がある。尾根筋を東に進むと「長土塁」の起点があり、その脇にある壕道をたどると鉄塔保安路と合流する。保安路の右手に長土塁が続いていく。

《 北東口から、西曲輪下ルート 》
 奥内川の川沿いにある道を進むと、左側に「ため池」に向かう道がある。ため池を右手に見ながら林道を進むとY字に分岐するが、右手に曲がらずに直進する。途中に道に倒木があって車では進めなくなる。そのまま南方向に進んでいくと、カーブミラーが左手にある「沢口」がある。沢は平坦に削ってある。
沢口を登ると、西曲輪の下斜面にある「横断壕道」がある。斜面を登ると西曲輪になる。

瀬戸子館跡の遺構配置図

 瀬戸子館跡の地図と遺構のあるエリアを下図に示します。2021年春の調査結果を反映させました。
壕道と遺構エリアを〈〉東側登り口(東口) 〈〉南谷、大手虎口と一の陣地 〈〉東曲輪 〈〉北谷、北虎口〈〉脇壕道 〈〉西曲輪 〈7〉二の陣地と下段状壕道(Y字壕道) 〈8〉三の陣地 〈9〉ふもとから西遺構入口  〈10〉北斜面・長土塁 〈11〉北斜面・段築群、とに分けて説明していきます。
 なお、遺構図の④東曲輪から⑩三の陣地までのルートを[中央路]と、③一の陣地からE北谷までのルート[東路]とします。
※〈番号〉をクリックすると、それぞれの説明ブロックへジャンプします。
  瀬戸子館跡は他の山城と比較して曲輪が隣接しているため、「東西南北」ではなく、神社から近い順に「番号の曲輪」と呼称しました。また、斉藤利男先生のご指摘により、人為的に平らにしてある「平場」を持つものを「曲輪」、自然地形の「平坦地」のままで使っているものを「陣地」と分けて呼称します。
 なお、文中で遺構の長さ等を記載していますが、実測と書かれている場合はメジャーで計測した数値です。それ以外はGPSロガーまたはヤマップを使って測った距離です。GPSでの距離は目安としてください。標高については、GPSでの軌跡をカシミール3Dに読み込ませての値です。それぞれの遺構の標高の目安にしてください。なお、瀬戸子館のふもとの標高は約10mです。
 
瀬戸子館跡遺構図
 
瀬戸子館跡の遺構位置図 A~Fは登頂経路。①~⑬は主な遺構。赤線はGPSロガーでの軌跡をもとに作図している。
入り口 ルート 行程 主な遺構
神社口   稲荷大明神社殿脇~南谷奥広壕道 南谷奥虎口2
東口   東口(一の陣地真南)~南谷奥広壕道  
南谷口   南谷口~南谷奥・虎口1~一の陣地 陣所跡、南谷奥・虎口1、一の陣地
  東路 一の陣地~東曲輪~北谷奥虎口 東曲輪
北谷口   北谷口~北谷奥虎口、脇壕道~東曲輪下 北谷奥虎口、脇壕道
  中央路 東曲輪~西曲輪~二の陣地~三の陣地 西曲輪近くの壕道、二重壕道、西曲輪
西口(保安路)   西口~三の陣地~86mピーク
西口~西遺構口~西遺構
三の陣地
Y字壕道
北口 北路 北口~尾根段築~86mピーク~長土塁 尾根段築、長土塁
北東口   北東口~(ため池)~西曲輪下沢口~横断壕道~西曲輪 沢口(木戸跡)、横断壕道

〈1〉東側登り口

(1)東口から南谷まで
 瀬戸子八幡宮の鳥居近くに車を置き、水田方向の道を、山を右手にしながら5分ほど歩くと用水路に蓋がかかっていて渡れる箇所があります。そこを渡って左手の尾根筋に入り、登っていきます[東口]。鳥居から入山地点までの距離は約300mです。そして、入山地点から「南谷」までは約25分、距離は約450mです。登りきった所から南谷は右手(海)方向にすぐです。
 この登山路は、昭和29年発行の地形図に記載されているもので、飛鳥山のま向かいに位置することから、山城への主要道と考えられます。次項の瀬戸子八幡宮の「稲荷大明神」脇から入山しても、登りきった場所はほぼ同じです。

(2)神社口から南谷まで
 瀬戸子八幡宮の鳥居近くに車を置き、参道を上がって、拝殿の手前に位置する「稲荷大明神」の正面右手から神社裏の斜面に入ります。山を左手に、海を右手にしながら上ると20分ほどで、正面に崖状(堀切状)に見える壕道があります。
 一の陣地は、左に曲がってから右手に位置する丘です。八幡宮鳥居から壕道までの距離は約440mです。
 

東口・入山口
東口・入山口 用水路に唯一蓋がしてある場所。写真左手に尾根すじがあり、そこから上る。
 
神社口
神社口  瀬戸子八幡宮境内にある稲荷大明神の後ろの丘斜面を上る。
 

〈2〉南谷、大手虎口と一の陣地

(1)一の谷と二の谷
 「南谷」は、谷の地形を使って壕道を加えて城砦としたエリアの呼称です。「一の陣地」の東下側には、麓から上りやすい谷が2本あります。双方とも、自然地形の谷の上部を造作して一の陣地と関連付けで城郭施設に仕上げています。
 一の陣地(上)側から説明します。瀬戸子八幡宮上斜面を登ると広く深い壕道があり、進行を妨げます(つまり、掘切状となっている)。壕道に降りて、下に進むと広い谷(一の谷)になります。自然地形の谷の上部を掘って壕道として、谷と一体に仕上げています。この箇所は谷の斜度と比べてゆるくなっています。壕道の幅は約5m、壕道脇の切岸(一の曲輪の向かい側)の高さは約1.8m。長さは約30mです。
 この壕道を下ると、「一の谷」の斜面に出ます。敵がこの谷を上ってきた場合は、正面と両側の崖から迎撃ができます。一の谷の斜面には、壕道が2本あり、一本は上からの取り付け壕道から「二の谷」方向へ、もう一本は一の陣地から、二の谷方向へ進みます。
 この一の谷の北側にも広い谷(二の谷)があり、2本の谷は上部でほぼつながっているという形状です。一の陣地から谷側に降りると、一の谷の北岸の高台に取り付け壕道があり、そこを進むと二の谷に出ます。二の谷は深いU字型になっていて、麓から上ってきたら、まるで袋小路に入ったように感じます。ここに敵が侵入したとすれば、正面の一の陣地からと両崖岸から迎撃することができます。二の谷は、正面に向かって左手に曲がり、その幅は約10m、その上部に一の陣地へと向かう壕道が取り付けられていて、長さは約20m、深さは70cmです。
 つまり、U字型にえぐられている谷地形に壕道を加えて仕上げる形で造られています。U字型の広い谷を下ると東方向に曲がり、山裾に出ます。
 一の谷(一の陣地下壕道起点)からふもとまで距離は、約240mです。二の谷(谷の上壕道起点)からふもとまで距離は、約250mです。二の谷のふもとの幅は約20mです。
 斉藤利男先生の調査によって、「一の陣地下の広壕道」は枡形虎口であることが判明しました。同様に「二の谷奥と取り付け壕道」も枡形虎口(大手虎口)ということです。『枡形虎口』とは、入口に柵と木戸を設け、さらにその奥にも木戸を設置して、敵が入口の木戸を突破してしても、次の木戸で阻まれ「袋のネズミ」状態になり迎撃されるという軍事施設です。

 山裾から、この二の谷(南谷)へのコースが「大手道」であることが、R02.3.26の斉藤先生の追加調査でわかりました。山裾から大手道へ至る手前に「L字壕道」があり、陣所があっただろう、ということです。

(2)一の陣地
 「一の陣地」は、一の谷につながり、二の谷の上部となります。一の陣地からはそれぞれの谷の崖高台に進出できます。一の陣地の幅は実測で約12m。長さは東曲輪までつながっているのですが、平場としては、約65mとしておきます。[一の陣地の標高は約87m]
 一の陣地を北に登ると、「東曲輪」にたどり着きます。東曲輪を経ないことには、瀬戸子館跡の西遺構には進めません。南谷と一の陣地のエリアは、瀬戸子館に東側(海側)から進軍する敵との戦いで最重要拠点となります。
 ※遺構の説明上、「一の陣地」・「東曲輪」・「北谷」を東遺構として、「西曲輪」から西側を西遺構と呼称します。 

一の陣地下広壕道
一の陣地下、広壕道【枡形虎口】 神社口から登った侵入者には「堀切」状となる。一の谷上部に取り付けてあり、この壕道を上がって右手が「一の陣地」。長さは約30m、幅は約5m。
 ※一の谷とこの広壕道の接合箇所に柵と木戸があった。さらに広壕道起点となる狭い箇所にも木戸を設置する。敵軍は両側の崖から迎撃を受ける。

南谷・一の谷
南谷・一の谷 写真、左手上が「一の陣地」。正面、両岸から攻撃できる。一の谷からふもとまで距離は、約240m。

南谷・一の谷東岸 二の谷へ
南谷・一の谷東岸 二の谷へ 写真中央に取り付け壕道がある。いわば、一の谷と二の谷の接合箇所。

二の谷 一の陣地、下斜面
二の谷 一の陣地、下斜面 二の谷を登ると袋小路状となる。正面上が「一の陣地」。谷は左手方向に折れ曲がる。

二の谷奧と取り付け壕道
二の谷奧と取り付け壕道【枡形虎口】 前の写真を左手に折れ曲がっての谷上部。写真、左から1/3あたりに取り付け壕道の終点がみえている。この箇所の谷の幅は約10m。
※この写真の後ろに柵と木戸が設置されていた。さらに「取り付け壕道」の前に木戸。入口の木戸を突破したとしても「敵軍は袋のネズミ」状態となり、正面と両側の崖から迎撃される。

二の谷奧の取り付け壕道
二の谷奧の取り付け壕道 一の陣地方向に進む「取り付け壕道」。壕道の長さは約20m。深さは約70cm。

一の陣地 頂部平坦地
一の陣地 頂部平坦地 一の陣地中央から、一の陣地下壕道方向をみる。一の陣地のおおよその広さは幅約12m。長さは約65m。
 

〈2−2〉南谷麓の土塁と堀跡(陣所跡)

 弘前大学名誉教授の斉藤利男先生の瀬戸子館への二度目の調査(2020.3.26)で、南谷(二の谷)からの先にある枡形虎口が「大手虎口」であろうと認定されました。この南谷・二の谷の麓に奇妙な土塁と堀跡があります。
 堀跡はほぼL字形になっています。西の長さが13m、正面が16m、東の長さが5mとなっていて、堀跡前の土塁の高さは約1.2mです。 遺構のある位置は、北緯40度 52分 48.0秒、東経140度 39分 18.5秒 です。
 奇妙なと表現したのは、用途がわかりません。進軍を妨げるほどではなく、伏兵を置くのでしょうか。斉藤先生は、この土塁の前(麓方向)に「陣所」があったのではないか、と推測されていました。
 この遺構の右手方向を進むと南谷・二の谷になり、枡形虎口へと進みます。
 ※ この陣所跡のある[南谷口]へは、瀬戸子八幡宮の鳥居の前の道を北に向かって進み、畑地に出たら、山裾を北方向に約300m進むとある。
南谷麓の土塁
南谷麓の土塁 この土塁の前に「陣所」があった可能性あり。瀬戸子館へ来る客や敵をむかえるためか?土塁の長さは約16m。写真左手前にある堀は13m、写真右の奥にある堀は5m。
 
陣所跡の堀
陣所跡の堀 土塁の裏にある堀跡。長さは約40m。

〈3〉東曲輪

 「一の陣地」から北へ登っていくと、瀬戸子館のある丘陵で、三角点のあるもっとも高いピーク[標高101.0m]となり、ここが「東曲輪」です。広さは実測で、幅約10m。平場は東・西に細長い形状になっていって、長さは約33mです。
一の陣地から東曲輪へは尾根筋になっていて、両側が谷になっています。一の陣地から東曲輪までの距離は約130mです。
 東曲輪からは、西へ降りて「西曲輪、二・三の曲輪」に続き、北へ降りて「北谷」があります。
 斉藤利男先生の調査によって「東曲輪」が主郭とされた。東曲輪に櫓を設けて、ふもとから見えるようにし「城」であることをアピールし敵軍を引きつける役割をした。
 また、東曲輪の山頂付近の西側斜面に、平場が設けられていて、かつ斜面は容易に登れないように段がこしらえてある遺構があることがわかりました。小屋がけをして駐屯していた可能性があるということでした。


東曲輪 頂上手前
東曲輪 頂上手前 写真中央が「東曲輪」。一の陣地から尾根道をたどり、東曲輪までの距離は約130m。この写真の左手の下斜面に遺構があることがわかった。

東曲輪 頂上手前の駐屯地 尾根側
東曲輪 頂上手前の駐屯地 尾根側 尾根の西側斜面がなだらかになっている。

東曲輪 頂上手前の駐屯地 平坦地
東曲輪 頂上手前の駐屯地 平坦地 上の写真の下側には駐屯地として使われていただろう「平坦地」がある。
 
東曲輪 頂部平場
東曲輪 頂部平場 三角点があり、標高は101.0m。正面の奥、左手方向に進むと北谷へ続く。写真後ろが、東曲輪下方向、西曲輪、二・三の陣地へと進む。東曲輪のおおよその広さは、実測で幅約10m。長さは約33m。
 
東曲輪から北谷へ続く尾根
東曲輪から北谷へ続く尾根 ここから約350mで北の谷。この尾根の写真左手に脇壕道がある。
 
東曲輪の南斜面
東曲輪の南斜面 写真正面が上が東曲輪方向。

〈4〉北谷、北虎口

(1)三の谷広壕道
 「東曲輪」から北へ降りて約370mで崖になり、谷(三の谷)の中央に壕道が造られています。崖の高さは約5m。長さは約44mです。
 壕道は東側の山裾に延びています。壕道は谷が開ける箇所で分かれますが、林の中に進む道が古道でもう一方は伐採用のブル道でした。
 林の中を谷すじに進むと「虎口(こぐち)」になっていることが、斉藤利男先生との調査でわかりました。「戦国時代のもの」と見える程に、りっぱな虎口(北虎口)だと、斉藤先生は評価されていました。
 前述した南谷同様に、東(海)側から敵軍が侵入しやすい箇所となっています。この「北谷」に敵が入ったら、崖の上から射抜くことができます。もしも、瀬戸館の北に位置する前田蝦夷館側から尾根に取り付き敵が侵入してとしても、掘切状となっていて行く手を阻むことになります。
 壕道の上部は、東側に土塁を拵えてあり幅は約2m。深さは約1.5mです。[北の谷の標高は約83m]
※ 南谷口から[北谷口]までは、北に約300m。北谷口から最奥部の脇壕道入口まで約250m。

(2)脇壕道へ続く広壕道
 谷中央の壕道の起点に向かって左手方向に、広い壕道が枝分かれして、崖下を回り込むように設定されています。広壕道は丘の反対側が土塁になっていっていて、東曲輪下に通じる脇壕道の起点になっています。
 

北谷 崖下の広壕道 崖側から
北谷 崖下の広壕道 崖側から 崖の高さは約5m。

北谷 崖下の広壕道 下から起点をみる
北谷 崖下の広壕道 下から起点をみる 写真正面の起点から、谷が開ける箇所までの長さは約44m。

北谷 広壕道の下部
北谷 広壕道の下部 写真前方に進むと壕道は谷の開けたところで二手に分かれるが、写真右側の林の中が古道。そして「枡形虎口」となっている。

北谷 広壕道から分岐した壕道 脇壕道の起点
北谷 広壕道から分岐した壕道 脇壕道の起点 崖下を回り込むように設定されている。右手は土塁になっている。この壕道を進むと脇壕道となる。長さは約20m、幅は約4m。

〈5〉脇壕道

 「北谷」にある壕道の起点の隣に、「東曲輪下」まで続く壕道があります。この壕道を通ると「東曲輪(山頂)」に上がることなく、西方の「西曲輪、二・三の陣地」方面に移動することができます。脇壕道は瀬戸子館跡の北側斜面に設置されています。内真部城館群の「堀道」は、文字通り「掘り下げている道」の場合と「斜面が緩くなっている場所の山側を切って整地し広げて通りやすくした道」がありますが、脇壕道はその後者です。「脇壕道」はできるだけ高低差がないように移動しやすく設定されています。脇壕道の長さは約300mです。

脇壕道
脇壕道  東曲輪(頂上)から北谷に続く尾根の西側にある脇壕道。東曲輪・頂上に上らずに、「西曲輪、二・三の陣地」方面に行くことができる。

脇壕道 終点南口付近
脇壕道 終点南口付近 この道を進むと東曲輪下に出る。
  

〈6〉西曲輪

(1)東曲輪から曲輪下まで
 「東曲輪」から西へ下ると「脇壕道」南口と尾根壕道の起点のある「東曲輪下」にたどり着きます。東曲輪から曲輪下までの距離は約75mです。東曲輪下から「西曲輪」までは約80mです。[東曲輪下の標高は約80m]

(2)二重壕道と見張り台
 「脇壕道」を通り、「東曲輪下」に出た尾根すじから壕道が始まり、少し下がると、壕道が二重になる箇所があります。「二重壕道」は、東曲輪下に向かって右手が主要道の尾根壕道、左手谷側は"見張り台"のような地形を通り、脇壕道へとつながります。見張り台は北側にある谷を向いていて、テラス状平坦地の幅は、約5mです。

(3)東曲輪下壕道起点から続く尾根道
 「東曲輪下」から「西曲輪」までは、若干の上り。東曲輪下から三の陣地へ向かう壕道は、掘道と土橋状になった尾根すじが交互に出てきます。土橋状に細くなった尾根道が長さ30m、10m、30mと3箇所あります。東曲輪下壕道起点から「三の陣地と下壕道分岐」までの距離は、約270mです。

(4)西曲輪
 地形図で見ると、尾根すじに広場となるような箇所があり、二の陣地と逆に尾根壕道から北側にあります。瀬戸子館跡ではもっとも広い平場です。前項の「二重壕道・見張り台」に隣接しています。尾根すじの壕道と接していて高さは少し高くなっています。「西曲輪」の長さは実測で、約40m、幅は約20mの楕円形をしています。
東曲輪下から西曲輪までは若干の上りで、距離は約80mです。[西曲輪の標高は約88m]
 西曲輪は、瀬戸子館跡のほぼ中央にあるので、敵軍が東(海)側から攻めてきたとしても、南側(飛鳥山館側)から攻めてきたとしても、援軍を出しやすい位置になり、軍勢の駐屯地としての位置づけがあると考えられます。西曲輪の北側は前田蝦夷館方向になり、山の中央に沢すじが深く入りこんだ場所で、敵の侵入がまっ先には来ないと考えられます。
西曲輪から二の陣地までは若干の下りで、距離は約95mです。

(5)西曲輪の北下にある横断壕道
 「西曲輪」から北に降りると、林道奥内線にたどり着きます。林道奥内線は、瀬戸子館のある山域の中央に入りこむ沢すじを使っています。西曲輪の縁から約50m下に壕道は位置します。長さは約120m。壕道は2本で構成され、西曲輪の両側の谷すじを連絡するように、ほぼ真横につながっています。尾根方向にはつながりません。このような壕道は内真部城館群では珍しい形態です。
 東側の沢は、人為的に沢の底が平に広げられ、かつ両岸が「切岸」となっている。林道のある道に移動しやすくできていて、林道のある道と接する箇所には木戸があったと推定される。(斉藤利男先生の調査から)

脇壕道の終点(南口)
脇壕道の終点(南口) 写真右手が「東曲輪下」。写真左から1/3あたりに脇壕道の終点(南口)がある。脇壕道の長さは約300m。

東曲輪下
東曲輪下 頂上・東曲輪へ登る道。「西曲輪」方向から見る。

二重壕道
二重壕道 写真前方が東曲輪下、後方が二の陣地。写真右手が東曲輪下への道(主要道)。左手が見張り台への道。西曲輪は写真左手方向。

西曲輪脇の見張り台
西曲輪脇の見張り台 テラス状の平坦地の幅は約5m。写真左手方向が谷。西曲輪は、左手に位置する。写真右手に、東曲輪下に続く壕道(主要道)がある。この見張り台の先は主要道につながる。

西曲輪
西曲輪 西曲輪の中央平場。写真正面が、見張り台に接している谷。写真左手方向に降りると「横断壕道」がある。「西曲輪」の広さは、幅約40m。長さは約20m。

西曲輪から三の陣地への壕道
西曲輪から三の陣地への壕道 西曲輪下に位置する壕道。写真後ろが二・三の陣地方向。西曲輪から二の陣地へは下り。

西曲輪、北下横断壕道
西曲輪、北下横断壕道 西曲輪の縁から北へ約50m下にある。西曲輪から下り、林道奥内線に出る中間にある。西曲輪の両側にある沢をつなぐ機能を持つ。
 

〈7〉二の陣地と下段状壕道

(1)二の陣地
 「二の陣地」も、尾根すじの壕道に接しています。地形はほぼ自然地形で、曲輪の南斜面を降りると「下段状壕道(Y字)」の片側・東道に通じます。二の陣地の麓には、下段状壕道が設定されています。次項で説明しますが、下段状壕道は瀬戸子館の西口(現状はほぼ高圧電線保安路と重なっている)側から入る敵軍勢を迎撃するための軍事拠点となっていて、二の陣地はそこを見わたす高台となり、軍勢の陣をはる場所となります。
 二の陣地は実測で、長さは約20m、幅は約25mのほぼ円形をしています。二の陣地から「南下壕道分岐・三の陣地壕道分岐」までの距離は約95mです。[二の陣地の標高は約81m]

二の陣地
二の陣地 尾根すじにある壕道から見た二の陣地の頂部。写真右手が「三の陣地」への壕道。写真正面を下るとY字壕道東道。右手方向を下ると下段状壕道へ進む。二の陣地の広さは幅約20m。長さは約25m。
 
二の陣地から下の段状壕道をみる
二の陣地から下の段状壕道をみる 二の陣地から見た下にある段状壕道。ここで抗戦が起きたら、二の陣地から援軍を差し向けることができる。

  (2)二の陣地から下段状壕道への道
 「二の陣地」からふもとに向かうには、三の陣地に向かう尾根道から「西遺構入口」に降りることになります。曲がり口付近は、三の陣地へ向かう道、西遺構入口に降りる道が交わっています。
 西遺構入口に降りる壕道は、尾根すじから分かれて下(南側)に向かいますが、この箇所は下段状壕道の一段上になりテラス状になっていて、敵がY字壕道下の沢筋トラップを突破したとしても、次にこの高台から迎撃できるような地形に設定されています。高台への通路には複数の壕道が並行に設定されている箇所があります。このテラス状の平坦地の深さは、約10mです。
 三の陣地への分岐点(尾根道)から西遺構入口までの距離は約70mです。西遺構入口から続く下段状壕道(Y字壕道)と尾根すじとの標高差は8m程です。

南下壕道 西遺構入口へつながる
南下壕道 西遺構入口へつながる 二の陣地から尾根道を進み、そこから分岐して下段状壕道・西遺構入口へと進む。写真の付近は壕道が平行に走っている。
 
南下壕道
南下壕道 テラス状の平坦地の山側。切岸が明瞭にみえる箇所。

(3)西遺構入口から下段状壕道・Y字壕道(西道)
 遺構の説明上、「一の陣地」・「東曲輪」・「北谷」を東遺構とし、「西曲輪」から西側を西遺構と呼称します。
〈9〉項の西口から西遺構入口までの道を登ると、西遺構の入口となる曲がり角があり、ここから「二の陣地」下に位置する「下段状壕道」が始まります。[西遺構入口の標高は約75m]
 この壕道は広い沢の斜面の上部を塞ぐ形で沢よりも一段高く造られ、沢の東側を下りていく形になっています。つまり、沢自体がトラップのようになり、正面から、東側から迎撃できる地形に形づくられています。下段状壕道の下の切岸の高さは、約1.6mです。下段状壕道は沢を囲むように曲がりますが、曲がり角での壕道の深さは約50cmです。
 下段状壕道(Y字壕道)は、沢正面の壕道から東道へと分岐しますが、西道は沢すじを囲むように降りて途中で止まります。
 西遺構の入口からY字壕道(西道)の終端までの距離は約150mです。東道分岐点までの距離は約115mです。

(4)Y字壕道(東道)
 沢正面から南への曲がり角の一段上に、「二の陣地」下に延びる壕道の起点があります。上ると二の陣地下を通り、下って隣の沢すじの西側斜面を進み、沢の端に設定された壕道に降りる形となりこれも途中で途切れます。つまり、ここもY字となっています。沢側の壕道は沢の上部で途切れます。
 Y字壕道の分岐点から東道終端までの距離は約100mです。

 西遺構入口
西遺構入口 西口・鉄塔保安路の丘下を上ると西遺構の入口がある。写真正面の立木の右に進むと下段状壕道。立木の左を登ると南下壕道を上がって尾根に進む。
 
 下段状壕道から二の陣地をみる
下段状壕道から二の陣地をみる 写真上部が二の陣地。
 
 下段状壕道の下にある広い沢
下段状壕道の下にある広い沢 下段状壕道は広い沢すじを囲むように設定させている。
 
 下段状壕道と沢の間の切岸
下段状壕道と沢の間の切岸 下段状壕道から沢に降りて、下段状壕道と沢の間の切岸を見る。敵が侵入した場合、容易に駆け上がるわけにはいかない。切岸の高さは約1.6m。
 
 下段状壕道・Y字西道
下段状壕道・Y字西道 下段状壕道が分かれた西道。深さ約50cm。右手土塁の下が広い沢。
 
 下段状壕道・Y字東道への分岐
下段状壕道・Y字東道への分岐 下段状壕道はL字形で、西道と東道に分かれる。東道は二の陣地下へ上がってから、沢すじに降りていく。
 
 Y字壕道東道 二の陣地 下
Y字壕道東道 二の陣地 下 Y字壕道の東道。写真左上に進むと二の陣地。東道はここから下に降りていく。

※斉藤利男先生の見立てでは、「Y字壕道東道」は古態と見えるが、「下段状壕道」と「西道」は、築城時代のものかどうかは判然としない、ということでした。 林業用の道だとすれば手がかかりすぎていること、この谷は下がると狭くなっていき、林業用とは思えません。ようは、この壕道の役割がよくわからない、ということです。

〈8〉三の陣地

(1)三の陣地への壕道と三の陣地
 「三の陣地」は、高圧電線鉄塔保安路を登っての頂上に位置します。「西曲輪、二の陣地」を通る尾根道から、三の陣地が位置する丘に直接取り付くことをせず、丘下の斜面脇に設定されている壕道を北に進みます。[三の陣地への壕道分岐点の標高は約82m]
 頂上にある57番鉄塔を過ぎたあたりにある鞍部に壕道は出ます。[三の陣地鞍部の標高は約97m]三の陣地からの眺めはよく、南側では海や青森市街地が、北側では「前田蝦夷館跡」などの山々が見わたせます。三の陣地は自然地形のままで、平場を造った形跡は見当たりません。立木がまったくないためにブッシュ状態で、形状を求めるにいたっていません。昭和29年の地形図には登山道が記載されていて、このコースであったことがわかります。瀬戸子館でもっとも標高が高いのは、東曲輪の頂部(101.1m)ではなく、この三の陣地の頂部で104.0mです。※青森市都市計画図1/10000調。
 三の陣地への壕道から三の陣地鞍部までの距離は約110mです。

(2)三の陣地から前田蝦夷館へとつながる道
 前述した「昭和29年の地形図」には、三の陣地から、北に位置する前田蝦夷館方面に降りる道が記載されています。その道は、半分ほど高圧電線鉄塔保安路と重なっています。現状、三の陣地頂部付近はブッシュのため、保安路を使って三の陣地から少し降りてから正面左の尾根に取り付き、尾根を下ると壕道がありました。高い土塁(高さ約1.2m)を伴っています。下ると保安路に連結します。その保安路も一部壕道を利用しています。
 ※高い土塁は、『長土塁』として詳しく説明しています。
 

 三の陣地への壕道
三の陣地への壕道 三の陣地のある丘が近くなってきた箇所。三の陣地への壕道は高低差が少なくなるように、丘の東端に設定されている。
 
 三の陣地からの景観 北の前田蝦夷館方向
三の陣地からの景観 北の前田蝦夷館方向 正面の鉄塔の左の林を進むと、前田蝦夷館向かいの奥内川に降りる。尾根すじに土塁を伴った壕道がある。
 

〈9〉西口から西遺構入口

 瀬戸子館跡にある高圧電線鉄塔保安路入口[西口]の左手に「青函トンネル線55→」という標識があります。上空には電線、水田用水路脇には飛鳥山の鉄塔保安路の標識(54←)があります。用水路を渡って、鉄塔保安路に入ります。この保安路口の手前に道が広く、駐車できるスペースがあります。
 ※ 瀬戸子八幡宮の鳥居から西口までの距離は約800m。

 最初、急な斜面を登ることになりますが、高台に出た後は、高低差のあまりない緩い上りです。途中鉄塔への分岐がありますが、沢すじから離れずに右手方向の道を辿ります。道を進むと、57鉄塔が設置されている丘頂上に登る斜面が出現します。保安路はこの斜面を登っていきます。
 昭和29年の地形図には登山道が記載されていて、この保安路入口から鉄塔が設定されている丘斜面を回避して、「西曲輪、二の陣地」を通る尾根道を通り、鉄塔が設置されているピークに至るコースになっています。内真部城館群では、これら戦後までは認識されていた登山路に山城遺構が重なっている事例が多く、ここもその一つです。

(1)斜面を一段上ってから丘尾根すじを回避して西遺構へ入る
 保安路に向かって右手(東側)が沢すじのある林になっています。保安路斜面を上って高さを稼いでから、丘尾根すじを回避して林との境をたどります。100m程上がると壕道にたどり着きます。壕道終点から西遺構へ入る曲がり口(呼称、西遺構入口)まで30m程です。保安路入口から西遺構入口までは約30分、距離は約700mです。

(2)斜面を回避して西遺構へ入る
 前項のコースで、壕道が下の道までつながらずに、なぜ途中までしかないのかが疑問でした。もう一つ、〈7〉(3)項で説明した「西遺構下Y字壕道」の下にある広大な沢すじは、下ると狭くなり、「多くの軍事拠点が敵軍勢の進入経路の終点にある」という状況と異なり、説明がつかないのです。
 この課題2つを解決する回答をこのように考えます。つまり敵軍勢の進入経路が前項(1)のコースではなく、保安路の斜面を進まずに、現状の林の中(谷)を進むというものです。ちょうど、保安路の斜面にあたる地域から、細い沢が広がって谷すじを歩きやすくなるのです。
 鉄塔保安路がついている丘の斜面は急で上るのに困難で、かつ頂上に安藤軍がいた場合に丸見えになって圧倒的に不利な状況に陥ります。よって、始めから「保安路の斜面を進まずに、広い谷すじ(現状の林の中)を進む」と思われます。沢への入り口もわかりました。

西口
西口 「青函トンネル線55→」の標識がある。急な斜面を上るとあとはゆるやかな登り。

高圧電線鉄塔保安路
高圧電線鉄塔保安路 頂上が三の陣地。丘の頂上には、青函トントル線57番鉄塔がある。

西遺構入口への壕道 入口から下をみる
西遺構入口への壕道 入口から下をみる この壕道は途中で止まる。西遺構入口から壕道の終点までの距離は約30m。
 

〈10〉北斜面 長土塁

 瀬戸子館北斜面方面へは、国道280号バイパスを北上して、奥内川を渡ってすぐの舗装道から入ります。詳しくは、アプローチ《北斜面方面》で説明しています。

西口
北路入口近くの用水路管理塔 建物の道の向かいに、鉄塔の標識がある。この方向に右を見ながら進み、最初の入口を曲がると尾根入口近く。右に入るとブル道経由。左に曲がって少しで「北路入口」。

〈 長土塁 〉

 アプローチで説明した「ログハウス風の用水路管理棟」の向かいの道を進み、右に入ると尾根斜面が見えてきます。林野標識あり北口。そこを登っていく尾根道を『北路』と称しています。瀬戸子館の山域は「H」のような尾根があり、北路を登ると中央の東西に延びる尾根にたどり着きます。※北路はS28地図に記載されている登山路である。つまり、昔は使われていた道。
 そこから東に向かうと、地形図での「86mピーク」から東の、尾根筋の合流点付近から始まる「長土塁」があります。
・中央の尾根が近づくと、尾根を直登しないで済むように設定された壕道がある。
・地形図での「86mピーク」のある尾根筋の伐採地側(南)下には、尾根筋に平行して設定された壕道がある。
・長土塁の始点は:北緯 40度53分0.2秒 東経140度38.4分 2.4秒
・長土塁を下ると、鉄塔保安路に合流する。そこから先は長土塁は鉄塔保安路としても利用されている。
・長土塁は、ふもと付近で伐採のブル道で破壊されているが、それ以前は川岸まで連結されていたと推定できる。
・長土塁の長さは約1.4km。
・川岸近くの土塁は、単に敵からの防御施設とは思えない。なんでこんな所に土塁を築く必要があるのかと考えさせられる遺構である。
・これらのことから、飛鳥山館と同様に「野牧」(丘陵斜面を利用した馬の牧場)であった可能性が高くなった。
 ※野牧については、南部町相内野を視察に行きました。その際のビデオ「南部藩野牧相内野」をご覧ください。
 
長土塁の造築された時期
 2022.11.20に実施された青森市文化遺産課による「山城分布調査、第1次飛鳥山館調査」によって、榊原滋高氏が「北曲輪」の堀切を断ち切るように長土塁が設定されていることから、「長土塁は北曲輪より新しい構造物」である、としました。
 このことにより、長土塁は戦国時代以降の構造物となり、城郭遺構ではなく「野牧」の可能性がより高まりました。瀬戸子館における長土塁も、これを造った時期は、飛鳥山館と同時期と推測されます。

北斜面長土塁始点
北斜面長土塁始点 写真上が尾根。標高86mピークの標石から約200m東の尾根筋にある。

長土塁 保安路との合流点
長土塁 保安路との合流点 長土塁の上部ではもっとも状況が見やすい箇所。鉄塔保安路は背中側。T字に合流する。

長土塁 鉄塔保安路として利用
長土塁 鉄塔保安路として利用 鉄塔保安路は長土塁の上を歩くことになる

長土塁 伐採地入り口
長土塁 伐採地入り口 長土塁は伐採地に出る。長土塁の立派さが実感できる場所。

長土塁終端 川岸
長土塁終端 川岸 写真正面奥が川岸。

※長土塁の映像はビデオ「瀬戸子館跡 長土塁」にまとめ、土塁の高さの数値も入れてあります。

〈11〉北斜面 段築群

〈 段築群 〉

 尾根道「北路」に隣接して『段築群』が始まります。段築群は、麓の南北に流れる沢と北路尾根に挟まれた領域にあり、最も標高が高い上の端で、尾根入口からの距離は約700mである。尾根入口近くから始まる段築群を、その構成や形状から「尾根段築群」、「脇段築群」、「林Ⅰ段築群」と分けることができる。
・尾根段築群は第1グループと第2グループとに分かれ、10段ある。段築の切岸の高さは最大2m。多くは1.8m~1.4mである。切岸前の平坦地の深さは、10m程度のものが多い。
・尾根段築群の第6段の切岸前の平坦地を左側に回り込むと、林Ⅰ段築群につながる。
・脇段築群は、尾根段築群の第2グループの下に位置し、尾根段築群と林Ⅰ段築群に挟まれている。中央から右(北)と左(南)とで形状が異なり、階段状に段築が連なるのは右側の方となる。段築の切岸の高さは最大2m。多くは1.6m程度である。右側には6段ある。
・脇段築の右第6段は、尾根段築の第1グループと第2グループのグループの境になるエリアを右にし、切岸前の平場を左方向に進むと、尾根段築の第2グループの最初の段築、第6段につながる。
・脇段築の右第4段の切岸前の平場を左に進むと、正面に林Ⅰ段築の脇の切岸があり、そこを左に回り込むと林Ⅰ段築群につながる。
・林Ⅰ段築群は、中央尾根筋から右が尾根段築群の第2グループの段築群に接し、尾根段築群よりも高い位置関係になる。第6段から切岸手前の平坦地の右側から、尾根段築の全体を俯瞰することができる。
・林Ⅰ段築群は、第5段までが階段状の段築となり、それより上の8段までは、中央尾根筋を削って、平坦地をこしらえた段築である。
・林Ⅰ段築群の尾根筋から左(南)には、北路尾根から麓への沢筋に平行した段築が3段築かれている。段築の切岸手前の平坦地は尾根から麓に向かっての回廊状に進むことができる。
・林Ⅰ段築群の左(南)には、それぞれの沢に囲まれた尾根の麓に段築が築かれていて、敵の侵入を阻んでいる(林他段築群と仮呼称)。沢は8箇所ある。北路尾根から麓に向けての降口が7箇所認められた。尾根筋となる降道には段が造られて、敵の進撃速度を遅くし、一列でしか登れない箇所を数段造っている。
・林他段築群の最奥部は、瀬戸子館中央尾根下の沢のほぼ終点に達していて、瀬戸子館段築群の入口から尾根筋(北路)の降口1までの距離は約700mある。
・瀬戸子館跡段築群は、内真部城館群最大の防御施設である。

尾根段築 第2段
<段築群> 尾根段築 第2段 北側斜面の尾根道(北路)に面している第2段段築 平坦地の幅、25.5m。切岸の高さ、2.0m。

尾根段築 第3段
尾根段築 第3段 北路の尾根段築第3段 平坦地の幅、24m。切岸の高さ、1.8m。

脇段築 第1段
脇段築 第1段 尾根段築に隣接する脇段築第1段

林Ⅰ段築 第4段平場前
林Ⅰ段築 第4段平場前 尾根段築、脇段築の隣にある林Ⅰ段築 第4段平場と切岸

林Ⅰ段築 第4段
林Ⅰ段築 第4段 林Ⅰ段築第4段は切岸がU字形で明瞭 平坦地の深さ、5.5m。切岸の高さ、2.0m。

林他段築 沢5 沢脇の段築
林他段築 沢5 沢脇の段築 林他段築群の沢は沢筋の上段に段築が造られている。

林他段築 降道1段築
林他段築 降道1段築 林他段築群は下が沢筋の道で、上が北路尾根道。尾根道から下に降りる道には段築があり、登るのに難儀する。

 ○段築群の映像はビデオ「瀬戸子館跡 尾根段築群」、「瀬戸子館跡 脇段築群」、「瀬戸子館跡 林Ⅰ段築群」にまとめ、段築形状の詳しい数値も入れてあります。
 

〈12〉東尾根先端部 

※山城遺構発見の経緯
 2021年4月17・18日に「瀬戸子館跡」の調査が行われました。調査者は五所川原市教育委員会榊原滋高氏と鯵ヶ沢町教育委員会中田、深浦町教育委員会伊藤氏の3名です。初日は、南谷の大手虎口から入り、北斜面の長土塁に降りて、二日目に北斜面段築群を調べました。「城の構造から、東尾根(海側)の先端部にも山城遺構が必ずあるはずだ。」として、東尾根の先端部、急な斜面を登りました。
 斜面には、段を切ってあり(段状遺構)、侵入者に対応した造作になっていることがわかりました。また、「竪穴式住居跡」と「環濠集落跡」が発見されてました。さらに、東尾根の先端部の東側(海側)に「方形居館跡」が発見されました。これまで、外ヶ浜方面で方形居館跡の報告はなく、17日の飛鳥山館の麓の方形居館跡と合わせて、2件が確認されたことになります。その後、湯ノ沢館にも方形居館跡があることがわかりました。つまり、安藤氏山城群内に3つの方形居館が存在します。

〈 方形居館跡 〉  

 方形居館とは、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士(支配階級層)の住まい、屋敷跡です。
 武家屋敷の形は方形を基調としており、周囲を土塁と空堀で囲むものでした。一般に、鎌倉時代の方形居館の規模は、郡荘地頭が一町四方(109m)であり、瀬戸子館の方形居館は、山側正面が 68m、縦辺が 30m でした。面積は68m×30m=2,040㎡、618坪、2反となります。
 瀬戸子館の方形居館の構造は、敷地の正面手前を除く3辺に土塁が設定されています。敷地は山側の土塁方向は高めになっています。山側正面の土塁の外側には堀があり、縦辺の北側の堀は、正面・手前の辺の約半分から北側にある堀と交わり、道まで水路のように延びています。縦辺の南側の堀は浅い状況です。正面・手前にある堀の外側には土塁が設定されています。正面・山側の土塁と北側縦辺の掘は交わっていなく、2m程度の隙間があり、ここが虎口だということがわかりました。
 瀬戸子館の方形居館跡は、正面が長く縦辺がその約半分という、真四角ではなく長方形の形になっています。これは、方形居館の背後がすぐに尾根からの斜面になっていて、縦辺を70m分取るだけの十分な敷地を得ることができない土地であったからだと思われます。瀬戸子館の方形居館敷地の北側に、段を切っての平場が二段あります。70m×30mの区画には主殿があり、付随する建物は北横の区画に設置していた。そこも合わせて活用していたと考えられます。
 さらに、主殿区画の下にも区画があったことがわかりました。正面・手前の横辺掘の東(道)側に土塁があること、南側縦辺の掘は主殿区画の南角から、北に約20mの地点から、東(道)側に下段区画の縦辺になる掘の痕跡がありました。下段の区画は、横辺の長さが約50m、縦辺の長さは約17mです。ただし、縦辺は道(森林鉄道軌道跡)にぶつかるため、かつてはもっと長かったと思われます。つまり、上段の主殿の区画、下段の付随する施設の区画を合わせると、ほぼ方形に近い区画であったということになります。
 北側にある平場の大きさは、下段の正面長辺が36.0m。左側短辺(南側)が下段14.0m、上段11.5m。右側側短辺(北側)が下段、上段とも6mでした。この2段の平場が単なる防御施設だとするには、上の平坦地の造りが手が込んでいて丁寧です。 
 瀬戸子館の方形居館跡は、瀬戸子館東尾根の先端部の麓に位置します。瀬戸子館の山頂からみると約1Km北にあります。
 近くにある古代の遺跡としては、「01125-前田(4)遺跡」(縄文後期、平安:散布地)、「01124-前田(3)遺跡」(平安:散布地)、「01126-前田(5)遺跡」(平安:散布地)、があります。

方形居館跡 道から見た東側長辺
方形居館跡 道から見た東側長辺 東側長辺の長さは68m。

方形居館跡 東側長辺と北側短辺角の堀
方形居館跡 東側長辺と北側短辺角の堀 北側短辺の長さは30m。堀の深さは約1m。堀の手前の土塁の高さは約60cm。

方形居館跡 平坦地の奥(山側)は土塁
方形居館跡 平坦地の奥(山側)は土塁 居館跡地の山側は土塁につながれて高くなっている。

方形居館跡 西側長辺 土塁外側の堀
方形居館跡 西側長辺 土塁外側の堀 林山側土塁の外側は堀になっている。
 

〈 段状遺構 〉  

 瀬戸子館の東尾根先端部を調査したところ、斜面を平削した「段状遺構」が多数設定されていました。段上遺構が設定されているのは、「方形居館跡」から北の東斜面から東尾根の正面(北)の領域です。正面から西に回り込むと段上遺構はなくなります。
 ここに柵が設けられていた場合には、敵が尾根に攻め上がるための余地がほとんどなくなります。また、敵が平場に入った場合は、高い尾根側から見ると、隠れようがなく弓矢の的になってしまいます。東尾根に、沿うように瀬戸子川があり、断崖もあって、敵は思うように攻めることはできないという形状です。

段状遺構 東尾根正面
段状遺構 東尾根正面 写真ではわかりづらいが、段が切ってある。


段状遺構 東尾根側面
段状遺構 東尾根側面 斜面に段を切って平場をこしらえてある。写真右手が東側麓。
 

〈 竪穴式住居跡 〉  

 東尾根先端部の尾根に上がると「竪穴式住居跡」がありました。円形になって中心が深くなっています。6箇所確認できました。さて、その時代はというと、発掘して遺物が出ないとわからないわけですが、瀬戸子館東尾根の麓の遺跡群からみて、平安時代なのではないかと思われます。
 竪穴式住居跡の大きさを計測しました。大きさは大きい物で直径6.5m、小さい物で5mであった。それぞれの縦・横の長さは同じであり、およそ直径6mの円形であることがわかりました。
 
竪穴式住居跡1
竪穴式住居跡1  尾根の先端に最も近い。

竪穴式住居跡3
竪穴式住居跡3  竪穴式住居跡の中でもっとも大きく明瞭。

〈 環濠集落跡 〉  

 環濠集落跡は、東尾根先端部から約250m南に位置します。約30m四方の面積です。瀬戸子館が山城として、機能していた頃は、砦として活用されていたことでしょう。
 環濠集落跡の大きさを計測しました。
・正面(北側短辺)28.5m。・左側側面(東側長辺)66m。・裏面(南側短辺)16m。・右側側面(西側長辺)33m。
※切岸の下を図っています。頂部の面積は当然、この値よりも狭い。 ○環濠集落跡は、「D」文字のような形状で、東側に膨らんでいます。かつ、北短辺が広く、南短辺が狭いという形状です。
 
環濠集落跡 正面の切岸
環濠集落跡 正面の切岸 東尾根先端から南へ向かっての正面。
 
環濠集落跡 東側に回り込む
環濠集落跡 東側に回り込む 写真右手が環濠集落跡頂部。東側が膨らんでいる。

環濠集落跡 裏面の縁
環濠集落跡 裏面の縁 裏面は堀になっている。写真右手が環濠集落跡。


安藤氏山城群の方形居館3箇所 位置図
安藤氏山城群の方形居館3箇所 位置図
方形居館は、飛鳥山館・瀬戸子館・湯ノ沢館で発見されました。図をクリックすると拡大図が表示されます。

遺構場所の緯度・経度

  どこどこに遺構があるといっても、他の人が再度確認できなければ意味がありません。よって、「YAMAP」で計測した、遺構の存在する場所の緯度経度を表記しておきます。
(1)南口入山ポイント:北緯 40度52分35.8秒 東経140度39分 7.8秒
(2)一の陣地入口:北緯 40度52分48.1秒 東経140度39分 7.8秒
(3)一の陣地下広壕道:北緯 40度52分46.9秒 東経140度39分10.6秒
(4)東曲輪入口:北緯 40度52分51.7秒 東経140度39分 7.5秒
(5)三の谷、広壕道:北緯 40度52分57.0秒 東経140度39分 8.5秒
(6)脇壕道北入口(三の谷上部):北緯 40度52分56.5秒 東経140度39分 7.3秒
(7)脇壕道南入口(東曲輪下):北緯 40度52分51.4秒 東経140度39分 4.1秒
(8)西曲輪入口:北緯 40度52分51.3秒 東経140度39分 0.9秒
(9)二の陣地入口:北緯 40度52分51.9秒 東経140度38分57.2秒
(10)三の陣地壕道入口(南下への壕道分かれ):北緯 40度52分53.1秒 東経140度38分53.1秒
(11)三の陣地入口(五の曲輪馬の背鞍部):北緯 40度52分55.1秒 東経140度38分50.8秒
(12)西遺構入口(曲がり角・Y字壕道起点):北緯 40度52分51.1秒 東経140度38分51.5秒
(13)Y字壕道分かれ(東道・西道分岐点):北緯 40度52分51.4秒 東経140度38分55.1秒
(14)保安路入口:北緯 40度52分35.3秒 東経140度38分56.1秒

まとめ 瀬戸子館跡の遺構から

 瀬戸子館は他の山城と比較して、コンパクトな中に様々な遺構が設定されているという興味深い山城です。城の性格は飛鳥山館と前田蝦夷館の支援にあると思われます。
 瀬戸子館の存在により、安藤氏は青森市北部の陸奥湾に面した内真部地区から飛鳥地区の全山に砦を築いていたことになり、内真部城館郡の価値が格段に高まるものと考えています。

 斉藤利男弘前大学名誉教授 現地調査のまとめ
  // R01.10.17 調査 //
  • 瀬戸子館は平時の城ではなく、軍事要塞として造られた山城である。
  • 枡形虎口が南谷に2箇所、北谷に1箇所設置されている。
  • 枡形虎口は、大変りっぱなものである。
  • 南谷と北谷の虎口のどちらが大手道に該当するかははっきりとしない。(双方とも規模が大きい)
  • 一方、丘陵上方に位置する「曲輪」は見劣りがする。(これも軍事拠点として特化した山城であることを示す)
  /// R02.3.26 追加調査 ///
 飛鳥山館跡の現地調査の後に、R01.10.17調査で斉藤先生が視察できなかった箇所の北谷と南谷にある虎口を、裾野から上って確認しました。
  • 瀬戸子館の大手道は、南谷にある虎口(大手虎口)であることがわかった。北谷にある虎口は搦め手であろう。※「瀬戸子館跡の遺構位置図」の「A」から東へのコースが「南谷」、その北側のコースが「北谷」。
  • 大手虎口に至る裾野に「L字型の壕道」がある。深さもあり、広いが長さが短い。このL字壕道の用途は不明だが、その下側に「陣所」があったのだろう。
  • 南谷の上部には、人為的に斜面を削った場所がある。瀬戸子館の虎口は大変立派で、その造りから室町時代(安藤・南部戦争時代)に改修されている可能性、またはその頃まで使われていた可能性もありうる。
  • 南谷の入口の尾根筋には、段築等の防御施設を設定していない。あえて設定していないことも考えられる。
  • 北谷の裾野から虎口に向かっての、左側の尾根筋に段築が設定してある。まず、この箇所に木戸があっただろう。北谷の虎口の木戸はこの他、北谷広壕道の入口に一箇所と最終部の脇壕道への入口に設定されていた可能性がある。
  /// R02.11.18 追加調査 ///
 瀬戸子館北斜面にある段築群を案内して、現地調査をしていただきました。
  • 瀬戸子館の北路を登っての壕道の確認では、大手虎口が南北朝期や室町時代でもおかしくない造りだったが、尾根筋にある壕道は鎌倉時代のものとみられる。
  • 段築群の造成時期は「安藤氏の乱」時代とするよりは、対南部氏との戦いの時期、あるいは南北朝時代に形成されたと考えられる。
  • 瀬戸子館は鎌倉時代から室町時代にかけて、その時々の時代背景と必要性によって改築されていった。
  • 瀬戸子館北斜面の段築群は、県内にある段築と比較して、格段に規模が大きい。
  • 瀬戸子館跡は戦時の城塞としては、外ヶ浜安藤氏の山城の中ではもっとも大きく、『安藤氏本城』といってもいい。 ⇒ 2022年11月19日に北部市民センターで「山城フォーラム ~城塞遺構と遺跡から見る外浜安藤氏の里~」が開催され、斉藤利男氏は、この外浜安藤氏関連の山城群の名称を『内真部・尻八城塞群』が相応しいと提唱された。合わせて、内真部館以南の山城群を前衛防御の城と位置づけ、本城は内真部館とした。千早・赤坂城塞群における、楠木本城とされる「上赤坂城」に相当するのが「内真部館」ということである。
  /// R03.04.18 榊原氏調査 ///
  • 五所川原市教育委員会榊原滋高氏と鯵ヶ沢町教育委員会中田、深浦町教育委員会伊藤氏の3名をお招きしての調査によって、瀬戸子館の東尾根先端部に「段状遺構」の防御施設があることがわかった。
  • 瀬戸子館東尾根の先端部には、竪穴式住居跡が見つかった。合わせて、環濠集落跡も発見された。
  • 0417日の調査初日に、飛鳥山館麓の遺構を見てもらったところ、「方形居館跡」だということが判明した。
  • 瀬戸子館の東尾根の麓を、先端部に向けて戻る道筋で方形居館跡が見つかった。

**********
 ●以下に、考えていることを列挙しておきます。
  • 瀬戸子館には、多様な山城遺構があり、その領域も広大である。
  • 瀬戸子館は、谷の自然地形を効果的に使って城塞としているのが特徴である。いわば「谷の山城」である。 ふもとの入口も広く、それが上部まで続く谷(南谷、一・二。北谷)と、ふもとの入口は狭く、上部は広がっている沢がある。
  • 西遺構・東遺構においては、隣接する飛鳥山館と異なり、壕道と土塁はセットになっていない。(内真部城館群の中で壕道と土塁がセットで造られているのは、飛鳥山館だけである。)しかし、北遺構(五の曲輪から奥内川へのコース)では、高い土塁と壕道を一体に形成した壕道があった。
  • 瀬戸子館の西尾根北斜面の遺構と段築群の発見から遺構エリアの規模は拡大した。さらに広がる可能性もある。 ・瀬戸子館の東尾根先端の遺構と方形居館跡が発見された。瀬戸子館の山城領域は、南北の長さは約1.8km、東西が約1.4kmある。安藤氏山城群は、東西に長い領域の山城が多いが、瀬戸子館は南北の領域が長い特徴があり、最も広大なエリアを誇る。
  • 尻八・内真部城塞群の遺構エリアの大きさから順位を付けるとすると次の順となる。1.飛鳥山館、2.瀬戸子館館、3.湯ノ沢館、4.尻八館、5.内真部館(内真部山城を含む)、6.前田蝦夷館(南方山城遺構を含む)
  • 瀬戸子館は、安藤氏関連山城群の中で、現状では遺構がブルドーザーによって破壊された箇所がまったくない山城跡である。(前田蝦夷館の南方山城遺構には令和元年ブルドーザーによる伐採用の道が造られた。)
  • 瀬戸子館には、湯ノ沢館・前田蝦夷館・飛鳥山館のような山頂を囲む周壕がない。このことが地元の人々に瀬戸子の山には山城がないと思われていた理由だろう。
  • 瀬戸子館は、北路にある壕道は鎌倉時代のもの、北斜面段築群は南北朝時代のものと思われる。長い時代をかけて、その時々の戦況に合わせて、造築されていったのであろう。⇒ 青森市文化遺産課による「山城分布調査」が令和4年度から実施されている。調査にあたっている榊原滋高氏は、北斜面の段築群を戦国時代のものと考えている。 

山城探索とGPS

 最初、湯ノ沢館でこれまで知られていなかった曲輪を発見しました。しかし、地図上でどの位置にあるのかを特定することができませんでした。この課題を克服するためにGPSロガーを導入し、GPS軌跡を「カシミール3D」を使って、地図上に表示することができました。これによって、どの遺構がどこの位置にあるのかを示すことができるようになりました。
 「新青森市史資料編2」の「(一)内真部館・内真部城館群とその歴史 」の湯ノ沢館の記述の中に、「戦前の地図には尾根を下って北の内真部館跡方向へ向かう道も描かれていた。」とあり、昔の地図に表示されている登山路が山城の経路にとって重要な情報になることがわかりました。そして、入手できた昭和29年の地形図には、内真部城館群の登山路が表示されていました。例えば瀬戸子館跡の遺構は、地形に表示されている登山路をたどることによって、見つかったものがほとんどです。

 次に課題となったのは、山城探索の最中に「現在地がどこなのか?」知ることはできないだろうかということでした。GPSロガーでは、家に戻ってからパソコンを使わないと結果がわかりません。スマホで現在地がわかるアプリがあるのではないかと調べて、「YAMAP」を使い出しました。これにより、昭和29年の地形図の登山路を現場で確認しながらたどることができるようになりました。
 瀬戸子館や飛鳥山館の登山路をたどり、遺構(壕道)を確認できたのは、「YAMAP」等で、スマホで現在地がわかるようになったおかげです。また、ヤマップ等のGPSルートソフトでは、山行で軌跡を取りながら写真を撮影すると、軌跡のルート上に写真の位置が表示されます。これも、遺構の位置を特定するのに役立ちます。
 山城を調査するには、もっともよい方法が「測量」でしょう。ただし、測量は技術がいる、一人ではできない、事実上「調査費用」が必要でしょう。GPSを使っての調査ならば、個人でも可能な調査です。

山城ビデオ

1.「瀬戸子館跡 外ヶ浜安藤氏本城:青森市北部地区にある『瀬戸子館跡』は、令和元年に発見されました。
この発見によって、外ヶ浜安藤氏の山城群が「ひとつながり」であることがわかました。瀬戸子館跡を、現地調査した弘前大学名誉教授の斉藤利男氏は、瀬戸子館跡を軍事拠点としての立派さから外ヶ浜安藤氏の本城とも呼べるような規模と防御遺構があるとしました。
 
 
2.「安藤氏山城 瀬戸子館跡探訪:この動画は、2021年10月18日に開催された、青森市北部市民センターの野外講座での様子から、山城を構成している遺構を説明しています。
 
 
3.「瀬戸子館跡 長土塁:瀬戸子館跡の北斜面を登って尾根に出ると、土塁があり、そこから麓まで約1.4km続く長土塁があります。単なる防御施設としては手が込んでいて、「野牧(馬の牧場)」の可能性があります。 
 
 
4.「南部藩野牧相内野:青森県南部町剣吉公民館から車で15分ほどの山間に『相内野(あいないの)』という"野牧(のまき)"、馬の牧場跡があります。南部藩の南部九牧の一つで、中世時代からあっただろうと推定されています。『野牧』とは、山の中にある牧場とは、いったいどんなものなのかを見に行きました。
 
 
5.「瀬戸子館跡 尾根段築群:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。 内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から尾根筋に沿って10段で構築されている『尾根段築群』を紹介します。
 
 
6.「瀬戸子館跡 脇段築群:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から尾根段築群の隣にある『脇段築群』を紹介します。
 
 
7.「瀬戸子館跡 林Ⅰ段築群:瀬戸子館跡の北斜面には、麓からの尾根筋と沢筋との間の斜面に段築群が造られています。内真部城館群の中では、最大の防御施設です。その中から脇段築群の隣にある『林Ⅰ段築群』を紹介します。
 
 
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 大阪山館跡 - 内真部館跡 - 前田蝦夷館跡 - 南方山城遺構 - 湯ノ沢館跡 - 西方山城遺構 - 飛鳥山館跡 - 山城遺構の構造
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊


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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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