安藤氏山城遺構の構造と主な遺構

 平成28年から安藤氏関連の山城を訪ねだし、それまで見つかっていなかった山城遺構も把握できました。その中で、平成30年(2018)に確認できた「瀬戸子館跡」と令和3年(2021)に確認できた大坂山館跡は、これまでまったく知られていなかった山城です。これで、南は飛鳥山館から北の尻八館までの全山域に山城が構築されていたことがわかりました。特筆すべきは「方形居館跡」が3箇所発見されたことで、これまで居館跡は「内真部館」だけでした。飛鳥山館、瀬戸子館、湯ノ沢館に方形居館跡があることは、内真部館と合わせて、この山域の支配層の構造や支配のあり方、そして歴史に新たなスポットが当てられることになるはずです。

 調査で把握できた、外浜安藤氏の山城遺構の構造と類型となる遺構、合わせて、それぞれの山城への入り口とルート、ルート上の主な遺構をまとめました。
 この山域に存在する山城遺構は、南から飛鳥山館、瀬戸子館、前田蝦夷館、湯ノ沢館、内真部館・内真部山城、大坂山館、尻八館であり〈註〉、これらの山城が機能していた時代は、鎌倉時代から室町時代です。
註:斉藤利男弘前大学名誉教授は、2020.11の瀬戸子館北斜面段築群の現地調査の後に、この山域を「尻八・内真部城塞群」と呼称することを提唱した。⇒2022年11月19日に北部市民センターで「山城フォーラム ~城塞遺構と遺跡から見る外浜安藤氏の里~」が開催され、斉藤氏は外浜安藤氏関連の山城群の名称を『内真部・尻八城塞群』が相応しいと提唱された。
 
 なお、青森市が実施した山城分布調査については、別ページに山域ごとにまとめてあります。⇒「山城分布調査
※内真部・尻八城塞群については、別ページにまとめてあります。⇒「内真部・尻八城塞群
※安藤氏については、別サイトにまとめてあります。⇒「下国安東氏ノート

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A.壕道(堀道)
B.切通し
C.沢筋掘道、防御遺構
D.堀、竪壕、横堀
E.土塁
F.平場・段状遺構、段築
G.虎口
H.曲輪(陣地)
I.駐屯地
J.見張り台
K.塹壕壕道
L.土橋
M.切岸
O.方形居館
山城群のルートと主な遺構
P.外ヶ浜安藤氏山城群の成り立ち
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凡例:各項目の「遺構事例」において〈P-no.〉は写真番号を指す。紹介している遺構の内で濃文字で表記しているのは、山城群での顕著な遺構である。

A.壕道(堀道)

 安藤氏の山城にとって、壕道(堀道。以下、壕道)はもっとも特徴的な遺構である。安藤氏山城群のある「青森市北部」とは、青森市油川地区より北、蓬田村手前の青森市後潟地区までを指す。現在の町会の区切り(領域)は、明治以前の村の区切りとほぼ同様となっている。それぞれの村は海から山までとして、地図で言えば横長に積み重なっている。十三湊で繁栄し、鎌倉時代蝦夷沙汰代官に任命されていた安藤氏は、海の民のイメージが強いだろうが、山の民でもあったことが安藤氏山城の構造を理解するのに欠かせないと考える。
 曲輪(陣地)や防御遺構をつなぐ壕道はその最たる遺構である。安藤氏の壕道の最も重要な役割は、迅速な移動を可能にすることにあり、基本的に尾根筋とその脇に見られるが、壕道には様々な形態があり、その主たる機能も異なってくる。壕道は室町時代から戦国時代にかけての山城の各種防御遺構の原形であると考えられる。
 壕道の一般的な利点は、掘り下げることによって、広範囲に広がっている笹の根を断ち切ることになり、道の管理(刈り払い)が容易になり安定した道の確保につながることなのではないかと考える。
 以下に、壕道を形状や機能から分類してみる。一つの壕道の機能が複数あるものも多いが、その役割を把握するための一助にはなるだろう。


1.急な尾根筋を回避し、その脇に取付けられる壕道

 初めての山域を調査する際には、まず尾根筋に拘って移動路を確保した。急な経路を上る際には気づかなかったが、戻りの段階で壕道があることに気づいた例が多々あった。尾根筋をそのまま上るよりも、傾斜を抑えた壕道を通った方が疲れないことは当然であり、移動時間も短縮できる。合わせて、食料や資材、道具や武器を背負って移動しなくてはならないこともあっただろうから、移動経路の確保は築城の重要な要素であった。
 防御面からみれば、壕道の入り口はその存在を知らない者(敵を含む)には、発見できずに通り過ぎるだろうものも多々ある。味方が移動する(逃げる)際には、敵より迅速に移動できることになる。合わせて、敵が壕道を通らず尾根筋を進んだ場合には、敵の背後に回り込むことも可能である。
遺構事例:飛鳥山館・北路、中央遺構、尻八館西路〈P-1〉

尻八館西曲輪下壕道  
壕道・回避 左:1-尻八館西曲輪下壕道


2.尾根筋に取付けられる壕道
 一般には尾根筋そのものには壕道がない場合が多い。特に尾根筋の幅が広く、かつ平坦である場合には壕道を設定する必要がないものとみられる。一方、尾根筋に壕道が掘られている場合もある。道が高くなる部分を掘り下げて、その両側の高さを徐々に合わせていく場合である。道が鞍部になると壕道は自然と消える。壕道を設定することにより、移動路を間違えない効果があるのではないかと考える。
遺構事例:瀬戸子館東曲輪下の斜面から西曲輪〈P-2・3〉

瀬戸子館西曲輪近くの壕道 瀬戸子館二重壕道 
壕道・尾根筋 左:2-瀬戸子館西曲輪近くの壕道 中央:3-瀬戸子館二重壕道


3.尾根筋の脇下に取付けられる壕道
 壕道には、尾根筋ではなくその脇下に築かれるものがある。尾根筋がゆるやかな登り降りがある場合に、尾根筋に平行に取付けられ、道に高さの上下がないように造られる。中には造作者の拘りなのか「あってもなくてもさして変わらないだろう」と思えるものもある。
遺構事例:瀬戸子館北路頂部の尾根筋、湯ノ沢館西壕道


4.山側斜面を掘って、平らな道を造成する壕道

 壕道は、尾根筋にだけあるのではない。第1項と同じ原理で上下動を回避することにはなるが、A地点とB地点を直結させ、できるだけ早く移動できるようにするために、山側斜面を掘って、平らな道を造成する壕道がある。
 前田蝦夷館の周壕も山側と谷側を比べて必ず掘られているとは限らない。谷側は道の高さと同じく平らで済ませている箇所もある。ようはそれぞれの原地形に合わせながら造成していくということなのであろう。
遺構事例:瀬戸子館北谷(北虎口)から東曲輪下の斜面までの脇壕道〈P-4〉
瀬戸子館脇壕道  
壕道・斜面 左:4-瀬戸子館脇壕道


5.頂部曲輪への取付壕道
 小高い丘の頂部に曲輪(陣地)がある場合、下から上に登る壕道はある程度掘られていて、道がはっきりしている。
 湯ノ沢館の西曲輪の取付壕道は、L字形になっていて、下からの壕道と曲輪からの壕道がT字形に連結する。
 瀬戸子館中央部のY字壕道は、二の陣地の下に位置する。Y字の両端は斜面の下方向に伸びていき、東道は、二の陣地の斜面下を通ってから、斜面の下方向に伸びる。
遺構事例:湯ノ沢館西曲輪、瀬戸子館中央部のY字壕道〈P-5〉

瀬戸子館Y字壕道  
壕道・取付 左:5-瀬戸子館Y字壕道


6.堀底道
 安藤氏の壕道の多くは、地盤との高低差がさほどないものが多い。いわゆる、堀が深くはない。ここでいう堀底道は、堀が明瞭に深い事例とする。堀の深さが膝程度のもの、肩ほどのもの、体が隠れてしまうものがある。
 体が隠れてしまう程、堀が深いのは、湯ノ沢館の麓にある。湯ノ沢館は頂部曲輪(東曲輪)に至る手前の尾根から麓まで壕道が設定されていた。現在は伐採のブルドーザーにより、一部埋め立てられてしまっている。この堀底道は、敵が斜面を移動する際には、竪壕の機能を果たしただろう。このルート上に膝程度の深さの堀底道がある。その先に南曲輪があり、堀底道は肩が隠れる程で、半円形に曲輪を回り、堀底道によって曲輪を形成している。
 前田蝦夷館の中曲輪は堀底道によって、南曲輪と中曲輪、そして北曲輪が区分けされている。
 尻八館の大手道は、沢を拡張した大手道に続き、尾根筋脇下の斜面を掘り下げた堀底道を通って、東曲輪下の大手虎口の下に出る。
遺構事例:湯ノ沢館・麓の壕道〈P-6〉、山頂へ向かう壕道〈P-7〉、南曲輪周壕〈P-8〉

湯ノ沢館麓の壕道 湯ノ沢館山頂へ向かう壕道 湯ノ沢館南曲輪周壕
写真−堀底道 左:6-湯ノ沢館麓の壕道 中央:7-湯ノ沢館山頂へ向かう壕道 右:8-湯ノ沢館南曲輪周壕


7.片側に土塁を伴う壕道
 壕道と土塁が一組となって築かれた壕道では、土塁の反対側の地盤よりも道は低くなり、壕道を掘った土は土塁を造るために使われたと考えられる。壕道は土塁の両側にあることはない。ただし、土塁を挟んでの壕道のある反対側は、掘られてはいないが平坦になっている。これは、土塁を盛り上げるために土を使うためではないかと考えられる。
 土塁を伴う壕道は、飛鳥山館と瀬戸子館で顕著にみられる(土塁の項で説明)。
 飛鳥山館の中央部の北路と交わった地点には、谷の先に土塁を伴った幅広の壕道がある。陣地として使用したと考えられる。
遺構事例:飛鳥山館・北壕道〈P-9〉、西壕道〈P-10〉、中央広壕道〈P-11〉

飛鳥山館北壕道 飛鳥山館西壕道 飛鳥山館中央広壕道
写真−土塁・壕道 左:9-飛鳥山館北壕道 中央:10-飛鳥山館西壕道 右:11-飛鳥山館中央広壕道


8.曲輪下、周りの壕道(周壕)
 周壕は、頂部曲輪下の斜面を切岸にして、その周りを囲む壕道といえる。敵が曲輪を攻める際には、周壕に上がる必要があり、体を隠せなくなり迎撃しやすくなる。また、味方の移動にも好都合となる。
 前田蝦夷館の周壕が知られているが、飛鳥山館の山頂曲輪も周壕になっている。湯ノ沢館の頂部曲輪(東曲輪)も周壕を伴う。
 これら周壕は場所によっては、谷側に低い土塁を伴う場合、もしくは現地形から道を掘り出したことにより、曲輪の反対側が高くなっていることもある。また、第4項で谷側の高さと山側の高さがほぼ同じく平坦になっている例もある。
遺構事例:飛鳥山館山頂周壕〈P-12〉、前田蝦夷館山頂周壕〈P-13〉、湯ノ沢館東曲輪周壕〈P-14〉

飛鳥山館山頂周壕 前田蝦夷館周壕 湯ノ沢館東曲輪周壕と切岸
写真−周壕 左:12-飛鳥山館山頂周壕 中央:13-前田蝦夷館周壕 右:14-湯ノ沢館東曲輪周壕と切岸

B.切通し

 壕道を設定する際に、行程上に一部尾根筋がある場合には、その箇所を掘って道をつける。この場合道の両側は切岸状となり、山側と谷側の高さは斜面の仮想ラインに合致する。
 飛鳥山館の南口(賽の河原向かい)のダム土塁の東側には、切通しがある。同じく飛鳥山館の北路と尾根筋が合流した地点から西側に、立派な見栄えのする切通しがある。
 尻八館の西曲輪から東曲輪への道の下に平行に走る壕道があるが、西曲輪南下の堀から壕道に進むと切通しがある。
 湯ノ沢館の中曲輪は、大規模な切通しの構造になっている。東曲輪から西方山城遺構へと進むルートを設定するために、尾根筋を掘り下げている。
 外浜安藤氏の全山城遺構の中で、切通しのある壕道が連続して設定してあるのは、大阪山館の尾根筋壕道であり、切通しのある壕道が6箇所ある。
遺構事例:飛鳥山館・賽の河原向かい切り通し〈P-15〉、中央切り通し〈P-16〉、湯ノ沢館中曲輪下、尻八館西曲輪下壕道、大阪山尾根筋壕道〈P-17〉

飛鳥山館賽の河原向かい、切り通し 飛鳥山館中央切り通し 大阪山尾根筋壕道③
写真−切通し 左:15-飛鳥山館賽の河原向かい、切り通し 中央:16-飛鳥山館中央切り通し 右:17-大阪山尾根筋壕道③

C.沢筋を掘り込んで堀状に加工した道・防御遺構

 内真部山城には、内真部館跡の西側の内真部山城領域に、沢筋を掘り込んで堀状に加工した堀がある。沢は、自然地形と異なり底が平らになっている。このため、水に浸る領域・ぬかるみが多く簡単に渡れないようになっている(新青森市史資料編2による調査で確認)
 尻八館の大手道は沢筋を利用して、これも底部を拡張して造られている。こちらは防御遺構というよりは道となっている(資料編2による調査で確認)
 瀬戸子館の西曲輪の北下には、沢筋を広げた道がある(斉藤利男氏による調査で確認)
遺構事例:内真部山城麓尻八館大手道〈P-18〉、瀬戸子館西曲輪北下

尻八館大手道近く沢拡張道  
写真−沢道 左:18-尻八館大手道近く沢拡張道

D.堀・竪壕・横堀

 山城にとっての重要な防御施設となる堀ではあるが、安藤氏の山城には純粋な堀はまず設定されていない。安藤氏山城の成立時期が鎌倉時代であることがその要因なのだろう。
 尻八館には、堀が多く確認されている(特に東曲輪)が、安藤氏時代の構築であるのかどうかは考慮しなくてはならないだろう。尻八館の西曲輪南下には堀が設定されていて、一段降りて壕道につながっている。
 飛鳥山館の北路との合流点から西の尾根道には、尾根筋の道を断ち切るように掘ってある。この堀は斜面にも続き、斜面側からみれば竪壕になっている。
 瀬戸子館の“三の陣地”から山域中央の尾根筋の長壕道へ至る道にも横堀のように、道を断ち切ってある箇所がある。
 湯ノ沢館の麓の深い壕道は「7.堀底道」で説明したが、幅は2m程ではあるが、堀とみることもできる。
遺構事例:尻八館・東曲輪下〈P-19〉、西曲輪下、飛鳥山館中央竪壕〈P-20〉

尻八館東曲輪下堀 飛鳥山館中央竪壕  
写真−堀 左:19-尻八館東曲輪下堀 中央:20-飛鳥山館中央竪壕

E.土塁

1.壕道を伴う土塁
 安藤氏山城にとって土塁は顕著な防御遺構であり、麓から頂部までの長い土塁がある山城がある。
 飛鳥山館は「土塁の城」といってもよく、麓から頂部曲輪まで、そして頂部曲輪から尾根筋を通って麓までの土塁がある。北東麓から曲輪までの土塁の長さは約0.6km。ただし、伐採のためのブルドーザーによって一部分断されている。曲輪から南西麓までの土塁の長さは約2.3kmある。
 瀬戸子館では、北路を登った頂部尾根筋の「86mピーク」東側近くから始まって麓の川岸までの長さ約1.4kmの長土塁がある。
 湯ノ沢館の西方山城遺構には、高さ約2.5m、長さ約45mの土塁があり、圧巻である。
 前田蝦夷館・南方山城遺構Ⅱには、東西に延びる尾根筋を利用して、土塁を構築している。土塁の北側斜面は自然地形なのに対して、南側斜面は幅広の壕道になっていて、尾根筋に壕道を設定した際の土を盛って高くしている。
遺構事例:瀬戸子館長土塁〈P-21〉、湯ノ沢館西方壕道高土塁〈P-22〉、前田蝦夷館・南方山城遺構Ⅱ土塁〈P-23〉

瀬戸子館長土塁 湯ノ沢館西方壕道高土塁 前田蝦夷館南方山城遺構Ⅱ土塁
写真−土塁・壕道 左:21-瀬戸子館長土塁 中央:22-湯ノ沢館西方壕道高土塁 右:23-前田蝦夷館南方山城遺構Ⅱ土塁


2.沢を堰き止める土塁
 尻八館の大手道筋には、沢を堰き止める土塁が2ヶ所ある(資料編2による調査で確認)
 飛鳥山館の南斜面・西壕道の終端「賽の河原」向かいには、沢を堰き止める土塁がある。尻八館のものと比較してはるかに規模が大きい(斉藤利男氏による調査で確認)
遺構事例:尻八館大手道ダム土塁〈P-24〉、飛鳥山館南斜面ダム土塁〈P-25〉

尻八館大手道ダム土塁 飛鳥山館南斜面ダム土塁  
写真−ダム土塁 左:24-尻八館大手道ダム土塁 中央:25-飛鳥山館南斜面ダム土塁

F.平場・段状遺構、段築

 平場遺構と段築との違いは、段の高さにあるようである。平場遺構は内真部館の背後にある内真部山城の麓にある。他には前田蝦夷館の大手道から西の麓にある(双方とも資料編2による調査で確認)。斜面に設定される平場・段状遺構としては、瀬戸子館東尾根の先端部にある。また、大阪山館東斜面に至る六枚橋林道の終点に位置する尾根と六枚橋林道・小橋2号作業道終端の谷斜面にある。
 段築は、瀬戸子館北斜面が圧巻である。北路から尾根道沿いに10段の明瞭な段築が存在する。瀬戸子館段築群は、これを含み麓から約700mまでの東側斜面一帯に段築が構築されている。
遺構事例:内真部山城平場遺構、前田蝦夷館平場遺構、瀬戸子館北斜面段築群〈P-26〉、大阪山館六枚橋林道終端東斜面

瀬戸子館尾根段築  
写真−段築 左:26-瀬戸子館尾根段築

G.虎口

 安藤氏山城では、明瞭な虎口は数少ない。飛鳥山館の頂部曲輪では周壕からL字形に切り込む形での虎口がある。前田蝦夷館では、市史資料編2の図解では、周壕から南曲輪に入る箇所にあるようになっているが、明瞭なものではなく、他に、西側にある搦手道の坂道を降りて平らになった箇所を虎口としている。前田蝦夷館は中曲輪の両側が堀底道になっているが、周壕と堀底道の接合部に木戸を建て北曲輪・南曲輪の入口としていたと考える。
 瀬戸子館の東斜面にある南谷を進むと、一の陣地下方に虎口がある。地形を利用しながら道をL字形に曲げて「枡形虎口」(註)。になっている。それを上がって斜面に入る一の陣地下にもまた「枡形虎口」がある。北谷を進むと、壕道の両岸を切岸にした幅広い堀底道になる。この道に城の中心部へと向かう脇壕道が続く。脇壕道の始点は斜面の反対側に土塁を伴っていて、立派な虎口である。斉藤教授の見立てでは、幅広堀底道に入る前に木戸があっただろう、とされた。
 内真部山城の虎口は、内真部館から離れて県道2号から水田方向に降りた場所から山方向に進とL字形に切り込む形での虎口がある。斜面反対側に土塁を伴った幅広の立派なものである。
 尻八館では、東曲輪に入る手前に道をL字形に曲げての大手虎口があることはよく知られている。
註:瀬戸子館関連の虎口は、斉藤利男弘前大学名誉教授の認定による。
遺構事例:瀬戸子館・南谷奥虎口〈P-27・28〉、北谷奥虎口〈P-29〉、内真部山城大手虎口〈P-30〉、尻八館東曲輪虎口〈P-31〉

瀬戸子館南谷奥虎口1 瀬戸子館南谷奥虎口2 瀬戸子館北谷奥虎口
写真−虎口 左:27-瀬戸子館南谷奥虎口1 中央:28-瀬戸子館南谷奥虎口2 右:29-瀬戸子館北谷奥虎口
 
内真部山城大手虎口 尻八館東曲輪虎口 
写真−虎口 左:30-内真部山城大手虎口 中央:31-尻八館東曲輪虎口

H.曲輪(陣地)

1.平坦地を平削している曲輪
 安藤氏山城において、頂部平坦地を平削している事例はまれといっていい。自然地形のままか、いくらか平らにしているのかどうか、という曲輪が多い。
 尻八館東曲輪は山頂部を平場にして、建物跡も発掘され居住していたわけだが、それは南部氏による大改修を終えた後だと考えられる。安藤氏の時代では頂部は平削していたかどうかはわからないが、一方、西曲輪は平場となっているので、東曲輪も平場としていたことも考えられる。
 本項に該当する曲輪を持っている山城を上げてみる。
 飛鳥山館の山頂曲輪、この曲輪は斉藤利男教授の視察の際に、「環濠集落」の可能性を指摘された。頂部曲輪の周壕が二重になっている箇所があり、山城として再利用したことも指摘された。同じく、飛鳥山館の北曲輪は平削した平場となっている。山城群の中でもっとも広い曲輪である。
 瀬戸子館の東曲輪は平場になっている。東曲輪は、面積が狭いものだが、街道筋から見えるだろう位置にあり、斉藤教授は「(櫓や旗指物を立てて)ここが城だとアピールしただろう。」と指摘された。
 前田蝦夷館の頂部曲輪は全てを平場にしているのものではなく、曲輪の端(切岸そば)を平削している。
遺構事例:尻八館東曲輪、西曲輪〈P-32〉、飛鳥山館・山頂曲輪、北曲輪〈P-33〉、瀬戸子館東曲輪〈P-34〉

尻八館西曲輪 飛鳥山館北曲輪 瀬戸子館東曲輪
写真−曲輪平場 左:32-尻八館西曲輪 中央:33-飛鳥山館北曲輪 右:34-瀬戸子館東曲輪


2.平坦地を自然地形のまま使用している曲輪
頂部平坦地が曲輪(陣地)なのか否かは、その付近に遺構があるかどうかが判断材料になる。
瀬戸子館西曲輪は、尾根筋に隣接する自然地形の平坦地を曲輪としている。同じく三の陣地も同様である。湯ノ沢館の東曲輪(これまで単郭とされていた曲輪)は、周壕がめぐらしてあるが、曲輪内は自然地形で、かつ傾斜になっている。同じく、西曲輪の頂部平坦地は自然地形である。
安藤氏山城において、曲輪を平削していることが少ないのは、安藤氏の戦法が関連していると思われる。頂部の曲輪に建物を建てて籠城するという考えがなかったのであろう。形勢が悪くならば、次の陣地にすばやく移動する。そのために壕道は必要不可欠であったのだと考える。
遺構事例:瀬戸子館西曲輪〈P-35〉、湯ノ沢館東曲輪

瀬戸子館西曲輪  
写真−曲輪平坦地 左:35-瀬戸子館西曲輪

I.駐屯地

1.尾根筋の脇にある駐屯地
 安藤氏山城において、駐屯地とみられる場所は尾根筋の脇下にみられる。尾根筋斜面を背にして平坦地を造っている。尾根筋を風寄せにしているのであろう。
遺構事例:飛鳥山館中央部幅広壕道近く〈P-36〉、飛鳥山館西遺構井戸跡付近、瀬戸子館東曲輪手前(斉藤利男氏による調査で確認)、尻八館西曲輪から西路への尾根下斜面

飛鳥山館中央屯所  
写真−駐屯地 左:36-飛鳥山館中央屯所

2.陣所
 本来独立項目にすべきであるが屯所にまとめておく。瀬戸子館南谷の入口付近に、升型の堀があり、後に土塁が伴っている。瀬戸子館の大手虎口の手前にあることから、斉藤教授が「陣所」ではないかと推定した。堀跡はほぼL字形に近く、西の長さが13m、正面が16m、東の長さが5mとなっていて、堀跡前の土塁の高さは約1.2mある(斉藤利男氏による調査で確認)
遺構事例:瀬戸子館南谷入口・陣所跡〈P-37〉
 
瀬戸子館南谷入口・陣所跡  
写真−陣所跡 左:37-瀬戸子館南谷入口・陣所跡

J.見張り台

1.尾根筋の道・壕道に沿ってある見張り台(屯所)
 瀬戸子館の北路には尾根筋の道に沿って、小高くなる頂部の平坦地を見張り台(屯所)として利用している(斉藤利男氏による調査で確認)
遺構事例:瀬戸子館北路〈P-38〉(斉藤利男氏による調査で確認)

南方山城遺構Ⅰ東見張り台  
写真−見張り台 左:38-南方山城遺構Ⅰ東見張り台


2.尾根筋にある見張り台(屯所)
 前項との違いは、主要移動路に設定されているのではなく、敵が侵入してくる可能性のある尾根筋に設けられている。その形状は壕道をS字状に曲げて2・3段重ねるものが多い。この類型では前田蝦夷館の大手道から南方山城遺構Ⅰへ向かう尾根筋下の南斜面。前田蝦夷館南方山城遺構Ⅰの南斜面。飛鳥山館の西壕道の麓へ曲がる箇所より少し先。
 尻八館西路の「①斜面脇壕道」入口脇にも斜面の中腹に見張り台がある。こちらは、壕道を伴わず平坦地としている。
遺構事例:前田蝦夷館・南方山城遺構Ⅰ手前〈P-39〉、南方山城遺構Ⅰ南斜面〈P-40〉、尻八館西路

前田蝦夷館連絡路見張り台 南方山城遺構Ⅰ南東斜面見張り台  
写真−見張り台・尾根筋 左:39-前田蝦夷館連絡路見張り台 中央:40-南方山城遺構Ⅰ南東斜面見張り台

K.塹壕のようにした壕道

前田蝦夷館跡南方山城遺構Ⅰの西の入口にある堀道は、資料編2で次のように記載している。「堀道を利用した虎口状の施設はこの地区の西側の入口にもある。」この形状は山の反対斜面(平坦幅広)側に土塁を設けた幅広の壕道であり、小高い斜面を降りた箇所に山に沿って回り込んで造られている。資料編2の調査では未確認ではあるが、北側入口にも同様な壕道がある。(本項は《壕道第4項》に含まれるが、防御施設として顕著であるため、別に記載した。)
遺構事例:前田蝦夷館南方山城遺構Ⅰ・西堀道〈P-41〉、北堀道

南方山城遺構Ⅰ西堀道  
写真−塹壕壕道 左:41-南方山城遺構Ⅰ西堀道

L.土橋

 「城における土橋は、堀を横断する通路として設けられる土の堤である。(Wikipedia)」と説明されているが、安藤氏山城での土橋は、尾根筋の両側を断ち切る形で造られている。
 前田蝦夷館の西側にある南方山城遺構ⅠからⅡへ至る間の遺構(南方山城遺構1.5と呼称)には、Ⅰから1.5へ向かう道が土橋となり、土橋の両側は谷になっている。
 瀬戸子館の北路には、尾根筋の両側断ち切って歩く幅を狭くして土橋状にしている。
 これら土橋は、敵が多数攻め寄せたとしても、一列でしか通行できないようにし、防御を容易にする機能がある。
遺構事例:前田蝦夷館〈P-42〉、南方山城遺構Ⅰ・西土塁〈P-43〉、瀬戸子館北(斉藤利男氏による調査で確認)

前田蝦夷館東土橋 南方山城遺構Ⅰ西土橋 
写真−土橋 左:42-前田蝦夷館東土橋 中央:43-南方山城遺構Ⅰ西土橋

M.切岸

 切岸は、曲輪下の斜面や堀底道の規模が大きいものなどでみられ、敵が斜面に取り付いて登ることを困難にしている。尻八館東曲輪の切岸は、その斜面が叩かれて平らになっていて、南部氏の造築とされている。一方、安藤氏山城では切岸を叩き上げるという造作よりは、高さを求める傾向が強く、掘り下げることを重視している。前田蝦夷館の南・北曲輪の切岸斜面は叩かれてはいない。
 湯ノ沢館の東曲輪(従前単郭とされていた曲輪)は、周壕は南斜面で切れていて完全な円とはなっていないが、その南側斜面は崖状となっていて、容易に登られないように斜面を切ってある。同じく、中曲輪の下斜面は崖状態にして切ってある。
 瀬戸子館北斜面段築群の林Ⅰ段築では、切岸の高さが1.8~2.0m程あり、真下に落ちる壁となっている。
遺構事例:尻八館東曲輪〈P-44〉、前田蝦夷館南曲輪・北曲輪〈P-45〉、湯ノ沢館東曲輪〈P-46〉・中曲輪〈P-47〉、瀬戸子館段築群

尻八館東曲輪切岸 前田蝦夷館北曲輪切岸 湯ノ沢館東曲輪南側切岸
写真−切岸 左:44-尻八館東曲輪切岸 中央:45-前田蝦夷館北曲輪切岸 右:46-湯ノ沢館東曲輪南側切岸

湯ノ沢館中曲輪切岸  
写真−切岸 左:47-湯ノ沢館中曲輪切岸

O.方形居館 》  

 令和3年に「方形居館跡」がこの山域に相次いで発見されました。1.飛鳥山館の東麓、2.瀬戸子館の東尾根先端部、3.湯ノ沢館の東麓です。

 方形居館とは、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士(支配階級層)の住まい、屋敷跡です。敷地の周りに土塁や堀が廻らして四角の形になっていることから「方形」居館といわれます。
 令和3年(2021)春に、飛鳥山館、瀬戸子館、湯ノ沢館に方形居館があいついで発見されました。外ヶ浜(青森市~今別町)地区では、新発見になるということです。
 3つの方形居館は、山の麓にあり、山を背にして東向き(海側)に敷地がとられています。一般に、鎌倉時代の方形居館の規模は、郡荘地頭が一町四方(109m)ですが、飛鳥山館と瀬戸子館の方形居館は約7割、湯ノ沢館は約4割の大きさです。敷地の規模は、居館の主の格式と階級を表します。

〇飛鳥山館
・方形居館の位置は飛鳥山の山頂から真東の麓にあります。建物を正面にすると、その背景に山があるという景観でした。
・飛鳥山館の方形居館は、西辺の山側正面が 76m(25丈)、南側の縦辺が 66m(22丈)でした。面積は76×66=5,016㎡で、1,520坪、5反となります。
・飛鳥山館の方形居館の構造は、敷地の正面手前を除く3辺に土塁が設定されています。敷地は山側の土塁方向に高くなっています。山側正面の土塁の外側には堀があり、縦辺の南側にも浅い堀があります。縦辺の北側には堀はありません。正面の東側の辺は段築状に一段高くなっていて、その下には堀はなかったようです。段の高さは、およそ90cmです。
・近くにある古代の遺跡としては、「01116-飛鳥(4)遺跡」(縄文後期、平安:散布地)があります。

〇湯ノ沢館
・方形居館の位置は湯ノ沢館の山頂から真東の麓にあります。建物を正面にすると、その背景に山があるという景観でした。この位置取りは飛鳥山館の方形居館と共通です。敷地の規模は飛鳥山館の約半分となっています。
・湯ノ沢館の方形居館の大きさは、西辺の山側正面が 40m(13丈)、北辺の縦が 29m(9.5丈)であり、面積は 40×29=1,160㎡。352坪。1.2反となります。
・湯ノ沢館の方形居館の構造は、敷地の山側(正面・裏側)に土塁が設定されていて、それに合わせて敷地は高めになります。山側の土塁の外側に堀があります。縦辺の南側(正面に向かって左手)にも、土塁と堀があります。縦辺の北側(正面に向かって右手)では、土塁は造られていなく、堀もかすかに跡がある程度です。
・山側堀は、北が高く南が低く、南角から1/3あたりに上からの小さい沢が合流しているので、春先の水位が高い時期や大雨が降った際には、水が流れただろうと考えられます。正面の東側の辺は段築状に一段高くなっていて、その下には堀はなかったようです。段の高さは、およそ90cmです。
・近くにある古代の遺跡としては、「01131-内真部(3)遺跡」(平安:散布地)、「01130-内真部(2)遺跡」(縄文前期、平安:散布地)、「01132-内真部(4)遺跡」(平安:散布地)、があります。
 特に、内真部(4)遺跡は、古代~中世の集落・居館遺蹟で、小面積の発掘調査にかかわらず、多数の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、擦文土器、土師器、中国産青磁・白磁、国産陶器、さらに個体数で約30を数える平泉系の「手づくねかわらけ」を出土して注目された遺跡です。

〇瀬戸子館
・方形居館の位置は瀬戸子館の山頂からみると北に約1km北の麓にあります。この位置取りは飛鳥山館、湯ノ沢館の方形居館とは異なります。敷地の規模は飛鳥山館と同等ですが真四角ではなく、長四角となっています。
・瀬戸子館の方形居館は、西辺の山側正面が 68m(22丈)、縦辺が 30m(10丈) でした。面積は68×30=2,040㎡、618坪、2反となります。
・瀬戸子館の方形居館の構造は、敷地の正面手前を除く3辺に土塁が設定されています。敷地は山側の土塁方向は高めになっています。山側正面の土塁の外側には堀があり、縦辺の北側の堀は、正面・手前の辺の約半分から北側にある堀と交わり、道まで水路のように延びています。縦辺の南側の堀は浅い状況です。正面・手前にある堀の外側には土塁が設定されています。正面・山側の土塁と北側縦辺の掘は交わっていなく、2m程度の隙間があり、ここが虎口だということがわかりました。
・瀬戸子館の方形居館跡は、正面が長く縦辺がその約半分という、真四角ではなく長方形の形になっています。これは、方形居館の背後がすぐに尾根からの斜面になっていて、縦辺を70m分取るだけの十分な敷地を得ることができない土地であったからだと思われます。
・瀬戸子館の方形居館敷地の北側に、段を切っての平場が二段あります。70m×30mの区画には主殿があり、付随する建物は北横の区画に設置していた。そこも合わせて活用していたと考えられます。
・北側にある平場の大きさは、下段の正面長辺が36.0m。左側短辺(南側)が下段14.0m、上段11.5m。右側側短辺(北側)が下段、上段とも6mでした。下段の面積は(14+6)×36/2=360㎡、110坪。上段の面積は(11.5+6)×36/2=315㎡、95坪となります。この2段の平場が単なる防御施設だとするには、平坦地の造りが手が込んでいて丁寧です。
・さらに、主殿区画の下にも区画があったことがわかりました。正面・手前の横辺掘の東(道)側に土塁があること、南側縦辺の掘は主殿区画の南角から、北に約20mの地点から、東(道)側に下段区画の縦辺になる掘の痕跡がありました。下段の区画は、横辺の長さが約50m、縦辺の長さは約17mです。ただし、縦辺は道(森林鉄道軌道跡)にぶつかるため、かつてはもっと長かったと思われます。つまり、上段の主殿の区画、下段の付随する施設の区画を合わせると、ほぼ方形に近い区画であったということになります。
・瀬戸子館の方形居館跡は、瀬戸子館東尾根の先端部の麓に位置します。この場所は奥内川が東尾根の近くに迫り、防御性が高い場所です。
・近くにある古代の遺跡としては、「01125-前田(4)遺跡」(縄文後期、平安:散布地)、「01124-前田(3)遺跡」(平安:散布地)、「01126-前田(5)遺跡」(平安:散布地)、があります。
 
遺構事例:飛鳥山館・方形居館〈P-48〉、瀬戸子館・方形居館〈P-49〉、湯ノ沢館・方形居館〈P-50〉

飛鳥山館・方形居館跡 瀬戸子館・方形居館 湯ノ沢館・方形居館跡
写真−方形居館 左:48-飛鳥山館・方形居館跡 中央:49-瀬戸子館・方形居館 右:50-湯ノ沢館・方形居館跡

方形居館3箇所の位置図
方形居館3箇所の位置図
   

山城群のルートと主な遺構

※行程は東から西へ。主な遺構での番号は写真番号。入り口がどこにあるのかは、各山城ページでの遺構図で確認ください。
《 尻八館 》山城跡タイトルをクリックすると、詳細ページにリンク
入り口 ルート 行程 主な遺構
山城公園 登山路 山城公園駐車場~陣場跡~東曲輪 31-東曲輪虎口、19-東曲輪下堀、44-東曲輪切岸
  登山路 東曲輪~西曲輪 32-西曲輪、西曲輪下堀・壕道・切通し
搦手口 搦手道 搦手口駐車場~搦手口~東曲輪  
山城公園 西路 山城公園駐車場~81・80番鉄塔~西曲輪 1-西曲輪下壕道
大手口 大手道 山城公園駐車場~83番鉄塔~大手口~堀底道~東曲輪 18-沢拡張道、24-ダム土塁、堀底道

《 大阪山館 》 
入り口 ルート 行程 主な遺構
東尾根口   東尾根口~112mピーク~76番鉄塔  
保安路口   保安路口~76番鉄塔~大阪山東西分岐~大阪山山頂 赤松横壕道、三列壕道丘、北曲輪
保安路口   保安路口~76番鉄塔~大阪山東西分岐~西方尾根~145mピーク 切通し壕道①、17-切り通し壕道③、土橋尾根、切り通し壕道⑤⑥
神社口 ブル道 神社口~東3番目尾根~140mピーク~145mピーク 140mピーク壕道、145mピーク壕道
林道口   林道口~谷上がり~(大阪山方面・西方尾根方面)  

《 内真部館・内真部山城 》
入り口 ルート 行程 主な遺構
大手口 大手道 大手口~大手虎口~内真部山城尾根筋~内真部山城 30-大手虎口
農道口   農道口~内真部館 内真部館
常花志園   常花志園駐車場~北斜面遺構~内真部山城頂部曲輪 竪壕状沢

《 湯ノ沢館・西方山城遺構 》
入り口 ルート 行程 主な遺構
東口 中央路 東口~南曲輪~東曲輪~中曲輪 6-麓の深壕道、7-南曲輪へ向かう壕道、8-南曲輪周壕、46-東曲輪、47-中曲輪切岸
東口近くの麓     50-方形居館
北口 北路 北口~東曲輪(北口は内真部館向かい) 14-東曲輪周壕と切岸
  中央路 中曲輪~西曲輪~西方山城遺構 西曲輪、西曲輪下切通し
南口(保安路) 南路 南口(65・64番鉄塔標識)~中央尾根筋~西曲輪~防火帯  
防火帯口 西方壕道 防火帯口~西方壕道~西方曲輪(116.6ピーク) 22-高土塁、西方曲輪

《 前田蝦夷館・南方山城遺構 》
入り口 ルート 行程 主な遺構
神社口   社殿脇~南曲輪周壕~中曲輪、北曲輪 南曲輪・中曲輪・13-北曲輪と周壕、45-北曲輪切岸
大手口 大手道 大手口~南曲輪から南方山城遺構への尾根筋連絡路 39-連絡路見張り台、42-東土橋
  中央路 尾根筋連絡路~南方山城遺構Ⅰ~1.5 41-西堀道、北堀道、38-東見張り台、43-西土橋、40-南東斜面・見張り台
  中央路 南方山城遺構1.5~山城遺構Ⅱ 23-南方山城遺構Ⅱ土塁

《 瀬戸子館 》
入り口 ルート 行程 主な遺構
神社口   稲荷大明神社殿脇~南谷奥広壕道 28-南谷奥虎口2
東口   東口(一の陣地真南)~南谷奥広壕道  
南谷口   南谷口~南谷奥・虎口1~一の陣地 37-陣所跡、27-南谷奥・虎口1、一の陣地
  東路 一の陣地~東曲輪~北谷奥虎口 34-東曲輪
北谷口   北谷口~北谷奥虎口、脇壕道~東曲輪下 29-北谷奥虎口、4-脇壕道
  中央路 東曲輪~西曲輪~二の陣地~三の陣地 2-西曲輪近くの壕道、3-二重壕道、35-西曲輪
西口(保安路)   西口~三の陣地~86mピーク
西口~西遺構口~西遺構
三の陣地
5-Y字壕道
北口 北路 北口~尾根段築~86mピーク~長土塁 26-尾根段築、21-長土塁
北東口   北東口~(ため池)~西曲輪下沢口~横断壕道~西曲輪 沢口(木戸跡)、横断壕道
北東尾根麓     49-方形居館

《 飛鳥山館 》
入り口 ルート 行程 主な遺構
正面東口 北壕道、南西壕道 高見台~北曲輪~山頂曲輪(東口から上がって合流) 高見台、33-北曲輪、9-土塁・北壕道、12-山頂曲輪周壕
正面東口近く   正面東口から南へ 48-方形居館
南口(保安路) 西壕道 山頂曲輪~53番鉄塔~賽の河原向かい 10-西壕道、3段見張り台、25-ダム土塁、15-切通し
北路口 北路 上堰頭首口~中央尾根筋(中央広壕道)  
南路口 南路 南路口(南口から西へ約500m)~中央尾根筋(中央広壕道)  
  中央路 53番鉄塔~中央広壕道~中央切通し 11-中央広壕道、36-中央屯所、16-中央切り通し
鶴越峠口 鶴越路 鶴越峠口(林道左堰線終点)~中央路・西~136.1mピーク トリデ跡、20-中央竪壕、井戸跡・駐屯地
  中央路 中央路・西(西遺稿)~中央竪壕~壕道分かれ~136.1mピーク 西遺構壕道分かれ、136.1mピーク陣地
 

外ヶ浜安藤氏山城群の成り立ち

 青森市北部の飛鳥地区から後潟地区まで、外ヶ浜安藤氏の山城が峰々に存在する。
 この山城群について、最も詳しく書かれているのは、『新青森市史資料編2古代・中世』である。この中では、内真部館を安藤氏の乱の一方の当事者である「安藤季久」の居館と比定して、それらに関わり安藤氏山城群は、鎌倉時代末期のものと記載されている。個別の山城では、前田蝦夷館を鎌倉時代から南北朝時代。加えて、尻八館は室町時代のものとしている。
 城と言える条件は様々あるのだろうが、安藤氏山城群の成り立ちは、平安時代の「環濠集落」にまで遡ることが見えてきている。飛鳥山館の山頂曲輪は周壕が二重となっている箇所があり、原形は「環濠集落跡」だと考えられる。湯ノ沢館の東曲輪、前田蝦夷館の北・南曲輪の周壕を持つ山城は、環濠集落だった時期があるのだろう。環濠集落があった時代の人々は、小一時間程度の登りをものともしなかったということになる。
山城群は、環濠集落跡の周壕や切岸を土台として、砦として活用し、さらに壕道を設定し、防御施設を築いていったのだろう。
 尻八館の東曲輪に建物が建てられ、人が居住していたことが発掘調査から判明している。また、東曲輪西下の掘も、従来あった掘を埋め立て改修していることが、調査によって明らかになっている。尻八館は、その改修以前から城として機能していたのは明らかであり、西路の壕道群を見ても、鎌倉時代まで遡ることが考えられる。つまり、潮潟安藤氏の入府以前に城があったことになる。
 飛鳥山館から尻八館は、鎌倉時代から室町時代の初期まで、外ヶ浜安藤氏の山城群として機能していたことだろう。
 内真部館の南に位置する「内真部(4)遺跡」は、道路工事に伴う発掘調査が行われており、平安時代中期(11世紀)からの遺物が出土している。内真部館が安藤氏居館として使われていた時代も、平安時代からと考えられ、少なくとも鎌倉時代初期にあった、京からの賊を夷地に流刑にした際に、奥州夷安藤氏が刑を現地執行した時代には、内真部館は存在していたことが想定される。
 令和3年に大阪山に山城が発見された。内真部館は、大坂山の山域であり、内真部館が敵に襲撃された場合には、内真部山城から大阪山館の山城に移動することが想定される。つまり、内真部館が居館として使われていた時代の、「詰めの城」は大阪山館となり、その成立時期も古い山城だということになろう。
 湯ノ沢館は、環濠集落として東曲輪が使われていた時代から、人々が麓の「内真部(4)遺跡」の領域やその北側の内真部館に移り住んだことも考えられる。内真部館の南隣に位置することから、内真部館の防衛拠点として、湯ノ沢館の山城は機能していたことだろう。
 飛鳥山館は、奥州藤原氏が奥大道を整備し、北方の産物を京に贈っていた平安時代中期の外ヶ浜「安藤の里」の入口にあたる位置にある。山城の壕道も手が込んでいることから、急ぞなえに造ったものではなく、古い造りの山城だと考えられる。
 前田蝦夷館と瀬戸子館は、山城の原形がいつ頃かはともかく、防御施設(遺構)が充実していることから、安藤氏山城群の中では、比較的新しいものと考えられる。瀬戸子館の向かいに位置する飛鳥山館の「北曲輪」の平坦地が平に削られていること、曲輪の下となる切岸がしっかりしていることが、それを証明する遺構だと考えている。

 山城の設立(改修)時期は、外ヶ浜安藤氏の敵(対立相手)の動向を考慮することが欠かせないと考える。
 まず、安藤五郎が「頸を取られた」蝦夷である。次ぎに安藤氏の乱での西浜安藤氏とそれに与する勢力である。その次は南北朝時代の後醍醐天皇方になる南部氏とそれに与する勢力となり、最後は、津軽の覇権を争った南部氏となる。
 安藤氏山城群は、これらの対立相手の動向に対応しながら、造営・改修されていったことだろう。
 現状では、安藤家季が安藤宗季から先祖の地である外ヶ浜(青森市北部)を継承した後、家季亡き後の外ヶ浜がどうなっていったのかが、よくわかっていない。潮潟(安藤)道貞が、この地に入府した後の支配地が内真部・飛鳥まで、及んでいたのかについて、史料がないようで、潮潟氏の支配地に言及した本は見あたらない。
 とは言っても、享徳二年(1453)の安藤義季が南部氏との戦いに敗れて、津軽安藤惣領家が断絶した以降に、外ヶ浜安藤氏山城群はかえりみられることはなく、歴史からも消え去った。
 
安藤氏山城遺蹟紹介サイト ⇒ 内真部・尻八城塞群 - 尻八館跡 - 内真部館跡 - 前田蝦夷館跡 - 南方山城遺構 - 湯ノ沢館跡 - 西方山城遺構 - 瀬戸子館跡 - 飛鳥山館跡
安東氏歴史・人物紹介サイト ⇒ コンテンツ - 武将伝Ⅰ - 武将伝Ⅱ - 史料・参考文献 - 年表 - 安藤氏の乱 - 系図 - 十三湊

プロフィール

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 青森市北部市民センターの「地域マップづくり」の講座受講生と応援隊で、取材した場所や調べたことをまとめました。
 西田沢・奥内・後潟の地域の魅力が伝われば幸いです。
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